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2009年08月06日

板橋村ゆかりの人々(9)-白蓮柳原燁子

 

 白蓮失踪事件を大々的に報じた東京朝日新聞大正10年10月22日朝刊社会面

  

 白蓮柳原燁子

 (旧暦  6月16日)

 広島平和記念日 昭和20年(1945)年8月6日午前8時15分、アメリカ陸軍航空隊第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29長距離通常爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市上空31,600ft(9,632m)で世界初のウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した日。爆心地における約4,000℃の熱線と350万パスカルに達した衝撃波(1平方メートルあたりの加重35トン、風速440m/s以上)によって市街は壊滅し、約14万人の死者とその後原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上にのぼる。

 ひるの夢 あかつきの夢 夜の夢 さめての夢に 命細りぬ
      
 燁子(あきこ)は二月二十二日の夜亡くなりました。老衰でした。八十一歳ですから、まあ天寿をまっとうしたものと思っています。私としてもこの四十六年間、燁子をそばでサポートしてやることができ、燁子も自分の人生を一応卒業できたという感じで、淋しいながらも私は満足しています。最後は痛みも苦しみもなくて、木が枯れるようにして亡くなりました。 後略
 宮崎龍介 『柳原白蓮との半世紀』


 いつしかに 八十とせ生きてつかの間の 露の命のことはりを知る
 
 白蓮柳原燁子(1885~1967)は、明治18年、伯爵柳原前光(さきみつ、1850~1894)の次女として、東京に生まれています。

 柳原家は、藤原北家の支流日野家の流れを汲む日野家第17代当主で後伏見上皇(1288~1336)の院近臣であった正二位権大納言日野俊光(1260~1326)の四男日野資明(1297~1353)を祖とし、京都十三名家の一つで、名家の家格を有する公家でした。

 父の柳原前光は、資性剛毅にして事を処することに適し、西園寺公望とともに少壮公家中の逸材と言われ其の名を知られていました。
 戊辰戦争時には、東海道鎮撫副総督、海陸軍大総督参謀を歴任し、明治維新後は外務省に入省して外務大丞として日清修交条規締結に活躍、その後清国公使、元老院議官、駐露公使、元老院議長、枢密顧問官等を歴任して皇室典範の制定に参与し、明治17年(1884)7月7日には伯爵に叙されています。
 また、明治天皇の典侍(宮中における女官の最上位)で大正天皇の生母でもある二位局柳原愛子(なるこ、1859~1943)は、前光の妹という名門でもありました。

 一方、母の奥津りょうは柳橋の芸妓から前光の妾のひとりとなりましたが、その父親は、幕末に外国奉行および神奈川奉行を務め、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准書交換使節正使として渡米した新見正興(しんみ まさおき、1822~1869)という幕臣でした。
 新見正興は端麗なる容姿によって幕臣の中でもひときわ異彩を放っていたと云われていますが、明治維新直後に早世し、一家は没落したようです。

 燁子は16歳の明治33年(1900)、かねてから養女となっていた柳原家の分家である北小路子爵家の長男資武と結婚しますが、その結婚は幸せなものではなかったようです。
 明治34年(1901)に17歳で一子北小路功光(1901~1989)を授かるも、資武とは夫婦関係に支障をきたし、明治38年(1905)、21歳で破婚、義母初子の隠居所に幽閉されます。

 その後、燁子は東洋英和学校に入学して寄宿舎生活を送るなか、歌人、国文学者の佐佐木信綱(1872~1963)が主宰する短歌結社「竹柏会」に入会し、歌に情熱を傾けます。

 明治44年(1911)、27歳の時、炭坑王として財をなし、政友会の代議士として2期6年間在任した経歴を持つ伊藤鉱業社長伊藤伝右衛門(1861~1947)と再婚させられます。
 この結婚については、燁子の兄義光の貴族院議員出馬資金調達と伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害が一致したことによる政略結婚色が強いものであったとされています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 19:54Comments(0)板橋村ゆかりの人々