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2004年12月31日

陶磁器(1)-ロイアル・コペンハーゲン

 

 ロイアル・コペンハーゲン2005イヤープレート

 ロイアル・コペンハーゲンは、1775年、王室および親交のある他の王室への贈答用の陶磁器を製造する王室御用達製陶所として、皇太后Juliane Marieおよびデンマーク王室の援助の下に、コペンハーゲンに発足しました。

 シンボルマークの大冠と3本の波型は、皇太后Juliane Marie自身の提案によるもので、大冠は王室との結びつきを、3本の波型はデンマークを囲む3つの海峡をあらわしているそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:48Comments(1)陶磁器

2004年12月30日

北東アジア(2)-元寇

  

 The Mongol fleet destroyed in a typhoon, ink and water on paper, by Kikuchi Yōsai, 1847.

 (旧暦11月19日)

 ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)で絶滅種に指定されている応援団ですが、東北大学や名古屋大学とともに、このところいつも絶滅が噂されていた九州大学応援団がかろうじて持ちこたえているようです。

 九州大学応援団といえば、「観音様」という両手を合掌して頭の上に上げ、うさぎ跳びをして廻る荒行のため、跡を次ぐ種がいなくなった団体でしたが、いつの間にか細々ですが復活していました。

 その彼らがうたう歌に、「元寇」があります  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:31Comments(0)歴史/北東アジア

2004年12月29日

クラッシック(6)-ショパン(1)-夜想曲第20番嬰ハ短調

 

 Władysław Szpilman (1911〜2000)

 「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」(Lento con gran espressione)
 おいどんは最初、コーヒーの飲み方かと思ったとですが、夜想曲第20番嬰ハ短調(Lento con gran espressione)遺作、いわゆる遺作の嬰ハ短調のノクターンで、ナチスのホロコーストを生き延びたポーランドのユダヤ人ピアニストで映画「戦場のピアニスト」のモデルになったヴワディスワフ・シュピルマン(1911〜2000)が、実際にドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフォルトの前で演奏した曲だったとです。

 第2次大戦中、屋根裏に隠れていたシュピルマンがドイツ軍将校ヴィルム・ホーゼンフォルトに見つかったとき、「ピアニストなら演奏を」と請われてこのショパンの嬰ハ短調ノクターンを弾いたところ、ホーゼンフォルトは彼を殺さなかったばかりか、その後食料品や毛布まで届けて彼を励ましたという逸話があります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:41Comments(0)音楽/クラッシック

2004年12月28日

となり村名所あんない(6)-港村(1)-泉岳寺首洗井戸

 

 泉岳寺 首洗い井戸

 右は高輪泉岳寺
    四十七士の墓どころ
 雪は消えても消えのこる
    名は千載の後までも 


 国文学者大和田建樹(1857〜1910)君作歌、大阪師範學校教諭多梅稚(おおのうめわか)(1869〜1920)君作曲で明治33年(1900)に三木書店より出版された「地理教育鐵道唱歌」第1集(東海道)の2番の歌詞でも有名な高輪泉岳寺は、播州赤穂藩5万3千石浅野家第3代藩主浅野内匠頭長短の菩提寺であることから、赤穂義士四十七士の墓所をはじめ赤穂義士にまつわる様々な物が残されています。

 この「首洗井戸」もそのひとつですが、全国には「首洗井戸」として残されている史跡はかなりあるようで、神奈川県藤沢市藤沢本町の源義経公首洗井戸や横浜市戸塚区成正寺の護良親王首洗井戸などが地元では有名ですが、なんと泉岳寺にも「首洗井戸」があったんですね。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:52Comments(0)となり村名所あんない

2004年12月27日

パイポの煙(10)-トラウマ(5)

 

 松尾のジンギスカン

 トラウマ(4)からのつづき
  
 さて数日後、やっと元気になったT君には、恐ろしいトラウマが刻印されていたのです。そうです、「もう二度と焼酎は飲みたくない」、「もう二度とジンギスカンを食べたくない」というトラウマが・・・・

 今では、たまに一緒にお酒を飲むときには、T君は日本酒を注文します。仕方がないので、私も日本酒にしますが、日本酒のほうが私にはこたえます。おいしい焼酎の飲み方があるといっても、T君は二度と焼酎を口にしません。T君にとっては、焼酎=「サッポロソフト」なのです。

 「おいしい松尾のジンギスカンもあるよ」といっても、見向きもしません。彼のジンギスカンは、「ベル成吉思汗たれ(たぶん?)」と獣医学部で死んだマトン(当時そのような奇怪なうわさが流れていた)のジンギスカンなのです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 01:07Comments(0)パイポの煙

2004年12月26日

パイポの煙(9)-トラウマ(4)

 

 (旧暦11月15日)

 ここで、T君が死体のようになった「サッポロソフト」なるものを知らない内地の人のために、昭和8年創立の札幌酒精工業株式会社の一文を紹介しましょう。

 北都・札幌の手稲山のふところ、やがて発寒川の流れとなる清らかな伏流水を原料に札幌酒精の製品は生まれます。
 
 氷よりも、空気よりも、なお透明なこの一杯。北国の自然が生んだ味覚の芸術品です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:31Comments(1)パイポの煙

2004年12月25日

パイポの煙(8)-トラウマ(3)

 

 北大恵迪寮名物 大ジャムプ大会

 (旧暦11月14日)

 今回、その影響が長く残るような体験または重い心の傷は、私の知人におきた世にも恐ろしい出来事です。

 もう30年以上も昔、馬糞風と共に冬が去り、蝦夷地のサトホロベツにもようやく遅い春がやってきたころ、学園紛争の影響で入学式もとりおこなわれず、何の実感もないまま札幌農学校に入校した私達新入生は、それぞれのクラブに入部して学生生活を始めました。

 その中に、岩手県のYという山奥の町から、はるか離れたK市という地方都市に下宿して高校に通い、今度現役で入学したT君という学生がいました。
 
 T君は、郷里では神童といわれ、皆の期待を一身に背負って、津軽海峡を渡ってきた純朴な少年でした。

 その彼が、どうしたわけか応援団に入団し、髪を伸ばしはじめました。そして、その事件は起こったのです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 08:07Comments(1)パイポの煙

2004年12月24日

となり村名所あんない(5)-豊島村(1)-タネ屋街道

 

 東京種苗株式会社

 (旧暦11月13日)

 慶長8年(1603)、幕府が開設されたことで江戸の人口は急激に増加しましたが、ここで発生したのが、食糧問題です。米は全国から取寄せることが出来ましたが、新鮮な野菜類は充足できず、多くの大名たちは、国元から百姓を呼寄せ、下屋敷などで野菜をつくらせました。
 
 そんなわけで、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、大消費地江戸の供給基地として発達しました。 とくにナスは優れたものが出来たことから、「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828)にも記されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:02Comments(0)となり村名所あんない

2004年12月23日

焼酎(1)-芋焼酎(1)-いも神

 
 
 心猛くも 「いも神」ならず 男と生まれて情はあれど・・・・

 あれっ、どこかで聞いたような歌ですねえ?

 今は第2次焼酎ブームだとかで、特にこの頃は芋焼酎が大人気。
「芋焼酎は健康によい」というイメージが女性にも受け入れられ、帝都には、芋焼酎の専門店もできて、結構繁盛しているそうです。

 昔は、芋焼酎といえば「さつま白波」、独特の匂いで薩人(司馬遼太郎みたいですね)以外には抵抗があって、とてもなじめるものではありませんでしたが、今は、ロックで飲むとブランデーのような甘い香りとコクがある幻の焼酎「魔王」や「森伊蔵」、「村尾」といった人気の焼酎をはじめ、多様な焼酎が帝都でも購入できます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:03Comments(3)焼酎

2004年12月22日

板橋村あれこれ(5)-志村一里塚

 

 志村一里塚

 志村一里塚は、板橋村志村1丁目の国道17号線中山道の傍らに、肩身の狭い思いで残されています。 

 天正18年(1590)、小田原の役により北条氏政を攻略して小田原城を落城させ天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、北条氏と縁戚関係にある徳川家康を関東に移封しました。

 家康は、当時葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸に入国して以来、街道の整備を進めてきましたが、慶長9年(1604)、3男の秀忠に命じて、江戸を中心とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に広げました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:14Comments(0)板橋村あれこれ

2004年12月21日

やまとうた(2)-秋はいぬ 風に木の葉は散りはてて

 

 鎌倉右大臣実朝

 (旧暦11月10日)

 秋はいぬ 風に木の葉は散りはてて 山さびしかる冬は来にけり
 (鎌倉右大臣  続古今和歌集545)


 建久3年(1192)、征夷大将軍源頼朝の次男として生まれた後の鎌倉右大臣源実朝は、8歳のときに父頼朝を亡くし、家督を継いだ長兄頼家も北条氏に実権を奪われ、伊豆に幽閉された後に惨殺、12歳で3代将軍となりました。

 右大臣実朝は、歌に秀でた才能を発揮し、家集『金槐和歌集』が残されています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:53Comments(0)やまとうた

2004年12月20日

クラッシック(5)-合唱(2)-第一回北大寮歌祭実況録音盤

 

 横山達大氏撮影 第1回北大寮歌祭より 

 このCDは、クラシックに分類されるのかどうかは、はなはだ疑問が残りますが、収録されている歌が、明治45年度とか、大正12年度とかなので、クラシックといってもよいでせう。

 録音日が平成14年10月26日と、もう2年以上も経っていたし、忙しさにかまけて忘れかけていましたが、中味の歌は別として、一生懸命に収録して下さった村田雅治氏に敬意を表して聞いてみることにしました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:24Comments(0)音楽/クラッシック

2004年12月19日

古生代(1)-石炭紀(1)-メガネウラ・モニー

 

 Cast of an original fossil of a Meganeuridae.

 上野恩賜公園内にある国立科学博物館の上野本館(昭和6年開館)には、メガネウラ・モニー(学名:meganeura monyi)というでっかいトンボの親分の模型が展示してあります。

 なんでも、フランスのコマントリー炭田の古生代石炭紀(約3憶5400万年前〜2憶9000万年前)後期の地層から発見された翅(はね)の化石から、ハーバード大学のカーペンター博士の指導を元に復元された実物大の模型だとか。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:26Comments(0)古生代

2004年12月18日

歌舞伎(2)-勧進帳(2)

 
 
 東宝映画 「虎の尾を踏む男たち」 主演 大河内傳次郎

 (旧暦11月7日)

 旅の衣は篠懸(すずかけ)の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしおるらん。
 時しも頃は、如月の、如月の十日の夜、月の都を立ち出でて、行くも帰るも別れても、知るも知らぬも逢坂の山隠す霞ぞ、春はゆかしける、浪路はるかに行く船の、海津の浦に着きにけり。
 (長唄「勧進帳」)


 今年になって、ケーブルテレビの日本映画専門チャンネルで何気なく、1945年の東宝映画、「虎の尾を踏む男たち」を見たことがあります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:25Comments(0)歌舞伎

2004年12月17日

歌舞伎(1)-勧進帳(1)

 

 9代目高麗屋松本幸四郎の辨慶

 (旧暦11月6日)

 それ、つらつらおもん見れば大恩教主の秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜の永き夢、驚かすべき人もなし。 ここに中頃帝おはします。御名を聖武皇帝と申し奉り、最愛の夫人に別れ追慕やみ難く涕泣、眼にあらく、涙玉を貫く、思いを先路に翻へし上求菩提の為、盧遮那佛を建立仕給う。然るに去んじ治承の頃焼亡しをはんぬ。かほどの靈場絶えなんことを歎き、俊乗坊重源勅命を蒙って、無常の觀門に涙を落とし、上下の眞俗を勸めて、彼の靈場を再建せんと諸國に勸進す。一紙半錢奉財の輩は現世にては無比の樂に誇り、當來にては数千蓮華の上に坐せん。歸命稽首、敬って白す。

 千代田村隼町(東京メトロ半蔵門線 半蔵門駅から徒歩5分)にある、国立劇場の12月歌舞伎公演「花雪恋手鑑(はなふぶきこいのてがみ)」と「勧進帳」を見てきました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:09Comments(0)歌舞伎

2004年12月16日

となり村名所あんない(4)-千代田村(1)-四谷見附

 

 四谷見附跡

 (旧暦11月5日)

 ここには、江戸時代に枡形の見附門があり、四谷御門と呼ばれていました。

 広辞苑によれば、見附とは「枡形を有する城門の外方に面する部分で、番兵の見張る所。江戸城は俗に三十六見附と称するが、四谷見附・赤坂見附・牛込見附など」と解説してあります。

 現在残っているのは、北の一角の石垣のみです。
江戸時代には、譜代大名や旗本が見附番所で24時間厳重に警備をしており、暮六つ(午後6時頃)になると門の扉は閉められ、夜間は通行できなかったそうです。
また、甲州街道はここが起点となるそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:30Comments(0)となり村名所あんない

2004年12月15日

歳時記(1)-冬(1)-クジラ会

 

 クジラを食べちゃいました。
グリーンピースの活動家からは怒られそうですが、たいへん、たいへん、おいしかったです。

 子供の頃は、しょっぱい塩クジラやクジラのベーコン、晒しクジラ(九州では「おばいけ」と呼び、酢味噌で食べます)が良く食卓に上っており、豚肉や牛肉などはめったに食べたことがなかったのに、この頃はクジラといえば高級品ですね。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:42Comments(0)歳時記

2004年12月14日

クラッシック(4)-モーツァルト(1)-ホルン協奏曲第1番

 

 デニス・ブレイン(1921〜1957)

 某テレビのバラエティ番組「1ヶ月1万円生活」で、チョー格安料理を作って食べるときに流れるメロディーをお聴きになった方も多いと思いますが、これこそがあのモーツァルト作曲、ホルン協奏曲第1番ニ長調K.412の第1楽章:アレグロです。

 モーツァルトは、ほとんどあらゆる楽器のための協奏曲を作曲したそうですが、ホルンの協奏曲は4曲残されています。

 この4曲のホルン協奏曲は、1782年から86年までの5年間で全部作曲され、モーツァルト26歳から30歳までの間にあたります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:59Comments(0)音楽/クラッシック

2004年12月13日

染井霊園(2)-羯南・陸實先生之墓

 

 羯南・陸實先生は、津軽藩士中田謙斎の二男として安政4年(1857)、弘前に生まれました。

 東奥義塾卒業後、宮城師範学校に入学しましたが、薩摩出身の校長の横暴に抗議して退校処分、明治19年(1886)の帝国大学令による帝国大学設置以前は官吏登用の最難関であった司法省法律学校に転校するも、ここでも校長の態度に反発して退学、フランス語の才能をかわれて太政官書記局官吏に就職するも、時の政府の条約改正・欧化政策に反対し、退官。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:32Comments(2)染井霊園

2004年12月12日

板橋村あれこれ(4)-大和町交差点

 

 大和町交差点

 板橋村本町と大和町にまたがる通称「大和町交差点」は、国道17号線中山道、環状7号線、首都高速5号池袋線が立体交差した3重構造になっており、1日約24万台の自動車が通過します。

 また、沿道には中高層ビルが連立しており、半閉鎖的な空間になっていることもあり、二酸化窒素(NO2)濃度が全国ワースト1位、浮遊粒子状物質(SPM)が全国ワースト3位となっているなど、大気汚染がチョー厳しい状況となっています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:38Comments(0)板橋村あれこれ