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2014年03月09日

やまとうた(30)− 雪のうちに春はきにけりうぐひすの

 
 snowdrop

 (旧暦2月9日)

  二条のきさきの春のはじめの御うた
 雪のうちに春はきにけりうぐひすの こほれる泪いまやとくらむ
                                                       古今集  巻一 春歌上 4


 半年あまり、文章を書く気もおこらず、「板橋村だより」をほっぽらかしにしておりましたが、プレッシャーのかかる仕事もひと段落し、啓蟄(3月6日ごろ)も過ぎたので、そろそろ、穴から出て行きましょうかな。

 昨年の今頃は、日本海を低気圧が通過して猛烈な南風が吹き荒れる日がよくありましたが、今年も異常な大雪が2週連続で関東地方を大混乱に陥れ、いやはや、このところの春の到来も、なかなかやっかいなものではごわさんか。

 イギリスでも3月には、時を定めず猛烈な風が吹いて、それを“ March winds”と呼んでいると、以前、「板橋村だより」に書きましたが、長い冬が次第に遠のいていく気配が感じられるのもこの時期で、春を告げる花として知られるsnowdropというヒガンバナ科ガランサス属の野生の花が山辺に咲き出します。
 

  Like an army defeated 

  The snow hath retreated,
  And now doth fare ill
  On the top of the bare hill;
  The Plowboy is whooping- anon-anon:
  There's joy in the mountains; 

  There's life in the fountains; 

  Small clouds are sailing,
  Blue sky prevailing; 

  The rain is over and gone!
  —William Wordsworth : ‘Written in March’

 

  敗北した軍隊のように
  雪は退き去って、
  今は裸の丘の頂きに
  不運をかこっている。
  農夫の子どもはときどき喚声ををあげる。
  山には喜びがあり、
  泉には生気があり、
  小さな雲はなめらかに流れ、
  青空は広がり、
  雨は止んで去っていく。
  ウイリアム・ワーズワース 「3月に寄せて」
  (嘉穂のフーケモン 拙訳)


  さて、冒頭の歌を詠んだ第56代清和天皇(在位858〜876)の女御、二条后藤原高子(たかいこ)は多情をもって世に知られていた人でした。

 face02 そのひとつは、清和天皇崩御の後の寛平八年(896)、自らが建立した東光寺の座主善祐と密通したとされて后位を剥奪されたという事件です。

 
  寛平八年 
  九月廿二日 陽成太上天皇之母儀皇太后藤原高子、與東光寺善祐法師、竊交通云云。仍廢后位。至于善祐法師、配流伊豆講師。
  『扶桑略記』 第廿二

  寛平八年丙辰
  廿二日庚子、停廢皇大后藤原朝臣高子。清和后、陽成院母儀。事秘不知。
  廿三日辛丑、廢皇大后之由、申諸社。按、以疑通東光寺座主善祐事。天慶六年、復號。
  『日本紀略』 前篇二十 宇多天皇

 高子五十五歳の年に当たるゆえに老齢に過ぎるのではないかという説もあるそうですが、そこは男女の仲、プラトニックラブというものもあり、また、王朝の頃は老女の恋愛は珍しくはなかったとのこと。真相は闇の中ということで・・・。

 face03ふたつには、伊勢物語に記された、入内前における在原業平との艶聞です。
 
 
  第三段 ひじき藻
  むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもいふ物をやるとて、

 
  
  思ひあらば葎(むぐら:雑草)の宿に寝もしなん ひじきものには袖をしつゝも


 
  二条の后のまだ帝にも仕うまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時のこと也。


 

 
  第五段 関守
  むかし、をとこありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじききつけて、その通ひ路に、夜ごと人をすゑてまもらせければ、いけどもえ逢はで帰りけり。さてよめる。


 
  人知れぬわが通ひ路の関守は よひよひごとにうちも寝ななむ



とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。


 
  二条の后に忍びてまゐりけるを、世の聞こえありければ、せうとたちのまもらせ給ひけるとぞ。


 
  二条の后のもとに、人目を忍んで参上していたのを、世間の評判というものがあったので、后の兄君達が、人々に守らせたということである。


 


 
  第六段 芥川
  むかし、をとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡籙(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。


 
  白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消えなましものを

 
  これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。


 
  これは二条の后(高子)が、従姉の女御のお側にお仕えするというかたちで住んでおられたのを、容貌が全く美しくおありになられたので、業平が密かに連れ出して、背負いて逃げたのを、高子の兄君の堀河の大臣基経と太郎国経の大納言が、まだその頃は、官位がそれほどでもなく、たまたま宮中に参内される折、ひどく泣いている人がいるのを聞きつけて、牛車を止めて妹の高子を取り返されたのである。それを鬼と言うのであった。二条の后がまだ若く、ふつうの人であられた時のとこだとか。


 

  伊勢物語各段の附記は、いづれも後人の書入れで、注釈が本文に混じったものと推定されています。まあ、その時代には、在原業平と二条后についてこういう噂があったというくらいのことで、当時の人が、二条后を業平と契りを結ぶにふさわしい高貴で華麗な女性と見ていたであろうとは、一昨年に鬼籍に入られた丸谷才一氏の評です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:52Comments(0)やまとうた

2013年03月20日

やまとうた(29)−み吉野の吉野の山の春がすみ

 

 Elizabeth Barrett Browning (1806〜1861)

 (旧暦2月9日)

 もう、なんやねん、この強い風は!
 このところの日本列島は、日本海を低気圧が通過して猛烈な南風が吹き荒れる日がよくありますが、これも春の到来を告げる特有の天候なのだとか。

 イギリスでも3月には、時を定めず猛烈な風が吹いて、それを“ March winds”と呼んでいるそうですが、かのビクトリア朝(1837〜1901)の詩人、ロバート・ブラウニング(Robert Browning,1812〜1889)の妻で、第14代桂冠詩人(Poet Laureate)の候補者でもあったエリザベス・バレット・ブラウニング(Elizabeth Barrett Browning、1806〜1861)の ‘The Poet's Vow’ には、次のような一節があります。

 XIII.
 “ Poor crystal sky, with stars astray;
    
 Mad winds, that howling go

 From east to west; perplexed seas,

 That stagger from their blow!

 O motion wild! O wave defiled!

 Our curse hath made thee so."
 −Elizabeth Barrett Browning :The Poet's Vow.


 さ迷える星々の貧弱な透き通った空を
 狂った風がうなりながら行く
 東から西へと。当惑した海が
 その風によろめく。
 ああ 動きは激しく、ああ 波は汚された。
 我らがたたりは、汝をそうさせた。
 −エリザベス・バレット・ブラウニング:「詩の誓約」
 (嘉穂のフーケモン 拙訳)

 
 1930年から1967年に死去するまで、イギリスの桂冠詩人(Poet Laureate)として任命されていたジョン・エドワード・メイスフィールド(John Edward Masefield, OM, 1878〜1967)は 、かつて船員であった経験から、海に関する詩を数多く残していますが、その中に ‘Cargoes’(積み荷)という詩があります。

 

 John Edward Masefield, OM, (1878〜1967)

 Quinquireme of Nineveh from distant Ophir,
 Rowing home to haven in sunny Palestine,
 With a cargo of ivory,
 And apes and peacocks,
 Sandalwood, cedarwood, and sweet white wine.


 遠いオフィールからのニネヴァの五段櫂船が、
 日当たりの良いパレスチナのふるさとの港へ漕ぎながら、
 象牙の積み荷、 
 そして猿とクジャク、
 ビャクダン、シダーウッドと甘い白ワインを満載して。


 Stately Spanish galleon coming from the Isthmus,
 Dipping through the Tropics by the palm-green shores,
 With a cargo of diamonds,
 Emeralds, amythysts,
 Topazes, and cinnamon, and gold moidores.

 
 イスムスからやってくる堂々としたスペインのガレオン船が、
 パームグリーン海岸のそばの回帰線を下って、
 ダイヤモンドの積み荷、
 エメラルド、紫水晶、
 トパーズとシナモン、そしてポルトガル金貨を満載して。


 Dirty British coaster with a salt-caked smoke stack,
 Butting through the Channel in the mad March days,
 With a cargo of Tyne coal,
 Road-rails, pig-lead,
 Firewood, iron-ware, and cheap tin trays.
 −John Masefield : ‘Cargoes’


 塩のこびりついた煙突の汚い沿岸航行船が、
 狂った3月の日にイギリス海峡を突き抜けて、
 タイン炭の積み荷、
 軌条、鉛塊、
 たきぎ、金物、そして安いブリキのお盆を満載して。
 −ジョン・メイスフィールド :「積み荷」
 (嘉穂のフーケモン 拙訳)


 イギリスでは王室が選ばれた詩人に桂冠詩人の称号を与え、この桂冠詩人が王室の慶弔の詩を読むことになっており、現在も続いています。
 古代ギリシャでは、月桂樹はアポロ神に捧げられ、詩人と英雄のための名誉の冠またはリースを作るのに用いられました。
 後にこの習慣は、14世紀初めに悲劇『エケリニス』を著した北イタリアの都市パドヴァのアルベルティーノ・ムッサート(Albertino Mussato, 1261〜1329)のために復活し、1341年4月8日にはローマのカンピドリオの丘の上の中世の元老院において、著名な詩人・学者であったフランチェスコ・ペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304〜1374)に与えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:52Comments(0)やまとうた

2012年05月29日

やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる

 

 伏見天皇(天子摂関御影)
 
 (旧暦4月9日)

 多佳子忌
 美女の誉れたかい高貴の未亡人、戦後俳壇のスターとして、女性の哀しみ、不安、自我などを、女性特有の微妙な心理によって表現した俳人橋本多佳子の昭和38年(1963)の忌日。

 

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと 
 雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
         
 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
         
 息あらき雄鹿が立つは切なけれ
         
 雄鹿の前吾もあらあらしき息す
         
 月光にいのち死にゆくひとと寝る


 白櫻忌、晶子忌
 歌人、詩人與謝野晶子の昭和17年(1942)年の忌日。歿後に出された最後の歌集『白櫻集』に因み、「白櫻忌」とも呼ばれる。

 

 木の間なる染井吉野の白ほどの はかなき命抱く春かな



 二十四節気では立夏を過ぎて、暦の区切りでは既に夏の初めとなりました。
 初夏とは陰暦四月(5/21~6/19)の異称の一つでもあるとされています。

 また、5月21日ころは小満と呼ばれ、太陽視黄経 60 度、暦便覧には「万物盈満すれば草木枝葉繁る」と記されています。

 二十四節気は、黄道を黄経0度から15度ずつに刻み、太陽がその区分点を通る日付によって太陽年を24の期間にわけ、それぞれの期間の季節的な特徴を表す名称を付けたものです。
 古来中国から伝来し、日本でも季節のさだめに重用されて今日に及んでいます。

    戀の御歌の中に
 うれしともひとかたにやはなかめらるる 待つよにむかふ夕ぐれの空 
                          風雅和歌集 1029番


 この歌は鎌倉末期の女流歌人永福門院西園寺鏱子(1271〜1342)の歌で、乾元二年(1303)の仙洞五十番歌合五十番左勝(左右に歌を記して勝敗を競い、左側の歌が勝った状況)に、また没後の貞和四年(1348)頃に完成された光厳院撰『風雅和歌集』巻第十一恋歌二にも収められています。

 本朝古代の風俗においては、男性が女性を見初めて女性のもとに通う、あるいは女性の家族が男性を迎え入れるといった、女性を中心とした婚姻が成立していたとされています。
  
 石川郎女がおそらくは大伴家持に贈ったとされる、

 春日野之山邊道乎於曽理無 通之君我不所見許呂香聞
 春日野の山辺の道を恐りなく 通ひし君がみえぬころかも
                          萬葉集 巻四 518番


 あるいは、高田女王が今城王に贈った、

 常不止通之君我使不來 今者不相跡絶多比奴良思
 常やまず通ひし君が使い来ず 今は逢はじとたゆたひぬらし
                          萬葉集 巻四 542番
    

 の「通ふ」はこの初期の段階であったようです。

  この「通ふ」段階においては、男性が通はない夜もあり、そういう夜は女性は独り寝をしなければなりません。
 「あの人がなぜ来ないのか」、「ほかの女のところに行ったのであろうか」、「もう私を飽きてしまったのであろうか」などと思い待つ苦しみは、和歌の好題目となったようです。

 足日木能山櫻戸乎開置而 吾待君乎誰留流
 あしひきの山櫻戸をあけおきて わが待つ君を誰かとどむる
                  よみ人しらず  萬葉集 巻十一 2617番

 久しくもなりにけるかな住の江の まつは苦しきものにぞありける
                  よみ人しらず  古今集 巻十五 戀歌五 778番

 来ぬ人をまつちの山のほととぎす 同じこころにねこそなかるれ
                  よみ人志らず  拾遺集 卷十三 
戀三 820番


 しかし、このような女心の切なさを歌ったのは、たいていが男であったと推定されるそうで、「待つ女といふ哀れ深いイメージが男ごころを強く刺激したせいであった」と丸谷才一はその著「新々百人一首」のなかで断定しています。

 さらには、
                          遍昭
 わが宿は道もなきまで荒れにけり つれなき人を待つとせしまに
                          古今集 巻十五 戀歌五 770番

 今こむといひて別れしあしたより 思ひくらしのねをのみぞなく
                          古今集 巻十五 戀歌五 771番


は、『古今集』の歌人が女性に身をやつして詠んだ例であり、

                          藤原有家朝臣
 こぬ人を待つとはなくて待つ宵の ふけゆく空の月もうらめし
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1283番

                          摂政太政大臣
 いつも聞くものとや人の思ふらん 來ぬ夕ぐれのまつかぜのこゑ
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1310番

                          前大僧正慈円
 心あらば吹かずもあらなんよひよひに 人まつ宿の庭の松風
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1311番

                          寂蓮法師
 こぬ人を秋のけしきやふけぬらん うらみによわる松虫の聲
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1321番


は、いづれも『新古今集』撰入の歌です。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:10Comments(0)やまとうた

2011年08月23日

やまとうた(27)-ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに

 
 
 
 歌人 九条武子夫人

 (旧暦7月24日)

 一遍忌,遊行忌
 時宗の開祖一遍上人の正応2年(1289)の忌日

                            光 明
 ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに うたの國にし あそぶ子のため


 明如上人の弟姫(をとひめ)として、大谷光瑞氏の令妹(いろと)として、わが武子夫人は、御影堂の北、四時(しいじ)の花絶えせざる百花園のうちにうまれぬ。緋の房の襖のおく深くひととなりて、縫の衣に身をよそはれ、數多の侍女(まかだち)にかしづかれ、日毎に遊びつるは、飛雲閣、白書院、黒書院、月花の折々に訪ひつるは、伏見の三夜荘なりき。桃山時代の豪華なる建築、徳川盛期の畫人の筆になれる襖畫は、その目にしみ、心にうるほひて、濶達なる性(さが)とともに、典雅なる質(もとゐ)は養はれき。えにしさだまりて外遊の旅に出で、歐州の國々をゆきめぐりて、世界の文明の潮流をも浴みつ。爾来十年、泰西に研学にいそしまるる背の君を待ちつつ、道のために地方を巡らるる外には、ひとり錦華殿のうちにあした夕べをおくりて、あるは洋琴(ぴあの)を友とし、あるは画筆に親しまる。さはれ、法の道におほしたてられし静かなる胸にも、猶さびしさのみたされざるものあればにや、その折々の思ひはあふれて、數百首のうたとしなりぬ。この金鈴一巻よ、世にうつくしき貴人(あてひと)の心のうつくしさ、物もひしづめる麗人(かたちびと)の胸のそこひの響を、とこしへに傳ふるなるべし。
   
     大正九年六月            
                                        佐佐木信綱
 歌集『金鈴』より

 
 千万(ちよろず)の寶はむなしたふときは おやよりつづくただこの身のみ
                                   九条 武子


 この一首は九条武子の歌集『金鈴』の最後に載せられている歌ですが、日展に連続入選している気鋭の女流書家が、自ら主催した東日本大震災復興支援バザーに対する心ばかりの寄付の御礼として、今回、短冊に書いて贈っていただいた歌でもあります。

 ちなみに、日展についてですが、
「日展」は正式名称「日本美術展覧会」(The Japan Fine Arts Exibition)の略称で、その歴史は以下のようです。

 1. 文部省美術展覧会(初期文展) :明治40年(1907)~大正7年(1918)
 2. 帝国美術院展覧会(帝展)    :大正8年(1919)~昭和10年(1935)
 3. 文部省美術展覧会(新文展)   :昭和11年(1936)~昭和19年(1944)
 4. 日本美術展覧会(日展)     :昭和21年(1946)~


 最初期は第1部「日本画」、第2部「西洋画」、第3部「彫刻」の3部制でしたが、昭和2年(1927)から第4部「美術工芸」が加わり、昭和23年(1948)からは第5科「書」が加わって5科制になっています。
また、平成19年(2007)からは、東京での会場を上野の東京都美術館から六本木の国立新美術館に移しています。

 さて、日展の書の作品の横には、作者名と共に「新入選」、「入選」、「会友」、「会員」などと記入された札が付けてありますが、「新入選」、「入選」は判るとしても、「会友」と「会員」の違いについて識者に尋ねると、「会友」とは公募出品して入選回数が10回以上になった人あるいは特選を1回得た人のことだそうです。
 一般公募者+「入選10回」 又は 「特選1回」 ⇒ 「会友」

 「会員」とは「会友」が更に特選を得ることで次回は「出品委嘱」となり無鑑査出品となりますが、この委嘱者の中から新審査員が選出されます。この新審査員になることが「会員」への仲間入りを示しているそうです。
 「会友」+「特選1回」 ⇒ 出品委嘱 → 新審査員 ⇒ 「会員」

 更に審査員をもう2回歴任すると、「評議員」への推挙対象となります。
 「会員」+更に審査員をもう2回 ⇒ 「評議員」 
 
 さらにさらに、
「評議員」+内閣総理大臣賞 ⇒ 《日本芸術院賞→日本芸術院会員》 ⇒ 『常務理事』

 平成23年(2011)7月1日現在の日展常務理事は、日本画5名、洋画4名、彫刻9名、工芸美術10名、書6名と錚々たる芸術家が名を連ねていますが、このヒエラルキー(Hierarchie、階層制)には、ものすごいものが感じられます。

 このところの日本経済新聞に掲載されている日本画家小泉淳作氏の「私の履歴書」の中で、美術評論家田近憲三氏について書かれた次のような一節があります。

 真面目な人だった。酒は召し上がらず、絵について淡々と語られる。蘊蓄はさすがだった。大物画家の腰巾着みたいな美術評論家もいるが、田近さんは違った。文化勲章、芸術院会員、美大のポスト……。そういうものに執着する人たちを嫌悪した。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:16Comments(0)やまとうた

2010年09月05日

やまとうた(26)−野辺見れば なでしこの花咲きにけり

 
 カワラナデシコ (Dianthus superbus var. longicalycinus) 
 
 (旧暦  7月27日)
 
 野辺見れば なでしこの花咲きにけり わが待つ秋は近づくらしも

 野邊見者 瞿麥之花 咲家里 吾待秋者 近就良思母 (萬葉集 巻10-1972)
 
 今年の酷暑は異常とも言えますが、多くの皆さんも今年は例年以上に秋の訪れを心待ちにされていることでしょう。

 旧暦では7月(文月)は秋の季節の初めの月とされ、七夕は秋の季語となりますが、撫子(なでしこ)も秋の季語として取り扱われていますね。

 face05 学名 Dianthus superbus var. longicalycinus (河原撫子)
 face03 Dianthus : ナデシコ属
 face01 Dianthus(ダイアンサス)は、Modern Greekの「Dias(ギリシャ神話のゼウス神)+ anthos(花)」が語源
 face02 superbus : 気高い、堂々とした

 平安朝の女流作家、清少納言(966?〜1025?)も嬰麥(なでしこ)の花を愛でていますが、この花は当時の貴族にも愛玩されていたことがうかがえます。

 草の花は
嬰麥(なでしこ)、唐(から)のは更なり、やまとのもいとめでたし。女郎花(おみなへし)。桔梗。菊のところどころうつろひたる。刈萱(かるかや)。

 

 龍膽(りんどう)は枝ざしなどもむつかしげなれど、他花みな霜がれはてたるに、いとはなやかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし。わざととりたてて、人めかすべきにもあらぬさまなれど、鴈來紅(かまつか)の花らうたげなり。名ぞうたてげなる。鴈(かり)の來る花と、文字には書きたる。雁緋(かにひ)の花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春と秋と咲く、をかしげなり。

 

 壼菫(つぼすみれ)、すみれ、同じやうの物ぞかし。老いていけば同じなど憂し。しもつけの花。夕顏は朝顏に似て、いひつづけたるもをかしかりぬべき花のすがたにて、にくき實のありさまこそいとくちをしけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかつきなどいふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顏といふ名ばかりはをかし。

 葦の花、更に見どころなけれど、御幣(ごへい)などいはれたる、心ばへあらんと思ふにただならず。萌えしも薄(すすき)にはおとらねど、水のつらにてをかしうこそあらめと覺ゆ。これに薄を入れぬ、いとあやしと人いふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄にこそあれ。穗さきの蘇枋(すはう)にいと濃きが、朝霧にぬれてうち靡きたるは、さばかりの物やはある。

 

 秋の終ぞいと見所なき。いろいろに亂れ咲きたりし花の、かたもなく散りたる後、冬の末まで、頭いと白く、おほどれたるをも知らで、昔おもひいで顏になびきて、かひろぎ立てる人にこそいみじう似ためれ。よそふる事ありて、それをしもこそ哀ともおもふべけれ。萩はいと色ふかく、枝たをやかに咲きたるが、朝露にぬれてなよなよとひろごりふしたる、牡鹿の分きてたちならすらんも心ことなり。唐葵(からあふひ)はとりわきて見えねど、日の影に隨ひて傾くらんぞ、なべての草木の心とも覺えでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹には山石榴(やまざくろ)も異なることなけれど、をりもてぞ見るとよまれたる、さすがにをかし。

 

 薔薇はちかくて、枝のさまなどはむつかしけれどをかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木の階などのつらに、亂れ咲きたるゆふばえ。
 
 『枕草子』 三巻本 67段 「草の花は」
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:57Comments(0)やまとうた

2009年10月17日

やまとうた(25)-からす羽に かくたまずさの心地して

 

 マガン 学名:Anser albifrons

 (旧暦  8月29日)

 夜に入りて雁を聞く
 からす羽に かくたまずさの心地して 雁なきわたる夕やみのそら
                                 西行法師家集 262


  鴉(からす)の真っ黒な羽に墨でかかれている手紙を読むことは難しい。その鴉羽の手紙を受け取るようなおぼつかない気持になる。夕闇の空を雁の群れが鳴き渡ってゆくが、薄暗く、連なり飛ぶ姿が鴉羽の手紙の文字のように見えぬのだから。

 この歌を詠んだ西行(1118~1190)は、その歌論書『西行上人談抄』の中で、次のように述べています。

 さて歌はいかやうによむべきぞと問ひ申しゝがば、和歌はうるはしく可詠(よむべき)なり。古今集の體を本としてよむべし。中にも雜の部を常に可見(みるべし)。但、古今にもうけられぬ體の歌少々あり。古今の歌なればとて、その體をば詠ずべからず。心にも付きて優におぼえむ其風體の風理をよむべし・・・(中略)

 春霞かすみていにし雁がねは 今ぞなくなる秋霧の上に
  
 此歌を貫之中宮の御屏風に書きけるを、先づ春霞と書きたりけるを、秋の繪の所には春霞いかゞと申す人ありければ、筆をうちおきて不覺仕り候けりと云ひて、しばしありてみなみな書きたりければ、難じたる人かほあかめて心うげに思ひたりけり。


 『西行上人談抄』は、『西公談抄』、『西行日記』、 『蓮阿記』ともよばれ、その弟子であった蓮阿(荒木田満良)が、西行から歌について聞書きしたもので、西行の歌論書となっています。

 西行は、「和歌は麗しく詠むもの、古今集の歌風を手本として詠むべきである。その中でも、雑部を常に見るべきである。」と論じています。
 雑部は述懐を主とした歌であり、西行の歌は述懐を重んじた姿勢がみられるとされています。


 題しらず                               よみ人しらず
 春霞 かすみていにしかりがねは 今ぞなくなる 秋ぎりのうへに
                                    (古今集 210)


 また西行は、古今集に載せられた紀貫之(866?~945)の従兄弟にあたる紀友則(845~907)の歌も意識裡においていたと推察されます。

 是定のみこの家の歌合のうた                  とものり
 秋風に 初雁がねぞきこゆなる たがたまずさを かけてきつらん
                                    (古今集 207)

 
 からす羽の玉章(たまずさ)の故事は、『日本書紀』の敏達天皇元年(572)五月丙辰(へいしん、十五日)の項に記載されています。

 高句麗からからすの羽に書かれた表疏(国書)が届きましたが、羽も文字も黒いので、誰も読み解くことができません。
ここに、百済王の一族で已に帰化していた王辰爾(わしに)が、飯をふかす蒸気で羽を湿らせ、白い絹布を押し当てて文字を写し取り解読しました。

 《欽明天皇卅一年》 (原漢文、嘉穂のフーケモン拙訳)
 夏四月(うつき)甲申(こうしん)の朔(ついたち)乙酉(いつゆう)。泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)に幸す。越人(こしびと)江渟臣裙代(えぬのおみのもしろ)京に詣で奏て曰く、「高麗(こま)の使(つかひ)人、風浪に辛苦して、迷(まよひ)て浦津(とまりつ)を失へり。水の任(まま)に漂流(ただよは)せて、忽に岸(ほとり)に到着す。郡司(こおりのつかさ)隠匿す。故に臣、顕(あらは)し奏(まう)す。」

 詔(みことのりし)て曰く、「朕は帝業(きみつき)を承(うけ)て若干年(ととせあまり)。高麗(こま)路(みち)に迷ひ、始(はじめ)て越(こし)の岸(ほとり)に到り、漂溺(ただよひおぼる)に苦むと雖も、尚ほ性命(みいのち)を全(まつたう)す。豈に徽猷(よきのり)廣被して、至(いき)徳の魏(さかり)に魏(おほき)に、仁化(めぐみのみち)傍(あまね)く通ひて、洪(あふる)る恩(めぐみ)蕩(ひろ)く蕩(とをき)に非(あらざ)る者哉(か)。有司(つかさ)宜しく山背國(やましろのくに)相樂郡(さはらのこほり)に於て、館(むろつみ)を浄治(きよめはらひ)て起て、厚く相資(たすけ)養へ。」


 第29代欽明天皇31年(570)、夏4月2日。天皇は、泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや、奈良県桜井市初瀬)に行幸された。
 越(北陸地方)の人、江渟臣裙代(えぬのおみのもしろ)が京に詣で奏上して言うには、「高麗の使者が暴風雨のために港が分からなくなり、漂流してやっとのことで海岸に着きましたが、郡司がこれを報告せずに隠しているので、私がお知らせに参りました」と。
 天皇は、「自分は皇位について若干年だが、高麗人が航路に迷い、初めて越(北陸地方)の浜に到着し、漂流に苦しみながらもその命をとりとめた。これは我が政治が広く行き渡り、徳が盛んで、仁があまねく通じ、大恩が果てしないことを示すものではあるまいか。有司(つかさ、朝廷の官僚)は、山背国相楽郡(京都府相良郡山城町)に館(むろつみ)を建て、厚く助けて養生させよ。」と詔(みことのり)した。


 しかしこの翌年(572)四月に、欽明天皇が崩御したため、高麗の使者のことは顧みられませんでした。  続きを読む

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2009年04月01日

やまとうた(24)-谷風に とくる氷のひまごとに

 
 ユリ科 スノーフレイク
 別名:オオマツユキソウ(大待雪草),スズランズイセン(鈴蘭水仙) by 草花写真館

 (旧暦  3月6日)

 三鬼忌、西東忌 新興俳句運動の騎手、西東三鬼の昭和37(1962)の忌日。本名斎藤敬直。岡山縣立津山中學に首席で入学、大正8年(1919)、母をスペイン風邪で亡くし、その後上京して青山学院中等部に編入するも中退。日本歯科医学専門学校に進学し、歯医者として生計をたてる。
 33歳の時、患者達のすすめで俳句を始め、「サンキュー」をもじって{三鬼」を名乗る。
 戦後、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948)に「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。句集として「旗」、「変身」、「夜の桃」、「今日」などがある。
 
   水枕 ガバリと寒い海がある
   広島や 卵食ふ時口開く
   冬に生れ ばつた遅すぎる早すぎる


 寛平の御時きさいの宮の歌合のうた         源まさずみ
 谷風にとくる氷のひまごとに 打ち出づるなみや 春の初花 (古今集12)

 平安中期の歌人源当純(まさずみ、生没年不詳)は、第55代文徳天皇(在位850~858)の皇孫で、近院右大臣源能有の5男です。
寛平6年(894)正月に太皇太后宮少進に任ぜられ、その後寛平8年(896)正月に従五位下、寛平9年(897)5月に大蔵少輔、昌泰3年(900)縫殿頭、翌年の延喜元年(901年)7月に摂津守、延喜3(903)年2月少納言、延喜7年(907)従五位上に昇叙されていますが、勅撰集へは古今集にこの1首のみが入首しています。

 この歌は、寛平5年(893)より前に、第59代宇多天皇(在位887~897)の母班子(はんし、833~900)女王が主催した歌合に出された歌とつたえられています。

 題しらず                          読人しらず
 み山には 松の雪だに消えなくに 宮こはのべの 若菜つみけり (古今集18)

 かすが野のとぶひの野守いでて見よ 今いくかありて若菜つみてむ (古今集19)

 あづさ弓おしてはるさめ今日ふりぬ 明日さへふらば若菜つみてむ (古今集20)

 仁和のみかど、みこにおましましける時に、
 人に若菜たまひける御うた
 君がため春の野にいでて若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ (古今集21)


 仁和のみかどとは、第58代光孝天皇(在位884~887)のことで、元慶8年(884)第57代陽成天皇(在位876~884)の譲位を受けて践祚しましたが、この時年齢は五十五歳になっていました。

 一 五十八代  光孝天皇  時康
 次の帝、光孝天皇と申しき。仁明天皇の第三の皇子なり。御母、贈皇太后宮藤原沢子、贈太政大臣総継の御女なり。この帝、淳和天皇の御時の天長七年庚戌、東五条家にて生まれ給ふ。御親の深草の帝の御時の承和十三年丙辰正月七日、四品し給ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿になり給ふ。御年二十一。仁寿元年十一月二十一日、三品にのぼり給ふ。御年二十二。貞観六年正月十六日、上野大守かけさせ給ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師にうつりならせ給ふ。同じ十二年二月七日、二品にのぼらせ給ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿にならせ給ふ。御年四十七。元慶六年正月七日、一品にのぼらせ給ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給ひて、二月四日、位につき給ふ。御年五十五。世をしらせ給ふこと四年。小松の帝と申す。この御時に、藤壷の上の御局の黒戸は開きたると聞き侍るは、誠にや。
 『大鏡 第一巻 五十八代  光孝天皇』
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2008年10月07日

やまとうた(23)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (2)

 

 オミナエシ科 オミナエシ(女郎花) by 草花写真館

 (旧暦  9月 9日) 重陽

  九月九日、山東の兄弟(けいてい)を憶(おも)ふ    王維
  
  獨り異郷に在りて異客と為り
  佳節に逢ふ毎に倍(ます)ます親を思ふ
  遙かに知る 兄弟(けいてい) 高きに登る処
  徧(あまね)く茱萸(しゅゆ)を挿すも 一人を少(か)かん


 やまとうた(22)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (1) のつづき

 深草の里に住み侍りて、京へまうでくとて、そこなりける人によみて贈りける 

                                         なりひらの朝臣
 年をへて すみこし里を出でていなば いとど深草野とやなりなむ (古今集971)

 
 年を経て住んで来た里を去ったならば、ますます草が深く茂り、深草の里(平安京の南郊)は草深い野となるだろうか。

 返し
 野とならば うづらと鳴きて年は経む かりにだにやは君はこざらむ (古今集972)
 

 ここが草深い野となったならば、私はうずらになって鳴きながら年を経よう。せめてかりそめにも、せめて狩りのついでにでも、あなたが来ないとも限らないのだから。

 この古今集の歌をモチーフに、伊勢物語第123段には「鶉」あるいは「深草」と題する1段が記載されています。

 むかし、おとこありけり。深草にすみける女を、やうやうあきがたにや思ひけむ、かゝるうたをよみける。
 年をへて すみこしさとをいでゝいなば いとゞ深草野とやなりなむ
 女、返し、
 野とならば うづらとなりてなきをらむ かりにだにやは君は来ざらむ
 とよめりけるにめでゝ、ゆかむと思ふ心なくなりにけり。
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2008年10月06日

やまとうた(22)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (1)

 

 キキョウ科 キキョウ by 草花写真館

 (旧暦  9月 8日)

 百首歌奉りける時、秋歌とてよめる
                                   皇太后宮大夫俊成
 夕されば 野邊の秋風身にしみて うづらなくなり深草の里 (千載集 259)


 千載集を代表する平安末期の歌人藤原俊成(1114~1204)の秀作ですが、この歌に難癖をつけた東大寺の僧、俊恵法師(1113~1191?)の歌評の方が正当視されていることにお怒りになっている方もいらっしゃるようです。

 方丈記で有名な鴨長明(1156~1216)は、賀茂御祖(かもみおや)神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれ、俊恵の門下に学んで歌人としても活躍しましたが、その歌論書『無名抄』に「俊成自讃歌事」という和歌に関する評論を残しています。

 「俊成自讃歌事」
 俊恵云(いはく)、五條三位入道の許(もと)にまうでたりしついでに、御詠の中にはいづれをかすぐれたりとおぼす。人はよそにてやうやうに定(さだめ)侍れど、それをばもちゐ侍べからず。まさしくうけたまはらむと思(おもふ)ときこえしかば、

  夕されば 野邊の秋風身にしみて うづらなくなり深草の里

これをなむ身にとりてのおもての歌と思給ふるといはれしを、俊恵又云、世にあまねく人の申侍るは、

  面影に 花のすがたをさきだてて いくへこえきぬ峯の白雲

是をすぐれたる様に申侍はいかにときこゆれば、いさよそにはさもやさだめ侍らむ、しり給はず。尚みづからはさきの歌にはいひくらぶべからずとぞ侍りしとかたりて、これをうちうちに申しは、
   俊恵難俊成秀歌事 此詞イ本無之
彼の歌は身にしみてというこしの句、いみじう無念におぼゆるなり。これほどになりぬる歌は、けいきをいひながして、ただそらに身にしみけむかしとおもはせたるこそ心にくくもいうにも侍れ。いみじくいひもてゆきて歌の詮とすべきふしをさはさはとあらはしたれば、むげにことあさくなりぬるなりとぞ。其次にわが歌の中には
俊恵歌

  三吉野の 山かきくもり雪ふれば 麓の里はうちしぐれつつ

是をなむかのたぐひにせむと思給ふる。もし世の末におぼつかなくいふ人もあらば、かくこそいひしかとかたり侍べしとぞ。
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2008年01月19日

やまとうた(21)-その子二十(はたち) 櫛にながるる黒髪の

 

 Akiko and her husband, Tekkan Yosano from Wikipedia.

 (旧暦 12月12日)

 臙脂紫(えんじむらさき) 
 その子二十 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな          (006)
 清水へ 祇園をよぎる櫻月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき             (018)
 やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君          (026)
 狂ひの子 われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき 百三十里 あわただしの旅  (050)


 はたち妻
 むねの清水 あふれてつひに濁りけり 君も罪の子我も罪の子           (228)
 くろ髪の 千すじの髪のみだれ髪 かつおもひみだれおもいみだるる       (260)
  

 春思
 人の子の 恋をもとむる唇に 毒ある蜜をわれぬらむ願い              (334)

 むかしはと云っても、平成11年(1999)までは、成人の日は毎年1月15日でしたが、平成12年(2000)からは、ハッピーマンデー制度導入に伴い、1月第2月曜日(その年の1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日)に変更されました。
 二十歳の若い皆さんを拝見しておりますると、晶子の詠んだ歌のように、屈託のない明るさで、まばゆいような生命(いのち)の輝きに圧倒されてしまうものです。

 まあしかし、これらの歌が収められた與謝野晶子(1878~1942)の処女歌集「みだれ髪」が発表された明治34年(1901)当時は、大問題になったことでしょう。

 万智ちゃんを 先生という子等がいて 神奈川県立橋本高校
 万智ちゃんが ほしいと言われ心だけ ついていきたい花いちもんめ
 水蜜桃(すいみつ)の 汁すうごとく愛されて 前世も我は 女と思う
 赦されて 人は幸せになるものと 思わず恋は終身の刑
 燃える肌を 抱くこともなく人生を 語り続けて寂しくないの
 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ 二本で言ってしまっていいの

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2007年07月22日

やまとうた(20)-あかねさす 紫野行き標野行き

 

 蒲生野猟遊  蒲生野は近江国湖東地方、蒲生郡域平野部の古称

 (旧暦  6月 9日)

 天皇(すめらみこと)の蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまふ時、額田王の作る歌

 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る (巻1-20)

 皇太子(ひつぎのみこ)の答へましし御歌 
 明日香宮ニ御宇(あめのしたしらしめ)シシ天皇(すめらみこと)、諡シテ天武天皇トイフ

 紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾(あれ)戀ひめやも (巻1-21)

 紀ニ曰ハク、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野ニ縦猟(かり)シタマフ。時ニ大皇弟(ひつぎのみこ)諸王(おほきみたち)内臣(うちつまへつきみ)及ビ群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)ニ従(おほみとも)ソトイヘリ。


 日本書紀巻第二十九の天武天皇二年(673)二月癸未(27日)の記述に、

 『天皇(すめらみこと)初め鏡王の女(むすめ)額田姫王(ぬかたのひめみこ)を娶(めと)る。十市皇女を生む。』

 とありますが、額田王(ぬかだのおおきみ)は、はじめは大海人皇子(おおあまのみこ:後の天武天皇)に婚(みあ)い、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みましたが、後に大海人皇子の兄である葛城皇子(かつらぎのみこ:中大兄皇子)に召されて宮中に侍していた、つまり、下々の者にはよくわかりませんが、まあ、そういう関係にあったということらしいです。

 この歌に関しては、かの斎藤茂吉先生(1882~1953)はその名著『万葉秀歌』の中で、

 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態をも感じ得るのである。(中略) 一首は平板に直線的ではなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。云々・・
 
 などと、よく訳のわからない注釈を残しています。  続きを読む

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2006年09月07日

やまとうた(19)−葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の

 

 近江八幡水郷巡り

 (旧暦閏-7月15日)

 鏡花忌  『高野聖』や湯島の白梅でおなじみの『婦系図』などで知られる小説家泉鏡花の昭和14年(1939)の忌日。

 英治忌  『鳴門秘帖』、『宮本武蔵』、『新書太閤記』などで人気を博した時代小説作家吉川英治の昭和37年(1962)年の忌日。

 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の 吹き来るなへに雁鳴き渡る (萬葉集 巻10−2134) 作者未詳

 葦邊在荻之葉左夜藝秋風之 吹来苗丹鴈鳴渡


 荻(オギ)はイネ科の多年草で、学名はMiscanthus sacchariflorus 、河岸や水辺などの湿地に群生し、薄(ススキ)にそっくりですが、その花穂は純白で大きく、長さ20〜40cmになります。 
 
 また荻(オギ)は、薄(ススキ)のような大きな株をつくらず、地下茎を長くのばし、その地下茎から茎が1本ずつ生えるので、大きな群落を作ります。

 水辺では、水深の深いところから、蒲(ガマ:Typha latifolia )、真菰(マコモ:Zizania latifolia Turcz)が群生し、水深が浅くなるにつれて葦(アシ:Phragmites communis)の群落となり、岸から離れた所に荻(オギ)の群落が広がり、乾いたところで薄(ススキ:Miscanthus sinensis)の群落に移行するようです。
 
 萬葉集第1の歌人で歌聖と呼ばれ称えられている柿本人麻呂(660年頃〜720年頃)の歌集である『人麿歌集』にも小異歌が見える次の歌は、前記の歌を原歌としているようです。

 垣ほなる荻の葉そよぎ秋風の 吹くなるなへに雁ぞなくなる(新古今集 497)

 また、

 秋風に山飛び越ゆる雁がねの 声遠ざかる雲隠るらし (萬葉集 巻10−2136) 作者未詳

 秋風尓山飛越鴈鳴之 聲遠離雲隠良思

 を原歌として人麻呂は、次のような歌も残しています。

 秋風に山とびこゆる雁がねの いや遠ざかり雲がくれつつ(新古今集 498)  続きを読む

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2006年04月26日

やまとうた(18)−しつやしつしつのをたまきくり返し(2) 

 

 キンポウゲ科 オダマキ(苧環) 学名:Aquilegia buergeriana

 (旧暦  3月29日)
 
 やまとうた(18)−しつやしつ しつのをたまきくり返し(1)のつづき 

 高木彬光(1920〜1995)氏が昭和33年(1958)に発表した推理小説に『成吉思汗の秘密』というのがありますが、成吉思汗(ジンギスカン)を万葉仮名として読み下せば、 成吉思汗(なすよしもがな)つまり静御前の歌の下の句「むかしをいまになすよしもかな」への返歌になっているとの説や、「成吉思汗−吉成りて汗を思ふ=吉野山の誓成りて水干(白拍子=静)を思う」との秘密が隠されているという内容には、思わず引き込まれたものでした。

 一ノ谷の戦いの後の元暦元年(1184年)8月6日、除目(ぢもく:各官職を任命する儀式)が行われ、九郎義経は後白河法皇の意により左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられて院への昇殿を許されました。左衛門尉と検非違使とを兼職した場合には廷尉(ていじょう)と俗称されたため、義経は以後、九郎判官あるいは廷尉と呼ばれるようになりました。

 同じき八月六日の日、除目行はれて、大將軍蒲冠者範頼、參河守になる。九郎冠者義經、左衛門尉になる。則ち使(つかひ)の宣旨を蒙りて、九郎判官とぞ申しける。
 [平家物語 巻十 十四藤戸の事]

 翌元暦2年(1185)3月24日に平家が長門の壇ノ浦で滅亡したのち、同年4月15日に頼朝は、内挙(内々の推挙)を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じました。

 関東の御家人、内挙を蒙らず、功無くして多く以て衛府・所司等の官を拝任す。各々殊に奇怪の由、御下文を彼の輩の中に遣わさる。件の名字一紙に載せ、面々その不可を注し加えらると。
 下す 東国侍の内任官の輩中
 本国に下向することを停止せしめ、各々在京し陣直公役に勤仕すべき事
     (以下略)
 [吾妻鑑 元暦2年4月15日 戊辰]


 つまり、義経を初めとする関東の御家人が頼朝に許可なく官位を受けたことは、頼朝の大きな不信を招きました。  続きを読む

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2006年04月24日

やまとうた(17)−しつやしつしつのをたまきくり返し(1) 

 

 静御前(菊池容斎画、明治時代)

 (旧暦  3月27日)

 しつやしつ しつのをたまきくり返し  むかしをいまになすよしもかな (静御前)

 静御前と義経の悲恋の物語は、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている源義経とその主従を中心に書いた軍記物語『義経記』に詳しく書かれていますが、鎌倉時代に成立した歴史書である『吾妻鏡』にも静御前に関する記述が見られ、あながち単なる物語というわけでもないようですね。

 平家を滅ぼした後、義経は兄頼朝と対立し朝敵として追われることになりますが、頼朝が義経と対立した原因は、頼朝に許可なく官位を受けたことのほか、軍監として義経の平氏追討に従っていた梶原景時との対立による讒言があり、また平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されています。

 静御前は、義経が京を落ちて西国の菊池氏を頼って九州へ向かう際に同行しましたが、義経一行の船団は途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまいました。

 そこで義経は郎党や静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、吉野で義経と別れて京へ戻る途中で従者に持ち物を奪われて山中をさまよっていた時に、山僧等に捕らえられて京の北白川へ引き渡され、文治2年(1186)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られてしまいます。

 静女の事、子細を尋ね問わるると雖も、豫州(伊豫の守義経)の在所を知らざるの由申し切りをはんぬ。
当時彼の子息を懐妊する所なり。産生の後返し遣わさるべきの由沙汰有りと。
 [吾妻鑑 文治2年3月22日 庚子]
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2006年01月31日

やまとうた(16)−霞たち このめもはるの雪ふれば

 

 大原三千院 童地蔵

 (旧暦  1月 3日)

 雪のふりけるをよめる

 霞たち このめもはるの雪ふれば 花なきさとも花ぞちりける [古今 9]
 (紀貫之)


 このめもはるの: 「はる」に(木の芽が)「張る」を掛けている句で、「木の芽もめぐむ、春の…」の意となります。また、「めもはる」には「目も遥」を掛け、「見わたす限り」の意を添えています。

 この歌から派生した主な歌には、以下のようなものがあります。

 天の下 めぐむ草木の芽も春に 限りも知らぬ御代の末々 
 (式子内親王)

 うちむれて 若菜つむ野の花かたみ このめも春の雪はたまらず
 (藤原家隆) [続古今]

 霞たち このめ春雨きのふまで ふるのの若菜けさはつみてむ
 (藤原定家)

 おしなべて 木の芽も春のあさ緑 松にぞ千世の色はこもれる
 (九条良経) [新古今]

 松の葉の 白きを見れば春日山 木の芽もはるの雪ぞ降りける
 (源実朝)
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2005年12月31日

やまとうた(15)−山ふかみ さこそあらめときこえつつ

 

 山形県尾花沢 銀山温泉白銀の滝

 (旧暦 12月 1日)

 寅彦忌、冬彦忌  物理学者としてX線結晶解析学(ラウエ斑点の研究方法の改良)の先達でもあり、漱石門下の高弟としてもその随筆に非凡な才能を発揮し、雪の結晶の研究などで著名な北大教授中谷宇吉郎博士からも慕われた物理学者、随筆家寺田寅彦(筆名吉村冬彦)の昭和10年(1935)の忌日

 一碧楼忌 河東碧梧桐を主宰として俳誌『海紅(かいこう)』を創刊し、口語を取り入れた五七五調に囚われない自由律俳句を作り出した俳人中塚一碧楼の昭和21年(1946)の忌日

 胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり



 入道寂然(じゃくぜん)大原に住み侍りけるに、高野より遣(つかは)しける

 山ふかみ さこそあらめときこえつつ 音あはれなる谷川の水 (山家集 1198)

    かへし                     寂 然

 あはれさは かうやと君も思ひ知れ 秋暮れがたの大原の里 (山家集 1208)

 西行が最も親しく付き合っていた人々の中に、大原三寂(常盤三寂)と呼ばれる北家長良流に属する常盤家、藤原爲忠(?〜1136)の三人の息子達がいました。寂念(爲業:ためなり)、寂超(爲経:ためつね)、寂然(じゃくぜん)(頼業:よりなり)の三人の兄弟ですが、特に四男の寂然とは盛んに歌のやりとりを行い、『山家集』には、高野山にいる西行が京の大原(京都市左京区北部、比叡山の西北麓)に隠遁している寂然のもとに「山ふかみ」で始まる歌十首を送ると、寂然がこれに応えて「大原の里」で終わる十首を返してきた贈答歌が載せられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:05Comments(0)やまとうた

2005年11月26日

やまとうた(14)−大空の月の光し清ければ

 

 山寺(立石寺)五大堂

 (旧暦 10月25日)

 題しらず      読人しらず
 大空の月の光し清ければ 影見し水ぞ先づこほりける (古今集316)


 各地からは紅葉のたよりも聞かれ、行く秋を惜しむかのような穏やかな日が続いていますが、アメリカやカナダでは、晩秋や初冬におこる穏やかでからりとした気候をIndian summer と云い、かすんだ空気を伴うそうです。
 旧暦では神無月(10月)、霜月(11月)、師走(12月)は冬の季節となり、この頃は晩秋というより初冬または孟冬と言うべきでしょうね。
 「孟」という言葉は広辞苑によれば「はじめ」という意味で、特に「四季のはじめ」とあり、孟春、孟夏、孟秋となるようですが、現在はほとんど使われていません。

 ところで、元オフコースの小田和正氏が作詞・作曲した「もう終わりだね〜 君が小さく見える・・」ではじまる歌の「もう・・」は副詞で、「もはや」とか「すでに」という意味ですから、日本語は面白うございます。

 私「嘉穂のフーケモン」も、調査をしたり原稿を書いたりしてしばらく本業が忙しく、「板橋村だより」も40日ばかり休眠していましたが、やっと開放されたので、また武蔵の国板橋村より筆の遊(すさ)びもといキーボードの遊(すさ)びに、「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」でございますよ〜だ。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:41Comments(0)やまとうた

2005年09月11日

やまとうた(13)−心なき身にもあはれは知られけり

 

 大原 往生極楽院

 (旧暦  8月 8日)

 秋ものへまかりける道にて
 心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ澤の秋の夕ぐれ (山家集)


 「選挙だ」、「大雨だ」、「台風だ」と忙しくしているうちに秋も深まり、もう旧暦では中秋の季節を迎えました。
 明日からはまた平穏な暮らしが始まるのでしょうが、秋の行事も多々控えており、なにかと慌ただしい日々が続きます。しかし、開票速報が始まる前の虫の音が聞こえる静かなひととき、しみじみと秋を楽しむことにしましょう。

 西行のこの歌は、名もなき場所の詠歌とされています。また、『新古今集』巻四(秋上)の362番に「題しらず」として載せられています。しかし、13世紀の半ば、鎌倉時代中期に成立したとされる『西行物語』では、「相模国大庭といふ所、砥上原を過ぐるに、・・・」とあり、ここは現在の神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)付近の片瀬川西岸の原野と推定されています。

 この砥上原は、『方丈記』作者で鴨社の氏人菊大夫長明入道(鴨長明)の歌にも詠まれています。

 浦近き砥上原に駒とめて 片瀬の川の潮干(しほひ)をぞ待つ  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:27Comments(0)やまとうた

2005年08月08日

やまとうた(12)−吹く風のすずしくもあるかおのづから

 

 ヒグラシ 学名:Tanna japonensis

 (旧暦  7月 4日)

 國男忌(柳叟忌) 民俗学者柳田國男の昭和37年(1962)の忌日

 暦の上では立秋も過ぎ、そろそろ涼しい風が吹く頃と期待しておりましたるところ、あに図らんや衆議院が解散し、日本列島はますます熱い季節を迎えそうで、まったく、トホホのホでございます。

 ま、世間の事はさておき、せめて「やまとうた」で涼しさを味わいませう。

 蝉のなくを聞きて
 吹く風のすずしくもあるかおのづから 山の蝉鳴きて秋はきにけり (鎌倉右大臣実朝)


 右大臣が詠んだ蝉は、いま帝都東京でやかましく泣いているアブラゼミやミンミンゼミではなく、ヒグラシかツクツクボウシで、そこはかとなく夏の終わりのはかなさを感じさせる蝉のようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:56Comments(0)やまとうた

2005年07月15日

やまとうた(11)−風になびくふじのけぶりのそらにきえて

 

 長尾峠から見た富士 (「四季の富士」より)

 (旧暦  6月10日)

 あづまのかたへ修行し侍りけるに、ふじの山をよめる  
        
 風になびくふじのけぶりのそらにきえて ゆくゑもしらぬわが思哉
 (新古今集 巻17 1615 西行法師)


 天養元年(1144)、約百数十年も前の歌人能因法師(988〜?)の道筋をたどって歌枕探訪の修行をするため、西行(1118〜1190)はみちのくへの第1回目の旅を行いました。
 
 その途中、奥州白川の関では、能因法師の古歌「都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞふく白河の関(後拾遺集 518)」を偲び、有名な歌を詠んでいます。

 みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の關にとまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名残おほくおぼえければ、關屋の柱に書き付けける

 白川の關屋を月のもる影は 人のこころをとむるなりけり (山家集 1126)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:20Comments(0)やまとうた