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2012年05月12日

日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 仁科芳雄博士(1890〜1951)

 (旧暦閏3月22日)

 今次大戦における日本の原爆開発研究については、日本国および日本政府の正式記録は存在しません。

 また、旧帝国海軍の原爆開発研究については、関係した個人の回想録に記述されている程度以上の記録は無いようです。

 以下、『日米の原爆製造計画の概要』(名古屋大学大学院理学研究科、福井崇時氏の論文)を参考に、海軍と陸軍の計画をたどってみましょう。

 1. 海軍

 face01 昭和17年7月8日

  海軍技術研究所の伊藤庸二造兵大佐の主唱により、原爆開発を目的とする物理懇談会を発足。
  麻布の海軍水交社(海軍将校の親睦・研究団体)に集まり、会の名称を「核物理応用研究委員会」とする。

   海軍側出席者 伊藤庸二造兵大佐 水間正一郎技官
   委員長  仁科芳雄
   委 員  長岡半太郎 西川正治 水島三一郎 浅田常三郎 菊池正士
         (嵯峨根遼吉 日野寿一 渡辺寧) 後に参加

   昭和18年3月6日までの間に、十数回の研究会を開催
   注)造兵 兵器の製造などを担当する部門

  【結 論】
 (a) 原子爆弾の製造は可能。
 (b) 米英両国は今次戦争に間に合わせ得るや否や、おそらく実現困難ならん。
 (c) 日本にはウラン原鉱石はない。
 (d) 強力電波は原子爆弾より実現性が高い。


 ※ 海軍は、昭和17年に京都帝国大学理学部荒勝文策教授にサイクロトロン建設援助と核物理研究を依託し、研究費60万円を支給。

 face02 昭和19年10月4日

  大阪の海軍水交社にて、「ウラニウム問題懇談会」の第一回会合を開催。

   出席者
   川村宕矣大佐    (海軍航空本部出仕)
   三井再男大佐    (海兵49期、艦政本部部員)
   黒瀬清技術大尉  (海軍航空本部出仕)
   四手井海軍航空廠員
   湯川秀樹      (東大理学部、昭和17年より東大理学部教授)
   岡田辰三   (京大工学部)
   荒勝文策、佐々木申二、木村毅一、小林稔  (京大理学部)
   萩原篤太郎  (化学研究所)
   千谷利三、奥田毅  (阪大理学部)
   坂田昌一    (名大理学部)

  ウラン同位元素分離には荒勝教授は遠心分離法を採用する計画を発表。
  核分裂連鎖反応の可能性について湯川秀樹教授が報告。

 face03 昭和20年7月21日

  琵琶湖ホテルにて、京都帝国大学と海軍の打ち合わせ会合。

   黒田麗少将 (海兵44期、海軍技術科学研究所)ほか2名
   湯川秀樹 (東大理学部)
   荒勝文策、木村毅一、小林稔 (京大理学部)
   奥田毅    (阪大理学部)
   坂田昌一  (名大理学部)

  【結 論】
  「原子爆弾の製造は、原理的には可能、現実には無理」


  この集まりが最後の会合となった。

 2. 陸軍

 face05 昭和15年(1940)4月
  
  陸軍派遣学生として昭和15年3月に東京帝国大学理学部物理学科を卒業した鈴木辰三郎大尉が陸軍航空技術研究所に勤務。
  陸軍航空技術研究所の所長安田武雄中将(陸士21期、陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業)が、「ウラン核分裂の軍事利用調査」を同所員の鈴木辰三郎大尉に指示。
  鈴木大尉は、東京帝国大学理学部物理学科で師事した嵯峨根亮吉教授(第13代帝国学士院長長岡半太郎博士の五男)の指導の下に、理化学研究所の仁科芳雄博士の教示を受け、昭和15年(1940)10月に報告書を安田中将に提出。
  陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将は、仁科博士の研究を援助する方針を定める。  
   
 仁科芳雄博士(1890〜1951)は、大正7年(1918)7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業して前年の大正6年(1917)に発足したばかりの理化学研究所に入ると同時に、東京帝国大学大学院に進学しました。

 その後、大正10年(1921)から7年間、ヨーロッパに留学してイギリスのケンブリッジ大学キャンベンディッシュ研究所所長アーネスト・ラザフォードのもとで研究に従事し(約1年間滞在)、ドイツのゲッチンゲン大学、デンマークのコペンハーゲン大学にも学んでいます。

 コペンハーゲン大学では1922年のノーベル物理学賞受賞者で量子論の創始者でもあるニールス・ボーア(1885〜1962)に師事して指導を受け、スエーデンの理論物理学者オスカル・クライン(Oskar Klein,1894〜1977)とともに量子電磁力学で最小単位の単電子からくる光子の散乱の反応断面積に関する「クライン・仁科の公式」を導出して、物理学の歴史に名を残しています。 
 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 の関係式が成り立ちます。

 昭和6年(1931)7月には理化学研究所に仁科研究室を立ち上げ、当時国内では誰も取り組んでいなかった量子論、原子核、X線などの研究を行いました。

 昭和7年(1932)にイギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィック(1891年〜1974)によって中性子が発見されると、X線の代わりに宇宙線を研究対象に加えています。

 昭和12年(1937)4月には小型のサイクロトロン(粒子加速器)を完成させ、同年10月にニールス・ボーアを日本に招聘しています。
 
 昭和18年(1943)2月には220トンの大型サイクロトロン本体を完成させ、昭和19年(1944)1月から実験を開始し、約16MeVの重陽子を加速するまでに至っています。

 日本(40)-旧帝国陸海軍の核兵器開発(12)

 仁科博士(中央)と組み立て中の大サイクロトロン

 face01 昭和16年(1941) 

  仁科博士は研究費として陸軍航空技術研究所に2万円を申請、陸軍航空技術研究所所長安田武雄中将はこれを20万円にしてサイクロトロン運転援助資金とする。

  また、安田武雄中将は仁科博士に原爆開発研究調査を正式に依頼し、仁科博士は仁科研究室の玉木英彦に同調査を担当させる。
   
  この調査をもとに、理化学研究所からの報告書には、総合意見として「核分裂計算結果は核兵器出現の可能性が相当有り」と記述される。

  理化学研究所からの報告書を、鈴木辰三郎少佐が安田武雄中将に提出。

 face02 昭和17年(1942) 

  陸軍航空本部が、理化学研究所の大河内正敏所長に「原爆開発計画」を要請。
  仁科研究室の研究を「軍事機密研究二号研究」とし、航空本部直轄としてウラン濃縮研究をすすめる。
  注) 仁科研究室の「ニ」をとって秘匿名「二号研究」と称す。


 仁科博士は陸軍より「召集延期者」の指定を受け、若く優秀な科学者を研究室に集めています。
   玉木英彦  : 分離装置設計と基礎計算
   (1909〜 ) 東京帝国大学理学部物理学科卒。34年理化学研究所仁科研究室に入る。52年東大教授。東大名誉教授、仁科記念財団常務理事。

   木越邦彦  : 六フッ化ウラン製造
   (1919〜 ) 東京帝国大学理学部化学科卒。理化学研究所助手などをへて、54年学習院大教授。学習院大名誉教授。

   竹内 柾  : 熱拡散分離筒の製作とウラン235の分離

   飯盛研究室 : ウラン資源調査及びウラン精製 
   飯盛里安(1885〜1982) 東京帝国大学理科大学化学科卒。理化学研究所の創設期から主要研究員として放射性鉱物の探査、放射能測定機の考案、希有元素の精錬、後進の教育などにあたり、放射化学の主要な分野で活躍。

 face05 昭和19年 初頭

  鈴木辰三郎少佐への軍命令 「陸軍航空本部員に補し理化学研究所仁科研究室へ派遣」
  鈴木辰三郎少佐他中尉7名少尉4名理化学研究所へ派遣、経費300万円
   
 face06 昭和19年春

  旧駒込上富士前町(本駒込6丁目)の六義園を将校宿舎の敷地に借り上げ、理化学研究所へ研究費2,000万円を支給。
  鈴木辰三郎少佐は目黒の海軍技術研究所菊池正士教授を訪ねて、濃縮ウラン製造のため大阪帝国大学理学部菊池研究室の一部借用許可を要請。
  注) 大阪帝国大学理学部菊池正士教授は、昭和18年(1943)8月までに海軍技師となり目黒の海軍技術研究所へ出向

  分離筒製作、運転は鈴木少佐が担当。
  分離筒は住友鋼管の池島俟雄博士に依頼 6本製作
  尼崎の住友鋼管研究所にも分離筒を設置。
  (住友鋼管に発注した6本の分離筒のうち、3本が大阪帝国大学理学部菊池研究室に設置)

 face07 昭和19年(1944)7月20日

  竹内柾研究員が分離筒へUF6(六フッ化ウラン)ガスの注入開始。

 face08 昭和20年(1945)1月

  竹内柾研究員が分離筒からガスサンプルを採取。
  山崎文男研究員がU-235の濃縮度をサイクロトロンによる放射化法で測定。

 face09 昭和20年(1945)3月

  測定の結果、U-235の濃縮は認められず、分離は不成功と結論。

 face12 昭和20年(1945)3月14日

  3月14日未明、グアム島、サイパン島、テニアン島から発進したB29爆撃機274機の焼夷弾による夜間無差別爆撃により、大阪市の中心市街地は壊滅。
  大阪帝国大学理学部(大阪市北区中之島)は消失を免れるも、電気、ガス、水道等の社会インフラの供給が断続的となり、この状況は敗戦後まで続く。

 face11 昭和20年(1945)4月14日

  4月14日未明、B29爆撃機約170機の焼夷弾による夜間無差別爆撃により王子、赤羽地区を中心とした東京の城北地域が被災し、駒込にあった理化学研究所も分離筒を設置していた49号館が焼失、分離筒も破壊された。

 face04 昭和20年(1945)5月

  仁科博士は、鈴木少佐に研究の中止を宣言。

 face06 昭和20年(1945)8月15日

  敗戦。数日後、大阪帝国大学理学部菊池研究室に設置していた3本の分離筒は、学生の手によって筑前橋から土佐堀川に沈められた。

  また、理化学研究所仁科研究室の大型サイクロトロンは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって昭和20年11月に東京湾に投棄されています。

 

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:23│Comments(0)歴史/日本
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