2012年11月04日
国立故宮博物院(8)ー鵲華秋色圖
(旧暦9月21日)
みなさん、お元気ですかの?
暑い日がつづき、しばらくサボっておりましたら、秋風が凍みる今日この頃となりました。
さて今回の「鵲華秋色圖」(巻 紙本著色 縦28.4cm 横90.2cm)は、元朝に仕えた宋の宗室につらなる文人政治家、趙孟頫(1254〜1322)が、山東歴城(済南市歴城区)にある華不注山とそれより数十キロ離れた黄河の対岸にある鵲山(じゃくざん)を描いた傑作で、後にこの絵を所有した清朝第六代皇帝乾隆帝(在位1735〜1796)も多くの賛文を書き入れ、多数の印章を捺しています。
趙孟頫は済南で任官しましたが、鵲・華二山は済南にある名山です。本巻は1295年、趙孟頫が故郷の浙江に戻ってから、周密(1232〜1298)のために描いた画です。周氏の原籍は山東ですが、趙孟頫の故郷呉興で生まれ育ち、山東には行ったことがありませんでした。趙孟頫は周密のために済南の風景の美しさを述べ語り、この画を描いて贈りました。
果てしなく広がる水面の遠くに目をこらして見ると、地平線上に二座の山が聳えています。右の双峰が突き出した険しい山が「華不注山」、左の頂上の丸いのが「鵲山」です。
この作品は、中国絵画史においては文人画風の青緑山水として認識されています。二つの主峰は、花青に石青が混ざり深い藍色を呈しています。中州の淡い青、木の葉の濃度の異なる青など、同じ青による色調の変化が形成されています。また、坂になった部分や水辺には赭(そほ;茶色に近い赤土)が使われ、屋根や木の幹、木の葉には紅、黄、赭が使われています。これら暖色系の色合いと花青の組み合わせが、色彩学上の補色効果を生じています。実に巧みな色使いです。
(文・王耀庭)
趙孟頫曾任職濟南、鵲、華二山就是濟南所在的名山。本卷畫成於一二九五年回到故郷浙江、為周密(公謹1232〜1298)所畫。周氏原籍山東、卻是生長在趙孟頫家郷的吳興、也從未到過山東。趙氏既為周密述說濟南風光之美、也作此圖相贈。遼闊的江水沼澤地上、極目遠處、地平線上。矗立著兩座山、右方雙峰突起、尖峭的是「華不注山」、左方圓平頂的是「鵲山」。此幅向為畫史上認定為文人畫風式青綠設色山水。兩座主峰以花青雜以石青、呈深藍色。這與州渚的淺淡、樹葉的各種深淺不一的青色、成同色調的變化、斜坡、近水邊處、染赭、屋頂、樹幹、樹葉又以紅、黃、赭。這些暖色系的顏色、與花青正形成色彩學上補色作用法。運用得非常恰當。
(撰稿/王耀庭)
鵲華秋色
華不注山在濟南城北約二十里的地方、位於濟南市東北、黃河之南的平原地區、海拔一百九十七公尺、是濟南名勝「齊煙九點」中最高的山。「華不注」為俗語「花骨朵」的音轉、形容含苞待放的荷花。華不注山陡峻險絕、歷史上許多文人墨客都曾到此、並留下許多佳作名篇、至今被人吟誦不已。
華不注山は濟南城の北約二十里(10㎞)の地に在って、濟南市の東北に位置しています。そこは黃河の南岸の平坦な地域で、海拔一百九十七公尺(197m)、濟南の名勝「齊煙九點」中の最高の山です。「華不注(huá bù zhù)」とは俗語「花骨朵(huā gū duŏ);花の蕾」の音轉で、荷花(蓮の花)の蕾がふくらみ花が今まさに咲こうとしているさまを形容しています。華不注山は陡峻險絕(高く険しく切り立っている)し、歷史上たくさんの文人墨客が都曾より此に到り、たくさんの佳作名篇を残して、今に至るまで人が吟誦することが已みません。
(嘉穂のフーケモン拙訳)
華不注山
鵲山
ちなみに、「齊煙九點」とは、中唐の詩人李賀(791〜817)の《夢天》という詩の「遙望齊州九點煙」という句に由来しています。
夢天
老兎寒蟾泣天色 老兎 寒蟾(かんせん) 天色に泣き
雲楼半開壁斜白 雲楼 半ば開き 壁斜めに白し
玉輪軋露濕團光 玉輪 露に軋(きし)りて 團光濕(うるほ)い
鸞珮相逢桂香陌 鸞珮(らんばい) 相逢う 桂香の陌 (みち)
黄塵清水三山下 黄塵 清水(せいすい) 三山の下
更變千年如走馬 更變すること千年 走馬の如し
遙望齊州九點煙 遙かに望めば 齊州九點の煙
一泓海水杯中瀉 一泓(わう)の海水 杯中に瀉(そそ)ぐ
年老いた兎(うさぎ)や寂しげな蟾(がま)が 天上で泣いている。
雲の楼閣は半ばとびらが開き 壁は斜めに白く輝く。
王の車輪は露に軋んで 球形の光が飛び散り、
鸞や鳳の帯玉を着けた天人たちは 木犀の香る陌 (みち)を行き交う。
黄塵と清水は 蓬莱山、方丈山、瀛洲山の三神山の下
くるくると変化する千年も 疾走する馬のように一瞬のことなのだ。
遙かに見おろせば中華全土は 九つのかすむ点に見える。
澄みきった海水は 杯中に注がれている。
李賀
登濟南千佛山的中途、有一座牌坊、正面匾額上題著「齊煙九點」四個大字。站在千佛山上看得到濟南北邊的九座小山:匡山、粟山、北馬鞍山、藥山、標山、鳳凰山、鵲山、華不注山、臥牛山。
濟南の千佛山を登る途中に一座の牌楼があり、正面の扁額には「齊煙九點」の四個の大きな字が書かれている。千佛山上に立ち止まると、濟南北邊の九座の小山を看ることができる。すなはち、匡山、粟山、北馬鞍山、藥山、標山、鳳凰山、鵲山、華不注山、臥牛山の九山である。
この華不注山に関しては、孔子が編纂したと伝えられる魯の国の歴史書「春秋」の代表的な注釈書のひとつである「左氏傳」の成公二年(B.C.589年、周定王十八年、齊頃公十年、晉景公十一年)の項には、次のような記述があります。
成公二年、齊の頃公が魯、衛を攻めたので、両国は晉に援軍を求めました。晉は齊の覇業を阻止するために、正卿・中軍の将郤克に戦車八百乗を率いて魯、衛に向かわせました。
齊と晉の両軍は鞍(山東済南西北)に布陣して、六月十八日に激突します。
晉軍の統帥郤克は矢に中って負傷し、血が足元まで流れましたが指揮を取り続け、兵を鼓舞して士気を揚げ続けました。そして、これに応えた晉軍は勇猛に突撃し、齊軍を大いに破りました。
齊の頃公は晉軍に追われ、「華不注山」を三周して逃げ回ったと伝えられています。
成公二年
・・・・・・・
癸酉(六月十八日)、師、鞍に陳す。邴夏(へいか)、齊侯に御となり、逢丑父(ほうちうほ)、右(いう)と為り、晉の解張、郤克(げきこく)に御となり、鄭丘緩(ていきうくわん)、右(いう)と為る。
齊侯曰く、余(われ)姑(しば)らく此を翦滅(せんめつ)して朝食せん、と。馬に介せずして之を馳す。
郤克(げきこく)、矢に傷つき、流血、屨(くつ)に及べども、未だ鼓音を絕たず。曰く、余(われ)病めり、と。
張侯曰く、始めて合せしよりして、矢余(わ)が手を貫き肘に及べり。余(われ)折りて以て御せり。左輪朱殷なるも、豈に敢へて病めりと言はんや。吾子之を忍べ、と。緩(くわん)曰く、始めて合せしより、苟も險有らば、余(われ)必ず下りて車を推せり。子豈に之を識らんや。然らば子は病めり、と。
張侯曰く、師の耳目は、吾が旗鼓に在り。進退之に從ふ。此の車、一人之を殿せば、以て事を集(な)す可し。之を若何んぞ其れ病めるを以て、君之大事を敗(やぶ)らんや。甲(かぶと)を擐(つらぬ)き兵を執れば、固(もと)より死に卽(つ)くなり。病むも未だ死に及ばず。吾子之を勉めよ、と。
乃ち左に轡(たづな)を并(あは)せ、右に枹(ばち)を援りて鼓す。馬逸して止むる能はず。師、之に從ふ。齊の師、敗績す。之を逐ひて三たび、華不注を周(めぐ)れり。
・・・・・・・
『春秋左史傳 成公』
兵車
六月十八日、齊、晉の両軍は齊の鞍の地に陣をかまえた。邴夏は齊侯の兵車の御者となり、逢丑父は右役をつとめ、晉の解張が正卿・中軍の将の郤克の御者となり、鄭丘緩がその右役をつとめた。
齊侯は、「余はしばらく此の晉軍を翦滅してから朝食にしよう」と豪語して、馬を武装しないで晉軍の中に駈け入った。
郤克は矢に当たって負傷し、血は屨(くつ)まで流れ滴るという重傷であったが、かろうじて進撃の太鼓を絶え絶えに鳴らし、「わたしはもうだめだ」といって退却しようとした。
すると解張は、「合戦が始まった時から敵の矢がわたしの左手に当たり肘まで突き通しましたが、抜くいとまもなく、その矢を直ちに折って馬を御してきました。兵車の左輪は赤黒く染まっていますが、わたしはだめだなどと、どうして弱音を吐きましょうか。あなたも我慢してください」と叱咤した。
鄭丘緩は、「合戦の始めから、道の険しい所に来るとわたしは必ず下車して車を押してきましたが、あなたはきっとお気づきにならなかったでしょう。それも気づかれないということは、 やはり重傷を負われてお弱りになっておられるのです」と慰め、その退却を認めるかに見えた。
これを聞いた解張は、「わが全軍の目と耳は、わが元帥の旗と鼓に注がれており、進むも退くもわが動向に従っております。この兵車で元帥ひとりが落ちついて騒ぎを静められるならば、勝利は疑いありません。どうして重傷であるからといって、わが主君の大事なこの戦いを失敗させることが出来ましょう。 鎧を着け武器をとって出陣したからには、もとより死は覚悟です。重傷とはいってもまだ命には別状はありません。しっかりしてください」といって、解張は手綱を片手に握りなおし、右手で撥を取って進撃の太鼓を打ち鳴らした。
そのため郤克の馬は駆け出して止めることができなくなり、全軍はそれに遅れじと進撃した。かくして、齊軍は大敗した。
晉軍は敗走する齊軍を追撃して、華不注山の山麓を三度も追いまわした。
趙孟頫字子昂、宋太祖子秦王德芳之後也。五世祖秀安僖王子偁、四世祖崇憲靖王伯圭。高宗無子、立子偁之子、是為孝宗、伯圭、其兄也、賜第于湖州、故孟頫為湖州人。曾祖師垂、祖希永、父與訔、仕宋、皆至大官。入國朝、以孟頫貴、累贈師垂集賢侍讀學士、希永太常禮儀院使、並封吳興郡公、與訔集賢大學士、封魏國公。
『元史 巻一百七十二 列傳五十九 趙孟頫』
趙孟頫、字は子昂、宋の太祖の子秦王德芳之後也。五世の祖は秀安僖王子偁、四世の祖は崇憲靖王伯圭なり。高宗に子無く、子偁之子を立て、是を孝宗と為す。伯圭、其兄也。第于湖州を賜ふ、故に孟頫は湖州人と為る。曾祖師垂、祖希永、父與訔、宋に仕へ、皆大官に至る。國朝(朝廷)に入り、以て孟頫貴し。累贈して師垂は集賢侍讀學士、希永は太常禮儀院使、並びに吳興郡公に封じ、與訔は集賢大學士、魏國公に封ず。
(嘉穂のフーケモン拙訳)
趙孟頫は当初、南宋の真州司戸參軍となりますが、趙孟頫二十六歳の祥興二年(1279)の南宋滅亡後、故郷の湖州(浙江省吳興県)に隠棲しました。
しかし、その才能を惜しまれ、至元二十三年(1286)、「吳興八俊」の筆頭として推薦されて世祖フビライに出仕し、ついで二代成宗、三代武宗、四代仁宗、五代英宗と元朝の五代の皇帝に仕えました。三十四才で任官して、のちに翰林学士承旨、栄禄大夫にいたり、没後魏國公に封ぜられて文官としての栄達を極めました。
その書画はともに元代を代表するものと評されています。
山水画は、董巨(董源・巨然)の江南山水画、李郭(李成・郭熙)の華北山水画ならびに唐代の李思訓・李昭道の青緑山水を学んだと云われ、水墨・著色双方の山水画を描いています。
趙孟頫の著色山水を代表するこの「鵲華秋色圖」においては、汀を画面下部から上部へと連綿と連ねる構成や、柳や蘆などの題材、波打つ汀の線などは、江南山水画の祖とされる五代南唐の山水画家董源の山水画に倣うものとされています。
画面中央や、やや右の樹木が華北山水画の李郭派風の蟹爪樹であること、地平線を画面内に設定する点は李郭派の要素も取り込んでいることなどが指摘されていますが、基本的には董源を祖とする江南山水画の系譜に連なる作品とみなされています。
また、趙孟頫は書にも長じ、元貞年間(1295〜1296)以前は南宋の高宗の書を習い、ついで大徳年間(1297〜1307)には東晉の書聖王羲之の定武本『蘭亭序(らんていじょ)』の古法を追求し、晩年期の延祐年間(1314〜1320)にはには唐の李邕や柳公権の筆法を加味して碑書の用に供し、生涯の間にその書風は三変したと云われています。
行書右軍四事
さらには篆書、隷書をはじめ各書体を善くし、作画して精緻、専帖に『松雪斎法書』『松雪斎法書墨刻』『橘隠園趙帖』、著書に『松雪斎文集』などがあります。
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癸酉(六月十八日)、師、鞍に陳す。邴夏(へいか)、齊侯に御となり、逢丑父(ほうちうほ)、右(いう)と為り、晉の解張、郤克(げきこく)に御となり、鄭丘緩(ていきうくわん)、右(いう)と為る。
齊侯曰く、余(われ)姑(しば)らく此を翦滅(せんめつ)して朝食せん、と。馬に介せずして之を馳す。
郤克(げきこく)、矢に傷つき、流血、屨(くつ)に及べども、未だ鼓音を絕たず。曰く、余(われ)病めり、と。
張侯曰く、始めて合せしよりして、矢余(わ)が手を貫き肘に及べり。余(われ)折りて以て御せり。左輪朱殷なるも、豈に敢へて病めりと言はんや。吾子之を忍べ、と。緩(くわん)曰く、始めて合せしより、苟も險有らば、余(われ)必ず下りて車を推せり。子豈に之を識らんや。然らば子は病めり、と。
張侯曰く、師の耳目は、吾が旗鼓に在り。進退之に從ふ。此の車、一人之を殿せば、以て事を集(な)す可し。之を若何んぞ其れ病めるを以て、君之大事を敗(やぶ)らんや。甲(かぶと)を擐(つらぬ)き兵を執れば、固(もと)より死に卽(つ)くなり。病むも未だ死に及ばず。吾子之を勉めよ、と。
乃ち左に轡(たづな)を并(あは)せ、右に枹(ばち)を援りて鼓す。馬逸して止むる能はず。師、之に從ふ。齊の師、敗績す。之を逐ひて三たび、華不注を周(めぐ)れり。
・・・・・・・
『春秋左史傳 成公』
兵車
六月十八日、齊、晉の両軍は齊の鞍の地に陣をかまえた。邴夏は齊侯の兵車の御者となり、逢丑父は右役をつとめ、晉の解張が正卿・中軍の将の郤克の御者となり、鄭丘緩がその右役をつとめた。
齊侯は、「余はしばらく此の晉軍を翦滅してから朝食にしよう」と豪語して、馬を武装しないで晉軍の中に駈け入った。
郤克は矢に当たって負傷し、血は屨(くつ)まで流れ滴るという重傷であったが、かろうじて進撃の太鼓を絶え絶えに鳴らし、「わたしはもうだめだ」といって退却しようとした。
すると解張は、「合戦が始まった時から敵の矢がわたしの左手に当たり肘まで突き通しましたが、抜くいとまもなく、その矢を直ちに折って馬を御してきました。兵車の左輪は赤黒く染まっていますが、わたしはだめだなどと、どうして弱音を吐きましょうか。あなたも我慢してください」と叱咤した。
鄭丘緩は、「合戦の始めから、道の険しい所に来るとわたしは必ず下車して車を押してきましたが、あなたはきっとお気づきにならなかったでしょう。それも気づかれないということは、 やはり重傷を負われてお弱りになっておられるのです」と慰め、その退却を認めるかに見えた。
これを聞いた解張は、「わが全軍の目と耳は、わが元帥の旗と鼓に注がれており、進むも退くもわが動向に従っております。この兵車で元帥ひとりが落ちついて騒ぎを静められるならば、勝利は疑いありません。どうして重傷であるからといって、わが主君の大事なこの戦いを失敗させることが出来ましょう。 鎧を着け武器をとって出陣したからには、もとより死は覚悟です。重傷とはいってもまだ命には別状はありません。しっかりしてください」といって、解張は手綱を片手に握りなおし、右手で撥を取って進撃の太鼓を打ち鳴らした。
そのため郤克の馬は駆け出して止めることができなくなり、全軍はそれに遅れじと進撃した。かくして、齊軍は大敗した。
晉軍は敗走する齊軍を追撃して、華不注山の山麓を三度も追いまわした。
趙孟頫字子昂、宋太祖子秦王德芳之後也。五世祖秀安僖王子偁、四世祖崇憲靖王伯圭。高宗無子、立子偁之子、是為孝宗、伯圭、其兄也、賜第于湖州、故孟頫為湖州人。曾祖師垂、祖希永、父與訔、仕宋、皆至大官。入國朝、以孟頫貴、累贈師垂集賢侍讀學士、希永太常禮儀院使、並封吳興郡公、與訔集賢大學士、封魏國公。
『元史 巻一百七十二 列傳五十九 趙孟頫』
趙孟頫、字は子昂、宋の太祖の子秦王德芳之後也。五世の祖は秀安僖王子偁、四世の祖は崇憲靖王伯圭なり。高宗に子無く、子偁之子を立て、是を孝宗と為す。伯圭、其兄也。第于湖州を賜ふ、故に孟頫は湖州人と為る。曾祖師垂、祖希永、父與訔、宋に仕へ、皆大官に至る。國朝(朝廷)に入り、以て孟頫貴し。累贈して師垂は集賢侍讀學士、希永は太常禮儀院使、並びに吳興郡公に封じ、與訔は集賢大學士、魏國公に封ず。
(嘉穂のフーケモン拙訳)
趙孟頫は当初、南宋の真州司戸參軍となりますが、趙孟頫二十六歳の祥興二年(1279)の南宋滅亡後、故郷の湖州(浙江省吳興県)に隠棲しました。
しかし、その才能を惜しまれ、至元二十三年(1286)、「吳興八俊」の筆頭として推薦されて世祖フビライに出仕し、ついで二代成宗、三代武宗、四代仁宗、五代英宗と元朝の五代の皇帝に仕えました。三十四才で任官して、のちに翰林学士承旨、栄禄大夫にいたり、没後魏國公に封ぜられて文官としての栄達を極めました。
その書画はともに元代を代表するものと評されています。
山水画は、董巨(董源・巨然)の江南山水画、李郭(李成・郭熙)の華北山水画ならびに唐代の李思訓・李昭道の青緑山水を学んだと云われ、水墨・著色双方の山水画を描いています。
趙孟頫の著色山水を代表するこの「鵲華秋色圖」においては、汀を画面下部から上部へと連綿と連ねる構成や、柳や蘆などの題材、波打つ汀の線などは、江南山水画の祖とされる五代南唐の山水画家董源の山水画に倣うものとされています。
画面中央や、やや右の樹木が華北山水画の李郭派風の蟹爪樹であること、地平線を画面内に設定する点は李郭派の要素も取り込んでいることなどが指摘されていますが、基本的には董源を祖とする江南山水画の系譜に連なる作品とみなされています。
また、趙孟頫は書にも長じ、元貞年間(1295〜1296)以前は南宋の高宗の書を習い、ついで大徳年間(1297〜1307)には東晉の書聖王羲之の定武本『蘭亭序(らんていじょ)』の古法を追求し、晩年期の延祐年間(1314〜1320)にはには唐の李邕や柳公権の筆法を加味して碑書の用に供し、生涯の間にその書風は三変したと云われています。
行書右軍四事
さらには篆書、隷書をはじめ各書体を善くし、作画して精緻、専帖に『松雪斎法書』『松雪斎法書墨刻』『橘隠園趙帖』、著書に『松雪斎文集』などがあります。
國立故宮博物院(10)-江行初雪圖
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国立故宮博物院(7)-新莽嘉量
国立故宮博物院(6)−毛公鼎
国立故宮博物院(5)−大禹治水図玉山(2)
国立故宮博物院(4)−大禹治水図玉山(1)
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