2008年07月25日
日本刀の話(2)-不動國行

唐物茶入れの大名物「つくも髪」
(旧暦 6月23日)
不死男忌 俳人秋元不死男の昭和52年(1977)の忌日。オノマトペ(擬声語)の名手と云われ、「アーチストではなくアルチザン(職人)」を自称した。
へろへろと ワンタンすするクリスマス
ライターの 火のポポポポと滝涸るる
不動國行、つくも髪、人には五郎左ござ候
織田信長(1534~1582)が酒に酔えば、膝を叩きながら歌い自慢したという不動國行は、山城国西岡向日明神の辺りに居住した鎌倉時代中期の來派の刀工、來國行が鍛えた小太刀のことです。
つくも髪は、松本茄子、富士茄子とともに「天下三茄子」と云われて最も高く評価された唐物(からもの)茶入れの大名物(おおめいぶつ)のことです。
大名物(おおめいぶつ)とは、室町幕府の8代将軍足利義政(在職1449~1473)が収集した唐物名物(絵画、工芸品:東山御物)と、千利休の時代(1585~1591)に最高位に評価された茶入などのことを指します。
この茶入れは、作物茄子、付藻茄子、九十九茄子などとも書かれ、また九十九髪、九十九髪茄子、松永茄子などとも呼ばれていました。
九十九茄子は、足利3代将軍義満(在職1368~1394)が愛蔵した唐物茶入れで、高さ二寸二分(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)、胴廻り七寸六分(約23cm)、8代将軍足利義政(在職1449~1473)によって寵臣の山名政豊(1441~1499?)に与えられましたが、その後、わび茶の創始者とされている村田珠光(1423~1502)が九十九貫文で購入したことから、『伊勢物語』の63段
もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ われをこふらしおもかげに見ゆ
にちなんで、「つくも」と名付けたと云われています。
また、五郎左とは、織田四天王の一人であり、柴田勝家と並ぶ猛将としてその武者振りから鬼五郎左とも称された丹羽五郎左衛門尉長秀(1535~1585)のことで、信長の信任厚く、近江佐和山城に拠って政事、軍事にわたって活躍し、後に若狭一国支配を与えられています。
とくに天正4年(1576)1月には、安土城普請の総奉行を命じられて無事に任務を果たす功績をあげていますが、長秀は柴田勝家(北陸)、佐久間信盛(大坂)、明智光秀(丹波)、羽柴秀吉(播磨)らの方面軍の軍団長たちには後れをとり、若狭衆を率いる一遊撃軍団の司令官に甘んじています。 続きを読む
2008年07月14日
秋津島の旅(12)-吾妻の国(3)-生麦事件の碑
旧東海道沿いの生麦事件の碑
(旧暦 6月12日)
小暑のさなかの土曜日、JR東日本柔道部のA女史のご案内をいただき、家内を伴ってJR東日本柔道部のお歴々と京浜急行生麦駅から徒歩10分程度にあるキリンビール横浜工場を見学してきました。
京急生麦駅からキリンビール横浜工場に向かう途中、横浜市鶴見区生麦一丁目の国道15号線と旧東海道が合流する地点に、後の薩英戦争の引き金となり、その結果大藩薩摩が攘夷主義を捨てて明治維新の原動力となる遠因となった生麦事件の碑があります。
生麦事件は、文久2年(1862)旧暦8月21日、武蔵国橘樹(たちばな)郡生麦村の東海道において薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件です。
第12代薩摩藩主島津茂久(もちひさ:1840~1897)の父、島津久光(1817~1887)の行列にはからずも乗馬のまま乗り入れてしまった上海のイギリス商人C.L.リチャードソンら4人のイギリス人のうち、リチャードソンは供頭の奈良原喜左衛門(1831~1865)に左胴から腹にかけて斬り下げられ、はみ出した腸を押さえながら逃げる途中で久木村利久という家士に同じ箇所をさらに抜き打ちに斬られて落馬、駆けつけた海江田信義(1832~1906)ら数名の薩摩藩士によってとどめを刺されました。
この碑のある場所は、C.L.リチャードソンが海江田信義ら数名の薩摩藩士によってとどめを刺され絶命した場所だということです。
この碑は、当時、橘樹(たちばな)郡区制の第三大区四小区の副戸長をしていた黒川荘三によって、明治16年(1885) に建てられたものです。
碑文には、この地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。 続きを読む