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2009年07月13日

史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2)

 史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2)
 春秋諸侯 Urbanisation during the Spring and Autumn period. 

 (旧暦閏 5月21日)

 艸心忌 歌人吉野秀雄の昭和42年(1967)の忌日。 結核を患い慶応大学を中退するも秋艸道人會津八一(1881~1956)に師事し、生涯結核と闘いながら作歌をつづけ、昭和34年「吉野秀雄歌集」で読売文学賞、42年迢空賞、43年「含紅集」で芸術選奨を受賞した。
 師会津八一が名付けた自宅「艸心洞」から「艸心忌」と呼ばれる。
 「もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。」との感慨を述べるように、妻はつ子を戦時中に亡くし、結核と闘いながら相聞歌人として全精力を歌につぎ込んだという。

 今生の つひのわかれを告げあひぬ うつろに迫る時のしづもり (寒蝉集)
 ひしがれて あいろもわかず堕地獄の やぶれかぶれに五体震はす
 真命の 極みに堪へてししむらを 敢てゆだねしわぎも子あはれ

 史記列傳(8)-伍子胥列傳第六(1)のつづき

 春秋時代の第7代呉王夫差(?~B.C.473)は、宿敵越王勾践(? ~B.C.465)によって討たれた父闔閭(?~B.C.496)の仇を討つため、兵法の大家孫武と伍子胥の補佐を受けて国力を充実させ、呉は一時は並ぶ者なき強国となります。

 中原への進出を図る呉王夫差は、機会あるたびに越を討つように進言する伍子胥を疎んじはじめ、宰相伯嚭(はくひ、?~B.C.473)の讒言もあり、ついには名剣の「屬鏤の劒」を賜しめて、伍子胥に自害を命じます。

 伍子胥天を仰(あふ)いで嘆じて曰く、嗟乎、讒臣嚭(ひ)、亂を為す。王、乃ち反つて我を誅す。我、若(なんぢ)の父をして霸たらしむ。若(なんぢ)未だ立たざる時より、諸公子立つを爭ふ。我、死を以て之を先王に爭ふ。幾(ほと)んど立つを得ざらんとす。若(なんぢ)、既に立つを得るや、吳國を分かちて我に予(あた)へんと欲す。我、顧つて敢て望まず。然るに今、若(なんぢ)、諛臣の言を聽き、以て長者を殺すと。

 乃ち其の舍人に告げて曰く、必ず吾が墓上に樹(う)うるに梓(し)を以てせよ。以て器を為(つく)るべからしめん。而うして吾が眼(まなこ)を抉(ゑぐ)り、吳の東門の上に縣けよ。以て越の寇の入りて吳を滅ぼすを觀(み)ん、と。乃ち自剄して死す。吳王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい、馬の革で作った袋)の革を以てし、之を江中に浮ぶ。吳人、之を憐み、為に祠を江上に立つ。因りて命(なづ)けて胥山(しよざん)と曰ふ。


 私の墓の上に必ず梓を植えよ。後に呉が滅びた時に棺桶を作ることができるように。そして、私の眼をえぐりて、呉の東門の上に懸けておけ。仇敵越が攻め入って呉を滅ぼすのを見られるように。
 伍子胥が死んだ後、越を警戒する者がいなくなり、呉は破滅の道へと進む事となります。 そして伍子胥の予言通り、その死から11年後に越王勾践は呉を滅ぼしてしまいます。呉王夫差は甬東の辺境(浙江省舟山諸島)に流されることになりますが、「伍子胥に会わせる顔がない」と言い残し、顔隠しの布で自分の顔を覆って自決しました。

 越十年生聚(せいしゆう)し、十年教訓(けうくん)す。周の元王の四年、越呉を伐つ。
 三たび戦ひて三たび北(に)ぐ。夫差姑蘇(姑蘇山)に上り、亦成(たひらぎ)を越に請ふ。范蠡可(き)かず。
 夫差曰く、「吾以て子胥を見る無し」と。幎冒(べきぼう)を為(つく)りて乃ち死す。
 『十八史略』 巻一 春秋戦国 呉


 太史公曰く、怨毒の人に於ける、甚(はなは)だし。王者すら尚ほ之を臣下に行ふこと能(あた)はず、況んや同列をや。向(さき)に伍子胥をして奢(しや)に從ひ俱に死せしめば、何ぞ螻蟻(ろうぎ)に異ならんや。小義を弃(す)てて、大恥を雪(すす)ぎ、名を後世に垂る。悲しい夫(かな)。
 
 子胥、江上に窘(くる)しめられ、道に食を乞ふに方(あた)り、志、豈に嘗(かつ)て須臾も郢(えい)を忘れんや。故に隱忍して功名を就(な)せり。烈丈夫に非すは、孰(たれ)か能く此(これ)を致さん。白公如(も)し自立して君と為らざれば、其の功謀亦道(い)ふに勝(た)ふべからざる者ありしなんかな。

 太史公(司馬遷)曰く、人に於ける怨みの深さというものは、何と甚だしいものであろうか。王たる者ですら、怨みを臣下に持たせてはいけない。まして同輩ならなおさらのことである。かつて、伍子胥を父の奢(しゃ)と一緒に死なせていたならば、取るに足りない螻(ケラ)や蟻(アリ)と同様だっただろう。そうはせずに、父親を人質にした上で楚の平王の招きに応じるという小さな義理を棄てて、最後には父の仇を討って大きな恥辱を濯いだので、名は後世にまで残ることになった。

 伍子胥が長江のほとりで追っ手に苦しめられ、道中で乞食をしてまで命を永らえた時でも、志は少しも楚の都の郢(えい)のことを忘れていなかったのではないか。だからこそ隠忍を重ねて功名を立てたのである。よほどの男でなければ、誰がこのようなことができようか。伍子胥が初め呉に来たときに一緒に逃げてきた、もとの楚の太子である建の子の勝(白公)がもし、楚の恵王を脅して自ら王位につこうとしなかったならば、その功績とはかりごとも優れたものと云うことができたであろう。


 伍子胥の最後は宰相伯嚭の讒言によるものですが、たとえ正論であるにしても王に諫言するにあたっての用意が周到とは言い難く、彼の前半生における慎重さと粘り強さとが見られませんでした。それよりも、一途に我を通そうとする強引さの方がめだっています。
 その死に臨んでは、怨みがましく女々しいと思われるようなことを最も重々しい口調で言うのが、伍子胥の特等とも云うべき場面です。

 怨念の人司馬遷は、同じく怨念の人伍子胥の心を伝えて余すところなく、そこが、後世の識者に伍子胥への評価を高らしめる所以であろうと、新書漢文大系『史記』 八 (列伝一)の著者水沢利忠先生は評されています。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:44│Comments(0)史記列傅
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