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2013年06月29日

国立故宮博物院(9)−崑崙天柱墨

 

 崑崙天柱墨 明 程君房 国立故宮博物院所蔵(台北) 

 (旧暦5月21日)

 

 廉太郎忌
 「荒城の月」「花」などで知られる作曲家滝廉太郎の明治36年(1903)の忌日。

 古来、中国の文人たちは、筆、墨、硯、紙のことを「文房四寶」と呼んで尊んできました。
 この詞は、明の第八代皇帝天順帝(在位1457〜1464)の命により、吏部尚書、翰林学士李賢(1408〜1466)が勅撰して天順五年(1461)に完成した全九十巻からなる全国地誌「明一統志」に記されています。

 四寶堂在徽州府治、以郡出文房四寶為義。新安志云、歙縣文房四寶謂紙、墨、筆、硯也。

 四寶堂は徽州府治に在り、以て郡出の文房四寶の義と爲す。新安志に云く、歙縣(安徽省南部黄山の麓に位置する)の文房四寶は紙、墨、筆、硯を謂ふ也。

 成唐の詩人李白(701〜762)の詩集『李太白集』巻十八に収められている「張司馬が墨を贈れるに酬ゆ」という詩には、「上黨碧松煙 蘭麝凝珍墨」という一節がありますが、上黨とは碧松煙を産する山西省の東南部、長治市の地域を指し、名墨には麝香を入れて固めていると詠んでいます。

 酬張司馬贈墨       張司馬が墨を贈れるに酬ゆ 
  唐 李白
 上黨碧松煙        上黨の碧松煙
 夷陵丹砂末        夷陵の丹砂末
 蘭麝凝珍墨        蘭麝 珍墨を凝らし
 精光乃堪掇        精光乃ち掇るに堪へたり
 黄頭奴子雙鴉鬟      黄頭の奴子 雙鴉鬟
 錦囊養之懷袖間      錦嚢 之を養なふ懐袖の間
 今日贈豫蘭亭去      今日 豫に贈る蘭亭に去り
 興來灑筆會稽山      興來らば筆に灑がん会稽山


 上黨に産する碧松煙
 夷陵の丹砂の粉末
 蘭や麝香がこの珍墨にこめられ
 鋭い光は手にとって見るに充分である
 黄頭の双僕やあげまきの侍女が
 錦の袋に入れて懐や袖にしまっておく
 今日それを私に贈ってくれた張司馬は蘭亭に去り
 興が湧けば筆に注がん会稽山



 face01中国においては、発掘された土器や木簡・帛書などから、殷・周の時代(1700BC〜770BC)に墨らしきものが実在したようですが、どのようなものであったのかは定かではありません。

 face02漢の時代(206BC〜220AD)には、発掘された硯の形から、墨は小さな墨丸といわれる球形のものであっただろうと推測されています。

 face03唐の時代(618〜960)になると、墨匠という墨造りの名人たちが現れ、その多くは易州(河北省易縣)に住んでいました。

 元代の陸友(生没年不詳、1330年前後在世)が纂した「墨史」によれば、唐代の墨作りの名匠には、李陽冰、祖敏、王君德、奚鼐、奚鼏、奚超、奚庭珪、李慥、廷寬、文用、惟益、惟慶、張遇、朱逢などの名前が記されています。

 祖敏、本易定人、唐時之墨官也。今墨之上、必假其姓而號之。大約易水者為上、其妙者必以鹿角膠煎為膏而和之、故祖氏之名、聞於天下。

 唐代初期の墨務官であった祖敏は、墨に鹿角膠を用いたことで天下に名を知られたということであり、易水の上等な墨には鹿角膠が用いられるようになったということが述べられています。

 しかし、その後、易州の墨匠たちは唐末の戦乱を避けて五代南唐の歙州(きふしう、安徽省歙縣)に移り住んだことにより、歙州が墨の産地として知られるようになりました。

 
 
 五代十国図

 この歙州の地は、黟山の松、羅山の松、黄山の松など、易州の松に近い上質な松が供給されたため、唐代に高麗からもたらされた技術により、良質な松煙墨が生産されました。

 北宋の晃貫之の著による「墨経」は、製墨についての代表的な古典として有名ですが、宋代の松についての一節が次のように記述されています。

 與黄山黟山羅山之松品唯上上

 歙州の製墨の中心を担ったのは奚超という人物で、唐朝の墨官だった奚超は南唐の後主李煜(在位961〜975)の愛顧を得て李姓を賜り、墨務官に任命されて朝廷専用の墨を作り、「李墨」と呼ばれて有名になりました。またその子奚廷琳は歙州の製墨を発展させたといわれています。

 「李墨」は民間にはほとんど出回りませんでした。南唐が宋に滅ぼされて、李父子の消息も途絶えましたが、作った墨は宋の朝廷に没収され、皇帝の御下賜品として珍重されました。
 「磨っても音をたてず、磨り口の鋭さは紙を切り、木を削るほどであった」と伝えられているそうです。

 廷珪所制之墨堅如玉、且有犀紋、時與澄心堂紙、龍尾硯并称三寶、爲南唐和北宋御用之墨。

 歴代の皇帝も非常に珍重したため、「黄金は得やすく、李墨は求め難し」と言わしめる程貴重なものとなりました。有名な宋の集帖『淳化閣帖』は、廷珪の墨で拓したといわれています。

 『淳化閣帖』十巻は、北宋の第二代皇帝太宗(在位976〜997)の勅命によって淳化三年(992)に完成した集帖で、翰林侍書の王著が勅命を奉じて、内府所蔵の書跡を編したものと伝承されています。

 後の清の第六代皇帝乾隆帝(在位1735〜1796)は、李墨を入手した際非常に喜び、紫禁城内に「墨雲室」という専用の保管所を設置し最高級の至宝として蔵しました。

 五代から宋にかけての著名な墨匠としては、李超、李廷珪、李廷寛、李承浩、李承晏、李文用、耿仁、耿遂、耿文政、耿文寿、盛匡道、盛通、盛真、張谷、張処厚、朱逢、朱君徳などがいました。

 その後、歙州は北宋の宣和三年(1121)に徽州と改称し、以後徽墨の名をもって呼ばれるようになりました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:57Comments(0)国立故宮博物院