さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  札幌市中央区

新規登録ログインヘルプ


2018年01月10日

奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)

        (旧暦11月24日)

  


    奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)のつづき

    旧暦八月二十一日(陽暦十月十四日)、芭蕉翁と八十村路通は大垣に到着しました。芭蕉翁は三月二十七日(旧暦)に江戸深川の芭蕉庵を出立してから百四十二日、六百里(約二四○○キロ)の「おくのほそ道」の旅を終えて、貞享元年(1684)十月、『野ざらし紀行』の際に初めて宿泊した元大垣藩士近藤如行邸に、再び草鞋を脱ぎました。芭蕉翁の到着が遅れて待ちわびた大垣の門弟たちがぞくぞくと如行邸に集まって大歓迎をしました。

    出迎えたのは、大垣藩詰頭三百石津田前川、宮崎荊口(通称太左衛門、大垣藩御広間番、百石)、長男此筋(当時十七歳)、次男千川(幼名才治郎)、三男文鳥(幼名與三郎)らでした。また親しき人々は、高岡斜嶺(通
称三郎兵衛、大垣藩士、二百石)、その弟高宮怒風(大垣藩士)、淺井左柳(通称源兵衛、大垣藩士、百五十石)らでした。 

    芭蕉の来訪当時、大垣の俳諧は大垣藩十万石第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)の文教奨励によって、大垣藩士らを中心に盛んでした。芭蕉が大垣俳壇に新風を吹き込み、これを契機に「芭風」俳諧は美濃一帯に広がり、以後、美濃俳壇として基礎が確立されたとされています。

    芭蕉は大垣滞在中、近藤如行邸で長旅の疲労回復に努めつつも、谷木因邸や高岡斜嶺邸などを訪れて句を詠み、歌仙を巻いていますが、詳しい動静については伝わっていません。
    まず、芭蕉は谷木因の隠居宅に招かれました。木因は貞享三年(1686)暮れ、家督を息子に譲り、翌貞享四年に剃髪、浄土宗圓通寺の北側(大垣市西外側町一丁目)に隠居宅を構えていました。
    谷木因(通称九太夫)は、船町湊の廻船問屋の主人でしたが、早くから俳諧を嗜み、延寶二年(1674)頃に北村季吟(1625〜1705)に学び、芭蕉と同門となっています。

  


      谷木因(1646〜1725)

    北村季吟(1625〜1705)は、はじめ貞門七俳人の一人である俳人安原貞室(1610〜1673)、ついで松永貞徳(1571〜1654)について俳諧を学び、俳書『山之井』の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれました。飛鳥井家第十五代当主飛鳥井雅章(1611〜1679)、霊元院歌壇の中心的な歌人の一人清水谷実業(1648〜1709)に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄二年(1689)には歌学方として五百石にて子息湖春(1650〜1697)と共に幕府に仕えています。以後、北村家が幕府歌学方を世襲しています。

  


      北村季吟(1625〜1705)

    以来、芭蕉と木因は親交を結び、木因に大垣来訪を請われ、貞享元年十月、初めて大垣を訪れています。今回の大垣は、三度目の訪問でしたが、『おくのほそ道』本文には、木因の名が記されていません。
    初め木因を通じて芭蕉の指導を受けていた大垣藩士も、参勤交代で江戸勤番となると直接芭蕉から指導を受けていたといいます。

    芭蕉は高岡斜嶺邸にも遊び、
 
            戸を開けばにしに山有。いぶきといふ。花にもよらず、雪にもよらず、只これ弧山の徳あり
        其まゝよ月もたのまじ伊吹山


と詠んでいます。

    芭蕉は旧暦七月二十九日、山中温泉で如行宛に書簡を送り、
  
            如行様           はせを
        みちのくいで候て、つゝがなく北海のあら礒日かずをつくし、いまほどかゞの山中の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申候。つるがのあた
        り見めぐりて、名月、湖水若みのにや入らむ。何れ其前後其元へ立越可申候。嗒山丈、此筋子、晴香丈御傳可被下候。以上
            七月廿九日


とあって、大垣の門人達は芭蕉と名月を観るのを楽しみにしていましたが、芭蕉が大垣に着いたのは、望月を幾夜か過ぎた更待(陰暦二十日夜の月)の頃になってしまいました。そこで芭蕉は遅れての到着を、取りあえず斜嶺を通して大垣の門人達に詫びる心が、伊吹山を望む地への挨拶にしたと解されています。

    如行邸に宿泊しているとき、芭蕉の旅の疲労を癒やさせようとした如行は、門人で鍛冶職人の竹戸に頼んで芭蕉の按摩をさせました。この竹戸の按摩を芭蕉は非常に気に入り、そのお礼に出羽國最上の人から贈られた紙衾に「紙衾ノ記」の文を添えて、竹戸に与えています。

            紙衾ノ記       芭蕉翁
        古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより傳へて、戀といひ哀傷とす。錦床の夜のしとねの上には、鴛鴦(ゑんあう)をぬひ物にして、ふ
        たつのつばさに後の世をかこつ。かれはその膚(はだへ)に近く、そのにほひ殘りとゞまれらんをや、戀の一物とせん、むべなりけらし。いで
        や、此紙のふすまは、戀にもあらず、無常にもあらず。蜑の苫屋の蚤をいとひ、驛(うまや)のはにふのいぶせさを思ひて、出羽の國最上といふ
        所にて、ある人のつくり得させたる也。越路の浦々、 山館野亭の枕のうへには、二千里の外の月をやどし、蓬・もぐらのしきねの下には、霜
        にさむしろのきりぎりすを聞て、昼はたゝみて背中に負ひ、三百余里の険難をわたり、終に頭をしろくして、みのゝの國大垣の府にいたる。な
        をも心のわびをつぎて、貧者の情を破る亊なかれと、我をしとふ者にうちくれぬ 。
            『和漢文操』各務支考編(享保十二年刊)


    芭蕉から紙衾を贈られた竹戸は感激し、
        首出してはつ雪見はや此衾
と詠んで、芭蕉の厚意に応えています。また、これを羨んだ曾良は、
            題竹戸之衾
        畳めは我が手のあとぞ紙衾
            『芭蕉七部集』「猿蓑」巻之一 冬

と詠んでいます。

  

    旧暦八月二十八日(陽暦十月十一日)、如行邸で養生につとめていた芭蕉は、中山道赤坂宿の北、金生山の中腹にある真言宗明星輪寺を参詣しました。明星輪寺は朱鳥元年(686)、修験道の開祖役小角(634伝〜701伝)が第四十一代持統天皇の勅願により創建したと伝えられ、伊勢朝熊山金剛証寺、京都嵯峨野法輪寺とともに三大虚空蔵の一つに数えられ、本尊は役小角自ら岩に刻んだという虚空蔵菩薩で、秘仏として本堂岩窟の奥に安置されています。

            赤坂の虚空蔵にて八月廿八日        奥の陰
        鳩の聲身に入わたる岩戸哉        はせを


    赤坂宿は中山道の重要な宿場町で、慶長十年(1605)三月の徳川秀忠(1579〜1632)上洛や文久元年(1861)十月の皇女和宮降嫁の際の宿泊に利用されています。和宮降嫁の際には、本陣を初め一般の民家も多くが増改築して「お嫁入り普請」といわれ、現在でもその時の町並みが色濃く残されていると云います。
    宿場町のほぼ中央に残る豪壮な邸宅が、木因の門弟であった矢橋木巴邸で、芭蕉は貞享五年(1688)六月七日、二度目に大垣を訪れた際、木巴邸に宿泊したと考えられ、今回の虚空蔵参詣の帰途木巴邸に立ち寄り、宿泊したかもしれないと云います。


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:09Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2018年01月09日

奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)

 

       (旧暦11月22日)

  

      大垣  『奥の細道畫巻』 与謝蕪村筆


  「奥の細道、いなかの小道」の旅も、平成十九年(2007)年五月十二日に深川の芭蕉庵を出立して以来、十年八ヶ月の歳月を要して、ようやく目的地大垣にたどり着きました。

    露通もこのみなとまで出でむかひて、みのゝ國へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より來り合、越人も馬をとばせて、如行が
    家に入り集まる。前川子・荊口父子、その外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやま
    ざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 
            蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ


    ○露通
        本姓は斎部伊紀(1649〜1783)。芭蕉入門は貞享二年(1685)初夏のことと推定され、その十餘年以前から乞食放浪の境涯にあり、大津松
        本の辺りで『徒然草』の辻講釈のようなことをやっていたとされている。

    火桶抱てをとがひ臍をかくしけり 路通。此作者は松もとにてつれづれよみたる狂隠者、今我隣庵に有。俳作妙を得たり
            『元禄元年十二月五日付尚白宛芭蕉書簡』


        路通は貞享五年(1688)の春東下して深川の芭蕉庵の隣庵に一年餘逗留し、芭蕉から草庵の侘会における妙作を絶賛されたが、芭蕉の北國
       行脚と前後して、ふたたび流浪の旅に立っている。路通はその後、元禄四年(1691)の『猿蓑』撰集前後から同門間に不評を買い、芭蕉からも
        勘気をを受けて、一時蕉門から遠ざかったが、元禄七年(1694)夏には三井寺の定光坊實永のとりなしで勘気を許し、門人達にも路通の身の立
        つように斡旋したりしている。

        九月四日
        一桃青亊〈門弟ハ、芭蕉ト呼〉如行方ニ泊リ所勞昨日ゟ本腹之旨承ニ付種々申他所者故室下屋ニ而自分病中トいへとも忍ニ而初而招之對顔其
        歳四拾六生国ハ伊賀之由路通と申法師能登之方ニ而行連同道ニ付是ニも初而對面是ハ西國之生レ近年ハ伊豆蠅嶋ニ遁世之軆ニ而住メル由且又文
        字〈虫〉之才等有之ト云云歳三拾ゟ内也兩人咄シ種〻承之多ハ風雅の儀ト云云如行誘引仕り色々申と云へとも家中士衆ニ先約有之故暮時ゟ歸リ
        申候然共兩人共ニ發句書殘自筆故下屋之壁ニ張之謂所
            こもり居て木の實草の實拾ハはや              芭蕉
            御影たつねん松の戸の月                         自分
            思ひ立旅の衣をうちたてゝ                        如行
            水さハさハと舟の行跡                              伴柳
            ね所をさそふ鳥はにくからす                      路通
            峠の鐘をつたふこからし                            闇加
        是迄ニ而路通發句
            それそれにわけつくされし庭の秋                路通
            ために打たる水のひやゝか                         自分
            池ノ蟹月待ツ岩にはい出て                        芭蕉
        是迄奥州之方北國路ニ而名句とおほしき句共數多雖聞之就中頃日伊吹眺望といふ題にて
            そのまゝに月もたのまし伊吹山                    芭蕉
            おふやうに伊吹颪の秋のはへ                     路通  
        尾張地之俳諧者越人伊勢路之素良兩人ニ誘引せられ近日大神宮御遷宮有之故拝ミニ伊勢之方へ一兩日之内におもむくといへり今日芭蕉軆ハ布裏
        之本綿小袖〈帷子ヲ綿入トス 墨染〉細帯ニ布之編服路通ハ白キ木綿之小袖數珠を手ニ掛ル心底難斗けれとも浮世を安クみなし不諂不奢有様也
                『戸田如水日記』 


   

      『如水日記』 九月四日の条

        ○大垣の庄
            美濃大垣藩第四代藩主戸田采女正氏定(1657〜1733)十萬石の城下。大垣付近には中世において、大井、大榑(おおくれ)、小泉、
            郡戸などの庄があったが、「大垣の庄」という庄名はないので、擬古的(昔の風習・様式などをまねること)な呼称としてこのように
            呼んだものと解されている。

        ○越人
            本姓は越智十蔵(1656〜不詳)、別號、負山子、槿花翁。北越の生まれ。延寶初年頃から名古屋に出て、蕉門の代表的な撰集七部十二
            冊をまとめた俳諧七部集の一つ『冬の日』の連衆野水 (呉服商)の世話で染物屋を営む。芭蕉への入門は貞享元年(1684)頃か。貞享三
            年(1686)刊の『春の日』の連句に初出、また発句九句を寄せた。
            貞享四年(1686)、芭蕉に従い三河保美に罪を得て隠栖する杜國を訪ね、貞享六年(1688)には芭蕉の『更科紀行』の旅に随行して
            東下し、江戸深川の芭蕉庵に逗留すること数月、其角、嵐雪ら蕉門の徒と風交を重ねる。

            ちなみに杜國は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのに有るように見せかけて米を売買する空米売買の延
            べ取引きに問われ、貞亨二年八月十九日に領国追放の身となって畠村(三河国渥美郡畑村)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美
            に隠棲している。

        尾張十藏、越人と號す。越路の人なればなり。栗飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日遊び、三日つとめて三日あそぶ。性、 
        酒をこのみ、醉和する時は平家をうたふ。これ我友なり。
                二人見し雪は今年もふりけるか        芭蕉


  越人が江戸深川の芭蕉庵に逗留した貞享六年(1688)の冬、芭蕉が草したこの句文は、越人の人となりと芭蕉の越人に寄せる親愛感を表し
ているとされている。

 越人が名古屋より「馬をとばせて」芭蕉を大垣に迎えたのは、貞享四年(1686)の『笈の小文』の旅以来の交情によるもので、『曾良旅日記』九月三日の条には、「豫ニ先達而越人着」とあるところから、越人の大垣着は三日ないしはそれ以前のことと考えられている。

        ○三日 辰ノ尅、立。乍行春老へ寄、及夕、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵へヲ呼ニ遣セドモ不行。予ニ先達而越人着故、コレハ
            行。
                『曾良旅日記』

 
  以後越人は、『特牛』(こというし)(元禄三年)によれば、俳諧の点者として生活したもののごとく、俳諧七部集のひとつ『ひさご』には乞われて序を寄せるなど俳壇的地位を確立し、『うらやまし思ひ切る時猫の戀』の『猿蓑』入集句が芭蕉の賞賛を買ったことが『去來抄』に見える。

  各務支考(1665〜1731)の『削りかけの返事』には、元禄四年秋、八十村路通(1469頃〜1738頃)を誹謗して芭蕉の不快を買ったことを伝え、森川許六(1656〜1715)の『歴代滑稽傳』には、「勘当の門人」の一人に数えているが、芭蕉が元禄七年夏の西上の際、越人らに再会して旧交を温めていることから、芭蕉の越人に対する交情は終生変わらなかったものと見られている。

       ○如行
            近藤如行(不詳〜1706)、大垣藩士。早くに致仕して、自適の境涯に入ったと見られている。貞享元年もしくはそれ以前の蕉門への入
            門と推定され、また稿本『如行子』により、貞享四年(1687)から五年に 掛けての『笈の小文』の際の尾張での芭蕉との交歓が知ら
            れる。元禄三年六月三十日付曲翠宛芭蕉書簡によると、如行は元禄三年夏には京に芭蕉を訪れ、幻住庵に同行して二泊しており、芭蕉
            没後には追善集『後の旅』を手向けている。如行の名は森川許六(1656〜1715)の「同門評判」にも挙げられ、寶賀轍士の『花見車』
            によれば、点者として立ってもいたらしく、大垣俳壇においては谷木因と並ぶ中心的存在であった。


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:27おくの細道、いなかの小道

2017年12月08日

奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱

 
  

      Lennon performing in 1964.

    ジョンレノン忌 (Lennon's day)
    昭和五十五年(1980)、ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノン(John Winston Ono Lennon、1940〜1980)がニューヨークの自宅アパ
    ート前で熱狂的なファン、マーク・チャプマン(Mark David Chapman、1955〜)にピストルで撃たれて死亡した忌日。


    (旧暦10月21日)

    〈種の濱〉
    十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠・小竹筒などこまやかに
    したゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。濱はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたゝめ
    て、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
            寂しさや須磨にかちたる濱の秋 
            浪の間や小貝にまじる萩の塵
    其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に殘。


  芭蕉が色の濱に赴いた理由は、敬慕して止まない西行法師(1118〜1190)の詠んだ歌、
    汐染むるますほの小貝拾ふとて    色の濱とはいふにやあるらん        山家集  巻下    1194
に魅せられ、それが色の濱を訪ねる動機となったとされています。

  芭蕉が拾おうとした「ますほの小貝」は、色の濱の海岸で採れるという赤い色をした小さな貝の意で、学名は「チドリマスオ(Donacilla picta)」と云い、長さ五〜十ミリ、厚さ三ミリ程の小さな貝です。

  

    チドリマスオ(Donacilla picta)

  さて、敦賀を訪れた芭蕉翁一行を歓待した天屋は、本姓を室五郎右衛門と云い、敦賀で廻船問屋を営む豪商で、俳号を玄流の他に点屋水魚と称し、当時の敦賀俳壇の中心的な存在でした。

  天屋五郎右衛門が準備させた「破籠」は一種の弁当箱で、白木の折り箱の内側に仕切りを入れ、被せ蓋を付けた入れ物です。

  また、「小竹筒」は『広辞苑』には、「小筒、竹筒酒(ささえさけ)を入れて携帯する竹筒。竹小筒(たけささえ)」とあります。

  色の濱には陸路がなく、当時は陸の孤島と云われ、舟便だけが頼りでした。
  芭蕉が訪ねた「法花寺」とは本隆寺のことで、もとは金泉寺と称した曹洞宗の永嚴寺(敦賀金ヶ崎)の末寺でした。

  應永三十三年(1426)八月、摂津尼崎本興寺の日隆上人が、生国の越中からの帰途、河野浦(南越前町河野)で舟に乗り敦賀へ渡ろうとしたとき、暴風雨に遭って色の濱へ流されてしまいました。

  当時、色の濱の集落では疫病が流行して村民が苦しんでいたので、日隆上人が海岸の岩に座って一心不乱に祈祷したところ、奇跡的に疫病が平癒したと云います。このため、喜んだ村民達は日隆上人に帰依し、金泉寺を本隆寺と改名し、日蓮宗に改宗したと云います。日隆上人は本隆寺の開祖となり、当時の金泉寺住持も日蓮宗に改宗し、本隆寺二世となりました。

  芭蕉翁一行は本隆寺に宿泊し、等裁(洞哉)が筆を執って「其日のあらまし」を記した「芭蕉翁色ヶ濱遊記」を本隆寺に残しています。

    ○ますほの小貝
        若狭湾特産の二枚貝で、あさりを小さくしたような形の直径五ミリから十ミリ程度の小貝。「ますほ」は真赭(まそほ)の転で、赤色を云う。

        汐染むるますほの小貝拾ふとて    色の濱とはいふにやあるらん        山家集  巻下    1194        西行法師


    ○海上七里
    一 九日 快晴。(中略)カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。
            『曾良旅日記』

        曾良の日記にもあるように、実際の距離は二里強。
  
        あそび來ぬふく釣かねて七里迄
        鰒釣らん李陵七里の波の雪
            『野ざらし紀行』 貞享元年(1684)


  

    富春江嚴子陵埀釣處

    芭蕉が、「海上七里」と言ったのは、後漢の嚴光(字は子陵、前39〜41)が俗塵を避けていたという「七里瀬」「七里灘」の故事を心に置いての
    表現かと捉えられている。

    後漢の初代皇帝光武帝(前6〜57)の学友嚴光(字は子陵、前39〜41)は、光武帝即位の後、姓名を変えて身を隠していたが、澤中に釣をしているとこ
    ろを見いだされ、長安に招聘された。その後、諫議大夫に推挙されたがこれを受けず、富春山(浙江省富陽県)に隠棲して耕作や釣りをして暮らし、
    その地で没した。嚴光が釣りをしていた釣臺七里瀬(桐廬県の南、富春江の湖畔)は「嚴陵瀬」と名づけられ、隠棲を象徴する場所として、盛唐から中
    唐以降、しばしば詩人の作品に取り上げられている。

  
     
      嚴子陵釣臺周邊地圖
      

    嚴光の釣臺を詩中に詠み込んだのは、南朝宋の康樂侯謝靈運(385〜433)が最初とされている。謝靈運は、魏晉南北朝時代を代表する詩人で、山水を
    詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖と云われている。

    下記の詩「七里灘」は、謝靈運が永嘉太守(浙江省温州)に左遷され、任地に赴く途中、富春江を遡っていた時に詠まれたものとされている。此の
    時、謝靈運は左遷の失意の中で、嚴光の釣臺から『莊子』外物篇の「任公子」へと思いを馳せ、時代は異なっても、自分は彼らのような隠者と調べを同
    じくするのだと結んでいる。

    任公子は先秦の人、巨大な釣り針と糸を用意し、これに五十頭の牛を餌につけ、東海に竿を垂れ、やがて巨大魚を釣り上げたという故事。

        七里灘            謝靈運
        羈心積秋晨    晨積展遊眺
        孤客傷逝湍    徒旅苦奔峭
        石淺水潺湲    日落山照曜
        荒林紛沃若    哀禽相叫嘯
        遭物悼遷斥    存期得要妙
        既秉上皇心    豈屑末代誚
        目睹嚴子瀨    想屬任公釣
        誰謂古今殊    異代可同調


        羈心は秋晨に積り    晨に積りて遊眺を展ばさんとす
        孤客は逝湍を傷み    徒旅は奔峭に苦しむ
        石浅くして水は潺湲(せんたん)たり    日落ちて山は照曜す
        荒林紛として沃若たり    哀禽相い叫嘯す
        物に遭いて遷斥を悼み    期を存し要妙を得たり
        既に上皇の心を秉(と)り    豈末代の誚(そし)りを屑(いさぎよし)とせんや
        目のあたり厳子が瀬を睹(み)て    想いは任公の釣に属す
        誰か謂う古今殊(こと)なると    異代も調べを同じくす可し


    

        任公子

    任公子、大鈎巨緇を爲(つく)り、五十犗(かい、去勢された牛)、以て餌と為し、会稽に蹲(うづくま)り、竿を東海に投じ、旦旦にして釣る。期年
    にして魚を得ず。已にして大魚之を食らい、巨鈎を牽いて、陥没して下り、驚揚して鬐(ひれ)を奮う。白波は山の若く、海水は震蕩し、声は鬼神に侔
    (ひと)しく、千里に憚嚇(たんかく)す。任公子、若(こ)の魚を得て、離(さ)きて之を腊(ほしじ)にす。淛河以東、蒼梧已北、若(こ)の魚に
    厭(あ)かざる者莫(な)し。
        『莊子』外物篇


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:27Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年12月03日

奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

  
  

      気比の松原

    (旧暦10月16日)

    奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)のつづき

  旧暦八月十四日(陽暦九月二十七日)、芭蕉翁と等裁一行は今庄宿の旅籠を出立し、敦賀へ向かいました。今庄宿の西側に聳える藤倉山から東へ突きだした支脈、愛宕山(標高二七○メートル)の山頂に燧ヶ城跡があります。
  壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科太郎守弘らに命じて愛宕山山頂に築かせたのが燧ヶ城です。

  『源平盛衰記』(第二十八巻)には、
    抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。塩津朝妻の浜に連たり。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。東は
    還山の麓より、長山遥に重て越の白峯に連たり。西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。海山遠打廻、越路遥に見え渡る、磐石高聳挙て、四方の
    峯を連たれば、北陸道第一の城郭也。

とあります。
  その山麓は、日野川と鹿蒜川の合流点で、木曾方は石や木材で川を堰き止め、人造湖上の城を造り上げたと言います。

  

        燧ヶ城趾地形図

  

        燧ヶ城縄張


  壽永二年(1183)四月、木曾義仲(1154〜1184)を追討すべく、平家方は小松三位中将平維盛(1160〜1184)を総大将とする十万騎の大軍を北陸道へ差し向け、越前、加賀の在地反乱勢力がこもる燧ヶ城を攻撃しました。

  義仲は越後國府に本陣を敷き、仁科太郎守弘、林六郎光明ら六千餘騎で燧ヶ城を守り、さらに平泉寺(越前勝山)の長吏斎明威儀師(受戒、法令を指揮する僧)も一千餘騎で助勢しました。
  しかし、援軍の長吏斎明威儀師の平家方への寝返りにより、日野川の堰を切った平家方は一斉に攻撃を開始して燧ヶ城は落城し、義仲方は越中国へ後退を余儀なくされました。
  燧ヶ城は交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期の延元元年(1336)には今庄入道浄慶が居城し、足利方の府中城(旧武生)に居城する越前守護職足利(斯波)高経(1305〜1367)に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国期の天正三年(1575)の織田信長(1534〜1582)による越前征伐に際しては、下間筑後法橋頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって抵抗しましたが敗れ、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

    燧ヶ城    義仲の寝覚の山か月かなし
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


  右手の燧ヶ城跡の麓を通り過ぎると街道は二股に分かれ、左へ行くと板取宿、栃の木峠を経て北國街道(東近江路)の木之本宿に達します。芭蕉翁一行は右へ向かい、奈良期の官道、北陸道(萬葉の道)を進んで、歌枕で知られた「歸る山」に至りました。
    藤原定家                『拾遺愚草』
    春ふかみこしぢに雁の歸る山    名こそ霞にかくれざりけれ


  「歸る山」は特定の山の名称ではなく、「京へ歸ると歸る山」の掛詞で、この辺り一帯の山が「歸る山」であると解されています。

    越の中山    中山や越路も月ハまた命
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


    新古今集    巻十    羈旅                西行法師
    年たけてまた越ゆべしと思ひきや    命なりけり小夜の中山


  萬葉の道は鹿蒜川に沿って西進し、新道で右折すると北陸道(西近江路)となり、山中峠(標高三八九メートル)に至ります。平安期以前は、奈良、京都から北陸、東北へと向かう北陸道は、この山中峠を越えていたと云います。近江から若狭湾と琵琶湖を隔てる野坂山地を越えて松原驛(敦賀市)に達した北陸官道は、樫曲、越坂、ウツロギ峠と坂道を上り下りして、五幡、杉津を経て大比田、元比田へと進み、山中峠を越えて鹿蒜驛に至りました。この驛は、旧鹿蒜村大字歸(南越前町南今庄)に比定されています。

    可敝流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の    坂に袖振れ我れをし思はば
    可敝流未能    美知由可牟日波    伊都波多野    佐可尓蘇泥布礼    和礼乎事於毛波婆
        『萬葉集』    巻十八        大伴家持    (4055)

  「可敝流」は、鹿蒜川流域の地とされています。 
  さて、先ほどの新道を左折して緩やかな坂道を登っていくと、二ツ屋宿場に至ります。この街道は、平安初期の天長七年(830)に、木の芽峠を開削して作られたと云います。これ以前の山中峠越えの道は、敦賀湾沿いに大きく迂回し、途中に水路を含み、距離が長く時間のかかる行程でした。木の芽峠の新北陸道が開通すると。時間の短縮になり、多くの旅人が利用しました。また、二ツ屋宿は、江戸期には大いに栄えたと云います。

  二ツ屋宿から杉木立の中の道を進むと、木の芽峠(標高六二六メートル)に至ります。峠への登り坂は、天正六年(1578)、北庄城主柴田勝家(1522〜1583)が整備したと云われ、現在もすり減った石畳の道が残り、茅葺き屋根の茶屋前川家があります。前川家は、平将軍平貞盛(未詳〜989)の後裔といわれ、代々茶屋番や山廻り役をつとめたと云います。
 
  木の芽峠道を下ると、半刻程で新保の集落に至り、ここから葉原、越坂、樫曲、谷口、井川、舞崎を経て、敦賀の津内に至ります。

  


  旧暦八月十四日(陽暦九月二十七日)夕刻、芭蕉翁と等裁一行は敦賀に到着し、唐仁橋町の旅籠出雲屋彌市郎宅に草鞋を脱ぎました。

  敦賀は昔、角鹿(つぬが)と呼ばれ、『日本書紀』には第十四代仲哀天皇がその后の神功皇后とともに、この地の笥飯宮(けいのみや)を造営したという記述があるので、古くから湊として栄えていたようです。また、白砂青松の海岸線が広がる「気比の松原」は、遠州三保の松原、肥前唐津虹の松原とともに日本三大松原の一つにも数えられています。
    國々の八景更に氣比の月
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


  出雲屋で休息した芭蕉翁一行は、旅籠のあるじ出雲屋彌市郎に勧められて氣比神宮の夜参りに出かけました。あるじから、氣比神宮に代々受け継がれている「遊行の砂持ち」のいわれを聞いた芭蕉は、
    なみだしくや遊行のもてる砂の露        はせを
と詠みましたが、「おくのほそ道」本文では、
    月淸し遊行のもてる砂の上                はせを
と推敲しています。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:46Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年12月01日

奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)

  

      日野山(比那が嵩)

    (旧暦10月14日)

    漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鶯の関を過て、湯尾峠を越れば、燧が城。かへるやま
    に初鴈を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。
    その夜、月殊晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明
    神に夜参す。仲哀天皇の御廟也 。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人、大願発起の事
    ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往來の煩なし。古例今にたえず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持と申侍
    る」と、亭主のかたりける。
            月淸し遊行のもてる砂の上
    十五日、亭主の詞にたがはず雨降 。
            名月や北国日和定なき


  旧暦八月十三日(陽暦九月二十六日)、福井の隠士等裁宅に二泊した芭蕉は、着物の裾を奇妙な格好にからげた等裁の道案内で、名月(陰暦八月十五日)を求めて越前敦賀に旅立ちました。

  芭蕉翁と等裁は草庵をあとにして、足羽山東麓の北國街道を南下し、福井城下の南の外れ赤坂口を経て、虚空蔵川という小川にかかる玉江二の橋を渡りました。

  現在の福井市花堂、江守、江端一帯は古くから玉江と呼ばれ、江端川が湾曲して流れる排水の悪い湿地帯で、平安のころから蘆の名所でもありました。
  
    後拾遺    夏            源重之
    夏苅の玉江の蘆をふみしたぎ    むれゐる鳥の立つ空ぞなく
    新古今    旅            藤原俊成
    夏刈の蘆の仮寝もあはれなり    玉江の月の明方の空

    後撰    雑四            讀人不知
    玉江こぐ蘆刈小舟さし分けて    たれを誰とかわれは定めん


  玉江二の橋から南下して江端川に架かる玉江橋があり、さらに南下して江端、下荒井、中荒井、今市を経て、朝六ツ川にかかる淺水橋にいたります。淺水は「あそうず」と読み、旧仮名遣いでは「あさむつ・あそむつ」と書き、時刻の「朝六つ」(午前六時頃)と掛け、古来から歌に詠まれてきました。

  また、清少納言の『枕草子』第六十四段(三巻本)には、「橋は、あさむずの橋」とあり、往時は長さ十三間、幅二間あったと云われています。
    阿曾武津の橋        あさむつを月見の旅の明離
        『荊口句帳』  芭蕉翁月一夜十五句


  

      清少納言(菊池容斎・画)

  芭蕉翁と等裁は、あさむつの橋を明離と詠んでいるので、早朝に渡ったと思われ、さらに北國街道を南下して、水落、上鯖江をへて、宿場の南端で右折し、日野川の白鬼女の渡しを舟で渡り、対岸の家久、そこから半里程で武生城下に入りました。

  武生は奈良時代には越前國府が置かれたところで、長徳二年(996)一月、県召除目(地方官を任命する正月の儀式)で、紫式部(生没年不詳)の父藤原爲時(949?〜1429?)は越前守に任ぜられ、夏頃、式部を連れて越前國府武生に赴任しています。

  紫式部は武生での生活は一年余りで、長徳三年冬から翌四年の春頃、藤原宣孝(不詳〜1001)との結婚のために単身帰京しています。
  式部の『源氏物語』「浮舟」には、「たとへ武生の國府にうつろい給うふとも」と、武生の地名が登場しています。

  

     紫式部(菊池容斎・画)

  江戸期には、福井藩家老本田家が越前府中三萬九千石を領し、明治維新まで続いています。

  武生城下の南端常久から北國街道を南下すると、まもなく東方に日野山(標高七九五メートル)が望まれ、その山容から越前富士の別名があります。
        あすの月雨占なハんひなが嶽
          『荊口句帳』  芭蕉翁月一夜十五句


    ○漸白根が嶽かくれて
    白山 越ノ白根トモイフ。越前・加賀・越中・飛騨四ヶ国ヘカカリタル大山ナリ
        『越前名勝志』

    ○比那が嵩
 
        雛が岳、日永岳とも書く。今、日野山という。越前市(旧武生)の南東約五キロ。標高七九五メートル。山上に日永嶽神社があり、飯綱権
        現を祀る。 
    鯖江眺望、雛岳爲最 『越前鯖江志』

    ○あさむづの橋
        歌枕。福井城下の南西、現在の福井市浅水町の浅水川に架かる橋。
   
    あさむつはしのとどろとどろと降りし雨の 古るにし我を だれぞこの 仲人たて 御許のかたち せうそこし(消息し) とぶらいくるや
    さきむだちや
        催馬楽『浅水』

    橋は、あさむずの橋  『枕草子』 第六十四段 三巻本

    淺水橋 世俗に、あさうづといふ所か。
    あさむづの橋は忍びて渡れども    とどろとどろと鳴るぞわびしき
    たれぞこの寝ざめて聞けばあさむづの    黒戸の橋を踏みとどろかす
        『名所方角抄』

    あさむづは、淺生津とも、淺水共書り。今は麻生津と云。福井の南、往還の驛にて、宿の中程に板橋有り。あさふづの橋と云。清少納言が枕草子に、橋
    は、あさむつの橋、と書る名所なり。又黒戸の橋ともいふよし、歌書に見えたり。方角抄、朝むづの橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわび
    しき。又、たれそこのね覚て聞ばあさむつの黒戸の橋をふみとどろかす。
        『奥細道菅菰抄』


    ○玉 江
        歌枕。福井市花堂町付近、あるいは、福井城下と麻生津の間など、諸説有り定かならず。

    麻生津といふ所に江河あり。これを玉江といふ説あり。いかが。尋ぬべし。津の國に同名あり。
        『名所方角抄』

    玉江    沼        摂津    〈嶋上郡 越前同名有〉
    後撰    雜四        玉江漕ぐ蘆刈り小舟さし分けて    たれをたれとか我は定めむ        読人不知
    後拾遺    夏        夏苅りの玉江の蘆を踏みしだき    群れゐる鳥の立つ空ぞなき        源重之
        『類字名所和歌集』


  

        『類字名所和歌集』    玉江

    ○穂に出にけり
        「秀(ほ)に出づ」には、表にあらわれる・人目につくの意があり、それにかけて、蘆の穂の出ているのが目に立ったという意にはたらか
        せている。

    續後拾遺    秋上        たがための手枕にせむさを鹿の    入る野のすすき穂に出でにけり        俊成

    ワキ    あら面白や候。さて葦と蘆とは同じ草にて候か
    シテ    さん候譬へば薄ともいひ。穂に出でぬれば尾花ともいへるが如し
        謡曲『蘆刈』


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:40Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月15日

奥の細道、いなかの小道(41)− 福井

  
  

    松永貞徳(1571〜1653)

    (旧暦9月27日)

    貞徳忌
    江戸前期の俳人、歌人、歌学者、の承應二年(1653)の忌日。名は勝熊、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種  
    (1538〜1598)は摂津高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹巴
    (1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多くの良師を得て、古典、和歌、
    連歌などの素養を身につけた。

    二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とする。慶長二年(1597)に
    花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年(1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当
    たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳諧の興隆に貢献した。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』
    などがある。

    〈福 井〉
    福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にや江戸に來りてよを尋ぬ。遥十とせ餘
    り也。いかに老さらぼひて有にや、將死けるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕㒵・
    へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝ木ゞに戸ぼそをかくす。さてはこのうちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊
    にや。あるじはこのあたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風
    情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽もともに送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折とう
    かれ立。


    

            福  井
 
  芭蕉翁と共に長い年月を旅してきましたが、終着の大垣までは、あと三章を残すのみとなりました。

    ○たそかれ
        薄暗い光の中で、あの人はたれだろうといぶかしむころの時刻の意
   
    たそかれ 物を問ふていに詠むべし  『八雲御抄』

    寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔
    光ありと見し夕顔のうは露は たそかれ時のそら目なりけり
            『源氏物語』第四帖 夕顔

    たそがれ時のをりなるに。
    などかはそれと御覧ぜざるさりながら。
    名は人めきて賤しき垣ほにかゝりたれば。知しめさぬば理なり。
    これは夕顔の花にて候。

    折りてこそそれかとも見めたそがれに ほのぼの見えし花の夕顔
            謡曲 『半蔀』

    思ひや少し慰むと、露の託言(かごと)を夕顔の、たそかれ時もはや過ぎぬ。恋の重荷を持つやらん。
            謡曲 『戀重荷』


  「たそかれ」は「夕顔」と寄合的関係(連歌/俳諧で、前句と付句を関係付ける契機となる言葉や物どうしの縁)にあり、以下、「おくのほそ道」本文は、『源氏物語』夕顔を踏まえた場面設定を行っている。

  

        『源氏夕顔巻』  月岡芳年『月百姿』

    ○たどたどし
        たそかれ時のほの暗さに足もともおぼつかなく、道のはかどらぬさまを言ったもの

    なかなかに折りやまどはむ藤の花 たそかれ時のたどたどしくは
            『源氏物語』第三十三帖  藤裏葉

    たそかれ時とアラバ    (中略)    たどたどし
            『連珠合壁集』 巻一


  

        『連珠合壁集』 巻一

    ○老さらぼひて
        年寄り痩せ衰えて。「さらぼふ」は、痩せ枯れたさま。

    後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるを引かせて、この気色尊く見えて候とて
            『徒然草』 百五十二段

    老サラホレテ    髐    サラホウ    莊子二
            『徒然草壽命院抄』  下巻   壽命院立安撰


    荘子之楚、見空髑髏髐然有形。
    荘子、楚に之く。空髑髏の髐然として形有るを見る。
    When Zhuangzi went to Chu, he saw an empty skull, bleached indeed, but still retaining its shape.
     『荘子』外篇至樂 (Perfect Enjyoment)
    注)髐然(こうぜん)は、白骨がさらされているさま。また、白骨がくっきりと浮き出たさま。

    ○市中ひそかに引入て 
        町中にひっそりと引き込んで。市隠(市井に隠れ住むこと)の趣を表したもの。また、『源氏物語』 第四帖 夕顔の、夕顔の宿のある
        むつかしげなる大路のさまを 見わたしたまへるに
        げにいと小家がちに、 むつかしげなるわたりの

        を二重写し的に重ねたもの。

    ○あやしの小家 
        粗末な小家。

    「遠方(をちかた)人にもの申す」と獨りごちたまふを、御隋身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあや
    しき垣根になむ咲きはべりける」と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしから
    ぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
            『源氏物語』 第四帖 夕顔


    ○はえかゝりて
        延へかかりて。夕㒵・へちまが蔓を延ばした状態で延びからまること。

    ○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ
        『源氏物語』 第四帖 夕顔で、光源氏が夕顔の君と荒れたなにがしの院で一夜を過ごした際、六条御息所と思われる女性の怨霊に出会う場面
        に見える以下の文言をふまえたもの。
        「昔物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、
                『源氏物語』 第四帖 夕顔 第四段 夜半、もののけ現わる

    ○つるが
            敦賀。歌枕 角鹿
            我をのみ思ふ敦賀の越ならば 歸るの山はまどはざらまし    読人不知
                    『類字名所和歌集』    巻三


  

        『類字名所和歌集』    巻三

    つるがは、本角鹿ト書。相傳、崇神天皇六十五年、任那國人來。其人額有角。到越前笥飯浦(ケヰノウラ)居三年、故其處名角鹿(ツノガ、ト云。今敦
    賀と書ク。笥飯も今氣比とす。海を氣比の海と云。〈敦賀は、則チ敦賀郡の浦にて、けいは、つるがの古名なり。古歌多し〉越前の大湊にて、若州小濱
    侯の領知なり。方角抄、我をのみ思ひつるがの浦ならば歸る野山はまどはざらまし。萬葉、氣比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり
    舟。
            『奥細道菅菰抄』


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:34Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月10日

奥の細道、いなかの小道(40)− 天龍寺、永平寺

  

      丸岡城天守閣


  (旧暦9月22日)

  汐越の松を訪れた芭蕉翁と北枝一行は濱坂浦へ戻り、北潟湖の西岸に沿って南西に進み、北方浦から東岸の蓮ヶ浦へ藏崎の渡しを渡りました。ここからしばらく南東に進み、蓮ヶ浦の坂口で北國街道に合流し、かつて嫁威(おどし)の茶屋があった柿原を過ぎて、山十楽からしばらく南進し千束一里塚に至りました。街道はさらに花之杜から南下して、竹田川の北岸に沿って東西に細く延びる北金津宿に入り、宿場の東外れを右折して竹田川を渡ると南金津宿、さらに南下して北國街道と金津道に別れ、芭蕉翁一行は金津道を進み、川原井手、池口、長屋、御油田を経て、丸岡城下の北の入口に到着しました。

  

    芭蕉経路 汐越の松〜金津宿〜丸岡

  丸岡城下の中心に立つ丸岡城は、天正四年(1576)、柴田勝家(1522?〜1583)の甥柴田勝豊(1556〜1583)によって築かれました。その後は数奇な運命をたどっています。

  ①  天正十年(1582)、本能寺の変の後の清洲会議により、柴田勝豊は近江国長浜城に移され、柴田勝家は安井左近家清(?〜1583)を城代として置い
       た。

  ②  天正十一年(1583)、柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀(1535 〜1585)の所領となり、丹羽長秀は丸岡城
       主として青山修理亮宗勝(1561〜不明)を置いた。

  ③  丹羽長秀の死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子忠元は、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍方につき、敗れて
       改易された。越前国には徳川家康の次男結城秀康(1574〜1607)が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が二万五千五百石を与えられ入城し
       た。

  ④  慶長十七年(1612)、今村盛次は越前騒動に連座して失脚し、幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重(1572〜1647)が四万三千石
       で新たな城主となった。

  ⑤  寛永元年(1624)、 福井藩第二代藩主松平忠直(1595〜1650)が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に
       本多成重は福井藩より独立して大名に列し丸岡藩が成立した。

  ⑥  元禄八年(1695) 四代本田重益(1663〜1733)の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清
       純が越後国糸魚川藩より五万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩六代の居城となり明治維新を迎えた。


  芭蕉翁一行は全昌寺から七里弱ほどの道程を歩き、丸岡城下には午後五時頃に到着して、城下の谷町あたりの旅籠に宿泊したものと思われています。

      一    八日  快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村有。少南ニ三國海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田
           塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。苻(府)中ニ至ルト
           キ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄ニ着、宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月八日(陽暦九月二十一日)、曾良は日の出(午前六時頃)に森田の六郎兵衛宅を出立し、北國街道を南下して九頭龍川に架かる舟橋(舟を繋いでその上に板を敷いた仮橋)を渡りました。舟橋を渡ると、右手廿丁ばかりの所に燈明寺村があり、また少し南に三國街道があります。その街道を福井城下の方へ十丁程行くと、左手に新田塚があります。

  新田塚は、南北朝期に第九十六代後醍醐天皇(在位1318〜1339)方に与した新田義貞(1300頃〜1338)が延元三年(1338)閏七月二日、足利方が籠もる越前の藤島城を攻める味方を督戦するため、わずか五十余騎の手勢を従えて藤島城へ向かった際に、たまたま、救援のために藤島城に向かっていた足利配下の将鹿草彦太郎公相の三百騎と遭遇し、乱戦の中で戦死した所と伝えられています。

  

      燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(新田塚)

  明暦二年(1656)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然に兜を掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者井原番右衛門頼文がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定しました。その四年後の萬治三年(1660)には、越前福井藩第四代藩主松平光通(1636〜1674)が兜の発見された場所に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戰死此所」と刻んだ石碑を建て、以後この地は「新田塚」と呼ばれるようになったということです。
  なお、暦応元年とは北朝方の元号で、南朝方では延元三年(1338)となります。

  

      鉄製銀象眼冑(藤島神社所蔵)

  新田塚からは、十三、四丁西に黒丸集落が見渡せます。また、新田塚から福井城下までは二十丁程で、巳ノ刻前(午前十時頃)に福井城下を通過し、足羽川に架かる九十九橋を渡って足羽山東麓の北國街道を南下、江端川に架かる玉江橋を渡り、淺水宿のあさむつ橋に至りました。さらに、鯖江宿、上鯖江宿を過ぎ、日野川の白鬼女渡を渡ってさらに南下すると府中(旧武生)に着きます。
  曾良が府中に着いたのは未ノ上刻(午後一時半頃)で、小雨が降り始めましたが、まもなく止み、脇本宿、鯖波宿、湯尾宿を過ぎ、古代から交通の要衝でもあった湯尾峠を越えて、今庄宿に着いたのは申ノ下刻(午後四時過ぎ)でした。

      一    九日  快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火うチガ城、十丁程行テ、左
           リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、氣比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へル。
           山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ
           行テ宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月九日(陽暦九月二十二日)、今日も曾良は日の出(午前六時頃)に今庄の宿を出立し、宿場外れの板橋の端から右に曲がり、木ノ芽峠へ行くために谷間に入りました。右手は燧ヶ城で、十丁程行くと歌枕で知られる歸山があり、その下の村を歸と云う。

  燧ヶ城の築城は源平の合戦の頃にまでさかのぼり、壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科守弘らに命じて城を築かせました。源平盛衰記に「北陸道第一の城郭」と記されたこの城は、交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期には今庄入道浄慶の居城となり、府中(旧武生)の足利高経(1305〜1367)方に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国時代には越前国守護斯波氏の家臣赤座但馬守影景秋、後に魚住景固(1528〜1574)が城主となりました。さらに天正三年(1575)には、下間頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって織田信長(1534〜1582)と戦い、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

  「かへる山」は、敦賀湾の東岸の五幡、杉津あたりから、北東にある今庄に抜けるあたりの地域の山と言われています。奈良期の古道は、松原驛(敦賀市)から五幡、杉津を経て比田から山中峠を越え鹿蒜駅(南越前町今庄)に至ったといわれています。

  万葉集巻十八の大伴家持の歌(4055)は、このあたりを指していると思われています。
          可敝流廻の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れ我れをし思はば
          可敝流未能 美知由可牟日波 伊都波多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆
          かへるみの  みちゆかむひは  いつはたの  さかにそでふれ  われをしおもはば

  また、古今和歌集には、「かへる山」との歌枕が読み込まれた歌が、収載されています。 

          越へまかりける人によみてつかはしける   紀利貞
          かへる山ありとは聞けど春霞 立ち別れなば恋しかるべし        古今和歌集  巻八  離別   370

               凡河内躬恒
          かへる山なにぞはありてあるかひは きてもとまらぬ名にこそありけれ    古今和歌集 巻八 離別  382

                在原棟梁
          白雪の八重降りしけるかへる山 かへるがへるも老いにけるかな          古今和歌集 巻十七 雑歌上  902


  曾良は未ノ刻(午後二時頃)に敦賀に着き、まず、気比神宮に参詣してから唐人橋の大和屋久兵衛宅に宿をとりました。気比神宮は、敦賀の北東部に鎮座する越前國一宮で、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)ほか、第十四代仲哀天皇、その后の神功皇后など七柱の祭神を祀っています。

  食事の後、曾良は、宿から二十四、五丁ある敦賀北東部、敦賀湾に突き出した金ヶ崎山に築かれた金ヶ崎城の跡地を訪れ、夕方に宿に帰りました。

  金ヶ崎城は、 治承、寿永の乱(1180〜1185、源平合戦)の時、越前三位平通盛(1153〜1184)が木曾義仲(1154〜1184)との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられています。
 
  南北朝期の延元元年/建武三年(1336)十月十三日、足利尊氏の入京により恒良親王(1324〜1338)、尊良親王(1310〜1337)を奉じて北陸落ちした新田義貞(1300頃〜1338)が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経(1305〜1367)らの軍勢に包囲されて兵糧攻めに遭い、翌延元二年/建武四年(1337)二月五日、新田義貞らは、闇夜に密かに脱出し、越前杣山城で体勢を立て直すも、三月三日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、新田義貞嫡男の新田義顕(1318〜1337)は城に火を放ち、尊良親王及び三百余人の兵と共に自害しています。
 また、恒良親王は捕らえられて足利直義(1306〜1352)によって幽閉され、翌年に没しています。

  
    
      Death place of Prince Takayoshi.

  その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城と称しています。

  室町期の長禄三年(1459)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、関東の古河公方足利成氏(1438〜1497)征討の幕命を受けた斯波義敏(1435〜1508)は兵を集めたものの関東には赴かず、引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、敦賀城甲斐方の守りは堅く、斯波義敏方は大敗を喫しています。

  戦国期の元亀元年(1570)四月二十六日、朝倉氏一族の敦賀郡司が守護していた金ヶ崎城は、越前に侵攻した織田、徳川軍の攻撃により、郡司朝倉景恒(不明〜1570)は兵力差もあったことから織田信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。
  しかし、同盟関係にあった小谷城の浅井長政(1545〜1573)が離反して挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(1537〜1598)が後衛となって、信長本隊が近江朽木越えで京に撤退するまで援護した金ヶ崎の戦いがあり、金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦の戦場でもありました。
 
  その後曾良は、河野(福井県越前町)へ行く船に便乗し、色の濱(種の濱、敦賀市色浜)へ赴きました。海上四里で、戌刻(午後八時過ぎ)に出船し、夜半に色の濱に着き、そこで製塩を生業とする男に案内されて、本隆寺に行き宿をとりました。

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:15Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月05日

奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松

 
 

      全昌寺

  (旧暦9月17日)

  旧暦八月七日(陽暦九月二十日)、芭蕉翁は昨日からの歌仙を満尾させ、昼頃に小松を出立して大聖寺の全昌寺へ向かいました。小松城下から北國街道を南下して月津宿を過ぎて動橋(いぶりばし)に至り、橋を渡って八日市、弓波、作見宿経て菅生石部神社横を通過し、大聖寺川に架かる敷地天神橋を渡ると大聖寺城下に入ります。

  橋を渡ってすぐ左手の大聖寺川に沿った道は山中温泉道で、大聖寺川の土手に道標が立っています。そのまま直進して菅生で右折し、弓町、荒町、東横町、新屋敷を経て全昌寺に至ります。小松からの行程は約四里、一行は午後五時ごろに到着したものと思われます。

    〈全昌寺・汐越の松〉
      大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、
            終宵秋風聞くやうらの山
    と殘す。一夜の隔て、千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮にふせば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の國へと、心
    早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追來たる。折節庭中の柳散れば、 
            庭掃て出でばや寺に散柳
    とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
      越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
            終宵嵐に波をはこばせて 
                  月をたれたる汐越の松        西行
    此一首にて數景盡たり。
    もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

    ○大聖寺
        大聖寺は往時、白山五院のひとつ大聖寺のあった所で、寛永十六年(1639)、加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)の三男前田利治
        (1618〜1660)が、父利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に七万石を分与されて大聖寺藩を立藩した時にその城下となった。芭蕉翁一行
        が来訪した時は、第二代藩主前田利明(1638〜1692、利常の五男)の代であった。

        白山五院は、いまの加賀市にあったとされる柏野寺、薬王院温泉寺、極楽寺、小野坂寺、大聖寺の五つの寺院で、白山信仰がもっとも色濃く社
        会に繁栄された平安時代から室町時代にかけて、加賀江沼の人びとの白山信仰の中心になっていた。

        なお、往時の大聖寺は、16世紀に、浄土真宗本願寺派第八世宗主、真宗大谷派第八代門首蓮如(1415〜1499)によって力を増した浄土真宗門
        徒と越前の戦国大名朝倉義景(1533〜1573)との戦いに巻き込まれ、完全に焼失したという

    ○全昌寺
        大聖寺南郊の山ノ下寺院群と呼ばれる場所にある曹洞宗の寺院。大聖寺城主山口玄蕃頭宗永(1545〜1600)の帰依を受けて、慶長三年
        (1598)に山代より現在地に移築された同城主の菩提寺。

        慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで山口宗永は石田三成(1560〜1600)の西軍に与したため、加賀前田家第二代前田利長(1562〜1614)の
        大聖寺攻めに遭い、大聖寺城は陥落し山口玄蕃一族は滅亡した。その為寺の維持は困難となったが、慶長八年(1603)、大聖寺城代として加賀藩
        より派遣されていた津田遠江守重久(1549〜1634)の帰依により仮香華院(仮菩提寺)となり、その後江州曹澤寺の輝雲和尚が入寺し、この
        時寺格が与えられ、寺の地位が確立した。

    ○終宵
        終宵(よもすがら)という言葉に、秋夜弧客の情が尽くされている。一晩中眠りにつけず、蕭々たる秋風の音を聞き明かしたことだ、寺の裏山
        の木立の上を吹き渡るその秋風を、といった意で、師と別れた一人旅の寂しさが素直に流露していると評されている。

        秋風引          劉禹錫 
        何處秋風至        何れの處よりか秋風至り
        蕭蕭送雁群        蕭蕭として雁群を送る
        朝來入庭樹        朝來庭樹に入り
        孤客最先聞        孤客最も先に聞く
                『唐詩訓解』六

 
        古歌        漢          無名氏
        秋風蕭蕭愁殺人          秋風蕭蕭として人を愁殺し
        出亦愁                        出づるも亦た愁へ
        入亦愁                        入るも亦た愁ふ
        座中何人                     座中何人(なんぴと)か
        誰不懷憂                     誰か憂ひを懷かざる
        令我白頭                     我をして白頭ならしむ
        胡地多飆風                 胡地に飆風(へうふう)多し
        樹木何修修                 樹木何ぞ修修たる
        離家日趨遠                 家を離れ日びに遠きに趨(おもむ)き
        衣帶日趨緩                 衣帶日びに緩きに趨(おもむ)く
        心思不能言                 心思言ふ能はず
        腸中車輪轉                 腸中車輪轉ず


      ○一夜の隔、千里に同じ
          わずか一夜の隔てが、さながら遠く千里を隔てるごとくに思われる。「千里」の語は、『蒙求』李陵初詩の詩句や李白、蘇東坡の詩句の
          「咫尺千里」などの成句による。

        李陵初詩            田横感歌
        携手上河梁           手を携へて河梁に上る
        游子暮何之           遊子暮に何くにか之(い)く
        徘徊蹊路側           蹊路の側(ほとり)に徘徊し
        恨恨不得辭           悢悢として辭するを得ず
        晨風鳴北林           晨風(しんぷう)北林に鳴し
        熠燿東南飛           熠燿(こんやう)東南に飛ぶ
        浮雲日千里           浮雲日に千里
        安知我心悲           安(いずく)んぞ我が心の悲しみを知らん

 
        觀元丹丘坐巫山屏風            唐        李白
        昔遊三峽見巫山        見畫巫山宛相似
        疑是天邊十二峰        飛入君家彩屏裏
        寒松蕭瑟如有聲        陽臺微茫如有情 
        錦衾瑤席何寂寂        楚王神女徒盈盈
        高唐咫尺如千里        翠屏丹崖燦如綺 
        蒼蒼遠樹圍荊門        歷歷行舟泛巴水
        水石潺湲萬壑分        烟光草色俱氛氳
        溪花笑日何年發        江客聽猨幾歲聞
        使人對此心緬邈        疑入嵩丘夢綵雲


        元丹丘の巫山の屏風に坐するを觀る
        昔三峽に遊び巫山を見る                    巫山を畫くを見るに宛(あたか)も相似たり
        疑ふらくは是れ天邊の十二峰              飛て入る君が家の彩屏の裏(うち)
        寒松は蕭瑟として聲有るが如く            陽臺は微茫として情有るが如し 
        錦衾瑤席    何ぞ寂寂                        楚王の神女    徒に盈盈
        高唐咫尺    千里の如く                      翠屏丹崖    燦として綺の如し 
        蒼蒼たる遠樹荊門を圍み                    歷歷たる行舟巴水に泛(うか)ぶ
        水石潺湲(せんかん)萬壑(ばんがく)分れ   烟光草色    俱に氛氳(うんふん)
        溪花日に笑ひて何の年か發す           江客    猨(えん)を聽きて幾歲か聞く
        人をして此に對し心    緬邈(めんばく)たらしめ              疑ふは嵩丘に入り綵雲に夢むかと


    

        巫山十二峰分别坐落在巫峡的南北两岸、是巫峡最著名的風景點。

        潁州初別子由二首    其二        宋    蘇軾
        近別不改容      近き別れは容を改めず
        遠別涕沾胸      遠き別れは涕胸を沾す
        咫尺不相見      咫尺にして相ひ見ざるは
        實與千里同      實は千里と同じ
        人生無離別      人生離別無くんば
        誰知恩愛重      誰か恩愛の重さを知らん
        始我來宛丘      始めて我宛丘に來りしとき
        牽衣舞兒童      衣を牽きて兒童舞ふ
        便知有此恨      便ち此の恨みの有るを知り
        留我過秋風      我を留めて秋風を過ごさしむ
        秋風亦已過      秋風亦已に過ぎ
        別恨終無窮      別れの恨みは終に窮り無し
        問我何年歸      我に問ふ何れの年にか歸ると
        我言歳在東      我言ふ歳の東に在るときと
        離合既循環      離合既に循環し
        憂喜互相攻      憂喜互ひに相ひ攻む
        悟此長太息      此を悟りて長太息す
        我生如飛蓬      我が生飛蓬の如くなりと
        多憂發早白      憂ひ多ければ早白を發す
        不見六一翁      六一翁を見ざるや


        千里も遠からず、逢はねば咫尺も千里よなう
            『閑吟集』


     逢はねば一里も千里よの
            『女歌舞伎踊歌』


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:38Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月30日

奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷

  

    尾崎紅葉(1968〜1903)    


  (旧暦9月11日)

  紅葉忌、十千萬堂忌
  小説家尾崎紅葉(1968〜1903)、明治三十六年(1903)の忌日。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千萬堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸
  芝中門前町生まれ。帝国大学国文科中退。明治十八年(1885)、山田美妙(1968〜1910)らと硯友社を創立し、「我樂多文庫」を創刊。明治二十二年
  (1889)、『二人比丘尼色懺悔』が出世作となる。のち読売新聞社にはいり、言文一致体の『多情多恨』、『金色夜叉』(未完)などを連載し人気作家となる
  も、胃がんのため自宅で歿した。享年三十七。


        一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒萬子爲出會也。□談ジテ歸テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申
            刻着、宿。夜中、雨降ル。
                『曾良旅日記』


  旧暦八月五日(陽暦九月十八日)、八泊九泊にわたって山中温泉で旅の疲れを癒やした芭蕉翁は、昼自分に世話になった泉屋の若主人久米之助(桃夭)に、
        湯の名殘今宵は肌の寒からむ
との留別の句を贈りました。
  芭蕉翁は立花北枝を伴って那谷寺を経て、生駒重信(萬子)と対面するために、再度、小松へ訪れることにしました。
  一行は山代温泉へ戻り、上野、森、勅使、榮谷を経て那谷寺に向かいました。

  那谷寺からは小松へは、二里半の行程でした。芭蕉翁一行は、この日は小松に戻っただけで、生駒重信(萬子)と会ったのは翌日のことと思われます。小松での宿は不明ですが、書簡を送ってくれた俳人塵生(村井屋又三郎)宅であったのか。

  体調を崩していた曾良は、芭蕉翁一行を見送った直後に、泉屋久米之助の菩提寺である加賀大聖寺の全昌寺へと出立し、申刻(午後四時頃)に到着しました。

  曹洞宗の全昌寺は山中温泉で宿泊した泉屋の菩提寺で、当時の住持三世白湛和尚は泉屋久米之助の叔父であったため、久米之助の紹介で爰に宿泊したものと思われています。

        〈那 谷〉
        山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせたまひて後、大慈大悲の像
        を安置したまひて、那谷と名付たまふと也。那智・谷組の二字をわかちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上
        に造りかけて、殊勝の土地なり。
                石山の石より白し秋の風


        ○山中の温泉
            加州江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。

        此温泉を紫雲湯ともいひ、白鷺湯ともいへるよし。むかし長のなにがし此所に鷹狩し給へるに、しら鷺の足ひたしてその疵いえたりといふ亊、
        旧記に傳れば、いふなるべし。
                『東西夜話』(元禄十五年刊)各務子考


        江沼郡山中の温泉は、天平年中、行基ぼさち北國巡歴のみぎり、霊泉あることをさぐり、一宇をひらき、醫王山國分寺と號け、そのうへ、塚谷
        の郡司加納遠久といふものに命じて温泉をまもらしめてよりこのかた、功験世に越て諸病を治す。されど霜ゆき星くだちて、終に廢地となる。
        しかるに、治承の春、長谷部の信連、此ところに狩したまふに、白鷺矢疵をかうむりしが、この温泉に彳み補ひけるを見て、霊泉あることをし
        り、再び國分寺を志立ありて白鷺の湯と呼びたまひしより、今に盛んにして、遠近の客夜につどひ、北國第一の繁榮こゝにあらはる。名品に
        は、湯漬艾、桑のねぶりこ、木地細工のうつりもの、さまざま美作をつくす。そのほか、胡蒐の實、かた子、山の薯、煎茶などを製す。又、十
        二景の佳所あり。道明が淵、桂淸水など、面白きところなり
                『北國奇談巡杖記』(文化四年刊) 鳥翠臺北巠

        ○白根が嶽
            白山火山帯の主峰、最高頂御前峰は標高二七○二メートル。白山神社を祀る。歌枕としては、白山(しらやま)の名で知られ『類字名
            所和歌集』には以下二十一首が収められている。

                古今    別        よそにのみ戀ひやわたらん白山の    ゆきみるべくもあらぬわが身は          躬恒
                同                   君が行く越の白山しらねども    雪の随に跡は尋ねむ                 藤原兼輔朝臣


    

        『類字名所和歌集』巻六 白山

        ○観音堂
            流紋岩(rhyolite)と角礫岩(breccia)よりなる岩山の洞窟の中に十一面千手観世音菩薩像を安置し、洞窟前に堂を設けたもので、養
            老元年(717)越の大徳と称された修験道の僧泰澄(682〜764)の創建にかかり、自生山巖谷寺と号したが、寛和二年(986)花山
            法皇(968〜1008)行幸の折に那谷寺と改めた。その後南北朝(1036〜1092)の戦乱で荒廃したが、寛永十七年(1640)に加賀藩
            第二代藩主前田利常(1594〜1658)によって再建された。

        ○花山の法皇
            第六十五代花山天皇(在位984〜986)。永観二年(984)十月十日、十七歳で即位するも、在位二年にして寛和二年(986)六月二
            十三日払暁、密かに禁裏を出て東山花山寺(元慶寺)で出家した。
            突然の出家については、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因としているが、『大鏡』で
            はさらに、右大臣藤原兼家(929〜990)が、外孫の懐仁親王(一条天皇:在位986〜1011)を即位させるために陰謀を巡らしたこと
            を伝えている。

            法皇となった後には、奈良時代初期に大和国長谷寺の開山徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂
            津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。
            この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されている。

    
        
        第六十五代花山天皇    月岡芳年「花山寺の月」    (明治23年)

        ○三十三所の順礼
            観世音菩薩が衆生化益のために身を三十三体に現したとする「法華経観世音菩薩普門品」の教説に基づき、観世音菩薩を奉祀する三十
            三ヵ所の寺院を巡礼すること。平安末期に始まり、鎌倉期までは僧侶によって行われたが、南北朝以後、俗人の参加する者が多くなっ
            た。

            室町末期から近世にかけて固定した順路は、一番那智山青岸渡寺に始まり、紀伊、和泉、河内、大和、山城、近江、攝津、播磨、丹
            後、丹波、美濃の十一ヵ国を巡って、美濃谷汲山華厳寺に終わる。近世に至り、板東、秩父などの三十三所順礼が行われ出してから、
            前の順路を西国三十三ヵ所と称するに至った。

        世ニ観音ノ霊場ヲ尋ネテ三十三處ニ詣ズ、之ヲ巡礼ト謂フ。(中略)相傳ふ、寛和法皇其ノ端ヲ啓クト
                『塩尻』 曼荼羅講寺沙門炬範筆記 原、漢文


        花山院御發心の後、國々を御修行ありし、是始なるべし。今の三十三所観音順礼も此法皇より權輿す
                『河内國名所鑑』葉室佛現寺


とあるように、近世における通念となっていたが、

        相傳フ、崋山ノ法皇、霊夢有ルヲ以テ、長徳元年三月十七日始メテ熊野ニ詣デ、六月朔日谷汲ニ至ル。△按ズルニ、法皇順礼ノ亊、史傳ニ載セ
        ズ。〈唯機内近國行旅ヲ謂フナリ。此ノ時熊野處々御参詣有ルカ。恐クハ三十三所ニ拘ハルベカラザルナリ。〉好亊ノ者、後ニ序次ヲ定ムル者
        カ。順礼は當ニ巡礼ニ作ルベシ。順逆ノ義ニ非ズシテ巡行ナリ
                『和漢三才圖繪』 西國三十三所順礼 原、漢文


と弁ずるごとく、根拠なき俗説とみるべきとされている。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:31Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月26日

奥の細道、いなかの小道(37)− 山中

    
   
        山  中

    (旧暦9月5日)

           一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆
               尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予、北枝随レ之。
                『曾良旅日記』


  旧暦七月二十七日(陽暦九月十日)、芭蕉翁と河合曾良そして同行している立花北枝は小松諏訪社(菟橋神社、小松市浜田町)の祭礼(西瓜祭)を見物し、巳ノ上刻(午前九時頃)に山中温泉に向かって旅立とうとしていたところ、斧卜、志挌らが来て引き止めましたが、さすがに今度は断って出立しました。
 
  途中、多太神社に再度立ち寄り、芭蕉は奉納の句を詠じ、曾良、北枝も芭蕉に倣いました。

            多田の神社にまうでゝ、木曾義仲の願書并實盛がよろひかぶとを拝ス
                    あなむざんや甲の下のきりぎりす                翁
                    幾秋か甲にきへぬ鬢の霜                          曾良
                    くさずりのうら珍しや秋の風                        北枝
                        『卯辰集』


  芭蕉翁一行は多太神社を参拝後、山中の温泉(いでゆ)に向かいました。『曾良旅日記』では直接山中に向かっていますが、『おくのほそ道』本文では、那谷寺に参詣してから山中に向かったように順序が入れ替わっています。

            一 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
                『曾良旅日記』


  小松城下から北國街道を南下し、一里ほどで今江に至ります。さらに串茶屋、串を経て進むとかつての柴山潟の舟付き場であった月津で、当時の柴山潟は現在より約四倍近くの広さを持った潟湖でした。今江潟、木場潟とともに加賀三湖と呼ばれていましたが、戦後、今江潟と柴山潟の約六割が干拓されて、主に農地として利用されています。

  月津から高塚を過ぎ、柴山潟に流れ込む動橋川に架かっていた橋は一本橋で、渡る際に不安定に揺れたため動橋(いぶりばし)と呼ばれていました。橋を渡って動橋宿を過ぎてから北國街道を離れ、庄、七日市、西島を経て山代温泉に至ります。さらに、河南に出て、大聖寺川左岸と平行する山中道を南下し、二天、中田、上原、塚谷を経て一行が山中の出で湯についたのは、申ノ下尅(午後五時頃)でした。一行は、泉屋(和泉屋)久米之助方に宿をとりました。小松から約六里の行程でした。
  一行が山中の出で湯を訪れたのは、病気の曾良を養生させ、芭蕉自身も長途の旅の疲れを癒やすためでした。
    
                〈山 中〉
                温泉に浴す。その功有明につぐといふ。
                    山中や菊はたおらぬ湯の匂
                あるじとするものは久米之助とていまだ小童なり。かれが父誹諧を好み、洛の貞室、若輩のむかしここに來りし比、風雅に辱
            しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、この一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
                曾良は腹を病て、伊勢の國長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行くに、
                    行行てたふれ伏とも萩の原        曾良
            と書置たり。行くものゝ悲しみ、殘るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
                    今日よりや書付消さん笠の露


            ○温泉(いでゆ)
                加賀國江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。山中の出で湯は、「総湯」の菊の湯を中心に大聖寺川渓谷に沿って
                旅館が建ち並んでいる。天平年中(729〜749)、僧行基(668〜749)によって湯が開かれたと伝えられているが、その
                後、承平の乱(平将門の乱:935〜940)のために途絶えてしまった。文治元年(1185)、源頼朝(1147〜1199)から
                能登国珠洲郡大家荘を新恩給与され、地頭職へ補任された長谷部信連(不詳〜1218)が、鷹狩りの際此の山に入り、傷ついた
                一羽の白鷺が流れに足を浸しているのを見てその下の温泉をみつけ、再興したとしたと伝えられている。

                此のとき、長谷部信連が湯ザヤ(総湯)の周辺に家臣十二人を住まわせたのが、湯本十二軒の始まりだと云われている。芭蕉
                翁一行が宿泊した泉屋(和泉屋)は、草創期から温泉宿を営む十二軒の内の一軒で、当主久米之助は十四歳の少年であっ
                た。俳人でもあった叔父の自笑が後見しており、芭蕉らはこの自笑の招きで泉屋に泊まったものと考えられている。 

            ○有明
                有馬の誤り。摂津の有馬温泉をさす。

            吾國六十よこくの中に、ありとある温場は、普く此二神(大己貴命、少彦名命)の御恵なるべし。それ
            が中にも此温場、世にすぐれたる亊、親りに明かなり。(中略)行幸ありしは舒明天皇三年の秋、同じき十年の冬、又、孝徳天皇の三
            年の冬なりとかや。されば釋の行基、昆陽寺より爰に徘徊せし時、藥師如來、病人と現じ奇特を告げ給うふによて、湯槽をかまへたり
            となむ
                    『有馬名所鑑』


            ○久米之助
                本姓は長谷部氏、和泉屋甚左衛門(1676〜1751)の幼名。この時、芭蕉から桃靑の「桃」を取って桃夭の号を与えられ
                た。

                    加賀山中桃夭に名をつけ給ひて
                桃の木の其葉ちらすな秋の風
                    『泊船集』


            ○かれが父 
                長谷部又兵衛豊連。延寶七年(1679)没。

            洛の安原氏貞室は中年迄はいかいを知ず。一とせ加州山中の湯主いづみや又兵衛といふものに恥しめら
            れ、歸洛して貞徳の末の門人と成。志あつくして終に此人に花の本を譲り、貞室と名乗る
                    『歴代滑稽傳』(正徳五年)

            武矩主は貞室叟に教へ、桃夭主は祖翁に習ふ
                松高き風にさらすや蝉の衣                幾暁
                    『百合野集』(寛延四年)


            ○貞室
                安原正章(1610〜1673)、通称鎰屋彦左衛門。別号、一嚢軒、腐誹子。京都の生まれで、紙商を営む。幼少より貞徳の門に
                出入りし、慶安四年(1651)四十二歳にして貞徳より俳諧の点業を許され、承應二年(1653)師の貞徳が没するや、政治的
                手腕をもって貞門の主導権を握り、翌年、正章より貞室と改号して貞徳二世を名乗った。

            貞室若クシテ彦左衛門ノ時、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衛ニ被レ進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、一兩年過テ、名人トナ
            ル。來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習レ之。以後山中ノ俳、点領ナシニ致遺ス。又兵ヘハ、今ノ久米之助祖父也。
                    『俳諧書留』

            ○風雅に辱しめられて
                俳諧の道で恥辱を受けて。

            予、少年の頃、厳父君、飛驒の吏たりし時、彼國へ陪し、數年遠く遊ぶ亊有。此國、加州と隣なれば、此雑談を里人に聞けり

            貞室は都の商人にて、俗名は鍵屋彦左衛門といへり。口碑に傳る所、都より年々三越路あるは加賀國に往來ふ商客也。然るに此山中へ
            も時々売買に依て來る亊有しに、山中の俳士共打寄て俳諧興行有。宿なれば、彦右衛門をも進めていふ、都人なればさぞな貞徳の門人
            などにてやあらん、いざゝせ給へ、など進めけれども、都に生まれて貞徳の名さへ知らぬ程の不風雅の商客なれば、甚ダ赤面して其席
            を断退ぬ。彦右衛門つらつら思ふに、かく辺鄙の人すら、風流の道は知りぬるに、いかなれば帝都に生まれて斯拙きゆへ、田舎の人に
            恥ずかしめを請る亊よ、と深く我身歎息して、帰京の後、本文の通、我産業を投げうち、貞徳の門人と成て、終に高名の人とはなりぬ
                    『奥のほそ道解』(天明七年) 後素堂(馬場錦江)


                宿で俳諧を勧められたが、その心得がなかったということか。

                しかし、貞室は幼少時より貞徳に親近し、遅くとも寛永二年(1625)十五歳の時には貞徳の私塾に入門し、寛永五年
                (1628)十八歳のころから俳諧を学び始めている。もし、この口碑のような事実があったとすれば、十五ないし十八歳以前の
                ことになるが貞徳の俳諧の初会が寛永六年(1629)のことであり、俳諧の全国的な流行の機運の興る以前のことであるなら
                ば、こうした事実の起こりうる可能性は希有と思われ、貞室の盛名に付会した説話と見なされている。

            ○貞徳
                松永勝熊(1571〜1653)、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種(1538〜1598)は摂津
                高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹
                巴(1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多く
                の良師を得て、古典、和歌、連歌などの素養を身につけた。

                二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とす
                る。慶長二年(1597)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年
                (1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳
                諧の興隆に貢献した。
                家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。
  
    

        松永貞徳(1571〜1653)

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:13おくの細道、いなかの小道

2017年10月14日

奥の細道、いなかの小道(36)− 小松

 

 (旧暦8月25日)

  

      小松おくの細道マップ

    〈小 松〉
          小松といふ所にて 
        しほらしき名や小松ふく萩すゝき
    この處、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返し
    まで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし亊
    共、まのあたり縁記にみえたり。
        むざんやな甲の下のきりぎりす


    ○太田の神社
        多太神社。現在の小松市本折町にある延喜式内社。祭神は、衝桙等乎而留比古命、仁徳天皇、應仁天皇、神功皇后、比咩大神、軻遇突智神、蛭
        児命、大山咋命、素盞嗚命、継体天皇、水上大神。

    抑当社多太八幡宮ハ、元正天皇御宇、養老二年の御鎮座にて、壽永二年五月、(中略)義仲卿当社へ御参詣、御祈禱のため、社領蝶屋の庄御寄付。(中
    略)慶長年中、小松の城主丹羽長重朝臣より当社の領に能美郡舟津村を寄付し給ふ。長重奥州へ移り給て後、元和二年、小松黄門公より御印物を以、同
    郡三日市村の内にて御寄付也
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○真盛
        長井別當斎藤実盛(1111?〜1183)。山蔭利仁流、越前国河合荘南井郷を支配していた河合斎藤次郎則盛の子として生まれ、長じて武蔵国長
        井斎藤籐太實直の養子となり、養父の「實」と実父の「盛」の字をとって「實盛」と名乗る。
        初め左典厩源義朝(1123〜1160)に仕えて保元の乱、平治の乱に従軍したが、義朝滅亡後、母方の縁で平宗盛(1147〜1185)に仕え、壽永
        二年四月、木曾義仲追討の戦の出陣に際しては、宗盛より錦の直垂の着用の許しを請い、白髪を染めて奮戦し、加賀篠原で木曾義仲の臣、手塚
        太郎光盛(不詳〜1184)の手にかかって討ち死にした。

    

      『前賢故実』による斎藤實盛

    真盛ハ、〈或ハ實盛ト書ス〉斎藤別當ト號ス。越前ニ生ル。始ハ、源義朝ニ属シ、後ニ平宗盛ニ随ヒ、加州篠原ノ合戰ニ死ス。出生ノ地ハ、吾ガ住
    ム丸岡ヨリ十町余北ニ長畝ト云フ村アリ、此地ニテ生ルト云フ。今、真盛屋敷〈今、竹林トナル。廻リ一里バカリ。〉産湯池ナド云フ蹟アリ。篠原
    モ今、村名トナル。加州大聖寺驛ヨリ三里許西北ノ海邊ナリ。村ノ西、松林ノ中ニ真盛塚アリ。其北入江ノ中ニ首洗池ノ蹟ト云フアリ。
        『奥細道菅菰抄』


    ○甲   
        銘、鏤菊。明治三十三年国宝、昭和二十五年に重要文化財に指定。甲はよろいの義で、かぶととするのは和の俗訓。
  
    甲ハ本、冑ノ字、兜ノ字等ヲ用ユベシ。〈鉀ノ仮音ナリ〉和俗、甲冑ノ二字ヲ涀等して顚倒シテ用ユル亊久シ
        『奥細道菅菰抄』


    鎧甲 二字の義同ジ。然ルニ日本ノ俗、甲呼テ冑ノ讀ト爲ス、大ニ誤歟。或ハ天下ノ勝亊ヲ呼テ天下ノ甲ト曰フ者、義、甲乙ノ甲ニ取ル。甲冑ノ甲
    ニ非ズ。
        『下学集』(原漢文)


    茲利仁將軍之末葉實盛、乃越前國之賢君子也。文思武威、炫輝于一世、先是義朝贈以鍵菊甲、褒美之。當此時、義朝守國日殘、賊徒鋒起。實盛輒戴  
    所受甲殺精鋭之兵七千余人、以報恩。
        『木曾義仲副書』

    茲ニ利仁將軍之末葉實盛ハ乃チ越前ノ國之賢君子也。文思武威、一世ニ炫輝ス。是ヨリ先、義朝贈ルニ鍵菊ノ甲ヲ以テシテ、之ヲ褒美ス。此時ニ當
    タリテ、義朝國ヲ守ルコト日殘ク、賊徒鋒起ス。實盛輒チ受クル所ノ甲ヲ戴キ、精鋭之兵七千余人ヲ殺シテ、以テ恩ニ報ズ。


    各甲冑根元は、多田満仲公より源家累代御傳來、實盛へは平治の亂の節義朝公より拝領のよし、即ち各願状にも其趣あり
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○錦の切
        錦は金糸および諸種の彩糸を紋織りにした厚地の絹織物。切れはその断片で、もと實盛が平宗盛より直垂として下賜されたものという。

    錦の直垂〈此直垂は京都出陣の砌、平宗盛卿より拝領也〉
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    鎧直垂は、大將平士に通じて是を用ひ、錦は大將に限りしこと、古今同じきならん
        『柳葊雑草』巻二


    錦ノ帛ハ、宗盛ヨリ真盛ヘ賜ル所ノ赤地錦ノ直衣ノ切ナリ。本ハ直衣ノママニシテ義仲ヨリ奉納有リシヲ、イツトナク切リ取リシ由、今ハ僅ニ縦二
    尺、横一尺許ノコル。織文ハ白萌黃ナドニ金ヲ雑テ、雲文、鳥文アリ
        『奥細道菅菰抄』


    ○義朝公
        左典厩源義朝(1123〜1160)、河内源氏の一族、六条判官源爲義(1096 〜1156)の長男。源頼朝(1147〜1199)の父。保元の乱  
        (1156)に後白河法皇(1127〜1192)に味方して、乱後左馬頭になったが、平清盛(1118〜1181)の勢威の上がるのに不満を抱き、悪右
        衛門督藤原信頼(1133〜1160)と結んで平治の乱(1160)を起こし敗北、尾張野間の長田庄司忠致(不詳〜1190?)のもとで謀殺された。

    

        『平家物語絵巻』 平治の乱で敗走する義朝一行。


    ○龍頭  
        兜の前面中央の立物(飾り金具)で、龍の頭の形をしたもの。

    龍頭の冑とイフ物、後三年ノ戰ノ日、八幡殿ノツクラレシ八龍の冑ニヤ始マリヌラン。保元の時義朝ノ着セラレシ龍頭ノ冑、スナハチ此ノ物也
        『本朝軍器考』 新井白石


    ○鍬形
        兜の前面左右の立物。

    鍬形トイフ物ハ、澤潟ノ葉ノイマダ開カヌ形ヲカタドレル也、オモダカトイフ物ハ、勝軍草トモイフナレバ、鎧ニモ澤潟縅ナドイフアリトイヘル説ア
    リ。マコトニ其ノ形ハヨク似タレド、カゝル名モアリケリトイフ亊イマダ見ル所ナケレバ、イブカシ。蝦夷人ノ寶トスル鍬サキト云フアリ。國ノ人病ス
    ル時、其ノ枕上ニ立テ災ヲ攘フ物也ト云フ。其ノ形、我ガ國ノ鍬形ノ制ナル物也。サラバ我ガ國ノ昔ヨリ此ノ物ヲ冑ノ物ニ立テシ亊モ、必ズ其ノ故アル
    ベケレド、今ハ其ノ義ヲ失ヒシニコソ
        『本朝軍器考』 新井白石


    くはがたは、くわゐと云ふ草の葉の形なり。くはへと取りなして、物のくはゝり増すこゝろにて、祝の義にて、古よりもちひ來れるなり。立物
    は皆金にてみがくべし。鍬形の長さ一尺二寸、但、人の器量により長くも短くもすべし。不定
        『軍用記』 伊勢貞丈


    ○木曾義仲
        源義仲(1154〜1184)、河内源氏の一族、東宮帯刀先生源義賢(不詳〜1155)の次男。久壽二年(1155)八月、武蔵国比企郡大蔵(比企郡
        嵐山町)において鎌倉悪源太源義平(1141〜1160)の弑逆により父義賢を失ったが、秩父氏の一族、畠山重能(生没年不詳)の庇護を受け、
        乳父である権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。
    
        治承四年四月、叔父の新宮十郎源行家(1141頃〜1186)より以仁王(1151 〜1180)の平氏追討の令旨を受け挙兵、壽永二年(1183)三月
        越後國府を進発して、五月倶利伽羅の険を突破、七月入京して平氏を西国に追い落としたが、朝野の人望を失い、壽永三年正月二十日、蒲冠者
        源範頼(1150?〜1193?)、九郎判官源義経(1159〜1189)の軍勢に近江粟津で敗死した。

    

        木曾義仲像(徳音寺所蔵)

    ○樋口の次郎
        樋口兼光(不詳〜1184)は、平安末期の武将で、権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の次男。今井兼平(1152〜1184)の兄。木曾義仲の乳母子
        にして股肱の臣。木曾四天王の一人。信濃國筑摩郡樋口谷(木曽町日義)に在して樋口を称した。
        壽永二年五月、礪波山の戦いに小松三位中將平維盛(1158〜1184)の軍を破り、同三年正月、河内國石川城を攻略するも同年一月の粟津の戦
        いでの木曾義仲の打ち死に後、武蔵児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。しかし、後白河法皇と木曾義仲が対立した壽永二年十一月の法住寺
        合戦の責めを負い、朱雀大路で斬罪に処せられた。

    

        樋口兼光(徳音寺所蔵)

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:03Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月04日

奥の細道、いなかの小道(35)− 金澤

  

    高野素十(1893〜1976)

  (旧暦8月15日)

  素十忌
  俳人高野素中(1893〜1976)の昭和五十一年(1976)の忌日。本名與巳(よしみ)。医学博士。高浜虚子に師事し、虚子の唱えた「客観写生」のおしえを
  忠実に実践したものと考えられている。彼は季語が内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像
  を映しだすような創作態度をとったと評されている。
      方丈の大庇より春の蝶
      くもの糸ひとすぢよぎる百合の前
      ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
      甘草の芽のとびとびのひとならび
      翅わつててんたう虫の飛びいづる
      づかづかと来て踊子にささやける
      空をゆく一とかたまりの花吹雪


      〈金 澤〉
      卯の花山・くりからが谷をこえて、金澤は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此
      道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
          塚も動け我泣声は秋の風
            ある草庵にいざなはれて 
          秋涼し手毎にむけや瓜茄子
            途中吟
          あかあかと日は難面もあきの風


  

    芭蕉真蹟

      ○卯の花山
      卯の花山は、くりから山の續きにて、越中礪波郡となみ山の東に見えたり。源氏が嶺と云あり。木曾義仲の陣所なり。義仲の妾巴、葵〈俗に山吹女
      と云〉二人が塚も此あたりに有。卯の花山は、名所なり。
          『奥の細道菅菰抄』


      卯花山 越中

      玉葉夏       かくばかり雨の降らくに時鳥  卯花山になほか無くらむ           人麻呂
      風雅夏       朝まだき卯花山を見わたせば  空はくもりてつもる白雪          前大納言治經房
      新千載夏    郭公卯花山に屋すらひて  そらに知られぬ月になくなり          二品法親王守覺
      同              明けぬともなをかけ殘せ白妙の  卯花山のみしかよの月       中務卿宗尊親王
          『類字名所和歌集』 巻四 卯花山


  

    『類字名所和歌集』 巻四 卯花山

      ○くりからが谷  
      くりからが谷は、くりから山の谷を云。くりから山は、越中今石動の驛と加賀竹の橋の宿のとの境にありて、嶺に倶利伽羅不動の堂あり。故に山の
      名とす。今或は栗柄山共書ク。平家と木曾義仲と合戦の地、一騎打と云て、岩の間の道至て隘き所あり。此山の麓、越中の地、羽生村といふに、八
      幡宮あり。木曾義仲、大夫房覺明をして、平家追討の願書を書しめ、奉納ありし神社にて、其願書、今に存す。


      ○何處
      大坂人。享保十六年亥六月十一日卒。光明山念佛寺葬
          『芭門諸生全傳』 遠藤曰人


      ○一笑
      加賀金澤の人。小杉味頼(1653〜1688)。通称、茶屋新七。金澤片町に葉茶屋を営むかたわら、初め貞門七俳仙のひとり高瀬梅盛(1619〜 
      1701)に学び、後に蕉風に帰している。寛文以来、松江重頼(1602〜1680)、北村季吟(1625〜1705)、高瀬梅盛(1619〜1701)、富尾似
      船(1629〜1705)、江左尚白(1650〜1722)らの諸撰集に入集、ことに江左尚白の『弧松』(貞享四年)には百九十四句が入集し、加賀俳壇の
      俊秀として聞こえた。芭蕉の来訪を待たず元禄元年十一月六日没、享年三十六。

      加刕金澤の一笑は、ことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程、お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに
          『雑談集』 其角


      ○其兄
      小杉丿松(べつしよう)。元禄二年七月二十二日、金澤野町の小杉家菩提寺願念寺にて一笑の冥福を祈って句会を催し、その折の句を主に追善集
      『西の雲』(元禄四年刊)を刊行した。

       ○塚も動け我泣声は秋の風
      とし比(ごろ)我を待ちける人のみまかりけるつかにまうでゝ
        つかもうごけ我泣聲は秋の風



      一  十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。
        京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)、芭蕉翁一行は倶利伽羅峠を越え、竹橋宿、杉瀬、津幡宿をへて北國街道を左折し、岸川、花園、八幡、月影をすぎて金澤城下への北の入口大樋口に至りました。金腐川を渡ると、左手前方には卯辰山麓の寺々の甍が連なり、一行は浅野川の小橋下流右岸近くで酒屋業を営む京屋吉兵衛宅に宿をとりました。

  一行は、北国筋を往来する大坂道修町の薬種商何處の助言に従い、同宿することにしました。何處は、向井去來(1651〜1704)と野沢凡兆(1640〜1714)が編集した蕉門の発句・連句集で、蕉門の最高峰の句集であるとされる『猿蓑』にも入集する俳人で、金澤での奇遇でもありました。

  高岡から金澤までは十一里強の道程と云われ、未ノ中刻(午後二時頃)に金澤に到着したと云うから、馬を使ったのではないかと考えられているようです。
  京屋吉兵衛宅で、芭蕉は早速金澤在住の門人竹雀と一笑とに使いを出して、金澤到着を知らせようと連絡をとりました。竹雀(亀田武富)は、通称を宮竹屋喜左衛門といい、河原町(片町)で旅籠業を営み、のちに金澤俳壇で活躍する亀田小春、通称宮竹屋伊右衛門の次兄にあたっていました。小杉一笑は、宮竹屋の向かい側で薬茶屋を営んでおり、当時金澤俳壇の俊英で、芭蕉翁の金澤来遊の目的の一つは、この一笑に会うことであったといいます。


  連絡を受けた竹雀は、牧童(立花彦三郎)を伴ってやってきました。牧童は北枝(立花源四郎)の兄で、弟北枝とともに刀研師として加賀藩の御用を勤めていました。
  芭蕉翁は竹雀と牧童から、一笑が昨年、元禄元年(1688)十二月六日に死去したことを知らされ、大いに落胆したものと思われます。

  芭蕉翁は竹雀、牧童を相手に、久しぶりに俳人らしき一夜を語り明かしたことでありましょう。

  芭蕉翁一行が金澤に着いた日は盂蘭盆会で、曾良の『俳諧書留』に「盆」と前書きして、
    熊坂が其名やいつの玉祭り  翁
の句が記載されています。
 
      一  十六日 快晴。 巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方へ移ル。段々各來ル。謁ス。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十六日(陽暦八月三十日)、芭蕉翁一行は河原町(片町)の旅籠宮竹屋竹雀に招かれ、巳ノ刻(午前十時頃)に駕籠で浅野川を渡って、当時御城下随一の繁華街尾張町を通り、近江町市場のある武蔵が辻を曲がり、香林坊を経て河原町(片町)に着きました。

  芭蕉が金澤を訪れた時は、歴代藩主の中でも文化政策を最も推進した四代藩主前田綱紀(在任1645〜1723)の代でした。
  綱紀は藩内に学問、文芸を奨励し、紙・木・竹・染織・革・金属の素材を加飾する工芸技術百般の各種標本をつくらせ、「百工比照」と呼ばれる工芸標本として集大成させました。さらに古今の文献類の蒐集保存につとめ、また、儒学者木下順庵(1621〜1699)、室鳩巣(1658〜1734)、稲生若水(1655〜1715)らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した『桑華学苑』(百科事典)を著しています。

  芭蕉の金澤来訪を知った地元の俳人達が続々と宿舎に挨拶に訪れ、彼らと面談しています。その中には、亀田竹雀、立花牧童、斎藤一泉、服部高徹、立花北枝、亀田一水、小杉丿松、小野雲口、河合乙州、徳子らの名が、『曾良旅日記』に記載されています。
   続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:45Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年09月26日

奥の細道、いなかの小道(34)− 一振、邦古の浦(2)

  

    葛飾北斎畫 芭蕉之像

    (旧暦8月3日)

    奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)のつづき

    ○担籠の藤浪 
    担籠は歌枕で、汐を汲む桶のことを指しますが、地名としては、現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされています。
    同じく『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊には、歌枕『多枯浦』は六首が挙げられています。

    多枯浦   磯   入江   越中   射水郡   駿河同名有

    拾遺夏                    多枯浦の底さへ匂ふ藤波を  かざして行かむ見ぬ人のため            柿本人麿
    新古今雑上             をのが波に同じ末葉ぞしをれぬる  藤咲くたこの恨めしの身や         慈圓
    玉葉雑一                沖つ風吹きこす磯の松が枝に  あまりてかかる多枯の浦藤              前關白左大臣
    新後拾遺雑春          早苗取たこの浦人此ころや  も塩もくまぬ袖ぬらすらむ                   前左兵衛督教定
    新續古今春下          此のころはたこの藤波なみかけて  行てにかさす袖やぬれなむ       土佐門院
        『類字名所和歌集』 巻三

    
  

    『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊 巻三 多枯浦

    多胡の浦  景物  藤を専によめり
        『國花萬葉記』 巻十二

    那古、担籠は、皆越中射水郡の名處にて、那古の湖は、放生津と云。濱町の北に有。名處方角抄には、奈古と書り。なごの海の汐のはやひにあさりにし
    出んと鶴は今ぞ鳴なる。〈此の外古歌多し〉

    担籠は、歌書に多古、多胡等の字を用ゆ。〈たこの二字すみてよむべし。駿河の田子の浦に紛るゝ故なり〉海邊氷見の町の北、布施の湖のほとり、〈布
    施のうみも名處なり〉今田となる。拾遺、多胡のうら底さえ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため、人丸(麻呂)。此藤のかたみとて、今猶しら藤あ
    り。此上の山に、大伴家持の館の跡あり。

    友人靑木子鴻の説に、たこは、担籠と書を正字とすべし。担籠は、潮汲桶の名。此處は、海邊なれば担籠にて潮をくみ、焼て塩となす。故に担籠のう
    らと稱す。塩やく浦といふ心也。多古、多胡、多枯等は、皆仮名書なり。駿河の田子の浦も、是に同じ。故に續日本紀ニ、駿河國従五位下楢原造東等、
    於部内廬原郡多枯浦濱獲黃金献之、と有。然れば、たこの浦は、越中、駿河ともに何れの字を用ても苦しからず、と見えたり、といへり。
        『奥細道菅菰抄』 簑笠庵梨一 撰



    ○初秋(はつあき)の哀とふべきものを
    たとい古歌に詠まれている藤の花咲く春ではなくとも、今の初秋の情趣を尋ねて一見すべき値打ちはあろうものを、との意。

    ○蜑の苫ぶき
    漁師の苫葺きの家。

    ○蘆の一夜
    「蘆の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの。

    千載集戀三    難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑ  身をつくしてや戀ひわたるべき    皇嘉門院別當

    ○わせの香や分入右は有磯海

    季語は「早稲」で、秋七月。「わせの香」は、熟した早稲の穂から漂ってくるかすかな香りで、米所越中の国土の豊かさを、細やかな感覚で表したも
    の。

    「有磯海」は「荒磯海」の約で、岩が多く波の荒い海岸を控えた海の意味を表す普通名詞だったが、『萬葉集』などの詠により、歌枕としての固有名詞
    とされるに至ったもの。

  

    有磯海

   
    可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎
    かからむとかねて知りせば越の海の  荒磯の波を見せましものを    大伴宿禰家持

    之夫多尓能 佐伎能安里蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敝於母保由
    澁谿の崎の荒磯に寄する波  いやしくしくに古へ思ほゆ            大伴宿禰家持

    伏木の浦は、奈古の入江に續きて、北の方は有磯の濱近し。此處よりすべてありそ海といふなるべし。
        『白扇集』寶永六年刊 浪化上人

 
    ○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川
    也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不
    快同然。
        『曾良旅日記』


  旧暦七月十四日(陽暦八月二十八日)、快晴で残暑が厳しい中、芭蕉翁一行は滑川を出立して北國街道を西進し、上市川を徒歩で渡りました。滑川の次の宿場水橋は、北前船や千石船(辨財船)の寄港地水橋湊として重要な海運港でした。

  曾良は「富山カヽラズシテ」と記しているように、水橋から富山城下への道はとらずに、白石川を渡り、水橋辻ヶ堂から海岸に沿って氷見まで通ずる「濱街道」を通り、常願寺川を舟で渡って東岩瀬に向かいました。

  神通川河口の岩瀬は、江戸期には加賀藩の御蔵が置かれ、北前船で米や木材などを大阪や江戸などに運んでいました。

  そしてこの旧上新川郡東岩瀬町より旧上新川郡浜黒崎村横越に及ぶ富山湾沿いの海浜に面する総計約二里の「古志の松原」は、慶長六年(1601)に加賀藩第二代藩主前田利長(1562 〜1614)がその植樹を命じたもので、かつてのこの一帯は「越中舞子」と呼ばれる白砂青松の風光明媚な景勝地でした。

  一行は東岩瀬宿から神通川を舟で渡り、四方、海老江の集落を経て放生津に到り、放生津八幡宮を参詣しました。
  放生津の北の「越の海」一帯が放生津潟(越の潟)で、古くは「奈呉浦」と呼ばれ、伏木の浦から西方氷見に至る一帯が有磯海と考えられています。
  放生津の放生津八幡宮(射水市八幡町二丁目)は社伝によれば、天平十八年(746)、越中國司大伴家持(718頃〜785)が豊前國宇佐八幡宮から勧請した奈呉八幡宮を創始として、嘉暦三年(1328)に放生津の地名が定められ、以降、放生津八幡宮として現在に至っていると伝えられています。
 
  大伴家持は二十九歳の天平十八年(746)七月、國司として越中國に赴任し、その雄大な自然と風土にふれて、天平勝寶三年(751)までの在任五年間で、二百二十余首の歌を詠み、奈呉、奈呉の海、奈呉の江、奈呉の浦を詠んだ秀歌を残しています。

  芭蕉の越中歌枕探訪は、大伴家持の歌を追憶するに留まり、同席して俳諧を楽しむ者に出会うこともなかったので、歌枕の一つ「有磯海」を句に詠むのが精々の慰めであったのであろうかとの解説もあります。

  放生津八幡宮に参詣し、奈呉の浦の風景を楽しんだ芭蕉翁一行は濱街道を西に進み、庄川や小矢部川を舟で渡り、歌枕の二上山(高岡市)や担籠藤波神社(氷見市下田子)に行く予定でありましたが、そこは漁師の粗末な茅葺きの家ばかりで、一夜の宿を貸す者もいないと言い脅されたので、断念して加賀國に入ったと本文に書き記しています。

  芭蕉翁一行が訪れることを断念した担籠藤波神社は、かつては潟湖の岸辺にあったと云い、現在は雨晴海岸(高岡市太田)あたりから3㎞ほど内陸に入った下田子の藤山という丘陵に鎮座しています。
  この古社は、天平十八年(746)、越中國司大伴家持に従ってきた橘正長が、家持から授けられた太刀を天照大神祭の霊代として奉納し、劔社と名付けて創始したのがはじまりと伝えられています。

  このあたりは、『萬葉集』に出てくる「布勢の水海」の入江の一つで、田子浦(多胡の浦)という歌枕にもなっており、古来から藤の名所でもありました。

    十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花  各述懐作歌四首
    藤奈美乃  影成海之  底清美  之都久石乎毛  珠等曾吾見流

    藤波の影なす海の底清み  沈(しづ)く石をも  玉とぞ我が見る     守大伴宿祢家持

  田子浦は、かつては田子の白藤の群生地として知られ、藤の精が現れて舞を舞って暁とともに消えて行くという、謡曲『藤』の舞台でもありました。

  田子浦は現在、雨晴海岸と呼ばれていますが、此の由来は、文治三年(1187)、源義経(1159〜1189)が北陸路を経て奥州平泉へ下向する際にこの地を通りかかったときに俄雨に遭い、弁慶が岩を持ち上げて義経を雨宿りさせたという伝説から来た名称だと云われています。

  海岸には女岩、男岩などが点在し、越の海越しに雄大な立山の山並みを背景にして、絶景を作り出しています。越中國司として伏木に在住した大伴家持が、此の絶景を詠んだ多くの和歌が『萬葉集』に収められています。

    馬並氐  伊射宇知由可奈  思夫多尓能  欲吉伊蘇未尓  与須流奈弥見尓
    馬並めていざ打ち行かな澁谿の  清き磯廻に寄する波見に     守大伴宿祢家持

  芭蕉翁一行は萬葉の故地として、かねてより心を寄せていた田子浦を訪ねようとしましたが果たせず、諦めて庄川を舟で渡って六度寺に入り、道を南西に向かい、右手に歌枕の二上山を遠望しながら、吉久、能町を経て、申ノ上刻(午後四時頃)に高岡に着き、旅篭町に宿をとりました。

  曾良は、「翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。小□同然。」と記しています。□は原文難読で、残暑の酷しい中を十里弱歩き続けたため、体調を崩してしまったのかもしれません。

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:55おくの細道、いなかの小道

2017年09月14日

奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)

    

      正岡子規(1867〜1902)


    (旧暦7月29日)

  子規忌、糸瓜忌、獺祭忌
  俳人、歌人の正岡子規(1867〜1902)明治三十五年(1902)九月十九日の忌日。辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたことから獺祭忌とも呼ばれる。

  芭蕉翁一行は糸魚川を昼過ぎに出立し、難所の子不知、親不知を通って申ノ中尅(午後4時頃)には市振の旅籠桔梗屋(脇本陣)に到着しているので、糸魚川〜市振間の約五里ほどを4時間弱で踏破したことになるのでしょうか、相当の健脚と云わねばなりますまい。

      〈一 振〉
      今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北國一の難處を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声 
      二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の國新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此關までおのこの送りて、あ
      すは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
      日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れ
      ば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は
      所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。
            一家に遊女もねたり萩と月
      曾良にかたれば、書とゞめ侍る。

   
    

       市  振

  『おくのほそ道』のこの文章は、芭蕉の創作ではないかと推定されています。曾良の旅日記にも市振宿で遊女と出会った記録はなく、『俳諧書留』にもこの句は収載されていません。

  この遊女との出会いの物語は、謡曲「山姥」(世阿彌作)を下敷きに創作したのではないかと考えられています。

      都に山姥の山廻りの曲舞(くせまい)で有名な百萬(ひゃくま)山姥と呼ばれる白拍子がいた。
      ある時、百萬山姥が信濃國善光寺に参詣を思い立ち、従者を連れて旅に出た。途中、越後の上路(あげろ)という山路にさしかかったところで急に
      日が暮れてしまい、途方に暮れていると一人の女が現れ、一夜の宿を提供するからと山中の我が家へ一行を案内する。家に着くとその女は、実は 
      自分が山姥の霊であることを明かし、百萬山姥が曲舞で名を馳せながら、その本人を心に掛けないことが恨めしい、と言う。


      道を極め名を立てて、世上萬徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声佛事をもなし給は 
      ば、などかわらはも輪廻を免れ、歸性の善處に至らざらん


      ここで百万山姥の曲舞を聞いてこの妄執を晴らしたい、と歌の一節を所望してその姿を消す。

      我國々の山廻り。今日しもここに來るは。我が名の徳を來かん爲なり。謡い給いてさりとては。我が妄執を晴らし給え。

      百萬山姥が約束通り、山姥の曲舞を始めると真の山姥が姿を現する。そして本当の山姥の生き様を物語り、山廻りの様を見せるが、いつしか峰を翔
      リ、谷を渡って行く方知れず消え失せる。 
          宝生流謡曲 「山 姥」


    

    山姥  『畫圖百鬼夜行』  安永五年(1776)刊  鳥山石燕

  この舞台となっている「上路越え」は、親不知の海道が通れない非常時に使われた険しい峠道となっています。芭蕉はこの謡曲を知っていたので、後年、『おくのほそ道』の起稿に際して、加筆した虚構の一つと考えられています。

  さて、市振宿での遊女との出会いが創作ではないかと考えられていることについては、以下のような理由によることだそうです。

    face01①  当時の時代背景を考慮すると、遊女二人だけで伊勢参宮のために長旅をすると云うことはありえない。

    face02②  遊女にそのような旅をする資金や暇があったとは思えず、仮にあったとしても、女性だけの旅には特に厳しかった時代である。

    face03③  市振は越後・越中の国境の宿場であり、芭蕉應一行が泊まった宿は脇本陣の旅籠桔梗屋で、身分制度の厳しい時代に遊女が脇本陣に泊まるとは考えられない。

    face05④  元禄二年(1689)は伊勢神宮の式年遷宮があった年で、『おくのほそ道』の終章「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと」に関わりを持たせるために、「越後の國新潟と云處の遊女成し。伊勢参宮するとて」を創作挿入したのであろうか。

      ○白浪のよする汀に
      湊町新潟を叙情的に表したもので、『和漢朗詠集』遊女の下記の歌を踏まえたものとされています。
 
      しらなみのよするなぎさに世をすぐす あまのこなればやどもさだめず
                      読人不知
            下巻 雜 遊女

 
      ○定めなき契り
      夜ごとに変わる相手に身を任せることで、『撰集抄』巻九第八話「江口遊女事」を下敷きにしているとのこと。

      心は旅人の行き來の船を思ふ遊女のありさま、「いとあはれに、はかなきものかな」と見立てりし
            撰集抄 巻九第八話 江口遊女事



      ○日々の業因
      罪な日々を送るべく定められた前世の因縁のことで、謡曲『江口』の内容を踏まえているか。
   
      シテ     然るに我等たまたま受け難き人身を受けたりといへども
      地        罪業深き身と生まれ、殊にためし少き川竹の流れの女となる。さきの世乃報いまで、思ひやるこそ悲しけれ
            謡曲  江口

      ○行衛しらぬ旅路
      前途の道筋もよくわからぬ道中のことで、謡曲『江口』の次の一節をかすかにひびかせているとのこと。

      地    來世なほ來世。更に世々(せぜ)の終りを辨(わきも)ふる事なし
            謡曲  江口


      ○見えがくれにも
      「そばに遊女がついて行くのもご迷惑でしょうから、せめては見えたり隠れたりの、つかず離れずの形ででも」との意で、これも謡曲『江口』の次の一説によるものか。

      シテ    黄昏に、たゝずむ影はほのぼのと、見え隠れなる川隈に、江口の流れの君とや見えん恥かしや
            謡曲  江口


      ○神明の加護
      伊勢参宮に関係付けて、特に皇大神宮(内宮)の助けを云い、謡曲『斑女』の一節が投影されているものか。

      地    置處いづくならまし身のゆくへ
      地    心だに誠の道にかないなば。誠の道にかないなば。祈らずとても。神や守らん我等まで真如の月は雲らじを。
            謡曲  斑女



      ○結縁せさせ給へ
      仏法と縁を結ぶことで、謡曲『田村』の次の一節に基づくか。

      後シテ    あら有難の御經やな。清水寺の瀧つ波。一河の流を汲んで。他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則ち大慈大悲の、
                   観音擁護の結縁たり。
            謡曲  田村


  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:29おくの細道、いなかの小道

2017年09月10日

奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    

    向井去來(1651〜1704)

    (旧暦7月23日)

    去來忌
    江戸前期の俳人向井去來(1651〜1704)の寶永元年(1704)旧暦九月十日の忌日。 蕉門十哲の一人で、儒医・本草学者の向井元升
    (1609〜1677)の次男として肥前国 (長崎市興善町)に生まれる。陰陽道などの学をもって堂上家に仕え、貞享年間 (1684~1688) 頃、寶井其  
    角(1661〜1707)を介して芭蕉に入門。洛西嵯峨野の落柿舎に住み、元禄四年 (1691) 年、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。同年、野沢凡兆
    (1640〜1714)と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。篤実な人柄で同門の人々にも尊敬され、芭蕉も最も信頼して「鎮西の俳諧奉行」といっ
    たという。

        秋風や白木の弓に弦はらん
        湖の水まさりけり五月雨
        をととひはあの山越つ花盛り
        尾頭のこころもとなき海鼠哉
        螢火や吹とばされて鳰の闇
        鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
        應々といへど敲くや雪の門
        岩鼻やここにもひとり月の客


    奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)のつづき

        ○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎ニ、天や彌惣兵衛へ彌三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不 
            快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至ニ鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月五日(陽暦八月十九日)、昨夜からの雨が止んだので、芭蕉翁一行は辰ノ上刻(午前八時頃)、柏崎へ向かって出立しました。
    北國街道は海沿いに続き、石地、長磯の集落を過ぎると、前歩に海に突き出した観音崎が見えます。岬の南側の坂を下ったところが椎谷で、遠くに越後富士と称される三角形の米山(標高993m)が望まれます。

    当時の椎谷は、上総八幡藩一萬石初代藩主堀直良(1643〜1691)の領地でした。椎谷から宮川、大湊、荒濱の間の二里半ほどの海浜は「越の高濱」と呼ばれ、特に大湊から荒濱にかけては、標高70mを超す有数の大砂丘であったそうです。

    芭蕉翁一行は雨の中を九里程歩いて、申ノ下尅(午後四時頃)に柏崎に着き、天屋彌惣兵衞邸を訪ね、象潟で知り合った美濃の國の商人宮部彌三郎(俳号は低身)の紹介状を示して、一夜の宿を請いました。
    しかし、天屋彌惣兵衞に不愉快な扱いを受けた芭蕉は、激怒して彌惣兵衞邸を出て行ってしまいました。後で俳人芭蕉であることに気づいたのか、使用人が二度も追いかけてきて不手際を詫びましたが、芭蕉はそのまま雨の降る中を次の宿場の鉢崎へ歩いて行ってしまいました。

    天屋は柏崎の大庄屋で、本姓は市川氏、当主の彌惣兵衛は江戸前期の歌人、俳人北村季吟(1625〜1705)門下の俳人で笑哉と称していました。

    

    天保國繪圖    越後國    高田長岡領
 
    柏崎は北國街道の宿場町だけでなく、北前船の寄港地や小千谷や十日町といった内陸部との間に高田街道が延びる交通の要衝として繁栄していました。
    高田藩の所領以降は白河藩、桑名藩と変遷しましたが、領主は松平越中守の代々支配が変わらず、享保元年(1741)、大久保には陣屋が設けられ、領内221カ村の総支配所として柏崎は周囲の行政的な中心地ともなっていきました。

    一行は柏崎の街を西へ向かい、鵜川に架かる橋を渡って鯨波を通り、海岸沿いの道を進んで青海川の深い渓谷を渡り、笠島集落を過ぎると米山峠にさしかかります。下り上りを繰り返して上輪の亀割坂を越え、聖ヶ鼻のあたりから坂を下ると鉢崎(柏崎市米山町)で、入口には関所がありました。一行は小雨の降る中を、柏崎からさらに四里程歩いて、酉の刻(午後六時頃)、俵屋六郎兵衛という旅籠に投宿しました。

    一行は出雲崎から十三里弱も歩き、おくの細道行脚の中では最長の歩行距離を踏破しました。なお、俵屋は代々庄屋で、三百年以上も前から鉢崎で栄えた旧家でしたが、今はその跡は空き地になり、たわら屋跡の標注が立つのみになっています。

        ○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ彌三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ 
            走ス。不レ歸。及再三、折節雨降出ル故、幸ト歸ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各來ル。発句有。

        ○七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ被レ招。再三辞ス。強招クニ及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨
            甚。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月六日(陽暦八月二十日)、昨日は出雲崎から鉢崎まで十三里弱の長距離を歩いた芭蕉翁一行は、雨が降っていたので晴れるのを待って俵屋で休養し、昼時に今町(直江津)へ向かって出立しました。
 
    一行は北國街道を南下して行きましたが、このあたりは往時、さい濱と呼ばれた砂礫の悪路で、土地の人々は歯のない下駄を履いて歩いたといいます。
 柿崎、上下濱、潟町、荒濱を過ぎて黒井宿では、旅籠の傳兵衞方で休憩しました。
 
    黒井宿を出て関川を舟で渡ると、今町(直江津)に着き、宿所と予定していた浄土真宗大谷派の聴信寺を訪ね、美濃の國の商人宮部彌三郎の紹介状を示しましたが、住持は「忌中」を理由に宿泊を拒みました。

    芭蕉らは強いて頼まずに寺を出たところで、其れを聞いていた石井善次郎という人が寺と交渉してくれ、さらに人を走らせて、今町で泊まるように再三にわたり引き止めました。曾良は「不レ歸」と強い怒りを現していますが、折節雨が降ってきたので、寺近くの古川市左衛門宅(旅籠松屋)に泊まることになりました。

    夜になって今町の聯衆が松屋に集まり、さっそく俳筵興行が開催され、芭蕉は七夕の前日を意識した発句を披露しましたが、二十句で終了し、「歌仙」(三十六句)は満尾しませんでした。

            文月や六日も常の夜には似ず     はせを

    この俳筵に参加した義年は旅籠松屋の主人古川市左衛門で、芭蕉らの宿泊を断った忌中のはずの聴信寺の住持眠鴎も同座していました。
 
    翌旧暦七月七日(陽暦八月二十一日)、この日は七夕の日でしたが、朝から雨でした。芭蕉翁一行は、雨が止まないので出立を見合わせていると、忌中のはずの聴信寺から招待されました。
    曾良は「再三辞ス」と記していますが、強く招かれたので仕方なく赴き、夕刻まで聴信寺に滞在してしまいました。

    この夜、地元の俳人で医師の佐藤右雪宅に招かれ、右雪の
            星今宵師に駒ひいてとゞめたし
を発句に、曾良、芭蕉、棟雪(細川春庵)、更也(鈴木與兵衛)らで五吟歌仙興行が開催されましたが、完結しませんでした。この夜、一行は佐藤右雪宅に一泊しましたが、夜中は風雨が激しく打ち付けていました。
 
        ○八日 雨止。欲レ立。強テ止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下剋、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ來ル。春庵へ不レ寄シテ、先、
            池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状來ル。頓テ尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
 
        ○九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。
 
        ○十日 折々小雨。中桐甚四良へ被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ歸。夕方ヨリ晴。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月八日(陽暦八月二十二日)、朝になって雨が上がり、一行は今町を出立して高田へ向かおうとしていましたが、石塚喜衛門(左栗)に強く引き止められ、別れの馳走を相伴しました。

    饗応が済んで出立の際、
            行く月をとゞめかねたる兎哉             此竹
            七夕や又も往還の水方深く              左栗

との餞別句が贈られました。

    当時の高田は、相模小田原藩主で京都所司代を罷免された稲葉正往(正通:1640〜1716)が、貞享二年(1685)十二月に十万三千石で移封されて再び高田藩を立藩してより三年余でした。
    北國街道はその政策上、高田城下を通過するようになっており、また、この先の越中との国境に設けられた市振関所は高田藩が所管しており、通過するには通行手形をもらう必要がありました。

    芭蕉翁一行が高田に赴いた理由は、通行手形を貰う必要と医師で俳人の細川春庵の招待があったからでした。

    一行は今町から北国街道を南下して、木田、木田新田、藤新田を経て、未ノ下剋(午後三時頃)に高田に到着しました。
    細川春庵から使いの人が迎えに来ましたが、寄大工町の春庵宅には寄らずに、宿を頼むことになっていた池田六左衛門(俳諧を嗜む町年寄)宅に赴いたところ、来客があり、やむなく近くの寺で休息しました。そこに細川春庵より書簡が届いたので、春庵宅を訪ねました。

    

    天保國繪圖    越後國    高田領

    春庵宅で草鞋を脱ぐと、地元の俳人鈴木與左衛門(俳号は更也)を交えて四吟歌仙を開催し、芭蕉の発句を春庵への挨拶として
            藥欄にいづれの花をくさ枕       翁
の句で興行が始まりました。

    藥欄は薬草園のことで、芭蕉は挨拶として春庵の薬草園の花を褒めただけではなく、其れが病気を治す薬草であり、春庵が医師であることの安心の気持ちを上品な洒落を込めて表したのであると解説されています。

    その後、宿所と決めていた池田六左衛門が、息子の甚左衛門を使いによこしたので面会し、春庵宅に泊めてもらうからと宿所を断り、息子を帰しました。

    翌旧暦七月九日(陽暦八月二十三日)は、一日中小雨が降ったり止んだりしていました。
    曾良は、「俳、歌仙終。」と記していますが、『俳諧書留』には後続の句が記載されておらず、四吟歌仙は満尾しなかったものと解されています。

    旧暦七月十日(陽暦八月二十四日)、この日も時々小雨が降りましたが、夕方から晴れました。中桐甚四良(詳細不明)宅に招かれ歌仙一折(未詳)があったと云いますが、句は残されていません。夜になって、池田六左衛門宅へ帰りました。

    ちなみに、昔は歌仙を懐紙二枚に書き留め、一枚目を初折、二枚目を名残の折とか後(のち)の折と呼んだそうです。
    懐紙を折り、両面に句を書き留めますが、二枚あるので四面となり第一面を初折の表、第二面を初折の裏、二枚目の第三面を名残(後)の表、第四面を名残(後)の裏と呼びました。

    芭蕉翁一行は今町に二泊、高田に三泊し、越後路においては一番長い滞在でしたが、度重なる歌仙は満尾できず、今町や高田における芭蕉の足跡は印象の薄いものになっています。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:08Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年09月09日

奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)

    

      Artist's impression of the Milky Way.
      This detailed annotated artist’s impression shows the structure of the Milky Way, including the location of the spiral arms and other  components such as the bulge. This version of the image has been updated to include the most recent mapping of the shape of the central bulge deduced from survey data from ESO’s VISTA telescope at the Paranal Observatory.

   (旧暦閏7月19日)

    平成十九年(2007)五月十二日から始めた「奥の細道、いなかの小道」の旅は、十年経っても全行程の七割五分が終わった程度で、いつになったら終わるのか覚束なく、これからは精力的に取り組んで参る固い決意でございます。

      酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。鼠の關をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中
      の國一ぶりの關にいたる。此間九日、暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。
 
        文月や六日も常の夜には似ず 
        荒海や佐渡によこたふ天河


    酒田から百三十里彼方の加賀の府金澤を目指して旅立った芭蕉翁一行ですが、『おくのほそ道』本文には、その間の記載は越後路、一振、那古の浦の三章しかなく、「これは早く進むので楽勝か」と思いきや、『曾良旅日記』を参照すれば、鼠ヶ關、中村(北中)、村上、築地、新潟、彌彦、寺泊、出雲崎、柏崎、鉢崎(米山)、今町(直江津)、高田、能生、糸魚川、親不知、市振と越後路には実際には十五日間を要しており、全く「暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。」と芭蕉翁が記したとおりの大変な道中であったのですねえ。

    ああ、しんど!

     ○廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ關被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿
        ス。
          『曾良旅日記』


    旧暦六月二十七日(陽暦八月十二日)、出羽に別れを告げ、芭蕉翁は馬に乗って鼠ヶ關を目指しましたが、曾良は半里ほど山側の湯温海に立ち寄り見物することになりました。
    芭蕉翁は濱温海から海岸沿いに南下して、大岩川、小岩川、早田(わさだ)などの集落を経て、鼠ヶ關に到りました。

    念珠關は、白河關、勿来關と並んで奥州三古關の一つで、和銅五年(712)、出羽國念珠關村大字鼠ヶ關の鼻喰岩付近の要害の地に設置され、後に南の浦沢に、さらに江戸期になって現在地に移されています。

    江戸期には鼠ヶ關口留御番所と称し、鼠の印を用いていたと云います。關守は、慶長年間(1596〜1615)から代々佐藤氏がつとめ、元和八年(1622)、庄内藩主酒井氏が領有することになると、目付役と足軽二人、それに佐藤氏によって守られていました。なおこの関所には、唐船場や大筒場があって沖を航行する船も監視していたと云います。

    鼠ヶ關を過ぎて羽州濱街道を南下し、中濱、岩崎、府屋を経て勝木に至ると羽州濱街道は山間部に入り、勝木川に沿って上大藏、下大鳥、上大鳥、中津原を経て、中村に(北中)至ります。
    芭蕉翁一行は、暮れに及んで中村に到着しました。中村は、江戸時代には出羽街道と羽州濱海道の表裏二街道が合流する宿場であり、かなりの賑わいであったと云います。
 
      ○二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲萄(名ニ立程ノ無レ難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵來テ逢。彦左
          衛門ヲ同道ス。
            『曾良旅日記』


    旧暦六月二十八日(陽暦八月十三日)、芭蕉翁一行は難所とされた葡萄峠を越えるために早朝に出立し、出羽街道を村上に向かいました。中村より大毎を経て半里ほどで大澤、ここから大澤峠を越えて矢向明神を過ぎ、さらに葡萄峠を越えて行きましたが、葡萄峠はそれほど険しい峠ではなかったようです。
    しかし、芭蕉翁一行が通過してから約百年後の天明六年(1786)三月、この地を訪れた京の儒醫橘南谿(1753〜1805)はその紀行『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」の中で、以下のように記しています。

      抑此葡萄峠は羽越の界にて、山の間甚だ深く、雪中のみならず、四時とも旅人の難儀する所也。此峠昔強盗の出でて旅人あまた殺害し、今も往來
      の人の恐るる所也。
          『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」 橘南谿

 
    葡萄峠を越え、葡萄の宿場から長坂峠を越えて緩やかな下り坂を下り、大須戸、旧宿場の塩野町、早稲田、板屋越、檜原、猿澤、鵜渡路の集落を経て、下中島で三面川の「お宮の渡し」を渡り、出羽街道の出口山辺里を抜けて三面川の支流門前川に架かる山辺里橋を渡ると、村上城下の片町に至ります。

    


    芭蕉翁一行は申ノ上刻(午後四時頃)、村上城下小町の旅籠大和屋久左衛門宅(井筒屋旅館)に草鞋を脱ぎました。曾良は旅籠に着くと、城代家老榊原帶刀邸に村上到着を知らせました。
    すると、旧知の喜兵衛(斎藤氏)、友右衛門(加藤氏)、彦左衛門(黒田氏)らが旅籠に来たので、榊原帶刀邸に挨拶のために出かけました。

    芭蕉翁一行が訪れた村上は、村上藩榊原氏十五萬石の城下町で、村上藩第二代藩主従五位下式部大輔勝乘(1675〜1726)はまだ十五歳であったため、入封することなく江戸藩邸(現首相官邸の場所)に居住しており、藩主の一族の榊原帶刀直榮(なおひさ)が城代家老として務めていました。
    榊原帶刀直榮は、徳川四天王の一人として名高い上野國初代館林藩主榊原康政(1548〜1606)の兄清政(1546〜1607)の家系から出ている家柄で、二千四百石を領していました。

    

        天保國繪圖    越後國    新發田村上領 

      ○廿九日 天気吉。昼時喜兵・友兵來テ(帶刀公ヨリ百疋給)、光榮寺へ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。歸、冷麥持賞。未ノ下
          尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。歸、喜兵御隠居ヨリ被レ下物、山野等ヨリ之奇物持參。又御隠居ヨリ重之内被レ下。友右ヨリ瓜、喜兵内
          ヨリ干菓子等贈。
            『曾良旅日記』


    翌旧暦六月二十九日(陽暦八月十四日)、前日に曾良が城代家老榊原帶刀に父君大學良兼の墓参を申しので、昼時に斎藤喜兵衛、加藤友右衛門が帶刀からの餞別金子百疋(1/4兩、約3万円程度)を持参し、ともに菩提寺の光榮寺に赴き墓参を行いました。

    城代家老榊原帶刀の父榊原大學良兼は伊勢長島藩初代藩主松平良尚(1623〜1696)の四男で、寛文九年(1669)、十五歳の時に一族の榊原外記直久の養嗣子となり、貞享四年(1687)七月二十九日に三十三歳で村上で没し、大乘院法岩一燈居士と諡され、榊原家の国附菩提寺光榮寺に埋葬されていました。

    河合曾良(1649〜1710)は、かつて伊勢長島の城主松平佐渡守良尚(後に康尚と改め、六十二歳の時致仕を許され全入と號す)の家士でした。榊原大學良兼は、曾良にとっては旧主家の嫡子でありました。曾良が、この旅で芭蕉に同行した理由のひとつがこの一燈への墓参だったと言われています。

    ちなみに曾良は天和元年(1681)頃に長島藩を致仕し、江戸に居を移して、天和二年(1682)に幕府神道方となった吉川惟足(1616〜1695)のもとで吉川神道を学び、延喜式、古事記、日本書紀、萬葉集などで国学の知識も身につけました。さらに地誌も学んだことにより、この学問が「おくのほそ道」の旅で最大限に発揮されたとされています。

    光榮寺墓参の帰り道に旧知の鈴木治部右衛門に出会い、宿で冷や麦の持て成しを受けました。
    未ノ下尅(午後二時半頃)、曾良らは宿の主人の久左衛門に案内されて、当時湊町として栄えていた瀬波へ出かけました。

    村上城下から瀬波への道は松並木八町といわれ、概ね半里、砂丘まで平坦な地が続き、瀬波は村上の別墅とされていました。その砂丘に立てば、全面に日本海が広がり、右手に粟島、左手に佐渡を望み、遠く海岸線の果てに彌彦、角田を眺め、松嶺を聴く景勝地でした。一行は、三面川河口に建つ多岐神社(祭神は多岐津島姫)を参詣したのかもしれません。

    一行が宿に帰ると、斎藤喜兵衛が御隠居からの下され物として「山野等ヨリ之奇物」を持参してきました。また、御隠居から重箱入りのご馳走が届けられました。この御隠居が誰であるかは不明とのことです。さらに、加藤友右衛門からは甘瓜、斎藤喜兵衛の内儀からは干菓子などが送られました。
 
      一 七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。喜兵・太左衛門ハ被レ見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ
          下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙寶寺へ同道、歸テつゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙寶寺參詣前大雨ス。即刻止。申ノ上
          剋、雨降出。及レ暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。
            『曾良旅日記』


    旧暦七月朔日(陽暦八月十五日)、曾良と旧知の斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)黑田彦左衛門、加藤友右衛門らが宿に訪れました。曾良たちは朝のうちに榊原家の菩提寺泰叟院へ参詣しました。

    泰叟院は歴代藩主の菩提寺で、享保二年(1717)に上野高崎藩から越後村上藩へ転封された間部詮房(1666〜1720)が村上で死去すると菩提寺である浄念寺に葬られ、墓碑と御霊屋が設けられています。
    間部詮房は、六代将軍徳川家宣(在任:1709〜1712)と七代将軍徳川家継(在任:1713〜1716)に仕え、所謂「正徳の治」を断行し側用人(老中格)などの幕府要職を歴任しましたが、八代将軍に徳川吉宗(在任:1716〜1745)が就任すると政争に破れ、事実上の左遷として村上藩に配されています。
 
    芭蕉翁一行は斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)らに見送られて、巳ノ尅(午前十時頃)に村上を出立し、築地へ向かいました。途中、岩船三日市の岩船神社に参詣したものと思われていますが、定かではないようです。
    岩船神社は延喜式の磐舟郡八座の筆頭に記されており、祭神は岩船社としての饒速日命(にぎはやひのみこと)、貴船社としての罔象女神(みつはのめのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、闇靇神(くらおかみのかみ)の四神と云うことです。

    一行は、石川に架かる明神橋を渡り、松林の中のお幕場道を抜けて、岩船、北新保を経て塩谷に出ました。ここから荒川を舟で渡ると桃崎濱で、北國濱街道は日本海の海岸に沿って新潟に伸びていますが、芭蕉翁一行は濱街道から離れ、まっすぐに南下して乙(きのと)村の次作という者を訪ねました。

    次作がどのような人物であったかは不明ですが、一行を大変歓待し、その後、次作の案内で乙寶寺に参詣しました。

    

    北國一覧寫    蒲原郡乙村乙寶寺    天保二年(1831)    長谷川雪旦(1778~1843)
 
    乙寶寺は天平八年(736)、第四十五代聖武天皇(在位:724〜749)の勅願を受けて行基菩薩(668〜749)と婆羅門僧正の菩提僊那の二人の高僧によって開山されましたが、その際に釈尊の両眼の舎利を請来した菩提僊那が、右目の舎利は中国の寺に、左目の舎利は当寺へと甲乙に分けて供養したことから、彼の国の寺は「甲寺」、此の国の寺は「乙寺」と名付けられたとの伝承です。

    その後、後白河院(1127〜1192)より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「寶」の一文字を与えられ爾来、乙寶寺と名前を変えて現在に至っています。一山に一千の僧坊があり平安中期の国使紀躬高の尊信篤く、また上杉家から寺領百石を与えられ、後の元和三年(1617)、時の村上城主村上義明(?〜1604)から寺領百石を寄贈されています。

      今昔、越後の國三島の郡に、乙寺と云ふ寺有り。其の寺に一人の僧住して、昼夜に法華經を読誦するを以て役として、他の亊無し。而る間、二の猿
      出来て、堂の前に有る木に居て、此の僧の法華經を読誦するを聞く。朝には來て、夕には去る。此如く爲る亊、既に三月許に成ぬるに、日毎に闕か
      さずして、同様なる居て聞く。僧、此の亊を怪み思て、猿の許に近く行て、猿に向て云く、「汝ぢ猿は月來此如く來て、此の木に居て經を読誦する
      を聞く。若し、法華經を読誦せむと思ふか」と。猿、僧に向て、頭を振て受けぬ気色也。僧、亦云く、「若し、經を書寫せむと思ふか」と。其の時
      に、猿、喜べる気色にて、僧、此れを見て云く、「汝ぢ、若し經を書寫せむと思はば、我れ、汝等が爲に経を書寫せむ」と。猿、此れを聞て、口
      を動して、尚、かゝめきて喜べる気色にて、木より下て去ぬ。

      其の後、五六日許を經て、数百の猿、皆物を負て持來て、僧の前に置く。見れば、木の皮を多く剥ぎ集めて持來て置く也けり。僧、此れを見るに、
      「『前に云ひし經の料の紙漉け』と思ひたる也けり」と心得て、奇異に思ゆる物、貴き亊限無し。

      其の後、木の皮を以て紙に漉きて、吉き日撰び定めて、法華經を書き始め奉る。始むる日より、此の二の猿、日毎に闕かさず來る。或る時には、署
      預・野老を掘て持來る。或る時には、栗・柿・梨・棗等を拾て持來て、僧に与ふ。僧、此れを見るに、「彌よ奇異也」と思ふ。

      此の經、既に五巻を書き奉る時に成て、此の二の猿、一両日見えず。「何なる亊の有るにか」と怪び思て、寺の近き邊に出でて、山林を廻て見
      るに、此の二の猿、林の中に署預を多く掘り置て、土の穴に頭を指入て、二つ乍ら同じ様に死て臥せり。僧、此れを見て、涙を流して泣き悲むで、
      猿の屍に向て法華經を読誦し、念佛を唱へて、猿の後世を訪けり。

      其の後、僧、彼の猿の誂へし法華經を書畢てずして、仏の御前の柱を刻て籠め置き奉つ。

      其の後、四十余年を經たり。其の時に藤原の子高の朝臣と云ふ人、承平四年と云ふ年、当國の守と成て、既に國に下ぬ。國府に着て後、未だ神事を
      も拝せず、公事をも始めざる前に、先づ夫妻共に三島の郡に入る。共の人も館の人も、「何の故有て、此の郡には怱ぎ入給ふらむ」と怪び思ふに、
      守、國寺に参ぬ。住僧を召出でて問て云く、「若し、此の寺に書畢てざる法華經や御ます」と。僧共、驚て尋ぬるに、御まさず。

      其の時に、彼の經を書きし持經者、年八十余にして、老耄し乍ら、未だ生て有けり。出來て守に申して云く、「昔し、若かりし時、二の猿来て、
      然々して教へて書かしめたりし法華經御ます」と申て、昔の亊を落さず語る時に、守、大に喜て、老僧を礼て云く、「速に其の經を取出し奉るべ
      し。我れは、彼の經を書き畢奉らむが爲に人界に生れて、此の國の守と任ぜり。彼の二の猿と云ふは、今の我等が身、此れ也。前生に猿の身とし
      て、持經者の読誦せりし法華經を聞しに依て、心を發して『法華を書寫せむ』と思ひしに、聖人の力に依て法華を書寫す。然れば、我等聖人の弟子
      也。専に貴び敬ふべし。此の守に任ずる、輙き縁に非ず。極て有難き亊也と云へども、偏へに此の經を書き畢奉らむが故也。願くは、聖人、速かに
      此の經を書き畢奉て、我が願を満よ」と。老僧、此の亊を聞て、涙を流す亊雨の如し。即ち、經を取出し奉て、心を一にして書畢奉つ。
   
      守、亦三千部の法華經を書き奉て、彼の經に副へて、一日法會を儲て、法の如く供養し奉てけり。

      老僧は此の經を書奉れる力に依て、浄土に生れにけり。二の猿、法華經を聞しに依て、願を發して、猿の身を棄てて人界に生れて、國の司と任ず。夫
      妻共に宿願を遂て、法華經を書寫し奉れり。其の後、道心を發して、彌よ善根を修す。実に此れ希有の亊也。

      畜生也と云へども、深き心を發せるに依て、宿願を遂る亊此如し。世の人、此れを知て、深き心を發すべしとなむ、語り伝へたるとや。
          『今昔物語』巻十四第六話 越後國乙寺僧爲猿寫法華語 第六


    芭蕉が乙寶寺を参詣したのは、酒田の伊東不玉の勧めがあったからとされています。不玉はかつてこの寺を訪れて、
      三越路や乙の寺のはなざかり
という句を作り、芭蕉が酒田滞在中に批評を乞うたからと云うことです。

    乙寶寺参詣後、乙(きのと)村の次作は築地村の息子次市郎宛てに紹介状を書いてくれました。

    一行は羽州濱街道を南下し、大出を過ぎて胎内川を渡り、高畑を過ぎるとまもなく築地に到りました。

    芭蕉翁一行は村上の斎藤喜兵衛から築地の大庄屋七郎兵衛の紹介状をもらっていましたが、乙(きのと)村の次作が築地村の息子次市郎に宿泊の依頼状を書いてくれたので、斎藤喜兵衛の紹介状は不要となりました。
 
    一行が次市郎宅に着いたときには、日が暮れていました。
   続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:33おくの細道、いなかの小道

2017年08月28日

奥の細道、いなかの小道(30)− 象潟(2)

 
  

  貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)

    (旧暦閏7月6日)

    益軒忌

    『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書、教育書の『養生訓』『大和俗訓』『和俗童子訓』『五常訓』、紀行文の『和州巡覧記』など、その生涯
    に六十部二百七十余巻の著作を残した江戸前期の本草学者・儒学者、筑前福岡藩士貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)の正徳四年(1714)年
    旧暦八月二十七日の忌日。
      越し方は一夜ばかりの心地して    八十あまりの夢をみしかな



    奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)のつづき

      十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。
      夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、
      十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。
        『曾良旅日記』  
      

  翌六月十七日(陽暦八月二日)、朝の内は小雨でしたが、昼頃には止んで日が射してきました。朝食後、芭蕉翁一行は、皇后山干満珠寺を訪れ、道々の眺望をたのしみました。戻った後、地元の熊野神社の御渡りがあり、その後社に赴き、踊りなどを見物しました。また、夕飯後、今野嘉兵衛が茶・酒・菓子などを持参し、象潟橋の船着き場から納涼をかねて象潟に舟をうかべ、能因島などを訪れています。
  遊覧から戻ると、名主今野又左衛門が宿を訪れ、象潟縁起などが絶えたことを嘆き、芭蕉もそれに同情しています。


      先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、

  芭蕉が私淑する能因法師(988〜1058頃)の遺跡と云われる能因島は、蚶滿寺の南方約四百米にあった小島で、現在は面積約六百坪の小丘となっています。

        いではのくにに、やそしまに行て、三首
      よのなかはかくてもへけりきさがたや    あまのとまやを我宿にして
        島中有神宮蚶方
      あめにますとよをかびめにことゝはん    いくよになりぬきさがたの神

      わび人はとつくにぞよきさきてちる    はなのみやこはいそぎのみして
        『能因法師集』

  能因法師が象潟へ下向した事があることは事実のようですが、三年幽居したことは確認できないようです。平安末期の歌人、従四位下太皇太后宮大進藤原清輔(1104〜1177)が、保元年間(1156〜1159)に著した歌論書『袋草紙』には、以下のような記述があります。

      能因實ニハ不下向奧州、爲詠此歌、竊ニ籠居シテ下向奧州之由ヲ風聞云々、二度下向ノ由アリ、於一度者實歟、書八十島記、
        『袋草紙』三


      「一度に於いては實か、八十島の記を書けり」とのことです。
    

      むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。

        象潟の櫻は波に埋もれて    花の上漕ぐあまの釣り船


  この歌は西行法師の作としての確証は無いとのこと。しかし、以下に記す様々な記載が残されています。

      巳に六江を立て、保呂波山に通夜して、本城の船津を過ぎ、鳥海山の腰を廻る、当山は功名の霊地なれども、いまだ雪深く禅頂の時ならねば、不参
      し侍り、漸々蚶象にいり、蚶満寺欄前、湖水を眺望す、向に鳥海山高々と聳、花のうへこぐ蜑の釣船とよみしも、げにとうちゑまるゝ、寺院の伝記
      什物見て、西行ざくら木陰の闇に笠捨たり
        毛を替ね雪の羽をのす鳥の海
        波の梢実のるや蚶が家ざくら
        『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風


    
      此浦のけしき、櫻は浪にうつり、誠に花の上漕ぐ蜑の釣舟と読しは此所ぞと
        『好色一代男』三ノ六 井原西鶴
    
      出羽の國蚶瀉といふ所は、世に隠れなき夕暮のおもしろき海辺なり。汐越の入江々々、八十八潟・九十九森、皆名にある所也。蚶滿寺の前に、古木
      の櫻あり。是ぞ花のうへこぐ海士の釣ぶねと、読しむかしを今見て、替る事なし。
        『名殘之友』 三ノ五 井原西鶴

      花の上漕とよみ給ひけむ古き櫻もいまだ蚶滿寺のしりへに殘りて、陰波を浸せる夕晴、いと涼しければ
        ゆふばれや    櫻に涼む波の花      芭蕉
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰



      江上(こうしょう)に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。

    神功皇后は、第十四代仲哀天皇の皇后で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。帝崩御の後、軍を督して三韓を親征(親カラ征ク)、凱旋後應神天皇を生んだと『古事記』『日本書紀』に伝えられる説話的主人公です。

      抑〻神功皇后、百済國の夷をしたがへ日の本に軍をかへしおはしますとき波風にはなたれたまひ、此島に暫くうつろひたまひぬとかや。其後、其處
      には八幡宮を安置し、今に神々し奉りけるなり。然るに、皇后尋常御肌にいたゞかせ給ふ干滿の二珠によそえ、皇后山干滿寺とはつたへ侍るとか
      や。いつのころより、かの蚶の字にはなし侍りけむ、いといぶかし。しかし、此潟に蚶といふ貝あまた侍れば、かくはいへりけるにや。これをさへ
      さだかならねば、是非の境をわきまへずなりぬ。世々所にいひふらしたる故実なむかきよせて、  
        蜑のかるもの跡たゑじと、爰にはしるし侍る也。
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰


      寺を干滿珠寺と云。

    此の寺は、道鏡(700?〜772)の暴戻により新羅にのがれた僧昭機が、神功皇后の霊夢を蒙り、この地にたどり着いて皇后殿蚶方寺を建て、みずから蚶方法師と称したのに始まり、仁寿三年(853)慈覚大師(天台座主円仁)これを再興して蚶滿寺と改称、さらに正嘉元年(1257)八月、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、この地を「四霊の地」と定め二十町歩の寺領を寄進し再興、大伽藍を建立して天台宗より曹洞宗に改め、寺名を干滿寺と改めたと云います。

      簾を捲ば、

    簾を巻き上げて眺望するの意で、『圓機活法』遊眺門・江樓晴望の大意に「捲レ簾」とあり、詩文に眺望を叙する場合の常套語になっています。

      風景一眼の中に尽て

    象潟の風景が一望の内に見渡されての意で、『圓機活法』地理門・遠山に、
      樓高一望究千里    樓高クシテ一望千里ヲ究ム
同じく『圓機活法』宮室門・樓に、以下のようにあります。
      樓高納萬象    樓高クシテ萬象ヲ納ム    

      蚶滿寺欄前、湖水を眺望ス。向に鳥海山高々と聳え
        『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風

      方丈に簾をあぐれば、巫山の十二峯底に臨み
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰

      其陰うつりて江にあり


      望湖樓下水浮天    望湖樓下水天ニ浮カブ
        『聯珠詩格』十一

      浪打入る所を汐こしと云。

      汐こしは、あら海より象潟へ、潮の往来する川の名にて、橋あり。しほこし橋と名づく。此南北の人家を、汐越町と云て、秋田へ往還の駅宿なり。
        『奥細道菅菰抄』蓑笠庵梨一

      松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。


    松島は太平洋に臨んだ開放的で明るい感じであり、象潟は日本海を控えた閉鎖的で暗い感じを述べたものです。

      地勢魂をなやますに似たり。

    その地のありさまは心に悩みを抱いている美女の姿を思わせるの意で、蘇軾の詩「飮湖上初晴後雨」にいう西施の傷心の姿を連想したものと解されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:42おくの細道、いなかの小道

2017年08月23日

奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)

  

  「一遍聖絵」第七巻 京極四條釋迦堂

  (旧暦閏7月2日)

  一遍忌、遊行忌
  鎌倉中期の僧、時宗の開祖一遍上人(1239〜1289)の正応二年(1289)旧暦八月二十三日の忌日。

    旅ころも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき

  

  一遍上人像  鎌倉來迎寺藏  『集古十種』古畫肖像之部  (五)二十七

    江山水陸の風光數を盡して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真 
    砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝 
    天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こ
    ぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いか
    なる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの關、路をかぎり、東
    に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如
    く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
      象潟や雨に西施がねぶの花
      汐越や鶴はぎぬれて海涼し
        祭礼
      象潟や料理何くふ神祭                              曾良
      蜑の家や戸板を敷て夕涼      みのゝ國商人  低耳
        岩上にみさごの巣を見る
      波こえぬ契ありてやみさごの巣                    曾良


    ○十五日 象潟へ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方、番所裏判済。
        『曾良旅日記』

 
  旧暦六月十五日(陽暦七月三十一日)、朝から小雨が降る中を、象潟の景色を一日でも早く見物したいと、芭蕉翁一行は酒田を旅立ちました。
  酒田の湊から磯伝いの羽州浜街道を能登興屋(のどごや:酒田市高砂)〜宮海を経て日向川を舟で渡り、服部興野から吹浦までの六里にも及ぶ庄内砂丘を北上しました。

  白木〜靑塚を経て十里塚付近にさしかかると天候が俄に一変して、潮風が砂塵を吹き上げ、豪雨が沛然と降りだし、出羽富士鳥海山も朦朧と雨に煙って隠れてしまいました。
  天候の恢復は望めず、一行は月光川を徒にて渡り、昼時に吹浦に着いて、ここに宿泊することにしました。

  当時の吹浦は、南側の宿町と北側の横町に分かれていましたが、芭蕉翁一行が泊まった跡は不明とのことです。

  ここで羽黒手向の近藤佐吉(呂丸)から書簡が届き、夕刻には番所の通判(通行手形)に裏判(通行の承認)を済ませました。吹浦の番所は、大物忌神社の鳥居前を左折した横町の大組頭津右衛門屋敷の南に上の番所、北に下の番所がありました。

    ○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄
       内預リ番所也。入ニハ不レ入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。
    ○昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨
       暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被レ訪。
          『曾良旅日記』

 
  豪雨のため吹浦で一泊した一行は、早朝に吹浦を出立して象潟へ向かいました。吹浦番所を通り過ぎた頃から、また雨が降り出しました。御殿坂を登って山道に入り、しばらくして坂を下ると湯の田に出、さらに海岸に沿って浜街道を北上して女鹿に到ります。

  さて、女鹿までは庄内藩領ですが、先の小砂川からは庄内藩預かりの幕府領となり出国の手続きが必要でした。そのため曾良は酒田で通判(通行手形)を購入し、吹浦番所の通行許可の承認印(裏判)を捺してもらう必要があったため、前日の晩に吹浦番所で裏判を済ませていました。

  女鹿の人改番所では出手形を提出しましたが、手続き料が必要だったといいます。番所を過ぎると、「是ヨリ難所。馬足不レ通」といわれる三崎峠が待ち構えていました。観音崎、大師崎、不動崎という3つの岬からなる三崎峠は、鳥海山噴火の際の溶岩流の崖が日本海の荒波の浸食を受けて奇岩や怪石として連なり、その険しさは羽州浜街道第一の難所でもありました。

  五十五歳から足かけ十七年をかけて日本全国を徒歩で測量し『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬(1745〜1818)は、享和二年(1802)、三崎峠の難所ぶりを測量日記に以下のように記しています。

    『此の村より外迄七八丁ハ道も上下よし、長持ちハ小砂川より女鹿村迄舟廻にす、馬荷にも亦同し、夫より道途曲々、且狭く、其上丸石岩石おほく、
    上下度々ありて其の行路難し、駕籠も人夫大勢ニ捧げて通るなり、馬・駕籠ニに乗ることならざる所なり、海へ出岬を大師崎と言、亦三崎共言、里人
    言、観音、不動、勢至ノ三仏ニ似たる岩石あるニよりて號スと、其脇を通る、此所則鳥海山の麓の流(スソ)なり、大師崎の上ニ大師堂あり、由利郡・
    飽海郡の界・これよい南庄内領となる』



  三崎峠の難所を超えると羽州浜街道は砂地となり、一里半程で小砂川に至ります。ここには庄内藩の預番所がありましたが、旅人には手形は不要だったようです。小砂川を過ぎ、象潟まで三里余り、大須郷、川袋、大砂川、洗釜、中野澤、關までの街道沿いの集落は幕府直轄領で、庄内大山代官所が支配していました。

  また、このあたりは古代の有耶無耶の関があった所と伝えられ、歌枕にも詠まれていますが、芭蕉の時代にはすでに正確な場所は不明であったようです。

  永久四年(1116)の歌合で、従四位上源俊頼(1055〜1129)が詠んだ歌が最も早いとされています。

    すぐせやななぞいなむやのせきをしも    へだてて人にねをなかすらむ                    
                   『散木奇歌集』  源 俊頼

    もののふのいづさいるさにしおりする    とやとやとおりのむやむやの關             
                   『夫木和歌集』  詠み人知らず

    たのめこし人の心は通ふやと    問いても見ばやうやむやの關                      
                   『土御門院御集』 土御門院


  關に着く前あたりから雨脚が強くなり、一行はずぶ濡れとなって船小屋で雨宿りをしました。

  昼過ぎに塩越(象潟)に着きました。芭蕉にとって、敬慕する能因法師と西行法師の遺跡に富む象潟は、心から憧れていた所であったと云います。

  塩越は本庄藩六郷氏二万石の領地でした。六郷氏は室町中期に、出羽国仙北郡六郷邑より興り、同地を本拠とした一族で、工藤氏流六郷氏の系統に属します。その後裔六郷政乘(1567〜1634)が、元和九年(1623)最上氏が改易された後、常陸国府中藩(石岡)一万石から最上氏の旧領である出羽国本荘に二万石で加増移封され、本庄藩を立藩しました。芭蕉翁一行が訪れたときは、四代政晴(1675〜1741)の代でした。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:19Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年08月15日

奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  

  山口素堂(1642〜1716)

  (旧暦6月24日)

  素堂忌
  江戸前期の俳人山口素堂(1642〜1716)の享保元年(1716)旧暦八月十五日の忌日。
  甲府魚町で家業の造り酒屋を営んでいたが、向学の志止みがたく、弟に家督を譲り、江戸に出て林羅山の三男、林春斎(1618〜1680)に漢学を学び、和 
  歌・書・能楽にも通じ、生涯を江戸でおくった。松尾芭蕉とは同門で、親交があり、蕉風の確立に寄与したといわれている。

    目には青葉山ほととぎす初鰹
    名もしらぬ小草花咲野菊哉
    うるしせぬ琴や作らぬ菊の友


  
 
  長山重行邸


    羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふもののふの家にむかへられて、誹諧一巻あり。左吉もともにに送りぬ。川舟に乗りて酒田の湊に下る。
    淵庵不玉といふ医師のもとを宿とす。
      あつみ山や吹浦かけて夕すずみ 
      暑き日を海にいれたり最上川

    ○十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ
     手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルヽニ不レ及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ
     望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。
      『曾良旅日記』


  旧暦六月十日(陽暦七月二十六日)、芭蕉翁一行の出立を知った近江飯道寺の僧、正行坊円入が南谷の別院に別れの挨拶に来ました。その後、芭蕉翁一行は昼前に本坊の若王寺寶前院に赴き、別当代会覚阿闍梨に辞去の挨拶をし、蕎麦切り、茶、酒などで歓待され、未ノ上刻(午後二時過ぎ)に羽黒山を出立しました。

  正行坊円入が見送りに来て、一の坂を下って大杉(爺杉)まで同道しました。芭蕉は祓川で手水をして幽邃閑寂なる羽黒山境内に別れを告げ、図司呂丸(近藤佐吉)宅からは馬に乗り、曾良と呂丸が付き添って鶴岡へ向かいました。また、羽黒山南谷玄陽院で思いがけず再会した観修坊釣雪が正善院黄金堂まで同道しました。
  黄金堂の前で釣雪に別れを告げた一行に呂丸が同道し、手向を旅立って羽黒街道を鶴岡目指して西進して行きました。

  野荒町−荒川−三ツ橋を経て、赤川の手前から北上し、三川橋の所で船に乗り、従四位下庄内藩主酒井忠真(第4代藩主)の城下町鶴岡に入りました。

  庄内藩14万石は領内に米どころ庄内平野を有し、且つ領内の酒田の湊は、寛文年間(1661〜1673)に政商河村瑞賢(1618〜1699)によって開かれた北前船の西廻り航路の基点として栄えたために財政的に裕福で、一説に実収入は30万石以上ともいわれていました。

  酒井家は松平氏、德川氏最古参の譜代筆頭で、元来、三河國碧海郡酒井郷あるいは同國幡豆郡坂井郷の在地領主であったと考えられています。

  庄内藩は、元和八年(1622)、出羽山形藩57万石藩主最上義俊(1605〜1632)が改易された後、越後高田藩主酒井家次(1564〜1618)の嫡男忠勝(1594〜1647)が、信州松代藩10万石から移封され、出羽田川、飽海郡内において13万8千石を領して立藩されています。

  一行は申ノ刻(午後四時過ぎ)に、荒町裏大昌寺の脇小路に住む長山五郎右衛門重行宅(鶴岡市山王町十三)に着きました。

  
    「重行、姓長山、仮名五郎左衛門。藩中歌人也。荒町裏東側の小路に住す。今に長山小路といふ。東都在勤の折、深川はせを庵に遊び玉ひしゆかりによ
    りて、翁奥羽行脚の節、此亭に留杖したまひ、初茄子の高吟に俳諧一巻あり。其後、東花坊奥羽行脚せられし頃、呂図司案内して御山をめぐり、夫より
    重行亭に旅寝し、初茄子の遺詠を感じ、橘の香をとゞめし俳諧一巻あり」
      『於保伊頭美』(天保十五)

 
  長山氏(生没年未詳)は、庄内藩士で大工改め役、百五十石取りと『庄内人名辞典』で紹介されています。

  芭蕉は長山宅に着いたときに、三山巡礼の疲れから、すぐに粥を所望して、食べた後に仮眠をとりました。
  夜になって、句筵興行が催され、芭蕉の

     めづらしや山をいで羽の初茄子

を発句に、重行・曾良・露丸と一巡四句を詠んだところで、芭蕉の体調をいたわって、この日の聯句は終了しました。
  この句は、長山重行宅の食膳に供されたこの地方名産の茄子の風味が心に残り、長山氏の厚遇に感謝の意を表した発句であるとされています。またこの茄子は、小ぶりな姿とほどよく締まった肉質が特徴の民田茄子といわれ、民田地域の八幡神社の社殿を作る際に京都の宮大工が種を持ち込んだと言われています。
 
    ○十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
  
    ○十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。
    ○羽黒山南谷方(近藤左吉・観修坊、南谷方也)・且所院・南陽院・山伏源長坊・光明坊・息平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門・大河八十良・梨水・
     新宰相。
    △花蔵院△正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可レ尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内淨教院珠妙。
    △鶴ケ岡、山本小兵へ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
     『曾良旅日記』

  翌十一日(陽暦七月二十七日)、この日も聯句を再開しましたが、芭蕉は持病(痔疾あるいは胃痙攣)が出て気分が勝れず、昼頃に中止しています。

  十二日(陽暦七月二十八日)、「めづらしや」四吟歌仙は三日がかりで満尾となりました。

    一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒より飛脚、旅行ノ帳面被レ調、被レ遣。又、ゆかた二ツ被レ贈。亦、発句共
     も被レ為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻 より曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。

    ○十四日 寺島彦助亭へ 被レ招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。
     『曾良旅日記』


  旧暦六月十三日(陽暦七月二十九日)、芭蕉翁一行は長山重行、図司呂丸らの見送りを受けて、長山宅のすぐ南にあった内川河岸(大泉橋左岸)から川船に乗って酒田湊へ向かいました。

  出船の際に羽黒山から飛脚が来て、会覚阿闍梨から新しい旅行の帳面と浴衣二枚、そして餞別の発句が届けられました。

   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪  会覚

 羽黒山の別当代という地位のある人が、遊歴の一俳諧師に対してこれほどまでの心遣いをすることは並大抵のことではないとされています。

 川船に乗った一行は内川を北東に下り、まもなく赤川に合流しました。赤川を北に向かって下り、横山−押切−黒森を過ぎて、当時は飯森山の東で最上川に合流していました。川船では七里の道程でした。

  
  大正二年(1913)酒田地形図

 現在の赤川は、大正十年に最上川から分離するための放水路開削工事が開始され、昭和十七年まで継続されて、最終的には昭和二十八年に最上川と赤川が分離する締め切り工事が完成し、日本海に直接放流する赤川新川が完成しています。

 陸路は羽州浜街道を北上して、横山−押切−広野をへて最上川を渡り酒田に向かう五里の道のりでした。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:22Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年08月09日

奥の細道、いなかの小道(27)− 羽黒(2)

  
  

  炭太祇(1709〜1771)


  (旧暦閏6月18日)

  太祇忌(不夜庵忌)
  江戸中期の俳人、炭太祇(不夜庵)(1709〜1771)の明和八年(1771)旧暦八月九日の忌日。
  はじめ水國(?〜1734)に師事し、水國が没した後は紀逸(?〜1761)に学び、江戸座の宗匠となった。寛延元年(1748)に太祇と号す。
  宝暦元年(1751)京に上り、紫野大徳寺真珠庵にて仏門に帰依するもほどなく還俗、宝暦四年(1754)、京島原の妓楼桔梗屋主人呑獅(?〜1789)の支援により島原遊郭の中に不夜庵を結んで住み、妓楼の主人や遊女に俳諧を教えた。
  与謝蕪村(1716〜1784)とも親交が厚く、明和俳壇の中心な存在として活躍した。

    足が出て夢も短き蒲団かな
    寝て起きて長き夜にすむひとり哉
    行く程に都の塔や秋の空


  奥の細道、いなかの小道(26)− 羽黒(1)のつづき

  八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包、強力といふものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出でて雲消れば、湯殿に下る。
  谷の傍に鍛冶小屋と云有。此國の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に釗を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣じて、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍てて筆をとゞめて記さず。坊に歸れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山
   雲の峰幾つ崩て月の山 
   語られぬ湯殿にぬらす袂かな 
   湯殿山錢ふむ道の泪かな      曽 良


  月山を目指した芭蕉翁一行は、木綿(ゆふ)しめという、紙のこよりを麻の代わりに用いて編んだ修験袈裟を襟にかけ、宝冠という白木綿で頭を包み、強力という登山の案内先達に導かれて、雲や霧が立ちこめる山中を氷雪を踏み、標高1984mの山頂目指して登っていきました。旧暦6月8日(新暦7月22日)ころは、夏とはいえ山肌にかなりの残雪の残る時期です。また、当時山駆けをする者は、潔斎中から下山後の精進おろしまで木綿(ゆふ)しめを襟にかけるのが習わしでした。

   〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小ヤガケ也)。彌陀原、こや有。中食ス。(是ヨリフダラ、ニ
     ゴリ沢・御濱ナドヽ云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ來
     光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

    『曾良旅日記』

  実際には旧暦六月六日、南谷の別当寺の別院を出立して東へ「お渡り道」を進み、羽黒山の奥の院荒澤寺を経て半合目の傘骨、海道坂が一合目、大満原が二合目で小月山神社があり、ここからは女人禁制でした。ここの掛茶屋では餅やところてん、蕎麦などを売っていたそうです。神子石が三合目で、巫女石とも書き、むかし禁制を破って月山に登ろうとした巫女がここでたちまち石に化してしまったと伝えられている所です。強清水が四合目で、坂の左の岩の間から清水が湧いていました。五合目の狩籠(かりごめ)から右の峰伝いに六合目の平清水へ向かい、急坂の連続後に七合目の合清水(高清水)に着きます。ここから上は馬の乗り入れが禁止されていたので、馬返し小屋と呼ばれていました。

  羽黒山から月山山頂までの登拝路は実際には六里半ほどの道のりながら、古くから「木原三里、草原三里、石原三里」と言われてきました。七合目の合清水まではブナなどの原生林の木原で、八合目の彌陀原からはニッコウキスゲなどの高山植物が群生する草原三里となっています。

  芭蕉翁一行は、彌陀原の中に鎮座する月山神社中之宮(御田原神社)に参拝し、ここで昼食をとりました。御田原神社は体力的にも時間的にも月山山頂に登ることができない人の遙拝所(御田原参籠所)になっていました。

  その後、東の斜面を下りて東補陀落に向かいました。当時は、東補陀落で観音・弥陀・薬師の三尊や立岩の三宝荒神などを拝したのち彌陀原まで戻り、それから月山を目指すのが順路だったそうです。

  


  『曾良旅日記』に「フダラ、ニゴリ沢・御濱」」と記されているのがこの東補陀落で、月山神社中之宮から左へ3㎞程下った「補陀落・濁沢・御濱池」という修験者が峰入修行を行う場所で、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に、弁財天を祭る御濱池があります。

  彌陀原まで戻った一行は、月山山頂を目指してさらに登りました。無量坂を越えて九合目の佛水池(ぶすいえ)に至り、さらに進んで登りにかかるところが「行者返し」といわれる急斜面です。
  昔、修験道の開祖とされる役行者(634伝〜701伝)が月山山頂を目指したときに、開祖蜂子皇子(562?〜641?)に仕える除魔童子と金剛童子が現れ、「湯殿山で修行してからでないと月山には登ってはならぬ」と押し戻したところと伝えられています。

  最後になだらかなモックラ坂の岩場を越えると、月山頂上(標高1984m)です。
  芭蕉翁一行は、申ノ上尅(午後3時半ころ)山頂に到着し、まず、豪雪と強風を避けるために石垣に囲まれた御室と呼ばれる月山神社本社に参詣しました。

  月山神社は天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を祀っていますが、月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称である出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて成立した「修験道」の霊場でした。

  一行は参詣を終えて、頂上より少し下った角兵衛小屋に泊まることになりましたが、夕刻頃には「日没て月顕る」状況でした。角兵衛小屋は、当時の月山山頂に七軒あった小屋の一つで、五軒が宿泊用、二軒が酒屋と菓子屋だったとされています。

  一行は笹を鋪(しき)、篠を枕として、翌日の御来迎を待ちましたが、残念ながら御来迎は拝めなかったようです。

  月山は、約70万年前から火山活動が始まり、最後に噴火したのは約30万年前で、以前は楯状火山(shield volcano)に分類されていましたが、現在では成層火山(stratovolcano)が侵食や爆発によりなだらかになったものであるという説が有力です。

  ちなみに我々の世代になじみの深い火山の分類法は、ドイツの地理学者カール・シュナイダー(Karl Schneider)が1911年に火山を地形によって分類したものですが、形成過程が全く異なるのに浸食などによって同じような地形になる例が次々と発見されてシュナイダーの分類が現状にそぐわなくなったために、現在では使われていないとのことです。
  例)トロイデ(鐘状火山)、コニーデ(成層火山)、アスピーテ(楯状火山)
    ホマーテ(臼状火山)
  
  また、近年の火山学の発展に伴い過去1万年間の噴火履歴で活火山を定義するのが適当であるとの認識が国際的にも一般的になり、2003年に火山噴火予知連絡会は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義し直し、活火山の数は現在111となっています。

  
 

  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:59Comments(0)おくの細道、いなかの小道