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2011年12月28日

漢詩(29)-乃木希典(2)-金州城下作

 

 二〇三高地頂上より旅順港を望む
 海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』(1909年)より
 
 (旧暦12月4日)

 山川草木轉荒涼   山川 草木  轉(うた)た荒涼
 十里風腥新戦場   十里 風 腥(なまぐさ)し  新戰場
 征馬不前人不語   征馬 前(すす)まず  人 語らず
 金州城外立斜陽   金州城外  斜陽に立つ


 山も川も草も木もすべてが砲弾の跡なまなましく、ただ荒れ果てている。
 十里の間、吹く風も血なまぐさい新戦場。
 軍馬は進もうとせず、傍らの者も黙している。
 金州城外夕日のなか、茫然としてたたずむ。 


 (六月)
  七日、晴、金州に到る。途中負傷者二百九十名、露兵四名に柳家屯に逢ふ。三里庄に兵站司令官出迎え来る。劉家屯の劉家に泊す。斎藤季二郎少佐軍政委員なり。来訪、同氏の案内、南山の戦場巡視、山上戦死者墓標に麦酒を献じて飲む。幕僚随行す。
  山河草木轉荒涼。十里風腥新戦場。征馬不前人不語。金州城外立夕陽。

 同八日、晴、朝七時金州発、北泡子崖に著す。両師団長を招集して訓令を与えたり。
 (乃木希典日記)


 明治37年(1904)5月2日、中国遼東半島の先端部、旅順口攻略の大命を帯びて第三軍司令官に親補された陸軍中将乃木希典(1849〜1912)は、同6月1日に運送船「八幡丸」に乗船して広島県の宇品港を出港し、同6月6日、遼東半島の塩大澳(えんたいおう)三官廟に上陸しました。
 この日、海軍の聯合艦隊司令長官東郷平八郎中将らとともに大将に昇進した乃木希典は、翌6月7日、幕僚らとともに金州に向かい、南山の戦場を訪れて、第二軍の戦死者および5月26日に金州城東門外に負傷して翌27日に戦死した長男、歩兵第一聯隊第一大隊第一小隊長乃木勝典少尉(1879〜1904、陸士13期)の英霊を弔っています。

 野に山に討死になせし益荒雄の あとなつかしき撫子の花   乃木希典

  第三軍ノ目的ハ、可成(なるべく)速(すみやか)ニ旅順口ヲ攻略スルニ在リ。如何ナル場合ニ於テモ、第二軍ノ後方ニ陸上ヨリスル敵ノ危害ヲ及サザル如クスルヲ要ス。
 (第三軍司令官ニ与フル訓令)


 明治37年(1904)6月30日、「満州軍総司令部戦闘序列」が下達され、乃木大将率いる第三軍は、第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)の三個師団を基幹とする旅順攻囲軍を編成しました。

 第三軍の戦闘序列

 軍司令官 乃木希典大将 
  参謀長 伊地知幸介少将

 face01 第一師団(東京)       師団長 松村務本中将
 
   歩兵第一旅団   歩兵第一聯隊(東京)、歩兵第十五聯隊(高崎) 
   歩兵第二旅団   歩兵第二聯隊(佐倉)、歩兵第三聯隊(東京)
   師団付属     騎兵第一聯隊、野戦砲兵第一聯隊、工兵第一大隊

 face02 第九師団(金沢)       師団長 大島久直中将
 
   歩兵第六旅団   歩兵第七聯隊(金沢)、歩兵第三十五聯隊(金沢)
   歩兵第十八旅団  歩兵第十九聯隊(敦賀)、歩兵第三十六聯隊(鯖江)
   師団付属     騎兵第九聯隊、野戦砲兵第九聯隊、工兵第九大隊

 face03 第十一師団(善通寺)     師団長 土屋光春中将
 
   歩兵第十旅団   歩兵第二十二聯隊(松山)、歩兵第四十四聯隊(高知)
   歩兵第十八旅団  歩兵第十二聯隊(丸亀)、歩兵第四十三聯隊(善通寺)
   師団付属     騎兵第十一聯隊、野戦砲兵第十一聯隊、工兵第十一大隊

 face04 後備歩兵第一旅団       旅団長 友安治延少将
  
   後備歩兵第一、第十五、第十六聯隊

 face05 後備歩兵第四旅団       旅団長 竹内正策少将 
  
   後備歩兵第八、第九、第三十八聯隊

 face06 野戦砲兵第二旅団       旅団長 大迫尚道少将
  
   野戦砲兵第十六、第十七、第十八聯隊

 face08 攻城砲兵司令部        司令官 豊島陽蔵少将
  
   野戦重砲兵聯隊、徒歩砲兵第一、第二、第三聯隊、徒歩砲兵第一独立大隊

 face07 海軍野戦重砲隊        指揮官 黒田悌次郎海軍中佐

 face11 軍兵站部           兵站監 小畑蕃大佐

 face12 軍工兵部           工兵部長 榊原昇造大佐

 旅順攻囲戦は以下のような段階を経て行われました。

 1. 前哨戦(攻囲陣地推進)  (明治37年6月26日〜8月9日)
 2. 第1回総攻撃 (明治37年8月19日〜8月24日)
 3. 前進堡塁確保 (明治37年8月25日〜10月25日)
 4. 第2回総攻撃 (明治37年10月26日~10月31日)
 5. 第3回総攻撃 (明治37年11月26日~12月6日)
 6. 旅順開城まで (明治37年12月7日〜明治38年1月5日)

 
 明治37年(1904)12月6日午前7時30分、二〇三高地は11月に動員されたに第七師団歩兵第二十五聯隊第二大隊主力によって占領され、多大な犠牲を伴った旅順攻囲戦は最大の難関を越えました。

 明治37年7月31日に前進陣地を占領してから155日の日数を要し、後方部隊を含めて延べ約13万人、戦闘参加最大人員6万4千名(第3回総攻撃時)の兵力に及んだと報告されています。
  
 旅順攻囲戦における日本側の損害は、戦死15,390名、戦傷43,814名、計59,204名に対し、ロシア側の損害は、戦死・行方不明6,646名、戦傷・捕虜約25,000名と報告されています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:46Comments(0)漢詩

2011年12月23日

奥の細道、いなかの小道(13)−武隈/宮城野

 
 
 仙台城趾 伊達政宗公銅像

 (旧暦11月29日)

 櫻より松は二木を三月越シ

 一 四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
 『曽良随行日記』


 芭蕉翁一行が訪れた「武隈の松」は、仙臺藩領岩沼鄕の武家屋敷町にありました。阿武隈川の河口に位置する岩沼鄕は、かつては武隈(たけくま)と呼ばれ、古内氏八千五十石七升(八百五貫七文)の城下町であり、承和九年(842)に勧請された竹駒神社の門前町、奥州街道と陸前浜街道の分岐点の宿場町として栄えました。

 芭蕉翁一行が訪れた頃には、岩沼鄕は仙臺藩領屈指の宿場町であり、北町、中町、南町の各町に治安・交通・運輸を所管する検断(大庄屋)が設置されていました。

 さてこの松は、宮内卿藤原元良(善)が陸奥守に赴任した平安前期に館の前に植えた松で、その後野火によって焼け、平安中期の武将源満仲(912?〜997)が陸奥守として赴任したときに植え、また無くなってしまったので、藤原道長の側近でもあり、和泉式部の夫であった橘道貞(?〜1016)が陸奥守に赴任した時に植えた松だと伝えられています。

 みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てゝ後又同じくににまかりなりて彼のさきの任に植ゑし松を見侍りて
 うゑし時ちぎりやしけむたけくまの 松をふたたびあひ見つるかな
 (宇恵し登きち起里やしけ無多計久満の松をふたたびあ飛見つ留嘉那)
                               後撰集 巻17 雑三-1241 藤原元善朝臣


 平安末期の歌人藤原清輔(1104〜1177)が著した歌学書『奥義抄』には、

 武隈の松はいづれのよゝりありけるものともしらぬ人は、うゑしときとよまれたれば、おぼつかなくもや思ふとて書きいでゝ侍るなり、此松は昔よりあるにはあらず。宮内卿藤原元善といひける人の任に、たちの前にはじめてうゑたる松なり。みちのくにの館はたけくまといふところにあり。
 この人ふたゝびかの國になりて後のたびよめる歌なり。
 たけくまのはなはの松ともよめり。
 重之歌に云、

 たけくまのはなにたてるまつだにも わがごとひとりありとやはきく
 たけくまのはなはとて、山のさしいでたる所のあるなりとぞ、ちかくみたる人はまうしし。この松野火にやけにければ、源満仲が任に又うう。其後又うせたるを橘道貞が任にうう。其後孝義きりて橋につくり、のちたえにけり。うたてかりける人なり。なくともよむべし。

 と記してあります。

 「武隈の松」は枯れたり、陸奥守藤原孝義により名取川の橋として伐られたりしましたが、そのたびに幹が根本付近から二股に分かれる松が植え継がれてきたようです。そして芭蕉が見たのは、五代目の松であろうと云われ、現在の松は文久二年(1862)に暴風で倒木した後に植えられた七代目の松と云うことです。

 この「武隈の松」は陸奥の歌枕の中でもその詠歌の多いことでは抜きんでており、能因法師、西行法師をはじめ多くの歌人に詠まれています。
    
   陸奥守にてくだり侍りける時、三条太政大臣の餞し侍りければ、よみ侍りける
   たけくまの松を見つつやなぐさめん 君がちとせの影にならひて
                               拾遺集 巻6 別-338 藤原為頼


  則光朝臣のもとにみちのくにに下りて武隈の松をよみ侍りける
  武隈の松はふた木を都人 いかがと問はばみきとこたへむ
  (堂希久万の松ハ二木越美屋古人い可ゝと問はゝみ起とこたへ舞)
                               後拾遺集 巻18 雑四-1041 橘季通


  みちのくにに再び下りて後のたび、たけくまの松も侍らざりければよみ侍りける


  武隈の松はこの度跡もなし ちとせを経てや我は来つらむ
                               後拾遺集 巻18 雑四-1042 能因法師

  橘季通、陸奥に下りて武隈の松を歌によみ侍りけるに、ふた木の松を人とはばみきと答へんなどよみて侍りけるを、つてにききてよみ侍りける
  武隈の松は二木をみ木といふは よくよめるにはあらぬなるべし
                               後拾遺集 巻20 雑六-1199 僧正深覚


  みちのくにほど遠ければたけくまの 松まつ程ぞ久しかりける
                               実方集 藤原実方


  武隈の松も昔になりたりけれども、跡をだにとて見に罷りて詠みける
  枯れにける松なき跡の武隈は みきと言ひても甲斐なかるべし
                               山家集 羈旅歌 西行法師

  人しれずおもへばくるしたけくまの 松とはまたじまてばすべなし
                               金槐和歌集 恋-421 源実朝
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:49Comments(0)おくの細道、いなかの小道