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2017年11月22日

史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一

  

      近松門左衛門(1653〜1724)


    (旧暦10月5日)

    近松忌、巣林忌
    江戸期の浄瑠璃および歌舞伎狂言作家、近松門左衞門(1653〜1724)の享保九年(1724)年の忌日。本名は杉森信盛。平安堂、巣林子、不移山人と
    号す。代表作に、『曽根崎心中』元禄十六年(1703)、『冥途の飛脚』正徳元年(1711)、『国性爺合戦』正徳五年(1715)、『心中天網島』享保
    五年(1720)がある。

    秦の東を攘(はら)ひ諸侯を雄(いう)す所以は、樗裏(ちより)、甘茂(かんぼう)の策なり。よりて樗裏甘茂列傳第十一を作る。

    秦が東方諸国を打ち払い諸侯に勝った理由は、樗里子や甘茂の策略が大きな役割を果たした。そこで、樗里子と甘茂の列傳第十一を作る。 
            (太史公自序第七十:司馬遷の序文)

    権謀渦巻く中国の戦国時代(前403 〜前221)にあって、秦が韓、魏などの有力諸侯を従えて天下統一を成し遂げたことについては、
      1. 騎馬戦術に長けていたこと
      2. 激動する社会変動に対して、いち早く国家体制の変革を成し遂げたこと
      3. 優秀な人材を擁していたこと

などが挙げられています。

    秦以外の諸国は、合従・連衡策などにより秦に対抗しようとしましたが、これを打ち破るのに力を発揮したのが樗里子や甘茂でした。

    【樗里子】
    樗里子は惠文王(在位:前338〜前311)には将軍として、次の武王(在位:前310〜前307)には右丞相として、その次の昭襄王(在位:前306〜前251)には将軍として仕え、魏の曲沃(山西省臨汾縣)をはじめ、趙、楚を伐って功績がありました。
 
    樗里子(ちよりし)は、名は疾(しつ)。秦の惠王の弟なり。惠王とは異母、母は韓の女なり。樗里子、滑稽(弁舌が巧みで、人をうまく言いくるめる)にして多智なり。秦人號して智囊(ちなう、知恵袋)と曰ふ。
    秦の惠王の八年、樗里子を右更(いうかう、秦の十四番目の爵位)に爵し、將として曲沃を伐たしむ。盡く其の人を出だし(追放し)、其の城を取る。
    地、秦に入る。
    秦の惠王の二十五年、樗里子をして將と爲して趙を伐たしむ。趙の將軍莊豹を虜(とりこ)にし、藺(りん、山西省離石縣)を拔く。明年、魏章を助け
    て楚を攻め、楚の將屈丐(くつかい)を敗り、漢中の地を取る。


    秦の昭襄王の七年(前299)、樗里子は卒して、渭水の南、章臺の東に葬られましたが、その遺言で、「これから百年の後、ここに天子の宮殿ができ 
て、わが墓を左右から挟むようになるであろう」と言いました。
    樗里子の屋敷は、昭襄王の廟の西の、渭水の南の陰鄕の樗里にあったので、世間の人は彼のことを樗里子(ちよりし)と呼びました。
    漢(前漢、前206〜8)の時代になると、長樂宮がその東に、未央宮がその西に建てられ、また、その正面には武器庫がありました。
    秦の人のことわざにも、「力は則ち任鄙(じんぴ、秦の臣で力持ち)、智は則ち樗里」と云われていました。

    昭王の七年、樗里子卒す。渭南の章臺の東に葬る。曰く、後百歳にして、是れ當に天子の宮有りて、我が墓を夾むべし、と。樗里子疾の室は、昭王の廟の西、渭南の陰鄕の樗里に在り。故に俗に之を樗里子と謂ふ。
    漢の興るに至り、長樂宮其の東に在り。未央宮其の西に在り。武庫正に其の墓に直(あた)る。秦人の諺に曰く、力は則ち任鄙、智は則ち樗里、と。
 

    【甘 茂】
    甘茂(生没年不詳)は楚の低い身分に生まれ、諸子百家の説を学んだ後、秦の宰相張儀と將軍樗里子の紹介により、秦に仕えた論客でした。
    武王の即位後は左丞相となり、列国の力関係を利用しつつ、魏を懐柔して韓を討ち、韓の地方都市、宜陽(河南省洛陽縣)を陥落させます。

    甘茂(かんぼう)は、下蔡(安徽省寿縣の北の地)の人なり。下蔡の史擧先生に亊(つか)へて、百家の説を學び、張儀・樗里子に因りて秦の惠王に見(まみ)ゆるを求む。王見て之を說(よろこ)び、將として魏章を佐(たす)けて漢中の地を略定せしむ。

    惠王(在位 前338〜前311)卒し、武王(在位 前310〜前307)立つ。張儀・魏章去りて東のかた魏に之(ゆ)く。蜀候輝・相の莊反す。秦、甘茂をして蜀を定めしむ。還るや甘茂を以て左丞相と爲し、樗里子を以て右丞相と爲す。

    秦の武王三年(前307)、武王は甘茂に謂いて曰く、「私は三川(黄河、洛水、伊水の集まる周の都、洛陽)への道(秦の都、咸陽から洛陽へ通
じる函谷関、潼関などが立ちふさがる険路)を車馬が自由に通れるようにし、時期をみて、周を滅ぼそうと思う。そうすれば、私が死んでも名は不朽になる」と。
    甘茂曰く、「私が魏に行き、魏と共に韓を伐つ約束をさせていただきたい」と。そこで武王は向壽(しやうじゆ、宣太后の一族の者)を副使として行かせました。甘茂は魏に着き同盟を結ぶと、向壽に言います。「あなたは帰国して大王に、『魏は臣の言葉を聞き入れました。しかし、大王は韓を伐たないようにお願い申し上げます』と伝えていただきたい。この事が成れば、その功績はすべてあなたのものにして差し上げましょう」 と。
    向壽は帰国して武王に報告しました。武王は甘茂を息壌(秦の邑)まで出迎え、甘茂が到着すると韓を伐つべきではない理由をたずねました。

    秦の武王三年、甘茂に謂ひて曰く、寡人、車を容るるばかりに三川を通じ以て周室を窺はんと欲す。而らば寡人死すとも朽ちじ、と。甘茂曰く、請ふ、魏に之き、約して以て韓を伐たん、と。而ち向壽をして輔行せしむ。甘茂至り、向壽に謂ひて曰く、子歸りて之を王に言ひて、魏、臣に聽く、然れども願はくは王伐つ勿かれ、と曰へ。亊成らば盡く以て子の功と爲さん、と。向壽歸りて以て王に告ぐ、王、甘茂を息壤に迎ふ。甘茂至る。王其の故を問ふ。

    【韓を伐たない理由】
        1.  韓の宜陽(河南省宜陽縣)は大縣であり、上黨(韓の地名。山西省東南部)も南陽(魏の地名。河南省獲嘉縣)も以前から兵糧を蓄えて
             いる。名は縣であるが、実際は郡と同じである。今、王が何箇所もの難所を越えて、千里の道のりを移動して之を攻めるのは容易で
             はない。

  

    中国戦国時代勢力図

        2.  昔、孔子(前551〜前479)の高弟曾參(前505〜前435)が魯の国の費(山東省費縣)というところにいた時、魯の国の者で、曾參と
             姓名を同じくする者が人を殺した。それを知った者が曾參の母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。しかし、曾參の母親は
             平然として機を織っていた。やがて別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。彼の母親はやはり平然と機を織り続け
             ていた。暫くして又別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言うと、これを聞いた曾參の母親は杼(ひ、緯糸を通す用具)
             を放り出して機からおり、墻(かき)を乗り越えて走り出した。

             曾參の賢明さと母親の信頼とがあっても、三人もの者が曾參を疑うと、さすがの母も本当なのではと恐れた。今、臣の賢明さなどは
             曾參に及ばず、王の臣に対する信頼も曾參の母の子に対する信頼には及ばない。臣を疑う者はたった三人ではない故に、大王が杼
             (ひ)を投げ出した曾參の母のように臣を疑うのではないかと恐れた。

        3.  昔、縦横家張儀(不詳〜前309)は秦のために西は巴(四川省東部)・蜀(四川省成都付近)の地を併合し、北は西河(山西省西部)の
             外を開き、南は上庸(楚の地名。湖北省竹山縣の東南)を取得したが、天下は張儀の功績だとは看做さず、先王(惠文王、在位:前
             338〜前311)が賢なのだとした。
       
             魏の文侯(在位:前445〜前396)は樂羊を将として中山(河北省定縣)を攻めさせ、三年にしてこれを抜いた。楽羊は帰還してそ
             の功を論じたが、文侯は楽羊を誹謗した箱一杯の書を見せた。それを見た楽羊は再拝稽首して、「これは臣の功績ではありません。
             主君(文侯)のお力です。」と言った。

             今、臣は外国から参じたよそ者の臣下であり、樗里子(母が韓の王女)、公孫奭(元韓の公子)の二人が韓を保護するために臣を誹
             謗すれば、大王は必ずこれを聞き入れることになる。そうなると、大王は魏王を欺いたということになり、臣は公仲侈(韓の宰相)
             の怨みを受けることになる。


    【息壌の盟】
    武王は、「寡人(私)は卿についての誹謗は聞き入れないでおく。それを卿と約束しよう」と言いました。
    こうして武王は丞相甘茂に兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たせました。甘茂が五ヶ月かけても抜けずにいると、樗里子・公孫奭がやはり誹謗してきました。すると、武王は甘茂を召喚し、軍を引き上げようとしました。これに対し甘茂は言いました。「息壌はそこにありますぞ(約束をお忘れになりましたか)。」 武王は言いました。「そうであった。」 そこで兵力を総動員して、甘茂に命じて韓を伐たせました。敵の斬首は六万、遂に宜陽を陥落させました。韓の襄王は公仲侈を遣わして謝罪をさせ、秦と和睦しました。

    この事から「息壌の盟」という故事ができたと言うことです。

  

      中国戦国時代(紀元前350年頃)三晋図

    王曰く、寡人聽かず。請ふ子と盟さん、と。卒(つひ)に丞相甘茂をして兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして拔けず。樗里子、公孫奭(こう
そんせき)果たして之を爭ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、息壤(昭王が他者の意見を受け入れないと甘茂に誓った場所)彼(かしこ)に在り、と。王曰く、之れ有り(そうであった)、と。因りて大いに悉く兵を起こし、甘茂をして之を撃たしむ。首を斬ること六萬、遂に宜陽を拔く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:20Comments(0)史記列傅

2013年01月14日

史記列傳(13)−張儀列傳第十

 

 戦国形勢図(紀元前350年)

 (旧暦12月3日)

 今日は大雪。小寒を過ぎて大寒を迎えようとしているこの時期に大雪とは・・。
 平日でなくてよかったのい。

 六國既に從親(せうしん)し、而して張儀能く其の說を明らかにして、復た諸侯を散解す。よりて張儀列傳第十を作る。

 齊、楚、燕、韓、趙、魏の六国はすでに合従して盟約していたのに、張儀はよく自説を明示して、ふたたび諸侯の国々をばらばらにしてしまった。ゆえに張儀列傳第十を作る。
 (太史公自序第七十:司馬遷の序文)


 張儀(?〜309BC)は魏に生まれ、後に合従策を打ち出した蘇秦とともに、齊の鬼谷先生(王禪老祖、戦国時代の縦横家で百般の知識に通じ、『鬼谷子』三巻を著したといわれる人物、鬼谷=河南省鶴壁市淇県の西部に位置する雲夢山に住したとされる)に師事して学問を習いました。

 鬼谷先生のもとで学び終えた張儀は、諸侯の間を遊説して廻ります。
 あるとき楚の宰相の相手をして酒を飲んでいる内に、宰相が璧(へき、玉器)を紛失してしまいます。
 家来たちは張儀を疑い、「張儀は貧乏で品行も良くない。こいつがわが君の璧を盗んだに違いない。」と、群がって張儀を捕らえ、数百回も笞を打ちました。しかし、張儀が罪を認めないので、解き放ちました。


 張儀已に學びて、諸侯に游說す。嘗て楚の相に從ひて飲す。已にして楚の相璧(へき)を亡(うしな)ふ。門下、張儀を意(うたが)ひて曰く、儀は貧にして行(おこな)ひ無し。必ず此れ相君の璧(へき)を盜みたらん、と。共に張儀を執(とら)へ掠笞(りやうち)すること數百。服せず、之を醳(ゆる)す。

 張儀の妻が、「ああ、あなたが書を読んだり遊説したりしなければ、こんな辱めは受けなかったでしょうに。」と云うと、張儀は妻に向かって云いました。「私の舌を見よ。まだついているか、どうだ。」と。
「舌はついています。」と妻が笑いながら答えると、張儀は云いました。
「舌さえあれば十分だ。」と。


 其の妻曰く、嘻(ああ)、子、書を讀み游說すること毋(な)かりせば、安(いづ)くんぞ此の辱(はづかし)めを得んや、と。張儀其の妻に謂ひて曰く、吾が舌を視よ、尚ほ在りや不(いな)や、と。其の妻笑ひて曰く、舌在り、と。儀曰く、足れり、と。

 当時、張儀と同門の蘇秦は、趙の粛公(在位349BC〜326BC)に説いて、合従の盟約を結ばせることに成功していました。しかし、蘇秦は、秦が諸侯を攻撃して合従の盟約が破られ、それがもとで後になって諸侯から責められることを恐れていました。そこで秦に赴いて、秦が諸侯を攻撃しないように工作する人物を検討していました。

 蘇秦は同門の張儀に目を付け、人を派遣して、張儀に対して蘇秦に会うようにそれとなく勧めます。

 そこで張儀は趙に赴き、蘇秦に面会を求めます。しかし蘇秦は、同門のよしみで面会に来た張儀に対して、なかなか面会に応じず、また面会はしたものの庭先に座らせ、下男に与えるような粗末な食事を与えて、「子は収むるに足らざるなり」と屈辱します。

 張儀は、屈辱され怒りに打ち震えますが、秦のみが趙を苦しめることができようと考えて、秦に行くことを決意します。

 その後、張儀は蘇秦の蔭の資金援助により、秦の惠王(惠文王、在位338BC〜311BC)の客卿(他国から来て卿相となったもの)に取り立てられます。
 
 後になって蘇秦の策略に従って知らず知らずの内に行動していたことを蘇秦の側近から知らされた張儀は、秦への仕官が叶ったことから、蘇秦がいる限りは決して趙を陥れようとはしないと蘇秦の側近に伝言させます。

 張儀既に秦に相たり。文檄を爲(つく)りて楚の相に告げて曰く、始め吾、若(なんぢ)に從ひて飲む。我、而(なんぢ)の璧(へき)を盜まず。若(なんぢ)、我を笞うてり。若(なんぢ)、善く汝(なんぢ)の國を守れ。我顧(かへ)りて且(まさ)に而(なんぢ)の城を盜まんとす、と。

 秦という巨大な軍事力を背景に、張儀はその得意の舌を使って、恫喝、虚言、御爲ごかし、誹謗、讒言・・等々、あらゆる手段で戦国の世を引っかき回していきます。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:52Comments(0)史記列傅

2012年03月24日

史記列傳(12)−蘇秦列傳第九

 

  Map showing the Seven Warring States; there were other states in China at the time, but the Seven Warring States were the most powerful and significant.
  face01 Qin (秦)
  face02 Qi (齊)
  face03 Chu (楚)
  face04 Yan (燕)
  face05 Han (韓)
  face06 Zhao (趙)
  face08 Wei (魏)

 (旧暦3月3日)

 檸檬忌
 作家梶井基次郎の昭和7年(1932)の命日。白樺派を代表する小説家志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を著すも文壇に認められてまもなく肺結核で没した。死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。代表作の『檸檬』から檸檬忌と呼ばれている。

 

 梶井基次郎(1901〜1932)

 天下は秦の衡に饜(あ)くること毋(な)きを患(うれ)ふ、而(しかる)に蘇子能く諸侯を存し、從を約し以て貪彊を抑ふ。よりて蘇秦列傳第九を作る。

 天下のひとびとは連衡の同盟によって、秦が満足することはあるまいと患(うれ)いていた。しかるに蘇子(蘇秦)は六国の諸侯の存立をはかり、合従の盟約をむすんで、貪欲で強大な秦をおさえることができた。ゆえに蘇秦列伝第九を作る。
 (太史公自序第七十:司馬遷の序文)


 「合従連衡」という熟語は高校の世界史に出てきた記憶がありますが、今日の高校では受験に関係のない世界史は履修しないとか。ほんまかいなあ?

 英語では、次のように解説しています。
 alliance (of the Six Kingdoms against the Qin dynasty, and of individual Kingdoms with the Qin dynasty)
 なるほど、against the Qin dynasty with the Qin dynastyとの違いやね。

   face05 「合従」は、中国戦国時代(B.C.403〜B.C.221)の諸国(楚、齊、燕、趙、魏、韓)が連合して強国「秦」に対抗する政策のことで、「秦」以外の国が秦の東に南北に並んでいること(縦=従)による。

   face02 「連衡」は、「秦」と同盟し生き残りを図る政策のことで、秦とそれ以外の国が手を組んだ場合、それらが東西に並ぶことを(横=衡)といったことによる。
 
 この中国の戦国時代は、不安定な混沌とした社会において巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸国を巡り、諸侯を説き伏せて自らも地位を得ようとする縦横家が活躍した時代でもありました。
 数多い縦横家の中でも合従策を唱えた蘇秦(?〜B.C.317?)と連衡策を唱えた張儀(?〜B.C.309?)が有名ですが、蘇秦はその弁舌によって同時に六国(楚、齊、燕、趙、魏、韓)の宰相を兼ねたとされています。
 しかしながら、司馬遷(B.C.145〜?)が史記を執筆した時代は蘇秦より200年以上後のことであり、また秦の始皇帝(B.C.259〜B.C.210)の焚書坑儒(書を燃やし、儒者を坑する)によって大量の資料が失われたたためにその記述に正確さを欠き、後世の研究によって様々な矛盾が指摘されているようです。

 司馬遷は、
 世の蘇秦を言ふこと異多し。異時の事、之に類する者有れば、皆之を蘇秦に附けしならん。
 世の中で蘇秦に関する話には異説が多い。蘇秦と時代が異なっていても、よく似たことがあれば蘇秦のものとされてしまっている。
 とも述べています。

 さて、蘇秦(?〜B.C.317?)は東周の洛陽に生まれ、後に連衡策を打ち出した張儀とともに、齊の鬼谷先生(王禪老祖、戦国時代の縦横家で百般の知識に通じ、『鬼谷子』三巻を著したといわれる人物、鬼谷=河南省鶴壁市淇県の西部に位置する雲夢山に住したとされる)に師事して学問を習いました。

 蘇秦者、東周雒陽人也。東事師於齊、而習之於鬼谷先生。
 蘇秦は東周の雒陽の人なり。東のかた齊において師に事(つか)へ、之を鬼谷先生に習ふ。

 遊学すること数年、困窮しきってふるさとに帰ってきましたが、兄弟、兄嫁、妹、妻、妾までがみなかげで笑いあいました。
 周の人は、農業に従事し、工芸や商売に精を出し、二割の利益を求めることが務めなのに、あの子は生業をすてて弁舌を仕事にしているのだから、貧乏するのも当然ではないか、と。

 出游數歲、大困而歸。兄弟嫂妹妻妾、竊皆笑之曰、周人之俗、治產業、力工商、逐什二以為務。今子釋本而事口舌。困不亦宜乎。
 出游すること數歲、大いに困(くる)しみて歸る。兄弟嫂妹妻妾、竊(ひそ)かに皆之を笑ひて曰く、周人(しうひと)の俗は、產業を治め、工商を力(つと)め、什(十)の二を逐ひ以て務めと為す。今、子は本を釋(す)て口舌を事とす。困(くる)しむも亦宜(うべ)ならずや、と。
 
 蘇秦はこれを聞いて恥ずかしく思い、落ち込んでしまいました。そこで部屋を閉じて外に出ず、蔵書全てに目を通した後、「男子たるもの一度心に決めて人に頭を下げて学問を習ったというのに、それによって栄誉を得ることができないとしたら、読んだ書物が多くても何にもならないではないか。」と自嘲しました。

 なるほど、当節の引きこもりですな!

 そんなとき、蔵書の中から『周書陰符』を見つけてこつこつとこれを読み、一年経って揣摩の術を考案、「やった〜!これで今の世の諸侯達を説得できる。」と確信しました。

 『周書陰符』は、周の軍師太公望呂尚の作と云われ、『大公陰符』ともよばれる兵法書ですが、現在に伝わってはいません。
 また、「揣摩(しま)」とは、他人の気持ちなどを推量することを意味し、従って揣摩の術とは一種の弁論術で、君主の心を見抜き、思いのままに操縦する術のことだそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:50Comments(0)史記列傅

2011年05月22日

史記列傳(11)ー商君列傳第八

 

 (旧暦4月20日)
 
 鞅(あう)は衞を去りて秦に適(かな)ひ、能く其の術(すべ)を明らかにして、彊(し)いて孝公を霸たらしめ、後世其の法に遵(したが)ふ。よりて商君列伝第八を作る。

 商鞅(しょうおう)は衛を去つて秦に赴き、自分の学術を明らかにして、秦の孝公を覇者にし、後世その法は秦の模範とされた。そこで、商君列伝第八を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 商鞅(Shāng Yāng、B.C.390〜B.C.338)は、衞の公子の出身で、若くして刑名の学(実証的法治)を学び、魏の宰相公叔痤に仕えてその才能を認められ、その家の中庶子(公族を掌る官職)となりました。
 公叔痤は病を得て世を去るときに、魏の恵王(在位:B.C.369〜B.C.319)に鞅を推挙しましたが容れられず、「王がもし鞅を用いることを聴き容れないのなら、必ず鞅を殺して国境を出してはなりません。」と言い残しました。

 恵王は公叔痤が病のために判断を誤ったとして嘆息しますが、やがてこの予言は的中し、魏は秦の軍を率いた鞅のためにたびたび敗北し、徐々に領土を削られてゆきます。恵王は後に、公叔痤の言を用いなかったことを後悔することになります。

 鞅はその後、秦の孝公(在位:B.C.361〜B.C.331)の「招賢の令」に応えて秦に赴き、孝公に見えて「帝道」を説きますが孝公は興味を示しませんでした。
 五日後、もう一度引見の要請があり、孝公に見えて「王道」を説きますが、孝公はよくその真意を理解できません。
 鞅は重ねて孝公に面謁し、今度は「覇道」を説いて孝公に用いられることになります。

 孝公は、鞅を用いた後、その説くところに従って、鞅の富国強兵策を実施するために旧法を変え、制度と機構を改革したいと欲しましたが、世の人々が自分を批判することを恐れました。

 衞鞅曰、「疑行無名、疑事無功。且夫有高人之行者、固見非於世、有獨知之慮者、必見敖於民。愚者闇於成事、知者見於未萌。民不可與慮始、而可與樂成。論至德者不和於俗、成大功者不謀於眾。是以聖人苟可以彊國、不法其故、苟可以利民、不循其禮。」

 衞鞅曰く、「疑行は名無く、疑事は功無し。且つ夫れ人よりも高きの行ひ有る者は、固(もと)より世に非(そし)られ、獨知の慮(おもんばか)り有る者は、必ず民に敖(あなど)らる。愚者は成事にも闇(くら)く、知者は未萌にも見る。 民は與(とも)に始めを慮(はか)るべからずして、與(とも)に成るを樂しむべし。至德を論ずる者は俗に和せず、大功を成す者は眾(衆)に謀らず。是(ここ)を以て聖人は苟(いやし)くも以て國を彊(つよ)くすべくは、其の故に法(のつと)らず、苟(いやし)くも以て民を利すべくは、其の禮に循(したが)はず」と。
 
 衞鞅が云うには、「自信のない行動は人から評価されず、自信のない事業は功績をあげません。およそ人に優れた行いのある者は、本来世にそしられ、独創性、先見性のある者は、必ず民からののしられます。愚か者は事が既に成ってもまだ理解できませんが、知者は事の前兆すらあらわれないうちに予見します。民は計画に参加させるべきものではなく、成果をともに楽しませればよろしいのです。至徳を論ずる者は世俗とは話が合わず、大事業を成し遂げる者は大衆には謀りません。そこで聖人はもし国を強くできることであれば、その国の古いしきたりにのっとらず、もしその国民に利益を与えることであれば、その国の作法を守りません」と。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:23Comments(0)史記列傅

2010年04月19日

史記列傳(10)-仲尼弟子列傳第七

 
 長崎孔子廟

 (旧暦  3月 6日)

 孔氏は文を述べ、弟子は業を興し、咸(みな)師傅を為して、仁を崇(たつと)び義を厲(はげ)む。よりて仲尼弟子列傳第七を作る。

 孔子は文化を述べつたえ、弟子たちは孔子の事業をさかんにして、みな世の師表となり、仁を尊び厳しく実践した。そこで、仲尼弟子列伝第七を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 孔子の弟子中の弟子たるものは77人と云われていますが、その伝は長短・精粗さまざまで、その大半は名と字(あざな)だけしか記されていません。
 その多くは『論語』のなかに登場していますが、子貢の伝のように全体のかなりの部分を占めるものもあります。

 孔子の弟子(ていし)、業を受け身六藝[礼・楽・射・御(馬の御し方)・書・数]に通ずる者、七十有七人、皆異能之士也。
 德行には顏淵(がんゑん)、閔子騫(びんしけん)、冄伯牛(ぜんはくぎゅう)、仲弓(ちゆうきゆう)あり。政事には冄有(ぜんいう)、季路あり。言語には宰我、子貢あり。文學には子游(しいう)、子夏あり。

 師(子張)や辟(奇矯)、參(曾參)や魯(遅鈍)、柴(子羔)や愚(愚直)、由(子路)や喭(がん、強情粗暴で不作法)。回(くわい、顔回)や屢(しばしば)空し(穀物を入れるお櫃が空になる)。賜(子貢)は命を受けずして貨殖す、億すれば則ち屢(しばしば)中(あた)る。


 1. 徳行(行いが道徳にかなって正しい者)
 face01顔淵(がんゑん、顔囘、B.C.514~B.C.483) 
 孔門十哲(孔子の弟子の中でも最も優れた十人の弟子)の一人で、随一の秀才。孔子から後継者として嘱望されていたが、早世した。
 
 子、子貢に謂ひて曰はく、女(なんじ)と囘(顔囘)とは孰(いづ)れか愈(まさ)れる。對(こた)へて曰はく、賜(子貢)や何ぞ敢へて囘を望まん。囘や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る。子曰はく、如かず。吾、女(なんじ)に如かざるを與(ゆる)さん。 
 『論語』 公冶長第五

 子曰はく、囘や其の心三月仁に違(たが)はず。其の餘は則ち日に月に至るのみ。 
 『論語』 雍也第六

 顏淵死す。子曰はく、噫、天予(われ)を喪(ほろぼ)せり。天予を喪せり。
 『論語』 先進第十一

 顏淵死す。子之を哭(こく)して慟(どう)す。從者曰はく、子慟(どう)せり。曰はく、慟(どう)すること有るか。夫(か)の人之爲に慟するに非ずして、誰が爲にかせん。 
 『論語』 先進第十一


 face02閔子騫(びんしけん、B.C.536~B.C.487) 
 孔門十哲の一人で、孔子からも孝行者であると賞賛されている。

 子曰く、孝なるかな閔子騫。人、其の父母昆弟の言を間せず(悪口を言わない)。 
 『論語』 先進第十一


 face03冄伯牛(ぜんはくぎゅう、B.C.544~?)
 孔門十哲の一人。伯牛が重い病(ハンセン病との説あり)にかかり、窓越しに孔子の永訣の見舞いを受けた。
       
 伯牛疾(やまひ)有り。子之を問ふ。牖(まど)より其の手を執りて曰はく、之を亡せん。命なるかな。斯の人にして斯の疾有ること。斯の人にして斯の疾有ること。
 『論語』 雍也第六


 face04仲弓(ちゆうきゆう)
 孔門十哲の一人。その人格の高さから「南面すべし」(君主たる器量がある)と孔子がたたえたことが、『論語』雍也第六に記されている。

 子曰はく、雍(仲弓)や南面せしむべし。仲弓、子桑伯子を問ふ。子曰はく、可なり簡(かん、おおまか)なり。仲弓曰はく、敬に居(ゐ)て簡を行ひ、以て其の民に臨む。亦可ならずや。簡に居(ゐ)て簡を行はば、乃ち大簡なるなからんか。子曰はく、雍の言然(しか)り、と。
 『論語』 雍也第六


 2. 政事(政治の実務にたけた者)
 face05冄有(ぜんゆう)
 孔門十哲の一人。行政手腕に優れ季氏(魯の大夫)に用いられる。孔子からも政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評された。
 一方、消極的な人柄であったらしく、孔子から「聞くままに斯れ諸(これ)を行へ」と激励されている。

 子路問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか。子曰はく、父兄の在る有り。之を如何ぞ其れ聞くままに斯れ之を行はん。
 冄有問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか。子曰はく、聞くままに斯れ諸(これ)を行へ。

 公西華曰はく、由(ゆう、子路)や問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか、と。子曰はく、父兄の在る有り、と。求(きゅう、冄有)や問ふ、聞くままに斯れ諸(これ)を行はんか、と。子曰はく、聞くままに斯れ之を行なへ、と。

 赤(せき、公西華)や惑ふ、敢へて問ふ。
 子曰はく、求(きゅう、冄有)や退く、故に之を進む。由(ゆう、子路)や人を兼(か)ぬ、故に之を退く。
 『論語』 先進第十一


 face06季路(きろ、子路、B.C.543~B.C.481)
 孔門十哲の一人。弟子の中では、『論語』に出てくる回数が最も多い。
 武勇を好み、そのためか性格は軽率なところがあるが、質実剛健たる人物であった。

 子曰はく、道行はれず。桴(いかだ)に乘りて海に浮ばん。我に從ふ者は其れ由(ゆう、子路)か。子路之を聞きて喜ぶ。子曰はく、由(ゆう、子路)や勇を好むこと我に過ぎたり。取り材(はか)る所なし。
 論語』 公治長第五

 
 3. 言語(弁舌に秀でた者)
 face08宰我(さいが)
 孔門十哲の一人で、弁論の達人と評された。

 face09子貢(しこう、B.C.520~?)
 孔門十哲の一人で、弁舌に優れ衛、魯で その外交手腕を発揮した。また、商才にも恵まれ、魯と曹の国で物資を売り買いして莫大な富を築いたとされる。

 子貢、君子を問ふ。子曰はく、まず其の言を行うて而して後之に従ふ。
 『論語』 為政第二


 4. 文学(学識に優れた者)
 face11子游(しゆう、B.C.506~B.C.443)
 孔門十哲のひとりに数えられ、武城(山東省武城県)の町の長官を勤め、礼楽を以て民を教化していた。

 子游武城の宰と爲る。子曰はく、女(なんぢ)、人を得たるか。曰はく、澹臺滅明(たんだい めつめい)といふ者有り。行くに徑(こみち)に由らず。公事に非ざれば、未だ嘗て偃(子游)の室に至らざるなり。
 『論語』 雍也第六


 face10子夏(しか、B.C.507?~B.C.420?)
 学問を好み孔門十哲の一人とされる。

 子貢問ふ、師(子長)と商(子夏)とは孰(いづ)れか賢(まさ)れる。子曰はく、師(子長)は過ぎたり。商(子夏)は及ばず。曰はく、然らば則ち師(子長)愈(まさ)るか。子曰はく、過ぎたるは猶及ばざるが如し。
 『論語』 先進第十一
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2009年07月13日

史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2)

 
 春秋諸侯 Urbanisation during the Spring and Autumn period. 

 (旧暦閏 5月21日)

 艸心忌 歌人吉野秀雄の昭和42年(1967)の忌日。 結核を患い慶応大学を中退するも秋艸道人會津八一(1881~1956)に師事し、生涯結核と闘いながら作歌をつづけ、昭和34年「吉野秀雄歌集」で読売文学賞、42年迢空賞、43年「含紅集」で芸術選奨を受賞した。
 師会津八一が名付けた自宅「艸心洞」から「艸心忌」と呼ばれる。
 「もしも自分に歌がなく、自分の歌が自分の精神を昂揚することがなかったならば、どうして自分に今日の存在があったらうか。」との感慨を述べるように、妻はつ子を戦時中に亡くし、結核と闘いながら相聞歌人として全精力を歌につぎ込んだという。

 今生の つひのわかれを告げあひぬ うつろに迫る時のしづもり (寒蝉集)
 ひしがれて あいろもわかず堕地獄の やぶれかぶれに五体震はす
 真命の 極みに堪へてししむらを 敢てゆだねしわぎも子あはれ

 史記列傳(8)-伍子胥列傳第六(1)のつづき

 春秋時代の第7代呉王夫差(?~B.C.473)は、宿敵越王勾践(? ~B.C.465)によって討たれた父闔閭(?~B.C.496)の仇を討つため、兵法の大家孫武と伍子胥の補佐を受けて国力を充実させ、呉は一時は並ぶ者なき強国となります。

 中原への進出を図る呉王夫差は、機会あるたびに越を討つように進言する伍子胥を疎んじはじめ、宰相伯嚭(はくひ、?~B.C.473)の讒言もあり、ついには名剣の「屬鏤の劒」を賜しめて、伍子胥に自害を命じます。

 伍子胥天を仰(あふ)いで嘆じて曰く、嗟乎、讒臣嚭(ひ)、亂を為す。王、乃ち反つて我を誅す。我、若(なんぢ)の父をして霸たらしむ。若(なんぢ)未だ立たざる時より、諸公子立つを爭ふ。我、死を以て之を先王に爭ふ。幾(ほと)んど立つを得ざらんとす。若(なんぢ)、既に立つを得るや、吳國を分かちて我に予(あた)へんと欲す。我、顧つて敢て望まず。然るに今、若(なんぢ)、諛臣の言を聽き、以て長者を殺すと。

 乃ち其の舍人に告げて曰く、必ず吾が墓上に樹(う)うるに梓(し)を以てせよ。以て器を為(つく)るべからしめん。而うして吾が眼(まなこ)を抉(ゑぐ)り、吳の東門の上に縣けよ。以て越の寇の入りて吳を滅ぼすを觀(み)ん、と。乃ち自剄して死す。吳王之を聞きて大いに怒り、乃ち子胥の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい、馬の革で作った袋)の革を以てし、之を江中に浮ぶ。吳人、之を憐み、為に祠を江上に立つ。因りて命(なづ)けて胥山(しよざん)と曰ふ。


 私の墓の上に必ず梓を植えよ。後に呉が滅びた時に棺桶を作ることができるように。そして、私の眼をえぐりて、呉の東門の上に懸けておけ。仇敵越が攻め入って呉を滅ぼすのを見られるように。  続きを読む

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2008年10月31日

史記列傳(8)-伍子胥列傳第六(1)

 

 春秋戦国時代概念図 by Wikipedia.

 (旧暦 10月 3日)

 維(こ)れ建、讒(ざん)に遇ひ、爰(ここ)に子奢(ししや)に及ぶ、尚(しやう)は既に父を匡(すく)ひ、伍員(ごうん)吳に奔(はし)る。よりて伍子胥列傳第六を作る。(太史公自序第七十)

 楚の平王の太子建(けん)が讒言にあい、その禍いが伍子奢(ごししゃ)に及んだとき、伍子奢の子の伍尚(ごしょう)は父を救おうとして捕らわれてしまったが、もう一人の子の伍員(ごうん:子胥)は吳に亡命して父の仇を討った。そこで、伍子胥の列傳第六を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 伍子胥(ごししょ:?~B.C.484)は楚(長江中流、湖南省、湖北省一帯)の国の人で、名は員(うん)。員(うん)の父は伍奢(ごしゃ)と云い、兄を伍尚(ごしょう)と云います。

 伍子胥の父、伍奢は楚の平王(B.C.528~B.C.516在位)の太子建の太傅(たいふ:お守り役)をしていましたが、太子建が讒言によって平王との仲が悪くなり宋に亡命すると、平王は伍奢を人質に、二人の子、伍尚と伍員を呼び出します。

 呼び出された伍尚とその父伍奢は平王に殺されてしまいますが、伍子胥は抵抗して太子建のいる宋に逃亡します。

 伍子胥は太子建と共に、鄭(河南省)つぎに晋(山西省)と逃れて行動を共にしますが、太子建は晋で頃公(B.C.525~B.C.512在位)にそそのかされて鄭に反逆しようとし、逆に殺されてしまいます。
 伍子胥は太子建の子と共に、今度は呉(江蘇省)に逃亡します。

 建、子有り、名は勝(しよう)。伍胥(ごしよ)、懼(おそ)れ、乃ち勝(しよう)と俱に吳に奔(はし)る。昭關(せうくわん:呉と楚の関所)に到る。昭關(せうくわん)之を執(とら)へんと欲す。伍胥、遂(つひ)に勝と獨身步走し、幾(ほと)んど脫するを得ざらんとす。追ふ者、后(しりへ)に在り。
 
 江に至る。江上、一漁父の船に乘る有り。伍胥の急を知り、乃(すなは)ち伍胥を渡す。
 
 伍胥、既に渡り、其の劍を解きて曰く、“此の劍は直(あたひ)百金。以て父に與(あた)ふ”と。
 
 父曰く、“楚國の法、伍胥を得る者は、粟五萬石、爵執珪を賜ふ。豈に徒(ただ)百金の劍のみならん邪(や)”と。
受けず。
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2008年05月04日

史記列傳(7)-孫子吳起列傳第五(2)

 

 (旧暦 3月29日)

 史記列傳(6)-孫子吳起列傳第五(1)のつづき

 吳起は衛(河南省の一部)の人です。兵を用いることを好み、一時は孔子の弟子で『孝経』を著した曾子に学んだこともあり、その後、魯(山東省南部)の君に仕えていました。

 齊(山東省)が魯を攻めたとき、魯は吳起を将軍にしようとしましたが、吳起は齊の人のむすめを妻としていたために、魯ではこれを疑って将軍とすることをためらっていました。

 吳起はそこで名を立てようと欲して妻を殺し、齊に与しないことを明らかにしました。
魯はすぐに吳起を将軍にし、吳起は大いに齊を破って戦功を立てますが、魯の中で吳起を悪く言う者があり、ついに彼は解任されてしまいます。

 そこで吳起は、魏(山西省西部から河南省北部)の文候に仕え、将軍となります。

 起の將為る、士卒の最下なる者と衣食を同じくし、臥するに席を設けず、行くに騎乘せず、親(みづか)ら糧(かて)を裹(つつ)み贏(にな)ひ、士卒と勞苦を分(わか)つ。  
 卒に疽(しよ)を病む者有り。起為に之を吮(す)ふ。卒の母聞きて之を哭(こく)す。人曰く、「子は卒也。而るに將軍自ら其の疽(しよ)を吮(す)ふ。何ぞ哭するを為す。」と。
 母曰く、「然るに非ざる也。往年、吳公、其の父を吮(す)ふ。其の父、戰ひて踵(くびす)を旋(めぐら)さず、遂に敵に死せり。吳公、今又子を吮(す)ふ。妾(せふ)、其の死所を知らず。是を以て之を哭(こく)す。」と。


 吳起は将軍と為るや、士卒の最下級の者と同様の衣食をし、寝るときは寝具を用いず、行軍に際しては馬にも馬車にも乗らず、自分で兵糧を包み担いで士卒と労苦を分かち合った。
 兵卒に腫れ物を患っている者があると、吳起はその者のために自ら膿を吸い出してやった。
 この兵卒の母がこの事を聞いて声を上げて泣いた。
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2008年01月06日

史記列傳(6)-孫子呉起列傳第五(1)

 

 Portrait of Sun Tzu (孫武) from Wikipedia.

 (旧暦 11月28日)

 良寛忌  越後国出雲崎出身の江戸後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家、良寛の天保2年(1831)年の忌日。

       生涯身を立つるに懶(ものう)く 騰々 天真に任かす
       嚢中 三升の米 爐辺 一束の薪
       誰か問はん 迷悟の跡 何ぞ知らん 名利の塵
       夜雨 草庵の裡 雙脚 等閑に伸ばす


 信廉仁勇にあらざれば兵を傳へ劍を論ずること能わず、道を與(あた)へ符を同じくす、內に身を治るを以てすべく、外に變に應ずるを以てすべし。
 君子焉(いずくんぞ)德を比ぶるや、よりて孫子吳起列傳第五を作る。(太史公自序第七十)
 

 誠実で潔く、思いやりがあり勇気ある人であってこそ、伝える兵法や論ずる剣法は大道と一致し、身を修める手段にできると共に、臨機応変の動きをとることができる。それは君子が徳を比較するときの基準になりうるものである。そこで、孫子と呉起の列傳第五を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 孫子と呼ばれている人は二人いて、一人は兵法書である『孫子』を著したと伝えられている春秋時代(B.C.770~B.C.403)の孫武(B.C.535~?)という齋(山東省、B.C.1046~ B.C.386年)の国の人で、もう一人はその子孫であるとされる戦国時代(B.C.403~B.C.221)の同じく齋の孫臏(そんぴん、?~B.C.316)です。

 昭和47年(1972)に山東省臨沂県の銀雀山漢墓から発見された前漢時代(B.C.206 ~A.D.8)の竹簡の中に、孫子のものと判断されるものが多数含まれていました。
 この『孫子』は二種類に分類され、ひとつは現在伝わっている『孫子』と同じもので、一方は南北朝時代(439~589)以後失われた孫臏のものと判断されました。
 現代中国では、前者を『孫子兵法』、後者を『孫臏兵法』と呼んでいます。

 孫子は兵法に優れているということで呉(江蘇省東南部、B.C.585~B.C.473)の第6代王闔閭(こうりょ、?~B.C.496)に謁見したときに、呉王闔閭から試しに宮中の美女180人の練兵の指揮を委ねられます。
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2007年05月01日

史記列傅(5)-司馬穰苴(じょうしょ)列傳第四

 

 明十三陵の首陵、長陵の稜恩殿(北京市昌平区長陵鎮)
 
 (旧暦  3月15日)

 軍に在りては君の令も受けざる所有り

 古への王者より司馬の法有り、穰苴(じょうしょ)能く之を申明(広げ明確にする)す。よって司馬穰苴列傳第四を作る。(太史公自序第七十)

 古代の王者の頃から司馬(軍事を司る職)の兵法というものはあった。穰苴(じょうしょ)はこれを十分に広げ明確にした。そこで、司馬穰苴(じょうしょ)の列傳第四を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 司馬穰苴(じょうしょ)は、春秋時代(770 BC~403 BC)に陳から斉に亡命し田氏の始祖となった田完の子孫でした。
 斉の景公(547 BC~490 BC在位)の時代に、晉が斉の領土である阿(山東省東阿県)、甄(けん、山東省鄄城県)を攻め、そのうえ燕が黄河の南岸に侵入してきて、斉の軍は大いに敗れました。

 景公が心配しきっているところに宰相の晏嬰(?~500 BC)が、田穰苴(司馬穰苴の本名)を推薦して言います。

 「穰苴は田氏の庶孽(しょげつ)なりと雖も、然れども其の人、文は能く眾(しゅう)を附け、武は能く敵を威(おど)す。願はくは君、之を試みよ」 と。

 「穰苴は田氏の庶流の出身で高貴な身分ではありませんが、其の人物は、文においては人々に慕われることができ、武においては敵を脅かすことができます。どうかこの人物を試みに用いていただきたい」 と。

 景公は共に兵事を語りその人物を喜んで、穰苴を将軍に抜擢して燕、晉の軍を防がせようとしました。
 しかし、穰苴は景公に自分の身分の低さ故の実権の軽さを訴え、景公の信任の厚い重臣を目付役に要請します。
 そこで景公は其の申し出を許し、寵臣の莊賈を軍に同行させることにしました。  続きを読む

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2006年08月30日

史記列傅(4)−老子韓非列傅第三−其れ猶ほ龍のごときか

 

 明の長陵 第3代永楽帝(在位1402〜1424)像 北京市昌平区明十三陵景区内

 (旧暦閏 7月 6日)

 李耳(りじ:老子)は無為にして自ら化す、清淨にして自ら正し。韓非は事情を揣(はか)り、埶理(げいり:時勢の動く理法)に循(したが)ふ。よって老子韓非列傳第三を作る。(太史公自序)

 李耳(老子)は[君主が]無為であれば[民は]自ずから化せられ、[君主が]清潔平静であれば[民は]自ずから正しくなるとした。韓非子は事態を分析し、時勢の動く理法に従った。そこで、老子・韓非列伝第三を作る。(太史公自序:司馬遷の序文)

 老子は、楚の国(現在の湖北省、湖南省を中心とした地域)苦縣(こけん:河南省鹿邑県)厲郷(らいきょう)の曲仁里(きょくじんり)の人で、名は耳(じ)、字は耼(たん)、姓は李氏。
 周王朝の守蔵室(書物倉)の記録官でした。

 孔子(551BC〜479BC)が周の都成周(現在の河南省洛陽市付近)に赴いて、老子に礼について教えを乞おうとしました。

 すると老子が孔子に向かって言うのには、

 「あなたは古来の礼について問おうとしているが、その礼を行った人は骨とともに朽ちてしまい、ただ言葉が残っているだけである。
 そもそも君子というものは、時を得たならば高い位について経綸(施策)を行い、時勢に外れると流浪して渡り歩くものである。・・・・・
 君子は優れた徳を隠して、外見は愚か者のように見えると云われる」と。

 
 そして孔子にきつい言葉を浴びせかけます。

 「あなたは自分の驕氣(慢心)と多欲(欲望)と態色(気取り)と淫志(激情)を捨てなさい。これらはどれも、あなたの一身にとって何の役にも立たないよ。
 私があなたに言えることは、これだけだよ」と。
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2006年04月05日

史記列傅(3)−管晏列傅第二(2)

 

 明十三陵の首陵、長陵の稜恩殿(北京市昌平区長陵鎮)

 (旧暦  3月 8日)

 達治忌  詩人、翻訳家三好達治の昭和39年(1964)の忌日。
 市岡中学二年から陸軍幼年学校、陸軍士官学校へすすむも中退し、第三高等学校、東京帝国大学文学部仏文科を卒業。大学在学中に梶井基次郎らとともに同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。昭和4年(1929)シャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)の散文詩集『巴里の憂鬱(Le Spleen de Paris)』を翻訳、翌昭和5年(1930)、初の詩集『測量船』を発行。ともに高い評価を受けた。

 史記列傅(2)−管晏列傅第二(1)のつづき

 鞭を執ると雖も忻慕する所なり

 晏平仲(名は嬰)は莱(らい)の夷維(いい:山東省高密県)の人で、斉の霊公(B.C581〜554在位)、荘公(B.C553〜548在位)、景公(B.C547〜490在位)の三代に仕え、費用を節約することと努力して事を行うことで重んぜられました。
 宰相となってからも、食事の際には肉料理を二品とは用いず、家の女性には絹を着せないという倹約をしました。

 朝廷においては、君主から下問されたときは正しい意見を述べ、下問されないときは正しい行いをしていました。国家に正しい政治が行われているときには君命に従い、正しい政治が行われていないときには君命を慎重に検討し、行うべき事を行うようにしました。
 
 このように晏平仲が斉の政治を補佐したので、霊公、荘公、景公の三代は列国にその名をひびかせました。  続きを読む

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2006年04月04日

史記列傅(2)−管晏列傅第二(1)−管鮑の交わり

 

 明十三陵

 (旧暦  3月 7日)

 晏子(晏嬰)は儉(けん:つつましやか)にして、夷吾(管仲)は則ち奢(しゃ:贅沢)なり。齊(せい)桓(かん)以て霸(は:覇者)たり、景公以て治む。よって管晏列傳第二を作る。(太史公自序)

 晏子(?〜B.C500)は慎ましやかであり、管仲(?〜B.C645)は贅沢に暮らした。しかし、斉の桓公は管仲に補佐されて天下の覇者となり、景公は晏子によってその国を良く治めることができた。そこで、管仲と晏嬰の列傅第二を作る。(太史公自序:司馬遷の序文)

 管仲(名は夷吾)は、若いときいつも鮑叔(名は牙)と付き合っていました。鮑叔は管仲の優れた才能を認めていました。
 管仲は貧乏であったためよく鮑叔を騙しましたが、鮑叔はいつも気にかけず、一言も苦情を言いませんでした。

 時が経って鮑叔は斉の公子小白(しょうはく)に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えました。その小白が斉候の位について桓公(B.C685〜643在位)となり、公子糾はこれと争って殺され、管仲も囚われの身となりました。

 しかし鮑叔はさまざまに管仲を桓公に推薦したので管仲は桓公に用いられ、斉の政治を委ねられることになり、その結果斉の桓公は管仲の補佐によって天下の覇者となりました。
 桓公が度々諸侯を糾合し、天下を周の下に秩序立てたのは、管仲のはかりごとによるものでした。  続きを読む

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2006年02月06日

史記列傅(1)−伯夷列傅第一−所謂天道是か非か

 

 太史公司馬遷像

 (旧暦  1月 9日)

 句仏忌  浄土真宗東本願寺23世として明治41年(1908)に法燈を継ぎ、大正12年(1923)伯爵を継いだ大谷光演の昭和18年(1943)の忌日。明治31年(1898)、浅草別院滞在中に句誌「ホトトギス」によって子規を知り、その後、高浜虚子、河東碧梧桐に選評を請うようになる。明治38年(1905)、「ホトトギス」同人達によって創刊された「懸葵(かけあおい)」を引き受け、その後、「懸葵」を主宰した。
        目出度さや 土に親しむ菊若芽
        ねむたさの 花の醍醐や遠蛙


 末世は利を爭ふに、維(た)だ彼は義に奔(はし)り、國を讓(まも)りて餓死す、天下之を稱(たた)う。よって伯夷列傳第一を作る。(太史公自序)

 伯夷と叔齊は、殷の諸侯孤竹君の二人の子でした。父は弟の叔齊に位を譲ろうと思っていましたが、その父が死んだとき、叔齊は位を兄である伯夷に譲ろうとしました。伯夷は、「父上のご命令だ」といって、国を出て行ってしまいました。叔齊もまた位につくのを断り、兄の後を追って国を出て行ってしまったので、国民は次の弟を立てて君主としました。

 その後、伯夷と叔齊は西伯(周の文王)が老人を良くいたわるとの評判を聞いて、そこへ行って落ち着こうと考えました。行ってみると、ちょうど西伯が死んだところでした。周の武王は父の西伯の位牌を車に載せて文王と号し、東の殷の紂王を伐とうとしていました。
 伯夷と叔齊は武王の馬を抑えて、「父死して葬(はうむ)らず、爰(ここ)に干戈(かんくわ)に及ぶは、孝と謂ふべきか。臣を以て君を弑(しい)するは、仁と謂ふべきか」と諫めました。武王の側近のものはこれを殺そうとしましたが、太公望呂尚が、「此れ義人なり」と口添えをして、その場から去らせました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:18Comments(0)史記列傅