2008年12月19日
秋津嶋の旅(13)-西海道(1)-太宰府
西鉄太宰府駅から天満宮に向かう参道
(旧暦 11月22日)
菅贈太政大臣道真
ふる雪に 色まどはせる梅の花 鶯のみやわきてしのばむ (新古今集1442)
不出門 門を出でず
一従謫落在柴荊 一たび謫落(たくらく:左遷)して柴荊(さいけい:貧しい住まい)に在りてより
萬死兢兢跼蹐情 萬死兢兢たり跼蹐(きょくせき:天地の間に身の置き所がないこと)の情
都府樓纔看瓦色 都府樓纔(わずか)に瓦色(がしょく)を看
観音寺只聴鐘声 観音寺は只(ただ)鐘声を聴く
中懐好逐孤雲去 中懐(ちゅうかい:心の中)好し孤雲を逐(お)ふて去り
外物相逢満月迎 外物(がいずつ)相(あい)逢(お)ふて満月を迎ふ
此地雖身無險繋 此の地身に險繋(けんけい:束縛)無しと雖も
何為寸歩出門行 何為(なんすれ)ぞ寸歩(すんぽ)も門を出でて行かん
ひとたび大宰府に左遷されて、配所の貧しき住まいに入ってからは、罪万死にあたるを思い、戦々兢々として身の置き所が無く、ひたすら謹慎している。
都府楼は瓦の色をわずかに望見するだけで、観音寺もただ鐘の声を聞くだけである。
心は孤雲の行方を追って都へと向かうが、外から見えるは満月ばかり。
この地では、束縛されることはないが、たとえ寸歩であってもこの門を出てゆくなどということをしようか。
太宰府と云えば、菅原道眞公(845~903)を祭る太宰府天満宮として有名ですが、ここ最近の2005年10月16日に太宰府天満宮所有の丘陵地に開館した九州国立博物館もこのところの観光スポットになっているようです。
先日、お袋のお見舞いに筑紫の国に帰還していた私「嘉穂のフーケモン」は、一日、約40年ぶりに太宰府を訪れました。
太宰府天満宮の参道には、名物の「梅が枝餅」を売るお店が軒を連ねていますが、昔よりはおしゃれなお店が多くなっていたような気がしました。
昌泰4年(901)1月25日、右大臣、右近衛大将如元(元の如し:元の官職のまま)菅原道眞公が、大宰権帥に左遷されて悄然としていたときに、太宰府にかつてあった安楽寺の門前で餅を売っていた老婆が、道眞公を励ますために餅を供し、その餅が道眞公の好物になったことがありました。
道眞公の死後、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが「梅が枝餅」の始まりとされているそうです。
さて、九州国立博物館ですが、前日の13日、麻生総理大臣が中国の温家宝首相、韓国の李明博大統領を招いて日中韓首脳の晩餐会が行われ、その後片付けのためでしょうか、残念なら閉館していました。
ところで太宰府と云う名称は、7世紀後半に筑紫の国に設置された地方行政機関のことを指し、和名は「おほみこともちのつかさ」と呼ばれていました。
外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9ヶ国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と壱岐、対馬、多禰(大隅諸島)については、掾以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管したとされています。
また、防人を統括する防人司を置き、西辺国境の防備を担っていました。
太宰府天満宮から数㎞西には、「都府楼跡」の名で親しまれている太宰府政庁跡が保存されています。
かつてはその権限の強さから「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた太宰府政庁は、奈良時代から平安時代にかけては壮麗な建物が建ち並んでいましたが、天慶3年(940)の藤原純友の乱で焼失してしまいました。
現在は、当時の立派な礎石が発掘されて残り、門や回廊、周辺の役所跡の礎石が復元されて、広い公園になっています。
太宰府政庁跡
昭和12年(1937)、後に九州大学文学部考古学講座の初代教授となる鏡山猛氏(1908~1984)が、太宰府条坊の存在を提唱しました。
鏡山猛氏は、遺構や土地利用の状況などから、政庁域を方4町、観世音寺の寺域を方3町と推定し、これを観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称「右郭廿一条二坊」「左郭四条七坊」の分析から、東西24条(約2.6㎞)、南北22条(約2.4㎞)に亘る条坊域を想定しました。
しかし、福岡県、太宰府市、筑紫野市教育委員会が続けてきた発掘調査により、条坊域は東西2.16㎞、南北2.0㎞という修正案が浮かび上がり、実際の太宰府の街は少し小さかったとの可能性が高まって来たようです。
ところで太宰府と云う名称は、7世紀後半に筑紫の国に設置された地方行政機関のことを指し、和名は「おほみこともちのつかさ」と呼ばれていました。
外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9ヶ国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と壱岐、対馬、多禰(大隅諸島)については、掾以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管したとされています。
また、防人を統括する防人司を置き、西辺国境の防備を担っていました。
太宰府天満宮から数㎞西には、「都府楼跡」の名で親しまれている太宰府政庁跡が保存されています。
かつてはその権限の強さから「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた太宰府政庁は、奈良時代から平安時代にかけては壮麗な建物が建ち並んでいましたが、天慶3年(940)の藤原純友の乱で焼失してしまいました。
現在は、当時の立派な礎石が発掘されて残り、門や回廊、周辺の役所跡の礎石が復元されて、広い公園になっています。
太宰府政庁跡
昭和12年(1937)、後に九州大学文学部考古学講座の初代教授となる鏡山猛氏(1908~1984)が、太宰府条坊の存在を提唱しました。
鏡山猛氏は、遺構や土地利用の状況などから、政庁域を方4町、観世音寺の寺域を方3町と推定し、これを観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称「右郭廿一条二坊」「左郭四条七坊」の分析から、東西24条(約2.6㎞)、南北22条(約2.4㎞)に亘る条坊域を想定しました。
しかし、福岡県、太宰府市、筑紫野市教育委員会が続けてきた発掘調査により、条坊域は東西2.16㎞、南北2.0㎞という修正案が浮かび上がり、実際の太宰府の街は少し小さかったとの可能性が高まって来たようです。
秋津嶋の旅(18)ー北陸道(1)ー金澤
秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校
秋津島の旅(15)−畿内(3)−石山御坊(1)
秋津嶋の旅(14)-西海道(2)-阿蘇火山
秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館
秋津島の旅(12)-吾妻の国(3)-生麦事件の碑
秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校
秋津島の旅(15)−畿内(3)−石山御坊(1)
秋津嶋の旅(14)-西海道(2)-阿蘇火山
秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館
秋津島の旅(12)-吾妻の国(3)-生麦事件の碑
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。