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2013年01月27日

書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

(旧暦12月16日)

 實朝忌
 鎌倉幕府第三代将軍、歌人の源實朝の健保七年(1219)一月二十七日の忌日。前年に右大臣に就任し、鶴岡八幡宮でその拝賀の礼を行った帰途、甥の公暁により暗殺された。

 書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 源実朝像『國文学名家肖像集』より

 建保七年四月十二日改元 承久元年 己卯

 一月二十七日 戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
 今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
 (中略)
 路次の随兵一千騎なり。
 宮寺の楼門に入らしめ御うの時、右京兆俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御うの処、当宮の別当阿闍梨公暁石階の際に窺い来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。
 (後略)
 『吾妻鏡』建保七年一月二十七日

 [北條九代記] 

 戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。


 雨情忌
 北原白秋、西條八十とともに童謡界の三大詩人と謳われた野口雨情の昭和20年(1945)の忌日。
 代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。

 書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)


 書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)のつづき

 ところで、余談ですが、この九成宮醴泉銘を書いた欧陽詢の父に関する逸話が「補江總白猿傳」として、太平廣記巻四四四に収められています。

 中国南北朝時代(439〜589)、江南に興った梁(502〜557)の武帝(在位502〜549)の大同年間(535〜546)、別働隊の将軍であった欧陽詢の父、欧陽紇(538〜570)は、南方の各地を攻略して長楽(福建省閩候縣)に赴き、多くの蛮佬(広西・貴州両省あたりに住む少数民族)の地を平定して、険阻な奥地に分け入りました。

 しかし、彼の帯同した美人の妻は、白猿のために掠奪されてしまいました。
紇は軍隊を留めて、一月半ほども険しい山にわけ入って探し求め、ついには妻を救い出しますが、すでに妻は子を孕んでいました。

 急所である臍の下を刺された白猿は、大いに嘆いて紇に云います。

 此れ天の我を殺すなり、豈(あに)爾(なんじ)の能ならんや。然れども爾の嬬(つま)は已に孕めり。その子を殺すこと勿れ。将(まさ)に聖帝に逢ひ、必ず其の宗を大(さか)んにせんとす、と。言絶えて乃ち死せり。

 (中略)

 紇の妻は周歳にして一子を生む。厥(そ)の狀(かたち)は肖(に)たり。
後に紇は陳の武帝の誅する所と爲る。素(もと)より江總と善し。其の子の聰悟人に絶するを愛し、常に留めて之を養ふ。故に難より免る。長ずるに及び、果して學を文(かざ)り書を善くし、名を時に知らる。
 『補江總白猿傳』


 この逸話は、欧陽詢の才能が優れているのをやっかみ、容貌が醜かったのをからかって、小説をかりて歐陽詢を嘲笑したものとの説もありますが、逆に、欧陽詢の偉大さを賞賛し宣伝するにあったとの解釈もあるようです。

 さて、本題に戻って、九成宮醴泉銘の本文を辿っていきませう。

 然昔之池沼、咸引谷澗。宮城之內、本乏水源、求而無之、在乎一物、既非人力所致、聖心懷之不忘。粤以四月甲申朔、旬有六日已亥、上及中宮歷覽台觀。閑步西城之陰、躊躇高閣之下。俯察厥土、微覺有潤、因而以杖導之、有泉隨而涌出。乃承以石檻、引爲一渠。其清若鏡、味甘如醴。南注丹霄之右、東流度于雙闕、貫穿青瑣、縈帶紫房。激揚清波、滌蕩瑕穢。可以導養正性、可以澄瑩心神。鑒映群形、潤生萬物、同湛恩之不竭將玄澤之常流。匪唯乾象之精、蓋亦坤靈之寶。

 書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 ところが、昔の池や沼はみな谷川から水を引いてきていた。この九成宮の城内にはもともと水源が乏しく、探し求めても得られないのがこの水のことであった。それは人の力ではどうしようもないことであったが、皇帝はいつもこのことをおもんぱかり、忘れることができなかった。
 さて四月甲申の一日から十六日の己亥の日まで、皇帝は中宮とともに、城内の多くの見晴らし台に立ち寄られた。西城の日陰を静かに歩かれ、高閣の下に立ち止まられた。うつむいてその土を観られたところ、かすかに湿り気があるのを感じられた。そこで杖でつついてみたところ、泉が杖に従って湧き出してきたのである。 
 そこで石で井桁を組んで水を溜め、それを引いて溝を作った。その清らかさは鏡のようで、味の良さは甘酒のようであった。水は南側の丹霄殿の右側から、東に流れて双闕を越え、青瑣を貫ぬき、紫房をめぐり、清らかな波をはげしく立てて流れ、傷やけがれを洗い清めた。その水は正しい品性を養うことができ、心神を清め磨くことのできるものであり、万物を潤しはぐくみ、天地の恵みが尽きることがないように、皇帝からの徳が絶えないのと同じことである。これはただ天の気の精であるばかりでなく、地の気の宝と言えよう。
 謹案禮緯云王者刑殺當罪、賞錫當功、得禮之宜、則醴泉出于闕庭。鶡冠子曰、聖人之德、上及太清、下及太寧、中及萬靈、則醴泉出。瑞應圖曰、王者純和、飲食不貢獻、則醴泉出、飮之令人壽。東觀漢記曰、光武中元元年、醴泉出京師、飲之者、痼疾皆愈。然則神物之來、寔扶明聖、既可蠲茲沉痼、又將延彼遐齡。是以百闢卿士相趨動色。我后固懷撝挹、推而弗有。雖休勿休、不徒聞于往昔、以祥爲懼、實取驗于當今。斯乃上帝玄符、天子令德、豈臣之未學所能丕顯。但職在記言、屬茲書事。不可使國之盛美、有遺典策。敢陳實錄、爰勒斯銘。

 書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 よくよく考えてみると、『禮緯』という書物には、「王の刑罰がその罪に相当し、恩賞が功にふさわしく、それらが礼法にかなったものであれば、醴泉が宮中の庭に湧き出る」と書かれている。
 また、『鶡冠子』という書物には、「聖人の徳が上には天上に達し、下には地上に及び、中には万物に及べば、醴泉が出る」と書かれている。
 さらに、『瑞應圖』という書物には、「王たる者が、心にけがれがなく温和であり、飲食物を献上させたりしなければ醴泉が湧き出で、それを飲めばその人は長寿を保つ」と書かれている。 
 『東觀漢記』という書物には、「光武帝の中元元年(55AD)に醴泉が都に湧き出た。これを飲んだ者は、長患いがみな治癒した」と書かれている。 
 とすれば、今このような良い兆しが現れたのは、まことに明君太宗皇帝を助けるためのものであり、やがて永年の病気をも除くことができる上、さらにその長寿を延ばすことになるであろう。
 
 このようにして多くの公卿たちが駆けつけて驚いたものの、我が皇帝はまことに謙虚な心をもっておられ、自分の功績によるものとはされなかった。「たとえ美徳があっても、自らの美徳だと自負してはならぬ」ということは、ただ昔から聞くばかりではなく、「良い兆しをかえっておそれとする」ということを、実際に今この時に目のあたりした。これはとりもなおさず、天の下した素晴らしい兆候であり、皇帝の美徳の至るところであって、どうして私のような浅学の者が、世に褒めあらわすことができようか。しかし、私の職務は皇帝の起居を記録することであり、その職に属して事実を書く仕事である。そのため、国家のこの素晴らしい記録を書き漏らしてはならないのであり、あえてありのままを陳べ、ここにこの銘を記録致する。


 其詞曰、
 惟皇撫運 奄壹寰宇。千載膺期 萬物斯覩 功高大舜 勤深伯禹 絕後承前 登三邁五。握機蹈矩 乃聖乃神 武克禍亂 文懷遠人。書契未紀 開闢不臣。冠冕並襲 琛贄咸陳。大道無名 上德不德 玄功潛運 幾深莫測。鑿井而飲 耕田而食 靡謝天功 安知帝力。上天之載 無臭無聲。萬類資始 品物流形。隨感變質 應德效靈。介焉如響 赫赫明明。雜沓景福 葳蕤繁祉。雲氏龍官 龜圖鳳紀。日含五色 烏呈三趾。頌不輟工 筆無停史。上善降祥 上智斯悅。流謙潤下 潺湲皎潔。萍旨醴甘 冰凝鏡澈。用之日新 挹之無竭。道隨時泰 慶與泉流。我後夕惕 雖休弗休。居崇茅宇。樂不般游。黃屋非貴 天下為憂。人玩其華 我取其實。還淳反本 代文以質。居高思墜 持滿戒溢。念茲在茲
永保貞吉。
 兼太子率更令、渤海男臣歐陽詢奉敕書。


 書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)

 その詞によると、
 皇帝は天運にしたがい、天下を統一し、千載一遇の時にあたって、万物はここに姿をあらわした。その功績は偉大な舜(尭の後を継いだ伝説上の聖天子)よりも高く、懸命に勤め励まれたことは禹(夏王朝の開祖とされ、黄河の治水に勤めた伝説上の聖王)以上である。まさに空前絶後であり、かの三皇(中国古代神話伝説上の三人の帝王)に達し、五帝(中国古代の五人の聖君)にもまさるものである。
 
 好機をつかみ人の道を守られたことは、これこそ聖でありそれこそ神である。 武力によって天下の禍いを治め、文徳によって遠国の人々とも慣れ親しんだ。書物にもまだ記されず、開闢以来、臣服しなかったものたちまでが、衣冠を着けて続々と来朝し、珍しい貢物を並べつらねた。
 
 真理なる道は言いようもなく深く、最上の徳は徳があっても徳とはしない。 奥ふかい業績はひそかにゆきわたり、そのかすかで深遠なことは測り知れない。古歌に、「井戸を掘って水を飲み、田を耕して食らう」とあり、これは天子の恵みに感謝することがないことであり、どうして皇帝の御力であるということを人民が知り得ようか。 

 天上のことには匂いも音もないが、万物はその助けを受けて始動し、それぞれの形で広がった。聖人が世に出たことに感じてその性質を変え、徳に応えて霊験があらわれた。それは音に応ずる響きのように微少であり、盛んで明らかなものである。

 優れた治世には、天は次々と幸いをもたらし、大きな福が盛んに集まり、雲氏、竜官、亀図、鳳紀(伝説上の帝王黄帝の時代の瑞兆によって付けられた官名)をはじめ、日が五色の光を含み、三本足の烏があらわれるなど、楽人はその頌歌をやめることなく、官吏はその記録の筆を休めることがない。

 最上の善には天は良い兆候を与え、最高の智者たる聖王はそれを悦ぶ。醴泉の水は低きに流れて地を潤し、さらさらと流れて穢れがない。ほとりに生える萍蓬草(学名:pumilum、和名:コウホネ)は美味で、泉水は甘酒のように甘く、また氷や鏡のように透明で澄みきっている。いくら使っても日に日に新たに湧き出て、汲めども汲めども尽きることがない。

 聖人の道が時にしたがって行われ、天下が安泰であれば、その天の恵みが醴泉とともに広く流れ及ぶ。我が皇帝は常に慎まれて、心を休めることがない。粗末なすまいを尊び、楽しみにも度を越されることはなく、天子の乗りものの車蓋などを貴ぶことなく、常に天下のことを気にかけられていた。

 人は精華をよろこぶが、我が皇帝は実質を旨とされる。純朴にかえり根本にかえり、華やかなものを素朴なものに代えられた。高位に居ては墜ちはしないかと懸念し、十分に準備をして機会を待つ時でも、万全かどうかと戒められる。 このことを常に思い、このことを行い、いつまでも正しい道理を保っておれば吉を得るであろう。 
 太子率更令を兼務した渤海県の男爵である家臣の歐陽詢が天子の命により書き記す。


 おしまい

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:48│Comments(0)
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