2006年04月24日
やまとうた(17)−しつやしつしつのをたまきくり返し(1)
静御前(菊池容斎画、明治時代)
(旧暦 3月27日)
しつやしつ しつのをたまきくり返し むかしをいまになすよしもかな (静御前)
静御前と義経の悲恋の物語は、南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている源義経とその主従を中心に書いた軍記物語『義経記』に詳しく書かれていますが、鎌倉時代に成立した歴史書である『吾妻鏡』にも静御前に関する記述が見られ、あながち単なる物語というわけでもないようですね。
平家を滅ぼした後、義経は兄頼朝と対立し朝敵として追われることになりますが、頼朝が義経と対立した原因は、頼朝に許可なく官位を受けたことのほか、軍監として義経の平氏追討に従っていた梶原景時との対立による讒言があり、また平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されています。
静御前は、義経が京を落ちて西国の菊池氏を頼って九州へ向かう際に同行しましたが、義経一行の船団は途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまいました。
そこで義経は郎党や静御前を連れて吉野に身を隠しましたが、吉野で義経と別れて京へ戻る途中で従者に持ち物を奪われて山中をさまよっていた時に、山僧等に捕らえられて京の北白川へ引き渡され、文治2年(1186)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られてしまいます。
静女の事、子細を尋ね問わるると雖も、豫州(伊豫の守義経)の在所を知らざるの由申し切りをはんぬ。
当時彼の子息を懐妊する所なり。産生の後返し遣わさるべきの由沙汰有りと。
[吾妻鑑 文治2年3月22日 庚子]
同年4月8日、静御前は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられ、
よしの山みねのしら雪ふみ分(わけ)て いりにし人のあとぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまきくり返し むかしをいまになすよしもがな
と、義経を慕う歌を唄って頼朝を激怒させますが、妻の北条政子がとりなして助けられます。
二品(頼朝)並びに御台所(政子)鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。この事去る比仰せらるるの処、病痾(長引く病気)の由を申し参らず。
身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州(伊豫の守義経)の妾として、忽ち掲焉(けちえん:目立つ)の砌(みぎり:場面)に出るの條、頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。適々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、御台所頻りに以て勧め申せしめ給うの間これを召さる。
(中略)
静先ず歌を吟じ出して云く、
よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき
次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、
しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな
誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品(頼朝)仰せて云く、八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。
御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。
また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。
その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州(伊豫の守義経)多年の好(よしみ)を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉(ま)げて賞翫し給うべしと。時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。これを纏頭(心付け)せらると。
[吾妻鑑 文治2年4月8日 乙卯]
つづく
よしの山みねのしら雪ふみ分(わけ)て いりにし人のあとぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまきくり返し むかしをいまになすよしもがな
と、義経を慕う歌を唄って頼朝を激怒させますが、妻の北条政子がとりなして助けられます。
二品(頼朝)並びに御台所(政子)鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。この事去る比仰せらるるの処、病痾(長引く病気)の由を申し参らず。
身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州(伊豫の守義経)の妾として、忽ち掲焉(けちえん:目立つ)の砌(みぎり:場面)に出るの條、頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。適々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、御台所頻りに以て勧め申せしめ給うの間これを召さる。
(中略)
静先ず歌を吟じ出して云く、
よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき
次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、
しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな
誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品(頼朝)仰せて云く、八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。
御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。
また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。
その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州(伊豫の守義経)多年の好(よしみ)を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉(ま)げて賞翫し給うべしと。時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。これを纏頭(心付け)せらると。
[吾妻鑑 文治2年4月8日 乙卯]
つづく
やまとうた(30)− 雪のうちに春はきにけりうぐひすの
やまとうた(29)−み吉野の吉野の山の春がすみ
やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる
やまとうた(27)-ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに
やまとうた(26)−野辺見れば なでしこの花咲きにけり
やまとうた(25)-からす羽に かくたまずさの心地して
やまとうた(29)−み吉野の吉野の山の春がすみ
やまとうた(28)ーうれしともひとかたにやはなかめらるる
やまとうた(27)-ゆく春よ しばしとゞまれゆめのくに
やまとうた(26)−野辺見れば なでしこの花咲きにけり
やまとうた(25)-からす羽に かくたまずさの心地して
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