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2012年11月27日

おくの細道、いなかの小道(16)−塩竃

 

 (旧暦10月14日)

 一 八日 
 朝之内小雨ス。巳ノ尅ヨリ晴ル。仙台ヲ立。十符菅・壺碑ヲ見ル。未ノ尅、塩釜ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おもはくの橋・浮島等ヲ見廻リ帰。出初ニ塩釜ノかまを見ル。宿、治兵ヘ、法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。
 『曾良随行日記』


 元禄二年(1689)旧暦五月八日、歌枕見物を終えた芭蕉翁一行は再び塩竃へ戻り、仙台の画工加右衛門に紹介された法連寺門前の塩竃神社裏坂(東参道)にある治兵衛という旅籠に草履を脱ぎ、その夜はここに宿泊しました。

 百首歌めしける時、月のうたとてよませ給うける
 しほかまのうらふくかせに霧はれて やそ島かけてすめる月かけ
                 清輔 千載和歌集  巻四  秋上     285


 ここで、芭蕉らは銭湯に入浴し、近くの旅籠で盲目の法師が奏でる奥州浄瑠璃を聞いたと記していますが、曾良の日記には全く触れられていないので、事実かどうか不明だとか。

 東歌
 陸奥歌
 みちのくはいづくにあれどしほがまの 浦漕ぐ舟の綱手かなしも
                    古今和歌集  巻二十 大歌所御歌 1088

 わがせこを都にやりてしほがまの まがきの島のまつぞ恋しき
                    古今和歌集  巻二十 大歌所御歌 1089

 
 「越前丸岡 蓑笠庵梨一 撰」による『奥細道菅菰抄』によれば、

 塩がまのうらは、宮城郡に有ル名所。本名千賀の浦にて、しほがまあり。千賀の塩竃と云故に、此うらを亦しほがまの浦共いふ也。
 
 とのこと。

 連歌師里村昌琢(1574〜1636)が二十一代集の勅撰和歌集から名所に関わる和歌を抄出し、いろは順に歌枕を並べて収録した『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊には、歌枕『塩竃』は三十一首が挙げられています。

 

 『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊 歌枕『塩竃』

 みちのくの千賀の塩竃ちかながら からきは人にあはぬなりけり
               読人不知 續後撰和歌集  巻十二 戀二 738

 よしやただ千賀の塩竃近かりし かひもなき身は遠ざかるとも
                 為氏 續後拾遺和歌集 巻八  離別 594

 歌枕としての「塩竃の浦」は、恋の叙述と関連する趣を帯びているとともに、
 
 見し人の煙となりし夕べより 名ぞむつまじき塩竃の浦
                紫式部 新古今和歌集  巻八  哀傷 820

 いにしへの蜑(あま)や煙となりぬらん 人目も見えぬ塩竃の浦
             一条院皇后宮 新古今和歌集  巻十八 雜下 1717 


など、塩竃の煙にちなんで無常哀傷の心を詠んだ歌もあります。

 江戸後期の医者、橘南谿(1753〜1805)が著した紀行文『東遊記』には、当時の塩竃の繁栄ぶりが描かれています。

 奥州仙臺の東北四五里に、塩竃といふ町あり。塩竃明神を祭る地故、其所の名とす。甚だ繁花の地にて、屋數も千軒に餘り、遊女などもありて、仙臺邊の人の遊興の場所なり。海に添ふ地ゆえ、船も入りて殊に賑か也。
 塩竃明神の宮居甚だ廣大美麗にして、去年京を出でしよりいまだ見ざる所也。一國の人甚だ尊信して、月參或は講參り抔(など)とて、九州の人の宰府の天神に詣ずるがごとし。其ゆへに、旅館なども大にして又多し。酒、魚物に至るまで富めり。
 『東遊記 巻之二 十六 塩竃』


 松島湾の南部に位置する塩竃津は、古代から陸奥国府多賀城の外港(国府津)として、発展してきました。塩竈津はまた、歌枕となるのみならず、陸奥国一の宮の鹽竈神社なども置かれ、この地域の重要な港でもありました。

 時代はくだり慶長六年(1601)、初代仙台藩主伊達政宗による仙台の開府によって、塩竃は領内北方の年貢米、三陸地方の材木や海産物を仙台城下に運び入れるための外港としての役割を担ってきました。しかし開府当初は、塩竃と仙台間は陸路の運送であったため、米や材木などの重い荷物の運搬には舟運が望まれ、舟入堀および舟曳堀が開削されました。

 塩竈から仙台まで舟入堀と舟曳堀が引かれて物資が塩竈を素通りするようになると、鹽竈神社を尊崇していた四代藩主伊達綱村(在任1660〜1703)は事態を憂え、貞享二年(1685)、塩竈から課役を免除し、米以外の産物に塩竈への着岸を義務付けました。

 このため、諸国からの船や人々が多く集まり、仙台藩では塩竃の旅籠に遊女を雇い入れることなども黙認していたと考えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:31Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2012年11月23日

書(18)−蔡襄−求澄心堂紙尺牘

 

 求澄心堂紙尺牘 蔡襄[北宋]
 紙本墨書 一冊
 縦29.5㎝ 横31.5㎝ 台北
 
 (旧暦10月11日)

 求澄心堂紙尺牘は、蘇軾(1012〜1067)、黃堅庭(1045〜1105)、米芾(1051〜1107)と併せて北宋の書の四大家と称された蔡襄(1012~1067)が、澄心堂紙を求めたときの尺牘(せきとく、書簡)で、楷行書体で書かれ、端整流麗、柔和にして、二王(王羲之、王献之)の書風を母胎に顔真卿の骨格を示すもので、蔡襄の尺牘のなかでも晩年期の最も優れたものとされています。

 澄心堂紙一幅闊狭厚薄
 堅實皆類此乃佳工者不
 願爲又恐不能爲之試與
 厚直無莫得之見其楮細似
 可作也便人只求百幅癸卯重
 陽日 襄  書


 澄心堂紙一幅、闊(ひろ)く狭く厚く薄く
 堅實なること皆な此の類い、乃ち佳し
 工者は爲すを願はず、又恐れ之に爲す能はず
 試みて厚直、之を得る莫し
 其の楮(ちょ、こうぞ)の細を見、似て作すべきなり
 便人只だ百幅を求む
 癸卯重陽日 襄書


 末尾の「癸卯重陽日」は、嘉祐八年(1063)、即ち蔡襄五十二歳の時に当たります。

 この尺牘は、明代後期の書画収集家項元汴(1525〜1590)の旧蔵で、清朝第六代皇帝乾隆帝(在位1735~1795)が、乾隆十二年(1747)、内府所蔵の古名跡を技術の粋を集めて刻した三十二巻の大集帖である『三希堂法帖』に刻入されています。
 澄心堂とは、五代南唐(937〜975)の先主、烈祖李昪(lǐ biàn、在位937‐943)の書斎の雅名ですが、風流をもって聞こえた後主、李煜(lǐ yù、在位961〜971)が宮中所属の製紙工に命じ、桑皮を材料として抄造せしめた最上質の紙に澄心堂紙と名付けたことによります。

 単に良質の紙というよりも工芸品ともいうべきもので、中国としては空前絶後、古今第一等の紙と云われ、当時からすでに貴重なものであったと云います。
 それならば宋代にはなおさら得がたいものであった様ですが、なおかつこれを所持し珍重するものがあったと云います。

 蔡襄はこれを復元しようとしましたが遂に果たせず、断念したとも謂われ、後に清朝第六代皇帝乾隆帝が苦心の末に復元させたと言われています。
 さてこの蔡襄が撰したとされる「文房四説」という文房四寶(硯、筆、墨、紙)について述べた文章が、清朝第六代皇帝乾隆帝の勅命により編纂された、中国最大の漢籍叢書である『四庫全書』に掲載されています。

 端明集 文房四説 (宋)蔡襄 撰
(四庫全書 集部 別集類 端明集卷三十四) 嘉穂のフーケモン拙訳

 新作無池の硏(硯)、龍尾石羅紋、金星玉の如きは、佳し。筆は、諸葛髙、許頔(きょてき)、皆竒物なり。紙は、澄心堂存する有るは、殊に絶品なり。墨は、李庭珪有り、承晏、易水の張遇また獨歩を爲す。四物文房は先ず推す。好事者宜しく散卓に意を留むる所、筆心長く、特に佳し。


 新作の墨池の無い硯で、龍尾石(江西省婺源縣渓頭郷の龍尾山山麓一帯の石材)で羅紋(石紋は絹のように美麗で、色彩は青黒、肌理が細かくて温潤である)、金星があり玉のごとき物、これは佳い。

 筆は、諸葛高(唐代宣州の名筆匠)、許頔(xŭ dí、常州の名筆匠)、みな優れている。

 紙は、澄心堂紙が残っているなら特に絶品である。
 
 墨には李庭珪(唐末、歙州の墨工)があり、承晏(李庭珪の弟、李庭寛の子)あるいは易水の張遇もまた独歩の地位をしめている。
 
 これら四つの文房用具をまず推薦できる。また好事家であれば散卓筆(芯を作らず中心と周囲で長さが同じ毛か、あるいはごくわずかに周囲の毛を短くした筆)に意を留めるべきであるし、その筆の心(芯)が長いものは特によいものである。

 硯は、端溪の星無き石、龍尾、水心にて緑紺玉石の如く、二物は入用、餘は道に足らず。墨は、李庭珪を第一と爲し、庭寛、承晏は之に次ぎ、易水の張遇は之に次ぎ、陳朗は又之に次ぐ。造作に法有るは獨ならず、松烟自ずと異なり、當に是を辨ずるなり。
 紙は、李王の澄心堂を第一と爲す。其の物江南の池、歙二郡に出ずるも、今世復た精品を作らず。蜀牋は久しく堪へず、自餘、皆佳物に非(あら)ざるなり。 
 筆は、毫を用うること難しと爲す。近くは宣州の諸葛高、鼠鬚の散卓を造り、長心の筆に及ぶや、絶へて佳し。常州の許頔造る所の二品、亦た之に減ぜず。然るに其の運動、手に隨ひて滯ること無し。各是一家、一體而して之を論ずべからざるなり。


 硯は端溪石で星の無い者、龍尾石であって水中で視れば緑紺で玉石の如きもの、この二つの硯材のみが入用で、ほかの硯材については取るに足りない。

 墨は李庭珪を第一とし、弟の李庭寛、李庭寛の子の李承晏がこれに次ぎ、易水の張遇はこれに次ぎ、陳朗はさらにこれに次ぐ。その造作に方法が有る者は独りではないが、使われている松烟が自ずと異なるので、墨を弁別する事ができるのである。
 
 紙は南唐の李王朝の澄心堂紙が第一である。その紙は江南の池州、歙州の二郡で作られるが、現在はふたたび精良な品をつくることはできない。蜀牋は長い年月に耐えることが出来きないから、それ以外は皆良いものではない。

 筆は材料の毛に良い物をそろえる事が難しい。近年では宣州の諸葛高が造った、鼠の髯の散卓筆で芯の長い筆は絶佳である。また常州の許頔の作るところの二品は、また諸葛高の筆に劣らない。然るに筆を執って動かせば、手の動きに随って滞るところがない。諸葛高と許頔はそれぞれ一家を成しており、その優劣を一概にして論じる事が出来ないものである。


 歙州績渓の紙、乃ち澄心堂の遺物は、唯だ新有るなり。鮮明之に過ぐ。今世の紙の多くは南方に出ず。烏田、古田、由拳、温州、恵州の如きは皆名を知る。績渓の擬、曾て其の門牆に及び得ず。婺源の石硯は羅文有り、金星、蛾眉、角浪、松文、豆斑の類(たぐひ)、其の要は堅宻温潤に在り。天將隂雨、水脈自ら生じ、墨を磨るを可とするに至るは、斯れ寳とすべき者なり。黄山松煤の精に至る者は、李庭珪に比すべき墨を造る。然るに匠者の多くは貧にして、人において利を求むるを以て、故に逮(およ)ばず。近くに道人有り、自ら能く烟を焼く。黄山に煤を取ることに就くを令して遣すに、必ず佳きものを得る。歙州の此の三物は竒絶なり、唯だ好事厚資を以て之を致すべし。若し官勢を以て臨みても、能く至ること莫きなり。李隩は績渓に下りて而して由拳に優り、烏田と相ひ埒(ひとしい)。循州の藤紙は微精細、而して差黄。他の竹筋をもってする處、道に足りず。房用之筆の用うべき果ては、鋒齊勁健なり。今世の筆、例せば皆鋒長くして使ひ難きは、鋒銳に至るに比し少損すれば、已に禿して使ふに中(かな)はず。
 (後略)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:11Comments(0)

2012年11月18日

青山霊園(1)ーなりたち

  

 晩秋の青山霊園桜並木

 (旧暦10月5日)

 晩秋の一日、早朝に板橋村を出発して滝野川〜大塚〜茗荷谷〜江戸川橋〜牛込天神町〜市ヶ谷加賀町〜曙橋〜四谷三丁目〜信濃町〜青山二丁目〜青山霊園とジョギングをしてきました。

 目的地の青山霊園は東京都が管理する公営墓地で、わが国最古の公共霊園のひとつです。面積は約二十六万平方メートル、明治五年(1872)、美濃郡上藩四万八千石青山家の下屋敷跡に開設されましたが、当初は神道の葬儀の神葬祭墓地でした。

 徳川幕府が編纂した江戸の地誌『御府内備考』には、

 青山は天正十九年(1591)青山常陸介忠成が宅地を賜りし地なり。或云、青山忠成十万石の時は、今の青山の地一円に屋敷也。その後忠俊、幸成兄弟街道を隔て住す。 (中略)
 後年次第に上げ地となりて、青山氏の上げ地といふべきを下略して青山と呼びしより、おのずから一つの地名となり。又其近き辺をもかの名をおし及ぼして、ともに青山といひしかば、今は広き地名となれり。


 と記されています。

 つまり青山の地名は、徳川家康の譜代の重臣青山忠成(1551〜1613)が原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広大な土地を屋敷地として拝領したことに由来するようです。

 

 青山霊園案内図
 
 青山氏は、『寛政重修諸家譜』に、

「花山院堀川師賢の子信賢、その子師資、其の嗣師重、初めて青山と称す」

とあり、後醍醐天皇の忠臣であった花山院師賢(1301〜1332)の孫師重が、後醍醐天皇の孫の尹良親王が三河から上野国に移った時、これに従って吾妻郡青山郷(群馬県中之条町)に住んで青山氏と称したのに始まるとされています。

 美濃国郡上八幡藩の青山氏の先祖は大職冠の後裔で、その孫房前を祖とする藤原北家から十二代目の大納言藤原師実の子家忠が花山院氏の祖となり、花山院氏十代目師資の子師重が上野国吾妻郡青山郷(現群馬県吾妻郡中之条町青山)に居住して青山氏を名乗った。

 大職冠とは大化三年丁未(644)に制定された位階の最高位で、臣下では藤原鎌足が初めて授けられたことから鎌足の別称とされる。

 花山院は清和天皇の皇子式部卿貞保親王の邸宅があったところで東一条、東院とも称され、周囲に花木が多く植えてあって花山と呼ばれたことから花山院の名がつけられ、後に藤原師実が伝領してその子家忠の代にこの花山院を氏号としてその祖となった。

 建武三年丙子(1336)に後醍醐天皇は邸宅花山院を仮皇宮として吉野へ移り、応仁元年丁亥(1467)に起った応仁の乱で花山院は焼失した。 青山氏の祖師重は新田一族とともに尹良(ただよし)親王を奉じて南朝に合流しようと信州浪合に至った応永三年丙子三月(1396)に北朝軍に攻撃されて壊滅した。このとき師重の子次郎丸が逃れて三河に至り酒井家で育てられ、その子権之丞光教が松平氏に臣従して三河松平氏三代目信光(泰親の子で、家康の曽祖父信忠の曽祖父)の岩津城入城に従い百々(どうどう)村に所領を与えられた。

光教から忠治[明応二年癸丑(1493)没]─長光─忠教─清治[天文四年乙未(1535)没]─忠康─忠門と続き、忠門の子忠成の二男忠俊の系統は宗家として江戸期を通じ、大坂城代、老中などの幕府要職に就き、常陸国江戸崎藩主、武蔵国岩槻藩主、信濃国小諸藩主、遠江国浜松藩主、丹波国亀山藩主などを経て、寛延元年戊辰(1748)に丹波国多紀郡篠山藩(現兵庫県篠山市)へ六万石で入封し維新を迎えて廃藩後は子爵となった。また、忠門の子忠成の三男幸成の系統は分家として、幸道の代に美濃国郡上八幡藩へ移封して四万八千石を領し維新を迎えて廃藩後は子爵となった。
『明宝寒水史』 郡上八幡藩青山氏(他説もある)


 藤原師実流青山氏として始めて記録に残る青山忠門(1519〜1571)は、松平宗家で家康の父である松平廣忠(1526〜1549)に臣属していましたが、主君廣忠が死去すると今川家の人質になっていた嫡男家康の帰還を待って仕え、元亀二年(1571)辛未四月に甲斐の武田信玄が遠江の郷民と盟約して岡崎城に押し寄せた際、岩津村で戦って負傷し、同月七日に五十四歳で死去したと伝えられています。

 忠門の嫡男忠成(1551〜1613)は早くから家康に近仕していましたが、元亀二年(1572)、二十一歳の時に父忠門が武田氏の三河侵攻による戦いがもとで死亡した事により、その家督を継いでいます。
 天正十三年(1585)、家康の三男秀忠の傳役(ふやく)となり、天正十六年(1588)、秀忠十一歳の時に上洛した際、随従して秀吉から従五位下常陸介に叙任されました。
 天正十八年(1590)、家康の関東入国後は御書院御番頭に任ぜられ相州佐間(相模国高座郡座間)に五千石の領地を賜っています。
 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いには秀忠に従軍して遅参しましたが、同年十一月には播磨守となり、翌年には常陸国江戸崎に一万八千石を与えられて大名に列しています。さらに慶長八年(1603)の幕府開設後も、江戸奉行、関東総奉行を兼任し、本多正信、内藤清成と並んで幕政の中枢を担っています。
 
 この忠成の四男幸成(1586〜1643)の五代の後胤幸道(1725〜1579)が、宝暦八年(1758)に美濃郡上藩四万八千石に移封され、幕末に至っています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:50Comments(0)青山霊園

2012年11月11日

数学セミナー(28)ーテンソル密度

 

 空間の3個の次元のうち、2個のみを示したミンコフスキー空間の図

 (旧暦9月28日)

 数学セミナーと銘打って長々と書いてきましたが、その内容は結局は近代物理学の発展の歴史でした。
 それならば物理学セミナーと名前を変更すれば良いのでしょうが、ま、現代物理学もあらゆる数学概念を駆使して表されている以上、ここまで来た愛着もあるので、このまま数学セミナーという項目で続けましょう。

 前回まで、一般相対性理論で示されたアインシュタインの重力方程式を導きだし、その厳密解であるシュヴァルツシルト解を解いて、19世紀初頭にすでにブラックホールの存在を示唆することになったシュバルツシルト半径を求めました。

 ところで、アインシュタインの重力方程式の厳密解はこのシュヴァルツシルト解のほかに、いくつか見つけられています。

 1. シュバルツシルト解(Schwarzschild solution) (1916)
  ドイツの天文学者、天体物理学者カール・シュヴァルツシルト (Karl  Schwarzschild、1873〜1916)が、砲兵技術将校として第一次世界大戦時の東部戦線に従軍中に導き出した解で、球対称で自転せず且つ真空な時空を仮定してアインシュタインの重力方程式を初めて解いたもの。

 

 2. ライスナー・ノルドシュトロム解(Reissner‐Nordstrøm solution) (1916,1918)
   球対称で自転せず且つ真空な時空はシュバルツシルト解と同じ条件ですが、天体が電荷を持っている点が異なり、ドイツのライスナーが1916年に点電荷の場合について解き、フィンランドのノルドシュトロムが球対称の電荷分布に拡張したもの。

 

 3. カー解(Kerr solution) (1963)
  真空中を定常的に回転する軸対称なブラックホールを表現しており、ニュージーランドの数学者ロイ・カー(Roy Kerr)によって1963年に発見されました。

 

 4. カー・ニューマン解(Kerr‐Newman solution) (1965)
   回転する電荷を帯びたブラックホールを表現する軸対称時空の計量 (metric)で、1965年にアメリカのニューマン (Ezra T. Newman) らによって発見されました。質量・角運動量・電荷の3つのパラメータを持つブラックホール解として、一般相対性理論の描く時空の姿の理解に広く使われています。

 

 さて今回は、一般相対性理論をさらに展開するために必要なテンソル密度(tensor density)という概念について考えてみます。

 ディラック博士(Paul Adrien Maurice Dirac,1902〜1984)は、その著『GENERAL THEORY OF RILATIVITY』のなかで、ブラック・ホールの項の次に、テンソル密度(tensor density)の項を設けて解説しています。

 座標を変換すると、4次元の体積要素は以下のように表されます。

 

 

 と定義されます。
 
 (28.1)を簡略にして、下記のように表します。

 

 

 と表されますが、右辺は三つの行列の積とみることが出来ます。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:59Comments(0)数学セミナー

2012年11月04日

国立故宮博物院(8)ー鵲華秋色圖

 

 (旧暦9月21日)

 みなさん、お元気ですかの?
 暑い日がつづき、しばらくサボっておりましたら、秋風が凍みる今日この頃となりました。

 さて今回の「鵲華秋色圖」(巻 紙本著色 縦28.4cm 横90.2cm)は、元朝に仕えた宋の宗室につらなる文人政治家、趙孟頫(1254〜1322)が、山東歴城(済南市歴城区)にある華不注山とそれより数十キロ離れた黄河の対岸にある鵲山(じゃくざん)を描いた傑作で、後にこの絵を所有した清朝第六代皇帝乾隆帝(在位1735〜1796)も多くの賛文を書き入れ、多数の印章を捺しています。

 趙孟頫は済南で任官しましたが、鵲・華二山は済南にある名山です。本巻は1295年、趙孟頫が故郷の浙江に戻ってから、周密(1232〜1298)のために描いた画です。周氏の原籍は山東ですが、趙孟頫の故郷呉興で生まれ育ち、山東には行ったことがありませんでした。趙孟頫は周密のために済南の風景の美しさを述べ語り、この画を描いて贈りました。

 果てしなく広がる水面の遠くに目をこらして見ると、地平線上に二座の山が聳えています。右の双峰が突き出した険しい山が「華不注山」、左の頂上の丸いのが「鵲山」です。

 この作品は、中国絵画史においては文人画風の青緑山水として認識されています。二つの主峰は、花青に石青が混ざり深い藍色を呈しています。中州の淡い青、木の葉の濃度の異なる青など、同じ青による色調の変化が形成されています。また、坂になった部分や水辺には赭(そほ;茶色に近い赤土)が使われ、屋根や木の幹、木の葉には紅、黄、赭が使われています。これら暖色系の色合いと花青の組み合わせが、色彩学上の補色効果を生じています。実に巧みな色使いです。
(文・王耀庭)

 趙孟頫曾任職濟南、鵲、華二山就是濟南所在的名山。本卷畫成於一二九五年回到故郷浙江、為周密(公謹1232〜1298)所畫。周氏原籍山東、卻是生長在趙孟頫家郷的吳興、也從未到過山東。趙氏既為周密述說濟南風光之美、也作此圖相贈。遼闊的江水沼澤地上、極目遠處、地平線上。矗立著兩座山、右方雙峰突起、尖峭的是「華不注山」、左方圓平頂的是「鵲山」。此幅向為畫史上認定為文人畫風式青綠設色山水。兩座主峰以花青雜以石青、呈深藍色。這與州渚的淺淡、樹葉的各種深淺不一的青色、成同色調的變化、斜坡、近水邊處、染赭、屋頂、樹幹、樹葉又以紅、黃、赭。這些暖色系的顏色、與花青正形成色彩學上補色作用法。運用得非常恰當。
(撰稿/王耀庭)


 鵲華秋色
 華不注山在濟南城北約二十里的地方、位於濟南市東北、黃河之南的平原地區、海拔一百九十七公尺、是濟南名勝「齊煙九點」中最高的山。「華不注」為俗語「花骨朵」的音轉、形容含苞待放的荷花。華不注山陡峻險絕、歷史上許多文人墨客都曾到此、並留下許多佳作名篇、至今被人吟誦不已。


 華不注山は濟南城の北約二十里(10㎞)の地に在って、濟南市の東北に位置しています。そこは黃河の南岸の平坦な地域で、海拔一百九十七公尺(197m)、濟南の名勝「齊煙九點」中の最高の山です。「華不注(huá bù zhù)」とは俗語「花骨朵(huā gū duŏ);花の蕾」の音轉で、荷花(蓮の花)の蕾がふくらみ花が今まさに咲こうとしているさまを形容しています。華不注山は陡峻險絕(高く険しく切り立っている)し、歷史上たくさんの文人墨客が都曾より此に到り、たくさんの佳作名篇を残して、今に至るまで人が吟誦することが已みません。
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 

 華不注山

 

 鵲山

 ちなみに、「齊煙九點」とは、中唐の詩人李賀(791〜817)の《夢天》という詩の「遙望齊州九點煙」という句に由来しています。

 夢天
 老兎寒蟾泣天色     老兎 寒蟾(かんせん) 天色に泣き

 雲楼半開壁斜白     雲楼 半ば開き 壁斜めに白し

 玉輪軋露濕團光     玉輪 露に軋(きし)りて 團光濕(うるほ)い

 鸞珮相逢桂香陌     鸞珮(らんばい) 相逢う 桂香の陌
(みち)
 黄塵清水三山下     黄塵 清水(せいすい) 三山の下

 更變千年如走馬     更變すること千年 走馬の如し

 遙望齊州九點煙     遙かに望めば 齊州九點の煙

 一泓海水杯中瀉     一泓(わう)の海水 杯中に瀉(そそ)ぐ

 
 年老いた兎(うさぎ)や寂しげな蟾(がま)が 天上で泣いている。
 雲の楼閣は半ばとびらが開き 壁は斜めに白く輝く。
 王の車輪は露に軋んで 球形の光が飛び散り、
 鸞や鳳の帯玉を着けた天人たちは 木犀の香る陌
(みち)を行き交う。
 黄塵と清水は 蓬莱山、方丈山、瀛洲山の三神山の下
 くるくると変化する千年も 疾走する馬のように一瞬のことなのだ。
 遙かに見おろせば中華全土は 九つのかすむ点に見える。
 澄みきった海水は 杯中に注がれている。


 

 李賀

 登濟南千佛山的中途、有一座牌坊、正面匾額上題著「齊煙九點」四個大字。站在千佛山上看得到濟南北邊的九座小山:匡山、粟山、北馬鞍山、藥山、標山、鳳凰山、鵲山、華不注山、臥牛山。

 濟南の千佛山を登る途中に一座の牌楼があり、正面の扁額には「齊煙九點」の四個の大きな字が書かれている。千佛山上に立ち止まると、濟南北邊の九座の小山を看ることができる。すなはち、匡山、粟山、北馬鞍山、藥山、標山、鳳凰山、鵲山、華不注山、臥牛山の九山である。

 この華不注山に関しては、孔子が編纂したと伝えられる魯の国の歴史書「春秋」の代表的な注釈書のひとつである「左氏傳」の成公二年(B.C.589年、周定王十八年、齊頃公十年、晉景公十一年)の項には、次のような記述があります。

 成公二年、齊の頃公が魯、衛を攻めたので、両国は晉に援軍を求めました。晉は齊の覇業を阻止するために、正卿・中軍の将郤克に戦車八百乗を率いて魯、衛に向かわせました。
 齊と晉の両軍は鞍(山東済南西北)に布陣して、六月十八日に激突します。
 晉軍の統帥郤克は矢に中って負傷し、血が足元まで流れましたが指揮を取り続け、兵を鼓舞して士気を揚げ続けました。そして、これに応えた晉軍は勇猛に突撃し、齊軍を大いに破りました。
 齊の頃公は晉軍に追われ、「華不注山」を三周して逃げ回ったと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:12Comments(0)国立故宮博物院