2008年01月12日
雑司ヶ谷霊園(2)-漱石夏目金之助の墓
漱石夏目金之助の墓
(旧暦 12月 5日)
東京都立雑司ヶ谷霊園案内図の裏面には、埋葬著名人一覧として66人の著名人の氏名、墓碑の位置、職業、生死年が記載されていますが、それを基に探すと、漱石夏目金之助(1867~1916)のお墓は雑司ヶ谷霊園の中央通りといちょう通りが交差する右角の1種14号1側3番にあります。
漱石夏目金之助が終生の友人子規正岡常規(1867~1902)と出会ったのは、第一高等中学校本科英文科1年在学中の明治22年(1889)1月のことでした。
きっかけは、正岡常規も夏目金之助も寄席によく通っていたことが発端で、その交友が深まったのは、正岡常規が明治22年(1889)5月に完成させた、漢詩、漢文、和歌、発句、謡曲、小説などの分野から成る文章を集めた『七草集』に、夏目金之助がその批評を漢文で書き、九首の七言絶句を添えたことによるものと云われています。
そして、この時に初めて「漱石」という号を使ったとされています。
正岡子規は大学予備門時代(1884~1886)には、友人たちと「七変人評論」を作っていますが、この時には夏目金之助はまだ知己ではありませんでした。
七変人 人ニ対シテ
● 関甲子郎 陸奥人 高論放言傍若無人
● 菊池謙二郎 常陸人 義気アリ交ルコト比々タリ
● 井林広政 伊予人 義気アリ交ルコト比々タラズ
● 正岡常則 伊予人 時トシテ權數アリ
● 秋山真之 伊予人 鷹揚自ラ誇ルノミ
● 神谷豊太郎 紀伊人 或ハ笑ヒ或ハ媚ビ人ノ意ヲ迎フ
● 清水則遠 伊予人 淡トシテ水ノ如シ
正岡子規は雅号だけでも100あまりも持っており、明治23年(1890)に書かれた『筆まかせ』という随筆には、「走兎」、「風廉」、「漱石」、「士清」、「子升」、「常規凡夫」、「眞棹家」、「丈鬼」、「冷笑居士」、「獺祭魚夫」、「放浪子」、「秋風落日舎主人」、「癡夢情史」、「野暮流」、「盗花」、「四国仙人」、「沐猴冠者」、「被襟生」、「莞爾生」、「浮世夢之助」、「蕪翠」、「有耶無耶漫士」、「迂歌連達磨」、「情鬼凡夫」、「馬骨生」、「野球」、「色身情仏」、「都子規」、「虚無僧」、「饕餐居士」、「僚凡狂士」、「青孝亭丈其」、「裏棚舎夕顔」、「薄紫」、「蒲柳病夫」、「病鶴痩士」、「無縁癡仏」、「情魔癡仏」、「舎蚊無二仏」、「癡肉団子」、「仙台萩之丞」、「無何有洲主人」、「八釜四九」、「面読斎」、「一橋外史」、「猿楽坊主」など沢山の雅号が書かれています。
続きを読む
2006年08月28日
雑司ヶ谷霊園(1)−あらまし
小雨に煙る閑静な雑司ヶ谷霊園
(旧暦閏-7月 5日)
道元忌 曹洞宗の開祖で、『正法眼蔵』87巻を著し、傘松峰大仏寺(後の吉祥山永平寺)を開いた禅僧道元の建長5年(1253)の忌日
池袋のサンシャインシティの横を走る首都高速5号池袋線の下を500mほど南に下ると都電荒川線の雑司ヶ谷の停留所があり、そのそばに総合面積106,110㎡、使用者数約9,000人もの一般埋蔵施設他を有する東京都立雑司ヶ谷霊園の閑静で宏大な敷地が広がっています。
都立雑司ヶ谷霊園は、明治7年(1874)9月1日に開設されたもと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、昭和10年(1935)に「雑司ヶ谷霊園」に名称が変更されたものです。
徳川幕府は、寛永12年(1635)に寺請制度を制定して人々がいずれかの寺院の檀家となることを義務付け、その寺院の付属する墓地に各檀家の埋葬を許可してきましたが、明治政府は明治6年(1873)に従前の墓地といえども旧朱印内は埋葬を禁止する旨の布達を行いました。
当時の江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は文政5年(1822年)12月、備後福山藩11万石第5代藩主で江戸幕府では老中を務めた阿部正精(まさきよ、1775〜1826)によって、朱線で囲った地図とともに次のような通達によって定義されています。
「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」
• 東 … 中川限り
• 西 … 神田上水限り
• 南 … 南品川町を含む目黒川辺
• 北 … 荒川・石神井川下流限り
つまり、旧朱印内は、旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む範囲でした。 続きを読む