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2017年12月03日

奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

  
  奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

      気比の松原

    (旧暦10月16日)

    奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)のつづき

  旧暦八月十四日(陽暦九月二十七日)、芭蕉翁と等裁一行は今庄宿の旅籠を出立し、敦賀へ向かいました。今庄宿の西側に聳える藤倉山から東へ突きだした支脈、愛宕山(標高二七○メートル)の山頂に燧ヶ城跡があります。
  壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科太郎守弘らに命じて愛宕山山頂に築かせたのが燧ヶ城です。

  『源平盛衰記』(第二十八巻)には、
    抑此城と云は、南は荒乳の中山を境て、虎杖崩能美山、近江の湖の北の端也。塩津朝妻の浜に連たり。北は柚尾坂、藤勝寺、淵谷、木辺峠と一也。東は
    還山の麓より、長山遥に重て越の白峯に連たり。西は海路新道水津浦、三国の湊を境たる所也。海山遠打廻、越路遥に見え渡る、磐石高聳挙て、四方の
    峯を連たれば、北陸道第一の城郭也。

とあります。
  その山麓は、日野川と鹿蒜川の合流点で、木曾方は石や木材で川を堰き止め、人造湖上の城を造り上げたと言います。

  奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

        燧ヶ城趾地形図

  奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

        燧ヶ城縄張


  壽永二年(1183)四月、木曾義仲(1154〜1184)を追討すべく、平家方は小松三位中将平維盛(1160〜1184)を総大将とする十万騎の大軍を北陸道へ差し向け、越前、加賀の在地反乱勢力がこもる燧ヶ城を攻撃しました。

  義仲は越後國府に本陣を敷き、仁科太郎守弘、林六郎光明ら六千餘騎で燧ヶ城を守り、さらに平泉寺(越前勝山)の長吏斎明威儀師(受戒、法令を指揮する僧)も一千餘騎で助勢しました。
  しかし、援軍の長吏斎明威儀師の平家方への寝返りにより、日野川の堰を切った平家方は一斉に攻撃を開始して燧ヶ城は落城し、義仲方は越中国へ後退を余儀なくされました。
  燧ヶ城は交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期の延元元年(1336)には今庄入道浄慶が居城し、足利方の府中城(旧武生)に居城する越前守護職足利(斯波)高経(1305〜1367)に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国期の天正三年(1575)の織田信長(1534〜1582)による越前征伐に際しては、下間筑後法橋頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって抵抗しましたが敗れ、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

    燧ヶ城    義仲の寝覚の山か月かなし
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


  右手の燧ヶ城跡の麓を通り過ぎると街道は二股に分かれ、左へ行くと板取宿、栃の木峠を経て北國街道(東近江路)の木之本宿に達します。芭蕉翁一行は右へ向かい、奈良期の官道、北陸道(萬葉の道)を進んで、歌枕で知られた「歸る山」に至りました。
    藤原定家                『拾遺愚草』
    春ふかみこしぢに雁の歸る山    名こそ霞にかくれざりけれ


  「歸る山」は特定の山の名称ではなく、「京へ歸ると歸る山」の掛詞で、この辺り一帯の山が「歸る山」であると解されています。

    越の中山    中山や越路も月ハまた命
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


    新古今集    巻十    羈旅                西行法師
    年たけてまた越ゆべしと思ひきや    命なりけり小夜の中山


  萬葉の道は鹿蒜川に沿って西進し、新道で右折すると北陸道(西近江路)となり、山中峠(標高三八九メートル)に至ります。平安期以前は、奈良、京都から北陸、東北へと向かう北陸道は、この山中峠を越えていたと云います。近江から若狭湾と琵琶湖を隔てる野坂山地を越えて松原驛(敦賀市)に達した北陸官道は、樫曲、越坂、ウツロギ峠と坂道を上り下りして、五幡、杉津を経て大比田、元比田へと進み、山中峠を越えて鹿蒜驛に至りました。この驛は、旧鹿蒜村大字歸(南越前町南今庄)に比定されています。

    可敝流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の    坂に袖振れ我れをし思はば
    可敝流未能    美知由可牟日波    伊都波多野    佐可尓蘇泥布礼    和礼乎事於毛波婆
        『萬葉集』    巻十八        大伴家持    (4055)

  「可敝流」は、鹿蒜川流域の地とされています。 
  さて、先ほどの新道を左折して緩やかな坂道を登っていくと、二ツ屋宿場に至ります。この街道は、平安初期の天長七年(830)に、木の芽峠を開削して作られたと云います。これ以前の山中峠越えの道は、敦賀湾沿いに大きく迂回し、途中に水路を含み、距離が長く時間のかかる行程でした。木の芽峠の新北陸道が開通すると。時間の短縮になり、多くの旅人が利用しました。また、二ツ屋宿は、江戸期には大いに栄えたと云います。

  二ツ屋宿から杉木立の中の道を進むと、木の芽峠(標高六二六メートル)に至ります。峠への登り坂は、天正六年(1578)、北庄城主柴田勝家(1522〜1583)が整備したと云われ、現在もすり減った石畳の道が残り、茅葺き屋根の茶屋前川家があります。前川家は、平将軍平貞盛(未詳〜989)の後裔といわれ、代々茶屋番や山廻り役をつとめたと云います。
 
  木の芽峠道を下ると、半刻程で新保の集落に至り、ここから葉原、越坂、樫曲、谷口、井川、舞崎を経て、敦賀の津内に至ります。

  奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)


  旧暦八月十四日(陽暦九月二十七日)夕刻、芭蕉翁と等裁一行は敦賀に到着し、唐仁橋町の旅籠出雲屋彌市郎宅に草鞋を脱ぎました。

  敦賀は昔、角鹿(つぬが)と呼ばれ、『日本書紀』には第十四代仲哀天皇がその后の神功皇后とともに、この地の笥飯宮(けいのみや)を造営したという記述があるので、古くから湊として栄えていたようです。また、白砂青松の海岸線が広がる「気比の松原」は、遠州三保の松原、肥前唐津虹の松原とともに日本三大松原の一つにも数えられています。
    國々の八景更に氣比の月
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句


  出雲屋で休息した芭蕉翁一行は、旅籠のあるじ出雲屋彌市郎に勧められて氣比神宮の夜参りに出かけました。あるじから、氣比神宮に代々受け継がれている「遊行の砂持ち」のいわれを聞いた芭蕉は、
    なみだしくや遊行のもてる砂の露        はせを
と詠みましたが、「おくのほそ道」本文では、
    月淸し遊行のもてる砂の上                はせを
と推敲しています。
   
  旧暦八月十五日(陽暦九月二十八日)、念願の望月(陰暦八月十五日夜の名月)は、昨夜宿の主人出雲屋彌市郎が「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と言ったとおり、雨のために観月は叶いませんでした。
  その晩、芭蕉は其の恨みを句に託し、
    月いづく鐘ハ沈める海の底
    月のミが雨に相撲もなかりけり
    ふるき名の角鹿(つぬが)や悲し秋の月
        『荊口句帳』    芭蕉翁月一夜十五句

と詠んでいます。

  殊に「月いづく鐘ハ沈める海の底」の句は、宿のあるじ出雲屋彌市郎が語る金ヶ崎落城の悲史にまつわる陣鐘の伝説を聞いて作ったものと云われています。

  金ヶ崎城跡は、気比神宮の北約二キロの福浦湾に突き出した断崖上にあります。治承、寿永の乱(1180〜1185、源平合戦)の時、越前三位平通盛(1153〜1184)が木曾義仲(1154〜1184)との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられています。

  南北朝時代の軍記物語『太平記』巻第十七「金崎城攻事付野中八郎事」には、「彼城の有様、三方は海に依て岸高く巌滑也。巽の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといへ共、岸絶地僻にして、近付寄ぬれば、城郭一片の雲の上に峙ち、遠して射れば、其矢万仞の谷の底に落つ。」と書かれ、難攻不落の要害でした。

  奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

    金ヶ崎城地形図

  南北朝期の延元元年/建武三年(1336)十月十三日、足利尊氏の入京により恒良親王(1324〜1338)、尊良親王(1310〜1337)を奉じて北陸落ちした新田義貞(1300頃〜1338)が入城、さらに氣比大宮司氣比彌三郎氏治ら一千七百餘騎が立て籠もり、六ヶ月間にわたって足利方の越前守護斯波高経(1305〜1367)らの軍勢に包囲されて兵糧攻めに遭い、翌延元二年/建武四年(1337)二月五日、新田義貞らは闇夜に密かに脱出し、越前杣山城で体勢を立て直すも、三月三日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、新田義貞嫡男の新田義顕(1318〜1337)は城に火を放ち、尊良親王及び三百余人の兵と共に自害しています。また、恒良親王は捕らえられて足利直義(1306〜1352)によって幽閉され、翌年に没しています。

  新田義顕(1318〜1337)は落城前に陣鐘を海に沈めましたが、のちに国守が海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭(梁に吊るすために釣鐘の頭部に設けた竜の頭の形にしたもの)が海底の泥に埋まって、引き上げることができなかったとの沈鐘伝説が残されています。

  城跡の北方、崖下の福浦湾が沈鐘伝説の「鐘ハ沈める海」とのことです。

  芭蕉が敦賀で詠んだ「月」に関する句は七句ありますが、『おくのほそ道』本文には二句しか収載されておらず、残りは『荊口句帳』芭蕉翁月一夜十五句で知ることができます。

  奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)

        金ヶ崎案内

    ○明夜の陰晴はかりがたし
        明日の夜の曇るか晴れるかは予測しがたい

    八月十四夜        北宋        孫明復
    銀漢無聲露暗埀        銀漢聲無くして露暗に垂る
    玉蟾初上欲圓時        玉蟾初めて上りて圓かならんと欲する時
    清樽素瑟宜先賞        清樽素瑟宜しく先ず賞すべし
    明夜陰晴未可知        明夜の陰晴は未だ知るべからず
   
    守輝八月十四夜簡卯書記詩
    月至巾秋未望時        月巾秋に至り未だ時を望まず
    淸光猶帶一分虧        淸光猶一分を帶ぶ虧
    與君今夜休尋睡        君と今夜睡りを尋ぬることを休めよ
    來月陰晴未可知        來月の陰晴未だ知るべからず

    ○あるじ
    翁宿被致候者、唐人橋出雲屋彌市郎・富士屋治兵衛兩家相もちに致居られ、緣家なり。後にいづもや中絶して、今のふじ屋にて年忌も被勤候
        『芭蕉翁句帳』    安永八年    平井波丈の記


    出雲や彌市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼、預置也。
        『曾良旅日記』


    ○酒すゝめられて
    賞月    飛觴酔月        觴(さかづき)を飛ばして月に酔う
    舉盃    盃を舉ぐ
    捲簾    簾を捲く
        『圓機活法』


    ○けいの明神
        氣比神宮。敦賀の北東部に鎮座する越前國一宮で、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社。主祭神の伊奢沙別命(いざ
        さわけのみこと)ほか、第十四代仲哀天皇、その后の神功皇后など七柱の祭神を祀っている。

    氣比の社 一宮記に云或は笥飯(けい)、祭れる神仲哀天皇也。或記仲哀天皇治天下二年、帝幸越前角鹿、興行宮居之、謂笥飯宮、又云神功皇后治十三
    年、祭仲哀天皇於越前角鹿津、崇氣比大明神、皇太子拜大明神、風土記云、氣比の神宮は宇佐同體也。八幡は應神天皇の埀跡、氣比乃明神仲哀天皇の鎭
    座なりと云々。私に曰、社家者の云、氣比大明神と云は保食(うけもち)神なり。神代より此所に鎭座ましましけるを、其後、仲哀天皇を相殿となした
    る者なりと云々。
        『越前名勝志』


    飼飯海    浦        明神ましませば、つるがをいふか
    角鹿    山    浦    濱    (中略)
    當津、氣比の明神の社有之。社、西向也。山はひがしに有
        『名所方角抄』


    ○霜を敷るがごとし
    江樓夕望招客        白居易
    海天東望夕茫茫    山勢川形闊復長
    燈火萬家城四畔    星河一道水中央
    風吹古木晴天雨    月照平沙夏夜霜
    能就江樓消暑否    比君茅舍校清涼


    海天東を望めば夕(ゆふべ)茫茫たり
    山勢川形 闊(ひろ)くして復た長し
    燈火萬家    城の四畔
    星河一道    水の中央
    風    古木を吹けば    晴天の雨
    月の平沙を照せば    夏の夜の霜
    能く江樓に就きて    暑を銷せんや否や
    君が茅舍に比すれば    校(や)や清涼ならん


    月の雪    月の光の地に敷、雪のやうなるをいふなり
        『増山井』

    月の霜    月の地に照るが霜に似たるをいふ
        『改正月令博物筌』

    ○遊行二世の上人
        持明院統の壬生家に生まれ、初め浄土宗鎮西派の辨西の門に入って真教坊連阿と称し、ついで浄土宗第三祖良中(1199〜1287)に師事した
     が、健治二年(1276)豊後賦算(時宗において「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札を配ること)に下った時宗の開祖一遍(1239
        〜1289)に帰依して他阿と改め、時宗教団大成の基礎を築いた。正しくは他阿弥陀仏と称し、他阿と略する。一遍没後、衆に推されて遊行法燈
        を継ぎ、以後の継受者は代々他阿と号し、巡国賦算を行うことに定まる。

    ○大願発起の事ありて
    氣比の神宮と西方寺の門と相向て去ること三丁、往古は池沼にして窮底なし。池中に黑白の毒龍あり。明神嘆き玉ふ。(上人)神慮を休め奉らんと、則
    ち名號を數幅に書して深泥に沈め、時の僧尼と共に砂を運び玉へば、津浦の道俗老若貴賤と云はず、擧群して全く市の如し。各前後を爭ふて運ぶ。仍ち
    日ならずして平地となる。石よりも固し。大神現形ましまして、上人に勅約して言はく、向來他阿の影前に參して禮謝せん
        『二諦目録』


    ○古例今にたえず
    氣比の宮へは遊行上人の白砂を敷ける古例ありて、この比もさる亊ありしといへば
        『其袋』


    ○遊行の砂持
    遊行の砂持ハ其後代々の上人廻國の時かならず此地に來り、砂石をはこび社頭の前後左右に敷申さるゝ亊今に至て斷絶なし。さる故に此社の樓門外に木
    履を多くならべ置、參詣の輩著(は)きたるはきものを此木履にはきかえて樓門の内に入。遊行の數給ふ砂石をふむゆゑにはき物の穢を憚るなり。
        『奧細道菅菰抄』 




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