さぽろぐ

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2009年08月24日

漢詩(25)-頼山陽(2)-蒙古來

 

 The samurai Suenaga facing Mongol arrows and bombs by Wikipedia.

 (旧暦  7月5日)

 蒙古來  頼山陽

 筑海颶氣連天黑       筑海(玄界灘)の颶氣(ぐき;暴風)  天に連なりて黑し
 蔽海而來者何賊       海を蔽ひて來る者は 何(いか)なる賊ぞ
 蒙古來 來自北        蒙古來る  北自り來たる
 東西次第期呑食       東西次第に  呑食を期す
 嚇得趙家老寡婦       嚇(おど)し得たり趙家(南宋の朝廷)の  老寡婦を
 持此來擬男兒國       此れを持して來り擬(ぎ)す  男兒の國
 相模太郞膽如甕       相模太郞(八代執権北条時宗)  膽(たん;肝) 甕(かめ)の如し
 防海將士人各力       防海の將士  人 各ゝ(おのおの)力(つと)む
 蒙古來 吾不怖        蒙古來る  吾は怖れず
 吾怖關東令如山       吾は怖る  關東(鎌倉幕府の)の令 山の如きを
 直前斫賊不許顧       直(ただち)に 前(すす)みて 賊を斫(き)り  顧るを許さず
 倒吾檣 登虜艦        吾が檣(ほばしら)を倒して  虜艦に登り
 擒虜將 吾軍喊        虜將を擒(とら)へて  吾が軍 喊(さけ)ぶ
 可恨東風一驅附大濤    恨む可し  東風 一驅して大濤に附し
 不使羶血盡膏日本刀    羶血(せんけつ;生臭い血)をして  盡く日本刀に膏(ちぬら)せしめざるを

 江戸後期の文人で陽明学者でもあった山陽頼襄(らいのぼる、1780~1832)は、49歳の文政11年(1828)12月、20日あまりの日数をもって国史に題材をとった樂府体(漢詩の一形式で、古体詩の一種)の詩66曲を作り、『日本樂府』と名付けました。

 この「蒙古來」は、その第35曲に載せられていますが、最初に製作したのは18、9歳の江戸遊学中の時でした。
 「肥に椿寿あり、筑に南冥あり」と呼ばれ、肥後の村井琴山(1733~1815)と並び称された筑前博多の徂徠学派の重鎮亀井南冥(1743~1814)は、豪傑で人を許さない人でありましたが、この詩にはいたく敬服し、塾の壁に掲げて塾生と供に日夜愛誦したと伝えられています。

 またこの詩は、南宋末期の忠臣、丞相信國公文天祥(1236~1282)の「正氣の歌」や江戸末期の水戸藩の藤田東湖(1806~1855)の「正氣の歌」とともに、幕末の志士に愛誦されています。

 明の崇禎11年(1638)、中国江蘇省蘇州にある承天寺の古井戸を浚(さら)ったときに、寺の僧がひとつの鐵函(てつばこ)を発見しました。
 その鐵函には錫匣(すずばこ)がはいっており、まわりに石灰が詰められ、さらに錫匣のなかには漆が塗られていました。

 内緘(内側の封印)には、

  大宋弧臣鄭思肖百拝封

とあり、外緘(外側の封印)には、

  大宋世界無窮無極
  大宋鉄函経
  徳祐九年佛生日封


とありました。

 「徳祐(とくゆう)」は南宋恭宗(きょうそう)の元号で、実際は南宋が滅亡したため2年で終わり、徳祐が九年になるのは1283年のことで、元の至元20年にあたります。

 この日付が本物ならば、鐵函は355年間も井戸の中に隠されていたことになります。
 錫匣(すずばこ)の中味は、「心史」という激烈な反モンゴル文書でした。
 蒙古支配下にあっては口にできないことを文章にして井戸に沈め、後世の人に語り伝えようとしたものでした。

 この「心史」については、昔から、本物説と贋作説があり、清代の文学者袁枚(えんばい)(随園先生1716〜1797)は贋作説を、日本の京都帝国大学東洋史学の桑原隲蔵(じつぞう)博士(1870〜1931)は本物説を唱えました。

 「心史」を著し封印した鄭思肖(ていししょう)(1239〜1316)は、福州連江(福建省)の人、始め南宋に仕えましたが元軍の南下で辞し、南宋滅亡後は改名して宋の遺臣を以って任じました。

 宋の皇室の姓「趙」から「走」を抜いて「肖」だけ残していますが、「趙氏の宋朝を思う」という意図が込められていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:04Comments(0)漢詩

2009年08月12日

陶磁器(11)-青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯)

 
 青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯)

 (旧暦  6月22日)

 龍泉窯(りゅうせんよう)が陶磁の世界に台頭してきたのは、北宋(960~1127)の後期とされています。
 もともと民窯として越州窯(えっしゅうよう;漢代から唐・五代にかけて良質の青磁を焼いた窯で、浙江省慈渓県の上林湖周辺一帯に分布する)のながれをくみ生活雑器を製造して販路を拡大していましたが、南宋(1127~1279)が紹興8年(1138)、正式に臨安府(浙江省杭州)を都と定めて移転してきたために、朝廷から直接注文が来るようになり、その後諸外国にも多数輸出されるようになりました。

 元の至治3年(1323)、寧波(浙江省)から博多に向かう途中に朝鮮半島西南海上にある道徳島沖で遭難、沈没した大型交易船が1976年に発掘され(新安沈没船)、約1万点にも及ぶ龍泉窯青磁が引き上げられていますが、龍泉窯青磁が南宋期だけではなく元代にも製造されていたことの証拠にもなっています。

 龍泉窯の釉薬の色は青緑色を帯び、高台の素地は赤く焦げることが多く、また装飾では、蓮弁は先が丸くなり、各弁は櫛目で空間を埋める略体描法が目立つという特色があります。
 梅子青(ばいしせい)、葱翠青(そうすいせい)と呼ばれる龍泉窯の青磁の色は、古来から中国で尊ばれてきた古玉に例えられています。

 南宋の蒋祈(生没年不明)の表した世界最古の陶磁器生産の専門書『陶記』によると、宋代の定窯の「紅磁」、景徳鎮窯の「饒玉」(饒州景徳鎮で焼かれた玉のごとき白磁)、龍泉窯の「青秘」を宋磁の三絶としていますが、この青秘こそが日本において珍重される「砧青磁」とよばれる澄んだ青みをたたえた青磁をさしているものと考えられています

 この砧青磁の色の秘密は釉薬にあります。
 青磁は鉄の呈色であり、釉に鉄分を含んだ雲母が混ざっていて、酸欠状態で窯をたくと酸化鉄が還元されて微妙な青を発色させ、また、長石の含有量が多いために焼成によってできる細かい気泡が光を乱反射させて、深みのある落ち着いた色合いをつくるのだと云われています。

 碧玉に近い気韻縹渺(きいんひょうびょう)たる釉色は、宋代官窯青磁とともに中国青磁史に残る卓越した存在として、今日まで不動の評価を保っています。

 さて、砧青磁の語源は、ある鯱耳(しゃちみみ)の花生(はないけ)にヒビがあり、これを砧(きぬた;布を槌で打って柔らかくし、つやを出すのに用いる木または石の台)を打つ響きに因んで利休が名付けたとする説、東山慈照院にあった花生(はないけ)の形が絹を打つ砧(きぬた)に似ていたという説などがあるようです。

 この龍泉窯の青磁は時代によって呼び名が変遷し、大別して南宋期のものを「砧青磁」、元末明初期のものを「天竜寺青磁」、明末期のものを「七官青磁」と呼び分けています。
 中国元末から明初にかけて龍泉窯でつくられた青磁は、大量生産による原料の質の低下に伴い、釉色が黄味のある沈んだ青緑色を呈し、従来の砧青磁とは様相を異にしました。

 花瓶や香炉といった大作が多く、室町初期に足利尊氏が京都嵯峨に天竜寺を建立する際に資金を集める手段として元(1271~1368)との交易を企てて天竜寺船を造り、この手の青磁を多く輸入したので船名に因んで名付けたとする説や生涯にわたり、夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される臨済宗の禅僧夢窓国師(1275~1351)が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹手の香炉がある事から、この手の色合いのものを寺名に因んで名付けたとする説等も知られています。

 また、明代後期に龍泉窯を中心として焼かれた青磁は「七官(しちかん)青磁」と呼ばれ、透明性のつよい淡い翠青色を呈し、概して貫入があるのが特徴とさています。彫塑的な技法が多くみられ、陰刻・陽刻・押型などが用いられましたが、名の由来は明朝の七官(しちかん)という者が将来したとも、明朝の七品官の役人が日本に伝えたからとも言われています。

 ところでこの龍泉窯は浙江省南西部、福建省に接する武威山系の山間部に位置する龍泉県に窯が集中し、大窯、金村、渓口、王湖、安福、安仁口、梧桐口、周垟、王庄、道太、小白岸、楊梅嶺、王石坑、坳頭、新亭、岱根など二十数カ所の窯が知られています。

 龍泉窯とはこれら諸窯の総称ですが、その他にも麗水県、雲和県、遂昌県、永嘉県にも窯が分布し、1956年から1961年にかけて浙江省文物管理委員会によって行われた分布調査によれば、浙江省南部から東海岸にかけての広大な地域に同一系統の窯が分布していることがわかり、これらも広義の龍泉窯とよんでいる学者もいるそうです。
 南宋期(1127~1279)の頃から東西貿易が盛んになり、南宋は金銀の流出を恐れて絹と陶磁器の輸出しか許しませんでした。その結果、龍泉窯は中国を代表する交易品として当時の世界に行き渡り、「CHINA」の名声を広めました。

 龍泉の地の窯は互いに技術を競って隆盛を極めましたが、時代が下るに付けて「青花」などの染め付けの陶磁器がもてはやされ、明代には景徳鎮官窯が設けられて、龍泉窯は廃れて行きました。
 故宮博物院に残る龍泉窯の磁器は、康煕51年(1712)の銘文のあるものを最後とするようです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:10Comments(0)陶磁器

2009年08月06日

板橋村ゆかりの人々(9)-白蓮柳原燁子

 

 白蓮失踪事件を大々的に報じた東京朝日新聞大正10年10月22日朝刊社会面

  

 白蓮柳原燁子

 (旧暦  6月16日)

 広島平和記念日 昭和20年(1945)年8月6日午前8時15分、アメリカ陸軍航空隊第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29長距離通常爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市上空31,600ft(9,632m)で世界初のウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した日。爆心地における約4,000℃の熱線と350万パスカルに達した衝撃波(1平方メートルあたりの加重35トン、風速440m/s以上)によって市街は壊滅し、約14万人の死者とその後原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上にのぼる。

 ひるの夢 あかつきの夢 夜の夢 さめての夢に 命細りぬ
      
 燁子(あきこ)は二月二十二日の夜亡くなりました。老衰でした。八十一歳ですから、まあ天寿をまっとうしたものと思っています。私としてもこの四十六年間、燁子をそばでサポートしてやることができ、燁子も自分の人生を一応卒業できたという感じで、淋しいながらも私は満足しています。最後は痛みも苦しみもなくて、木が枯れるようにして亡くなりました。 後略
 宮崎龍介 『柳原白蓮との半世紀』


 いつしかに 八十とせ生きてつかの間の 露の命のことはりを知る
 
 白蓮柳原燁子(1885~1967)は、明治18年、伯爵柳原前光(さきみつ、1850~1894)の次女として、東京に生まれています。

 柳原家は、藤原北家の支流日野家の流れを汲む日野家第17代当主で後伏見上皇(1288~1336)の院近臣であった正二位権大納言日野俊光(1260~1326)の四男日野資明(1297~1353)を祖とし、京都十三名家の一つで、名家の家格を有する公家でした。

 父の柳原前光は、資性剛毅にして事を処することに適し、西園寺公望とともに少壮公家中の逸材と言われ其の名を知られていました。
 戊辰戦争時には、東海道鎮撫副総督、海陸軍大総督参謀を歴任し、明治維新後は外務省に入省して外務大丞として日清修交条規締結に活躍、その後清国公使、元老院議官、駐露公使、元老院議長、枢密顧問官等を歴任して皇室典範の制定に参与し、明治17年(1884)7月7日には伯爵に叙されています。
 また、明治天皇の典侍(宮中における女官の最上位)で大正天皇の生母でもある二位局柳原愛子(なるこ、1859~1943)は、前光の妹という名門でもありました。

 一方、母の奥津りょうは柳橋の芸妓から前光の妾のひとりとなりましたが、その父親は、幕末に外国奉行および神奈川奉行を務め、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准書交換使節正使として渡米した新見正興(しんみ まさおき、1822~1869)という幕臣でした。
 新見正興は端麗なる容姿によって幕臣の中でもひときわ異彩を放っていたと云われていますが、明治維新直後に早世し、一家は没落したようです。

 燁子は16歳の明治33年(1900)、かねてから養女となっていた柳原家の分家である北小路子爵家の長男資武と結婚しますが、その結婚は幸せなものではなかったようです。
 明治34年(1901)に17歳で一子北小路功光(1901~1989)を授かるも、資武とは夫婦関係に支障をきたし、明治38年(1905)、21歳で破婚、義母初子の隠居所に幽閉されます。

 その後、燁子は東洋英和学校に入学して寄宿舎生活を送るなか、歌人、国文学者の佐佐木信綱(1872~1963)が主宰する短歌結社「竹柏会」に入会し、歌に情熱を傾けます。

 明治44年(1911)、27歳の時、炭坑王として財をなし、政友会の代議士として2期6年間在任した経歴を持つ伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門(1861~1947)と再婚させられます。
 この結婚については、燁子の兄義光の貴族院議員出馬資金調達と伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害が一致したことによる政略結婚色が強いものであったとされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:54Comments(0)板橋村ゆかりの人々