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2012年05月12日

日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 

 仁科芳雄博士(1890〜1951)

 (旧暦閏3月22日)

 今次大戦における日本の原爆開発研究については、日本国および日本政府の正式記録は存在しません。

 また、旧帝国海軍の原爆開発研究については、関係した個人の回想録に記述されている程度以上の記録は無いようです。

 以下、『日米の原爆製造計画の概要』(名古屋大学大学院理学研究科、福井崇時氏の論文)を参考に、海軍と陸軍の計画をたどってみましょう。

 1. 海軍

 face01 昭和17年7月8日

  海軍技術研究所の伊藤庸二造兵大佐の主唱により、原爆開発を目的とする物理懇談会を発足。
  麻布の海軍水交社(海軍将校の親睦・研究団体)に集まり、会の名称を「核物理応用研究委員会」とする。

   海軍側出席者 伊藤庸二造兵大佐 水間正一郎技官
   委員長  仁科芳雄
   委 員  長岡半太郎 西川正治 水島三一郎 浅田常三郎 菊池正士
         (嵯峨根遼吉 日野寿一 渡辺寧) 後に参加

   昭和18年3月6日までの間に、十数回の研究会を開催
   注)造兵 兵器の製造などを担当する部門

  【結 論】
 (a) 原子爆弾の製造は可能。
 (b) 米英両国は今次戦争に間に合わせ得るや否や、おそらく実現困難ならん。
 (c) 日本にはウラン原鉱石はない。
 (d) 強力電波は原子爆弾より実現性が高い。


 ※ 海軍は、昭和17年に京都帝国大学理学部荒勝文策教授にサイクロトロン建設援助と核物理研究を依託し、研究費60万円を支給。

 face02 昭和19年10月4日

  大阪の海軍水交社にて、「ウラニウム問題懇談会」の第一回会合を開催。

   出席者
   川村宕矣大佐    (海軍航空本部出仕)
   三井再男大佐    (海兵49期、艦政本部部員)
   黒瀬清技術大尉  (海軍航空本部出仕)
   四手井海軍航空廠員
   湯川秀樹      (東大理学部、昭和17年より東大理学部教授)
   岡田辰三   (京大工学部)
   荒勝文策、佐々木申二、木村毅一、小林稔  (京大理学部)
   萩原篤太郎  (化学研究所)
   千谷利三、奥田毅  (阪大理学部)
   坂田昌一    (名大理学部)

  ウラン同位元素分離には荒勝教授は遠心分離法を採用する計画を発表。
  核分裂連鎖反応の可能性について湯川秀樹教授が報告。

 face03 昭和20年7月21日

  琵琶湖ホテルにて、京都帝国大学と海軍の打ち合わせ会合。

   黒田麗少将 (海兵44期、海軍技術科学研究所)ほか2名
   湯川秀樹 (東大理学部)
   荒勝文策、木村毅一、小林稔 (京大理学部)
   奥田毅    (阪大理学部)
   坂田昌一  (名大理学部)

  【結 論】
  「原子爆弾の製造は、原理的には可能、現実には無理」


  この集まりが最後の会合となった。

 2. 陸軍

 face05 昭和15年(1940)4月
  
  陸軍派遣学生として昭和15年3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業した鈴木辰三郎大尉が陸軍航空技術研究所に勤務。
  陸軍航空技術研究所の所長安田武雄中将(陸士21期、陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業)が、「ウラン核分裂の軍事利用調査」を同所員の鈴木辰三郎大尉に指示。
  鈴木大尉は、東京帝国大学理学部物理学科で師事した嵯峨根亮吉教授(第13代帝国学士院長長岡半太郎博士の五男)の指導の下に、理化学研究所の仁科芳雄博士の教示を受け、昭和15年(1940)10月に報告書を安田中将に提出。
  陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将は、仁科博士の研究を援助する方針を定める。  
   
 仁科芳雄博士(1890〜1951)は、大正7年(1918)7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業して前年の大正6年(1917)に発足したばかりの理化学研究所に入ると同時に、東京帝国大学大学院に進学しました。

 その後、大正10年(1921)から7年間、ヨーロッパに留学してイギリスのケンブリッジ大学キャンベンディッシュ研究所所長アーネスト・ラザフォードのもとで研究に従事し(約1年間滞在)、ドイツのゲッチンゲン大学、デンマークのコペンハーゲン大学にも学んでいます。

 コペンハーゲン大学では1922年のノーベル物理学賞受賞者で量子論の創始者でもあるニールス・ボーア(1885〜1962)に師事して指導を受け、スエーデンの理論物理学者オスカル・クライン(Oskar Klein,1894〜1977)とともに量子電磁力学で最小単位の単電子からくる光子の散乱の反応断面積に関する「クライン・仁科の公式」を導出して、物理学の歴史に名を残しています。 
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2011年08月10日

日本(39)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(11)

 
 

 (旧暦7月11日)

 西鶴忌
 元禄6年(1693)、『好色一代男』などで知られる江戸期の浮世草子の創始者、人形浄瑠璃作者、俳人、井原西鶴(1642〜1693、本名平山藤五)の忌日。『源氏物語』の光源氏か『好色一代男』の世之介か、『四畳半襖の下張』の金阜山人か、はたまた『失楽園』の久木祥一郎か・・・。

 日本(38)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(10)のつづき

 イギリスに亡命したユダヤ人の理論物理学者ルドルフ・エルンスト・パイエルス(Rudolf Ernst Peierls、1907~1995)とオットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch、1904~1979)が作成した原子爆弾の可能性を論じた二種類の覚書(The Frisch-Peierls memorandum)は、当時、彼らが所属していたバーミンガム大学物理学科の主任マーク・オリファント(Marcus Laurence Elwin Oliphant、1901~2000)により、1940年3月19日、防空科学調査委員会(The Committee on the Scientific Survey of Air Defence)の文民議長であったオックスフォード大学のサー・ヘンリー・ティザード(Sir Henry Thomas Tizard 、1885~1959) へ届けられました。

 フリッシュ−パイエルスの覚書(The Frisch-Peierls memorandum)を受け取ったティザードは検討の後、1940年4月10日、専門の科学者からなる小委員会を結成しました。 そして、その議長には、インペリアル・カレッジ(Imperial College of Science, Technology and Medicine)の物理学者で、中性子の衝突実験を行い、ウラニウムの核分裂連鎖反応には懐疑的であったG・P・トムソン(George Paget Thomson、1892〜1975)を就任させました。

 また、そのメンバーには、前述のマーク・オリファントの他、ウラン235の高速中性子核分裂の実験を行っていたジェームズ・チャドウィック(Sir James Chadwick、1891〜1974)の助手のフィリップ・ムーン (Philip Burton Moon、1907〜1994)やα線やβ線を発見した著名な物理学者アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford, 1871〜1937)の弟子であるジョン・コッククロフト(Sir John Douglas Cockcroft、1897〜1967)など錚々たる科学者を加えました。

  1940年4月10日に王立協会で開かれたトムソン委員会と呼ばれる最初の非公式な会合では、ウラニウム235の核分裂連鎖反応による原子爆弾の可能性を論じたフリッシュ−パイエルスの覚書(The Frisch-Peierls memorandum)は懐疑的に受け取られていましたが、同年4月24日の2回目の会合では、参加したジェームズ・チャドウィック(Sir James Chadwick、1891〜1974)の「同様な結論に到達したが、実験による中性子吸収断面積についてのさらなる情報を得てからでないと報告できないと思っていた。」という告白により、委員会はウラニウムの同位体分離の技術開発に多大の注意を払うようになりました。

 同年6月の下旬、議長のG・P・トムソンは、彼らの活動内容を偽装するために、彼の委員会に「MAUD」という名称をつけました。
 ウラニウムの同位体分離技術については当初、1938年にドイツの物理化学者クラウス・クルジウスによって考案された、垂直二重円筒の内外温度差を利用して同位体を分離するクルジウス管による熱拡散法(Thermal diffusion method)が検討されていましたが、1940年6月、ドイツからオックスフォード大学クラレンドン研究所に招聘されていた化学者フランシス・サイモン (Francis Simon、1893〜1956)によって、気体が多孔性物体の中を拡散する時に分子量の軽い気体ほど早く拡散するというグレアムの法則(Graham's law)を応用した気体拡散法 (Gaseous diffusion method) が最も有望であると結論されました。

 ウラニウムを気体拡散法で同位体分離するには、約 56.5 ℃ で昇華して気体になる六フッ化ウランを用います。単体の金属ウランを気化させるには沸点3745 ℃の高温を維持しなければなりませんが、六フッ化ウランは沸点が低いために、気体状態を維持するのが容易になります。
 沸点の低い六フッ化ウランを用いた場合、理想的な条件下でもその濃縮比は1.0043 程度に過ぎませんが、このプロセスを繰り返すことによりウラン235の割合をほぼ100%まで近づけることができます。

 昭和16年(1941)7月15日、MAUD 委員会はウラン爆弾は実現可能だとする最終報告を承認し、解散しました。 その報告書によれば、爆弾に含まれるウラン235は25ポンド(約11㎏)となり、その破壊力は TNT火薬1,800トンに相当し、大量の核分裂生成物を生じるとされました。 また、1943年末には爆弾製作の資材が提供可能となるとしました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:15Comments(0)歴史/日本

2009年10月27日

日本(38)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(10)

 
 
 Sir Rudolf Ernst Peierls (1907~1995)

 (旧暦  9月 10日)

 松陰忌  明治維新の精神的指導者、二十一回猛士、松陰吉田寅次郎の安政6年(1859)10月27日の忌日。安政の大獄に連座し、大老井伊直弼の命により、江戸伝馬町牢屋敷にて斬首された。

 今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼(たのみ)なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし。

 日本(37)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(9)のつづき

 イギリスに亡命したユダヤ人の理論物理学者ルドルフ・エルンスト・パイエルス(Rudolf Ernst Peierls、1907~1995)とオットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch、1904~1979)は、当時所属していたバーミンガム大学物理学科の主任マーク・オリファント(Marcus Laurence Elwin Oliphant、1901~2000) の助言により、ウラニウム235の核分裂連鎖反応による原子爆弾の可能性を論じた二種類の覚書(The Frisch-Peierls memorandum)を作成しました。

 それらの覚書はマーク・オリファントにより、1940年3月19日に防空科学調査委員会(The Committee on the Scientific Survey of Air Defence)の文民議長であったオックスフォードのサー・ヘンリー・ティザード(Sir Henry Thomas Tizard 、1885~1959) へ届けられました。

 第一の覚書は、政府職員や軍人向けの平易な内容で原子爆弾の可能性の一般的な見解を述べています。また、第二の覚書は、より詳細に技術的な記述を含む内容になっています。
 ところで、第一の覚書は、第2次大戦終了後20年ほど後に英国の作家ロナルド W.クラーク(Ronald William Clark 、 1916~1987)がサー・ヘンリー・ティザードの書類の間から発見したと伝えられています。

 Memorandum on the Properties of a Radioactive "Super-bomb"
 放射性「超爆弾」の特性に関する覚書

 The attached detailed report concerns the possibility of constructing a "super-bomb" which utilises the energy stored in atomic nuclei as a source of energy. The energy liberated in the explosion of such a super-bomb is about the same as that produced by the explosion of 1,000 tons of dynamite. This energy is liberated in a small volume, in which it will, for an instant, produce a temperature comparable to that in the interior of the sun. The blast from such an explosion would destroy life in a wide area. The size of this area is difficult to estimate, but it will probably cover the center of a big city.

 添付した詳細報告書は、原子核の中に蓄積されたエネルギーをエネルギー源として利用する「超爆弾」を作る可能性に関するものである。この超爆弾の爆発によって解放されるエネルギーは、ダイナマイト1,000トンの爆発によって生ずるエネルギーとほぼ同等である。このエネルギーは小さな容量の中で解放され、その中で瞬時に太陽内部と同等の高温を発生する。その爆発からの爆風は、広い範囲で生物を絶滅させるであろう。この範囲の大きさを推定することは難しいが、それは多分大都市の中心部におよぶ。

 In addition, some part of the energy set free by the bomb goes to produce radioactive substances, and these will emit very powerful and dangerous radiations. The effects of these radiations is greatest immediately after the explosion, but it decays only gradually and even for days after the explosion any person entering the affected area will be killed.

 更に、この爆弾によって解放されたエネルギーの一部は放射性物質を生成し、これらは非常に強力で危険な放射線を放射する。これらの放射線の影響は爆発直後に最大となり、非常に緩やかに崩壊するが、爆発後数日間は影響を受けた地域に立ち入った人は死亡するであろう。

 Some of this radioactivity will be carried along with the wind and will spread the contamination; several miles downwind this may kill people.

 この放射能の一部は風によって運ばれて、汚染を拡大する。その風下数マイルでは、おそらく人々を死亡させるであろう。

 In order to produce such a bomb it is necessary to treat a substantial amount of uranium by a process which will separate from the uranium its light isotope (U235) of which it contains about 0.7 percent. Methods for the separation of such isotopes have recently been developed. They are slow and they have not until now been applied to uranium, whose chemical properties give rise to technical difficulties. But these difficulties are by no means insuperable. We have not sufficient experience with large-scale chemical plant to give a reliable estimate of the cost, but it is certainly not prohibitive.

 このような爆弾を製造するには、そうとうな量のウラニウムを処理してその中に約0.7%含まれている軽い同位体(U235)を分離するという課程が必要になる。そのような同位体を分離する幾つかの方法が最近開発された。それらの方法は時間がかかり、今日に至るまでまだウラニウムには適用されていない。ウラニウムの化学的特質が技術的困難を高めている。しかしこれらの困難は決して克服できないものではない。我々は信頼できる経費を概算するに足りる大規模な化学プラントの経験がないが、多分ひどく高いものではないだろう。

 It is a property of these super-bombs that there exists a "critical size" of about one pound. A quantity of the separated uranium isotope that exceeds the critical amount is explosive; yet a quantity less than the critical amount is absolutely safe. The bomb would therefore be manufactured in two (or more) parts, each being less than the critical size, and in transport all danger of a premature explosion would be avoided if these parts were kept at a distance of a few inches from each other. The bomb would be provided with a mechanism that brings the two parts together when the bomb is intended to go off. Once the parts are joined to form a block which exceeds the critical amount, the effect of the penetrating radiation always present in the atmosphere will initiate the explosion within a second or so.

 これら超爆弾の特質として約1ポンド(454g)の「臨界規模」が存在する。臨界量を超える量の分離されたウラニウム同位体は、爆発する。まだ臨界量を超えない分量ならば、絶対に安全である。従って、この爆弾をそれぞれが臨界規模以下の二つ(又はそれ以上)の部分に分けて作り、輸送に際してはこれらの部分を互いに数インチだけ離しておけば、早まって爆発する危険を防ぐことができる。この爆弾を爆発させるときには、二個の部分を結合する仕組みが取り付けられる。この部分が臨界量を超える一つのブロックを形作るために接合されると、大気中に常に存在する透過性放射線の影響により一秒程度以内に爆発するであろう。

 The mechanism which brings the parts of the bomb together must be arranged to work fairly rapidly because of the possibility of the bomb exploding when the critical conditions have just only been reached. In this case the explosion will be far less powerful. It is never possible to exclude this altogether, but one can easily ensure that only, say, one bomb out of 100 will fail in this way, and since in any case the explosion is strong enough to destroy the bomb itself, this point is not serious.

 この爆弾の部分を結合させる仕組みは、臨界状態に達したときすぐに爆弾が爆発する可能性があるので、かなり急速に作動するように調整しなければならない。この場合、爆発は非常に弱い。それが起こる可能性は全く排除できないが、百発のうち例えばただ一発がこうした不具合を起こすだろうことは容易に保証できる。いずれにしても、その爆発は爆弾そのものを破壊するのに十分強力であるから、この点は重大ではない。

 We do not feel competent to discuss the strategic value of such a bomb, but the following conclusions seem certain:

 このような爆弾の戦略的な価値について論じる立場にはないが、下記の結論は信頼できると思われる:  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:26Comments(0)歴史/日本

2009年06月22日

日本(37)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(9)

 
 
 原子爆弾の構造。上:砲身方式(広島型ウラニウム爆弾)、下:爆縮方式(長崎型プルトニウム爆弾)
 
 (旧暦  5月 30日)

 日本(36)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(8)のつづき

 1939年5月、コレージュ・ド・フランス(Collège de France)の核化学研究室(Lab. de Chimie Nucléaire)教授ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie、1900~1958)の共同研究者であるフランシス・ペラン(Francis Perrin、1901~1992) は、核分裂連鎖反応を持続させるために必要なウラニウムの量を計算するための第一近似式を発表していました。
 Perrin F. (1939). "Calcul relatif aux conditions eventuelles de transmutation en chaine de l’uranium". Comptes Rendus 208: 1394–6.

 ペランは天然ウラニウムの核分裂断面積を調べて、その臨界量を44トンと算定していました。しかし、実際にはウラニウムの周辺の鉄や鉛の詰め物が中性子を散乱するので、13トンになるはずでした。
 また彼らは、核分裂連鎖反応を持続させるために必要な熱中性子( thermal neutrons; Thermal neutrons have an energy of about 0.025 eV.)を得るために、核分裂によって生じた高速中性子(fast neutrons; Fast neutrons have an energy greater than 1 eV.)を減速させてやるための減速材(Neutron moderator)が必要であることも発見していました。

 1939年4月22日、 ジョリオ=キュリーら3人は、ウラン235 の核分裂による 2次中性子に関する第 2報を『ネイチャー』誌に投稿し、もし十分な量のウランを適当な減速材に入れれば、「分裂連鎖が永続し、媒体を制限している壁に到達して初めて止まる。我々の実験は、この条件を満たすことはおそらく可能だということを示している」と結論づけたのです。

  減速材として用いる材質は、中性子を減速させるまでの所要時間が短く、中性子吸収効果の少ないものが望ましいため、原子番号の小さい元素が選定されます。

 現在の発電用原子炉は、軽水(Light Water 普通の水;H2O)を減速材として用いる軽水炉が主流ですが、当時は、重水(Heavy Water;D2O)や黒鉛(Graphite;C)が有望視されていました。

 当時、重水が多量に得られる唯一の場所は、ノルウェー南部のヴェモルクにあるノルスク・ハイドロ社の合成アンモニア生産工場でした。同社は合成アンモニアを生産するために水素電気分解を行っており、その副産物として稀少液体である重水を生産していたのでした。

 ジョリオ=キュリーはこの事を当時のフランス軍需相ラウール・ドートリ(Raoul Dautry、1880~1951)に伝えますが、ドートリは、ドイツ国防省(Reichskriegsministerium)がノルスク・ハイドロ社の在庫の重水200ℓと1ヶ月最低100 ℓの供給を働きかけたことを聞いて、すべての重水をフランスのために獲得することを決心します。

 They asked the French Minister of Armaments to obtain as much heavy water as possible from the only source, the large hydroelectric station at Vemork in Norway. The French then discovered that Germany had already offered to purchase the entire stock of Norwegian heavy water, indicating that Germany might also be researching an atomic bomb.

 当時のノルスク・ハイドロ社の株式の大半は、フランスのパリ・オランダ銀行(Banque de Paris et des Pays-Bas)が所有しており、以前その銀行の役員であったジャック・アリエがドートリ軍需相の部下になっていた関係から、アリエはドートリ軍需相の要請を受けてオスロに潜入し、ノルスク・ハイドロ社の総支配人に面会します。

 しかし、総支配人は重水のもつ軍事目的を聞くと、ストックをすべて無償でフランスに提供すると申し出ます。

 それからほどなくして、200 ℓの重水は26缶に分けられてフランスの秘密工作組織によって車でヴェモルクから運び去られ、さらにオスロからは飛行機で2回に分けてイギリスのエジンバラまで運び、鉄道と海峡フェリーでパリに運ばれています。

 ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト上級大将(Nikolaus von Falkenhorst、1885~1968)に率いられたドイツ第21軍団(3個師団基幹)が海軍と空軍の援護のもとにノルウェーのナルヴィク、トロンヘイム、ベルゲン、スタバンゲル、クリスチャンサン、オスロに上陸を開始したのは、重水が運び去られた直後の1940年4月9日のことでした。

 ノルスク・ハイドロ社はドイツ軍の主要な軍事目標の一つとなっていたためその地域は烈しい戦闘が続きましたが、5月3日、ヴェモルクをふくむリューカンの町はノルウェー南部としては最後にドイツ軍に降伏しています。

 The French told the Norwegian government of the possible military significance of heavy water. Norway then gave the entire stock to a French Secret Service agent, who secretly brought it to France via England, just before Germany invaded Norway in April 1940. When Germany invaded France in May 1940, the Paris Group moved to Cambridge and brought the heavy water inventory of 188 litres. Joliot-Curie remained in France and became an active worker in the French Resistance movement.  続きを読む

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2009年03月27日

日本(36)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(8)

 

 (旧暦  3月 1日)

 赤彦忌 歌人島木赤彦の大正15年(1926)の忌日。長野県尋常師範学校を卒業して教職の傍ら短歌を作り、正岡子規の歌集に魅せられて、伊藤左千夫に師事。左千夫の死後、齋藤茂吉に代わって短歌雑誌「アララギ」編集兼発行人となり、写生短歌を追求して独特の歌風を確立した。

  みづうみの氷は解けてなほ寒し 三日月の影波にうつろふ  『太嘘集』
  信濃路はいつ春ならん夕づく日 入りてしまらく黄なる空のいろ 『柿蔭集』


 日本(35)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(7)のつづき

 1939年1月初旬、旧知のハンガリー出身のユダヤ系物理学者ユージン・ポール・ウィグナー (Eugene Paul Wigner,1902~1995)をプリンストンに訪ねたシラードは、ウィグナーからドイツのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンが行った中性子照射によるウラニウムの核分裂反応の発見を知らされます。

 このことは、大正3年(1914)に発表されたイギリスのSF作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells, 1866~1946)の空想科学小説〝The World Set Free〝「邦題 解放された世界」に描かれた、原子核反応による強力な爆弾を使用した世界戦争の危惧を現実ならしめるものであり、シラードはこのウランの核分裂過程における中性子の放出と核分裂連鎖反応の可能性をナチス・ドイツに知られることを強く懸念しました。

 1939年3月3日、友人から借りたお金で入手した高価な1gのラジウムとかねてから製作を依頼してあったベリリウムの塊とを持ってコロンビア大学のウォルター・ジン博士(Walter Henry Zinn,1906~2000)のもとを訪れたシラードは、(Ra+Be)中性子源によりウラン片を照射し、ウォルター・ジン博士の作った電離箱を使って、高速中性子の検出を行う実験を行い成功しています。

 その後、イタリアから亡命し、数週間前からコロンビア大学の物理学教授となっていたエンリコ・フェルミ(Enrico Fermi、1901~1954)の実験からも、高速二次中性子が放出されることが確認されました。

 シラードはこの結果を公表しないように主張しましたが、同じ時期、フランスのコレージュ・ド・フランス(Collège de France)の核化学研究室(Lab. de Chimie Nucléaire)の教授であるジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie、1900~1958)とその共同研究者が、Nature 誌にノートを送り、ウランの核分裂で中性子が放出されることを発見したと報告し、かつこれが核分裂連鎖反応に至る可能性を示唆していました。

 結局、フェルミの公表見合わせは無意味だという意見やコロンビア大学の物理学科長ジョージ・B・ペグラム教授(George B. Pegram)の判断により、結果は公表されることとなりました。  続きを読む

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2008年10月28日

日本(35)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(7)

 

 Binary fission.

 (旧暦  9月30日)

 日本(34)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(6)のつづき

 ベルリン郊外ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所1階の実験室で行われていたオットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンによるウラニウムへの中性子照射実験において、バリウムと思われる物質が生成された驚くべき現象について、リーゼ・マイトナーはクリスマス休暇でスウェーデンの寒村クングエルブに一緒に逗留していた甥の物理学者オットー・フリッシュ(Otto Robert Frisch、1904~1979)とともに、この問題の究明に取り組みました。

 これまでの照射実験では、陽子やヘリウムの核(アルファ粒子)以上の大きな塊がウラニウムの核からはぎ取られたことは観察されませんでした。

 「核力を考慮すれば、中性子の一撃でウラニウムの核が真っ二つに裂けると云うことは不可能だ。しかし、液滴モデルで考えれば、核の分裂も起こりうるかもしれない。」

 フリッシュは、ウェイトトレーニングのダンベルのような絵を描いてみました。そして、考察を続けました。・・・・・・

 そうして、リーゼ・マイトナーと甥のオットー・フリッシュは、二人で考えた核分裂に関する説明論文とそれを検証するフリッシュの実験報告論文を、世界で最も権威のあるイギリスの総合学術雑誌「Nature」に発表します。

 1. Disintegration of Uranium by Neutrons: a New Type of Nuclear Reaction
   中性子によるウラニウムの崩壊:新しいタイプの核反応
   Author: Lise Meitner and O.R. Frisch
   Lise Meitner ; Physical Institute, Academy of Sciences, Stockholm.
   O.R. Frisch  ; Institute of Theoretical Physics, University, Copenhagen.
   Source: Nature, vol.143, 239-240
   Year published: Feb. 11, 1939
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2008年01月14日

日本(34)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(6)

 
 
 Lise Meitners Wirkungsstätte: Das Kaiser-Wilhelm-Institut für Chemie in Berlin von Wikipedia.
 (heute: Institut für Biochemie der Freien Universität Berlin)
 
 リーゼ・マイトナーの領域:ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所
 
(旧暦 12月 7日)

 タロとジロの日  南極の昭和基地に置き去りにされたカラフト犬「タロ」、「ジロ」の生存が昭和34年(1959)に確認された日。

 日本(33)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(5)のつづき

 1930年代の半ば、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所(Kaiser Wilhelm Institute für Chemie)所長オットー・ハーン (Otto Hahn、1879~1968)とオーストリア出身の女性物理学者リーゼ・マイトナー(Lise Meitner、1878~1968)およびハーンの助手のフリッツ・シュトラースマン(Fritz Straßmann,1902~1980)の研究チームは、自然に存在する最も重い元素であるウランが中性子照射によって遷移(エネルギーを吸収あるいは放出し、状態が変化すること)する相手の物質をすべて探し出すという根気の要る地道な実験に取り組んでいました。

 彼らは、昭和13年(1938)の初めまでに、半減期(放射性核種あるいは素粒子が崩壊して別の核種あるいは素粒子に変わるとき、元の核種あるいは素粒子の半分が崩壊する期間)の異なる放射性物質を10種類ほど発見していました。

 しかし、昭和13年(1938)3月13日、ヒトラー率いるナチス政権は、オーストリアを併合してしまいます。
 アンシュルス(Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich) と呼ばれたこの併合により、オーストリア出身のリーゼ・マイトナーの市民権はドイツのものに移され、それにともない、昭和8年(1933)以来ナチス政権のもとで推進されてきた反ユダヤ法、特に昭和10年(1935)に制定されたニュルンベルク法(Nürnberger Gesetze)の適用を逃れることができなくなってしまいました。

 この法律は、8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、公職は追放、企業経営は禁止、ユダヤ人の市民としての生活権を否定するものでした。
 昭和13年(1938)7月17日、リーゼ・マイトナーを支援するオランダ人物理学者ディルク・コスター(Dirk Coster 、1889~1950)に伴われて彼女はオランダへ脱出し、デンマークの理論物理学者ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア(Niels Henrik David Bohr、1885~1962)の紹介で、ストックホルム郊外にある科学アカデミー物理学研究所に落ち着きます。

 昭和13年(1938)9月、ヒトラーによるチェコスロバキアのズデーテン地方(Sudetenland)の割譲要求に伴う欧州動乱への一触即発の緊張の中にあって、ベルリン郊外ダーレムのカイザー・ヴィルヘルム化学研究所1階の実験室では、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラースマンによるウラニウムへの中性子照射実験は続いていました。
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2007年12月26日

日本(33)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(5)

  
 

 Otto Hahn mit Lise Meitner im Labor, KWI(Kaiser Wilhelm Institute) für Chemie,1913.
 
 (旧暦 11月 17日)

 日本(32)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(4)のつづき

 ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)のイギリス人物理学者ジェームズ・チャドウィック(James Chadwick, 1891~1974)は、彼が行った一連の実験において、全ての気体について見出される、その気体の原子核と衝突して発生した反跳核が、光子との衝突ではなく、陽子とほとんど等しい質量を持つ粒子との衝突の結果得られる速度を持っていることを示しました。
 光子:Photon;電磁波の粒子的な側面を説明するために導入した光の量子

 各記号を下記のように定めると、

 

 弾性的な正面衝突の場合には、エネルギーおよび運動量の保存法則が成り立つので、下記の(1)、(2)が与えられます。

 

 上記の(1)、(2)から下記の式を得ます。

 

 反跳核は、水素中ではM=1、窒素中ではM=14 ですから、速度の比は次式のようになります。

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2007年12月24日

日本(32)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(4)

 

 Alpha particles may be completely stopped by a sheet of paper.
 Beta particles by aluminum shielding.
 Gamma rays, however, can only be reduced by much more substantial obstacles, such as a very thick piece of lead.

 (旧暦 11月 15日)

 日本(31)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(3)のつづき

 ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラード (Leó Szilárd, 1898~1964)が、昭和8年(1933)9月12日、亡命先のロンドンのサザンプトン街の交差点で思いついた中性子による核分裂の連鎖反応は、アイデアとしては画期的なものでしたが、現実にはまだ中性子の衝突で分裂するような自然界に存在する元素は発見されていませんでした。

 だいいち、電気的に中性である中性子(neutron)でさえ、前年の昭和7年(1932)にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)のイギリス人物理学者ジェームズ・チャドウィック(James Chadwick, 1891~1974)がその存在を実験的に証明し、ようやく確認されたばかりでした。

 大正9年(1920)、ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(Cavendish Laboratory)の所長アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford, 1871~1937)は、その論文 ˝Nuclear Constitution of Atoms˝ Proc. Roy. Soc. A, 97, 374 (1920). の中で、当時はまだ知られていなかった2つの核、すなわち水素の同位体とみなすべき質量2、電荷1の核(an atom of mass nearly 2 carrying one charge)と質量1、電荷0の核(an atom of mass 1 which has zero nucleus charge)が存在する可能性を示唆しました。
 これらは現在、重陽子(deuteron;質量2、電荷1)および中性子(neutron;質量1、電荷0)として知られています。

 ラザフォードは、質量1、電荷0の核について、以下のように書いています。

 Such an atom would have very novel properties. Its external field would be practically zero, except very close to the nucleus, and in consequence it should be able to move freely through matter. Its presence would probably be difficult to detect by the spectroscope, and it may be impossible to contain it in a sealed vessel.
˝Nuclear Constitution of Atoms˝  Proc. Roy. Soc. A, 97, 374 (1920).


http://web.lemoyne.edu/~giunta/ruth1920.html

 このような原子は、全く奇妙な性質をもつであろう。それの作る場は、核にごく接近した場所をのぞいては、無いに等しいであろう。したがって、それは物質中を自由に通り抜ける能力を持っているに違いない。そのような原子の存在が分光学によって検出にされることは、おそらく困難であろう。またそれを密封した容器に閉じこめることは不可能であろう。
 E.ラザフォード 「原子の核構造」より
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2007年12月16日

日本(31)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(3)

 

 Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson. 

 (旧暦 11月 7日)

 日本(30)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(2)のつづき

 シラードが衝撃を受けた昭和8年(1933)9月12日のタイムズ紙は、王立協会(The Royal Society of London)会長で「原子物理学の父」と呼ばれるアーネスト・ラザフォード卿(Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson 1871~1937)が、「原子遷移に関する最近の四半世紀の発見」の歴史について講演し、「中性子」と「新しい元素変換」に言及したと報じていました。

 “What, Lord Rutherford asked in conclusion, were the prospects 20 or 30 years ahead?
 High voltages of the order of millions of volts would probably be unnecessary as a means of accelerating the bombarding particles. He believed that we should be able to transform all the elements ultimately.
 We might in these processes obtain very much more energy than the proton supplied, but on average we could not expect to obtain energy in this way.
 It was a very poor and inefficient way of producing energy, and anyone who looked for a source of power in the transformation of the atoms was talking moonshine.


 結論としてラザフォード卿は、20年あるいは30年先の進歩がどのようなものであろうかという問いを発した。
 百万ボルト単位の高電圧は、衝突させる粒子を加速する手段としてはたぶん必要ないであろう。究極的にはどのような元素も変換できるようになるであろうとラザフォード卿は考えている。
 このようなプロセスによって、入射する陽子のエネルギーよりもずっと高いエネルギーを得ることができるであろう。しかし、概してこのような手段でエネルギーを得ることは期待できない。
 なぜなら、このような現象が起きる確率は低く、エネルギー生産の手段としては非常に非効率的であるからだ。だから、原子の変換によってエネルギー源を得ようとするものは、「月光」について語るようなものである。  続きを読む

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2007年12月15日

日本(30)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(2)

  

 Das Team, das 1942 in Chicago den ersten Kernreaktor baute, dritter von rechts im hellen Mantel: Leó Szilárd, erste Reihe ganz links: Enrico Fermi, daneben: Walter Zinn by Wikipedia.

 1942年にシカゴで最初の核反応炉を建設したチーム
 右から3人目の明るいコートを着ているのがレオ・シラード、前列左がエンリコ・フェルミ、その隣がウォルター・ジン

 (旧暦 11月6日)

 日本(29)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(1)のつづき

 ハンガリー生まれのユダヤ人物理学者レオ・シラード (Leó Szilárd, 1898~1964)は、大正12年(1923)にベルリン大学で博士号を取得し、昭和2年(1927)年に大学の私講師(Privatdozent: 教授資格論文を書き、審査に合格した人で、大学・短期大学・高等専門学校などにおいて教育活動を行う人)となりました。

 レオ・シラードはまた、SF 作家 H.G. ウェルズの大ファンとして、彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力しています。
 1920年代の中ごろには、シラードは第一次世界大戦の敗北による1320億金マルク(現在の貨幣価値で約40兆円~80兆円)もの膨大な賠償金の負担にあえぐドイツにたいし、「議会制民主主義はドイツでは長持ちしないだろう」と確信するに至っています。

 かれは、1930年代に入ってから急速にその勢力を拡大してきた国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)いわゆるナチスに強い危機感を抱き、昭和8年(1933)1月30日にヒトラーを首班としたナチス党内閣が発足し、翌2月27日の夜に国会議事堂放火事件(Reichstagsbrand)が起きると、レオ・シラードは一党独裁を目指すナチスによって仕組まれた政治的陰謀としてその関与を疑い、約1ヶ月後には単身でドイツを後にしています。

 シラードの年上のハンガリー人の友人で、当時カイザー・ウィルヘルム研究所で化学者として勤務していたマイケル・ポランニー博士(Michael Polanyi, 1891~1976)は、当時のドイツの政治情勢には楽観的でした。それはまた、当時の多くのドイツ人の見方でもあったともいいます。
 彼らは皆、「文明化されているドイツ人たちが乱暴なことを容認するはずがない」と信じていました。
 しかし、シラードはこのような楽観論には同調できませんでした。彼は、ドイツ人が、第一次世界大戦に敗北したことからくるモラルの荒廃に起因するシニシズム(現実社会に対して逃避的、嘲笑的な態度をとる)によって麻痺していると感じていました。  続きを読む

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2007年12月09日

日本(29)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(1)

 

 An induced nuclear fission event from Wikipedia.
 A slow-moving neutron is absorbed by the nucleus of a uranium-235 atom, which in turn splits into fast-moving lighter elements (fission products) and free neutrons.


 核分裂反応(Nuclear fission)
 中性子を吸収したウラン(U)235が、クリプトン(Kr)92とバリウム(Ba)141に分裂した例をしめす。この分裂の際、平均2~3個の高速中性子が放出されるが、この中性子が別のウラン(U)235に再び吸収され、新たな核分裂反応を引き起こすことを核分裂連鎖反応(Nuclear chain reaction)という。
 
 この連鎖反応をゆっくりと進行させ、持続的にエネルギーを取り出すのが原子炉であり、この連鎖反応を高速で進行させ、膨大なエネルギーを一瞬のうちに取り出すのが原子爆弾である。


 (旧暦 10月30日)

 漱石忌 小説家夏目漱石の大正5年(1916)年の忌日。

 阿川弘之氏の「軍艦長門の生涯」という小説のなかで、昭和17年(1942)2月23日に行われた柱島泊地(広島湾内にある柱島付近に設けられていた艦艇停泊地)における旗艦「大和」での聯合艦隊図上演習の模様が描かれています。

 4日間にわたる図上演習中には各種の分科会、研究会も開かれましたが、電探(レーダー)試験研究の委員会において、当時の海軍技術研究所所員で電波物理研究会委員であった伊藤庸二造兵中佐の注目すべき発言が紹介されています。

 伊藤庸二造兵中佐(1901~1955)は東京帝国大学工学部電気工学科出身の技術士官で、大尉の初年に無線研究のため2年半ドイツに留学し、八木・宇田アンテナで有名な東北帝国大学教授八木秀次博士(1886~1976)の紹介を受けて、外部磁化による強磁性体の磁化が断続的に増える「バルクハウゼン効果」を発見したドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授(1881~1956)に師事し、磁電管の研究で日独両方の博士号を取得した人物です。
 
 伊藤中佐はたびたび欧州に派遣され、4ヶ月前の太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)10月に帰国したばかりでした。

 紹介されて立ち上がると、電探の現状について一応の説明をし、質疑に答えたあと、
 「実は、ドイツならびに米英で着目されておる新兵器として、レーダーより尚恐るべきものがあります」
と、当面の問題とちがうことを言い出した。
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2005年12月21日

日本(28)−布哇(ハワイ)作戦(8)

 

 第五航空戦隊空母「翔鶴」より発艦する九七式艦上攻撃機(雷撃機)
 Torpedo plane takes off from Shokaku to attack Pearl Harbor, December 7, 1941
 (From US Navy Historical Center)


 (旧暦 11月 20日)

 日本(27)−布哇(ハワイ)作戦(7)のつづき

 昭和16年(1941)12月1日の御前会議の開戦決定を受けて、同日、大海令(大本営海軍部命令)第九号により、

 一、帝国ハ十二月上旬ヲ期シ米国、英国及蘭国ニ対シ開戦スルニ決ス
 (以下省略)


が山本聯合艦隊司令長官宛に発せられました。
 更に翌日には、

 一、聯合艦隊司令長官ハ十二月八日午前零時以後大海令第九号ニ依リ武力ヲ発動スべシ
 (以下省略)


との開戦期日指定の大海令第十二号も発令されています。

 これを受けて聯合艦隊司令部は、布哇に向けて航行中の機動部隊に対して、12月2日1730(午後5時30分)、「X日ヲ十二月八日午前零時トス」というあらかじめ打ち合わせておいた約束暗号「ニイタカヤマノボレ一二○八」というGF(General Fleet:聯合艦隊)機密第六七六番電、GF電令作第一○号を発信しました。

 12月4日、北緯40度20分、西経164度0分の海域に到達した機動部隊は、進路を145度に変針して布哇に向かって南下を開始、12月7日正午過ぎ、最後の給油が完了して第一補給隊の四隻が分離、機動部隊は「艦内第一哨戒配備、戦闘配食」となり、24ノット即時待機28ノット20分待機で針路を真南に変針。

 12月8日0030(午前零時30分)、オアフ島の北方約250マイルの地点に達し第六警戒航行序列の箱形陣形を成形しつつあった機動部隊に、「総員戦闘配置」が下令。

 0120(午前1時20分)、6隻の母艦は風上に艦首を向け、第四戦速24ノットの発艦速力へ。
 6隻の母艦の飛行甲板には、第1次攻撃隊183機が発艦待機。

  九七式艦上攻撃機(水平爆撃)    49機
  九七式艦上攻撃機(雷撃)      40機
  九九式艦上爆撃機(急降下爆撃)   51機
  零式艦上戦闘機(制空隊)      43機
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2005年12月20日

日本(27)−布哇(ハワイ)作戦(7)

 

 機動部隊航跡図
 Public Domain chart from "Reports of General MacArthur, prepared by his General Staff." This book was printed by GPO(The U.S. Government Printing Office ). The chart shows the routes of the Japanese attack force to and from Pearl Harbor.

 (旧暦 11月 19日)

 劉生忌  愛娘麗子の肖像シリーズで有名な近代日本絵画の巨匠岸田劉生の昭和4年(1929)の忌日
 石鼎忌 俳句結社「鹿火屋(かびや)」を主宰した俳人原石鼎(はら せきてい)の昭和26年(1951)の忌日
      山国の 闇恐ろしき追儺かな

 日本(26)−布哇(ハワイ)作戦(6)のつづき

 11月22日早朝、第一航空艦隊旗艦空母「赤城」が単冠(ヒトカップ)湾に入港する頃には、支援部隊の三川軍一少将(海兵38期)指揮第三戦隊戦艦「比叡」「霧島」などが先着しており、翌11月23日の1330(午後1時30分)には、第一航空戦隊僚艦の空母「加賀」が、最後に集結しました。

 「加賀」は、12mの水深しかない真珠湾攻撃用として航空敞雷撃部の片岡政市少佐(海兵51期)によって考案され、長崎の三菱兵器製作所に発注されていた浅沈度魚雷九一式航空魚雷改二(空気酸化剤方式)を受け取りに佐世保に回航していたために1日遅れで入港し、ここに機動部隊の主力三十一隻(空母六、戦艦二、重巡二、軽巡一、駆逐艦十、潜水艦三、給油艦七)が集結を完了しました。

 11月23日夕刻、旗艦「赤城」艦上で第一航空艦隊命令(第一、第二、第三号)が下達され、艦隊首脳総集合の打合せが行われましたが、第一号「作戦方針」には、「空襲第一撃ヲX日○三三○ト予定ス」とあり、奇襲攻撃はX日午前三時三十分(日本時間、ハワイ時間午前八時)と明記されていました。  続きを読む

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2005年12月19日

日本(26)−布哇(ハワイ)作戦(6)

 

 米国務長官 コーデル・ハル(1871〜1955)

 (旧暦 11月 18日)

 日本(25)−布哇(ハワイ)作戦(5)のつづき

 11月26日米国側提案(ハル・ノート)が特に日本側に大きな失望を与えたのは、第2項の項目3、4、5、9でした。それは今までの日米交渉の努力が反映されず、中国からの兵力及び警察力の撤収、重慶政府以外の政府の不支持、義和団事変(北清事変)後の明治34年(1901)の「北清事変ニ関スル議定書」によって英、米、仏、伊各国と共に認められた駐兵権及び治外法権の抛棄、日独伊三国同盟の無力化を含む内容が提起されていたからでした。

 このUnited States Note to Japan November 26, 1941(ハル・ノート)を受けた東條内閣及び陸海軍統帥部は、作戦発動期日条件の関係から設定した対米交渉期限である「十二月一日午前零時迄ニ成功」できないと判断し、それまでの和戦両論を解消して主戦1本にまとまるに至り、11月5日の御前会議において東條首相は、会議に先立ち以下のような冒頭陳述を行いました。

 「・・・政府に於きましては、凡有手段を尽し、全力を傾注して、対米国交調整の成立に努力して参りましたが、米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、更に米英蘭支聯合の下に、支那より無条件全面撤兵、南京政府(汪精鋭政権)の否認、日独伊三国同盟の死文化を要求する等、新なる条件を追加し、帝國の一方的譲歩を強要して参りました。若し帝國にして之に屈従せんか、帝國の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝國の存立をも危殆(きたい)に陥らしむる結果と相成る次第でありまして、外交手段に依りては到底帝國の主張を貫徹し得ざることが明かとなりました。・・・・・事茲に至りましては、帝國は現下の危局を打開し、自存自衛を全うする爲、米英蘭に対し開戦の已むなきに立至りましたる次第であります」と。  続きを読む

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2005年12月18日

日本(25)−布哇(ハワイ)作戦(5)

 

 Nomura meets the press after having appointed as Foreign Minister (26 September 1939)

 (旧暦 11月 17日)

 日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)のつづき
 
 昭和16年(1941)4月からワシントンにおいて開始された日米交渉は、様々な曲折を経ながらも解決への進展は見られませんでした。
 そして東條内閣の下、11月5日の御前会議で「武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」とし、「対米交渉カ十二月一日午前零時迄ニ成功セハ武力発動ヲ中止ス」との最終的決定がなされましたが、その中には対米交渉の別紙要領も含まれていました。

 対米交渉別紙要領
 対米交渉ハ、従来懸案トナレル重要事項ノ表現方式ヲ緩和修正スル別記甲案或ハ別記乙案の如キ局地的緩和案ヲ以テ交渉ニ臨ミ、之ガ妥結ヲ計ルモノトス


 甲案 
 これまでの日本の主張を、表現を変えまた譲歩を加えて再提示するもの
 (以下要点略記) 
 1. 支那及び仏印ニ於ケル駐兵及撤兵問題
  • 北支、蒙彊、海南島派遣の日本国軍隊は、日支間平和成立後所要期間駐屯(概ね二十五年を目途)し、爾余の軍隊は2年以内に撤去
  • 仏領印度支那に派遣の日本国軍隊は、日支間平和成立後撤去
 2. 支那ニ於ケル通商無差別待遇問題
  • 通商無差別問題は、全世界でこれが行われる場合のみ、支那・太平洋地域で行われることを承認。
 3. 三国条約(日独伊三国同盟)ノ解釈及履行問題
  • 三国同盟は、日本政府自身の判断によって行動する。
 (以下略)


 乙案
 問題の先送り
 (以下要点略記) 
 1. 日米両国政府は、仏印以外には武力進出しない
 2. 日米両国政府は、蘭印において物資獲得に協力する
 3. 日米両国政府は、通商関係を資金凍結前に戻し、米国政府は日本に石油を供給する
 4.米国政府は、日支両国の和平を妨害しない(中華民国国民政府である蒋介石政権を支援しない)
 備 考
  • 協定成立後に南部仏印の日本軍を北部印印に移駐する
  • 支那事変解決後は仏印から撤退する
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2005年12月17日

日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)

 

 軍令部総長 永野修身海軍大将

 (旧暦 11月 16日)

 日本(23)−布哇(ハワイ)作戦(3)のつづき

 昭和16年(1941)11月5日、永野軍令部総長より山本聯合艦隊司令長官宛に奉勅命令(陸海軍の統帥者である大元帥陛下の命令)である大海令(大本営海軍部命令)第一号が発せられました。

 大海令第一號
     昭和一六年十一月五日
 奉勅         軍令部總長 永野修身
   山本聯合艦隊司令長官ニ命令
 一、帝國ハ自存自衛ノ為、米國英國及蘭國ニ対シ開戰ヲ予期シ諸般ノ作戦準備ヲ完整スルニ決ス
 二、聯合艦隊司令長官ハ所要ノ作戰準備ヲ実施スベシ
 三、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム


 これを受けて山本聯合艦隊司令長官は同日付で、「対米英蘭戦争ニ於ケル聯合艦隊ノ作戦ハ別冊ニ依リ之ヲ実施ス」とした膨大な内容の機密聯合艦隊命令作第一号を発令しました。そしてそこに初めて正式に「機動部隊及先遣部隊ハ米国艦隊ヲ布哇方面ニ攻撃ス」との対米国艦隊作戦要領が示されました。

 11月13日、山本聯合艦隊司令長官は南遣艦隊[小沢治三郎中将(海兵37期)指揮、軽巡洋艦「香椎」、敷設艦「初鷹」]を除く聯合艦隊麾下の各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀等を岩国海軍航空隊に参集させ、作戦命令の説明と打合せを行い、以下のような内容の指示を行いました。

 1. 開戦概定期日は12月8日(日本時間)であること。
 2. 布哇攻撃の機動艦隊主力は千島列島択捉(エトロフ)島単冠(ヒトカップ)湾に集結の後、11月下旬単冠湾を抜錨し、北方航路をとって布哇に向かうべきこと。
 3. 外交交渉妥結の場合には、聯合艦隊命令作第一号に明記したごとく、『情勢ニ大変化アリタル場合ニハ「第二開戦準備」(作戦海面への進出展開)ヨリ「第一開戦準備」(戦備ヲ整ヘ作戦開始前ノ待機地点ニ進出待機)ニ復帰セシムルコトアリ』との命令を厳守すること。
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2005年12月16日

日本(23)−布哇(ハワイ)作戦(3)


 

 昭和16年(1941)10月18日、総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らとの記念撮影

 
 (旧暦 11月 15日)

 日本(22)−布哇(ハワイ)作戦(2)のつづき

 海軍軍令部第一部(作戦担当)が、聯合艦隊の布哇作戦計画に反対した理由は以下のようなものでした。

 1. 作戦が投機的でリスクが大きく、たとえ奇襲攻撃に成功したとしてもその時に真珠湾に米主力艦隊が在泊している保証はない。
 2. 開戦後、真の戦略目的である南方作戦(ジャワ島に進出して南方の油田地帯を確保する目的)のために、支障を来す。


 しかし、海軍大学校での図上演習で布哇作戦計画を検討して欲しいとの聯合艦隊先任参謀黒島大佐の強い要請により軍令部が譲歩し、昭和16年(1941)9月16、17日の2日間、目黒の海軍大学校の特別室で布哇作戦特別図上演習が行われました。
 その結果、攻撃側の青軍は、主力艦4隻撃沈、1隻大破、航空母艦2隻撃沈、1隻大破、巡洋艦6隻を撃沈破、航空機180機を撃墜破との判定が出ましたが、攻撃側の被害も大きく、航空母艦2隻が撃沈され2隻が小破、航空機127機を失い、翌日には飛行艇や長距離爆撃機の攻撃により、残りの航空母艦2隻も撃沈されて全滅し、搭載航空機全てを失うという結末になりました。

 同年10月19日、山本聯合艦隊司令長官の布哇攻撃に対する職を賭した不動の決意と航空母艦6隻による布哇作戦の決定案を持って軍令部に出頭した黒島先任参謀は、第一部長福留繁少将(海兵40期)、第一課長富岡定俊大佐(海兵45期)と激論になりましたが、決断を迫られた軍令部総長永野修身大将(海兵28期)の裁定により決済され、11月5日に布哇作戦は正式に認可されてしまいました。

 

 昭和十六年 大東亞戰爭開戰直前の省部一同(海軍省、軍令部)合同写真。

 左から4人目 伊藤整一軍令部次長、3人おいて 永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣、
 1人おいて 澤本頼雄海軍次官、2人おいて 福留 繁軍令部第一部長、右端 中原義正海軍省人事局長。
 二列目左から5人目 富岡定俊軍令部第一課長。
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2005年12月12日

日本(22)−布哇(ハワイ)作戦(2)

 

 聯合艦隊司令長官 山本五十六大将

 (旧暦 11月 11日)

 日本(21)−布哇(ハワイ)作戦(1)のつづき

 昭和16年(1941)8月1日に発表されたアメリカの対日石油輸出禁止に対応するために開かれた9月6日の近衛内閣最後の第6回御前会議において、「対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ」にもう一度中断していた日米交渉を再開し、「十月初旬ニ至ルモ尚我カ要求ヲ貫徹スル目途無キ場合ニ於イテハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」という内容の国策が決定されました。

 帝国国策遂行要領(昭和16年9月6日、大本営政府連絡懇談会決定)

 帝国ハ現下ノ急迫セル情勢特ニ米英蘭等各国ノ執レル対日攻勢ソ聯ノ情勢及帝国国力ノ弾撥性等ニ鑑ミ「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」中南方ニ対スル施策ヲ左記ニ依リ遂行ス

 一、帝国ハ自存自衛ヲ全フスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ、概ネ十月下旬ヲ目途トシテ戰争準備ヲ完整ス

 二、帝国ハ右ニ併行シテ、米英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽クシテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム。対米(英)交渉ニ於テ、帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項、並ニ之ニ関連シ、帝国ノ約諾シ得ル限度ハ別紙ノ如シ

 三、前号外交交渉ニヨリ、十月初旬ニ至ルモ尚我カ要求ヲ貫徹スル目途無キ場合ニ於イテハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス。対南方以外ノ施策ハ、既定国策ニ基キ、之ヲ行ヒ、特ニ米蘇ノ対日連合戦線ヲ結成セシメザルニ勉ム
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:55Comments(0)歴史/日本

2005年12月11日

日本(21)−布哇(ハワイ)作戦(1)

 

 ビルマ公路・レド公路・ハンプ空路のルート図

 (旧暦 11月 10日)

 沢庵忌 書画・詩文に通じ、茶道にも親しんだことで知られる江戸初期の臨済宗の僧沢庵宗彭の正保2年(1646)の忌日
      春せうは 値千金の御茶師哉

 聯合艦隊司令長官山本五十六大将(海兵32期、1884〜1943)の対米英戦回避の努力も空しく遂には日米が戦うことになり、開戦劈頭の海軍による布哇(ハワイ)作戦真珠湾攻撃から64年が経過しました。
 開戦通告の不手際により「卑怯なだまし討ち」とされた真珠湾攻撃は、米国民の士気を喪失させるという山本の意図から大きくはずれて逆に米国世論を硬化させ、対日参戦、ひいてはアメリカの第二次世界大戦への参戦を招く結果となってしまいました。

 昭和6年(1931)の満洲事変以来アジアの覇権をめぐって対立してきた日米両国は、昭和12年(1937)の日華事変を契機にその確執を一層深め、アメリカは日本軍隊の満洲事変以前への復帰すなわち満州国を含む中国や東南アジアからの撤兵を強く要求し続けていました。

 一方、泥沼の日中戦争にはまりこんでいた日本は、中国の蒋介石政権に対する英米の援助ルートである「援蒋ルート」の遮断と資源獲得のための来るべき南方作戦に備えて、昭和15年(1940)9月23日に陸軍が北部仏領インドシナに武力進駐を強行し、9月27日には近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を締結していました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:09Comments(0)歴史/日本