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2008年01月29日

漢詩(21)-文天祥(6)-正氣の歌(6)

  

 「元大都平面布局」 維基百科、自由的百科全書

 (旧暦 12月22日)

 草城忌 モダニズム俳句の嚆矢(こうし、かぶら矢の意で転じて、物事の始まり)とされ、新興俳句の一翼をになった昭和期の俳人日野草城の昭和31年(1956)の忌日
 春暁や ひとこそ知らね木々の雨
 松風に 誘はれて鳴く蟬一つ
 秋の道 日かげに入りて日に出でて


 漢詩(20)-文天祥(5)-正氣の歌(5)のつづき

 悠悠我心悲  悠悠として 我が心は悲(いた)み
 蒼天曷有極  蒼天 曷(なん)ぞ極み有らんや
 哲人日已遠  哲人は 日に已(すで)に遠きも
 典型在夙昔  典型は 夙昔(しゅくせき)に在り
 風檐展書讀  風檐(ふうえん、風の吹き通う軒端)に 書を展(ひら)きて讀めば
 古道照顏色  古道 顏色を照らす


 悠々として、わたしの心は悲(いた)み
 青い空は、極まるところがあろうか
 殷の宰相彭咸(ほうかん)や殷末期の伯夷(はくい)、戦国時代の楚の屈原といった聖哲の日々は、すでに遠くなったが
 人の模範は昔にある
 風の吹き通う軒端で、聖賢の書をひろげて読めば
 昔の聖賢のおしえが、私の顔を照らしてくれる


 兵馬司の不潔な地下土牢のなかで、生来病弱であった文天祥は二年も気迫でがんばり続けました。
 モンゴル帝国の第5代大ハーンであった世祖クビライ(1215~1294、在位1260~1294)は、文天祥が帰順するのを諦めませんでした。
 そして多くの人たちが、文天祥に帰順を勧めました。

 南宋末期の兵部尚書(国防大臣)として福建に戦い、元に投降して福建招撫使、さらには刑部尚書(法務大臣)などを歴任した王績翁は、かつては宋に使えて元に帰順した謝昌元や留夢炎たち進士10人に、文天祥が道士となって世を捨てることを条件に釈放されるように働きかける運動を呼びかけました。
 
 しかし、かつて宋の科挙の試験に状元(首席)で合格した留夢炎が、これに強く反対しました。
  「文天祥が赦されて故郷の江南(長江下流の南岸地域)に帰り、兵を集めたりすれば、吾ら10人の立場がなくなる」というのがその理由でした。
 留夢炎は、淳祐四年(1244)の状元で、南宋の咸淳年間(1265~1274)に潭州(湖南省長沙)の知事となり、湖南安撫使を兼ねています。
 徳祐元年(1275)には右丞相となって枢密使を兼ね、また江東西湖南北宣撫大使となりましたが、祥興2年(元の至元16年、1279)、南宋が滅びると元に降り、翰林学士承旨となっています。

 同じ状元でも、『正気』の有る無しによって、これだけの大きな差が生じます。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:01Comments(0)漢詩

2008年01月23日

おくの細道、いなかの小道(5)-黒羽

 

 Dog hunting in medieval Japan from Wikipedia.

 羅山忌  江戸初期の程朱学派の儒学者で林家の祖、羅山林信勝の明暦3年(1657)の忌日。

  (旧暦 12月16日)
  
 余りのんびりとしていると、芭蕉翁が待ちくたびれてしまうので、少し先を急ぎましょうかのん。

 黒羽(栃木県大田原市)では、芭蕉翁一行は館代浄坊寺図書高勝(桃雪)とその弟鹿子畑豊明(翠桃)に迎えられ、4月3日から16日までの13泊の長逗留をしています。

 四日    浄法寺図書ヘ被招(招かる)。
 五日    雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉。
 六日ヨリ九日迄、雨不止(止まず)。
 九日    光明寺へ被招(招かる)。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。
 十日    雨止。日久(ひさしく)シテ照。
 十一日  小雨降ル。余瀬翠桃へ帰ル。晩方強雨ス。
 十二日  雨止。図書被見廻(見廻らる)、篠原被誘引(誘引さる)。
 十三日  天気吉。津久井氏被見廻(見廻られ)テ、八幡ヘ参詣被誘引(誘引さる)。
 十四日  雨降リ、図書被見廻(見廻らる)終日。重之内持参。
 十五日  雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書へ被参(参らる)。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参(参らず)。


 芭蕉が黒羽に滞在したこの時節は雨ばかり降っていますが、陽暦の5月22日から6月3日に当たっているので、梅雨の盛りでもあったのでしょう。

 元禄2年(1689)4月12日(陽暦5月30日)、館代浄坊寺図書高勝(桃雪)が見舞いに来て誘われ、芭蕉一行は犬追物の跡や那須篠原の玉藻稲荷神社を訪れています。

 能の『殺生石』(せっしょうせき)に、

 『その後勅使立って、三浦の介、上総の介、両人に綸旨をなされつつ。那須野の化生の者を退治せよとの勅を受けて、野干(狐)は犬に似たれば犬にて稽古あるべしとて百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の始めとかや』

 と云う地謡(コーラス)がありますが、「犬追物」とは武士の騎射(うまゆみ)の練習のために行なわれた競技で、「流鏑馬」(やぶさめ)、「笠懸」(かさがけ)と共に馬上の三物(みつもの)と呼ばれ、解き放たれた犬を追物射(おものい)にするゲームでした。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:54Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2008年01月21日

おくの細道、いなかの小道(4)-那須

 

 Statue of Bashō at Chūsonji, Hiraizumi, Iwate taken by Kaho-No-Fuukemon.

 (旧暦 12月14日)

 久女忌  大正~昭和初期の俳人杉田久女の昭和21年(1946)年の忌日。
 柳原極堂(1867~1957)から俳誌『ほとゝぎす』を引き継いだ高濱虚子(1874~1959)に師事し、『ほとゝぎす』同人として活躍するも、昭和11年(1936)『ほとゝぎす』10月号に、突如として同人除名の社告を掲載され、悲嘆のうちに精神を病んで太宰府の精神病院で亡くなった「清艶高華」の女流俳人。
        紫陽花に 秋冷いたる信濃かな  
        夕顔や ひらきかかりて襞深く
        しろしろと 花びらそりぬ月の菊



 かさねとは 八重撫子(なでしこ)の 名成(なる)べし  曾良

 四月二日、日光三大名瀑の1つに数えられている裏見の滝および景勝地の含満ヶ淵(大谷川が男体山から流れ出た溶岩を長い年月をかけて浸食した渓谷)を巡った芭蕉一行は、日光をあとにして廿丁(2180m)ばかり下って左に折れ、大谷川を渡ってせノ尾(瀬尾)、川室という会津西街道に沿った村を経て右に折れ、大渡という日光北街道の馬次のある宿場町に至ります。

 大渡より鬼怒川を渡って船入(船生、ふにゅう)を通り、雷雨の激しい中、玉入(たまにゅう)という日光北街道の宿場に到着しますが、玉入(たまにゅう)の宿がひどかったので、無理を言って名主の家に一夜の宿を借りました。
 
 翌四月三日は快晴、芭蕉一行は辰上剋(午前7時半ころ)玉入(たまにゅう)を立ち、鷹内、矢板、沢村、大田原を経て、同日、黒羽根の余瀬にある翠桃鹿子畑豊明宅へ到着しました。
 
 日光北街道は、江戸初期に整備された日光道中今市宿より、奥州道中大田原宿までの11里31町の短い脇街道です。
 古来、この街道が通る那須野は小道が多く、旅の難所だったようです。まさしく、いなかの小道だったのでしょう。

 道多き なすの御狩の矢さけびに のがれぬ鹿のこゑぞ聞ゆる 

 この古歌は、『奥細道菅菰抄』に紹介されており、鎌倉後期の延慶3年(1310)頃に成立した私撰和歌集『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に収められた、正四位下左京権大夫藤原信実朝臣(1177?~1265?)の作ですが、実際に藤原信実がみちのくに下って詠んだ歌ではないでしょう。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:03Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2008年01月19日

やまとうた(21)-その子二十(はたち) 櫛にながるる黒髪の

 

 Akiko and her husband, Tekkan Yosano from Wikipedia.

 (旧暦 12月12日)

 臙脂紫(えんじむらさき) 
 その子二十 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな          (006)
 清水へ 祇園をよぎる櫻月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき             (018)
 やは肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君          (026)
 狂ひの子 われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき 百三十里 あわただしの旅  (050)


 はたち妻
 むねの清水 あふれてつひに濁りけり 君も罪の子我も罪の子           (228)
 くろ髪の 千すじの髪のみだれ髪 かつおもひみだれおもいみだるる       (260)
  

 春思
 人の子の 恋をもとむる唇に 毒ある蜜をわれぬらむ願い              (334)

 むかしはと云っても、平成11年(1999)までは、成人の日は毎年1月15日でしたが、平成12年(2000)からは、ハッピーマンデー制度導入に伴い、1月第2月曜日(その年の1月8日から14日までのうち月曜日に該当する日)に変更されました。
 二十歳の若い皆さんを拝見しておりますると、晶子の詠んだ歌のように、屈託のない明るさで、まばゆいような生命(いのち)の輝きに圧倒されてしまうものです。

 まあしかし、これらの歌が収められた與謝野晶子(1878~1942)の処女歌集「みだれ髪」が発表された明治34年(1901)当時は、大問題になったことでしょう。

 万智ちゃんを 先生という子等がいて 神奈川県立橋本高校
 万智ちゃんが ほしいと言われ心だけ ついていきたい花いちもんめ
 水蜜桃(すいみつ)の 汁すうごとく愛されて 前世も我は 女と思う
 赦されて 人は幸せになるものと 思わず恋は終身の刑
 燃える肌を 抱くこともなく人生を 語り続けて寂しくないの
 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ 二本で言ってしまっていいの

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:07Comments(0)やまとうた

2008年01月18日

数学セミナー(15)-一般相対性理論(1)-そもそもは・・・

 

 Hermann Minkowski (1864~1909) was a German mathematician of Jewish and Polish descent, who created and developed the geometry of numbers and who used geometrical methods to solve difficult problems in number theory, mathematical physics, and the theory of relativity. 

 (旧暦 12月11日)

 南ドイツ・ウルム出身のアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、1879~1955)は、1911年から1916年にかけて発表した以下の5つの論文により、一般相対性理論(Allgemeine Relativitätstheorie)を確立しました。

 1. Über den Einfluß der Schwerkraft auf die Ausbreitung des Lichtes. In: Annalen der Physik. 35, 1911, Seite . 898–908
 1911年 『光の伝播に対する重力の影響』

 2. Entwurf einer verallgemeinerten Relativitätstheorie und einer Theorie der Gravitation. In: Zeitschrift für Mathematik und Physik. 62, 1913, Seite . 225–261.
 1913年 『一般相対性理論および重力論の草案』

 3. Erklärung der Perihelbewegung des Merkur aus der allgemeinen Relativitätstheorie. In: Sitzungsberichte der Preußischen Akademie der Wissenschaften. 1915, Seite . 831–839.
 1915年 『水星の近日点の移動に対する一般相対性理論による説明』

 4. Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie. In: Annalen der Physik. 49, 1916, Seite . 769–822
 1916年 『一般相対性理論の基礎』

 5. Hamiltonsches Prinzip und allgemeine Relativitätstheorie. In: Sitzungsberichte der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften (Berlin), 1916, Seite .1111–1116
 1916年  『Hamiltonの原理と一般相対性理論』

 「アインシュタインの一般相対性理論を理解するには、テンソル解析学リーマン幾何学を理解しないとだめだ」とはよく聞く言葉ですが、これがまた複雑でめんどくさい。

 1905年、ドイツの学術誌『Annalen der Physik 』第17巻 p.891~921 に掲載された「Zur Elektrodynamik bewegter Körper」(動いている物体の電気力学)ほか数編の論文から成る特殊相対性理論は、互いに等速並進運動をしている「慣性系」に対して成り立つ理論でした。

 ここで「慣性系」とは、「慣性の法則」が成り立つ座標系であり、「慣性の法則」とは、「静止している質点は、力を加えられない限り静止を続け、運動している質点は、力を加えられない限り等速直線運動を続ける」というものです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:57Comments(0)数学セミナー

2008年01月14日

日本(34)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(6)

 
 
 Lise Meitners Wirkungsstätte: Das Kaiser-Wilhelm-Institut für Chemie in Berlin von Wikipedia.
 (heute: Institut für Biochemie der Freien Universität Berlin)
 
 リーゼ・マイトナーの領域:ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所
 
(旧暦 12月 7日)

 タロとジロの日  南極の昭和基地に置き去りにされたカラフト犬「タロ」、「ジロ」の生存が昭和34年(1959)に確認された日。

 日本(33)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(5)のつづき

 1930年代の半ば、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所(Kaiser Wilhelm Institute für Chemie)所長オットー・ハーン (Otto Hahn、1879~1968)とオーストリア出身の女性物理学者リーゼ・マイトナー(Lise Meitner、1878~1968)およびハーンの助手のフリッツ・シュトラースマン(Fritz Straßmann,1902~1980)の研究チームは、自然に存在する最も重い元素であるウランが中性子照射によって遷移(エネルギーを吸収あるいは放出し、状態が変化すること)する相手の物質をすべて探し出すという根気の要る地道な実験に取り組んでいました。

 彼らは、昭和13年(1938)の初めまでに、半減期(放射性核種あるいは素粒子が崩壊して別の核種あるいは素粒子に変わるとき、元の核種あるいは素粒子の半分が崩壊する期間)の異なる放射性物質を10種類ほど発見していました。

 しかし、昭和13年(1938)3月13日、ヒトラー率いるナチス政権は、オーストリアを併合してしまいます。
 アンシュルス(Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich) と呼ばれたこの併合により、オーストリア出身のリーゼ・マイトナーの市民権はドイツのものに移され、それにともない、昭和8年(1933)以来ナチス政権のもとで推進されてきた反ユダヤ法、特に昭和10年(1935)に制定されたニュルンベルク法(Nürnberger Gesetze)の適用を逃れることができなくなってしまいました。

 この法律は、8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、公職は追放、企業経営は禁止、ユダヤ人の市民としての生活権を否定するものでした。
 昭和13年(1938)7月17日、リーゼ・マイトナーを支援するオランダ人物理学者ディルク・コスター(Dirk Coster 、1889~1950)に伴われて彼女はオランダへ脱出し、デンマークの理論物理学者ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(Niels Henrik David Bohr、1885~1962)の紹介で、ストックホルム郊外にある科学アカデミー物理学研究所に落ち着きます。

 昭和13年(1938)9月、ヒトラーによるチェコスロバキアのズデーテン地方(Sudetenland)の割譲要求に伴う欧州動乱への一触即発の緊張の中にあって、ベルリン郊外ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所1階の実験室では、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンによるウラニウムへの中性子照射実験は続いていました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:35Comments(0)歴史/日本

2008年01月12日

雑司ヶ谷霊園(2)-漱石夏目金之助の墓

 

 漱石夏目金之助の墓

 (旧暦 12月 5日)

 東京都立雑司ヶ谷霊園案内図の裏面には、埋葬著名人一覧として66人の著名人の氏名、墓碑の位置、職業、生死年が記載されていますが、それを基に探すと、漱石夏目金之助(1867~1916)のお墓は雑司ヶ谷霊園の中央通りといちょう通りが交差する右角の1種14号1側3番にあります。

 漱石夏目金之助が終生の友人子規正岡常規(1867~1902)と出会ったのは、第一高等中学校本科英文科1年在学中の明治22年(1889)1月のことでした。
 きっかけは、正岡常規も夏目金之助も寄席によく通っていたことが発端で、その交友が深まったのは、正岡常規が明治22年(1889)5月に完成させた、漢詩、漢文、和歌、発句、謡曲、小説などの分野から成る文章を集めた『七草集』に、夏目金之助がその批評を漢文で書き、九首の七言絶句を添えたことによるものと云われています。
 そして、この時に初めて「漱石」という号を使ったとされています。

 正岡子規は大学予備門時代(1884~1886)には、友人たちと「七変人評論」を作っていますが、この時には夏目金之助はまだ知己ではありませんでした。

   七変人           人ニ対シテ
 ● 関甲子郎   陸奥人  高論放言傍若無人
 ● 菊池謙二郎  常陸人  義気アリ交ルコト比々タリ
 ● 井林広政   伊予人  義気アリ交ルコト比々タラズ
 ● 正岡常則   伊予人  時トシテ權數アリ
 ● 秋山真之   伊予人  鷹揚自ラ誇ルノミ
 ● 神谷豊太郎  紀伊人  或ハ笑ヒ或ハ媚ビ人ノ意ヲ迎フ
 ● 清水則遠   伊予人  淡トシテ水ノ如シ


 正岡子規は雅号だけでも100あまりも持っており、明治23年(1890)に書かれた『筆まかせ』という随筆には、「走兎」、「風廉」、「漱石」、「士清」、「子升」、「常規凡夫」、「眞棹家」、「丈鬼」、「冷笑居士」、「獺祭魚夫」、「放浪子」、「秋風落日舎主人」、「癡夢情史」、「野暮流」、「盗花」、「四国仙人」、「沐猴冠者」、「被襟生」、「莞爾生」、「浮世夢之助」、「蕪翠」、「有耶無耶漫士」、「迂歌連達磨」、「情鬼凡夫」、「馬骨生」、「野球」、「色身情仏」、「都子規」、「虚無僧」、「饕餐居士」、「僚凡狂士」、「青孝亭丈其」、「裏棚舎夕顔」、「薄紫」、「蒲柳病夫」、「病鶴痩士」、「無縁癡仏」、「情魔癡仏」、「舎蚊無二仏」、「癡肉団子」、「仙台萩之丞」、「無何有洲主人」、「八釜四九」、「面読斎」、「一橋外史」、「猿楽坊主」など沢山の雅号が書かれています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:35Comments(0)雑司ヶ谷霊園

2008年01月08日

クラシック(20)-ベートーヴェン(4)-《悲愴》

 
 

 Grave introduction: first four bars 

 (旧暦 12月 1日)

 「妙音」という言葉があります。その意味はいろいろあり、仏に供養する妙なる音という意味もありますが、仏・菩薩が法を説く時に発する音声という意味もあり、仏・菩薩は諸々の衆生に法を説くのに、八種の妙音を出すと云われています。

 また、法華経巻七妙音菩薩品第二十四では、妙音菩薩が釈尊の法華経説法の会座(えざ)に現れ、苦悩渦巻く娑婆世界にあって、妙なる「天の曲」や「天の歌」を奏でながら、人々に限りない希望と勇気を贈ってくれると説いています。

 まさに、旧制第七高等学校造士館(鹿児島)の大正3年第14回記念祭歌「北辰斜めに」の巻頭言の一節ではありませんが、
 歌は悲しき時の母ともなり
 うれしき時の友ともなれば

 であり、「音楽の力というものはすばらしい」と感動するのは、私「嘉穂のフーケモン」だけではありますまい。

 新年早々、御徒町のカラオケハウスで淋しがりやの大先輩を慰めるために、「♪ 轟沈 轟沈 凱歌が挙がりゃ つもる苦労も 苦労にゃならぬ・・・・」などと歌って盛り上げるのも、妙なる音楽のなせる技でございましょう。
 ちなみにこの「轟沈」という歌は、大東亜戦争中の昭和19年(1944)に公開された日本映画社製作による潜水艦通商破壊作戦の国策映画、『轟沈 印度洋潜水艦作戦記録』の挿入歌(作詞・米山忠雄 作曲・江口夜詩)です。

 ところで余談ですが、旧制第七高等学校造士館の後身鹿児島大学理学部同窓会のHPに、次のよう趣旨の話が掲載されていました。
 北辰とは北極星のことですが、南国薩摩の鹿児島では北極星が北天の仰角31度36分の方向に見えることから、「北辰斜めにさすところ」とは、鹿児島は北極星が「斜め」の方向に見える場所であるという意味だとか。
 それに対し、蝦夷地の札幌では、北極星は仰角43度11分の方向に見えるため、やや頭を上げて仰ぎ見ることになり、同じ北極星でも、旧制予科恵迪寮の明治45年度寮歌「都ぞ弥生」では、歌詞2番の最後の部分で「おごそかに北極星を仰ぐ哉」という言い回しが出てくるとのこと。

 なるほどそうか~、私「嘉穂のフーケモン」も酔っぱらって寮に帰るときは、いつも「おごそかに北極星を仰いでいた」なあ・・・。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:49Comments(0)音楽/クラッシック

2008年01月07日

天文(9)-水星の近日点移動

 

 Drehung des Merkurperihels. Die Exzentrizität der Bahn und die Rate der Präzession sind stark übertrieben. Zwischen den einzelnen dargestellten Perihelen liegen in Wirklichkeit etwa 58.000 Umläufe.

 水星近日点の移動(旋回)。軌道の離心率および歳差運動(自転している物体の回転軸が、円をえがくように振れる現象)の比率は、強く誇張されている。個々の描写された近日点は、実際はほぼ58,000公転の間にある。

 注)ちなみに、水星の近日点が太陽の周りを1周するためには、水星が太陽の周りを939,622公転する必要があり、その時間は226,415年ほどかかります。

 (旧暦 11月29日)

 夕霧忌  27歳で没した大坂の遊女夕霧の延宝6年(1678)の忌日。
 その死後、初代坂田藤十郎(1647~1709)が演じた歌舞伎『夕霧名残の正月』や近松門左衛門(1653~1725)の人形浄瑠璃『夕霧阿波鳴渡』など、数多くの芝居で題材となって好評を博した佳人薄命の遊女。

 水星(Mercury)は、太陽系の8個の惑星の中で太陽に最も近い惑星です。
 太陽を回る惑星が楕円軌道を描くことは、ドイツの数学者、天文学者のヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571~1630)がその師匠であり共同研究者でもあったデンマークの天文学者ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、1546~1601)の観測記録を解析し、1609年に発表しました。

 The first law says: "The orbit of every planet is an ellipse with the sun at one of the foci."
 第1法則 : 惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く。

 軌道力学上、標準的な条件下での天体の軌道は必ず円錐曲線の形になりますが、太陽を回る惑星の場合、その軌道離心率(Orbital eccentricity)eは0<e<1となって楕円軌道をとります。

 水星の軌道離心率はe=0.2056と、太陽系の他の惑星と比べてかなり大きい値を持っていますが、e=0ならば円形となるので、水星の軌道はかなり円に近いものと云えます。

 19世紀の天文学者は水星の軌道要素を大変注意深く観測した結果、楕円軌道は閉じずに、太陽に最も近づく位置(近日点、perihelion)が1周期ごとに移動していくという現象を発見しました。この現象を近日点移動(perihelion precession、近日点の歳差運動)と云い、太陽に近いほどこの移動が大きくなります。

 フランスの数学者、天文学者のユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier, 1811~1877)は、この水星の近日点移動を他の惑星(水星の更に内側に軌道を持つとされる惑星バルカン:Vulcan)の影響によるものだとしてニュートンの重力理論で計算してみたところ、十分に説明できないところが出てきました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:07Comments(0)天文

2008年01月06日

史記列傳(6)-孫子呉起列傳第五(1)

 

 Portrait of Sun Tzu (孫武) from Wikipedia.

 (旧暦 11月28日)

 良寛忌  越後国出雲崎出身の江戸後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家、良寛の天保2年(1831)年の忌日。

       生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす
       嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪
       誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵
       夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす


 信廉仁勇にあらざれば兵を傳へ劍を論ずること能わず、道を與(あた)へ符を同じくす、內に身を治るを以てすべく、外に變に應ずるを以てすべし。
 君子焉(いずくんぞ)德を比ぶるや、よりて孫子吳起列傳第五を作る。(太史公自序第七十)
 

 誠実で潔く、思いやりがあり勇気ある人であってこそ、伝える兵法や論ずる剣法は大道と一致し、身を修める手段にできると共に、臨機応変の動きをとることができる。それは君子が徳を比較するときの基準になりうるものである。そこで、孫子と呉起の列傳第五を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 孫子と呼ばれている人は二人いて、一人は兵法書である『孫子』を著したと伝えられている春秋時代(B.C.770~B.C.403)の孫武(B.C.535~?)という齋(山東省、B.C.1046~ B.C.386年)の国の人で、もう一人はその子孫であるとされる戦国時代(B.C.403~B.C.221)の同じく齋の孫臏(そんぴん、?~B.C.316)です。

 昭和47年(1972)に山東省臨沂県の銀雀山漢墓から発見された前漢時代(B.C.206 ~A.D.8)の竹簡の中に、孫子のものと判断されるものが多数含まれていました。
 この『孫子』は二種類に分類され、ひとつは現在伝わっている『孫子』と同じもので、一方は南北朝時代(439~589)以後失われた孫臏のものと判断されました。
 現代中国では、前者を『孫子兵法』、後者を『孫臏兵法』と呼んでいます。

 孫子は兵法に優れているということで呉(江蘇省東南部、B.C.585~B.C.473)の第6代王闔閭(こうりょ、?~B.C.496)に謁見したときに、呉王闔閭から試しに宮中の美女180人の練兵の指揮を委ねられます。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 01:55Comments(0)史記列傅