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2012年05月29日

やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる

 やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる

 伏見天皇(天子摂関御影)
 
 (旧暦4月9日)

 多佳子忌
 美女の誉れたかい高貴の未亡人、戦後俳壇のスターとして、女性の哀しみ、不安、自我などを、女性特有の微妙な心理によって表現した俳人橋本多佳子の昭和38年(1963)の忌日。

 やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる

 雪はげし抱かれて息のつまりしこと 
 雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
         
 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟
         
 息あらき雄鹿が立つは切なけれ
         
 雄鹿の前吾もあらあらしき息す
         
 月光にいのち死にゆくひとと寝る


 白櫻忌、晶子忌
 歌人、詩人與謝野晶子の昭和17年(1942)年の忌日。歿後に出された最後の歌集『白櫻集』に因み、「白櫻忌」とも呼ばれる。

 やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる

 木の間なる染井吉野の白ほどの はかなき命抱く春かな



 二十四節気では立夏を過ぎて、暦の区切りでは既に夏の初めとなりました。
 初夏とは陰暦四月(5/21~6/19)の異称の一つでもあるとされています。

 また、5月21日ころは小満と呼ばれ、太陽視黄経 60 度、暦便覧には「万物盈満すれば草木枝葉繁る」と記されています。

 二十四節気は、黄道を黄経0度から15度ずつに刻み、太陽がその区分点を通る日付によって太陽年を24の期間にわけ、それぞれの期間の季節的な特徴を表す名称を付けたものです。
 古来中国から伝来し、日本でも季節のさだめに重用されて今日に及んでいます。

    戀の御歌の中に
 うれしともひとかたにやはなかめらるる 待つよにむかふ夕ぐれの空 
                          風雅和歌集 1029番


 この歌は鎌倉末期の女流歌人永福門院西園寺鏱子(1271〜1342)の歌で、乾元二年(1303)の仙洞五十番歌合五十番左勝(左右に歌を記して勝敗を競い、左側の歌が勝った状況)に、また没後の貞和四年(1348)頃に完成された光厳院撰『風雅和歌集』巻第十一恋歌二にも収められています。

 本朝古代の風俗においては、男性が女性を見初めて女性のもとに通う、あるいは女性の家族が男性を迎え入れるといった、女性を中心とした婚姻が成立していたとされています。
  
 石川郎女がおそらくは大伴家持に贈ったとされる、

 春日野之山邊道乎於曽理無 通之君我不所見許呂香聞
 春日野の山辺の道を恐りなく 通ひし君がみえぬころかも
                          萬葉集 巻四 518番


 あるいは、高田女王が今城王に贈った、

 常不止通之君我使不來 今者不相跡絶多比奴良思
 常やまず通ひし君が使い来ず 今は逢はじとたゆたひぬらし
                          萬葉集 巻四 542番
    

 の「通ふ」はこの初期の段階であったようです。

  この「通ふ」段階においては、男性が通はない夜もあり、そういう夜は女性は独り寝をしなければなりません。
 「あの人がなぜ来ないのか」、「ほかの女のところに行ったのであろうか」、「もう私を飽きてしまったのであろうか」などと思い待つ苦しみは、和歌の好題目となったようです。

 足日木能山櫻戸乎開置而 吾待君乎誰留流
 あしひきの山櫻戸をあけおきて わが待つ君を誰かとどむる
                  よみ人しらず  萬葉集 巻十一 2617番

 久しくもなりにけるかな住の江の まつは苦しきものにぞありける
                  よみ人しらず  古今集 巻十五 戀歌五 778番

 来ぬ人をまつちの山のほととぎす 同じこころにねこそなかるれ
                  よみ人志らず  拾遺集 卷十三 
戀三 820番


 しかし、このような女心の切なさを歌ったのは、たいていが男であったと推定されるそうで、「待つ女といふ哀れ深いイメージが男ごころを強く刺激したせいであった」と丸谷才一はその著「新々百人一首」のなかで断定しています。

 さらには、
                          遍昭
 わが宿は道もなきまで荒れにけり つれなき人を待つとせしまに
                          古今集 巻十五 戀歌五 770番

 今こむといひて別れしあしたより 思ひくらしのねをのみぞなく
                          古今集 巻十五 戀歌五 771番


は、『古今集』の歌人が女性に身をやつして詠んだ例であり、

                          藤原有家朝臣
 こぬ人を待つとはなくて待つ宵の ふけゆく空の月もうらめし
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1283番

                          摂政太政大臣
 いつも聞くものとや人の思ふらん 來ぬ夕ぐれのまつかぜのこゑ
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1310番

                          前大僧正慈円
 心あらば吹かずもあらなんよひよひに 人まつ宿の庭の松風
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1311番

                          寂蓮法師
 こぬ人を秋のけしきやふけぬらん うらみによわる松虫の聲
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1321番


は、いづれも『新古今集』撰入の歌です。
 男性の歌人によるこのような恋歌のうち、最も有名なものは『小倉百人一首』に選ばれている次の歌です。

 やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる

 藤原定家(菊池容斎画、明治時代)

                          権中納言定家
 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ
                          新勅撰集 巻十三 戀哥三 849番



 「これにくらべるならば女流の詠む待つ夜の歌は濃艶な趣に欠ける」と、丸谷才一先生は曰うておられます。                         

 「新古今集」の恋歌では、皇太后宮大夫俊成女がつぎのような歌をのこしていますが、「淡泊ではない詠み口だが、しかし今度は逆に、あまりにも意匠めいてゐて流露感が乏しい」と丸谷先生は手厳しい。

 やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる
 
 皇太后宮大夫俊成女 嘉永四年版女百人一首
   
                          皇太后宮大夫俊成女
 習ひこし誰がいつはりもまだ知らで 待つとせしまの庭の蓬生
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1285番

 ふりにけりしぐれは袖に秋かけて いひしばかりを待つとせしまに
                          新古今集 巻十四
 戀哥四 1334番


 そして、

 なほ、第三句の「ながめらるる」は字余りである。王朝和歌の約束事として、字余りの句は、

 年のうちに春はきにけりひととせを 去年とやいはむ今年とやいはむ
                         (在原元方  古今集 巻第一 春歌 上 1)

 雪のうちに春はきにけりうぐいすの 氷れる泪いまやとくらむ
                       (二条のきさき  古今集 巻第一 春歌 上 4)
  
 志ふかく染めてしをりければ 消えあへぬ雪の花とみゆらむ
                       (よみ人しらず  古今集 巻第一 春歌 上 7)

のやうに、アイウエオのうちの一音を含んでゐなければならない。この規則は『新古今』時代まではきびしく守られてゐたのだが、鎌倉後期になるともはや崩れていた。
 当代随一の女流歌人であり、女御、女院として宮廷文化の中心であった人が、こんなふうに歌道の約束事を乱したことはすこぶる興味深い。と言ふよりもむしろ、この法則にとらはれない字余りの態度は、彼女の歌の新しさ、敢へて言えば近代性と関係のあるものだらう。かういふ新しい字余りをとり入れる歌人だからこそ、在来のただ悲しいだけの待つ夕暮れではない、「うれし」といふ言葉がはいつてその喜びの情と重ね合せられてゐる、複雑繊細な悲しみを歌ふことができたのである。

と、評しています。

 西園寺鏱子は、鎌倉幕府の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府との連絡・意見調整を行った関東申次という役職を世襲する西園寺実兼(1249〜1322)の長女として生まれ、正応元年(1288)、十八歳の時に即位して間もない第92代伏見天皇(1265〜1317、在位1287〜1298)の女御となり、次いで中宮となりました。

 永仁六年(1298)には、伏見天皇の譲位に伴い永福門院の院号を受けています。
 女院号の一形式として禁裏の門を宛てる門院号がありますが、永福門は平安京大内裏朝堂院二十五門のひとつで、北面し、昭慶門の西隣にある門です。

 門院号の初例は、かの御堂関白藤原道長(966〜1028)の長女で、第66代一条天皇(980〜1011、在位986〜1011)の中宮となり、第68代後一条天皇(1008〜1036、在位1016〜1036)、第69代後朱雀天皇(1009〜1045、在位1036〜1045)の生母(国母)となった上東門院藤原彰子(988〜1074)でした。

 上東門院は中宮彰子の里邸(さとやしき)に由来する命名でした。土御門第、別名を上東門第とも称し、実父藤原道長の邸宅で、中宮彰子はここで敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)を出産しています。
 平安京の左京一条四坊十六町にあって、現在の京都御苑の敷地内に該当します。

 後一条天皇、後朱雀天皇の二代の国母となった上東門院は佳例であるとされたこともあり、門院号は女院全体の大多数を占める院号となったようです。
 始めは禁門(大内裏を囲む外郭十四門)に限られていましたが、嘉応元年(1169)の建春門院以降は宮門(内裏の外重を囲む外郭七門)や内門(内裏の中重を囲む内郭十二門)、内閤門、その他朝堂院、豊楽院の門名なども取り入れられるようになりました。

 本題に戻りますが、永福門院鏱子は、実感を尊び繊細な感覚的表現による歌風の京極派和歌の創始者にして主導者であった京極為兼(1254〜1332)や伏見院と共に京極派和歌を代表する歌人で、乾元二年(1303)の仙洞五十番歌合を始め、京極派の歌合・歌会に主要メンバーとして参加しています。また自らも嘉元三年(1305)正月四日の歌合を主催するなどしています。

 正和元年(1312)に奏覧された京極為兼撰の『玉葉和歌集』には四十九首、没後の貞和四年(1348)頃に完成された光厳院撰『風雅和歌集』には六十九首が選ばれています。
 また、文保二年(1318)頃の院自撰の『永福門院百番御自歌合』二百首が残されています。

 余談ですが、博識な丸谷才一先生、

 「百人一首」をヒヤクニンイツシユと発音するのは今風である。古風にはヒヤクニンシユと言ふ。昔の東京では、「女こどもだけではなく、士人もまたさうであつた」と石川淳は記し、さらに、おそらくは嘉永以降の写本(筆者不詳)に、「百人一首ハ百人一首ト四字ヲアラハニ読ベカラズ。一ノ字ヲ人ノ字ノ下ニフクミテ聞エヌヤウニ読ベシト也」とあるを言ひ添へる。また、山崎美成の『世事百談』天保十四年十二月刊、巻一「さしもぐさ」の条に「百人一首」の四字があり、「ひやくにんしゆ」と仮名が振ってあると念を押す。わたしの郷里でも、今は知らないがわたしが子供のころ、大人たちはヒヤクニンシユと発音してゐた。そこでこの本では昔の流儀に従ふ。すなはち近頃の文学事典類の訓みに逆らふことを敢へて辞さない。

 と、持論を展開されておられます。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:10│Comments(0)やまとうた
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