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2006年05月23日

秋津嶋の旅(9)−蝦夷が嶋(2)−キャラメル

 

 ご当地キャラメル

 (旧暦  4月26日)

 丈山忌 漢詩人、書家石川丈山の寛文12年(1672)の忌日。江戸初期における漢詩の代表的人物で、儒学、書道、茶道、庭園設計にも精通していた。
 三河国泉郷(愛知県安城市和泉町)の徳川家に仕える譜代武士の家に生まれ、慶長3年(1598)15歳で徳川家康の近侍となり、大阪夏の陣(慶長20年、1615)では一番乗りで敵将佐々十左衛門を討ち取り功名を得たが、先陣争いを禁ずる軍律に触れ、家康の命令により京都妙心寺で蟄居した。

 浪華合戦の時、御麾下に従ひ奉り、天王寺口にありけるが、人並々の軍せんも見所あらじと、将帥の命をまたず、夜をこめて只一騎営中を忍びいでゝ敵城に攻かゝり、桜の門といふ所にて佐々十左衛門と渡り合て、佐々が首をとる。
 其郎等其場をさらず切かゝりしをも、又鎗の下に伏て、大手を走り過、打取し首を実検に備へしに、其武勇は深く感じ思召けれども、軍令に背きたる罪其まゝに見許しがたく、殊にかねて寵臣のことなれば、依怙の御沙汰も穏ならずと訳、惜ませ給ひながら勘当し給ふ。
 さてぞ武門を離れて日枝の山のふもと一乗寺むらによを避、詩仙堂を創し、自ら六々山人と号し、山水花月に情を慰む。
 [続近世畸人伝巻之一 石川丈山]



 や〜、久しぶりだね!
 先輩が定年で農学校やめるんで、その祝賀会に出るために札幌に行ってきたのさ!ついでに、子どもが農学校の寮にいるんで、久しぶりに会ってきたんだわ!

 帰る日に、散歩していて道庁横にあった雪印の喫茶店に入ってみたっけ、おみやげ売り場に近ごろ帝都東京でも有名になったキャラメルが沢山(33種類?)あったのさ。

 しばらく前、日テレ(日本テレビ)で土曜日の昼12:00〜13:30に放送している「メレンゲの気持ち」にゲストで出た松山千春が、北海道のおみやげとして紹介したキャラメルの内、最もまずいキャラメルと云っていた「ジンギスカンキャラメル」もあったんで、おもしろくなって数種類買ってきたんだべさ。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:26Comments(2)秋津嶋の旅

2006年05月12日

パイポの煙(25)−地震・雷・火事・親父

 

 A town near the coast of Sumatra lies in ruin on 2 January 2005. This picture was taken by a United States military helicopter crew from the USS Abraham Lincoln that was conducting humanitarian operations.
 
 (旧暦  4月15日)

 むかしから、この世の中で恐いものの代名詞として、「地震・雷・火事・親父」という言葉がありますが、最後の親父の語源は、「おおやまじ(大山嵐)」がおやじ(親父)に変化していったんだそうです。
 この「やまじ」とは南風のことで、春先などに発達した低気圧が日本海を通過していく際に南から吹き込む猛烈な風をさす漁師言葉で、東海、四国、中国地方でよく使われる言葉だとか。
 従って、地震も雷も火事も山嵐(やまじ)も天災なので、本当に恐ろしいものの代名詞としては納得いく内容です。

 現在、日本に伝存する最古の正史である『日本書紀(やまとぶみ)』は、舎人親王(676〜735)らの撰により養老4年(720)に完成していますが、第19代允恭天皇(生年不詳〜453、在位412〜453)5年7月14日の項に日本最古の地震記録が記載されています。

 五年秋七月丙子朔己丑 地震 
 (日本書紀 卷十三 允恭紀/安康紀)


 「丙子朔己丑」は、丙子(へいし)を朔(月立ち、一日)としたときの己丑(きちゅう)の日は14日にあたります。
 具体的には、丙子(1)、丁丑(2)、戊寅(3)、己卯(4)、庚辰(5)、辛巳(6)、壬午(7)、癸未(8)、甲申(9)、乙酉(10)、丙戌(11)、丁亥(12)、戊子(13)、己丑(14)となります。

 つまり、允恭天皇5年7月14日(ユリウス暦416年8月23日)に地震があったことを示し、地震は「なゐふる」と読み、「なゐ」とは土地または地面のことで、「ふる」とは「揺れる」との意味です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:46Comments(0)パイポの煙

2006年05月09日

板橋村あれこれ(18)−千川上水(3)

 

 国税庁醸造試験場跡 (北村滝野川2-6-30)
 明治37年(1904)、この地に大蔵省醸造試験所が創立され、平成7年(1995)に広島に移転した。

 (旧暦  4月12日)

 泡鳴忌  明治、大正期の詩人、小説家岩野泡鳴の大正9年(1920)の忌日。田山花袋、島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍した。
 苦痛があればあるだけ
 その苦痛にモッと深入りしたいと
 もがくのが生命だ                『憑き物』


 板橋村あれこれ(17)−千川上水(2)のつづき

 千川上水跡の記述がある『新編武蔵風土記稿』は、大学頭(幕府の最高教育官)述斎林衡(まもる)の建議により、徳川幕府官撰地誌として昌平坂学問所が編纂に携わり、文化7年(1810)に久良岐郡(現横浜市の一部)に稿を起こし、文政11年(1828)新座郡(にいくらぐん)を以て完成し、天保元年(1830)に幕府に献上されています。全266巻(うち付録1巻)。

 元治元年(1864)、幕府は沿岸防備のため、精度が高く飛距離の長い洋式野砲の砲身を鋳造する反射炉(耐火煉瓦を用いた溶解炉)を滝野川(元大蔵省醸造試験場)に設置し、その砲口を穿孔するための動力として水車を利用する計画を立てました。

 ここに千川上水は天明6年(1786)以来78年ぶりに拡張工事が行われ、慶応元年(1865)9月中旬からから約2ヶ月半を要して大砲製造所建設予定地(北区滝野川 2-6)まで開削されました。

 結局、この大砲製造所の建設は幕末の混乱で中断されたようですが、この建設計画による周辺整備が明治以降この地に近代産業を導入する大きな役割を果したとされています。

 明治5年(1872)、滝野川反射炉跡地に建設された繰綿問屋鹿島万平による民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)が操業を開始し、千川上水を撚糸器の水車に利用しました。
 また、実業家渋沢栄一(1840〜1931)が明治6年(1873)に設立した王子の抄紙会社(後の王子製紙)や板橋の火薬製造所(明治6年、旧加賀藩下屋敷内)などの水車の動力として利用され始めました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:55Comments(0)板橋村あれこれ

2006年05月08日

板橋村あれこれ(17)−千川上水(2)

 

 千川上水分配堰跡(北村滝野川 6-9-1)

 (旧暦  4月11日)

 板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)のつづき

  「江戸六上水」の一つである千川上水は、白山御殿(5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前の上州館林藩主時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野東叡山寛永寺(徳川家の菩提寺)、浅草御殿(金龍山浅草寺、徳川家の祈願寺)の4ヶ所の御成御殿へ上水を供給する目的で開設されました。

 新座郡上保谷新田地内(西東京市新町)において玉川上水の水を分流し、豊嶋郡関村、多摩郡井草村、豊嶋郡中村、中新井村、長崎村、下板橋宿、滝野川村を経て巣鴨村堀溜(豊島区西巣鴨2丁目39番7号「千川上水公園」内「六義園給水用千川上水沈殿池」)までの「五里二拾四町三十間」(約22.3?)を開鑿して設けた水路(開渠)です。
 
 当時、土木工事で名を馳せていた河村瑞賢(1617〜1699)の設計により、江戸の商人徳兵衛、太兵衛の両人が工事を請け負い、元禄9年(1696)に完成しました。
 徳兵衛、太兵衛の両人は、玉川上水と同様に予算以上の多額の工費を費やし、482両の私財を投じてようやく完成したと伝えられています。
 両人はその功によって名字帯刀を許され、千川の姓を賜り、小石川白山前に邸宅を下され、千川上水役を仰せけられて子孫は永くこの役を務めました。

 千川上水は掘留(分配堰)以降は木樋で通水されて前記4ヶ所の御成御殿へ上水を供給し、更に余水を神田上水以北の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの大名、小名、旗本、武家、寺家、町家にいたるまでの飲料水として掛渡しました。その範囲は、江戸府中の3分の1にあたる地域を潤しました。また、他の一流は王子飛鳥山に向かい、音無橋付近で音無川(石神井川)に落ちていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:49Comments(0)板橋村あれこれ

2006年05月07日

板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)

 

 飛鳥山台上より新幹線架線越しに、25m下の東京低地(旧荒川氾濫原)を望む

 (旧暦  4月10日)
 
 健吉忌 評論家山本健吉の昭和63年(1988)の忌日。明治期の評論家、小説家、俳人、弁護士、県会議員(長崎県)の石橋忍月(貞吉、1865〜1926)の三男として生まれ、慶應義塾大学国文科卒。在学中に折口信夫に師事して民俗学の方法を学び、卒業後は改造社に入社。「俳句研究」の発刊、編集に携わり、中村草田男らを世に送り出し、昭和24年からは評論家として、文芸評論のほか、俳句の評論や鑑賞を執筆した。 代表作は『芭蕉−その鑑賞と批評』、『古典と現代文学』、『柿本人麻呂』、『最新俳句歳時記』他。



 帝都東京といっても家康の江戸入府以前は、今の隅田川以東の墨田、江東は干潟と葦原が続く湿地帯および古利根川、古隅田川の氾濫原でした。
 
 また、渋谷、新宿、文京、豊島などの高台(淀橋台、本郷台など)は、新生代第四紀更新世(洪積世:180万年前〜1万年前)の間氷期の海進によって堆積された「東京層」と呼ばれる砂礫からなる海成層のうえに古富士火山(武蔵野ローム)やその後の箱根火山(立川ローム)の火山灰が堆積した関東ローム層が5〜8m堆積し、水はけが良くて飲用水や灌漑用水を確保するのが難しく、多くの人口を養うことができない不毛の土地でした。

 反対に、古くから発達した京都や奈良などは水利に恵まれた肥沃な土地でした。

 北条氏政(1538〜1590)を亡ぼして天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(1536〜1598)により、武蔵、上野、下総、上総、相模、伊豆6ヵ国約240万石の太守となって関東へ転封させられた徳川家康(1543〜1616)は、江戸を関東支配の本拠地と定めて天正18年(1590)8月1日に入国しましたが、入国した当時の江戸は、現在の皇居外苑一帯は汐入りの茅原で「日比谷入江」と呼ばれ、「江戸前島」と呼ばれる標高4〜5mの低い半島(現在の京橋、銀座)がつき出していました。

 深川あたりは満潮になると海面下に没する湿地帯で、また、西方と北方は淀橋台、本郷台、豊島台、成増台といった一面の草原が果てしなく武蔵野に連なっていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:20Comments(0)板橋村あれこれ

2006年05月04日

新生代(13)−第三紀(10)−ドルドン

 

 ドルドン・アトロクス(Dorudon atrox) Wadi Al-Hitan , Egypt.

 (旧暦  4月 7日)
 
 2005年7月、南アフリカのダーバン市で開催された「第29回世界遺産委員会ダーバン会議」で、新たにエジプトのワディ・アル・ヒタン(Wadi Al-Hitan)が世界遺産に登録されました。
 
 ワディ・アル・ヒタン(Wadi Al-Hitan)はカイロの南南西約150kmの砂漠地帯、ナイル川左岸ファユーム(Fayyūum)地方の指定保護地域ワディ・エル・ラヤン(Wadi El-Ryam)の中にあり、別名「Whale Valley」(クジラの谷)、かつてはズーグロドン渓谷(the Zeuglodon Valley)として世界中の古生物学者に知られていました。

 この渓谷からは、クジラの進化において後足を失う最後の段階を示す貴重な化石類や珊瑚礁、サメ類の歯、カニ類、貝類、マングローブの根などを含む様々な種類の化石も発見されています。
 
 この地域は、かつては古地中海とも呼ばれるテチス海(Tethys Sea)の浅い入江が入り込み、河川と湿地で覆われていました。テチス海(Tethys Sea)は、パンゲア大陸が分裂を始めた中生代ジュラ紀の約1億8,000万年前から新生代第三紀中新世(Miocene)前期の約2,500万年前までの間に存在していたと考えられている海で、現在の地中海周辺から中央アジア、ヒマラヤ、東南アジアにまで広がっていたと考えられています。
 
 約4,000万年前の新生代第三紀始新世(Eocene)頃に堆積した砂岩(sandstone)、石灰岩(limestone)、頁岩(shale)の地層が地表に表出しており、この地層に初期のクジラの化石や海牛類、サメの歯、カメの化石などが発見されています。
 最も新しい地層は約3,900万年前の始新世(Eocene)後期に堆積したもので、浅瀬に棲む動物の化石が多数発見されていることから、この時代に地殻隆起が起きてテチス海が無くなっていったと考えられています。また、約3,700万年前には、マングローブの森が広がる海岸地帯だったと推定されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:41Comments(0)新生代

2006年05月02日

天文(4)−シュワスマン・ワハマン第3彗星

 

 Dust trail of Comet 73P/Schwassmann–Wachmann 3 by the Spitzer Space Telescope.

 (旧暦  4月 5日)

 このところ新聞紙上を賑わせている彗星に、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P/Schwassmann-Wachmann 3)があります。
 この彗星は、昭和5年(1930)5月2日にドイツのハンブルク天文台のアルノルト・シュヴァスマン(Friedrich Karl Arnold Schwassmann:1870〜1964)とアルノ・アルトゥール・ヴァハマン(Arno Arthur Wachmann:1902〜1990)によって発見された周期彗星(periodic comets)で、1930年の発見後にしばらく行方不明になり、1979年になって再発見されました。

 今回、1930年から76年ぶりに地球に最接近するそうで、国立天文台によれば、同彗星の明るさは1日現在で8等級程度、地球に接近するにつれて明るさを増し、12日頃の最接近時[地球から0.079天文単位(約1180万km)の距離を通過すると予想されている]には2等級〜5等級にまで明るくなり、肉眼でも確認できると期待されています。
 
 しかし、13日は月齢14の満月となるために、実際視認できるのは8日前後までで、それまでの午後8時ころには東北東の低い空のヘルクレス座付近に位置し、天候と周囲の環境に恵まれれば、小さな雲のように見える彗星が肉眼でも観察できる可能性があると報道されています。
  
 シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P/Schwassmann-Wachmann 3)は、約5.36年の軌道周期で太陽を一周し、16年ごとに地球に接近します。
 元の核の大きさは直径約1.1kmと推定され、遠日点(恒星と惑星との距離が最も遠くなる点)は木星の外側に位置し、近日点(恒星と惑星との距離が最も近くなる点)は地球軌道の内側に入り込んでいます。

 平成7年(1995)10月初めに彗星核が分裂し、核はA〜D核の4個に分裂しました。平成12年(2000)の接近時には、A、D核の消滅が確認され、新たにE核が発見されていますが、本年4月現在、30個以上の分裂核が観測されているようです。
 このため、この彗星は将来完全に崩壊して見えなくなるものと考えられており、消滅した場合には彗星符号は、73Pから73Dに変更されます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:42Comments(0)天文