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2005年01月31日

秋津嶋の旅(3)-吾妻の国(1)−房総「妙の浦」

 
 
 特別天然記念物、鯛の浦タイ生息地。海面に浮上した真鯛の群れ。

 (旧暦 12月22日)

 しばらく房総に旅に出かけていました。
菜の花やレンゲの花が咲く季節には早すぎたので、何となく寒々しい旅でした。

 千葉県安房郡天津小湊町小湊にある内浦湾の東側に、深海性回遊魚の鯛が群生する珍しい海域があり、国の特別天然記念物に指定されています。

 内浦湾内、日蓮大聖人(1222〜1282)の誕生寺前の船着場から東南方へ船で5分くらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近海に多数のタイが群生するので、「妙の浦」と呼ばれています。

 ここに集まるタイは大部分がマダイで、他にクロダイ、メジナ、イスズミなどが混じっているそうです  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:59Comments(0)秋津嶋の旅

2005年01月27日

国立故宮博物院(1)−『翠玉白菜』

  

 The Jade Cabbage, formerly at the Forbidden City and now at the National Palace Museum, Taipei from Wikipedia.

 (旧暦 12月18日) 

 實朝忌

 『翠玉白菜』は、天然の緑の翡翠と白の翡翠が混合した原石を、巧みに利用して作られた繊細な彫刻で、翠玉巧彫の最高傑作と言われています。
 故宮博物院(台北)に来たら絶対に見逃せない収蔵品の一つです。

 私「嘉穂のフーケモン」も、平成10年(1998)11月、経団連主催の企業研修の一環として、モンスーンで大荒れの東シナ海を香港から郵船クルーズの客船「飛鳥」で横断し、台湾の基隆港に上陸して早速見学に行きました。

 『翠玉白菜』は、もともとは北京の紫禁城永和宮に陳列してありました。
 永和宮とは清朝の末期に、清朝第11代皇帝・光緒帝(1871〜1908)の妃「瑾妃」が住んでいた宮殿で、『翠玉白菜』は「瑾妃」が光緒帝の秀女として参内してきたときに共に永和宮へやって来ました。

 永和宮では花形の小さなエナメル製の器に陳列してあり、またより美しく見せるために根元のところに小さな赤い珊瑚霊芝をあしらえてありました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:36Comments(0)国立故宮博物院

2005年01月26日

やまとうた(5)−八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤なる

 

 金沢兼六園の根上松

 (旧暦 12月17日)

 二月の某日(それのひ)、式武大輔(のりのつかさのおほきすけ)中臣清麿朝臣が宅にて、宴する歌十首(とを)

 八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤(ときは)なる 松のさ枝を我れは結ばな     (巻20−4501)

 右の一首は、右中弁大伴宿禰家持


 もろもろの花は色あせてしまいます。いつまでも色あせない松の枝を私たちは結びましょう。
 
 天平宝字2年(758)2月、家持の母の従兄弟にあたる中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)(702〜788)の邸宅で行われた宴席での歌ですが、当時、松の枝を結ぶことで、幸せを祈る風習があったようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:34Comments(0)やまとうた

2005年01月25日

北東アジア(6)-故宮博物院(2)

 

 故宮博物院 台北郊外 士林外双溪

 (旧暦12月16日)

 北東アジア(5)-故宮博物院(1)のつづき

 出宮という廃帝追放措置は、紫禁城とともに清朝財産の国有化を伴うので、臨時内閣はその資産を調査管理するために、李□瀛(いくえい)を委員長、汪兆銘、蔡元培、鹿鐘麟らを委員とする「弁理清室善後委員会」を発足させ、紫禁城の接収、宮廷文物の調査・登録を行いました。

 そして1年後の民国14年(1925)10月10日、中華民国の革命記念日「双十節」に、「国立故宮博物院」発足式が乾清門前の広場で盛大に行なわれました。

 民国20年(1931年)9月18日22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊されるという事件が起こりました。世に言う9.18事変(満州事変)の始まりです。

 そして、同年12月22日、関東軍は錦州攻略を発動し、万里の長城線を越えて華北侵入を窺う恐れが出てきたため、「故宮博物院」の主要な文物は、戦火を避けて移送されることになりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:01Comments(0)歴史/北東アジア

2005年01月24日

書(1)-王羲之(1)-『快雪時晴帖』

 

 羲之頓首快雪時晴佳想
 安善未果為結力不次王
 羲之頓首
          山陰張侯

 快雪時晴帖 王羲之 [東晋] 紙本墨書 一冊 台北 故宮博物院 維基百科より

 (旧暦 12月15日)

 民国13年(1924)、清朝最後の皇帝だった廃帝溥儀が、それまでお情けで住まわせてもらっていた紫禁城を追出されたとき、その荷物の中に晋代の書家・王羲之の『快雪時晴帖』が発見されました。布団袋に隠して持ちだそうとしてみつかったといわれています。

 『快雪時晴帖』は、王羲之の息子の王献之筆『中秋帖』および姪の王珣筆『伯遠帖』とともに、古来『三希』と呼ばれる名品でした。

 清朝の第6代皇帝・乾隆帝(1711〜1799)は、王羲之の『快雪時晴帖』、王献之の『中秋帖』、王珣の『伯遠帖』の三つの希代の名筆を手に入れて、この「三希」を手に入れた喜びを込めて紫禁城養心殿西暖閣の西に続く小室を「三希堂」と名づけ、40数年にわたって、冬になるとここに入り、書斎の一角に置かれた紅木(マホガニー)の箱から王羲之らの書を取りだして観賞し、また詩を作って楽しみました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:48Comments(0)

2005年01月23日

北東アジア(5)-故宮博物院(1)

 

 北京紫禁城

 (旧暦 12月14日)

 羅山忌
 
 北京紫禁城の清朝財産管理にまつわる長い物語は、平成13年(2001)3月に亡くなった作家で戦史研究家の児島襄氏(1927〜2001)の作品『日中戦争』に詳しく書かれていますが、民国13年(1924)12月24日、乾清宮の最初に目につく脚踏台を「天第一号、二層木踏とう」と記録して、紫禁城内の文物登録が開始されました。

 民国14年(1925)に出版された「弁理清室善後委員会点検レポート」によれば、当時の文物は総数117万件を超え、三代鼎彝(ていい)、古代玉器、唐・宋・元・明代の書と絵画、宋・元代の陶磁器、七宝、漆器、金銀器、木竹牙角匏彫(ほうちょう)、金・銅製の仏像、織物、装身具、家具などが含まれ、天下の珍宝が集まっていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:12Comments(0)歴史/北東アジア

2005年01月22日

日本(5)-播州赤穂藩

 

 赤穂城 大手隅櫓

 (旧暦 12月13日)

 森蘭丸(乱丸)(1565〜1582)といえば織田信長の小姓として仕え、天正10年(1582)6月2日、本能寺で主君信長と共に討ち死にしたことで有名です。

 織田信長の小姓として傍に仕えた森兄弟も、蘭丸(長定)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の3兄弟が本能寺で信長に殉じ、嫡男の可隆(よしたか)は元亀元年(1570)4月、父森可成(よしなり)と共に信長の命で朝倉方の籠もる越前敦賀・手筒山城を攻め、初陣で城に一番乗りを果たしましたが、深入りをし過ぎて討死しました。

 次男の「鬼武蔵」と異名を取った長可(ながよし)も天正12年(1584)3月、小牧長久手の戦いで鉄砲の弾が額に命中して即死してしまい、唯一の生き残り、末弟の千丸(忠政)が秀吉、家康に仕えて、慶長8年(1603)美作津山藩18万6,500石で津山に移封されました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:11Comments(0)歴史/日本

2005年01月21日

となり村名所あんない(10)-港村(4)-浅野さんちのお墓

 

 播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩之墓

 (旧暦 12月12日)

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城中大廊下「松の廊下」で高家筆頭4,200石・従四位上・吉良上野介義央(1641〜1702)に刃傷に及んだ播州赤穂藩5万石・従五位下・浅野匠頭長矩は、陸奥一関藩3万石・田村右京大夫建顕(たけあき)邸に預けられ、即日切腹となりました。

 一関藩は、仙台藩祖伊達政宗の孫・田村宗良のニ男建顕が岩沼から移り、以後、幕末まで田村家の領するところとなりました。

 浅野匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだとき、田村右京大夫建顕は奥詰兼奏者番として江戸城内にありましたが、老中の命でその屋敷に長矩を預かることになりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:53Comments(0)となり村名所あんない

2005年01月20日

漢詩(1)-杜牧(1)-禅院に題す

 

 杜牧(803〜852)

(旧暦 12月11日) 大寒

 禅院に題す

  觥船(こうせん)一棹(いっとう)すれば 百分空し
 十歳の青春 公に負(そむ)かず
 今日 鬢糸(びんし) 禅榻(ぜんとう)の畔(ほとり)
 茶煙軽くあがる 落花の風

 大きな船形のさかずきを、ぐいと棹(さお)さすように傾ければ、酒はたちまち空となる。
 十年に及ぶ青春の日々。私は公(おまえ)の本性に負(そむ)くことなく、思うがままに生きてきた。
 そして今、両鬢(びん)に糸のような白髪のある老いの身となって、寺院の榻(こしかけ)に座っている。
 花びらの散る春風の中、茶を煮る煙が軽やかにゆらぎのぼるのをみつめながら。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:52Comments(0)漢詩

2005年01月18日

染井霊園(4)−天心岡倉覚三先生之墓(2)

 

 (旧暦 12月 9日)
 
 天心岡倉覚三先生之墓(1)のつづき

 奈良法隆寺の夢殿には、人目に触れずに仕舞い置かれた秘仏がありました。法隆寺の僧侶の間には、この秘仏を開く(仏像を巻いている布を取り除く)と、必ず雷が落ちて天罰が下ると信じられていました。

 先生達は、恐れる僧侶たちを説得し、ようやくにして秘仏を開くにいたりましたが、布を取り除く際には、僧侶たちは恐れて皆その場を離れてしまったといいます。

 布から出てきた秘仏は千年の眠りから覚めた現在の国宝『救世観音像』でした。

 明治22年(1889)に東京美術学校が設立され、翌年先生は第2代校長に就任、横山大観、菱田春草等に大きな影響を与え、また、帝室博物館理事・美術部長も務め、古美術の保護に尽力しています。

 このころ親交のあった男爵九鬼隆一の妻初子との悲恋(今風に言えば不倫)もあり、当時としては何かと話題を提供したようですね。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:20Comments(0)染井霊園

2005年01月17日

染井霊園(3)−天心岡倉覚三先生之墓(1)

 

 (旧暦 12月 8日)

 天心岡倉覚三先生は、文久2年12月26日(1863年2月14日)、越前福井藩士岡倉覚右衛門の次男として横浜(江戸馬喰町との説もある)に生まれました。

 当時、越前福井藩では、横井小楠、三岡八郎(由利公正)を中心とした藩財政改革が進行しており、安政6年(1859)横浜に越前福井藩の出資による商館「石川屋」が設置され、翌年の万延元年(1860)に覚右衛門が主命(藩主松平春嶽)により、越前福井藩商館を代表して横浜での生糸の輸出業の責任を担っていました。

 先生は、早くから英語と漢籍を学び、明治10年(1877)東京開成学校(後の東京大学)に入学、政治学・理財学を専攻、卒業後(明治13年)は文部省に出仕しました。

 先生は、父覚右衛門の方針で、幼い頃(6歳)からジェイムズ・バラーの英語塾に通っていましたが、あるとき先生が漢字の立て札を読めないことに気付き、勘右衛門はようやく漢籍の教育を始めたといわれ、生涯先生は英語を母国語同然に使ったと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:06Comments(0)染井霊園

2005年01月16日

アメリカ(1)−禁酒法

 

 Removal of liquor during prohibition.

 (旧暦 12月 7日)

 大正9年(1920)1月16日、あの悪名高き「禁酒法」が施行されました。
   
 この「禁酒法」、正式には、「アメリカ合衆国憲法修正第18条」およびその細則を定めた法律「ボルステッド法」(起草者の名前にちなみ)といいますが、「禁酒法」という日本語がそもそも正しい訳ではないということらしく、正確には「酒類製造・販売・運搬等禁止法」と訳すべきで、飲酒を禁止する法ではなく、むしろ酒類に携わる人々を廃業にに追い込む為の法律であったといわれています。

 当時は清教徒(ピューリタン)主義の影響が強く、20世紀初頭でも18州でいわゆる「禁酒法」が実施されていましたが、この日の施行により全米に法的規制が及びました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:57Comments(0)歴史/アメリカ

2005年01月14日

となり村名所あんない(9)-港村(3)-高松宮邸

 

 厳重警戒の高松宮邸

 (旧暦 12月 5日)

 帝都で一番勾配の急な坂といわれ、都電もあえぎあえぎ上った魚藍坂を駆け上がり、二本榎通りを右折して200mほど行くと、右手に高松宮邸があります。
 
 周囲を高い塀に囲まれたこの一角は、江戸時代には肥後熊本藩54万石細川越中守の中屋敷がありました。
 
 高松宮宣仁(のぶひと)親王(1905〜1987)は、大正天皇(当時は皇太子嘉仁親王)の第3皇子として、青山御所(現在の迎賓館/旧東宮御所)で誕生し、幼称を光宮(てるのみや)といいました。

 もともと高松宮家は、鎌倉時代の高松宮直久親王(1203〜1249)を祖とし、江戸時代初期と後期に2度の断絶を経て長らく途絶えていました。

 しかし、大正2年(1913)、明治維新以来3代に渡って貢献してきた有栖川宮家の当主威仁(たけひと)親王が後継を持たぬまま危篤となり、また皇族の養子が禁ぜられたこともあって、大正天皇が特旨をもって宣仁(のぶひと)親王に高松宮を与え、高松宮家を再興して有栖川宮家の祭祀を受け継がせました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:12Comments(0)となり村名所あんない

2005年01月13日

中生代(2)-白亜紀(2)-スー(Sue)(2)

 

 Sue from the side.

 (旧暦 12月 4日)

 白亜紀(1)-スー(Sue)(1)のつづき

 化石の所有権をめぐり、ラーソン所長と土地所有者のウイリアムズ、スー族、連邦政府が争った裁判は、1993年4月に決着し、スー(Sue)はウイリアムズの土地の一部とみなされ、所有権はウイリアムズと内務省(U.S. Department of  Interior)インディアン関係局(Bureau of Indian Affairs)の双方に帰属するとの判決が下りました。

 その後、内務省インディアン関係局は、ウイリアムズに化石の売却を認め、2年後に競売商サザビーズが仲介を申し出て、オークションに出品されることになったのです。

 スー(Sue)は、これまでに見つかった22体のティラノサウルスの化石の中で最も大きく、体長12.8m、腰までの高さは約4m、頭骨の長さは1.535m、頭骨の重量272kg、生存時の推定体重は約7t、全身骨格のほぼ90%が発見されており、ティラノサウルスが生息していた北米西部で見つかった化石としては、もっとも完全な形をとどめています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:43Comments(0)中生代

2005年01月12日

中生代(1)-白亜紀(1)-スー(Sue)(1)

 

 Sue at the Field Museum of Natural History.

 (旧暦 12月 3日)

 1990年8月、米サウス・ダコタ州シャイアン川流域の先住民スー族の保留地の中の侵食された高さ17mほどの崖下で、ブラック・ヒルズ地質学研究所の女性古生物学者スーザン・ヘンドリクソン(Susan Hendrickson)博士は、小さな小さな骨の破片を見つけました。

 そして崖の上の方を見上げると、2mほど上の岩肌に、脊椎骨が3個突き出ているのを発見しました。

 これこそが、その所有権をめぐる訴訟問題とともに、その後ニューヨークで開かれた大手競売商サザビーズのオークションで手数料合わせて836万ドル(約9〜10億円)の高値で落札され一躍世界中の話題になった、中世代白亜紀後期約6700万年前の肉食恐竜ティラノサウルス・レックス(Tyrannosaurus rex)、その名も「スー(Sue)」の物語の始まりでした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:42Comments(0)中生代

2005年01月11日

北東アジア(4)-鉄函心史(てつかんしんし)(2)

 

 墨蘭図 鄭思肖(1241~1318)

 (旧暦 12月 2日)

  1.11忌

 鉄函心史(てつかんしんし)(1)のつづき

 鄭思肖(ていししょう)は画家としても名高く、墨蘭画を得意としましたが、南宋滅亡後は自身を蘭に譬え、蘭を描いて蘭根を描かず、国土が異民族に掠奪されたことを風刺して、元王朝に対する激しい抵抗の精神を表しました。

 日本に伝わる墨蘭図(大阪市立美術館・阿部コレクション)を見ると、たしかに根が描かれていないことがよく分かります。

 「鉄函心史(てつかんしんし)」は、異民族支配に対する過激な反政府文書であったため、満州族王朝の清代になると、危険文書として禁書リストの中にあげられました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:04Comments(0)歴史/北東アジア

2005年01月10日

北東アジア(3)-鉄函心史(てつかんしんし)(1)

 

  桑原 隲蔵博士(1871〜1931)

(旧暦 12月 1日)

 明の崇禎11年(1638)、中国江蘇省蘇州にある承天寺の古井戸を浚(さら)ったとき、寺の僧がひとつの鉄函(てつばこ)を発見しました。

 その鉄函には錫匣(すずばこ)がはいっており、まわりに石灰が詰められ、さらに錫匣のなかには漆が塗られていました。

 内緘(内側の封印)には、

  大宋弧臣鄭思肖百拝封

とあり、外緘(外側の封印)には、

  大宋世界無窮無極
  大宋鉄函経
  徳祐九年仏生日封


とありました。

 「徳祐(とくゆう)」は南宋恭宗(きょうそう)の元号で、実際は南宋が滅亡したため2年で終わり、徳祐が九年になるのは1283年のことで、元の至元20年にあたります。

 この日付が本物なら、鉄函は355年間も井戸の中に隠されていたことになります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:03Comments(0)歴史/北東アジア

2005年01月09日

焼酎(2)-芋焼酎(2)-魔王

 

 (旧暦 11月29日)  青々忌

 樽で熟成させているお酒は、長く貯蔵している間に蒸発して少しずつ量が減っていきます。その減った分のことを、「天使の分け前」(Angel's Share)というそうですが、この天使を誘惑して魔界へ導くという意味で、『魔王』としゃれたネーミングをされたのがこの芋焼酎です。

 かつては長期熟成の芋焼酎は珍しい存在でしたが、この『魔王』は、吟醸酒に似たフルーティな香りと凝縮された甘さが特徴の芋焼酎です。

 芋焼酎といえば、6:4のお湯割と相場が決まっていましたが、現代的イメージで、オンザロックで飲むといいですね。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 06:27Comments(0)焼酎

2005年01月08日

日本(4)-平成スタート

 

 新しい「平成」の元号を記者会見で紹介する当時の小渕官房長官

 (旧暦 11月28日)

 昭和64年(1989)1月7日午前6時33分、裕仁天皇の崩御を受けて、同日午後の臨時閣議で次の元号を「平成」と決定、翌8日から新しい元号が用いられました。

 亡くなった小渕総理が当時官房長官として、新しい「平成」の元号を記者会見で紹介したことを記憶されている方も多いと思います。
 「政令」により定められた日本で初の元号で、それ以前は「勅令」だったんですね。

 日本最初の元号「大化」以来247番目だとのことですが、231番目という説もあり、途中、南北朝の時代もあったりしたので、正式には何番目なんでしょうかね?  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:30Comments(0)歴史/日本

2005年01月07日

やまとうた(4)- 君がため春の野にいでて若菜つむ

 

 春の七草 「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ」

 (旧暦 11月27日)

  人日の節句(七草の節句)

 仁和のみかど(第58代光孝天皇)、みこにおましましけるに、人に若菜たまひける御うた

 君がため春の野にいでて若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ
 (古今集 巻1 春上 21)

    
 あきずしま大和の国には、いにしえから年の始めに雪の間から芽を出した若菜を摘む、「若菜摘み」という風習がありました。

 平安時代には、中国の年中行事で、人日(じんじつ)の節句に作られる「七種菜羹〔ななしゅさいのかん〕(7種類の菜が入った吸い物)」の影響を受けて、7種類の穀物で使った塩味の利いた「七種粥」が食べられようになったとのことです。

 この「七種粥」は「若菜摘み」と結びつき、7種類の若菜を入れた「七草粥」になったと考えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:44Comments(0)やまとうた