2006年01月31日
やまとうた(16)−霞たち このめもはるの雪ふれば
大原三千院 童地蔵
(旧暦 1月 3日)
雪のふりけるをよめる
霞たち このめもはるの雪ふれば 花なきさとも花ぞちりける [古今 9]
(紀貫之)
このめもはるの: 「はる」に(木の芽が)「張る」を掛けている句で、「木の芽もめぐむ、春の…」の意となります。また、「めもはる」には「目も遥」を掛け、「見わたす限り」の意を添えています。
この歌から派生した主な歌には、以下のようなものがあります。
天の下 めぐむ草木の芽も春に 限りも知らぬ御代の末々
(式子内親王)
うちむれて 若菜つむ野の花かたみ このめも春の雪はたまらず
(藤原家隆) [続古今]
霞たち このめ春雨きのふまで ふるのの若菜けさはつみてむ
(藤原定家)
おしなべて 木の芽も春のあさ緑 松にぞ千世の色はこもれる
(九条良経) [新古今]
松の葉の 白きを見れば春日山 木の芽もはるの雪ぞ降りける
(源実朝) 続きを読む
2006年01月30日
歳時記(10)−冬(2)−ジャック・フロスト
Needle ice pushing up soil particles.
(旧暦 1月 2日)
What swords and spears, what daggers bright
He arms the morning with! How light
His powder is, that’s fit to liett
On the wings of a butterfly!tt
What milk-white clothing he has madet
For every little twig and blade!tt
What curious silver work is shownt
On wood and iron, glass and stone!t
‘If you, my slim Jack Frost, can tracet
This work so fine, so full of grace,t
Tell me,’I said, ‘before I go.―tt
Where is your plump young sister,t
Snow ? ’
― W.H.Davies: ‘Frost’
彼は何たる剣と槍、耀く短刀で
朝を装わせることか!
霜の粉は軽やかで
蝶の羽の上に置くにふさわしい!
小さな一枝一枝、一葉一葉の為に
何という乳白色の衣を作ったことか!
木材や鉄、ガラスや石の上に
何とめずらしい銀細工が展示されていることか!
私は尋ねた。 「華奢なジャック・フロスト、もしお前が気品に満ちた
この見事な作品の出所を探り当てることができるなら
私が立ち去る前に教えてくれ、
お前のふくよかな妹なる雪はどこにいるのか」
英語では、霜や厳寒を擬人化した「Jack Frost」という言い方があります。
Jack Sprat (一寸法師)、Jack Tar(水夫)、Jack-in-office(威張った小役人)などと共通して、親しみ或いは軽蔑の情を込めた云い方だそうで、“Before Jack Frost comes”(寒くならないうちに)と云うような日常会話の中でもよく使われているようです。
また、General Winter(冬将軍)という冬を擬人化した言葉もありますが、これはモスクワに攻め入ったナポレオン軍が、ロシアの冬の厳寒と雪に悩まされて敗走した史実からきているそうです。 続きを読む
2006年01月29日
陶磁器(7)−木葉天目碗(南宋/吉州窯)
木葉天目碗 南宋吉州窯 口径14.7cm
(旧暦 1月 1日)
草城忌 都会的でモダンな新しい素材を積極的に導入した近代俳句のさきがけとして、また、昭和初期、俳句誌『旗艦』を主宰して旧態打破、無季容認という態度を明確にした新興俳句運動の一翼を担い、戦後は、病床から生み出された、命を慈しみ、温かで穏やかな俳句によって広く知られた俳人日野草城の昭和31年(1956)の忌日。
物の種 にぎればいのちひしめける
をさなごの ひとさしゆびにかかる虹
中国宋代(960〜1279)の五大名窯とされているのは、1.汝窯(河南省宝豊県)、2.定窯(河北省曲陽県)、3.南宋官窯(浙江省杭州市)、4.哥窯(浙江省龍泉県)、5.鈞窯(河南省禹県)ですが、南宋(1127〜1279)〜元(1271〜1368)代に天目茶碗の製造で発展した産地に福建省建陽県水吉鎮の建窯と双璧をなす江西省吉安県永和鎮の吉州窯があります。
天目というのは浙江省杭州西方、浙江省と安徽省の間に広がる海抜1400m程度の山群の総称である天目山という山の名前に由来し、南宋末期(鎌倉前期)のころにこの山中にある臨済宗の名刹では福建省建陽県水吉鎮の建窯で焼かれた茶碗を抹茶に用い、建盞 (けんさん:盞は碗・椀の意)と呼んでいました。
この茶碗を留学僧たちが日本に持ち帰り、その後日本では天目茶碗とよんで尊んできたと云われています。
鉄分を多く含む黒色、褐色の荒い胎土に漆黒の釉薬が厚くかかっているのが特徴で、焼成時の釉表面の結晶の出方によって、兎毫[とごう、禾目(のぎめ)とも云う]、油滴、曜変などの変化を見せます。 続きを読む
2006年01月26日
数学セミナー(10)−円周率
Archimedes Thoughtful by Fetti (1620)
Archimedes(B.C.287頃〜B.C.212)
(旧暦 12月27日)
「小学校の新しい教育課程では、円周率を『3』として教えるのだそうだ」という話を聞いたことがあり、「日本の教育もここまで来たか」と少々落胆しておりましたが、どうやらこの話は、マスコミの誤った報道が原因で全くのデマだと云うことです。
円周率、すなわち「円の周と直径との比が一定である」ということを理論的に初めて証明したのは古代ギリシアの天文、物理、数学者アルキメデス(Archimedes、BC287頃〜BC212)であろうとされています。
アルキメデスは、円に内接および外接する正6角形の周を計算し、それから次々に辺数が2倍になっていく正n角形の周を求めて正96角形までつくり、それによって下記のような評価を得ました。
ただしπ記号は、ギリシア語のπεριφερεια(周り)の頭文字を語源とし、πを記号としてはじめて使ったイギリスの数学者ウィリアム・ジョーンズ(1675〜1749)は、periphery(周囲)という意味でπを用いたとのことです。
その後、18世紀最大の数学者であったレオンハルト・オイラー(Leonhard Euler、 1707〜1783)がその著『無限解析入門』(Introductio in Analysin Infinitorum,Lausannae, 1748, First edition.)のなかで円周率の記号としてπを使ったので、1748年以後、一般にπを使うようになったと言われています。
アルキメデスはさらに、「球積率」も円周率と関係しており、半径rと球の体積Vは、
であることも示しました。 続きを読む
2006年01月22日
歌舞伎(3)−三人吉三廓初買
安政七年正月十四日(1860年2月5日)江戸市村座初日の『三人吉三廓初買』の序幕「大川端庚申塚の場」。左から四代目市川小團次の和尚吉三、三代目岩井粂三郎のお嬢吉三、初代河原崎権十郎のお坊吉三。
(旧暦 12月23日)
默阿彌忌 歌舞伎作者河竹默阿彌の明治26年(1893)の忌日。
月も朧に白魚の 篝(かがり)も霞む春の空
つめてぇ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと
浮かれ烏(からす)のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
棹(さお)の雫(しずく)か濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両
ほんに今夜は節分か
西の海より川のなか 落ちた夜鷹は厄落とし
豆沢山で一文の 銭と違って金包み
こいつぁ春から縁起がいいわぇ
『三人吉三廓初買』、「大川端の場」でのお嬢吉三(きちざ)のせりふ
河竹黙阿弥(1816〜1893)作による、日本駄右衛門、弁天小僧菊之介、南郷力丸、忠信利平、赤星十三郎の白浪五人男で有名な『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』やお嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三の三人吉三の盗賊物語である『三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)』でよく知られている白浪物は、盗賊を主人公とした歌舞伎狂言ですが、なぜ盗賊が白波(歌舞伎では白浪)と呼ばれるのかは、後漢書の孝靈帝紀第八や孝獻帝紀第九に由来するようです。
後漢書−本紀−卷八 孝靈帝紀第八- 355 -
黄巾餘賊郭太等、西河白波谷に於いて起こり、太原、河東を寇す。
後漢書−本紀−卷九 孝獻帝紀第九- 368 -
白波賊、河東を寇し、董卓、其の將牛輔を遣はして之を擊たしむる。
薛瑩書に曰く、「黄巾郭泰等が西河白波谷に於いて起こり、時に之を白波賊と謂ふ」 続きを読む
2006年01月21日
となり村名所あんない(25)−荒川村(1)−隅田川
尾竹橋 荒川村町屋
(旧暦 12月22日)
久女忌 俳誌「ホトトギス」の同人として優れた才能を発揮し、俳句に新しい可能性をもたらした女流俳人杉田久女の昭和21年(1946)の忌日。
晩年、精神を病み昭和11年(1936)にホトトギス同人を除され、俳句界に受け入れられないまま死を迎えた。
蝶追うて春山深く迷ひけり
春のうらゝのすみた河
上り下りのふな人か
かいのしつくも花とちる
眺めをなにゝたとふへき
見すやあけほの露あひて
われにものいふさくら木を
みすやゆふくれ手をのへて
われさしまねくあを柳を
錦おりなす長堤に
暮るれば昇るおほろ月
けに一刻も千金の
なかめをなにゝたとふへき
滝廉太郎(1879〜1903)作曲の名曲として親しまれている「花」は、明治33年(1900)に発表された「歌曲集 四季」の4曲の中の1曲で、「歌曲集 四季」は、「二重唱/花」 「独唱/納涼」 「混声四部合唱/月」 「混声四部合唱/雪」から成っています。
作詞の武島羽衣(1872〜1967)は、美文調韻文詩の創始者落合直文(1861〜1903)の系統をひく人で、明治29年(1896)に東京帝国大学国文科を卒業し、東京音楽学校教授、東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授等を歴任し、宮内省御歌所寄人としてもその名を残しています。
東京音楽学校の教授であったその当時、助教授に滝廉太郎がいて、「花」の歌詞に曲を付けたとのことです。 続きを読む
2006年01月16日
パイポの煙(24)−アカシアの大連
大連大広場
(旧暦 12月17日)
帝都東京を午後1時30分に出発する特急「櫻」に乗ると、大阪を午後10時7分、神戸を午後10時44分に発車し、翌朝午前8時に終点の下関に着きます。
下関から午前10時30分発の関釜連絡船に乗り、釜山へは午後6時に到着。
釜山からは、朝鮮総督府が経営する朝鮮鉄道の午後7時20分発の特急「ひかり」に乗ると、翌朝午前11時23分に国境の街新義州に着き、鴨緑江を渡って安東へは午前11時30分に着きますが、1時間の時差を修正して現地時間午前10時30分。
特急「ひかり」はそのまま北上して午後4時20分に奉天に到着。
ここで午後5時43分発の南満洲鉄道の特急「あじあ」に乗り換えると、大連には午後10時30分に到着します。
東京〜大連間は57時間、神戸〜大連間は49時間弱かかっていました。
[昭和10年(1935)10月の時刻表『汽車汽船旅行案内』第492号より]
一方、大阪商船の大連航路の客船吉林丸(6,783総トン)で正午に神戸を出港すると、翌日の早朝に門司に到着。正午に門司を出港して、玄界灘から済州島の北を通過して黄海を北上し、大連入港は翌々日の午前9時。神戸〜大連間は69時間で結ばれていました。
[日満連絡船定期表 昭和12年(1937) 大阪商船]
昭和13年当時の東京〜神戸間の所要時間は、特別急行列車で8時間台、急行列車では11〜13時間でしたが、当時は東京〜沼津間と京都〜神戸間が電化区間で、沼津〜京都間は非電化であったので、その区間はC51 などの客車牽引用蒸気機関車が牽引していました。
昭和13年当時の下関行特別急行列車の東京発時刻は手元に資料がないので定かではありませんが、神戸発東京行は6,7,8,12時台ですから、神戸までだと東京を午前中に出発しても夕刻には到着できますが、12:00発の日満連絡船に乗船するには、前日から神戸に到着していないと乗船できなかったようですね。 続きを読む
2006年01月15日
クラシック(16)−バッハ(3)−カンタータ第152番
Johann Sebastian Bach im Jahre 1746, mit Rätselkanon. Ölgemälde von Elias Gottlob Haußmann
(旧暦 12月16日)
《苦悩を突き抜けて歓喜に至れ》(Durch Leiden zur Freude zu gehen.)という言葉は、ベートーベンの書簡集を編纂した岩波文庫の『ベートーヴェンの手紙』の中にも納められている有名な言葉で、もちろんベートーベンの生涯の生き様を表した言葉ではありますが、この言葉はかのヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach、1685〜1750)が作曲したカンタータ、《出で立て、信仰の道に》(Tritt auf die Glaubensbahn)《降誕祭後第1日曜日の為のカンタータ》(Kantate zum Sonntag nach Weihnachten)という曲の歌詞の中でも見ることができ、どうもキリスト教の一種の慣用句だったのではないでせうか。
カンタータ第152番 《出で立て、信仰の道に》 BWV152
この第6曲目は、ソプラノとバスのデュエットで魂とイエスの対話という形式になっています。
6. [Soprans&Basses Arie (Duett)]
Seele (S), Jesus (B) 魂(ソプラノ)、イエス(バス)
Sopran (ソプラノ)
Wie soll ich dich, Liebster der Seelen, umfassen? 魂の最愛なる方よ、如何にして我は汝を抱かん?
Bass (バス)
Du musst dich verleugnen und alles verlassen! 汝は自身を抑え、全てを捨てねばならぬ!
Sopran (ソプラノ)
Wie soll ich erkennen das ewige Licht? 如何にして我は永遠なる光を知らん?
Bass (バス)
Erkenne mich gläubig und ärgre dich nicht! 我を信仰によりて知り、怒ってはならぬ!
Sopran (ソプラノ)
Komm, lehre mich, Heiland, die Erde verschmähen! 来たりて我に教え給へ、主よ、大地が蔑む方よ!
Bass (バス)
Komm, Seele, durch Leiden zur Freude zu gehen! 来たれ、魂よ、苦悩を突き抜けて歓喜に至れ!
Sopran (ソプラノ)
Ach, ziehe mich, Liebster, so folg ich dir nach! おお、我を導き給へ、最愛なる方よ、我は汝に従わん!
Bass(バス)
Dir schenk ich die Krone nach Trübsal und Schmach. 我は汝に苦難と恥辱の後に王冠を贈らん! 続きを読む
2006年01月11日
艦船(4)−日連丸(2)
撃沈された駆逐艦「白雲」
(旧暦 12月12日)
1.11忌 『路傍の石』等で知られる劇作家、小説家で、菊池寛、芥川龍之介らと共に文芸家協会を結成して内務省の検閲を批判し、戦後は国語国字問題にとりくんで参議院議員もつとめた山本有三の昭和49年(1974)の忌日
艦船(3)−日連丸(1)のつづき
昭和19年(1944)3月8日午前8時、小樽港を出港した「日連丸」は日本海を南下し、対潜警戒のため陸奥湾に碇泊しました。
そして陸奥湾で一夜をあかした「日連丸」は、翌日小さな駆潜艇(小型の快速艇にソナーや爆雷を装備した対潜艇)1隻の護衛の下、3隻の小さな輸送船と釧路港に向かい、10日の午後8時頃に釧路港に入港しました。
このころ第五船舶輸送司令部(小樽)は、アッツ島を攻略したアメリカ軍が千島海域の潜水艦作戦を強化したため、亀井豊聯隊長率いる歩兵第130聯隊の連隊本部、第1、第2大隊が乗船した山菊丸(5,236総トン)他、慶安丸(2,081総トン)、梅川丸(1,930総トン)の「へ乙船団」と後を追った「日連丸」らの「ホ船団」が得撫(ウルップ)島に直行するのを避け、一旦、釧路港に終結させて海上護送体制を整えてから中部千島に向かう方針に切り替えていました。
釧路港で待機している船団を護衛するため、第五艦隊第一水雷戦隊第九駆逐隊の司令艦「霞」が先発した良洋丸などの「ニ船団」の護衛を終えて3月14日の午後に入港し、北海道厚岸で補給を終えた僚艦の「白雲」、「薄雲」も3月16日の午前中に入港しました。
これら3隻の駆逐艦に護衛された輸送船団が中部千島の得撫(ウルップ)島に向けて釧路港を出港したのは、3月16日の午後4時頃でした。
船団は護衛駆逐艦「霞」を先導に2隻づつの2列縦隊で隊形を組み、前列右側に「日連丸」、左側に「山菊丸」、後列に「慶安丸」、「梅川丸」が従い、その左右後方から駆逐艦「白雲」、「薄雲」が警戒にあたっていました。 続きを読む
2006年01月09日
艦船(3)−日連丸(1)
陸軍輸送船「日連丸」
(旧暦 12月10日)
青々忌 『宝船』(のちに『倦鳥』と改題)を創刊して没年までこれを主宰し、句集『松苗』『妻木』などを発刊したホトトギス派の俳人松瀬青々の昭和12年(1937)の忌日。
「人間の心と自然の心とが、同じ琴線の上で奏づる、その声が俳句である」等の言葉を残し、関西の高浜虚子と言われた。
みな肥えて 女うつくし艸の花
昭和18年(1943)5月14日、太平洋戦線へ動員されて留守をあずかる仙台第2師団の留守師団を基幹として、宮城、福島、新潟の各県出身者を中心に新たに第42師団が編成され、通称「勲」と呼ばれていましたが、昭和19年(1944)2月1日、千島列島の防衛を目的として宮城県を中心として新潟、福島の各県に臨時動員令が発令され、2月10日から補充兵の召集が開始されました。
通常は少数の留守部隊で編成される留守師団ですが、動員下令が下りると将兵総数1万5千人を超える戦時編制となります。
これらの部隊は、仙台の榴岡(つつじがおか)の歩兵130聯隊、捜索第42聯隊、輜重兵第42聯隊、野砲兵第42聯隊、工兵第42聯隊のほか、福島県会津若松の歩兵129聯隊、新潟県新発田の歩兵第158聯隊から編成されていました。
昭和19年(1944)2月12日、大本営は千島列島防備強化のために「東一号作戦」を発令しました。
北海道旭川に司令部を置く第7師団、通称「熊」は、歩兵第26聯隊を基幹とする東支隊を北千島へ派遣し、第42師団は中部千島の得撫(ウルップ)島、松輪(マツワ)島への早期展開を求められていました。 続きを読む
2006年01月08日
となり村名所あんない(24)−台東村(2)−黒門
旧因州鳥取藩池田屋敷表門
(旧暦 12月 9日)
「赤門」といえば東京大学のシンボルですが、「黒門」といえば東叡山寛永寺の「黒門」の方が一般的に知られているようです。
明治元年(1868)5月15日、旧幕臣の渋沢成一郎や天野八郎らにより結成された彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた上野戦争で黒門口(広小路周辺)が激戦となり、この「黒門」は焼失は免れましたが弾丸の跡がたくさん残り、今でも荒川村の南千住1-59-11の円通寺に保存されています。
ちなみにこの円通寺との関係は、上野の戦場に散乱放置されていた賊軍の彰義隊の遺体を、当時の和尚が処罰覚悟で供養し、その後埋葬の許可が下りたことから遺骸266体をこの寺に埋葬したことに依るそうです。
さて、こちらの「黒門」、正式名称は「旧因州池田屋敷表門」と言い、因幡・伯耆32万石の旧鳥取藩池田家江戸上屋敷の正門でした。
もともとは、旧丸の内大名小路(丸の内3丁目、日比谷濠に面した東京會舘)の辺りにありましたが、明治になって当時の東宮御所(いまの高輪の高松宮邸)の正門として移築され、昭和28年(1953)に上野恩賜公園の東京国立博物館構内に移築・保存され現在に至っています。
国立科学博物館から芸大の方向に向かって歩いていくと、博物館に面した道路沿いからもその重厚で立派な門を見ることができます。堂々とした風格から、通称「上野の黒門」と呼ばれているそうです。 続きを読む
2006年01月07日
漢詩(11)−杜甫(3)−飲中八仙歌(2)
李白(701〜762)
(旧暦 12月 8日)
夕霧忌 江戸初期の大坂新町「扇屋」の遊女夕霧の延宝6年(1678)の忌日。
歌舞伎、浄瑠璃作家近松門左衛門(1653〜1725)が作った世話物の人形浄瑠璃で、正徳2年(1712)、大坂竹本座で初演された『夕霧阿波鳴渡』により広く世に知られるようになった。
『飲中八仙歌』の第六聯で「李白は一斗詩百篇」と詠われていますが、唐代の度量衡では一斗は約5.94リットルで、また唐代のお酒は全て醸造酒であり、アルコール度数はそれほど高くなかったようです。
明代の萬暦24年(1596)頃に蘄州(きしゅう、湖北省蘄春県)の医家李時珍(1518〜1593)の著した中国の伝統的な薬物学の本である『本草綱目』には、汾酒や茅台酒などで知られる強い蒸留酒は、元代(1271〜1368)に始まるとしているようです。
従って、唐代のお酒はビールに毛が生えたようなアルコール度数だったのでしょうかね。これなら一斗(約6リットル)ぐらいは飲めたかもしれません。
後世の人々から詩仙と称された李白(701〜762)は、蜀の綿州(四川省)あるいは西域の人で、若い時は剣術を好んだり任侠の徒と交わったりして、放浪の生活を送っていたようですが、天寶元年(742)42才の時に長安の都に出てきて賀知章の知遇を得、彼の推薦で皇帝直属の文章の起草などを行う翰林供奉という官職を得ました。しかし、2年ほど後に宦官の高力士の讒言により宮廷を追われ、ふたたび放浪の生活に戻りました。
天寶3載(744、この年から「年」から「載」に改められた)、郷里の越州永興(現・浙江省蕭山市)に帰って道士となることを求めて許可された賀知章は、帰郷するときには玄宗自ら詩を贈り、皇太子を始めとする百官が見送ったと云われていますが、帰郷して間もなく没しました。享年86歳。
訃報に接した李白は、「酒に対して賀監を憶う」という二首を作りましたが、その詩には次のような序文がついています。 続きを読む
2006年01月05日
漢詩(10)−杜甫(2)−飲中八仙歌(1)
飲中八仙
(旧暦 12月 6日 小寒)
知章騎馬似乘船 知章が馬に騎(の)るは船に乘るに似たり
眼花落井水底眠 眼(まなこ)は花(くら)み井に落つるも水底に眠る
汝陽三斗始朝天 汝陽は三斗にして始めて天に朝す
道逢麹車口流涎 道に麹車に逢いて口より涎(よだれ)を流し
恨不移封向酒泉 封を移して酒泉に向かわざるを恨む
左相日興費萬錢 左相は日に興(お)きて万錢を費やし
飲如長鯨吸百川 飲むは長鯨の百川を吸うが如し
銜杯樂聖稱避賢 盃を銜(ふく)みて聖を楽しみ賢を避くと称す
宗之瀟洒美少年 宗之は瀟洒(しょうしゃ)たる美少年
舉觴白眼望青天 觴(さかずき)を舉げて白眼晴天を望めば
皎如玉樹臨風前 皎(きょう)として玉樹の風前に臨むが如し
蘇晉長齋繍仏前 蘇晋は長斎す繍仏の前
醉中往往愛逃禪 醉中往往 逃禅を愛す
李白一斗詩百篇 李白は一斗詩百篇
長安市上酒家眠 長安市上酒家に眠る
天子呼來不上船 天子呼び來たれど船に上らず
自稱臣是酒中仙 自ら稱す臣是れ酒中の仙と
張旭三杯草聖傳 張旭は三杯にして草聖と傳う
脱帽露頂王公前 脱帽して頂を露はす王公の前
揮毫落紙如雲煙 毫を揮いて紙に落せば雲烟の如し
焦遂五斗方卓然 焦遂は五斗方めて卓然
高談闊論驚四筵 高談闊論(かつろん)して四筵を驚かす 続きを読む
2006年01月04日
書(13)−王羲之(2)−蘭亭序(2)
蘭亭八柱第三 馮承素模蘭亭序卷 神龍本(2) 唐代馮承素の臨摸
(旧暦 12月 5日)
2005年11月22日 書(12)−王羲之(1)−蘭亭序(1)のつづき
『太平廣記』卷第二百八 書三
貞觀二十三年、聖躬(せいきゅう)不豫(ふよ)し、玉華宮含風殿に幸す。崩に臨み、高宗に謂ひて曰く、「吾は汝(なんじ)從(よ)り一物を求むるを欲す、汝は誠孝なり、豈(あに)吾が心に違(たが)ふこと能(あた)ふ耶(や)」
高宗、哽咽(こうえつ)流涕し、耳を引きて制命を聽受す。
太宗曰く、「吾れの欲する所は蘭亭を得、我れと將(まさ)に去る可し」と。
後に仙駕に随い玄宮に入りたる矣(かな)。今趙模等の榻(とう)する所ある者は、一本なお錢數萬に直(あたい)すと。(出《法書要録》)
『太平廣記』卷第二百八「書三」には次のような記述があります。
唐朝第2代皇帝太宗(598〜649)は、貞観19年(645)に高麗への遠征の帰路に発病した癰(悪性のできもの)が完治せず、貞観23年(649)、病を発して都長安から北方約150kmほどの玉華山中の離宮(陝西省銅川市北方約45km)玉華宮の含風殿に居を移し、瀕死の床に伏していました。
太宗は皇太子(第3代皇帝高宗)を枕元に呼び、次のように云いました。
「私はお前から一つの物が欲しい。お前はまごころから親孝行であるし、私の思いに違うことは無いと思うがどうか?」
皇太子はむせび泣いて涙を流し、耳を寄せて父の言葉を聞きました。
太宗は、「私が欲しい物は『蘭亭叙』である。私と共に葬って欲しい」と云ったのです。
遂に書聖「王羲之」の稀代の名書『蘭亭叙』は、太宗の陵墓「昭陵」に仙駕(棺)と共に埋葬され、この世から姿を消してしまいました。
もし今、趙模(書き写しの名人)などの模写を石に刻んでそれを紙に写した榻本(拓本)を所持していれば、一紙数万錢に値していたと。 続きを読む
2006年01月03日
板橋村あれこれ(15)−加賀藩下屋敷跡
加賀前田家下屋敷築山跡
(旧暦 12月 4日)
板橋村の板橋3、4丁目、加賀1、2丁目一帯は江戸時代、加賀藩前田家の下屋敷があった所です。
前田家の上屋敷跡は有名な東京大学で、東大の代名詞にもなっている赤門(御守殿門)は、文政10年(1827)に11代将軍家斉の第34子(21女)溶姫(やすひめ、1813〜1868)が13代藩主前田斉泰(1811〜1884)に嫁入りしたときに建てられましたが、下屋敷の赤門は、現在も板橋3丁目25番地の真言宗豊山派の寺院如意山観明寺山門として使用されています。
もともとこの門は、下屋敷通用門として旧中山道と国道17号線(新中山道)とが交差している板橋4丁目13番地あたりにあったようですが、明治になって下屋敷跡地が陸軍の火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)建設のために接収されたので、一部の建物が観明寺に移築されたもののようです。
ところで我が板橋村のライバル、文京村の東京大学の敷地もかっては下屋敷の時代があったようです。その期間は、3代藩主利常(1594〜1658)が2代将軍秀忠(1579〜1632)から屋敷を拝領した慶長19年(1614)から天和2年(1682)の間でした。
さて我が板橋村の下屋敷は、5代藩主綱紀(1643〜1724)が、延宝7年(1679)、4代将軍家綱(1641〜1680)から6万坪の敷地を板橋宿平尾に賜り、別邸を建てたことに始まります。
そもそも上屋敷、中屋敷、下屋敷といった区分けは、江戸城の天守、本丸等多くの櫓、門を焼失し、大名屋敷500、旗本屋敷770、寺社300、蔵約9,000、橋60、町屋400町、死者10万7,046人といわれている明暦3年(1657)1月18日におきた明暦の大火によりそれまでの拝領屋敷が焼失したため、緊急避難場所或いは緩急時の藩兵の駐屯場所としての屋敷を確保する爲に区分けされたと云われています。 続きを読む
2006年01月02日
板橋村ゆかりの人々(3)−宇喜多秀家
宇喜多家墓所
(旧暦 12月 3日)
宇喜多(秀家)さんちのお墓は、板橋村の板橋3丁目13−8の丹船山薬王樹院東光寺にあります。
宇喜多氏(うじ)は、備前国(びぜんのくに)の戦国大名ですが、戦国時代末期の宇喜多能家(?〜1534)の時代には、播磨、備前、美作の三ヶ国を領する守護大名赤松氏のもとで備前の守護代を務めていた浦上村宗(?〜1531)の重臣として仕え、備前国砥石ヶ城(岡山県瀬戸内市邑久町)に居を構えていました。
宇喜多直家(1529〜1582)は、祖父能家(よしいえ)が同じく浦上氏の家臣で高取山城主島村盛実(1509〜1559)らによって攻め滅ぼされた天文3年(1534年)には6歳でしたが、父興家(?〜1536)と共に備後国鞆津まで落ち延び、後に備前福岡の豪商阿部善定に庇護されました。
成人ののちは天神山城主浦上宗景に仕えるようになって浦上家臣団の中で頭角を現し、天正3年(1575年)には主君浦上宗景の兄政宗の孫久松丸を擁立して宗景を播磨へ退け、備前、備中の一部、美作の一部にまで勢力を拡大し、これ以降直家が居城にした岡山が備前国の中心になりました。
さて、宇喜多秀家さんは天正10年(1582)、父直家の病没により9歳で家督を相続、毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉に気に入られて養子扱いの厚遇を受けます。元服の際には、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられて「秀家」と名乗るようになりましたが、秀吉の寵愛を受け、天正16年(1588年)には、秀吉の養女で加賀の太守前田利家(1539〜1599)の四女豪姫(1574〜1634)を正室としています。
本能寺の変ののちは秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天正18年(1590)秀吉の天下統一後は備前国、美作国、播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進しました。
また文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、文禄2年(1593)の碧蹄館(高陽市碧蹄洞一帯)の戦いで本隊大将を務め、海禦倭総兵官李如松(?〜1598)率いる4万3千の明軍を撃破し、その武功により従三位中納言に昇進しました。 続きを読む