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2005年08月31日

古生代(4)−ペルム紀(1)−大量絶滅(1)

 

 The world around 260 million years ago, not long before the eruptions forming the Siberian Traps occurred on the eastern shore of the shallow sea (paler blue) at the north of the map.

 (旧暦  7月27日)

 古生物学や地質学の世界では知らない人はいないとされる『海棲無脊椎動物の多様性の増減グラフ(ジャック・セプコスキー、デヴィド・ラウプ両博士作成)』により、過去6億年前に遡る地球の歴史において、計5回にわたる大規模な生物の絶滅事件(通称ビッグ・ファイブ)が存在したことが示されました。

 シカゴ大学古生物学教授デヴィド・ラウプ博士らは、1982年にこの5回の絶滅事件を通常の生物の絶滅と区別するために、「大量絶滅(mass extinction)」と名付けました。

1. 古生代オルドビス紀末(4億4000万年前)・・・・種の絶滅84% 
2. 古生代デボン紀後期(3億6500万年前)・・・・・種の絶滅79% 
3. 古生代ペルム紀末(2億5000万年前)・・・・・・・種の絶滅96% 
4. 中生代三畳紀末(2億1000万年前)・・・・・・・・・種の絶滅79% 
5. 中生代白亜紀末(6500万年前)・・・・・・・・・・・・種の絶滅70%

 直径10Kmの巨大な彗星あるいは小惑星の衝突により、あの恐竜が絶滅したとされる6500万年前の大量絶滅は、北イタリアのグビオ峡谷に残された化石記録の不連続地層「KT境界(KT boundary)」によって明らかになりましたが、2億5000万年前の古生代ペルム紀末の大量絶滅の証拠は、「PT境界の大量絶滅」と呼ばれ、中国浙江省長興県の煤山(メイシャン)に残されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:50Comments(0)古生代

2005年08月30日

パイポの煙(19)−玉勝間

 

 本居宣長(1730〜1801)
 
 (旧暦  7月26日)

 高校に入学して野球(硬式)ばかりやっている三男坊が「困った、困った」と言って相談に来ました。
 なんでも、本居宣長(1730〜1801)の随筆集『玉勝間』の四の巻231段「兼好法師が詞のあげつらひ」の前半を書き写し、訳せという夏休みの宿題が出たが、参考の本も無いし、インターネットにも載っていないとのことでした。

 高校の参考書は判りませんが、たしかに図書館や書店では宣長さんの『玉勝間』は見あたりません。岩波文庫でも絶版になっているようだし、インターネットに解説を載せている(原文は載せている)奇特な人もいないようです。

 広辞苑によれば、「玉勝間」の「勝間」とは目の細かい竹篭で、「玉」は美化して上品に云う言い方だから、「玉勝間」は美しい竹篭の意味になります。また、「あふ」とか「あへ」、「しま」、「し」にかかる枕詞なので、「玉勝間逢わむといふは誰なるか」という使い方になるようです。

 さてこの『玉勝間』は宣長さんの随筆集ですが、14巻(目録1巻)からなり、宣長さん晩年の寛政7年(1795)からその死後の文化9年(1812)にかけて出版されたそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:11Comments(0)パイポの煙

2005年08月29日

天文(1)−彗星

 

 Brown spots mark impact sites on Jupiter's southern hemisphere. 
 木星表面に残ったシューメーカー・レヴィ第9彗星の衝突痕

 (旧暦  7月25日)

 昔のテレビドラマに「九重佑三子」さん主演の『コメットさん』と言う番組がありましたが、昭和42年(1967)ころのことで、もう40年近くも前になるんですね。
 『コメットさん』のコメットは英語のcomet(彗星、ほうき星)のことで、「髪」を意味するギリシア語に由来し、長く垂れた豊かな髪を暗示しているそうですが、一方中国では彗星の彗の字は箒(ほうき)の意味になります。
 
 日本でも彗星は何かと話題になりますが、近くでは、平成6年(1994)7月16日から22日にかけて木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星 ( Shoemaker-Levy 9 )、古い話では明治43年(1910)のハレー彗星(Comet 1P/Halley)の大接近時、その尾に猛毒のシアン化水素が含まれていることが判明し、尾が地球を通過するコースを取ったため、地球の破滅と一部で騒がれたことなどが有名ですね。

 古来から地球上のほとんどの人々は、彗星は災いを引き起こす悪魔と異端の星と見なしていました。
 「中国では、紀元前1,400年頃から西暦1,600年までの間に、少なくとも338個の個別な彗星の出現を記録し、紀元前240年以来、彼らが見逃したハレー彗星の回帰(平均的な周期は76年)は、紀元前164年のたった1度だけであった」と、アメリカの著名な天文学者でありSF作家であるカール・セーガン(Carl Edward Sagan、1934〜1996)博士は、アン・ドルーヤンとの共著「ハレー彗星 : Comet」の中で述べています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:14Comments(0)天文

2005年08月28日

北東アジア(18)−四庫全書

 

 四庫全書 一部

 (旧暦  7月24日)

 道元忌  曹洞宗の開祖・道元禅師の建長5年(1253)の忌日

 中国歴代皇帝は概して美術品の収集に熱心な方が多かったようですが、その代表が北宋の第8代皇帝徽宗(在位1100〜1125)と清朝第6代乾隆帝(在位1735〜1795)と云われています。
 徽宗は自ら書画に巧みで、日本に渡来した『桃鳩図』(国宝/個人蔵)などを描いたのをはじめ、「痩金体」と呼ばれる書体を確立し、『詩帖巻』(絹本墨書/台北故宮博物院蔵)などを残しています。

 

 『桃鳩図』

 徽宗の膨大なコレクションの数々は、宣和3年(1120)に著された中国最初の宮廷収蔵書画目録である『宣和画譜』と『宣和書譜』に記録されていますが、『宣和画譜』20巻には、231名の画家の作品6,396点が収録され、『宣和書譜』20巻には152名の書家の作品1252点が収録されています。その他青銅器の図録である『宣和博古図』30巻も残されています。

 徽宗につぐ皇帝コレクターは清朝第6代乾隆帝(在位1735〜1795)であり、自ら書画、典籍、骨董品を収集し、『西清古鑑』、『四庫全書』にその記録が残されています。
 『四庫全書』は世界最大の漢籍叢書で、乾隆37年(1772)に蒐書(しゅうしょ)の詔勅が発せられ、翌年四庫全書の名が定まり、四庫全書館が設立されました。
  10年の後の乾隆47年(1782)に完成しましたが、宮廷収蔵の書籍に加えて、全国各地から集められた書物の総数は、31万2千余冊に及びました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:27Comments(0)歴史/北東アジア

2005年08月27日

陶磁器(6)−青磁輪花鉢(南宋/官窯)

 

 青磁輪花鉢 南宋官窯 高9.1㎝、口径26.1㎝、底径7.1㎝

 (旧暦  7月23日)

 益軒忌  『養生訓』を著した儒学者貝原益軒の正徳4年(1714)の忌日

 建隆元年(960)、後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(927〜976)が後周の最後の皇帝恭帝から禅譲を受けて建国した北宋が開封(河南省)に都を定め、政府直営の窯である「北宋官窯」が設けられましたが、現在に至ってもはっきりとした北宋官窯の窯跡は発見されていません。

 167年後の靖康2年(1127)、北宋の第9代皇帝欽宗(在位1125〜1127)が女真族の金によって首都開封から東北(現在の黒龍江省)に連れ去られて(靖康の変)北宋が滅亡した後、欽宗の弟趙構は南に移って南京で即位して宋を再興し高宗(在位1127〜1162)となって、紹興8年(1138)には臨安(浙江省杭州)を都に定めました。

 そしてこの臨安に磁器の職人を北から呼び集めて、朝廷専用の御器を焼く窯「南宋官窯」が開かれました。
 南宋の『担斎筆衡』には、南宋官窯について以下の記述があります。

 「故京の遺製を襲いて窯を修内司(しゅうないじ)に置きて青器を造り、内窯と名づく。澄泥(ちょうでい)を範と為しその精緻を極む。油色宝澈にして世の珍と為る。後郊壇下(こうだんした)に新窯を立つ」  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:36Comments(1)陶磁器

2005年08月26日

艦船(2)−阿波丸

 

 緑十字船「阿波丸」
 
 (旧暦  7月22日)

 沈み行く船のブリッジに一人立った船長が帽子を振って最後の別れの挨拶をしている絵が日本郵船に保管されており、その船長の娘さんが訪ねて行って約60年ぶりに亡き父の絵を見せてもらうといった内容のテレビを見た記憶がありますが、あれは確か、昨年7月30日に放映されたNHKのドキュメンタリー番組「悲劇の航海−阿波丸はなぜ撃沈されたのか−」だったと思います。
  この船長の名前は浜田松太郎氏(1888〜1945)で、香川県小豆島に生まれ、就航以来の船長でした。

 沈没した船は阿波丸といい、有事の際には軍に徴用されることを前提にして政府の援助を受ける「優秀船舶建造助成施設建造船(第1種)」に基づく最終船としてオーストラリア航路用に三菱重工業長崎造船所(長船)で建造され、昭和18年3月5日に竣工し陸軍に徴用された貨客船(1万1249総トン)でした。

 この阿波丸の沈没に関しては、元聯合艦隊砲術(作戦乙)参謀千早正隆中佐(海兵58期、海大39期)が昭和36年(1961)に文芸春秋社から出版した『呪われた阿波丸』他多数の本が出版されていますが、要するに「捕虜・抑留者を含む連合国人への救恤品輸送船(緑十字船:軍隊・兵士に送る金品・煙草・医薬品等の見舞品を輸送する船)として連合国側から航行の安全[安導券(戦時の安全通行証)、安全通行権:safe-conduct]を保証されていた船が、何故撃沈されなければならなかったのか」という謎をはらむ事件でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:16Comments(0)艦船

2005年08月25日

蒸気機関車(1)−ロコモーション号

 

 Locomotion is now housed in the Darlington Railway Centre and Museum.

 (旧暦  7月21日)

 学校に上がるまえの幼稚園のころ蒸気機関車に憧れ、毎日のように近くの操車場に見に行っていました。当時の操車場は、近くにある大手炭坑の石炭貨車の入替え作業で忙しく、9600形といった旧い型の機関車が主流でしたが、たまにかっこいいD51形がいるとわくわくしていつまで見ても飽きませんでした。

 ラジオなどで、「♪僕は特急の 機関士で・・・・」というテンポのいい楽しい歌をよく聴いたこともあり、大きくなったら絶対に国鉄の蒸気機関士になるのだと堅く心に誓っていました。
 ところで今調べてみると、「僕は特急の機関士で」という歌は、昭和25年(1950)に三木鶏郎が作詞・作曲し、森繁久弥と丹下キヨ子が歌っていたものでした。

 僕は特急の機関士で   可愛い娘が駅毎に
 いるけど三分停車では  キスするヒマさえありません
 東京 京都 大阪     ウウウウウウウウ ポポ

 さて、世界最初の蒸気機関車は、イギリスの鉱山機械技師チャード・トレビシック(Richard Trevithick、1771〜1833)が製作したペナダレン (Penydarren) 号とされています。
 ペナダレン号は重量 5t で、1つの蒸気シリンダーで直径約8フィート(2.4m)の大きなはずみ車を回し、そのはずみ車から歯車を介して左右各2つの動輪に力を伝達していました。
 1804年2月21日に、Merthyr TydfilからAbercanonまでの約9マイル(約14.4km)を、鉄10tと70人の乗客を乗せた5両の車両を牽引して走行することに成功しています。速度は時速5マイル(約 8km)程度だったそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:34Comments(0)蒸気機関車

2005年08月24日

漢詩(7)−張子容(1)−涼州歌

 

 祁連門源油菜花

(旧暦  7月20日)
  
 朔風吹葉雁門秋  朔風葉を吹く 雁門の秋
 万里烟塵昏戌楼  万里烟塵(えんじん) 戌楼(じゅろう)昏(くら)し
 征馬長思青海上  征馬長(つね)に思ふ 青海の上(ほとり) 
 胡笳夜聴隴山頭  胡笳(こか:葦の葉の笛)夜に聴く 隴山の頭(ほとり)


 涼州は狭義には今の甘粛省武威県ですが、広義には甘粛の西北を指しています。漢の河西四郡である武威郡(涼州)、張掖郡(甘州)、酒泉郡(粛州)、敦煌郡(沙州)を含み、唐代には辺塞の要地であり、河西節度使が置かれました。
 雁門は山西省代県北方の山ですが唐代には塞外部族に備えての駐屯地があり、青海は中国の西部、黄河と長江の上流に位置する青海省一帯で、隴山は甘粛省一帯のことを指しています。

 唐の第6代玄宗皇帝(在位712〜752)は大変な音楽好きであり、特に江南の俗楽から発展した法曲を好んだと云われていますが、その上に、太楽署の楽人や教坊の妓女に自ら奏楽、歌舞を指導し、その施設として禁苑(宮中にある庭)の梨園というところに音楽教習所を設けました。そして、楽人や妓女は皇帝が自ら教えたので、「皇帝梨園弟子(ていし)」と呼ばれました。

 玄宗既に音律を知り、又た酷(はなは)だ法曲を愛す。坐部伎(ざぶぎ)の子弟三百を選びて梨園に教う。声に誤り有る者は、帝必ず覚りて之を正す。皇帝梨園の弟子(ていし)と号す。 (『唐書』礼楽志12)

  このことから日本でも、演劇界、特に歌舞伎俳優の社会のことを「梨園」と呼び、7代目市川染五郎や本年3月に18代目中村勘三郎を襲名した5代目中村勘九郎などは、「梨園の御曹司」として人気がありますね。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:48Comments(0)漢詩

2005年08月23日

中生代(5)−三畳紀(1)−エオラプトル

 

 Eoraptor lunensis, Skelettrekonstruktion in Brüssel.

 (旧暦  7月19日)

 一遍忌 時宗の開祖一遍上人の正応2年(1289)の忌日

 ドイツの気象学者であり地球物理学者アルフレート・ロタル・ヴェーゲナー(Alfred Lothar Wegener、1880〜1930)は、1915年にその著書『大陸と海洋の起源』(Die Entstehung der Kontinente und Ozeane)で、太古の時代には大陸が別々に漂流していたとする「大陸移動説」(Kontinentaldrift)を主張し、「古生代ペルム紀後期の約2億5000万年前ごろに、超巨大な大陸が諸大陸の衝突によって誕生し、中生代三畳紀後期の2億万年前ごろから再び分裂を始めた」との説を発表しました。
 そして、この超大陸はヴェーゲナー自身により、ギリシャ語で「すべての陸地」という意味のパンゲア(Pangea)と命名されました。

 その後この説は、1960年代後半に確立されたプレートテクトニクス(plate tectonics)の先駆けをなすものとして大いに称賛されることになりますが、当時の多くの地質学者は、ヴェーゲナーの説には科学的根拠が薄いとして嘲笑しました。

 私「嘉穂のフーケモン」が農学校に入学した70年代初めころは、このプレートテクトニクスが日本でも紹介され始めたころで、「ヴェーゲナーどんは偉かお人じゃなあ!」と感動して講義を聴いたものです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:28Comments(0)中生代

2005年08月22日

歳時記(6)−夏(4)−雷(いかずち)

 

 雷が落ちたらどうしよう???

 (旧暦 7月18日)  藤村忌  小説家島崎藤村の昭和18年(1943)の忌日

 このところ雷の被害が各所で起きており、公園やゴルフ場、海水浴場など遮蔽物が無いところでの緊急避難のあり方等が話題になっていますが、木の下への避難は絶対に避けるべきで、木から3m以上離れて両足を揃えてしゃがむことが一番有効な方法だそうです。

 両足が離れていると、片方の足から電流が入って体を貫通し、反対側の足に抜けるのだそうで、両足を揃えていると回路が形成されずに電流が人体を流れないのだということです。

 一般に、体に金属(時計やネックレス)を身につけていると落雷しやすいなどといわれていますが、これは関係ないようです。
 また、コンクリートブロックで覆った小さな建物(バス停など)では、ブロックを貫通して雷が直撃するので、雷が鳴ったらいち早く大きな建物に避難するのが一番ですね。

 さて雷は、上空と地上の間に電位差が生じた場合に放電により閃光や轟音が引き起こされる現象ですが、季語としては夏を表します。
 稲妻は秋の季語で、地上との間の放電を落雷と呼び、1回の放電量は数万〜数10万アンペア、電圧は1〜10億ボルトにも達するようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:21Comments(0)歳時記

2005年08月15日

日本(20)−徹底抗戦(昭和20年8月15日)

 

 旧近衛師団司令部

 (旧暦  7月11日)

 素堂忌  俳人山口素堂の享保元年(1716)の忌日

 昭和20年8月15日、天皇陛下によるポツダム宣言受諾の詔勅がラジオから流れた直後、厚木航空隊司令小園安名大佐(海兵51期)はすぐさま、海軍全部隊に宛てて電報を発しました。

 「次ニ来ルヘキ停戰命令、或ヒハ武装解除令ハ天皇ヲ滅シ奉ル大逆無道ノ命令ナリ。・・・・・・・必勝ノ信念ヲ失ヒ、カカル大逆ノ命令ヲ發スル中央当局及ヒ上級司令部ハ、既ニ吾人ニ對スル命令權ヲ喪失セルモノト認ム。ヨッテ自今如何ナル命令トイヘトモ一切コレヲ拒否スルコトヲ声明ス。日本ハ神國ナリ絶對不敗ナリ・・・・」
 
 世に云う「厚木航空隊の叛乱」の始まりでした。

 撃墜王の坂井三郎一等飛行兵曹(一飛曹)や笹井醇一中尉で有名な台南航空隊(台湾高雄)が開戦と同時にラバウルに進出して第251航空隊と改称され、その司令として昭和17年(1942)12月から指揮を執ったのが小園安名中佐(当時)でした。
 小園司令は海軍中央の反対を押し切って、試験的に二式陸上偵察機に斜め上方(又は下方)に固定した機銃を装備した夜間戦闘機を製作させ、南方戦線での大型爆撃機迎撃に大きな戦果を挙げたため、海軍は昭和18年(1943)8月に斜め銃を装備した機体を改めて夜間戦闘機「月光」として採用しています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:43Comments(0)歴史/日本

2005年08月14日

新生代(10)−第三紀(8)−プラティベロドン

 

 プラティベロドン頭部骨格化石 国立科学博物館

 (旧暦  7月10日)

 プラティベロドン(Platybelodon grangeri)は、中央アジアの新生代第三紀鮮新世(Pliocene、500万年前から160万年前までの期間)の中期の地層から発見されました。この期間にパナマ陸橋が形成され、ヒマラヤ山脈の上昇が激しくなっています。
 
 体長2.6m、肩高1.7m程度の小型の種でした。頭部は長く鼻は短かったのですが、吻部(鼻先)は長く伸長したようです。下顎の牙はへら上に変形して拡大伸長し、左右連結してスコップ状に進化しました。この牙は沼沢地の泥をすくい、草根類を掘るのに適していたようです。
 
 1929年、中央アジアを探検したアメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History)の館長Henry Fairfield Osborn (1857〜1935)により、外蒙古のTung Gur層で発見され、副隊長のGrengerの名前が付けられました。アメリカ自然史博物館に模式標本が展示してあるそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:51Comments(0)新生代

2005年08月13日

新生代(9)−第四紀(2)−ホモ・サピエンス(1)

 

 The path followed by humans in the course of history.

 (旧暦  7月 9日) 
 
 水巴忌 俳人・渡邊水巴の昭和21年(1946)年の忌日
 
 生物は長い時間をかけて変化し、多様な形態をとることが知られていますが、東アフリカに誕生した人類の祖先となる化石類人猿がチンパンジー属と分岐したのは、約600万年前でした。その分岐過程については、コレージュ・ド・フランス(Collège de France)教授で古生物考古学者のイヴ・コパン(Yves Coppens)博士が1983年に提唱した「イーストサイド・ストーリー」が有名です。

 「イーストサイド・ストーリー」というのは、1961年に公開されて大ヒットしたロバート・ワイズ(Robert E. Wise)監督によるアメリカのミュージカル映画「ウエストサイド・ストーリー(WEST SIDE STORY)」をもじって名付けられた仮説で、「猿人が誕生して直立2足歩行を始めたのは、アフリカの大地溝帯の東側の気候が乾燥し森林が草原に変わったせいだ(サバンナ適応説)」という内容です。
 
 ちなみにこの仮説は、『ルーシーの膝(人類進化のシナリオ)』(LE GENOU DE LUCY)と題して紀伊國屋書店から平成14年(2002)4月に出版されています。
 
 その後登場したわれわれ人類ホモ・サピエンス(Homo sapiens)の直接の祖先であるホモ属が、十数万年前から世界中に拡散して生存域を拡大していきましたが、現在のような白色人種(Caucasoid)や黄色人種(Mongoloid)、黒色人種(Negroid)に分かれたのはわずか3〜4万年前だったと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:27Comments(0)新生代

2005年08月12日

数学セミナー(7)−量子力学(6)−シュレーディンガー方程式

 

 Erwin Schroedinger(1887〜1961)

 (旧暦  7月8日)

 

 

 

 

 

 

 しかし、一様でない運動をしている粒子に伴う波に対して、ド・ブロイの考えを拡張したのは、オーストリアの理論物理学者でチューリヒ大学教授のシュレーディンガー(Erwin Schroedinger, 1887〜1961)でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:04Comments(0)数学セミナー

2005年08月11日

書(10)−黄庭堅(1)−松風閣詩巻

 

 松風閣詩巻 黃庭堅 [北宋] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  7月 7日)

 北宋第8代皇帝徽宗(在位1100〜1125)の大赦により崇寧元年(1102)、二度目の失脚から復活した黄庭堅(1045〜1103)は太平州(安徽省当塗県)の知事に任ぜられましたが、王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ「新法党」の迫害により赴任わずか9日目にして免官となり、名ばかりの閑職に追いやられました。

 彼は知事の職を辞して失意のうちに顎州(湖北省武漢市)に向かいましたが、その途中、顎州の南南東約50?、長江の南岸にある顎城縣(顎州市)郊外はん山(西山)に遊んだとき、その地の風光に魅せられ、その山中の松林の間にある一楼閣に「松風」と命名し、この「松風閣」で友人たちと徹夜で酒を酌み交わして詩を作りました。

 山に依つて閣を築き平川(長江)を見る  
 夜闌(たけなわ)にして箕斗(きと:いて座と南斗六星)屋椽(おくてん)に挿(かざ)す
 我來(きたり)て之に名づけ意適然たり
 老松魁梧數百年
 斧斤赦(ゆる)す所今天に參す
 風は鳴る媧皇(媧皇:伝説上の帝王)五十絃(瑟:古代は五十絃あったという)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:52Comments(0)

2005年08月10日

クラシック(14)−バッハ(2)−管弦楽組曲

 

 Johann Sebastian Bach(1685〜1750)

 (旧暦  7月 6日)

 西鶴忌  浮世草子、人形浄瑠璃の作家にして俳諧師井原西鶴の元禄6年(1693)の忌日

 ベートーベンが "Urvater der Harmonie" 『和声の父祖』と呼び、 "nicht Bach, sondern Meer" 『小川(Bach)ではなく海(Meer)だ』と洒落たことは有名なエピソードですが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach、1685〜1750)は、18世紀に活躍したドイツの作曲家でありチェンバロやオルガンなどの鍵盤楽器の名手として、音楽史における巨人(ジャイアンツではありまっせん)です。

 バッハの作品はモーツァルトのケッヘル番号(Köchel-Verzeichnis、1〜626)のように、シュミーダー番号(BWV、Bach Werke Verzeichnis )によって整理されています。これは、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂された "Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke von Johann Sebastian Bach" 『ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽作品の主題系統的目録』によって付けられた番号で、バッハの全ての作品が分野別に配列されていますが、その後の研究により不充分な点が出てきたため、アルフレッド・デュルらが中心になって1990年に「第2版」が出版されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:49Comments(0)音楽/クラッシック

2005年08月09日

北東アジア(17)−ソ連侵攻

 

 ソ連軍対日参戦

 (旧暦  7月 5日)

 太祇忌(不夜庵忌)  与謝蕪村の友人で俳諧師・炭太祇(たんたいぎ)(不夜庵)の明和8年(1771)の忌日

 昭和20年(1945)8月9日、長崎に2発目の原爆が投下される約11時間前の9日午前零時、ソ連は対日宣戦を布告し、日ソ国境(千島・樺太方面)および三方面の満ソ国境(東方面、北方面、西方面)から侵攻を開始しました。

 この日までに国境付近に集結したソ連軍兵力は、地上兵力約157万名、火砲約26,100門、戦車約5,500輛、航空機約3,400機と記録されています。

 メレツコフ元帥が指揮し東方面を担当する第一極東方面軍は、沿海州方面からウスリー河を渡河して沼沢と湿地帯を突破し、堅牢な日本軍の虎頭要塞を攻略する任務を帯びていまいした。

 プルカーエフ大将が指揮する第二極東方面軍は、北から松花江沿いにハルピンを目指し、黒河方面から侵攻した赤旗第二軍は小興安嶺を越えてチチハル攻略を目指していました。
 
 西からのザバイカル方面軍はマリノフスキー元帥が指揮し、大興安嶺の山岳地帯を踏破して満洲中部の平原地帯を目標にしていました。

 折しも東部国境防衛を担当していた関東軍第一方面軍第五軍司令部(清水規矩中将)は、麾下の国境守備の3個師団の師団長、参謀長、主務参謀、主要な軍直轄部隊長を120㎞後方の掖河(えきが:軍司令部所在地)に集合させて、ソ連侵攻を想定した高等司令部演習を行っている最中の出来事でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:40Comments(0)歴史/北東アジア

2005年08月08日

やまとうた(12)−吹く風のすずしくもあるかおのづから

 

 ヒグラシ 学名:Tanna japonensis

 (旧暦  7月 4日)

 國男忌(柳叟忌) 民俗学者柳田國男の昭和37年(1962)の忌日

 暦の上では立秋も過ぎ、そろそろ涼しい風が吹く頃と期待しておりましたるところ、あに図らんや衆議院が解散し、日本列島はますます熱い季節を迎えそうで、まったく、トホホのホでございます。

 ま、世間の事はさておき、せめて「やまとうた」で涼しさを味わいませう。

 蝉のなくを聞きて
 吹く風のすずしくもあるかおのづから 山の蝉鳴きて秋はきにけり (鎌倉右大臣実朝)


 右大臣が詠んだ蝉は、いま帝都東京でやかましく泣いているアブラゼミやミンミンゼミではなく、ヒグラシかツクツクボウシで、そこはかとなく夏の終わりのはかなさを感じさせる蝉のようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:56Comments(0)やまとうた

2005年08月07日

北東アジア(16)−38度線

 

 軍事境界線

 (旧暦  7月 3日)

 つい最近、朝鮮半島の南北分断は、日本が朝鮮半島を統治していた時代に、北緯38度線の北側は関東軍、南側は朝鮮軍が管轄していたため、日本敗戦後の武装解除については北緯38度線以北をソ連が、それ以南をアメリカが行って占領統治することが決定されたからだと在日北朝鮮のある人から聞かされました。

 私「嘉穂のフーケモン」は、関東軍は旧満洲を管轄し、朝鮮半島は行政は朝鮮総督府、軍事は朝鮮軍が管轄していたと理解していたので、とても意外な感じがして調べてみました。すると、たしかにそのような説があることがわかりました。

 1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われたヤルタ会談において、第2次世界大戦後の朝鮮半島の北緯38度線による南北分断占領が決定されましたが、このことを進言したのはアメリカ国防総省の若い役人だったと云われています。その根拠が前述の関東軍と朝鮮軍の管轄よる分割かどうかは今の所定かではありませんが、韓国国会議員(ウリ党)でソウル大学国史学科を卒業し、東京大学大学院修士・博士課程を修了されている姜昌一(カン・チャンイル)氏の「朝鮮侵略と支配の物理的基盤としての朝鮮軍」という論文に興味深い記述があります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:52Comments(1)歴史/北東アジア

2005年08月06日

艦船(1)−報国丸

 

 大阪商船「報国丸」

 (旧暦  7月 2日)

 「大東亜戦争」という呼び方は、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers)の命令で公文書において使用することが禁止された後、連合国側表記に合わせる形として「太平洋戦争」と呼ばれるようになったと理解していましたが、厳密に言えばその期間に相違があるようです。

 昭和16年(1941)12月10日、東條内閣は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と閣議決定していますから、大東亜戦争は、昭和12年(1937)7月7日(廬溝橋事件)から昭和20年(1945)8月15日(ポツダム宣言受諾)の期間を指す言葉なんですね。
 従って「太平洋戦争」とは、「大東亜戦争」の中の対米英戦争を指すものと思われます。

 以前、対米英戦争の前期にインド洋で通商破壊作戦に従事した日本海軍の伊号潜水艦の記録映画を見た記憶があり、「♪可愛い魚雷と一緒に積んだ 青いバナナも黄色く熟れた・・・」という『轟沈』という歌も何度か聴いたように覚えています。

 この映画は、海軍報道部の監修により、当時の日本映画社が製作した記録映画で、実際にインド洋で通商破壊作戦にあたった日本海軍の伊号潜水艦に、海軍の報道班が乗り組んで取材したものだそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:20Comments(0)艦船