2008年12月27日
数学セミナー(20)-一般相対性理論(6)-重力方程式(2)

Bernhard Riemann (1826~1866) , 1863.
Georg Friedrich Bernhard Riemann (1826~1866) was a German mathematician who made important contributions to analysis and differential geometry, some of them paving the way for the later development of general relativity.
(旧暦 12月 1日)
数学セミナー(19)-一般相対性理論(5)-重力方程式(1)のつづき



計量テンソルは、リーマン計量(Riemannian metric)と呼ばれることもあります。
a から b までの曲線の長さLは、t をパラメータとして、

で与えられます。
ちなみに、2次元のユークリッド計量(Euclidean metric)では平らな空間となり、

で与えられ、曲線の長さLは、

で与えられます。
また、平らな ミンコフスキー空間(flat Minkowski space)では、

となります。

それにはまず、次のような条件を設定して考えてみます。
i. 重力場はあまり強くない。
ii. 重力場は時間的に不変である。
iii. 質点の速度は、光速に対して十分におそい。 続きを読む
2008年12月22日
書(15)-光明皇后-樂毅論

『楽毅論』 光明皇后臨書 正倉院蔵
(旧暦 11月25日)
奈良東大寺正倉院の宝物に、光明皇后(701~760)が東晋(317~ 420)の書聖王羲之(生没年不詳、 307?〜365?)の小楷の名蹟として知られる樂毅論を臨書した樂毅論一巻が残されています。
本文は縦簾目のある白麻紙二帳半に、四十三行にわたって書かれていますが、奥の軸付に黃麻紙一帳を添えて、「天平十六年十月三日 藤三娘」と記されています。
藤三娘とは藤原氏の第三女、すなわち光明皇后にあたり、皇后が自著したもので、天平十六年(744)は、皇后四十四歳の時にあたります。
私「嘉穂のフーケモン」がこの光明皇后臨書の樂毅論を知ったのは、小学校6年生の社会科の教科書だったように記憶しています。
何で昔の皇后さんが、「楽器論」などという音楽の事を書いたのか不思議でなりませんでした。また、小学生の私から見ても、決して上手とは思えないこの書が、何で教科書に載るほど有名なのか理解できませんでした。
習字だったら、担任の先生の方がよっぽど上手なのに??
しかし、書道史の研究においては質、量ともに日本の第一人者と称された故中田勇次郎先生(1905~1998)によれば、
この書はきわめて敬虔な態度で臨書されたもので、筆力は勁健(けいけん:強くてしっかりしている)で、その原本の筆意をよく学んだ率直さには、まず感を打たれるものがある。
一見稚拙に見えるが、巧妙さを超脱したうちに、おのずから高潔な精神をたたえている。
久しく鑑賞しても倦くことのない美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格がしのばれる。
まさに、正倉院の書蹟のなかの随一と称すべきである。
と、絶賛されています。 続きを読む
2008年12月20日
数学セミナー(19)-一般相対性理論(5)-重力方程式(1)

Godfrey Kneller's 1689 portrait of Isaac Newton (aged 46).
(旧暦 11月23日)
劉生忌 娘である麗子(大正3年生)の肖像画や「道路と土手と塀(切通之写生)」(1915年、東京国立近代美術館、重要文化財)などの洋画で有名な大正、昭和初期の洋画家岸田劉生の昭和4年(1929)の忌日。
石鼎忌 俳人原石鼎(鼎)の昭和26年(1951)の忌日。島根県出雲市に生まれ、文学との葛藤に悩んで旧京都府立医学専門学校(京都府立医科大学)を中退。大正4年(1915)に「ホトトギス」社に入り作句に専念、大正俳壇の雄として村上鬼城(1865~1938)、渡邊水巴(1882~1946)、前田普羅(1884~1954)、飯田蛇笏(1885~1962)らとともに「大正ホトトギス作家」と総称された。
医専中退後、深吉野の診療所を預かり、厳しい自然を俳句で描写しつつその中に研ぎ澄まされた美を表現してみせ、俳壇に衝撃を与えたと評価されている。
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
とんぼうの薄羽ならしし虚空かな
ニュートン力学では、重力ポテンシャル(万有引力)φはポアッソン(Poisson)の方程式

の解から導かれました。ここで、記号Δはラプラス演算子(ラプラシアン)と呼ばれ、2 階線型の偏微分方程式であるラプラス方程式を表します。

Gは万有引力定数であり、ρは重力をつくり出す物体の質量密度を表します。

この方程式は時間を含まない静的な方程式であり、相対論的には不変ではありません。
つまり、一般相対性原理(Relativitätstheorie)の成り立つ条件、
「物理法則は、すべての可能な座標系に対して同一の形式で成立する。」
Die Gesetze der Physik müssen so beschaffen sein, daß sie in bezug auf beliebig bewegte Bezugssysteme gelten.
を満足していないのです。 続きを読む
2008年12月19日
秋津嶋の旅(13)-西海道(1)-太宰府
西鉄太宰府駅から天満宮に向かう参道
(旧暦 11月22日)
菅贈太政大臣道真
ふる雪に 色まどはせる梅の花 鶯のみやわきてしのばむ (新古今集1442)
不出門 門を出でず
一従謫落在柴荊 一たび謫落(たくらく:左遷)して柴荊(さいけい:貧しい住まい)に在りてより
萬死兢兢跼蹐情 萬死兢兢たり跼蹐(きょくせき:天地の間に身の置き所がないこと)の情
都府樓纔看瓦色 都府樓纔(わずか)に瓦色(がしょく)を看
観音寺只聴鐘声 観音寺は只(ただ)鐘声を聴く
中懐好逐孤雲去 中懐(ちゅうかい:心の中)好し孤雲を逐(お)ふて去り
外物相逢満月迎 外物(がいずつ)相(あい)逢(お)ふて満月を迎ふ
此地雖身無險繋 此の地身に險繋(けんけい:束縛)無しと雖も
何為寸歩出門行 何為(なんすれ)ぞ寸歩(すんぽ)も門を出でて行かん
ひとたび大宰府に左遷されて、配所の貧しき住まいに入ってからは、罪万死にあたるを思い、戦々兢々として身の置き所が無く、ひたすら謹慎している。
都府楼は瓦の色をわずかに望見するだけで、観音寺もただ鐘の声を聞くだけである。
心は孤雲の行方を追って都へと向かうが、外から見えるは満月ばかり。
この地では、束縛されることはないが、たとえ寸歩であってもこの門を出てゆくなどということをしようか。
太宰府と云えば、菅原道眞公(845~903)を祭る太宰府天満宮として有名ですが、ここ最近の2005年10月16日に太宰府天満宮所有の丘陵地に開館した九州国立博物館もこのところの観光スポットになっているようです。
先日、お袋のお見舞いに筑紫の国に帰還していた私「嘉穂のフーケモン」は、一日、約40年ぶりに太宰府を訪れました。
太宰府天満宮の参道には、名物の「梅が枝餅」を売るお店が軒を連ねていますが、昔よりはおしゃれなお店が多くなっていたような気がしました。
昌泰4年(901)1月25日、右大臣、右近衛大将如元(元の如し:元の官職のまま)菅原道眞公が、大宰権帥に左遷されて悄然としていたときに、太宰府にかつてあった安楽寺の門前で餅を売っていた老婆が、道眞公を励ますために餅を供し、その餅が道眞公の好物になったことがありました。
道眞公の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが「梅が枝餅」の始まりとされているそうです。 続きを読む
2008年12月10日
板橋村ゆかりの人々(8)-崋山渡邊登先生(1)

渡辺崋山先生の像。先生の弟子、椿山椿弼(つばき たすく、1801~1854)によって先生の没後12年後の嘉永6年(1853)に描かれたもの。田原市博物館蔵。重要文化財。
(旧暦 11月13日)
第七 兄弟
登の弟やいもうとは、みな早くからよそへやられました。
八つばかりになる弟が、ほかへつれて行かれる時、登は弟のふしあはせをかなしんで、雪がふつてさむいのに、とほいところまでおくつて行つてわかれました。
その弟がしらない人に手をひかれ、うしろをふりむきながらわかれて行つたすがた
が、あまりにかはいさうであつたので、登は、いつまでもその時のことをおもい出してなげきました。
『尋常小学修身書 巻四 大正9年11月発行』
幼少の弟を、私十四ばかりの時、板橋まで生き別れに送り参り候時、雪はちらちらふり来り、弟は八、九歳にて、見もしらぬあら男に連れられ、後をふりむきふりむきわかれ候こと、今に目前に見え候ごとくござ候。右弟は定意(じやうい)と申し、のちに熊谷宿にて客死つかまつり候。
『退役願書之稿』
崋山渡邊登先生は、江戸後期に活躍した政治家、画家で、天保3年(1832)5月 、40歳にして三河国田原藩1万2000石の年寄役末席(家老職)に就いて海防掛を兼ね、それまでの家格を基準にした家禄による給与を改めて、職務を等級別に分類した「格」による給与基準である「格高制」を導入して人材登用を可能にし、近代的な官僚制度への端緒を開きました。
また、藩財政を改革するために殖産興業を推進し、天保5年(1838)には農学者大蔵永常(1768~1861)を興産方という農業指導者の役職に招いて、鯨油による稲の害虫駆除法や甘藷(さつまいも)の栽培、砂糖の製法などを指導させ、さらには、櫨(はぜ)の栽培と木蠟造りの技術や楮(こうぞ)の栽培と製紙法の移植も行わせています。
この間、凶作に備えて「報民倉」と呼ばれる備蓄制度を実施し、天保4年(1833)に始まり数年続いた天保の大飢饉においては、この「報民倉」を開いて領民を救済し、田原藩では1人の餓死者も出さなかったと云うことです。
そのため、翌年、幕府より藩主三宅土佐守に褒賞が与えられています。
三宅土佐守
其方領分去々申年は一通ならず違作の所、窮民救い方手当等格別行届き候由相聞、一段の事に候。此段申聞けるべき旨御沙汰に候。 続きを読む
2008年12月08日
詩歌(7)-オフェリア(Ophélie)

Paul Verlaine (en bas à gauche) et Arthur Rimbaud (à sa gauche). « Le coin de table » peint par Henri Fantin-Latour en 1872 -Musée d'Orsay.
前列左端がポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)、その右隣がアルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud)
「テーブルの片隅で」« Le coin de table » アンリ・ファンタン・ラトゥール(Henri Fantin-Latour、1836~1904)筆、1872年-オルセー美術館蔵
(旧暦 11月11日)
Lennon's day ビートルズの中心メンバーだったジョン・レノン(John Winston Ono Lennon, MBE)がニューヨークのセントラル・パーク72番通りにある自宅アパート、ダコタ・ハウス前で熱狂的なファン、マーク・チャプマン(Mark David Chapman)にピストルで撃たれ死亡した昭和55年(1980)の忌日。
ちなみにMBE(Member of the Order of the British Empire)は、大英帝国勲章(Order of the British Empire)のランクのひとつ。
I
Sur l'onde calme et noire où dorment les étoiles
La blanche Ophélia flotte comme un grand lys,
Flotte très lentement, couchées en ses longs voiles...
— On entend dans les bois de lointains hallalis.
星影がきえてはうつる、くらい、しずかな波のまに、
オフェリア姫は、ふうわりと浮かぶ。一茎の大輪の白百合の花。
ながい紗のかつぎもろとも、そっとおろしたようなかるさで。
はるか、森の奥からきこえる、鹿を追う勢子のときの声。
Voici plus de mille ans que la triste Ophélie
Passe, fantôme blanc, sur le long fleuve noir :
Voici plus de mille ans que sa douce folie
Murmure sa romance à la brise du soir...
あわれなオフェリア姫のほのかな幻が、くらい川すじを
どこまでもただようてからまる。
千年がすぎてしまった。
彼女のいじらしい狂乱が、夕風に
その恋をささやいてから、もう、千年もすぎてしまった。 続きを読む
2008年12月05日
艦船(6)-プリンス・オブ・ウェールズ(2)

The crew of the sinking Prince of Wales abandoning ship to the destroyer Express. Moments later the list on Prince of Wales suddenly increased and Express had to withdraw by Wikipedia.
沈み行くプリンス・オブ・ウェールズを退去し、接舷した駆逐艦に移乗する乗組員。この後、プリンス・オブ・ウェールズは傾斜を増し、駆逐艦エクスプレスは離脱しなければならなかった。
(旧暦 11月 8日)
モーツアルト忌 1791年にウィーンで、レクイエム ニ短調 K. 626の作曲中に35歳の若さで死去したオーストリア古典派の作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の命日。死因は、リューマチ熱(Rheumatisches Fieber)であったと考えられている。
艦船(5)-プリンス・オブ・ウェールズ(1)のつづき
太平洋戦争開戦劈頭の1941年12月8日、マレー半島攻略の命令を受けた日本軍(第25軍、司令官山下奉文中将、近衛師団、第5師団、第18師団、第3戦車団他)の上陸部隊を載せた21隻からなる輸送船団攻撃のため、シンガポールのセレター軍港を出港したプリンス・オブ・ウェールズ他のZ部隊( Force Z)は、12月9日、日本海軍の伊号第65潜水艦に捕捉されてしまいます。
翌12月10日午前6時25分過ぎに、サイゴン(ホーチミン)に司令部をおく海軍第二十二航空戦隊(司令官松永貞市海軍少将)指揮下の元山航空隊から発進していた9機の索敵機のうち、3番索敵線を担当していた帆足正音少尉機は、11時45分、断雲の彼方に英国東洋艦隊主力を発見し、司令部につぎつぎと電文を打電します。
敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリ成ル直衛ヲ配ス、航行序列キング型、レパルス型、一二〇五
これより先の午前7時55分、サイゴンの基地から元山航空隊の九六式陸上攻撃機25機、うち九一式航空魚雷改一装備(炸薬量170㎏)16機、50番(500㎏)通常爆弾装備9機が発進。
続いて午前8時14分にはサイゴン北方20㎞のツドウム基地から鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機26機、全機九一式航空魚雷改二装備(炸薬量204㎏)が発進。
直後の午前8時20分に同じくツドウム基地から美幌航空隊の九六式陸上攻撃機33機、うち九一式航空魚雷改一装備(炸薬量170㎏)8機、50番(500㎏)通常爆弾装備17機、25番(250㎏)通常爆弾各二装備8機が発進しています。
午後13時2分、断雲の下に戦艦2隻を含む5隻の英国艦隊を発見した元山航空隊は、第1中隊第1小隊1番機である石原大尉機がプリンス・オブ・ウェールズの左舷を目標に雷撃を敢行、第1小隊3番機と第2小隊3機がこれに続きました。
この雷撃により、プリンス・オブ・ウェールズには2本の魚雷が命中し、初めの1本は艦尾の3番砲塔やや後方に水柱をあげ、次の1本は中央やや艦首よりの後艦橋横に約40mの水柱を立ち上げました。
最初の艦尾近くに命中した魚雷は、左舷外側第4推進器軸の付け根附近で炸裂して第4推進器を脱落させ、その衝撃で推進軸がねじれ曲がり、回転する推進器軸の先端が隔壁を連打して破壊してしまいます。
そして、第4推進器軸管を伝わって浸水が始まり、左舷Y戦闘用動力室、Y罐室、B機械室への浸水、Y機械室の破損へとつながり、28ノット(51.88 km/h)の高速を誇るプリンス・オブ・ウェールズも左舷の2軸が停止し、さらには、主砲、高角砲の旋回や照準、発射に必要なXおよびY戦闘用動力室2室も発電不能に陥って速力が低下、傾斜して動力不足のため操舵も十分ではなく、戦闘航海能力は半減してしまいます。
午後13時49分、つづく鹿屋航空隊の第1中隊の4機と第2中隊の2機が右舷から雷撃し、1発目は艦首右舷に命中して右舷から左舷に通ずる大穴をあけ、2発目は艦橋真下に命中して燃料タンクを破壊し、3発目は後部3番砲塔横に命中、4発目は艦尾に命中して右舷外側第1推進器軸の付け根附近で炸裂し第1推進器軸を内側に押し曲げ、A機械室のタービンは停止してしまいます。
これによりプリンス・オブ・ウェールズは1軸運転となり、全速8ノット(14.8 km/h)が精一杯となります。
4つの破孔からの浸水は約1万8000トンにも及び、プリンス・オブ・ウェールズの基準排水量(Standard displacement)36,727トンの半分の量に達しています。
このように回避運動も対空射撃もままならなくなった状態でノロノロと南下していたプリンス・オブ・ウェールズに対して、最後のとどめをさしたのは、美幌航空隊第2中隊8機の50番(500㎏)通常爆弾による高度3,000mからの水平爆撃でした。
午後14時13分、50番(500㎏)通常爆弾が左舷後部のカタパルト甲板に命中、残っていたX罐室に火煙が吹き込んだため機関兵は罐室から退去し、遂に最後まで残っていた右舷第2推進器も停止し、完全に海上に漂泊してしまいます。
この後、駆逐艦エクスプレス(HMS Express)は、プリンス・オブ・ウェールズに接舷し、多くの将兵を退去させます。
その駆逐艦がプリンス・オブ・ウェールズの沈没に巻き込まれるの避けるために後進して離れると、午後14時40分、プリンス・オブ・ウェールズは左側に横倒しに転覆してしまいます。
そしてフィリップス提督とリーチ艦長を含む数百人は艦と運命を共にしてしまいます。
当時、フィリップス提督の最後に関して、「英国東洋艦隊司令長官フィリップス中将(当時はこう伝えられていた)は、駆逐艦から迎えのボートが来たとき、”No thank you”と云い、リーチ艦長と共に従容として艦と運命を共にした」と伝えられていますが、どうも世界を感動せしめた別離の一言は公式記録には伝えられていないようです。 続きを読む
2008年12月02日
艦船(5)-プリンス・オブ・ウェールズ(1)

HMS Prince of Wales,1941 by Wikipedia.
(旧暦 11月 5日)
プリンス・オブ・ウェールズ(HMS Prince of Wales)と云えば、年配の方はよくご存じの第二次大戦中の大英帝国海軍の戦艦(battleship)で、東洋艦隊の旗艦として1941年10月25日、トーマス・フィリップス中将(1888~1941)の指揮下に入り、駆逐艦エレクトラ(HMS Electra)とエクスプレス(HMS Express)を率いてシンガポールに回航、巡洋戦艦(battlecruiser)レパルス(HMS Repulse)と合流してZ部隊( Force Z)を編成し、日本軍南下の脅威に備えていました。
ちなみにHMSとは、大英帝国海軍艦艇の名前につけられるもので、女王陛下の船(Her Majesty's Ship)の略です。
HMS Prince of Wales was a King George V-class battleship of the Royal Navy, built at the Cammell Lairdshipyard in Birkenhead, England.
プリンス・オブ・ウェールズは、キング・ジョージ五世型戦艦の2番艦として、キャメル・レアード社バーケンヘッド造船所で1937年1月2日に建造が開始され、1939年5月3日に進水しています。
その初期の性能諸元は下記のようになっていました。







35.6cm×4連装砲塔2基、35.6cm×2連装砲塔1基
13.3cm×2連装両用砲8基、40mm×8連装ポムポム砲6基
40mm単装機関砲1基、20mm単装機銃7基
もともとプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)という名称は、ウェールズ公国(Principality of Wales)の支配者を意味しています。 続きを読む