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2007年12月31日

陶磁器(8)-青花龍文扁壺(明/永楽窯)

 

 A Ming Dynasty blue-and-white porcelain dish with depiction of a dragon from Wikipedia.
 明代 青花龍文盤

 (旧暦 11月22日)

 寅彦忌 物理学者、随筆家、俳人寺田寅彦の昭和10年(1935)年の忌日。
       好きなもの イチゴ 珈琲 花美人 懐手(ふところで)して宇宙見物

 一碧楼忌 五七五調に囚われない自由な俳句を作り出し、俳誌『海紅(かいこう)』を主宰した俳人中塚一碧楼の昭和21年(1946)年の忌日。
       胴長の 犬がさみしき 菜の花が咲けり

 中国の宋代(960~1279)に発達した磁器の技術は、元代(1279~1368)の後期に「青花」および「釉裏紅」といった彩色された文様の出現により、いっそう進化しました。
 「青花」は、白磁の素地にコバルト系の顔料で文様を描いた後、半透明の白い釉薬をかけて焼成した技術様式です。白地に鮮やかな青の発色をもった文様は、中国陶磁器の代名詞ともなっています。
 また、「釉裏紅」は同じように、白磁の素地に銅系の顔料で文様を描いた後、半透明の白い釉薬をかけて焼成した技術様式で、白地に赤の発色が美しくあらわれます。

 元代の「青花」は民間の窯で焼かれていましたが、中国の雲南、浙江、江西などで産出したコバルト系の顔料は鉄やマンガンなどの不純物が多いために全体的に黒ずんでしまい、青が薄く、発色も鮮やかではありませんでした。

 その後、明を建国した洪武帝朱元璋(1328~1398、在位:1368~1398年)は、洪武2年(1369)に「朝廷で使う祭器はすべて磁器を用いる」旨の詔勅を発しました。
 そしてその設置年代については諸説ありますが、考古学発掘調査によれば永楽年間(1403~1424)に江西省景徳鎮の珠山に官窯(御器廠)が設置され、その後中国の陶磁器生産がほぼ景徳鎮窯に集約されることになります。

 この官窯で焼かれた瓷器は、代々の皇帝の治世の年号をとった年号款が入るようになりますが、その特徴は「永樂款少、宣德款多、成化款肥、弘治款秀、正德款恭、嘉靖款雜」とも評され、また特に永樂款については、篆書の「永楽年製」4文字のみで、楷書および「大明永楽年製」という六文字年款は無いそうです。
 くれぐれも、お間違いなきように。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:55Comments(0)陶磁器

2007年12月30日

国立故宮博物院(7)-新莽嘉量

 

 新莽嘉量 故宮博物院

 (旧暦 11月21日)

 横光忌、利一忌  大正末期から昭和初期にかけて、新感覚派の天才と呼ばれて川端康成と共に文壇で活躍した小説家、俳人横光利一の昭和22年(1947)の忌日。

 盟友川端康成(1899~1972)は翌年1月3日に行われた葬儀の中で、次のような弔辞を述べ、早すぎる別れを惜しみました。

 君の名に傍(よりそ)えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を霑(うるお)すのをひそかに僕は感した。その恩頼は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛戴する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随って僕の亡びぬ時もやがて来るであろうか。
 (中略)
 君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と、最後に会った時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。


 「嘉量」とは古代中国で配布された容積の標準器のことで、春秋戦国時代(B.C.771~B.C.221)に現在の山東省を中心に存在した齊(せい、B.C.1046~B.C.386)という国で造られたものが最古であると云われていますが、狭義には、新代(8~23)の始建国元年(A.D. 9)に皇帝王莽(在位;A.D.8~A.D.23)の命により全国に配布された「新莽嘉量」(しんもうかりょう)のことを云います。
 
 前漢(B.C.206~A.D.8)の第11代元帝(在位;B.C.49~B.C.33)のあとは、第12代成帝(在位;B.C.33~B.C.7)、第13代哀帝(在位;B.C.7~B.C.1)、第14代平帝(在位;B.C.1~A.D.5)と暗愚あるいは幼少の皇帝による短い政権がつづき、実際に朝廷を支配したのは、第11代元帝の皇后王政君(B.C.71~A.D.13)であったと云われています。

 王莽(B.C.45~A.D.23)は、王皇后の甥として国政に参画し、政敵を次々と暗殺して政治の実権を握り、ついには14歳の第14代平帝(在位;B.C.1~A.D.5)を毒殺してその皇太子の孺子嬰(じゅしえい、A.D.4~ A.D.25、皇太子在位A.D.6~A.D.8)から禅譲をうけたとして帝位に就き、国号を「新」と改めました。
 
 帝位に就いた王莽は周代(B.C.1046頃~B.C.256)の治世を理想とし、新しい度量衡を定め、全国に配布しました。
 それが「嘉量」で、大きな円筒形のマス「斛(こく)」の左右に1つずつ小さなマス「升」、「合」がついた構造となっており、中央の大きなマス「斛(こく)」と小さなマスの片方「合」は上下がマス「斗」と「龠(やく、二分の一合)」となっており、もう片方の小さなマス「升」は上のみがマスとなっていて、このマス全てが標準器となっていました。

 新の度量衡は、前漢末から新にかけての天文学者劉歆(りゅうきん、?~B.C.23)の度量衡理論である「黄鐘秬黍(きょしょ)説」を元に、「黄鐘」という決まった音を出す笛を基準として定め、それを粒が均一な穀物である秬黍(きょしょ)の粒数で換算していました。
 容積の場合は黄鐘の笛1本分の容積を基礎とすることとし、笛に秬黍(きょしょ)がすり切りで1,200粒入ったことから秬黍(きょしょ)1,200粒分の容積を「1龠」(やく)とし、この「龠(やく)」を基礎単位に、「合」「升」「斗」「斛」(こく)の順で単位を定め、1合=2龠、1升=10合、1斗=10升、1斛=10斗としました。
 実際のアワ、キビによる実測では、1升が150.14g、1斗が1529.6gで、現行の日本の単位の約十分の一に相当するそうです。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:59Comments(0)国立故宮博物院

2007年12月29日

板橋村ゆかりの人々(7)-皇女和宮

 
 
 
 Chikako, Princess Kazu published by The Eastern Culture Association from Wikipedia.

 (旧暦 11月20日)

 山田耕筰忌  北原白秋等とともに多くの童謡や校歌などを作曲し、欧米でも活躍して名前を知られた最初の日本人音楽家、山田耕筰の昭和40年(1965)の忌日。

 [縁切榎]
 岩ノ坂ニアリ。近藤信濃守抱屋敷ニ傍(ヨリソ)ヘリ。圍(カコ)ミニ丈許。樹下ニ第六天ノ小祠アリ。則其神木ナリト云。世ニ男女ノ悪縁ヲ離絶セントスルモノ、コノ樹ニ祈テ験アラスト云コトナシ。故ニ嫁娶ノ時ハ、其の名ヲ忌テ此樹下ヲヨギラズ。ヨリテ近キ年 楽宮御下向ノ時モ他路ヲ御通行アラセラリシナリ。
 『新編武蔵風土記稿』


 武州豊嶋郡(としまごおり)板橋宿は、中山道を京へ上る際の江戸から数えて最初の宿駅で、江戸側から平尾宿、中宿、上宿の三宿からなりたっていました。
 中宿の坂(現仲宿商店街)を下って石神井川の板の橋ではない板橋(板橋の名前の由来)を渡ると、上宿(岩ノ坂)となります。
 橋を渡って270mくらい歩くと、交差点の右先角に小さな鳥居と祠(ほこら)があり、「史跡縁切榎」という石碑が建っています。

 現在の榎は3代目ということで、初代と2代目の榎は、道を挟んで反対の西側の南に20mほど江戸より、旧「中用水」のそば(本町32番地)にあったようです。
 歴史を留める東京の風景 江戸の宿場 板橋宿より
 「中山道分間延絵図」 http://kkubota.cool.ne.jp/shishuku2.html

 この「縁切榎」は、中山道板橋宿の薄気味悪い場所として旅人を怖れさせたそうですが、今は当時の面影を偲ぶよすがもありません。
 いつの頃からかこの木の下を嫁入り、婿取りの行列が通ると必ず不縁になると評判されるようになりました。

 土地の人はもちろんのこと、10代将軍徳川家治(在任1760~1786)に降嫁した五十宮(いそのみや)倫子女王(1738~1771)や12代将軍徳川家慶(在位1837~1853)に降嫁した楽宮(さざのみや)喬子女王(1795~1840)の行列はここを避けて、根村道(清水町46~宮本町~大和町~愛染通り~本町31)から板橋宿本陣に入ったといわれています。

 根村とは旧下板橋村の根村のことで、現在の大和町、双葉町の石神井川沿いの地域の呼び名でした。江戸の初期に中山道を整備する際に、幕府は近在の百姓の次男、三男に宿屋を経営させたそうで、上宿は根村が受けもちました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 07:35Comments(0)板橋村ゆかりの人々

2007年12月26日

日本(33)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(5)

  
 

 Otto Hahn mit Lise Meitner im Labor, KWI(Kaiser Wilhelm Institute) für Chemie,1913.
 
 (旧暦 11月 17日)

 日本(32)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(4)のつづき

 ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)のイギリス人物理学者ジェームズ・チャドウィック(James Chadwick, 1891~1974)は、彼が行った一連の実験において、全ての気体について見出される、その気体の原子核と衝突して発生した反跳核が、光子との衝突ではなく、陽子とほとんど等しい質量を持つ粒子との衝突の結果得られる速度を持っていることを示しました。
 光子:Photon;電磁波の粒子的な側面を説明するために導入した光の量子

 各記号を下記のように定めると、

 

 弾性的な正面衝突の場合には、エネルギーおよび運動量の保存法則が成り立つので、下記の(1)、(2)が与えられます。

 

 上記の(1)、(2)から下記の式を得ます。

 

 反跳核は、水素中ではM=1、窒素中ではM=14 ですから、速度の比は次式のようになります。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:46Comments(0)歴史/日本

2007年12月24日

日本(32)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(4)

 

 Alpha particles may be completely stopped by a sheet of paper.
 Beta particles by aluminum shielding.
 Gamma rays, however, can only be reduced by much more substantial obstacles, such as a very thick piece of lead.

 (旧暦 11月 15日)

 日本(31)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(3)のつづき

 ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラード (Leó Szilárd, 1898~1964)が、昭和8年(1933)9月12日、亡命先のロンドンのサザンプトン街の交差点で思いついた中性子による核分裂の連鎖反応は、アイデアとしては画期的なものでしたが、現実にはまだ中性子の衝突で分裂するような自然界に存在する元素は発見されていませんでした。

 だいいち、電気的に中性である中性子(neutron)でさえ、前年の昭和7年(1932)にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)のイギリス人物理学者ジェームズ・チャドウィック(James Chadwick, 1891~1974)がその存在を実験的に証明し、ようやく確認されたばかりでした。

 大正9年(1920)、ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)の所長アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford, 1871~1937)は、その論文 ˝Nuclear Constitution of Atoms˝ Proc. Roy. Soc. A, 97, 374 (1920). の中で、当時はまだ知られていなかった2つの核、すなわち水素の同位体とみなすべき質量2、電荷1の核(an atom of mass nearly 2 carrying one charge)と質量1、電荷0の核(an atom of mass 1 which has zero nucleus charge)が存在する可能性を示唆しました。
 これらは現在、重陽子(deuteron;質量2、電荷1)および中性子(neutron;質量1、電荷0)として知られています。

 ラザフォードは、質量1、電荷0の核について、以下のように書いています。

 Such an atom would have very novel properties. Its external field would be practically zero, except very close to the nucleus, and in consequence it should be able to move freely through matter. Its presence would probably be difficult to detect by the spectroscope, and it may be impossible to contain it in a sealed vessel.
˝Nuclear Constitution of Atoms˝  Proc. Roy. Soc. A, 97, 374 (1920).


http://web.lemoyne.edu/~giunta/ruth1920.html

 このような原子は、全く奇妙な性質をもつであろう。それの作る場は、核にごく接近した場所をのぞいては、無いに等しいであろう。したがって、それは物質中を自由に通り抜ける能力を持っているに違いない。そのような原子の存在が分光学によって検出にされることは、おそらく困難であろう。またそれを密封した容器に閉じこめることは不可能であろう。
 E.ラザフォード 「原子の核構造」より
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:17Comments(0)歴史/日本

2007年12月23日

秋津嶋の旅(11)−畿内(3)−伏見(2)

 

 月桂冠大倉記念館中庭
 伏見の銘酒「月桂冠」は、寛永14年(1637)に初代大倉治右衛門が、京都府南部の笠置町から伏見に出て来て創業。屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」と称したのが始まり。

 (旧暦 11月14日)

 秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)のつづき

 この文久2年(1862)旧暦4月23日に起きた薩摩藩尊皇派等への上意討ち事件は、「寺田屋騒動」とも呼ばれ、海音寺潮五郎(1901~1977)の歴史小説「寺田屋騒動」 や司馬遼太郎(1923~1996)の長編歴史小説「竜馬がゆく」第3巻にも詳しく記述されています。

 激論数回の後、9名の鎮撫使(鈴木勇右衞門の配下上床源介が懇願して同行)のひとり道島五郎兵衞が「上意」と叫んで抜き打ちに勤王倒幕急進派の田中謙助の眉間を切り割ったことから乱闘が始まります。

 結局、階下で最初に対面していたリーダーの有馬新七および柴山愛次郎、橋口壯助が闘死、眉間を割られた田中謙助は両眼から眼球が飛び出し昏倒して気絶、乱闘中に2階から降りてきた弟子丸龍助、西田直五郎は即死、重傷を負った橋口傳藏、森山新五左衞門は後に蘇生した田中謙助とともに、翌日、伏見の薩摩屋敷に移され、君命違背の罪に依り屠腹、山本四郎は27日京都で自刃して結局9名の犠牲者を出しました。

 鎮撫使側でも、道島五郎兵衞が即死、森岡善助、江夏仲左衞門、山口金之進の3名が重傷を負うという凄惨な事件となりました。


 東京帝国大学文学部国史学科出身で、鹿児島市立鹿児島女子高校や玉龍高校の校長、鹿児島県立図書館長などを務められた芳即正(かんばし のりまさ)先生の著書『島津久光と明治維新』(新人物往来社)によれば、

 この事件は、道島五郎兵衞の「上意」の叫び声から始まったことから、当時の薩摩藩の事実上の最高権力者で、第12代藩主島津忠義(1840~1897)の実父である島津久光(1817~1887)の命令による「上意討ち」と一般には理解されているが、実は「勅命」(天皇の命令)であった。(趣旨)

 と云うことです。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:17Comments(0)秋津嶋の旅

2007年12月22日

秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)

 

 史蹟寺田屋(手前)と明治に再建された旅館寺田屋

 (旧暦 11月13日)

 京へ来たなら 一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刃の 裏梯子

 京都市伏見区南浜町に、維新史の上で有名な「寺田屋事件」の舞台となった「寺田屋」があります。
 しかし、当時の建物は戊辰戦争(1868~1869)の初戦に当たる鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~30日)で京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見が主戦場となったために焼失しており、現在の南浜町263番地にある建物は当時の敷地の西隣に後になって建てられたものだそうです。
 な~んだ、今の建物の2階の柱などに「弾痕」や「刀傷」と表示してあったので、当時のそのままの建物であるかのように錯覚しておりました。

 したがって、当時の建物の敷地は、現在の建物の東隣にある南浜町262番地なのです。どおりで、庭のような入り口に、「史蹟寺田屋」の石碑が建っており、奥には「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑があったのですね。
 紛らわしいなあ! 

 さてこの伏見の薩摩藩の定宿「寺田屋」では、幕末に通称「寺田屋事件」と呼ばれる2つの事件が起きています。
 1.文久2年(1862)に起きた、薩摩藩尊皇派等への上意討ち事件(勅命)
 2.慶応2年(1866)に起きた、伏見奉行所配下による坂本龍馬襲撃事件
 

 話は変わりますが、京都大学吉田キャンパスの総合博物館西側のスロープを上がったところに、「尊攘堂」と呼ばれる建物があります。
 この建物は、松下村塾出身の子爵品川弥二郎(1843~1900)が維新後、恩師吉田松陰(1830~1859)の遺書『留魂録』に記されていた遺志を汲んで、明治20年(1887)3月、京都高倉通錦小路上ルの元典薬頭三角氏の別邸約七百余坪を購入して別荘とし、これを増築して邸内の一室に尊攘志士の遺墨・遺品を蒐集し、神牌を祭り「尊攘堂」と称したことに由来しています。
 現在の建物は、品川弥二郎の死後、京都帝國大學に寄贈された松蔭の遺墨類をおさめるため、明治36年(1903)に建てられたものだそうです。

 この尊攘堂史料20種の中に、『京都維新史跡寫眞帖』(全48画像で各写真に参考引用文献つき)があり、現在は、京都大学附属図書館「維新資料画像データベース」としてインターネット上に公開されています。
 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/sonjo_index_shashin.html
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:21Comments(0)秋津嶋の旅

2007年12月21日

物語(6)-平家物語(2)-宇治川の事(1)

 

 宇治川に浮かぶ宇治公園の塔ノ島より、下流橘島の朝霧橋を望む

 (旧暦 11月12日)

 現在、琵琶湖から流れ出た水は瀬田川と呼ばれる川を下り、京都府に入るあたりで宇治川と名を変え、京都府と大阪府の境界付近の大山崎町で桂川、木津川と合流して淀川となります。
 しかし、古代から豊臣秀吉(1537~1598)が隠居所として現在の宇治川沿いの桃山丘陵に指月屋敷を築き城下の整備を始めた元禄3年(1596)頃までは、宇治川は現在の宇治橋の下流あたりから木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していました。

 「うしさんのおもしろ伏見の歴史」 
 http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/ogura3.html

 この巨大な遊水池は、古くは万葉集巻9-1699の

 巨椋(おおくら)の入江響(とよ)むなり射部人(いめびと)の 伏見が田居(たい)に雁渡るらし

 という歌でも知られています。

 この当時の奈良から京へと向かう京街道は、巨椋池(おぐらいけ)を避けるように盆地の外縁部を通っていましたが、「宇治橋」が交通の要衝でした。
 「宇治橋」は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」、京都府大山崎町と八幡市橋本間に架かっていた「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられ、山崎太郎、勢多次郎、宇治三郎とも称されていました。
 また、「宇治橋」は「瀬田の唐橋」とならんで京都防衛上の要地でもありました。

 宇治川は現在では「宇治橋」の上流に天ヶ瀬ダムが建設されて水量が調節されているとはいえ、私「嘉穂のフーケモン」が訪れた師走の渇水期でさえ、相当の水量を湛えていました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:33Comments(0)物語

2007年12月16日

日本(31)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(3)

 

 Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson. 

 (旧暦 11月 7日)

 日本(30)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(2)のつづき

 シラードが衝撃を受けた昭和8年(1933)9月12日のタイムズ紙は、王立協会(The Royal Society of London)会長で「原子物理学の父」と呼ばれるアーネスト・ラザフォード卿(Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson 1871~1937)が、「原子遷移に関する最近の四半世紀の発見」の歴史について講演し、「中性子」と「新しい元素変換」に言及したと報じていました。

 “What, Lord Rutherford asked in conclusion, were the prospects 20 or 30 years ahead?
 High voltages of the order of millions of volts would probably be unnecessary as a means of accelerating the bombarding particles. He believed that we should be able to transform all the elements ultimately.
 We might in these processes obtain very much more energy than the proton supplied, but on average we could not expect to obtain energy in this way.
 It was a very poor and inefficient way of producing energy, and anyone who looked for a source of power in the transformation of the atoms was talking moonshine.


 結論としてラザフォード卿は、20年あるいは30年先の進歩がどのようなものであろうかという問いを発した。
 百万ボルト単位の高電圧は、衝突させる粒子を加速する手段としてはたぶん必要ないであろう。究極的にはどのような元素も変換できるようになるであろうとラザフォード卿は考えている。
 このようなプロセスによって、入射する陽子のエネルギーよりもずっと高いエネルギーを得ることができるであろう。しかし、概してこのような手段でエネルギーを得ることは期待できない。
 なぜなら、このような現象が起きる確率は低く、エネルギー生産の手段としては非常に非効率的であるからだ。だから、原子の変換によってエネルギー源を得ようとするものは、「月光」について語るようなものである。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:14Comments(0)歴史/日本

2007年12月15日

日本(30)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(2)

  

 Das Team, das 1942 in Chicago den ersten Kernreaktor baute, dritter von rechts im hellen Mantel: Leó Szilárd, erste Reihe ganz links: Enrico Fermi, daneben: Walter Zinn by Wikipedia.

 1942年にシカゴで最初の核反応炉を建設したチーム
 右から3人目の明るいコートを着ているのがレオ・シラード、前列左がエンリコ・フェルミ、その隣がウォルター・ジン

 (旧暦 11月6日)

 日本(29)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(1)のつづき

 ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラード (Leó Szilárd, 1898~1964)は、大正12年(1923)にベルリン大学で博士号を取得し、昭和2年(1927)年に大学の私講師(Privatdozent: 教授資格論文を書き、審査に合格した人で、大学・短期大学・高等専門学校などにおいて教育活動を行う人)となりました。

 レオ・シラードはまた、SF 作家 H.G. ウェルズの大ファンとして、彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力しています。
 1920年代の中ごろには、シラードは第一次世界大戦の敗北による1320億金マルク(現在の貨幣価値で約40兆円~80兆円)もの膨大な賠償金の負担にあえぐドイツにたいし、「議会制民主主義はドイツでは長持ちしないだろう」と確信するに至っています。

 かれは、1930年代に入ってから急速にその勢力を拡大してきた国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)いわゆるナチスに強い危機感を抱き、昭和8年(1933)1月30日にヒトラーを首班としたナチス党内閣が発足し、翌2月27日の夜に国会議事堂放火事件(Reichstagsbrand)が起きると、レオ・シラードは一党独裁を目指すナチスによって仕組まれた政治的陰謀としてその関与を疑い、約1ヶ月後には単身でドイツを後にしています。

 シラードの年上のハンガリー人の友人で、当時カイザー・ウィルヘルム研究所で化学者として勤務していたマイケル・ポランニー博士(Michael Polanyi, 1891~1976)は、当時のドイツの政治情勢には楽観的でした。それはまた、当時の多くのドイツ人の見方でもあったともいいます。
 彼らは皆、「文明化されているドイツ人たちが乱暴なことを容認するはずがない」と信じていました。
 しかし、シラードはこのような楽観論には同調できませんでした。彼は、ドイツ人が、第一次世界大戦に敗北したことからくるモラルの荒廃に起因するシニシズム(現実社会に対して逃避的、嘲笑的な態度をとる)によって麻痺していると感じていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:40Comments(0)歴史/日本

2007年12月10日

漢詩(20)-文天祥(5)-正氣の歌(5)

 

 文天祥の才能を高く評価し、粘り強く帰順をすすめた
 第5代世祖 フビライ・ハーン

 (旧暦 11月 1日)

 漢詩(19)-文天祥(4)-正氣の歌(4)のつづき

 是氣所磅礴  是れ氣の 磅礴(ぼうはく:満ちふさがる)たる所
 凜烈萬古存  凜烈として 萬古に存す
 當其貫日月  其の日月を 貫くに當りては
 生死安足論  生死も安(いずく)んぞ 論ずるに足らん
 地維賴以立  地維(ちい:世界の四隅を繋ぐ大綱、秩序) 賴りて 以て立ち
 天柱賴以尊  天柱(天を支える柱) 賴りて 以て尊ぶ
 三綱實繋命  三綱(君臣、父子、夫婦の三つの道) 實(まこと)に 命を繋ぎ
 道義爲之根  道義 之(こ)の 根と爲る


 これら歴史上の事例のことは正氣の噴出するところの為せるわざでした。
 これらは厳然として太古から存在し、永遠に語り伝えられて歴史に残ります。
 正氣は日月さえ貫き、生死も論ずるには足りません。
 天地は正氣によって維持され、君臣、父子、夫婦という人倫もこの正気に因って命脈を保ち、道義はこの正氣もって根本としています。

 嗟予遘陽九  嗟(ああ) 予(われ) 陽九(亡国の災禍)に遘(あ)ひ
 隸也實不力  隸(れい:わたくしめ)なる也(や) 實(まこと)に力(つと)めず
 楚囚纓其冠  楚囚(捕らえられて他国にいる者) 其の冠を纓(むす)び
 傳車送窮北  傳車にて 窮北に送らる
 鼎鑊甘如飴  鼎鑊(ていかく:釜茹での刑) 甘きこと飴の如く
 求之不可得  之を求むれど 得(う)可からず


 春秋時代(770BC~403BC)、楚の鍾儀は晉に捕らえられてもなおも祖国楚の冠をかぶって、祖国を忘れないようにしていました。それ以来、異境に捕らわれた捕虜のことを楚囚と呼ぶようになりました。
 南宋の亡国に遭いながら力及ばず、捕虜となって北の最果て(現在の北京あたり)に送られた文天祥にとって、釜茹での刑さえ甘んじて受けることができず、忸怩たる想いに駆られていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:09Comments(0)漢詩

2007年12月09日

日本(29)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(1)

 

 An induced nuclear fission event from Wikipedia.
 A slow-moving neutron is absorbed by the nucleus of a uranium-235 atom, which in turn splits into fast-moving lighter elements (fission products) and free neutrons.


 核分裂反応(Nuclear fission)
 中性子を吸収したウラン(U)235が、クリプトン(Kr)92とバリウム(Ba)141に分裂した例をしめす。この分裂の際、平均2~3個の高速中性子が放出されるが、この中性子が別のウラン(U)235に再び吸収され、新たな核分裂反応を引き起こすことを核分裂連鎖反応(Nuclear chain reaction)という。
 
 この連鎖反応をゆっくりと進行させ、持続的にエネルギーを取り出すのが原子炉であり、この連鎖反応を高速で進行させ、膨大なエネルギーを一瞬のうちに取り出すのが原子爆弾である。


 (旧暦 10月30日)

 漱石忌 小説家夏目漱石の大正5年(1916)年の忌日。

 阿川弘之氏の「軍艦長門の生涯」という小説のなかで、昭和17年(1942)2月23日に行われた柱島泊地(広島湾内にある柱島付近に設けられていた艦艇停泊地)における旗艦「大和」での聯合艦隊図上演習の模様が描かれています。

 4日間にわたる図上演習中には各種の分科会、研究会も開かれましたが、電探(レーダー)試験研究の委員会において、当時の海軍技術研究所所員で電波物理研究会委員であった伊藤庸二造兵中佐の注目すべき発言が紹介されています。

 伊藤庸二造兵中佐(1901~1955)は東京帝国大学工学部電気工学科出身の技術士官で、大尉の初年に無線研究のため2年半ドイツに留学し、八木・宇田アンテナで有名な東北帝国大学教授八木秀次博士(1886~1976)の紹介を受けて、外部磁化による強磁性体の磁化が断続的に増える「バルクハウゼン効果」を発見したドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授(1881~1956)に師事し、磁電管の研究で日独両方の博士号を取得した人物です。
 
 伊藤中佐はたびたび欧州に派遣され、4ヶ月前の太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)10月に帰国したばかりでした。

 紹介されて立ち上がると、電探の現状について一応の説明をし、質疑に答えたあと、
 「実は、ドイツならびに米英で着目されておる新兵器として、レーダーより尚恐るべきものがあります」
と、当面の問題とちがうことを言い出した。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:42Comments(0)歴史/日本

2007年12月06日

板橋村あれこれ(21)-国立極地研究所(1)

 

 国立極地研究所 南極観測船「宗谷」模型

 (旧暦 10月27日)

 昭和58年(1983)に劇場公開された映画「南極物語」の樺太犬タロ(1955~1970)とジロ(1955~1960)の実話物語は日本中に大きな感動を呼び起こしましたが、なんと昨年(2006)にはあのディズニーが、登場人物を米国人として新たに製作(リメイク)した映画「Eight Below」が公開されているから驚きです。

 タロとジロは昭和30年(1955)に稚内市で生まれましたが、その名前の由来は、明治45年(1912)に日本人として初めて南極大陸を探検した陸軍中尉白瀬矗(しらせ のぶ、1861~1946)の隊の犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロにちなむとされています。

 昭和31年(1956)、タロとジロは弟サブロとともに稚内市に生まれましたが、この年南極地域観測隊での樺太犬による犬ぞりの使用が決定されると、当時北海道にいた樺太犬約1,000頭のうち犬ぞりに適したタロ、ジロ、サブロの3頭の兄弟を含む23頭が集められ、稚内で訓練が行われました。

 たまたま当時、農学校の理学部地球物理学科の1期生として在学していたわれらが愛すべきS先輩(この先輩は昭和29年入寮だが、今でもお元気に寮の同窓会に出席される昭和9年入寮の旧制予科の大先輩や戦前の大先輩がご健在なので、新制大学の先輩は未だに中先輩程度である)が指名されて稚内に行き、23頭の樺太犬の訓練のアシストをしたと先日語られていたのには、正直、びっくりいたしました。

 昭和31年(1956)11月8日、日本の「岩石磁気学」の開祖とされる東大理学部の永田武教授(1913~1991)を隊長とする第1次南極予備観測隊が南極観測船「宗谷」(満載排水量4,600トン、4,800馬力)に乗船し、観測隊員53名、タロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京港を出港しました。

 ちなみに、農学校からは、第1次南極予備観測隊に海洋担当の理学部低温研(低温科学研究所)の楠宏(くすのき こう、1921~  )先生、第1次予備観測越冬隊では設営担当の農学部の佐伯富男氏(1929~1990)が参加されていました。

 南極では、隊員のうち11名が第1次予備観測越冬隊として選抜され、タロ、ジロを含む19頭の犬たちが、昭和32年(1957)の第1次予備観測越冬隊において犬ぞりに使役されました。

 昭和33年(1958)2月、第2次観測隊は厚い海氷と悪天候に阻まれて昭和基地に上陸することができず、2月10日、橇付ビーバー機により、11名の第一次予備観測越冬隊員と3匹のカラフト犬を宗谷に収容するのがやっとだったということです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:23Comments(0)板橋村あれこれ

2007年12月02日

歳時記(15)-冬(4)-北風(Boreas)

  
 
 Rape of Oreithyia by Boreas. Detail from an Apulian red-figure oinoche, 360 BC

 (旧暦 10月23日)

 吉永小百合先生が歌う、「♪ 北風吹きぬく 寒い朝も 心ひとつで 暖かくなる・・・」といった歌詞の「寒い朝」という歌がありましたが、まだ暗い寒い朝の寒稽古には辛いものがありましたね。
 私「嘉穂のフーケモン」の両耳が腫れ上がり餃子のようになってしまったのも、高校2年の冬の合宿の時でした。

 冬季に北から吹く乾燥した冷たい強風は、日本各地で「赤城おろし」、「伊吹おろし」、「六甲おろし」あるいは、「遠州のからっ風」、「上州のからっ風」などの名前をつけられ古くから有名ですが、歌の題名にもなっています。
 「六甲おろし」は『阪神タイガースの歌』の通称として有名ですが、「伊吹おろし」という歌も、かつては旧制第八高等学校(現名古屋大学)大正5年度寮歌としてよく知られていました。

 ギリシア神話では、冬を運んでくる冷たい北風の神ボリアス[Boreas]が有名で、英詩でも「北風」の意味に用いられています。

 ギリシヤ古典詩の影響を強く受けたイギリスの詩人ジョン・ミルトン(John Milton,1608~1674)の代表作である『失楽園』 Paradise Lost (1667) は、旧約聖書の『創世記』をテーマにした壮大な叙事詩ですが、第十話695行~705行にはボリアスを初めとするギリシア神話の様々な風の神々が描かれています。

 Now from the North
 Of Norumbega, and the Samoed shoar
 Bursting thir brazen Dungeon, armd with ice
 And snow and haile and stormie gust and flaw,
 Boreas and Cæcias and Argestes loud
 And Thrascias rend the Woods and Seas upturn;
 With adverse blast up-turns them from the South
 Notus and Afer black with thundrous Clouds
 From Serraliona; thwart of these as fierce
 Forth rush the Levant and the Ponent Windes
 Eurus and Zephir with thir lateral noise,
 Sirocco, and Libecchio.
 ―J.Milton : Paradise Lost , Ⅹ. 695-705
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:36Comments(0)歳時記