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2019年07月02日

書(22)— 空海(1)— 風信帖

 

   (旧暦5月30日)

    

        【風信帖】


    【風信帖】
    風信雲書自天翔臨

    披之閲之如掲雲霧兼

    惠止観妙門頂戴供養
    不知攸厝已冷伏惟

    法體何如空海推常擬

    隨命躋攀彼嶺限以少

    願不能東西今思与我金蘭

    及室山集會一處量商仏

    法大事因縁共建法幢報
    仏恩徳望不憚煩勞蹔

    降赴此院此所々望々忩々

    不具    釋空海状上
  
                      九月十一日

    東嶺金蘭    法前 

                      謹空

    風信雲書、天より翔臨す。
    之を披(ひら)き之を閲(けみ)するに、雲霧を掲ぐるが如し。
    兼ねて止観の妙門を惠せらる。頂戴供養し、
    厝(お)く攸(ところ)を知らず。已に冷ややかなり。
    伏して惟(おもん)みるに、法體(ほつたい)何如(いかん)。
    空海 推(うつ)ること常なり。
    命に隨ひ彼の嶺に躋攀(せいはん)せんと擬(はか)るも、
    限るに少願を以てし、東西すること能はず。今、我が金蘭
    及び室山と一處に集會(しふゑ)し、
    仏法の大事因縁を商量し、共に法幢(ほふどう)を建て
    仏の恩徳に報ぜんことを思ふ。望むらくは煩勞を憚らず、
    蹔(しばら)く此の院に降赴(かうふ)せよ。此れ望む所望む所。忩々(そうそう)
    不具    釋空海    状を上(たてまつ)る。
                       九月十一日

    東嶺金蘭    法前
     
                      謹空


    風の便り、雲の様な美しい書が天より舞い降りました。
    その様な貴方様からの手紙を開きこれを読むと、雲霧が晴れる心地がします。
    併せて摩訶止観を贈られました。頂き御仏に捧げております。
    これについては、身の置き所も無いくらい恐縮しております。
    このところは気候も寒くなり貴方様の御身はお変わりございませんでしょうか。
    私、空海はあいも変わらずです。最澄様の招請により比叡山に躋攀(せいはん:登る)したいのですが、忙しく行くことが出来ません。今、私と我が親しい最澄様と室生寺の僧侶とひとつの所に集まり仏の教えの大切な所、その因果関係をよく考え皆で仏法を宣揚し、仏の恩に報いようと思います。私の望む所は労苦を厭わず、貴方様が私の寺院に暫く逗留していただきたい。私はそれを望みます。私はそれを望みます。
    不具(気持ちを十分に述べ尽くしていないの意)
    釋(僧)空海が状(書状)を奉る。
                   九月十一日
    友の御前に
             謹空(此処からは貴方を敬い白紙で残しておきます。)


    「風信帖」の名で知られる弘法大師空海(774〜835)の書蹟は、正式には「弘法大師筆尺牘三通」として国宝に指定されています。

    「尺牘(せきとく)」とは、漢文体の手紙のことで、 尺は一尺、牘(とく)は文字を書いた方形の木札のことを指し、一尺ほどの木簡または竹簡に手紙を書いたことから手紙の意で使われるようになり、漢代には書簡一般を指すものとなっていました。

    「弘法大師筆尺牘三通」は、弘法大師空海(774〜835)が傳教大師最澄(767〜822)に宛てた「尺牘」三通の総称であり、三通とも日付はあるが年紀がなく、弘仁元年(810)から弘仁三年(812)まで諸説あようです。

    弘法大師空海(774〜835)は、本朝の書道史上、能書の最も優れた三筆[空海、嵯峨天皇(786〜842)、橘逸勢(782?〜842)]の一人に数えられていますが、「弘法大師筆尺牘三通」の一通目の出だしが「風信雲書」で始まることから「風信帖」と通称されています。二、三通目もその出だしから「忽披帖」「忽恵帖」と呼ばれています。

    

        弘法大師空海像(774〜835)


    この書は代々、比叡山延暦寺に伝わりましたが、南北朝時代(1336〜1392)の文和四年(1355)、現在の京都市南区九条町にある真言宗の総本山東寺の御影堂に奉納され、その時の寄進状も附として国宝の一部となっています。
    南北朝時代(1336〜1392)は弘法大師信仰が盛んになった時代で、東寺御影堂に空海の書を寄進しようという動きが広まり、比叡山延暦寺から本主良瑜(1333〜1397)によって寄進されそうです。  続きを読む

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2014年03月16日

書(21)— 文徴明— 後赤壁賦

 
 
 赤壁賦   文徴明   巻  28.7cmx464.5cm

  (旧暦2月16日)
 
  明代中期に活躍した文人の文徴明(1470〜1559)は、詩・書・画に巧みで三絶と称され、画においては「南宋文人画中興の祖」として呉派文人画の領袖である沈周(1427〜1509)の後を継ぎ、沈周・唐寅(1470〜1523)・仇英(1494?〜1552)とともに明代四大家に加えられています。
 
  蘇州は明代(1368〜1644)にもっとも文化が進み、文芸界の中心をなしていました。元代(1271〜1368)における江南文化の中心地は杭州でしたが、それが蘇州に移る機縁となったのは、元末に蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇った張士誠(1321〜1367)の文教政策であり、文芸を好み側近に文人を集めたので、明の太祖朱元璋(1328〜1398)に滅ぼされたのちも、蘇州には多くの文人が残っていました。

  さて、この文徴明、子どもの時は発育が遅く、八、九歳になっても言語が不明瞭だったといわれ、書も下手でしたが、不断の努力によりその才能を磨いていきました。
  父、文林の友人で当代一流の士である、吳寬(1435~1504)に文を、李應禎(1431〜1493)に書を、沈周(1427〜1509)に画を学び、また、祝允明(1460〜1526)、唐寅(1470〜1523)、徐禎卿(1479〜1511)らの同輩と切磋琢磨して努力し、蘇州府学の学生だったときには、一日に千字文十本を臨書するのを日課としたと伝えられています。

  その書については、次子の文嘉が残した『先君行略』(「甫田集」巻末)に、

  父の書は大変な労力を費やして臨書を重ねた結果、体得されたものである。初めは宋元の名蹟を習ったが、その筆意を悟るとことごとくこれを棄て去り、もっぱら晋唐の書を手本とした。その小楷は王羲之の黄庭経や楽毅論の中からきたもので、温純精絶なること、虞世南や褚遂良以後の書は問題にならない。隷書は鐘繇を手本として、一世に独歩した。(後略)


  
  於書遂刻意臨學始。亦䂓模宋元之撰、既悟筆意遂悉棄去専法晉唐。其小楷雖自黃庭樂毅中來而温純精絶虞褚而下弗論也。隷書法鐘繇、獨歩一世。(後略)
  欽定四庫全書 集部六 别集類 甫田集巻三十六 附録 『先君行畧』

 
と記されています。

 

  『先君行畧』


  文徵明、長洲(江蘇省呉縣)の人、初め名は璧、以て字(あざな)を行じ、更に字は徵仲、別に衡山と號す。父は林、溫州(浙江省温州)知府たり。叔父は森、右僉都御史たり。林、卒するに、吏民、賻(おく)る為に千金を醵(あつ)む。徵明、年十六(明史の誤り、実際は年三十)、悉く之を卻(しりぞ)く。吏民、故に卻金亭を修(おさ)め、以て前守何文淵に配し、而して其事を記す。

 徴明、幼にして慧(さと)らず、稍(やや)長じて、穎異挺發(卓出)たり。文を吳寬に學び、書を李應禎に學び、畫を沈周に學ぶ、皆、父の友也。又、祝允明、唐寅、徐禎卿の輩(ともがら)と相ひ切劘(切磋琢磨)し、名は日に著しく益す。其の人となりは和して介(たす)く。巡撫兪諫、之に金を遺(おく)るを欲し、衣する處の藍衫(単衣の下着)を指し、謂ひて曰く、「敝(やぶ)ること此に至るや」と。徵明、佯(やう、理解できぬさま)として喩(さと)らず、曰く、「雨に遭ふて敝(おほ)ふのみ」と。諫、竟(つひ)に敢へて金を遺(おく)る事を言はず。寧王宸濠、其の名を慕ひ、書幣を貽(おく)り之を聘すも、病と辭して赴かず。

 正德の末、巡撫李充嗣、之を薦し、會(たまたま)徵明亦た歲貢生を以て吏部試に詣づ、翰林院待詔(皇帝侍従)を奏授す。世宗立つや、『武宗實錄』の修(編修)に預り、經筵(皇帝侍講)に侍し、歲時(四季折々)頒(はん、品物)を賜ふ、諸詞臣と齒(し、交際)す。而し是の時、專ら尚(なほ)科(科挙)を目ざすも、徵明、意、自(おの)づから得ず、連歲(毎年)歸(帰郷)を乞ふ。

 是に先し、林の溫州知(知府)のとき、諸生中に張璁を識る。璁、既に勢を得、明(徵明)をして之に附き征くを諷(さと)すも、辭して就かず。楊一清、輔政に入るに召すを、徵明、獨り後に見(まみ)ゆ。一清、亟(すみ)やかに謂ひて曰く、「子は我と翁の友たるを知らずや」と。徵明、色を正して曰く、「先君棄(き)して不肖三十餘年、苟も一字を以て及ぶ者は、敢へて忘れず、實に相公と先君の友たるを知らざるな也」と。一清、慚色有り、尋(つ)いで璁と謀り、徵明の官を徙(むなしくする)を欲す。徵明、歸るを乞ふを益(ますます)力(つと)む、乃ち致仕(引退)を獲(う)。

 四方、詩文書畫を乞ふ者は、道に踵(くびす)を接す、而して富貴の人、片楮(一片の書)を得ること易からず、尤もあへて王府及中人(宮中)に與へず、曰く、「此れ法の禁する處なり」と。徽(徽州)の周りの諸王、寶玩を以て為に贈るを、封を啓(ひら)かず而して之を還す。外國の使者、呉門(呉派の徴明の門前)に道し、里(やしき)を望みて肅拜し、以て見(まみ)ゆるを獲ざる為に恨む。

 文筆天下に遍き、門下の士の贗作する者頗る多し、徵明、亦禁ぜず。嘉靖三十八年(1559)卒す、年九十矣。長子彭、字は壽承、國子博士たり。次子嘉、字は休承、和州(安徽省)の學正たり。並に詩、工書、畫、篆刻を能くし、其家世(よよに)す。彭の孫震孟、自ら傳有り。
 『明史』 卷二百八十七  列傳第一百七十五  文苑三 文徴明
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 北宋の元豐二年(1079)八月十八日、王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ新法党の御使の讒言を受けて、湖州(浙江省呉興県)知事を解任され御史台の獄に下った蘇軾(1036~1101)は、拘禁百日におよび死に処せられんとするも第六代皇帝神宗(在位1067~1085)の憐れみにより、同年十二月二十九日、検校尚書水部員外郎を授けられ、黃州團練副使に充てられて、黃州(湖北省武昌東南60Kmの長江左岸)に左遷されます。
 名目だけの地方官職を与えて、新法党の刃から逃したとされています。

 蘇軾が黃州に到着したのは、元豐三年(1080)二月一日のことでした。

  蘇軾至黃州、初居定惠禪寺、後移居臨皋亭。在今湖北省黃岡縣南大江濱。

 
  東坡、謫(たく)せられて黃に居ること三年、州の太守馬正卿と云ふ者、地數十畝を以て東坡に與ふ。東坡、大雪中に室を築き、名づけて雪堂と曰ひ、雪を其堂壁に畫く。
   『漢籍國字解全書』第二六巻「正文章軌範」


  五年春、築草廬而居、名曰雪堂、蓋於大雪之中為之、因圖雪景於四壁、自書「東坡雪堂」四字於堂上、自稱東坡居士。故址在今湖北省黃岡縣東。


  
  元豐五年(1082)七月、赤壁に遊び、賦を作る。十月復び游ぶ、又賦あり、此れは再游の時の賦なり、故に後赤壁賦と曰ふ。


 賦は、戦国時代の末に楚(? ~ B.C.223、河北、湖南省あたりを領土とした国)の詩人屈原(B.C.343~B.C.278)が残した韻文である楚辞の流れを汲んで、漢代の文学に中心的な地位を占めるまでに完成した、一つの文学形式です。
 賦とは、誦(しょう)、つまり朗誦する文学のことですが、賦は、いろいろの事物を並べたて、さまざまな角度からそれを描きあげていきます。

 また、蘇軾が客と舟を浮かべてこの「赤壁の賦」を詠んだ場所は、黃州の東北にあった赤鼻磯で、実際の古戦場ではなかったのですが、晩唐の詩人杜牧(803~853)が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の「赤壁の賦」によって、実際の古戦場以上に有名になってしまったとのことです。
 そのためこの地は、「文赤壁」あるいは「東坡赤壁」と呼ばれるようになりましたが、残念ながら、東坡赤壁は長江の流れが変遷したために、現在は長江には面しておらず、赤鼻山と呼ばれているそうです。  続きを読む

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2013年01月27日

書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 

(旧暦12月16日)

 實朝忌
 鎌倉幕府第三代将軍、歌人の源實朝の健保七年(1219)一月二十七日の忌日。前年に右大臣に就任し、鶴岡八幡宮でその拝賀の礼を行った帰途、甥の公暁により暗殺された。

 

 源実朝像『國文学名家肖像集』より

 建保七年四月十二日改元 承久元年 己卯

 一月二十七日 戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
 今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
 (中略)
 路次の随兵一千騎なり。
 宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。
 (後略)
 『吾妻鏡』建保七年一月二十七日

 [北條九代記] 

 戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。


 雨情忌
 北原白秋、西條八十とともに童謡界の三大詩人と謳われた野口雨情の昭和20年(1945)の忌日。
 代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。

 


 書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)のつづき

 ところで、余談ですが、この九成宮醴泉銘を書いた欧陽詢の父に関する逸話が「補江總白猿傳」として、太平廣記巻四四四に収められています。

 中国南北朝時代(439〜589)、江南に興った梁(502〜557)の武帝(在位502〜549)の大同年間(535〜546)、別働隊の将軍であった欧陽詢の父、欧陽紇(538〜570)は、南方の各地を攻略して長楽(福建省閩候縣)に赴き、多くの蛮佬(広西・貴州両省あたりに住む少数民族)の地を平定して、険阻な奥地に分け入りました。

 しかし、彼の帯同した美人の妻は、白猿のために掠奪されてしまいました。
紇は軍隊を留めて、一月半ほども険しい山にわけ入って探し求め、ついには妻を救い出しますが、すでに妻は子を孕んでいました。

 急所である臍の下を刺された白猿は、大いに嘆いて紇に云います。

 此れ天の我を殺すなり、豈(あに)爾(なんじ)の能ならんや。然れども爾の嬬(つま)は已に孕めり。その子を殺すこと勿れ。将(まさ)に聖帝に逢ひ、必ず其の宗を大(さか)んにせんとす、と。言絶えて乃ち死せり。

 (中略)

 紇の妻は周歳にして一子を生む。厥(そ)の狀(かたち)は肖(に)たり。
後に紇は陳の武帝の誅する所と爲る。素(もと)より江總と善し。其の子の聰悟人に絶するを愛し、常に留めて之を養ふ。故に難より免る。長ずるに及び、果して學を文(かざ)り書を善くし、名を時に知らる。
 『補江總白猿傳』


 この逸話は、欧陽詢の才能が優れているのをやっかみ、容貌が醜かったのをからかって、小説をかりて歐陽詢を嘲笑したものとの説もありますが、逆に、欧陽詢の偉大さを賞賛し宣伝するにあったとの解釈もあるようです。

 さて、本題に戻って、九成宮醴泉銘の本文を辿っていきませう。

 然昔之池沼、咸引谷澗。宮城之內、本乏水源、求而無之、在乎一物、既非人力所致、聖心懷之不忘。粤以四月甲申朔、旬有六日已亥、上及中宮歷覽台觀。閑步西城之陰、躊躇高閣之下。俯察厥土、微覺有潤、因而以杖導之、有泉隨而涌出。乃承以石檻、引爲一渠。其清若鏡、味甘如醴。南注丹霄之右、東流度于雙闕、貫穿青瑣、縈帶紫房。激揚清波、滌蕩瑕穢。可以導養正性、可以澄瑩心神。鑒映群形、潤生萬物、同湛恩之不竭將玄澤之常流。匪唯乾象之精、蓋亦坤靈之寶。

 

 ところが、昔の池や沼はみな谷川から水を引いてきていた。この九成宮の城内にはもともと水源が乏しく、探し求めても得られないのがこの水のことであった。それは人の力ではどうしようもないことであったが、皇帝はいつもこのことをおもんぱかり、忘れることができなかった。
 さて四月甲申の一日から十六日の己亥の日まで、皇帝は中宮とともに、城内の多くの見晴らし台に立ち寄られた。西城の日陰を静かに歩かれ、高閣の下に立ち止まられた。うつむいてその土を観られたところ、かすかに湿り気があるのを感じられた。そこで杖でつついてみたところ、泉が杖に従って湧き出してきたのである。 
 そこで石で井桁を組んで水を溜め、それを引いて溝を作った。その清らかさは鏡のようで、味の良さは甘酒のようであった。水は南側の丹霄殿の右側から、東に流れて双闕を越え、青瑣を貫ぬき、紫房をめぐり、清らかな波をはげしく立てて流れ、傷やけがれを洗い清めた。その水は正しい品性を養うことができ、心神を清め磨くことのできるものであり、万物を潤しはぐくみ、天地の恵みが尽きることがないように、皇帝からの徳が絶えないのと同じことである。これはただ天の気の精であるばかりでなく、地の気の宝と言えよう。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:48Comments(0)

2013年01月22日

書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)

 

(旧暦12月11日)

 默阿彌忌
 歌舞伎作者、河竹默阿彌の明治26年(1893)の忌日。 『三人吉三廓初買』、『青砥稿花紅彩画』等の人気狂言を書き、近松門左衛門、鶴屋南北とともに、三大歌舞伎作者の一人とされている。

 お嬢吉三が、夜鷹を殺して百両奪ったあと、ゆったりと唄いあげる名文句。

 月も朧に白魚の 篝もかすむ 春の空

 冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと
 浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で

 竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両

(呼び声)おん厄払いましょう、厄おとし

 ほんに今夜は節分か
 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし
 豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 
 こいつは春から 縁起がいいわえ
 『三人吉三廓初買』大川端の場


 

 『三人吉三廓初買』は、百両の金と庚申丸という刀によって、同じ吉三の名前を持つ3人の盗賊の身に降りかかる因果を描いた作品。
 元は僧だった和尚吉三、女として育てられたため女装で登場するお嬢吉三、元旗本の御曹司お坊吉三の3人が出会って義兄弟となる「大川端の場」。


  

 「九成宮醴泉銘」は、楷書の極致として書道の教科書にも紹介されている大変に有名な碑文です。書体は隋代に行われた方形から脱して特色ある長方形を成し、書聖と称された東晉の書家王羲之(303〜361)の楷書を脱して隷法を交え、清和秀潤な風格があると評されています。
 碑は高さ約2.3m弱、幅約1m強、一行50字、全24行、一文字の大きさは約2.5㎝で、陝西省麟遊県天台山に現存しています。
 
 九成宮は唐王朝の離宮で、陝西省西安の西北 150kmの麟遊県からさらに西方数kmの天台山という山中にありました。
 もともとは隋の初代皇帝文帝(在位581〜604)が、上柱国、御史大夫の楊素( ? 〜606)に命じて、避暑用の離宮としてに造営させた仁寿宮で、開皇十三年(593)から2年がかりで築かれた大宮殿でした。

 貞観五年(631)、唐の第二代皇帝太宗(在位626〜649)はこれを修復させて九成宮と改め、離宮としました。
 九成という名前の由来は、この宮殿が山の幾層にも重なり合った場所にあることにちなんでいると云います。

 この地は真夏でも涼しく、避暑地としては適していましたが、高地でもあり、水源に乏しい所であったようです。

 貞観六年(632)初夏の旧暦四月、太宗がこの地に避暑に赴き、長孫皇后(601〜636)を伴って離宮内を散策していると、西側の高閣の下にわずかに湿り気のあるところを見つけました。
 太宗はそこを杖でつついてみると、水が流れ出してきました。

 太宗はそれを唐王朝の徳に対応する瑞兆だと喜び、魏徴に撰文させ、太子率更令(皇太子の養育を司る官織)の歐陽詢(557〜641)に書かせて建てた記念碑がこの「九成宮醴泉銘」です。









  歐陽詢、潭州臨湘人、陳大司空頠之孫也。父紇、陳廣州刺史、以謀反誅。詢當從坐、僅而獲免。陳尚書令江總與紇有舊、收養之、教以書計。雖貌甚寢陋、而聰悟絶倫、讀書即數行俱下、博覽經史、尤精三史。仕隋爲太常博士。高祖微時、引為賓客。及即位、累遷給事中。
詢初學王羲之書、後更漸變其體、筆力險勁、爲一時之絶。人得其尺牘文字、鹹以爲楷範焉。高麗甚重其書、嘗遣使求之。高祖嘆曰、不意詢之書名、遠播夷狄、彼觀其跡、固謂其形魁梧耶。
 武德七年、詔與裴矩、陳叔達撰藝文類聚一百卷。奏之、賜帛二百段。
 貞觀初、官至太子率更令、弘文館學士、封渤海縣男。年八十余卒。
 『舊唐書 卷百八十九 上』


 

 歐陽詢(557〜641)は潭州臨湘(湖南省長沙)の人で、陳(中国南北朝時代の国、557〜589)の大司空(監察を審議する官)である頠(489〜563)の孫でした。 
 父の紇(538〜570)は陳の廣州刺史(知府知州を治める長官)でしたが、第四代高宗宣帝(在位568〜582)の太建元年(569)、廣州で兵を挙げて敗れ、翌年、誅せられてしまいました。

 歐陽詢も連座して責を負うべきところでしたが、かろうじて罪を免れることができました。陳の尚書令(上奏事を掌り、綱紀を統括し、一切を取り仕切る職掌を有していた)である江總(519〜594)は紇と旧交があり、詢を引きとって養育し、読書、数学を教えました。彼はとても醜い容貌でしたが、聡明さは人並みはずれており、書を読めば数行を同時に読み下し、博く経書や史書を読み、特に史記、漢書、後漢書の三史に精通していました。後に隋に仕えて太常博士(儀礼を司る官)となりました。唐の高祖(李淵、566〜635)が位のなかったときに、太子の侍従官として招かれました。高祖が皇帝に即位(在位618〜626)すると給事中(詔勅の審査、出納を行う門下省の詔勅等を司る官)に昇進しました。 

 歐陽詢は初め王羲之の書を学びましたが、その後次第に書風を改め、筆力は非常に力強く、当時の最高の位置にありました。人々は彼の手紙や書簡を得て楷書の手本としました。 
 高麗(高句麗)ではたいそう彼の書を重んじ、使者を派遣してこれを求めさせました。 そこで高祖はため息をついて言いました。「歐陽詢の書名が遠く夷狄の地に伝わっているとは思いもよらなかった。彼の筆跡を見るに、全く体つきの大きなことなど想像もできない」と。 

 武徳七年(624)、勅命によって裴矩(557〜627)、陳叔達( ? 〜635)と共に藝文類聚(百科全書)一百巻を撰文して奏上し、反物二百段を賜りました。
 貞觀の初め、官位は太子率更令(皇太子の養育を司る官)、弘文館学士となり、渤海県の男爵として封ぜられました。八十余歳にして亡くなりました。
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2012年11月23日

書(18)−蔡襄−求澄心堂紙尺牘

 

 求澄心堂紙尺牘 蔡襄[北宋]
 紙本墨書 一冊
 縦29.5㎝ 横31.5㎝ 台北
 
 (旧暦10月11日)

 求澄心堂紙尺牘は、蘇軾(1012〜1067)、黃堅庭(1045〜1105)、米芾(1051〜1107)と併せて北宋の書の四大家と称された蔡襄(1012~1067)が、澄心堂紙を求めたときの尺牘(せきとく、書簡)で、楷行書体で書かれ、端整流麗、柔和にして、二王(王羲之、王献之)の書風を母胎に顔真卿の骨格を示すもので、蔡襄の尺牘のなかでも晩年期の最も優れたものとされています。

 澄心堂紙一幅闊狭厚薄
 堅實皆類此乃佳工者不
 願爲又恐不能爲之試與
 厚直無莫得之見其楮細似
 可作也便人只求百幅癸卯重
 陽日 襄  書


 澄心堂紙一幅、闊(ひろ)く狭く厚く薄く
 堅實なること皆な此の類い、乃ち佳し
 工者は爲すを願はず、又恐れ之に爲す能はず
 試みて厚直、之を得る莫し
 其の楮(ちょ、こうぞ)の細を見、似て作すべきなり
 便人只だ百幅を求む
 癸卯重陽日 襄書


 末尾の「癸卯重陽日」は、嘉祐八年(1063)、即ち蔡襄五十二歳の時に当たります。

 この尺牘は、明代後期の書画収集家項元汴(1525〜1590)の旧蔵で、清朝第六代皇帝乾隆帝(在位1735~1795)が、乾隆十二年(1747)、内府所蔵の古名跡を技術の粋を集めて刻した三十二巻の大集帖である『三希堂法帖』に刻入されています。
 澄心堂とは、五代南唐(937〜975)の先主、烈祖李昪(lǐ biàn、在位937‐943)の書斎の雅名ですが、風流をもって聞こえた後主、李煜(lǐ yù、在位961〜971)が宮中所属の製紙工に命じ、桑皮を材料として抄造せしめた最上質の紙に澄心堂紙と名付けたことによります。

 単に良質の紙というよりも工芸品ともいうべきもので、中国としては空前絶後、古今第一等の紙と云われ、当時からすでに貴重なものであったと云います。
 それならば宋代にはなおさら得がたいものであった様ですが、なおかつこれを所持し珍重するものがあったと云います。

 蔡襄はこれを復元しようとしましたが遂に果たせず、断念したとも謂われ、後に清朝第六代皇帝乾隆帝が苦心の末に復元させたと言われています。
 さてこの蔡襄が撰したとされる「文房四説」という文房四寶(硯、筆、墨、紙)について述べた文章が、清朝第六代皇帝乾隆帝の勅命により編纂された、中国最大の漢籍叢書である『四庫全書』に掲載されています。

 端明集 文房四説 (宋)蔡襄 撰
(四庫全書 集部 別集類 端明集卷三十四) 嘉穂のフーケモン拙訳

 新作無池の硏(硯)、龍尾石羅紋、金星玉の如きは、佳し。筆は、諸葛髙、許頔(きょてき)、皆竒物なり。紙は、澄心堂存する有るは、殊に絶品なり。墨は、李庭珪有り、承晏、易水の張遇また獨歩を爲す。四物文房は先ず推す。好事者宜しく散卓に意を留むる所、筆心長く、特に佳し。


 新作の墨池の無い硯で、龍尾石(江西省婺源縣渓頭郷の龍尾山山麓一帯の石材)で羅紋(石紋は絹のように美麗で、色彩は青黒、肌理が細かくて温潤である)、金星があり玉のごとき物、これは佳い。

 筆は、諸葛高(唐代宣州の名筆匠)、許頔(xŭ dí、常州の名筆匠)、みな優れている。

 紙は、澄心堂紙が残っているなら特に絶品である。
 
 墨には李庭珪(唐末、歙州の墨工)があり、承晏(李庭珪の弟、李庭寛の子)あるいは易水の張遇もまた独歩の地位をしめている。
 
 これら四つの文房用具をまず推薦できる。また好事家であれば散卓筆(芯を作らず中心と周囲で長さが同じ毛か、あるいはごくわずかに周囲の毛を短くした筆)に意を留めるべきであるし、その筆の心(芯)が長いものは特によいものである。

 硯は、端溪の星無き石、龍尾、水心にて緑紺玉石の如く、二物は入用、餘は道に足らず。墨は、李庭珪を第一と爲し、庭寛、承晏は之に次ぎ、易水の張遇は之に次ぎ、陳朗は又之に次ぐ。造作に法有るは獨ならず、松烟自ずと異なり、當に是を辨ずるなり。
 紙は、李王の澄心堂を第一と爲す。其の物江南の池、歙二郡に出ずるも、今世復た精品を作らず。蜀牋は久しく堪へず、自餘、皆佳物に非(あら)ざるなり。 
 筆は、毫を用うること難しと爲す。近くは宣州の諸葛高、鼠鬚の散卓を造り、長心の筆に及ぶや、絶へて佳し。常州の許頔造る所の二品、亦た之に減ぜず。然るに其の運動、手に隨ひて滯ること無し。各是一家、一體而して之を論ずべからざるなり。


 硯は端溪石で星の無い者、龍尾石であって水中で視れば緑紺で玉石の如きもの、この二つの硯材のみが入用で、ほかの硯材については取るに足りない。

 墨は李庭珪を第一とし、弟の李庭寛、李庭寛の子の李承晏がこれに次ぎ、易水の張遇はこれに次ぎ、陳朗はさらにこれに次ぐ。その造作に方法が有る者は独りではないが、使われている松烟が自ずと異なるので、墨を弁別する事ができるのである。
 
 紙は南唐の李王朝の澄心堂紙が第一である。その紙は江南の池州、歙州の二郡で作られるが、現在はふたたび精良な品をつくることはできない。蜀牋は長い年月に耐えることが出来きないから、それ以外は皆良いものではない。

 筆は材料の毛に良い物をそろえる事が難しい。近年では宣州の諸葛高が造った、鼠の髯の散卓筆で芯の長い筆は絶佳である。また常州の許頔の作るところの二品は、また諸葛高の筆に劣らない。然るに筆を執って動かせば、手の動きに随って滞るところがない。諸葛高と許頔はそれぞれ一家を成しており、その優劣を一概にして論じる事が出来ないものである。


 歙州績渓の紙、乃ち澄心堂の遺物は、唯だ新有るなり。鮮明之に過ぐ。今世の紙の多くは南方に出ず。烏田、古田、由拳、温州、恵州の如きは皆名を知る。績渓の擬、曾て其の門牆に及び得ず。婺源の石硯は羅文有り、金星、蛾眉、角浪、松文、豆斑の類(たぐひ)、其の要は堅宻温潤に在り。天將隂雨、水脈自ら生じ、墨を磨るを可とするに至るは、斯れ寳とすべき者なり。黄山松煤の精に至る者は、李庭珪に比すべき墨を造る。然るに匠者の多くは貧にして、人において利を求むるを以て、故に逮(およ)ばず。近くに道人有り、自ら能く烟を焼く。黄山に煤を取ることに就くを令して遣すに、必ず佳きものを得る。歙州の此の三物は竒絶なり、唯だ好事厚資を以て之を致すべし。若し官勢を以て臨みても、能く至ること莫きなり。李隩は績渓に下りて而して由拳に優り、烏田と相ひ埒(ひとしい)。循州の藤紙は微精細、而して差黄。他の竹筋をもってする處、道に足りず。房用之筆の用うべき果ては、鋒齊勁健なり。今世の筆、例せば皆鋒長くして使ひ難きは、鋒銳に至るに比し少損すれば、已に禿して使ふに中(かな)はず。
 (後略)
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2012年03月05日

書(17)−祝允明−草書李白歌風臺詩巻

 

 

 草書李白歌風臺詩巻 祝允明 [明] 紙本墨書 一巻
 縦24.6㎝ 横655.6㎝ 北京故宮博物院

 (旧暦2月13日)

 書が芸術として完成されたのは、書聖と称される東晋(317〜420)の政治家でもあった王羲之(303〜361)によるとされています。また、その七男、王献之(344〜386)も書に優れ、父の王羲之とともに二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称され、その書風も「王法」といわれ賞賛されてきました。

 この「王法」に練達することが、唐代、宋代の数百年間にわたって官吏の登用試験である科挙制度の必須項目とされたのです。

 また、王羲之、王献之、王詢(349〜400)といった東晋の書家や初唐の三大家と称され唐の第2代皇帝太宗(在位:626〜649)に使えた欧陽詢(557〜641)、虞世南(558〜638)、褚遂良(596〜658)とともに成唐の顔真卿(709〜785)などの書が歴代の皇帝に愛好され、「晋唐の書」として崇敬されるようになりました。

 宋代(960〜1279)には、こうした晋唐の名人の真筆の法帖や名人による臨模の書跡が数多く残されており、その書風を学ぶことができました。
 宋の四大家と呼ばれる蔡襄(1012〜1067)、蘇軾(1036〜1101)、黄庭堅(1045〜1105)、米芾(1051〜1107)も晋唐の書跡を学び、宋代以降の名書家も二王をはじめ晋唐の書に習熟してのちに独自の気風を築いてきました。

 宋代には王羲之の真筆をはじめ、古来の書跡を集めた『淳化閣帖』などの法帖が多く造られて手本とされました。
 『淳化閣帖』は、北宋の第2代皇帝太宗(在位:976〜997)が淳化3年(992)、翰林侍書の王著(生年不詳 〜990年?)に命じて内府所蔵の書跡を棗の木に編次模勒させたものです。


 十巻よりなり、「法帖の祖」といわれますが初版の原板は焼失して残存せず、原拓は書道博物館の「夾雪本」と上海博物館の「最善本」のみであり、
一般に今日伝わるのは歴代に亘って作られてきた各種の翻刻本です。
 有名な翻刻本としては明代に制作された顧氏本、潘氏本、粛府本、清代の陝西本、清の第6代皇帝乾隆帝(在位:1735〜1796)による欽定重刻淳化閣帖などがあります。

 南宋のあとをついだ元代は多くの文物が戦乱により失われ、文化が最も低迷した時代とされていますが、宋の太祖の血をひく趙孟頫(1254〜1322)や鮮宇枢(1256?~1302?)などの文人が輝かしい足跡を残しました。

 趙孟頫は、吳興(浙江省湖州)の人で、宋朝の初代皇帝太祖趙匡胤(在位960〜976)十二世の孫、太祖の第三子秦王趙德芳の後代です。
 宋朝滅亡後、民間に隠れていましたが、先に元に降り、翰林集賢直学士兼秘書小監として世祖クビライ(在位1271〜1294)に使えていた程鉅夫(1249〜1318)の推薦によりやむを得ず元朝に出仕し、翰林学士、荣禄大夫に累官、死後に魏國公に封じられています。

 趙孟頫には、次のようなエピソードが残されています。

 至大三年(1310)九月、世祖クビライの詔を奉じた趙孟頫は吳興(浙江省湖州)から舟で大都(北京)へ向かいましたが、同行した友人の吳森(1250〜1313)は、家に代々伝わる『定武蘭亭序』を携えていました。
 九月五日、舟は江南の水郷南潯(浙江省湖州)に着きますが、そのとき天台僧独孤淳朋(1259〜1336)が見送りに来て、趙孟頫は宋拓の『定武蘭亭序』を譲り受けます。
 趙孟頫は、一月余りの船行中、それぞれの蘭亭序に跋をしたため、また蘭亭序の全文を臨書しました。独孤本には、全部で十三の跋文を記したので、後世これを『蘭亭帖十三跋』と称しています。 

 この帖には、蘭亭序の拓本の次に、宋の呉説、兵部郎中・朱敦儒(1081〜1159)、元の画家・錢選(1239〜1299)、書法家・鮮於樞(1256〜1301)らの跋文が記され、続いて九月五日より十月七日までに書かれた趙孟頫の十三跋があり、さらに柯九思(1290〜1343)の跋が付されています。

 
蘭亭序の佳本を得て記した十三跋は、その書法が精妙であるばかりか、趙孟頫の書に対する考えを知る上でも、きわめて貴重な書論となっていますが、清の乾隆年間(1736〜1795)に譚組綬の所蔵となり、その歿後、火災に遭い現状のように焼残しました。
 その後、蘭亭帖十三跋は日本にもたらされて王子製紙の社長を務めた高島菊次郎(1875〜1969)氏の所蔵するところとなり、昭和40年(1965)東京国立博物館に寄贈され、槐安居コレクションの一つとして所蔵されています。


 趙孟頫於至大三年、奉詔自吳興前往大都途中、獨孤淳朋趕來送別、並讓與宋拓定武蘭亭序、同舟的吳森亦攜有定武蘭亭序一本。天賜良機、偶然得以賞玩二本蘭亭序的趙孟頫、一月有餘之舟行中、為了作跋而逐日臨書蘭亭序全文。獨孤本記有十三跋、故後世稱此為蘭亭帖十三跋。

 此帖在蘭亭序拓本後、有宋吳說、朱敦儒,元錢選、鮮於樞等跋,繼之為自九月五日至十月七日趙孟頫所書十三跋、以及柯九思跋其得蘭亭序佳本而所書二跋、書法精妙外、在瞭解趙孟頫的書法觀方面、亦成為極其重要的書論。乾隆年間、該件歸譚組綬所藏、譚氏歿後、遇天災遭燒損、殘存如現狀。後流傳至日本、為高島菊次郎所藏、並捐贈於日本東京國立博物館藏。
 2006年春見於上海博物館《中日書法珍品展》

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2009年06月15日

書(16)-小野道風-玉泉帖

 
 玉泉南澗花奇怪  不是似花叢似火堆
 今日多情只我到  每年無故為誰開
 寧辭辛苦行三里  更與留連飲兩杯
 猶有一般孤負事  不將歌舞管絃來

 
 玉泉帖 by Wikipedia.

 (旧暦  5月23日)

 季吟忌 江戸前期の歌人、俳人、和学者の北村季吟の宝永2年(1705)の忌日。
 16歳で貞門派の重鎮安原貞室(1610~1673)、22歳で松永貞徳(1571~1654)に入門して俳諧を学び、慶安元年(1648)、俳書『山之井』4巻を刊行し注目をあびた。
 また貞徳没後は、歌人飛鳥井雅章(1611~1679)、清水谷実業(1648~1709)に和歌、歌学を習い、『大和物語抄』、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『徒然草文段抄』、『源氏物語湖月抄』、『枕草子春曙抄』などの注釈書を刊行し、元禄2年(1689)には歌学方として幕府に仕えた。

 俳諧においては、『新続犬筑波集』、『続連珠』、『季吟十会集』の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」などを刊行し、山岡元隣(1631~1672)、松尾芭蕉(1644~1694)、山口素堂(1642~1716)などの優れた門人を輩出している。

 松尾芭蕉が『奥の細道』などで、歌学の素養を見せるのは、この北村季吟に師事したことから理解できる。


 玉泉南澗花奇怪  不是似花叢似火堆
 今日多情只我到  每年無故為誰開
 寧辭辛苦行三里  更與留連飲兩杯
 猶有一般孤負事  不將歌舞管絃來


 玉泉の南澗、花奇怪なり   花叢に似ず、火堆に似たり
 今日多情、只(ただ)我到る    每年故無くして誰が為に開く
 寧(なん)ぞ辭せんや、辛苦して三里行くを  更に與(とも)に留連して兩杯を飲まん
 猶一般孤負の事有り  歌舞管絃を將(もち)て來らず。


 玉泉帖は、世に三跡と称えられた平安中期の能書家小野道風(894~967)筆の白楽天詩巻御物(天皇家に伝来した所蔵品、宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の名品として知られる著名なものです。
 
 はじめの句に、「玉泉南澗花奇怪」とあることから、玉泉帖と呼ばれています。
 紙本一巻、四紙より成り、白氏文集第六十四巻に収められている一百首の律詩のうちから、四首が書かれています。

 書体は楷行草を交えて思うままに毫端を走らせ、各体を巧みに駆使して龍飛鳳舞するさまは、野跡の本色を発揮したものとされています。
 また、詩意をそのまま筆に写し、第一首の奇怪の二字を楷書で表し、第二首の早夏の詩を行書のしずかな諧調で整え、第四首の晉公の詩は、旧友を憶う感慨を体して思うままに龍蛇を走らせたところなどに、非凡さが現れていると評されています。  続きを読む

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2008年12月22日

書(15)-光明皇后-樂毅論

  

 『楽毅論』 光明皇后臨書 正倉院蔵

 (旧暦 11月25日)

 奈良東大寺正倉院の宝物に、光明皇后(701~760)が東晋(317~ 420)の書聖王羲之(生没年不詳、 307?〜365?)の小楷の名蹟として知られる樂毅論を臨書した樂毅論一巻が残されています。

 本文は縦簾目のある白麻紙二帳半に、四十三行にわたって書かれていますが、奥の軸付に黃麻紙一帳を添えて、「天平十六年十月三日 藤三娘」と記されています。
 
 藤三娘とは藤原氏の第三女、すなわち光明皇后にあたり、皇后が自著したもので、天平十六年(744)は、皇后四十四歳の時にあたります。

 私「嘉穂のフーケモン」がこの光明皇后臨書の樂毅論を知ったのは、小学校6年生の社会科の教科書だったように記憶しています。

 何で昔の皇后さんが、「楽器論」などという音楽の事を書いたのか不思議でなりませんでした。また、小学生の私から見ても、決して上手とは思えないこの書が、何で教科書に載るほど有名なのか理解できませんでした。

 習字だったら、担任の先生の方がよっぽど上手なのに??

 しかし、書道史の研究においては質、量ともに日本の第一人者と称された故中田勇次郎先生(1905~1998)によれば、

 この書はきわめて敬虔な態度で臨書されたもので、筆力は勁健(けいけん:強くてしっかりしている)で、その原本の筆意をよく学んだ率直さには、まず感を打たれるものがある。
 一見稚拙に見えるが、巧妙さを超脱したうちに、おのずから高潔な精神をたたえている。
 久しく鑑賞しても倦くことのない美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格がしのばれる。
 まさに、正倉院の書蹟のなかの随一と称すべきである。


 と、絶賛されています。  続きを読む

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2008年10月11日

書(14)-杜牧-張好好詩巻

 

 張好好詩巻 杜牧 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  9月13日)

 杜牧(803~852)は、李商隠(812~858)とともに「晩唐の李杜」と称され、盛唐の杜甫(712~770)に対して「小杜」とも呼ばれて、晩唐第一の名声を欲しいままにした詩人です。

 その詩風は、「阿房宮賦」に代表される時事を諷した骨太でありながら頽廃的な情緒や滅びゆく美への感傷に独自のものを示し、艶麗で風流洒脱な詩を多く残したことにあります。

 秦の人は自ら哀しむに暇(いとま)あらずして、後の人、之を哀しむ。
 後の人之を哀しみて、之に鑑(かんがみ)ざれば、亦た後の人をして復た後の人を哀しましめん。
 「阿房宮賦」


 秦の人は哀しむ暇(いとま)もなく滅んでしまい、後の人は之を哀しむ。
 だが、後の人がただ哀しむだけで、これを手本として顧みなければ、後の人自身が、更にその後の人を哀しませることになるであろう。  「阿房宮賦」


 杜牧は自身の詩風について、「巻十六 詩を献ずる啓(上申書)」の中で、「某苦心して詩を為(つく)る。 本、高絶を求めて奇麗を務めず、習俗に渉らず、今ならず、古ならず、中間に處(お)る」と謙遜して述べています。

 さて杜牧は、行草書にも優れ、その書風は「気格が雄渾でその文章と表裏一体をなす」と云われていますが、伝存する作例は少なく、この「張好好詩巻」が唯一の遺品であると推測されています。

 「張好好詩巻」は、詩序併せて48行、322字の遺品です。
 太和8年(834)、杜牧32歳の作ですが、歌を唱うのに秀でた名妓張好好に、時を経て再会し、その時の感慨を詩に託して彼女に贈ったものです。

 巻の初めと終わりに、宋代から清代にわたって所有した多くの文人、皇帝の題簽(だいせん:署名)、題跋(あとがき)、印記(押印)が残されていますが、それによると、かつては北宋の宣和内府(北宋第8代皇帝徽宗の内庭)に所有され、その後南宋の軍人、政治家にして無類の美術収集家であった賈似道(1213~1275)の所有に帰し、明代屈指の書画収蔵家の項元汴(1525~1590)、張孝思の手を経て清朝内府に渡り、第6代乾隆帝弘歴(1711~1799)、第7代嘉慶帝顒琰(ぎょえん:1760~1820)を経て、ラストエンペラー宣統帝溥儀(1906~1967)の鑑賞を受けました。  続きを読む

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2006年01月04日

書(13)−王羲之(2)−蘭亭序(2)

 

 蘭亭八柱第三 馮承素模蘭亭序卷 神龍本(2)  唐代馮承素の臨摸

 (旧暦 12月 5日)

 2005年11月22日 書(12)−王羲之(1)−蘭亭序(1)のつづき

 『太平廣記』卷第二百八 書三
 貞觀二十三年、聖躬(せいきゅう)不豫(ふよ)し、玉華宮含風殿に幸す。崩に臨み、高宗に謂ひて曰く、「吾は汝(なんじ)從(よ)り一物を求むるを欲す、汝は誠孝なり、豈(あに)吾が心に違(たが)ふこと能(あた)ふ耶(や)」
 高宗、哽咽(こうえつ)流涕し、耳を引きて制命を聽受す。
 太宗曰く、「吾れの欲する所は蘭亭を得、我れと將(まさ)に去る可し」と。
 後に仙駕に随い玄宮に入りたる矣(かな)。今趙模等の榻(とう)する所ある者は、一本なお錢數萬に直(あたい)すと。(出《法書要録》)

 
 『太平廣記』卷第二百八「書三」には次のような記述があります。

 唐朝第2代皇帝太宗(598〜649)は、貞観19年(645)に高麗への遠征の帰路に発病した癰(悪性のできもの)が完治せず、貞観23年(649)、病を発して都長安から北方約150kmほどの玉華山中の離宮(陝西省銅川市北方約45km)玉華宮の含風殿に居を移し、瀕死の床に伏していました。
 太宗は皇太子(第3代皇帝高宗)を枕元に呼び、次のように云いました。
「私はお前から一つの物が欲しい。お前はまごころから親孝行であるし、私の思いに違うことは無いと思うがどうか?」
 皇太子はむせび泣いて涙を流し、耳を寄せて父の言葉を聞きました。
 太宗は、「私が欲しい物は『蘭亭叙』である。私と共に葬って欲しい」と云ったのです。
遂に書聖「王羲之」の稀代の名書『蘭亭叙』は、太宗の陵墓「昭陵」に仙駕(棺)と共に埋葬され、この世から姿を消してしまいました。
 もし今、趙模(書き写しの名人)などの模写を石に刻んでそれを紙に写した榻本(拓本)を所持していれば、一紙数万錢に値していたと。
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2005年11月22日

書(12)−王羲之(1)−蘭亭序(1)

 

 
 蘭亭八柱第三 馮承素模蘭亭序卷 神龍本(1)  唐代馮承素の臨摸 

 (旧暦 10月21日 小雪)

 近松忌、巣林忌  時代物の「國姓爺合戰」、世話物の「曾根崎心中」などの浄瑠璃・歌舞伎狂言などの作品で人気を博した近松門左衞門の享保9年(1724)の忌日

 書聖と呼ばれ、古今無双の書の神様として現在も中国、日本などの漢字文化圏で尊ばれている「王羲之」(307?〜365?)は、4世紀前半の中国東晋時代の書家・文人で、字は逸少、琅邪臨沂(ろうやりんぎ) (山東省臨沂市)の王氏の出身で、はじめ秘書郎として官途につき、その後寧遠将軍・江州刺史をへて、永和7年(351)に右軍将軍・会稽内史となりましたが、4年で官を辞しました。「右軍将軍」と言う官名から、王右軍とも呼ばれました。
 
 早くから隠遁の志を抱き、官を辞したのちも都の建康には帰らず、会稽郡(江蘇省南部から浙江省北部)に永住して59歳で亡くなったといわれています。

 会稽郡に赴任してから2年後の東晋永和9年(353)春3月3日上巳の節句、王羲之は親交のある文人で当時の名士である謝安(320〜385)や孫綽(314〜371)および子供の王徽之(?〜388)や王献之(344〜386)など総勢42名と共に、郊外の景勝の地蘭亭で流觴曲水の宴を催しました。  続きを読む

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2005年09月28日

書(11)−孫過庭−書譜

 

 書譜 孫過庭 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より  

 (旧暦  8月25日)
 
 古来、名書家と呼ばれる人にはそれぞれ「書論」を書き残した人が多く、中国東晋(317〜420)の書聖王羲之(307?〜365?)も以下のように書き残しています。

 「夫れ書は玄妙の技なり。若し通人志士に非ざれば学ぶも之に及ぶなし。書は須(すべか)らく思いを存すべし」
 
 書とは玄妙の技であり、その人の高潔な志を現し、字の形ではなく、その人の心を映すと

 また、「書を学ぶには、胸中に道義あるを要すべし。またこれを広むるに、聖哲の学をもってす」という言葉を残しています。
 書は単なる技術ではなく、人格を磨くことが必要であると言うことだと思います。

 さらに、「凡(およ)そ書は沈静を貴ぶ。意は筆前に在らしめ、字は心後に居らしめよ。未だ作らざるの初め、結思は成るなり」
 
 上手に書こうなどとは思わぬことだ。書の表現は、字の形を取る前に、既に定まっているのだから。

 数多残されている書論の中で、自筆の書が残されており、書を学ぶ人のお手本とされている書論の中に、唐代の書家孫過庭の「書譜」(台北故宮博物院蔵)があります。  
http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpoem/shupu.html)  続きを読む

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2005年08月11日

書(10)−黄庭堅(1)−松風閣詩巻

 

 松風閣詩巻 黃庭堅 [北宋] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  7月 7日)

 北宋第8代皇帝徽宗(在位1100〜1125)の大赦により崇寧元年(1102)、二度目の失脚から復活した黄庭堅(1045〜1103)は太平州(安徽省当塗県)の知事に任ぜられましたが、王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ「新法党」の迫害により赴任わずか9日目にして免官となり、名ばかりの閑職に追いやられました。

 彼は知事の職を辞して失意のうちに顎州(湖北省武漢市)に向かいましたが、その途中、顎州の南南東約50?、長江の南岸にある顎城縣(顎州市)郊外はん山(西山)に遊んだとき、その地の風光に魅せられ、その山中の松林の間にある一楼閣に「松風」と命名し、この「松風閣」で友人たちと徹夜で酒を酌み交わして詩を作りました。

 山に依つて閣を築き平川(長江)を見る  
 夜闌(たけなわ)にして箕斗(きと:いて座と南斗六星)屋椽(おくてん)に挿(かざ)す
 我來(きたり)て之に名づけ意適然たり
 老松魁梧數百年
 斧斤赦(ゆる)す所今天に參す
 風は鳴る媧皇(媧皇:伝説上の帝王)五十絃(瑟:古代は五十絃あったという)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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2005年07月02日

書(9)−米芾(べいふつ)−蜀素帖

 

 集英春殿鳴梢歌

 蜀素帖 米芾 [北宋] 絹本墨跡 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  5月26日)

 蜀素は、10世紀の始めに前蜀(907〜925年:四川省成都)の王・王建(847〜918)が織らせた厚手の絹布で、墨を受付けない「拒墨の絹」と云われています。
 何人もの書家が挑戦しましたが、墨がはじかれとうとう書くことができませんでした。

 しかし、米芾(べいふつ)(1051〜1107)は、そのような蜀素に楽々と字を書いたと云われていますが、現存するのはこの「蜀素帖」のみだそうです。
 http://homepage2.nifty.com/tagi/koten021.htm

 中国北宋の時代(960〜1127)は書道芸術が花開き、宋四家と呼ばれる黄庭堅(山谷)(1045〜1105)、米芾(元章)、蘇軾(東坡)(1036〜1101)、蔡襄(君謨)(1012〜1067)ら中国美術史上錚々たる地位を占める人たちを輩出しました。  続きを読む

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2005年05月09日

書(8)−懐素(2)−自叙帖(2)

 

 戴公
 又云 馳豪驟
 墨列奔駟 滿座
 失聲看不及
 目愚劣
 則有從父司
 勳員外郎呉興

 錢起詩云
 遠錫無前侶
 孤雲寄太虚
 狂來輕世
 界 醉裏得真如
 皆辭旨
 激切 理識

 自叙帖 懷素 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  4月 2日) 

 泡鳴忌  詩人、小説家、劇作家、評論家の岩野泡鳴の大正9年(1920)の忌日。

 懐素(1)−自叙帖(1)のつづき

 唐の大暦12年(777)、懷素は洛陽において刑部尚書(法務省長官)になったばかりの書聖顔眞卿(709〜785)に逢い、尚書司勳朗の盧象、小宗伯の張謂が彼の草書を詠じた詩を示して、序を請いました。
  顔眞卿は彼の草書に嘆服し、「懷素上人草書歌序」を書いたと伝えられています。

 さてこの「自叙帖」は、大暦12年(777)10月、懷素が自分の学書の経歴を述べた文章をかいた草書巻ですが、すべてで136行あり、毎行の字数は一定せず、字形は様々に変化して、巻末に近い部分は字も大きく、筆勢も早く鋭くなっています。  続きを読む

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2005年05月08日

書(7)−懐素(1)−自叙帖(1)

 
 
 懷素家長沙 幼
 而事佛 經禪之
 暇 頗好筆翰
 然恨未能遠覩
 前人之奇跡 所
 見甚淺 遂擔

 笈杖錫 西遊上
 國 謁見當代名公
 錯綜其事 遺
 編絶簡 往往遇之 
 豁然心胸 略


 自叙帖 懷素 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より


 (旧暦  4月 1日)

 懐素(かいそ)(629〜697)は、西遊記で有名な三蔵法師(玄奘三蔵602〜664)に師事したと云われており、仏教学者で東大名誉教授であった故鎌田茂雄氏の『中国仏教史』によれば、師・法礪(569〜635)の説を批判して『東塔(律)宗』を開いたとされている大変偉い人のようですが、こちらの狂僧と呼ばれた懐素(725?〜786?)は、酒や肉が大好きな、あきれた生臭坊主だったようです。 

 『茶経』3巻を著して飲茶の風習を世に広め、茶神としてまつられた陸羽(733〜803)の『唐僧懷素傅』によれば、1日に9回、酔いつぶれるほどに酒を飲み、そのために胃を壊し、通風になったにもかかわらず、それでも杯を手放さなかったと云う、とんでも無いおっさんで、現代サラリーマンの鑑(かがみ)のようなお方です。  続きを読む

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2005年03月18日

書(6)−蘇軾(2)−『黄州寒食帖』

 

 東坡此詩似李太白 
 猶恐太白有未到處
 此書兼顏魯公楊少師李西臺
 筆意
 試使東坡 
 復為之 未必及此 它日
 東坡或見此書 應 
 笑我於無佛處 稱尊也 

 
 黃州寒食帖 黃庭堅跋文 [北宋] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  2月 9日)

 小町忌  平安時代の歌人小野小町の忌日。生没年は不詳。

 蘇軾(1)−『黄州寒食帖』のつづき

 蘇東坡の書は宋代の「尚意」の書風を代表しているとされています。

 書法の芸術思想や精神、風格などはそれぞれの時代によって異なっていますが、これらの違いを 「商周尚象、秦漢尚勢、晋人尚韻、唐人重法、宋人尚意、元明取姿媚、清人論質」のように形容して言われています。

 商周時代の書法(文字)は象(形)を重視し、秦漢時代の書法は勢(筆勢、形勢)を重視し、晋時代の書法は韻(心にいつまでも残る含蓄、意趣、味わい)を重視し、唐時代の書法家は法(規律、規則)を重視し、宋時代の書法家は意(情感、意趣)を重視し、元明時代の書法は姿媚(形態が美麗で感動的なこと)を追求し、清時代の書法は質(本質)を論議し探究しているとの意味です。  続きを読む

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2005年03月17日

書(5)−蘇軾(1)−『黄州寒食帖』

 

 自我來黃州 已過三寒食
 年年欲惜春 春去不容惜
 今年又苦雨 兩月秋蕭瑟
 臥聞海棠花 泥污燕支雪
 闇中偷負去 夜半真有力
 何殊病少年(子點去) 病起鬚已白
 
 春江欲入戶 雨勢來不已
 (雨點去)小屋如漁舟 濛濛水雲裏
 空庖煮寒菜 破燒濕葦
 那知是寒食 但見烏銜紙
 君門深九重 墳墓在萬里
 也擬哭塗窮 死灰吹不起
 
 右黃州寒食詩帖二首 


 黃州寒食帖 蘇軾 [北宋] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より

 (旧暦  2月 8日) 月斗忌  俳人・青木月斗の昭和24年(1949)の忌日。


 王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ「新法党」の策謀から守るため、北宋第6代の皇帝神宗(在位1067〜1085)の計らいで、黄州団練副使(名目だけの地方官職)という閑職を与えられた蘇軾(1036〜1101)が、黄州(湖北省武昌東南60kmの揚子江左岸)に左遷されたのは、元豊3年(1080)2月のことでした。

 この黄州で残された「天下第一の書」と言われるのがこの『寒食帖』であり、同じく書の傑作とされる『前赤壁賦』と共に、元豊5年(1082)、蘇軾47歳の時に書かれました。
 
 「寒食」とは、冬至の翌日から105日目の4月初旬、先祖の墓参りをする漢民族の伝統行事である清明節の頃に、火を使うことを避けて冷たい食事をとる習俗で、宋代においては、清明節の3日前と定められていました。  続きを読む

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2005年02月23日

書(4)-顔真卿(3)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 

 大蹙賊臣擁眾不救賊臣不救 
 孤城圍逼父陷子死巢 
 傾卵覆 天不悔禍誰為 
 荼毒念爾遘殘百身何贖 
 嗚乎哀哉吾承 
 天澤移牧河東近河關爾之爾明 
 比者再陷常山攜爾 
 首櫬亦自常山及茲同還撫念摧切 
 震悼心顏方俟□ □遠日卜爾 
 幽宅魂而有知無嗟 
 久客嗚呼哀哉尚饗 
 

 祭姪文稿 顔真卿 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より 

  (旧暦  1月15日)

 顔真卿(2)-『祭姪文稿』のつづき

 顔真卿は、至徳元載(756)平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった7代皇帝粛宗(?〜762)(在位756〜762)の行在所にはせ参じて憲部尚書に任じられ、御史大夫をも加えられました。

 また、8代皇帝代宗(726〜779)(在位762〜779)のときには尚書右丞となって、魯郡公に封ぜられました。

 さらには、太子太師(皇太子の師範役)に任じられましたが、直言をはばからない剛直な性格が災いして、宦官勢力や宰相の元載のような実権者から妬まれました。

 そのため建中3載(783)、河南淮西節度使の李希烈(?〜786)が反乱を起こした際、宰相元載の陰謀により、顔真卿に対して9代皇帝徳宗(742〜805)(在位779〜805)の勅命が下り、李希烈慰諭(帰順の説得)の特使に任じられました。  続きを読む

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2005年02月22日

書(3)-顔真卿(2)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 

 維乾元元年歲次戊戌九月庚 
 午朔三日壬申從父第十三叔銀青光祿 
 夫使持節蒲州諸軍事蒲州 
 刺史上輕車都尉丹陽縣開國 
 侯真卿以清酌庶羞祭于 
 亡姪贈贊善大夫季明之靈曰 
 惟爾挺生夙標幼德宗廟瑚璉 
 階庭蘭玉方憑積善每慰 
 人心方期戩穀何圖逆賊開 
 釁稱兵犯順 爾父□制被脅竭誠常 
 山作郡余時受 命亦在平 
 原 仁兄愛我俾爾傳言爾既
 歸止爰開土門土門既開凶威

 
 祭姪文稿 顔真卿 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より     
 
 (旧暦  1月14日)  

 風生忌 俳人富安風生の昭和54年(1979)の忌日

 顔真卿(1)-『祭姪文稿』のつづき

 『祭姪文稿』は、『祭伯父文稿』、『争坐位帖』と並んで三稿の一とされていますが、真蹟本がのこっているのはこれだけです。顔真卿の書の最高傑作と言われています。

 草書体を交えた行書で、肉太の堂々とした線、筆管を垂直に立て紙面に透過させるような筆圧の変化等顔法の特徴がよく出ていると評されています。
 また甥(姪)の死を悼み事の成り行きを悲憤慷慨する文章や、文章を訂正、推敲する様子なども、文字と一体となって雰囲気を盛り上げています。

 全文268字のうち、塗り潰された文字が34文字もあるのは、顔真卿の心の乱れか、安禄山に対する義憤の情か、「何ぞ図らん逆賊の間をつき兵を稱げ順を犯さんとは、爾(なんじ)の父は誠をつくし常山郡の太守となり、余もまた命を受けて平原郡の太守たり」などの文字が激しい筆致で書かれています。

 また、文中には「賊臣不救、孤城圍逼、父陥子死、巣傾卵覆」(賊臣救わず、孤城は包囲され、父は陥落し、子は死に、巣は傾き、卵は覆った)とも書かれています。
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