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2014年03月30日

新生代(22)— 新世紀(11)ーザンクレアン大洪水(2)

 

 Sailing the Mediterranean on the R/V Eastward with my two principal teachers: Maria Bianca Cita (top row, third from right) and Bill Ryan (bottom row, third from left; Barcelona, summer 1978).
 From Alberto Malinverno (http://www.ldeo.columbia.edu/~alberto/research.html)

  (旧暦2月30日)
 
  新生代(21)— ザンクレアン大洪水(1)のつづき
  
 イタリアの女性地質学者Maria Bianca Cita(1924〜)によって、1972年に提唱されたザンクレアン洪水については、乾燥して干上がった地中海盆地への大西洋からの海水流入の状況については諸説あるものの、多くの論文がこの説を裏付けています。

  The Zanclean Flood: Refilling the Mediterranean

  地中海を再び満たしたザンクレアン洪水

  13 July 2012 by kuschk
 (http://basementgeographer.com/the-zanclean-flood-refilling-the-mediterranean/


  
  While the Mediterranean Sea is one of the cradles of ancient human civilisation, the water body is rather young geologically, approximately 5.33 million years old. Researchers have found that this figure marks the date of the Zanclean flood, an epic breach of the Strait of Gibraltar that turned the desiccated Mediterranean basin into a sprawling arm of the Atlantic Ocean in a matter of a few months to perhaps two years. To understand how the Mediterranean filled, one must travel back much further than 5.33 million years ago, however.


 地中海が古代文明の揺籃の地のひとつであるとしても、水域はおよそ533万年と地質学的にはむしろ若い。研究者達は、この形状がザンクラ期洪水の年代を示すことを発見した。ジブラルタル海峡の壮大な裂け目が、数ヶ月からだいたい2年のうちに、乾燥した地中海海盆を大西洋が手足を伸ばした腕に変えた。地中海がどのように満たされたかについて理解するためには、人は533万年より過去に旅しなければならない。


  The Mediterranean Sea is the descendant of the ancient Tethys Ocean, the ocean that separated the Eurasian continent to the north from Africa, Arabia, and India to the south. Formed in the aftermath of the breakup of Pangaea, the Tethys emerged 150 million years ago as the north/northeasterly movement of Africa, Arabia, and India began pinching off a portion of the great Panthalassic Ocean that covered most of the planet at this time (the rest of Panthalassa essentially became the Pacific Ocean).


  地中海は古テーティス海の名残で、テーティス海は、ユーラシア大陸を北に、アフリカ、アラビア、インドを南に切り離した海である。パンゲア大陸の分裂直後に作られたテーティス海は、アフリカ、アラビア、インドの北/北東への移動が、当時地球の大部分をおおった大きなパンサラッサ海の一部を離れて締めつけ始めたので(残りのパンサラッサ海は、基本的に太平洋となった)、1億5000万年前に出現した。


 

 The Earth, 90 million years ago. The Tethys is the large body of water lying in between Europe, Asia, Africa, and India. Source: Dr. R. Blakey,   http://jan.ucc.nau.edu/~rcb7/mollglobe.html. Licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported licence.



  Tethys would progressively shrink as Africa, Arabia, and India pushed northward. By about 20 million years ago, the Tethys had been reduced to a set of channels connecting the Atlantic Ocean with the Indian Ocean (one branch went through the area of the modern Persian Gulf; the other branch, the Paratethys, extended through the areas of the Black, Caspian, and Aral seas, all of which are remnants of the old Tethys basin). India and Arabia would collide into Asia, closing the north channel around 10-15 million years ago, trapping the Black and Caspian Seas, and closing the Persian Gulf. This left a single oceanic outlet to the Atlantic via the Strait of Gibraltar separating modern Spain from Morocco. What was left of Tethys was now a proto-Mediterranean Sea.


  アフリカ、アラビア、インドが北に押したので、テーティス海は次第に縮小する。およそ2000万年前に、テーティス海は大西洋をインド洋とつなぐ一組の海峡に縮小された。(ひとつの支流は、現代のペルシャ湾の地域を通り抜け、他の支流は、テーティス亜海として、黒海、カスピ海、アラル海の地域に広がり、それらは全て古テーティス海盆の遺物である。)
  インドとアラビアはアジアに衝突し、およそ1000万~1500万年前に北側の海峡を閉鎖して、黒海とカスピ海を閉じ込め、ペルシャ湾を封鎖した。これは、現代のスペインをモロッコから切り離しているジブラルタル海峡を経由して、大西洋に一つの大洋のはけ口を残した。テチス海の左側であった海域は、現在の初期地中海であった。


 

 Paleogeography of the Tethys ocean in the Rupelian age (33.9-28.4million years ago). Black lines indicate present day coastlines.
 Rögl, F.; 1999: Mediterranean and Paratethys. Facts and hypotheses of an Oligocene to Miocene paleogeography (Short Overview), Geologica Carpathica 50(4), p. 339– 349.
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:14Comments(0)新生代

2014年03月26日

新生代(21)— 新世紀(10)ーザンクレアン大洪水(1)

 

 ザンクレアン洪水時の地中海のイメージ図

  (旧暦2月26日)

  犀星忌

  金沢生まれの詩人、小説家、室生犀星の昭和37年(1962)の忌日。
  私生児として生まれ、すぐに養子に出された。実父に捨てられた悲しみや劣等感を胸に抱き締めつつ、反抗的な少年として成長していったことは、犀星の文学に深い影響を与えたとされている。

 


  夏の日の 匹婦の腹に生まれけり        『犀星発句集』(1943年)

  小景異情(その二)
  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
  帰るところにあるまじや

  ひとり都のゆふぐれに

  ふるさとおもひ涙ぐむ
 
  そのこころもて

  遠きみやこにかへらばや

  遠きみやこにかへらばや


  鐵幹忌

  歌人、慶應義塾大学文学部教授、鐵幹與謝野寛の昭和10年(1935)の忌日。
  明治33年(1900)4月、月刊文芸誌「明星」を創刊。当時無名の若手歌人であった鳳晶子の類まれな才能を見ぬいて、晶子の歌集『みだれ髪』の作成を支援し、明治34年(1901)8月、『みだれ髪』を刊行。

 

  昭和7年(1932)、第一次上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たした。
 
  作曲 陸軍戸山学校軍楽隊
      楽長  辻順治
      楽長補 大沼哲
  一、
  廟行鎮の敵の陣

  我の友隊すでに攻む

  折から凍る如月の

  二十二日の午前五時
  (以下略)


  楽聖忌

  1827年、楽聖(der große Musiker)と呼ばれたドイツの作曲家ベートーベンがウィーンの自宅で亡くなった日。

   
 
  Portrait of Beethoven as a young man by Carl Traugott Riedel (1769–1832)
  
   Er fühlt sein Ende, denn gestern sagte er mir und Breuning: Plaudite amici, comoedia finita est. (p. 392)


   彼は終焉の近いことに気づいています。というのは、昨日、私とブロイニングに Plaudite amici, Comoedia finita est. (喝采せよ友よ、喜劇は終つた)と語つたからです。

   Schindler, Anton. Biographie von Ludwig van Beethoven. Leipzig : P. Reclam, 1970 (Universal-Bibliothek ; Bd. 496)





  地質時代(Geological age)とは、約46億年前の地球の誕生から、数千年前の記録の残っている時代より前までの期間であると定義されています。

  区分の仕方は、古い方から冥王代(Hadean eon)、始生代(Archean eon)、原生代(Proterozoic)、顕生代(Phanerozoic eon)の4つの累代(eon)、さらには細かく代(era)、紀(period)、世(epoch)、期(age)と分類されています。これらの区分は化石帯区分(Calcareous nannofossil zones of the Quaternary)と呼ばれ、地層や化石の研究から導きだされたものですが、これらの時代区分は動物化石を基に分類されているので、植物相の変異とは必ずしも一致していません。

  地質年代学(Geochronology)で定義する累代、代、紀、世、期に相応する地層は、地層のできた順序を研究する層序学(stratigraphy)では累界(eonothem)、界(erathem)、系(system)、統(series)、階(stage)と呼び、地質年代学で言う前期(early)、中期(middle)、後期(late)に対しては下部(lower)、中部(middle)、上部(upper)と呼んでいます。

 
   この時代区分の定義、名称や基底年代等に関しては絶えず見直されており、また合意に至っていないものも多々あります。これらは国際地質科学連合(IUGS)、 国際第四紀学連合(INQUA)、 国際層序委員会(ICS)等で検討され、4年ごとに開催される万国地質学会議(International Geological Congress)で批准されてきています。

   まったく、私どもが学んできた名称、例えば「第三紀」(Tertiary)という呼称も、現在では国際地質科学連合(IUGS)は「非公式用語」に位置づけているようです。
   この言葉の語源は、18世紀中頃にイタリアの地質学者ジョヴァンニ・アルドゥイノ(Giovanni Arduino、1714〜1795)が、イタリアの南アルプスの地層やそこに含まれる化石の分類から、地質時代を3つの時代区分に定義したことによります。
  face03第一紀(Primario)は化石の出ない時代。
  face05第二紀(Secondario)は化石が出るが現生生物とは遙かに異なる時代。
  face08第三紀(Terziarioo)は現生生物に近い生物の化石が出る時代、後に第三紀は分割されて第四紀(Quaternaio)が追加された。


   現在では、「第四紀」(Quaternary)のみが公式用語であり、日本語では「第三紀」が「古第三紀」と「新第三紀」に分割されて名残を留めていますが、英語ではTertiary(第三紀)は、Paleogene(旧世紀)とNeogene(新世紀)が公式用語になっています。

   さて、およそ600万年前の新生代中新世末期のメッシーナ期(Messinian、724万6千年前〜533万2千年前)に、地殻変動が進行してジブラルタル海峡が閉鎖され、地中海が一時的に太平洋から分離された時期があったことは、以前、本ブログに掲載しました。
 新生代(20)−新第三紀(9)−メッシニアン塩分危機 (2012年12月11日)

  この間に地中海は何度か干上がって、厚さ最大3㎞もの岩塩堆積層が形成され、その後、約550万年前には、地中海は完全に孤立して塩の砂漠となってしまいました。しかし、次のザンクラ期(Zanclean、533万2千年前〜360万年前)になると、大西洋からの海水の流入により、地中海は現在の状況になったとされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:09Comments(0)新生代

2014年03月21日

クラシック(25)— ヘンデル(1)— ユダス・マカベウス

 

 

  George Frideric Handel, born in 1685, the same year as Johann Sebastian Bach and Domenico Scarlatti. By Balthasar Denner (c. 1726–1728)

 (旧暦2月21日)


  和泉式部忌


 

  菊池容斎『前賢故実』より
 
  平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人、和泉式部の忌日。
  生没年は不詳だが、摂政太政大臣藤原道長(966〜1028)が、むすめの上東門院彰子(988〜1074)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが起源とされる華嶽山東北寺誠心院に墓所があり、毎年3月21日に法要が営まれるている。
  父である越前守大江雅致(まさむね)の式部省の官名から「式部」(一説には養女)、夫であった橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれたとされる。

  恋愛を詠んだ秀歌が多い反面、その恋愛遍歴から、藤原道長からは「うかれめ」と揶揄され、紫式部からは「和泉はけしからぬ方こそあれ」と評されている。

  和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず
  『紫式部日記』


  『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)があり、勅撰二十一代集に二百四十五首を入集している。


  御影供


 

  『風信帖』(第1通目)空海筆 

 真言宗の開祖、弘法大師空海が承和二年(835)に、高野山奥の院で入寂したとされる日。

  《承和二年(八三五)三月丙寅【廿一】》
  丙寅。大僧都傳燈大法師位空海終于紀伊國禪居。

  《承和二年(八三五)三月庚午【廿五】》
  庚午。勅遣内舍人一人。弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。眞言洪匠。  
  密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崦○未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。
  弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。
  悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴
  奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下
  阿刀宿禰大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有一沙門。呈示虚空藏聞持法。其經
  説。若人依法。讀此眞言一百萬遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。
  望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來影。
  自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
  與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。
  禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之
  化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化
  去之時年六十三。
   『續日本後紀』 卷第四


  米国アナポリスの海軍兵学校では、卒業式のあと、少尉候補生の制服姿になった未来のアドミラルたちが、三々五々、恋人といっしょに、ラヴ・レインという校内の森の小径に消えて行くそうだが、江田島ではそういう風習はない。しかし、恩賜の短剣を受ける時には、一人々々、ヘンデルの歓喜の合唱曲、「ユダス・マカベウス」が奏せられ、ちょっと日本ばなれした荘厳で美しい式典である。
  『軍艦長門の生涯』 阿川弘之
 


  「ユダス・マカベウス」(Judas Maccabaeus)は、バロック期を代表する重要な作曲家の一人とされている、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel,1685〜1759)のオラトリオ(聖譚曲)HWV(Händel-Werke-Verzeichnis)63の題名です。

  初演は1747年4月1日、ロンドンのコヴェント・ガーデン(王立歌劇場)で、同じくヘンデルのオラトリオ、メサイア (Messiah)HWV56 に次いで人気の高いオラトリオです。
  ここで阿川弘之氏が云う合唱曲「ユダス・マカベウス」とは、オラトリオ「ユダス・マカベウス」の第3幕で歌われる「見よ、勇者は還りぬ」の合唱曲のことだと思われます。
 
 
  CHORUS OF YOUTHS
  See the conqu’ring hero comes,

  Sound the trumpets, beat the drums,
  Sports prepare, the Laurel bring,

  Songs of triumph to him sing.


  見よ、勇者は還りぬ
  吹けや角笛、叩けや太鼓
  備えよスポーツ(競技)、ローレル(月桂樹)かざし
  勝利の歌を勇者に歌え
 


  CHORUS OF VIRGINS
  See the godlike youth advance!
  Breathe the flutes, and lead the dance;
  Myrtle wreath, and roses twine,
  To deck the hero's brow divine.


  見よ、神のごとき若者の進むを!
  吹けや横笛、ダンスを導け
  マートル(銀梅花)の花輪、バラの小束
  神々しい 勇者の額を飾るため

  
  CHORUS
  See, the conqu'ring hero comes!
  Sound the trumpets, beat the drums.
  Sports prepare, the laurel bring,
  Songs of triumph to him sing.


  見よ、勇者は還りぬ
  吹けや角笛、叩けや太鼓
  備えよスポーツ、ローレル(月桂樹)かざし
  勝利の歌を勇者に歌え

  (嘉穂のフーケモン拙訳)



  この曲は、日本では表彰式におけるBGMとして流されるメロディとしてよく知られていますが、そのルーツは旧帝国海軍にあったのでしょうかねえ。

  Originally composed as 'Chor der Jünglinge' (Text: 'See the conqu'ring hero comes') in the 3rd movement of the Oratoriums Josua, Händel later inserted this choir also into 'Judas Maccabäus'. 




  もともと、オラトリア「ヨシュア」の第3幕の「青年の合唱」(本文:「見よ、勇者は還りぬ」)として作曲されましたが、ヘンデルは後にこの合唱を「ユダス・マカベウス」の中にも入れました。


  Around 1820, Johann Joachim Eschenburg (other sources attribute it to Friedrich Heinrich Ranke) added the text 'Tochter Zion, freue dich' and turned the song into an advent carol. Currently, it belongs to the most well-known and most often sung Christmas songs in the German-speaking countries."


  1820年頃、ヨハン・ヨハイム・エッシェンブルク(1743〜1820)[一説にはフリードリッヒ・ハインリヒ・ランケ(1798〜1876)の作とも]が「喜べ、シオンの娘よ」の本文を追加して、降誕祭の祝歌にしました。現在では、ドイツ語圏では最もよく知られ、最もよく歌われるクリスマス・ソングとなっています。


  An Easter hymn was later written in French to the same tune by the Swiss Edmond L. Budry and was translated from French to English by Richard B. Hoyle (1875〜1939) in 1923.


  復活祭の賛美歌は、後にスイスのエドモンド・ルイス・バドリー(1854〜1932)によって同じ調べでフランス語で書かれ、リチャード・B・ホーリーによって1923年に英語に翻訳されました。

  

  Tochter Zion, freue dich                  Daughter of Zion, Rejoice
  Christmas Carol                               Christmas Carol
  (German)                                        (English)

  Tochter Zion, freue dich!                 Daughter of Zion, rejoice!
  Jauchze, laut, Jerusalem!                Cheer loudly, O Jerusalem!
  Sieh, dein König kommt zu dir,        Behold, your King comes to you,
  Ja er kommt, der Friedenfürst.        Yea, he is the Prince of Peace.
  Tochter Zion, freue dich!                 Daughter of Zion, Rejoice!
  Jauchze, laut, Jerusalem!                Cheer loudly, O Jerusalem!



  喜べ シオンの娘よ
  喜びの声をあげよ エルサレムよ 
  見よ お前の王が今し来たる
 
  そうだ 平和の君が今し来たる
  喜べ シオンの娘よ
  喜びの声をあげよ エルサレムよ


  Hosianna, Davids Sohn,                   Hosanna to the Son of David,
  Sei gesegnet deinem Volk!              Blessed be thy people!
  Gründe nun dein ewig Reich!           Thy eternal Kingdom comes,
  Hosianna in der Höh'!                       Hosanna in the Highest!
  Hosianna, Davids Sohn,                    Hosanna the Son of David,
  Sei gesegnet deinem Volk!              Blessed be thy people!


 
  万歳(ホサナ) ダヴィデの子 
  その民にも祝福を!

  今や お前の永遠の王国を建てよ 
  万歳(ホサナ) いと高きところに 
  万歳(ホサナ) ダヴィデの子 
  その民にも祝福を!

 



  Hosianna, Davids Sohn,                   Hosanna to the Son of David,
  Sei gegrüßet, König mild!                Be welcome, gentle King!
  Ewig steht dein Friedensthron,       Peace is your Throne forever,
  Du, des ew'gen Vaters Kind!           You, the Father's only Son.
  Hosianna, Davids Sohn,                   Hosanna to the Son of David,
  Sei gegrüßet, König mild!                Be welcome, gentle King!

  
  万歳(ホサナ) ダヴィデの子 
  喜び迎えよ やさしき王を!
 
  平和は お前の永遠の王座 
  君よ 永遠の神の子よ!
 
  万歳(ホサナ) ダヴィデの息子 
  喜び迎えよ やさしき王を!

  (嘉穂のフーケモン拙訳)


 「ユダス・マカベウス」は、1746年にスコットランドで起きた名誉革命の反革命勢力ジャコバイトによるグレートブリテン王国に対する最後の組織的抵抗を鎮圧した指揮官カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス(William Augustus, Duke of Cumberland、1721〜1765)が、スコットランドから帰還するのを祝って計画されたものです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:35Comments(0)音楽/クラッシック

2014年03月16日

書(21)— 文徴明— 後赤壁賦

 
 
 赤壁賦   文徴明   巻  28.7cmx464.5cm

  (旧暦2月16日)
 
  明代中期に活躍した文人の文徴明(1470〜1559)は、詩・書・画に巧みで三絶と称され、画においては「南宋文人画中興の祖」として呉派文人画の領袖である沈周(1427〜1509)の後を継ぎ、沈周・唐寅(1470〜1523)・仇英(1494?〜1552)とともに明代四大家に加えられています。
 
  蘇州は明代(1368〜1644)にもっとも文化が進み、文芸界の中心をなしていました。元代(1271〜1368)における江南文化の中心地は杭州でしたが、それが蘇州に移る機縁となったのは、元末に蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇った張士誠(1321〜1367)の文教政策であり、文芸を好み側近に文人を集めたので、明の太祖朱元璋(1328〜1398)に滅ぼされたのちも、蘇州には多くの文人が残っていました。

  さて、この文徴明、子どもの時は発育が遅く、八、九歳になっても言語が不明瞭だったといわれ、書も下手でしたが、不断の努力によりその才能を磨いていきました。
  父、文林の友人で当代一流の士である、吳寬(1435~1504)に文を、李應禎(1431〜1493)に書を、沈周(1427〜1509)に画を学び、また、祝允明(1460〜1526)、唐寅(1470〜1523)、徐禎卿(1479〜1511)らの同輩と切磋琢磨して努力し、蘇州府学の学生だったときには、一日に千字文十本を臨書するのを日課としたと伝えられています。

  その書については、次子の文嘉が残した『先君行略』(「甫田集」巻末)に、

  父の書は大変な労力を費やして臨書を重ねた結果、体得されたものである。初めは宋元の名蹟を習ったが、その筆意を悟るとことごとくこれを棄て去り、もっぱら晋唐の書を手本とした。その小楷は王羲之の黄庭経や楽毅論の中からきたもので、温純精絶なること、虞世南や褚遂良以後の書は問題にならない。隷書は鐘繇を手本として、一世に独歩した。(後略)


  
  於書遂刻意臨學始。亦䂓模宋元之撰、既悟筆意遂悉棄去専法晉唐。其小楷雖自黃庭樂毅中來而温純精絶虞褚而下弗論也。隷書法鐘繇、獨歩一世。(後略)
  欽定四庫全書 集部六 别集類 甫田集巻三十六 附録 『先君行畧』

 
と記されています。

 

  『先君行畧』


  文徵明、長洲(江蘇省呉縣)の人、初め名は璧、以て字(あざな)を行じ、更に字は徵仲、別に衡山と號す。父は林、溫州(浙江省温州)知府たり。叔父は森、右僉都御史たり。林、卒するに、吏民、賻(おく)る為に千金を醵(あつ)む。徵明、年十六(明史の誤り、実際は年三十)、悉く之を卻(しりぞ)く。吏民、故に卻金亭を修(おさ)め、以て前守何文淵に配し、而して其事を記す。

 徴明、幼にして慧(さと)らず、稍(やや)長じて、穎異挺發(卓出)たり。文を吳寬に學び、書を李應禎に學び、畫を沈周に學ぶ、皆、父の友也。又、祝允明、唐寅、徐禎卿の輩(ともがら)と相ひ切劘(切磋琢磨)し、名は日に著しく益す。其の人となりは和して介(たす)く。巡撫兪諫、之に金を遺(おく)るを欲し、衣する處の藍衫(単衣の下着)を指し、謂ひて曰く、「敝(やぶ)ること此に至るや」と。徵明、佯(やう、理解できぬさま)として喩(さと)らず、曰く、「雨に遭ふて敝(おほ)ふのみ」と。諫、竟(つひ)に敢へて金を遺(おく)る事を言はず。寧王宸濠、其の名を慕ひ、書幣を貽(おく)り之を聘すも、病と辭して赴かず。

 正德の末、巡撫李充嗣、之を薦し、會(たまたま)徵明亦た歲貢生を以て吏部試に詣づ、翰林院待詔(皇帝侍従)を奏授す。世宗立つや、『武宗實錄』の修(編修)に預り、經筵(皇帝侍講)に侍し、歲時(四季折々)頒(はん、品物)を賜ふ、諸詞臣と齒(し、交際)す。而し是の時、專ら尚(なほ)科(科挙)を目ざすも、徵明、意、自(おの)づから得ず、連歲(毎年)歸(帰郷)を乞ふ。

 是に先し、林の溫州知(知府)のとき、諸生中に張璁を識る。璁、既に勢を得、明(徵明)をして之に附き征くを諷(さと)すも、辭して就かず。楊一清、輔政に入るに召すを、徵明、獨り後に見(まみ)ゆ。一清、亟(すみ)やかに謂ひて曰く、「子は我と翁の友たるを知らずや」と。徵明、色を正して曰く、「先君棄(き)して不肖三十餘年、苟も一字を以て及ぶ者は、敢へて忘れず、實に相公と先君の友たるを知らざるな也」と。一清、慚色有り、尋(つ)いで璁と謀り、徵明の官を徙(むなしくする)を欲す。徵明、歸るを乞ふを益(ますます)力(つと)む、乃ち致仕(引退)を獲(う)。

 四方、詩文書畫を乞ふ者は、道に踵(くびす)を接す、而して富貴の人、片楮(一片の書)を得ること易からず、尤もあへて王府及中人(宮中)に與へず、曰く、「此れ法の禁する處なり」と。徽(徽州)の周りの諸王、寶玩を以て為に贈るを、封を啓(ひら)かず而して之を還す。外國の使者、呉門(呉派の徴明の門前)に道し、里(やしき)を望みて肅拜し、以て見(まみ)ゆるを獲ざる為に恨む。

 文筆天下に遍き、門下の士の贗作する者頗る多し、徵明、亦禁ぜず。嘉靖三十八年(1559)卒す、年九十矣。長子彭、字は壽承、國子博士たり。次子嘉、字は休承、和州(安徽省)の學正たり。並に詩、工書、畫、篆刻を能くし、其家世(よよに)す。彭の孫震孟、自ら傳有り。
 『明史』 卷二百八十七  列傳第一百七十五  文苑三 文徴明
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 北宋の元豐二年(1079)八月十八日、王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ新法党の御使の讒言を受けて、湖州(浙江省呉興県)知事を解任され御史台の獄に下った蘇軾(1036~1101)は、拘禁百日におよび死に処せられんとするも第六代皇帝神宗(在位1067~1085)の憐れみにより、同年十二月二十九日、検校尚書水部員外郎を授けられ、黃州團練副使に充てられて、黃州(湖北省武昌東南60Kmの長江左岸)に左遷されます。
 名目だけの地方官職を与えて、新法党の刃から逃したとされています。

 蘇軾が黃州に到着したのは、元豐三年(1080)二月一日のことでした。

  蘇軾至黃州、初居定惠禪寺、後移居臨皋亭。在今湖北省黃岡縣南大江濱。

 
  東坡、謫(たく)せられて黃に居ること三年、州の太守馬正卿と云ふ者、地數十畝を以て東坡に與ふ。東坡、大雪中に室を築き、名づけて雪堂と曰ひ、雪を其堂壁に畫く。
   『漢籍國字解全書』第二六巻「正文章軌範」


  五年春、築草廬而居、名曰雪堂、蓋於大雪之中為之、因圖雪景於四壁、自書「東坡雪堂」四字於堂上、自稱東坡居士。故址在今湖北省黃岡縣東。


  
  元豐五年(1082)七月、赤壁に遊び、賦を作る。十月復び游ぶ、又賦あり、此れは再游の時の賦なり、故に後赤壁賦と曰ふ。


 賦は、戦国時代の末に楚(? ~ B.C.223、河北、湖南省あたりを領土とした国)の詩人屈原(B.C.343~B.C.278)が残した韻文である楚辞の流れを汲んで、漢代の文学に中心的な地位を占めるまでに完成した、一つの文学形式です。
 賦とは、誦(しょう)、つまり朗誦する文学のことですが、賦は、いろいろの事物を並べたて、さまざまな角度からそれを描きあげていきます。

 また、蘇軾が客と舟を浮かべてこの「赤壁の賦」を詠んだ場所は、黃州の東北にあった赤鼻磯で、実際の古戦場ではなかったのですが、晩唐の詩人杜牧(803~853)が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の「赤壁の賦」によって、実際の古戦場以上に有名になってしまったとのことです。
 そのためこの地は、「文赤壁」あるいは「東坡赤壁」と呼ばれるようになりましたが、残念ながら、東坡赤壁は長江の流れが変遷したために、現在は長江には面しておらず、赤鼻山と呼ばれているそうです。  続きを読む

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2014年03月09日

やまとうた(30)− 雪のうちに春はきにけりうぐひすの

 
 snowdrop

 (旧暦2月9日)

  二条のきさきの春のはじめの御うた
 雪のうちに春はきにけりうぐひすの こほれる泪いまやとくらむ
                                                       古今集  巻一 春歌上 4


 半年あまり、文章を書く気もおこらず、「板橋村だより」をほっぽらかしにしておりましたが、プレッシャーのかかる仕事もひと段落し、啓蟄(3月6日ごろ)も過ぎたので、そろそろ、穴から出て行きましょうかな。

 昨年の今頃は、日本海を低気圧が通過して猛烈な南風が吹き荒れる日がよくありましたが、今年も異常な大雪が2週連続で関東地方を大混乱に陥れ、いやはや、このところの春の到来も、なかなかやっかいなものではごわさんか。

 イギリスでも3月には、時を定めず猛烈な風が吹いて、それを“ March winds”と呼んでいると、以前、「板橋村だより」に書きましたが、長い冬が次第に遠のいていく気配が感じられるのもこの時期で、春を告げる花として知られるsnowdropというヒガンバナ科ガランサス属の野生の花が山辺に咲き出します。
 

  Like an army defeated 

  The snow hath retreated,
  And now doth fare ill
  On the top of the bare hill;
  The Plowboy is whooping- anon-anon:
  There's joy in the mountains; 

  There's life in the fountains; 

  Small clouds are sailing,
  Blue sky prevailing; 

  The rain is over and gone!
  —William Wordsworth : ‘Written in March’

 

  敗北した軍隊のように
  雪は退き去って、
  今は裸の丘の頂きに
  不運をかこっている。
  農夫の子どもはときどき喚声ををあげる。
  山には喜びがあり、
  泉には生気があり、
  小さな雲はなめらかに流れ、
  青空は広がり、
  雨は止んで去っていく。
  ウイリアム・ワーズワース 「3月に寄せて」
  (嘉穂のフーケモン 拙訳)


  さて、冒頭の歌を詠んだ第56代清和天皇(在位858〜876)の女御、二条后藤原高子(たかいこ)は多情をもって世に知られていた人でした。

 face02 そのひとつは、清和天皇崩御の後の寛平八年(896)、自らが建立した東光寺の座主善祐と密通したとされて后位を剥奪されたという事件です。

 
  寛平八年 
  九月廿二日 陽成太上天皇之母儀皇太后藤原高子、與東光寺善祐法師、竊交通云云。仍廢后位。至于善祐法師、配流伊豆講師。
  『扶桑略記』 第廿二

  寛平八年丙辰
  廿二日庚子、停廢皇大后藤原朝臣高子。清和后、陽成院母儀。事秘不知。
  廿三日辛丑、廢皇大后之由、申諸社。按、以疑通東光寺座主善祐事。天慶六年、復號。
  『日本紀略』 前篇二十 宇多天皇

 高子五十五歳の年に当たるゆえに老齢に過ぎるのではないかという説もあるそうですが、そこは男女の仲、プラトニックラブというものもあり、また、王朝の頃は老女の恋愛は珍しくはなかったとのこと。真相は闇の中ということで・・・。

 face03ふたつには、伊勢物語に記された、入内前における在原業平との艶聞です。
 
 
  第三段 ひじき藻
  むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもいふ物をやるとて、

 
  
  思ひあらば葎(むぐら:雑草)の宿に寝もしなん ひじきものには袖をしつゝも


 
  二条の后のまだ帝にも仕うまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時のこと也。


 

 
  第五段 関守
  むかし、をとこありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじききつけて、その通ひ路に、夜ごと人をすゑてまもらせければ、いけどもえ逢はで帰りけり。さてよめる。


 
  人知れぬわが通ひ路の関守は よひよひごとにうちも寝ななむ



とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。


 
  二条の后に忍びてまゐりけるを、世の聞こえありければ、せうとたちのまもらせ給ひけるとぞ。


 
  二条の后のもとに、人目を忍んで参上していたのを、世間の評判というものがあったので、后の兄君達が、人々に守らせたということである。


 


 
  第六段 芥川
  むかし、をとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡籙(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。


 
  白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消えなましものを

 
  これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。


 
  これは二条の后(高子)が、従姉の女御のお側にお仕えするというかたちで住んでおられたのを、容貌が全く美しくおありになられたので、業平が密かに連れ出して、背負いて逃げたのを、高子の兄君の堀河の大臣基経と太郎国経の大納言が、まだその頃は、官位がそれほどでもなく、たまたま宮中に参内される折、ひどく泣いている人がいるのを聞きつけて、牛車を止めて妹の高子を取り返されたのである。それを鬼と言うのであった。二条の后がまだ若く、ふつうの人であられた時のとこだとか。


 

  伊勢物語各段の附記は、いづれも後人の書入れで、注釈が本文に混じったものと推定されています。まあ、その時代には、在原業平と二条后についてこういう噂があったというくらいのことで、当時の人が、二条后を業平と契りを結ぶにふさわしい高貴で華麗な女性と見ていたであろうとは、一昨年に鬼籍に入られた丸谷才一氏の評です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:52Comments(0)やまとうた