2007年05月12日
おくの細道、いなかの小道(1)-旅立ち
葛飾北斎 富嶽三十六景 「深川万年橋下」 From WIKIMEDIA COMMONS
この深川万年橋の右岸に、深川芭蕉庵があった。
(旧暦 3月26日)
行春や 鳥啼き魚の目は泪
俳聖芭蕉が門人の曾良を同伴して、江戸は深川の芭蕉庵を出立したのは、元禄二年(1689)の「弥生も末の七日」(陽暦5月16日)のことでした。
ところが、昭和18年(1943)、静岡県伊東市の俳人山本六丁子が伊東の実業家の元にあった「奥の細道随行記」(曽良)の真筆を発見し、『曾良奥の細道随行日記』として活字になおして出版した日記本文では、
巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下尅、千住二揚ル。
と書き残されており、本文の二十七日出立との相違については、様々な説が出されました。曰く、
1. 「七」を脱したとする説
2. 二十日が出発の予定日であったのをそのままにした説
3. 曾良が先に出発した説 等々・・・
しかし、昭和の終わりころに芭蕉直筆の書簡が発見され、二十七日に出発したことが明らかになりました。
この書簡は、現在、群馬県猿ヶ京温泉の財団法人三国路与謝野晶子紀行文学館 椿山房に収蔵されており、同文学館の解説では、前年の貞享5年(1688)の「更科紀行」の旅で世話になった美濃の俳人安川落梧(?~1691)宛の礼状で、日付は『奥の細道』の旅に出発する直前の元禄二年三月廿三日となっています。
野生とし明候へば、又々たびごゝちそぞろになりて、松嶋一見のおもひやまず、此廿六日 、江上を立出候。みちのく・三越路之風流佳人もあれかしとのみに候。
私は年が明けたので、またまた旅をする気持ちにそわそわして、松嶋を一度みたいという思いが断ちきれず、この二十六日に「江上(こうしょう)の破屋」を出発する予定です。みちのくや三越路(越前・越中・越後の三ヶ国の総称)に風流佳人(雅趣ある才人)がいて欲しいものです。 続きを読む
2007年05月06日
天文(7)-隕石孔(1)
Meteor Crater From Wikipedia
(旧暦 3月20日)
傘雨忌 小説『末枯』『春泥』、戯曲『雨空』『大寺学校』、句集『道芝』『流寓抄』などを発表し、昭和12年(1937)、岸田國士らとともに文学座を結成、演出家としても活躍した小説家、劇作家、俳人久保田万太郎の昭和38年(1963)の忌日。 俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。梅原龍三郎邸の会食会で赤貝を喉に詰まらせて急逝、享年74歳。
春夫忌 雑誌「三田文学」や「スバル」などに詩歌を発表。後に小説『田園の憂鬱』『都会の憂鬱』『晶子曼陀羅』などを発表して活躍した耽美主義の詩人、小説家、評論家佐藤春夫の昭和39年(1964)の忌日。 自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため急逝、享年72歳。
[impact craters on Earth]
隕石が衝突してできた隕石孔として有名なのが、アメリカ合衆国のアリゾナ砂漠北部フラッグスタッフ(Flagstaff)市の東35 miles (55 km)にあるバリンジャー隕石孔[the Barringer Meteorite Crater (or the "Meteor Crater")]です。
この隕石孔は、コロラド高原の局地気候が現在よりも寒冷湿潤であった約5万年前の更新世(Pleistocene;180-160万年前~1万年前)に、直径約50mの金属鉄(Fe-Ni合金)から成る鉄隕石(nickel-iron meteorite)の衝突によって形成されました。
直径約1,200 m (4,000 ft)、深さ約170 m (570 ft)、クレーターを取り囲む縁は周囲の平原から45 m (150 ft)の高さになっており、最近の調査では秒速12.8㎞(28,600 mph)の速度で衝突し、その衝撃力は少なくとも2.5Mt(TNT火薬250万トン)分の爆発力に等しく、広島、長崎型原爆の160倍にも相当する大規模な爆発を引き起こしたと考えられています。
現在、地球における隕石孔は "The Earth Impact Database" に170以上が記録されていますが、このデータベースは1955年にCarlyle S. Beals博士(1899~1979)の監督のもとオタワにあるカナダ国立天文台(the Dominion Astronomer)によって始められました。
現在は、カナダ東部の都市フレデリクトン(Fredericton)にあるニューブランズウィック大学( University of New Brunswick)の惑星&宇宙科学センター(PSSC: the Planetary and Space Science Centre)において非営利の情報源として存続されています。 続きを読む
2007年05月04日
漢詩(16)-文天祥(1)-正氣の歌(1)
文天祥(1236〜1283)
(旧暦 3月18日)
南宋(1127~1279)末期の右丞相兼枢密使、文天祥(1236~1282)は、かつての日本では忠臣義士の鑑とされており、江戸前期の朱子学者浅見絅斎(1652~1712)が著した『靖献遺言』にも評伝が載せられ、幕末の尊皇思想の啓蒙に大きな役割を演じたとされています。また戦前には国語の教科書にも載せられていました。
南宋の第5代皇帝理宗(在位:1224~1264)の宝祐4年(1256)、21歳で状元(科挙の主席)に合格した文天祥は、時の宰相賈似道(かじどう、1213~1275)に迎合するのを潔しとせず不遇をかこちますが、南宋が亡国の危機に瀕した第7代皇帝恭帝(在位:1274~1276)の徳祐元年(1275)、勅を奉じて蹶起し、招かれて右丞相兼枢密使に任じられます。
そして命を奉じて元軍に使者として赴きますが、談判決裂してその将(南宋討伐軍の総司令官)伯顔(バヤン;1236~1294)に捕らえられます。
しかし、隙を見て脱出し、真州(江蘇省儀徴県)に入り、福建の温州に至り、ついで兵を江西に出しましたが、南宋の最後の第9代皇帝衛王(在位;1278~1279)の祥興元年(1278)10月26日、五坡嶺(広東省海豊県北方)で元の将軍張弘範(1238~1280)に捕らえられ、元の首都大都(北京)へ護送され、翌年の10月1日に到着しています。
モンゴル帝国の第5代大ハーンであったフビライ(1215~1294、在位1260~1294)の意をうけた元の将軍張弘範の再三の降伏勧告にも従わなかった文天祥は、兵馬司の地下牢に移されて監禁されます。
兵馬司の不潔な地下牢の中でも、文天祥は不屈の意志を貫き通しました。そして元の至元19年(1282)、ついに大都の柴市に引き出されて死刑に処せられました。
私「嘉穂のフーケモン」などは、さぞかし閉所恐怖症で発狂してしまうでしょう。
その土牢の中で作ったのが有名な『正氣の歌』です。この詩は、幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫などがそれぞれ自作の『正気の歌』を作っています。
さてこの『正氣の歌』には、長い序文があります。 続きを読む
2007年05月01日
史記列傅(5)-司馬穰苴(じょうしょ)列傳第四
明十三陵の首陵、長陵の稜恩殿(北京市昌平区長陵鎮)
(旧暦 3月15日)
軍に在りては君の令も受けざる所有り
古への王者より司馬の法有り、穰苴(じょうしょ)能く之を申明(広げ明確にする)す。よって司馬穰苴列傳第四を作る。(太史公自序第七十)
古代の王者の頃から司馬(軍事を司る職)の兵法というものはあった。穰苴(じょうしょ)はこれを十分に広げ明確にした。そこで、司馬穰苴(じょうしょ)の列傳第四を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)
司馬穰苴(じょうしょ)は、春秋時代(770 BC~403 BC)に陳から斉に亡命し田氏の始祖となった田完の子孫でした。
斉の景公(547 BC~490 BC在位)の時代に、晉が斉の領土である阿(山東省東阿県)、甄(けん、山東省鄄城県)を攻め、そのうえ燕が黄河の南岸に侵入してきて、斉の軍は大いに敗れました。
景公が心配しきっているところに宰相の晏嬰(?~500 BC)が、田穰苴(司馬穰苴の本名)を推薦して言います。
「穰苴は田氏の庶孽(しょげつ)なりと雖も、然れども其の人、文は能く眾(しゅう)を附け、武は能く敵を威(おど)す。願はくは君、之を試みよ」 と。
「穰苴は田氏の庶流の出身で高貴な身分ではありませんが、其の人物は、文においては人々に慕われることができ、武においては敵を脅かすことができます。どうかこの人物を試みに用いていただきたい」 と。
景公は共に兵事を語りその人物を喜んで、穰苴を将軍に抜擢して燕、晉の軍を防がせようとしました。
しかし、穰苴は景公に自分の身分の低さ故の実権の軽さを訴え、景公の信任の厚い重臣を目付役に要請します。
そこで景公は其の申し出を許し、寵臣の莊賈を軍に同行させることにしました。 続きを読む