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2014年03月16日

書(21)— 文徴明— 後赤壁賦

 
 
 赤壁賦   文徴明   巻  28.7cmx464.5cm

  (旧暦2月16日)
 
  明代中期に活躍した文人の文徴明(1470〜1559)は、詩・書・画に巧みで三絶と称され、画においては「南宋文人画中興の祖」として呉派文人画の領袖である沈周(1427〜1509)の後を継ぎ、沈周・唐寅(1470〜1523)・仇英(1494?〜1552)とともに明代四大家に加えられています。
 
  蘇州は明代(1368〜1644)にもっとも文化が進み、文芸界の中心をなしていました。元代(1271〜1368)における江南文化の中心地は杭州でしたが、それが蘇州に移る機縁となったのは、元末に蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇った張士誠(1321〜1367)の文教政策であり、文芸を好み側近に文人を集めたので、明の太祖朱元璋(1328〜1398)に滅ぼされたのちも、蘇州には多くの文人が残っていました。

  さて、この文徴明、子どもの時は発育が遅く、八、九歳になっても言語が不明瞭だったといわれ、書も下手でしたが、不断の努力によりその才能を磨いていきました。
  父、文林の友人で当代一流の士である、吳寬(1435~1504)に文を、李應禎(1431〜1493)に書を、沈周(1427〜1509)に画を学び、また、祝允明(1460〜1526)、唐寅(1470〜1523)、徐禎卿(1479〜1511)らの同輩と切磋琢磨して努力し、蘇州府学の学生だったときには、一日に千字文十本を臨書するのを日課としたと伝えられています。

  その書については、次子の文嘉が残した『先君行略』(「甫田集」巻末)に、

  父の書は大変な労力を費やして臨書を重ねた結果、体得されたものである。初めは宋元の名蹟を習ったが、その筆意を悟るとことごとくこれを棄て去り、もっぱら晋唐の書を手本とした。その小楷は王羲之の黄庭経や楽毅論の中からきたもので、温純精絶なること、虞世南や褚遂良以後の書は問題にならない。隷書は鐘繇を手本として、一世に独歩した。(後略)


  
  於書遂刻意臨學始。亦䂓模宋元之撰、既悟筆意遂悉棄去専法晉唐。其小楷雖自黃庭樂毅中來而温純精絶虞褚而下弗論也。隷書法鐘繇、獨歩一世。(後略)
  欽定四庫全書 集部六 别集類 甫田集巻三十六 附録 『先君行畧』

 
と記されています。

 

  『先君行畧』


  文徵明、長洲(江蘇省呉縣)の人、初め名は璧、以て字(あざな)を行じ、更に字は徵仲、別に衡山と號す。父は林、溫州(浙江省温州)知府たり。叔父は森、右僉都御史たり。林、卒するに、吏民、賻(おく)る為に千金を醵(あつ)む。徵明、年十六(明史の誤り、実際は年三十)、悉く之を卻(しりぞ)く。吏民、故に卻金亭を修(おさ)め、以て前守何文淵に配し、而して其事を記す。

 徴明、幼にして慧(さと)らず、稍(やや)長じて、穎異挺發(卓出)たり。文を吳寬に學び、書を李應禎に學び、畫を沈周に學ぶ、皆、父の友也。又、祝允明、唐寅、徐禎卿の輩(ともがら)と相ひ切劘(切磋琢磨)し、名は日に著しく益す。其の人となりは和して介(たす)く。巡撫兪諫、之に金を遺(おく)るを欲し、衣する處の藍衫(単衣の下着)を指し、謂ひて曰く、「敝(やぶ)ること此に至るや」と。徵明、佯(やう、理解できぬさま)として喩(さと)らず、曰く、「雨に遭ふて敝(おほ)ふのみ」と。諫、竟(つひ)に敢へて金を遺(おく)る事を言はず。寧王宸濠、其の名を慕ひ、書幣を貽(おく)り之を聘すも、病と辭して赴かず。

 正德の末、巡撫李充嗣、之を薦し、會(たまたま)徵明亦た歲貢生を以て吏部試に詣づ、翰林院待詔(皇帝侍従)を奏授す。世宗立つや、『武宗實錄』の修(編修)に預り、經筵(皇帝侍講)に侍し、歲時(四季折々)頒(はん、品物)を賜ふ、諸詞臣と齒(し、交際)す。而し是の時、專ら尚(なほ)科(科挙)を目ざすも、徵明、意、自(おの)づから得ず、連歲(毎年)歸(帰郷)を乞ふ。

 是に先し、林の溫州知(知府)のとき、諸生中に張璁を識る。璁、既に勢を得、明(徵明)をして之に附き征くを諷(さと)すも、辭して就かず。楊一清、輔政に入るに召すを、徵明、獨り後に見(まみ)ゆ。一清、亟(すみ)やかに謂ひて曰く、「子は我と翁の友たるを知らずや」と。徵明、色を正して曰く、「先君棄(き)して不肖三十餘年、苟も一字を以て及ぶ者は、敢へて忘れず、實に相公と先君の友たるを知らざるな也」と。一清、慚色有り、尋(つ)いで璁と謀り、徵明の官を徙(むなしくする)を欲す。徵明、歸るを乞ふを益(ますます)力(つと)む、乃ち致仕(引退)を獲(う)。

 四方、詩文書畫を乞ふ者は、道に踵(くびす)を接す、而して富貴の人、片楮(一片の書)を得ること易からず、尤もあへて王府及中人(宮中)に與へず、曰く、「此れ法の禁する處なり」と。徽(徽州)の周りの諸王、寶玩を以て為に贈るを、封を啓(ひら)かず而して之を還す。外國の使者、呉門(呉派の徴明の門前)に道し、里(やしき)を望みて肅拜し、以て見(まみ)ゆるを獲ざる為に恨む。

 文筆天下に遍き、門下の士の贗作する者頗る多し、徵明、亦禁ぜず。嘉靖三十八年(1559)卒す、年九十矣。長子彭、字は壽承、國子博士たり。次子嘉、字は休承、和州(安徽省)の學正たり。並に詩、工書、畫、篆刻を能くし、其家世(よよに)す。彭の孫震孟、自ら傳有り。
 『明史』 卷二百八十七  列傳第一百七十五  文苑三 文徴明
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 北宋の元豐二年(1079)八月十八日、王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ新法党の御使の讒言を受けて、湖州(浙江省呉興県)知事を解任され御史台の獄に下った蘇軾(1036~1101)は、拘禁百日におよび死に処せられんとするも第六代皇帝神宗(在位1067~1085)の憐れみにより、同年十二月二十九日、検校尚書水部員外郎を授けられ、黃州團練副使に充てられて、黃州(湖北省武昌東南60Kmの長江左岸)に左遷されます。
 名目だけの地方官職を与えて、新法党の刃から逃したとされています。

 蘇軾が黃州に到着したのは、元豐三年(1080)二月一日のことでした。

  蘇軾至黃州、初居定惠禪寺、後移居臨皋亭。在今湖北省黃岡縣南大江濱。

 
  東坡、謫(たく)せられて黃に居ること三年、州の太守馬正卿と云ふ者、地數十畝を以て東坡に與ふ。東坡、大雪中に室を築き、名づけて雪堂と曰ひ、雪を其堂壁に畫く。
   『漢籍國字解全書』第二六巻「正文章軌範」


  五年春、築草廬而居、名曰雪堂、蓋於大雪之中為之、因圖雪景於四壁、自書「東坡雪堂」四字於堂上、自稱東坡居士。故址在今湖北省黃岡縣東。


  
  元豐五年(1082)七月、赤壁に遊び、賦を作る。十月復び游ぶ、又賦あり、此れは再游の時の賦なり、故に後赤壁賦と曰ふ。


 賦は、戦国時代の末に楚(? ~ B.C.223、河北、湖南省あたりを領土とした国)の詩人屈原(B.C.343~B.C.278)が残した韻文である楚辞の流れを汲んで、漢代の文学に中心的な地位を占めるまでに完成した、一つの文学形式です。
 賦とは、誦(しょう)、つまり朗誦する文学のことですが、賦は、いろいろの事物を並べたて、さまざまな角度からそれを描きあげていきます。

 また、蘇軾が客と舟を浮かべてこの「赤壁の賦」を詠んだ場所は、黃州の東北にあった赤鼻磯で、実際の古戦場ではなかったのですが、晩唐の詩人杜牧(803~853)が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の「赤壁の賦」によって、実際の古戦場以上に有名になってしまったとのことです。
 そのためこの地は、「文赤壁」あるいは「東坡赤壁」と呼ばれるようになりましたが、残念ながら、東坡赤壁は長江の流れが変遷したために、現在は長江には面しておらず、赤鼻山と呼ばれているそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:37Comments(0)