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2016年06月04日

天文(21)− メシエ天体(5)

    

    Pierre François André Méchain ( 1744 〜1804) was a French astronomer and surveyor who, with Charles Messier, was a major contributor to the early study of deep sky objects and comets.   

    (旧暦4月29日)

    天文(20)− メシエ天体(4)のつづき

    ご無沙汰致しております。
    やっとその気になっております。

    フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表したメシエ天体(Messier object)の内、愛称で呼ばれる29の天体について、最期のM82からM104 を紹介いたしましょう。

  

    Messier: M82. 
    (February 9, 1781) `Nebula without star, near the preceding [M81]; both are appearing in the same field of the telescope, this one is less distinct than the preceding; its light faint & [it is] elongated: at its extremity is a telescopic star. Seen at Berlin, by M. Bode, on December 31, 1774, & by M. Méchain in the month August 1779.'

 
    [観測日:1781年2月9日]
    星のない星雲で、一つ前の天体[M81]の近くにある。両方とも望遠鏡の同じ視野に見える。後者[M82]は前者[M81]ほどはっきり見えない。その光はぼんやりとして細長い。端っこに望遠鏡でしか見えない星がある。1774年12月31日にベルリンからボーデが、1779年8月の間にメシャンが観測している。

    M81とM82は、おおぐま座α星(Dubhe、天樞)の北西こぶしひとつ分にある4.6等星のおおぐま座24番星の西約2°のところにあります。おおぐま座α星(Dubhe,天樞)の学名はα Ursae Majoris(略称はα UMa)。ドゥーベ(Dubhe)はアラビア語で「熊」を意味する ドゥブ(Dubb)に由来しており、中国における呼称は、中国正史の天文志では天樞と記されています。

    


    


    北斗七星、所謂旋璣玉衡、以齊七政。杓攜龍角、衡殷南斗、魁枕參首。用昏建者杓。杓自華以西南。夜半建者衡。衡殷中州河濟之閒。平旦建者魁。魁海岱以東北也。斗爲帝車、運于中央、臨制四鄕。分陰陽、建四時、均五行、移節度、定諸紀、皆繋於斗。
    『史記 天官書第五』


    北斗の七星は、所謂(いはゆる)旋璣(せんき)玉衡(ぎよくかう)、以て七政を齊(ととの)ふるものなり。杓(しやく)は龍角に攜(つら)なり、衡(かう)は南斗に殷(あ)たり、魁(くわい)は參首に枕す。昏(くれ)を用(も)つて建する者は杓なり。杓は華より以西南なり。夜半に建する者は衡(かう)なり。衡(かう)は中州河濟之閒に殷(あ)たる。平旦に建する者は魁(くわい)。魁(くわい)は海岱に以東北なり。斗を帝車と爲し、中央に運(めぐ)り、四鄕(しきやう)を臨制す。陰陽を分かち、四時(しいじ)を建て、五行を均(ひと)しくし、節度を移し、諸紀を定むる、皆、斗に繋(かか)る。
 
    M82(NGC3034)は葉巻銀河(Cigar Galaxy)とも呼ばれ、葉巻型の本体からとがった髪の毛のような斜めに長いフィラメントが銀河中心から伸びていますが、これは「スーパーウィンド」といわれる電離した水素ガスが中心部から極方向に向かって吹き出している現象です。

    

    A mosaic image taken by the Hubble Telescope of Messier 82, combining exposures taken with four colored filters that capture starlight from visible and infrared wavelengths as well as the light from the glowing hydrogen filaments.


    


    銀河自体は大きさ5万5000光年であるのに対して、そのフィラメントは約3万4000光年もの長さがあります。
    約4000万年前にM81とM82は接近遭遇し、M82は巨大なM81の重力の影響を受けて変形し、星間ガスが短期間に大量にできるスターバーストが引き起こされているスターバースト銀河であると分類されています。

   Messier: M83. 
   (February 17, 1781) `Nebula without star, near the head of Centaurus: it appears as a faint & even glow, but it is difficult to see in the telescope, as the least light to illuminate the micrometer wires makes it disappear. One is only able with the greatest concentration to see it at all: it forms a triangle with two stars estimated of sixth & seventh magnitude: [its position was] determined from the stars i, k and h in the head of Centaurus: M. de la Caille has already determined this nebula. See the end of this Catalog.'


   [観測日:1781年2月17日]
   星のない星雲で、ケンタウルス座の頭の近くにある。ぼんやりと弱い光で、望遠鏡を使っても見るのがとても難しく、マイクロメターの十字線のせいで見えなくなってしまう。かなり集中しないと見ることが出来ない。6等星と7等星と思われる二つの星と対になって、三角形を形成する。その位置は、ケンタウロス座の頭にあるI,k,h星によって決められる。ニコラ=ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille、1713〜1762)がすでにこの星雲を観測していた。このカタログの終わりの部分を見てほしい。


    


    M83(NGC5236)はうみへび座にある棒渦巻銀河で、その姿から南の風車銀河(Southern Pinwheel Galaxy)という別名でも呼ばれています。M83は、すばらしい正面向き(face on)の銀河です。
    M83の渦巻きの広大で複雑な構造は、M83の10分の1の質量の楕円銀河で、南西約2°のところにある小さなNGC5253との衝突による潮汐力でねじられたと考えられています。

    M83は星座の中で最も長くのびているうみへび座の中の余り目立たない場所にあり、簡単に見つかりません。ケンタウルス座のα,β,γ星の北西3.5°のところにこの7等の円盤銀河を探すと見つかります。

    


    


    M83をすでに観測していたニコラ=ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille、1713〜1762)はフランスの天文学者で、1739年にフランスの子午線弧長の再測定を行ったことによりフランス科学アカデミー(Académie des sciences)に認められるところとなり、アカデミー委員とコレージュ・マザラン(the Collège Mazarin)の数学教授に任命されています。その後南天観測の希望を申し出て、1751年から喜望峰(the Cape of Good Hope)に滞在し、南天の恒星約10,000と42の星雲も観測しました。

    


    1757年、”Astronomiae Fundamenta Novissimus”を出版し、光行差(注1)と章動(注2)を修正した400の恒星のリストを発表しています。

    光行差(注1)(Aberration of light)
    天体を観測する際に観測者が移動しているために、天体の位置が移動方向にずれて見えるとき、そのずれを指す用語で、1728年、イギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリー(James Bradley, 1693〜1762)が発見しました。

    

    The apparent position of a star viewed from the Earth depends on the Earth's velocity. The effect is typically much smaller than illustrated.

    章動(注2)(Nutation)
    惑星の自転軸に見られる微小な運動の一種で、春分点の歳差を引き起こす潮汐力の強さが時間とともに変化するため、歳差の速度が一定でないことが原因で起こる成分である天文章動と、自由歳差運動による成分である自由章動から成ります。

    

    Rotation (green), precession (blue) and nutation in obliquity (red) of a planet.  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:21Comments(0)天文

2016年05月06日

奥の細道、いなかの小道(25)−最上川(1)

 
  (旧暦3月30日)

  

  鑑眞忌
  唐の高僧で、日本に渡って日本律宗を開いた鑑眞(688〜763)の天平寶字七年(763)の忌日。唐招提寺開山忌は、月遅れで6月6日に行われる。

  

  万太郎忌、傘雨忌
  小説家・劇作家・俳人・演出家の久保田万太郎(1889〜1963)の昭和三十八年(1963)の忌日。 俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。

  

  春夫忌、春日忌
  詩人・小説家・評論家の佐藤春夫(1892〜1964)の昭和三十九年(1964)の忌日。


  最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

  最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙/\に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
 
  五月雨をあつめて早し最上川
 


  一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢、立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。
 
  『曾良旅日記』


  元禄二年陰暦五月廿八日(陽暦七月十四日)、立石寺をあとにした芭蕉翁一行は、馬を借りて天童に向かい、六田(山形県東根市)で馬を取り替える間に、行きがけに逢った内藏に会い、家に立ち寄って接待を受けます。この内藏という人物はどのような人であったかは不詳ですが、おそらく「紅花大尽」といわれた豪商で、談林系の俳人でもある旧知の鈴木清風(1651〜1721)に紹介された地元の人物であろうと推測されています。
 
  昨日も今日も、雲行きが悪く雨になりそうで心配していましたが、幸いにも雨には遭わず、芭蕉翁一行は午後二時半頃、大石田最上川河畔の船持荷問屋髙野一榮(1636〜1725)宅に到着します。

  五月雨の季節の最上川は満々とした水量を湛えていました。
  此の夜、高桑川水(1644〜1709)が訪ねてきましたが、芭蕉は疲労のために俳諧の興行を行わずに、休息します。
 
  芭蕉翁一行が今回の旅の目的のひとつである出羽三山を目指すのであれば、山形から西へ六十里街道を行くのが本来の道筋でしたが、大石田へと行き先を変更したのは、尾花沢の鈴木清風宅の句筵で知り合った大石田村の大庄屋高桑川水(1644〜1709)と組頭で船持荷問屋の髙野一榮(1636〜1725)のたっての懇請であったとされています。

  大石田は最上川の右岸、朧気川の北側に位置する水駅として栄えた所で、江戸期において最上川船運は唯一の輸送機関であり、山形城主最上義光(1546〜1614)が流域一円を支配すると、天正八年(1580)に碁点、三ヵの瀬、隼(早房の瀬)の三大難所を開削・整備したため、河口の酒田まで通ずる様になりました。
 
  寛永年間(1624〜1644)には延沢銀山の最盛期とも重なり、最上川による船運輸送が活発になって、大石田河岸の役割が重要になりました。
  尾花沢の延沢銀山は、康正二年(1456)に金沢の儀賀市郎左衛門という人が発見したという言い伝えがあり、最盛期には島根の石見、兵庫の生野とともに日本三大銀山と呼ばれ、2万5千人の人々が在住していたと伝えられています。

  その後、船運は幕府や諸藩の年貢米の輸送路として開発され、また同時に京都・大阪に紅花や青荢(あおそ:カラムシ)などの特産物を運び、塩・木綿・海産物などの生活必需品が入ってくる流通路として発展しました。

  芭蕉翁一行が訪れた元禄期(1688〜1704)には、最上川に就航していた船は、大石田船二百九十余艘、酒田船二百五十余艘を数えたと伝えられています。さらに、寛政四年(1792)から大石田が幕府の天領となり、飛躍的な繁栄をもたらしたものといわれています。

  この土地にはふとした機縁で古風の俳諧の流風が伝わり、盛んであった昔のことを慕っているということを聞いた。蘆笛一声に慰む辺土の民の心を俳諧によって風雅に和らげつつ、此の俳諧の道に暗い夜道を足で探りながら歩くようなたどたどしい調子でたどりながら、新風・古風いずれの道に進むべきかに迷い悩んでいるけれども、道を指し示す人もないようなので、請われるままに一巻(最上川歌仙)を残しとどめることになった。このたびの陸奥・出羽の旅における俳諧風流は、この一巻に極まったかの観がある。

  芦角一声の心をやはらげ

  胡笳歌送顏眞卿使赴河隴     胡笳の歌  顏真卿の使ひして河隴に赴くを送る

  君不聞胡笳聲最悲               君聞かずや  胡笳の声最も悲しきを 
  紫髭綠眼胡人吹                  紫髭緑眼  胡人吹く
  吹之一曲猶未了                  之を吹き  一曲猶未だ了らざるに
  愁殺樓蘭征戍兒                  愁殺す  樓蘭征戊の兒
  涼秋八月蕭關道                  涼秋八月  蕭關(せうくわん)の道
  北風吹斷天山艸                  北風吹斷す  天山の艸(くさ)
  崑崙山南月欲斜                  崑崙山南  月斜めならんと 欲す
  胡人向月吹胡笳                  胡人  月に向ひて胡笳を吹く
  胡笳怨兮將送君                  胡笳の怨  望む 隴山の雲
  邊城夜夜多愁夢                  邊城  夜夜  愁夢多く
  向月胡笳誰喜聞                  月に向かひて  胡笳  誰か聞くを喜ばん

  『唐詩訓解 巻二 岑參』

  「芦角」は、蘆笳・胡角・胡笳と呼ばれる胡人の吹く蘆の笛の造語で、「芦角一声」を辺鄙な田舎人の俳諧の譬喩とし、「芦角一声の心」とは、蘆笛一声に慰む心、すなわち素朴な田舎人の風流心を表したものと解されています。

  胡笳曲               胡笳の曲

  城南虜已合         城南  虜  已に合し
  一夜幾重圍         一夜  幾重にか圍む
  自有金笳引         自から金笳の引有り
  能令出塞飛         能く出塞をして飛ばしむ
  聽臨關月苦         聴は関月に臨んで苦(さ)え    
  淸入海風微         清は海風に入りて微かなり
  三奏高樓暁         三奏す  高楼の暁
  胡人掩涕歸         胡人  涕を掩うて歸る

  『唐詩訓解 巻三 王昌齢』


  酒泉太守席上醉後作    酒泉太守の席上 醉後の作

  酒泉太守能劔舞          酒泉太守  能く剣舞し
  高堂置酒夜撃鼓          高堂に酒を置き  夜  鼓を撃つ
  胡茄一曲斷人腸          胡茄一曲  人の腸(はらわた)を斷ち
  座上相看涙如雨          座上相看て  涙  雨の如し
  琵琶長笛曲相和          琵琶 長笛  曲相ひ和し
  羌兒胡雛斉唱歌          羌兒  胡雛  齊(ひとし)く唱歌す
  渾炙犛牛烹野駝          犛牛(ばうぎう:ヤク)を渾炙し 野駝を烹し
  交河美酒歸叵羅          交河の美酒 歸す叵羅(はら:酒盃)
  三更醉後軍中寢          三更 醉後 軍中に寢ぬ
  無奈秦山歸夢何          秦山の歸夢を  奈何ともする無し

  『唐詩訓解 巻七 岑參』


  王昭君                     大江朝綱

  翠黛紅顔錦繍粧        翠黛紅顔  錦繍の粧(よそほ)ひ
  泣尋沙塞出家郷        泣く/\沙塞を尋ねて  家郷を出づ
  邊風吹斷秋心緒        邊風吹き斷つ  秋の心緒
  隴水流添夜涙行        隴水流れ添ふ  夜の涙行
  胡角一声霜後夢        胡角一声  霜後の夢
  漢宮萬里月前腸        漢宮萬里  月前の腸(はらわた)
  昭君若贈黄金賂        昭君  若し黄金の賂(おくりもの)を贈りなば
  定是終身奉帝王        定めてこれ身終(を)はるまで  帝王に奉ぜしならん

  『和漢朗詠集 下巻 雜 王昭君』

  さて、ここで本文中の「新古ふた道にふみまよふといへども」という箇所ですが、旧知の鈴木清風が記した『おくれ双六』の序には、次のような記述があります。

  「予も同国(出羽)の所生と言ながら、心の花の都にも二年三とせすみなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ。近曾(ちかごろ)より漸新しき海道に出て諸人をまねき、四季折々の佳作を得るといへども」云々
  『おくれ双六』 延寶九年  


  延寶(1673〜1681)末より天和(1681〜1684)・貞享(1684〜1688)にかけては、上品な笑いを目指すが決まりごとが多い貞門派や自由な作風だが俗に流れた談林派の古風な俳諧から、心付・景気付を主体とする優美な俳風を基調とした元禄の新風に向かう過渡期に当たっていたとされています。

  出羽に在っては、尾花沢の鈴木清風(1651〜1721)、酒田の伊東不玉(1648〜1697)、庄内の水軒、調用、器水、山形の未覺などの羽州俳人が岸本調和(1638〜1715)門の俳書に登場し始めるのが、ちょうど奇矯な漢詩文調を織り交ぜた天和(1681〜1684)・貞享(1684〜1688)の過渡期にあったており、そうした渦中にあって、大石田連衆としては、新古二道に踏み迷う感が濃かったのではないかとは、近世文学、特に俳諧を専門とされた尾形仂(おがたつとむ:1920〜2009)先生の解説です。
  『おくのほそ道評釈』 P287  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:19Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2015年10月27日

天文(20)− メシエ天体(4)

  
  

  松蔭吉田寅次郎先生

  (旧暦9月15日)

  松陰忌
  長州藩で松下村塾を開き藩士の子弟を教育した吉田松陰(1830~1859)年の忌日。安政の大獄で捕えられ、安政6年10月27日に伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。享年30。
  
  かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


  天文(19)− メシエ天体(3)のつづき

  いや〜、ご無沙汰致しております。
  涼しくなって、やっとその気になっております。頑張ります。

  フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表したメシエ天体(Messier object)の内、愛称で呼ばれる29の天体について、今回はM63からM81 を紹介いたしましょう。

  

  Messier: M63.
  June 14, 1779. 63. 13h 04m 22s (196d 05' 30") +43d 12' 37"
  "Nebula discovered by M. Méchain in Canes Venatici. M. Messier searched for it; it is faint, it has nearly the same light as the nebula reported under no. 59 : it contains no star, & the slightest illumination of the micrometer wires makes it disappear: it is close to a star of 8th magnitude, which precedes the nebula on the hour wire. M. Messier has reported its position on the Chart of the path of the Comet of 1779."


  [観測日:1779年6月14日]
  メシャン(Pierre-François Méchain、 1744〜1804:フランスの天文学者、シャルル・メシエの助手を務めた後に1800年よりパリ天文台長)が猟犬座に発見した星雲。メシエはそれを捜した。暗い天体で、59番でも述べられている星雲と同じくらいの明るさ。星は見受けられず、マイクロメーターのわずかな光が入るだけでも見えなくなってしまう。近傍に8等星があり、この星雲より先に子午線を横切る。メシエは、1779年の彗星用星図中に位置を記録している。


  M63は、通称ひまわり銀河(Sunflower Galaxy)と呼ばれ、重力の制御を失った渦巻銀河のようであり、腕を投げ出したようなめずらしい景観と評されています。約100億個の恒星からなる輝きのこの渦巻銀河は、内側部分と外側部分の結合がゆるい銀河として顕著な例とされ、直径8万6000光年の円盤の広がりをもつM63の内側領域は、強い渦巻き構造によって輪のようになっています。

  
 
  Messier 63 (also known as M63, NGC 5055, or the Sunflower Galaxy)

  

  

  Urania's Mirror;Plate 10: Boötes, Canes Venatici, Coma Berenices, and Quadrans Muralis

   Messier: M64.
   March 1, 1780. 64. 12h 45m 51s (191d 27' 38") +22d 52' 31"
   "Nebula discovered in Coma Berenices, which is about half as apparent as that which is below the hair [M53]. M. Messier has reported its position on the Chart of the Comet of 1779. Observed again March 17, 1781."


  [観測日:1780年3月1日]
  かみのけ座に発見された星雲。かみのけの下部に位置する星雲 [M53] にくらべると、若干目立たない。メシエは、1779年の彗星用星図中に位置を記録している。1781年3月17日にも再び観測されている。
 

  恒星の明るさを比較し、等級が0.41上がるごとにその明るさが二乗に反比例して暗くなること、さらに、1等星は6等星の約100倍の明るさであることを発見したイギリスの天文学者、数学者のサー・ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル準男爵(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet、1792〜1871)が1833年に残した記録では、M64が ”vsmbm” と記録されています。この記号は、”very suddenly very much brighter toward the middle” (中心部に向かうと非常に急激に大変明るくなっている)ということを意味しています。

  このかみのけ座の有名な黒目星雲は、なめらかでつやつやした絹のような渦巻き腕が、磁器のような中心部を壮麗に覆っていると評されています。この銀河は、人がまぶしい光に目を閉じたようすに似ています。
  M64の暗黒星雲は、直径およそ4万光年、数十億個の惑星を育む土壌としては十分な物質を含んでいます。

  

  The Black Eye Galaxy (M64)

  


  Messier: M65.
  March 1, 1780. 65. 11h 07m 24s (166d 50' 54") +14d 16' 08"
  "Nebula discovered in Leo: It is very faint and contains no star." [also see M66
]

  [観測日:1780年3月1日]
  しし座の中にある星雲。非常に暗く、星を含んでいない。


  M65は、しし座にある渦巻銀河で、M66やNGC3628と非常に接近して見え「しし座の三つ子銀河」(Leo Triplet)とも呼ばれています。M65とM66は、しし座θ星とι星の中間あたりにあり、21′(分:1度の60分の1の角度で、21′は21/60度)しか離れていません。

  

  M65 by Hubble.

  

  

  Urania's Mirror;Plate 20: Leo Major and Leo Minor

  Messier: M66.
  March 1, 1780. 66. 11h 08m 47s (167d 11' 39") +14d 12' 21"
  `Nebula discovered in Leo; its light is very faint & it is very close to the preceding [M65]: They both appear in the same field [of view] in the refractor. The comet of 1773 & 1774 has passed between these two nebulae on November 1 to 2, 1773. M. Messier didn't see them at that time, no doubt, because of the light of the comet.'


  [観測日:1780年3月1日]
  しし座の中にある星雲。非常に暗く、先の天体[M65]に非常に近い。この二つの天体は、同じ望遠鏡の視野の中に見える。1773年と1774年に観測された彗星は、1773年の11月1日と2日の間にこの二つの星雲の間を通った。その時には彗星の明るさのため、メシエはM66を見ていないことは間違いない。

  M66は一般的な渦巻銀河と異なり、いびつな形をしています。2本の腕は非対称な形に変形し、銀河の核も銀河全体の中心から外れた位置にあります。これは、他の2つの「しし座の三つ子銀河」(Leo Triplet)から重力による影響を受けたものだと考えられています。

  

  The colour-composite image of the Spiral galaxy M 66 (or NGC 3627)

 

 The Leo Triplet, with M65 (right top), M66 (right bottom) and NGC 3628 (left). North is to the left.  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:58Comments(0)天文

2015年07月07日

漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  

  Portrait of Qu Yuan by Chen Hongshou

  (旧暦5月22日)

  汨羅の渕に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れ飛ぶ
  混濁の世に我れ立てば
  義憤に燃えて血潮湧く
  『青年日本の歌』  作詞・作曲 海軍少尉三上卓(海兵54期)


  楚の頃襄王二十一年(BC278)、西の強国秦の侵攻によって首都郢(えい:湖北省荊州市)が陥落したことで楚の将来を絶望した屈原(BC340頃~BC278頃)は、旧暦五月五日の端午節に石を抱いて汨羅江に入水自殺したと伝えられています。

  屈原が入水した汨羅江(Miluo River, mìluó jiāng)は、湖南省の北東部を流れる洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流で、長さ250㎞。
  汨羅の名称は、BC690年、楚が諸侯国の一つ羅子国を滅ぼし、その遺民が丹陽(湖北省帰県)さらには汨羅江尾閭南岸(汨羅西部郊外)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来するとのことです。

  屈原五月五曰投汨羅水。楚人哀之、至此曰、以竹筒子貯米投水以祭之。漢建武中、長沙區曲忽見一士人、自云三閭大夫。謂曲曰、聞君當見祭、甚善。常年爲蛟龍所竊。今若有惠、當以楝葉塞其上、以彩絲纏之。此二物、蛟龍所憚。曲依其言。今五月五曰作粽、並帶楝葉、五花絲、遺風也。
  『續齊諧記』  南梁 吳均


 

  屈原 五月五日 汨羅水に投ず。楚人之を哀み、此の日、竹筒を以て米を貯へ、水に投じて之を祭る。漢の建武中(25〜56)、長沙の區曲(おうくわい)忽ち一士人を見る。自ら三閭大夫と云ふ。謂ひて曰く、聞く當(まさ)に祭らるるを見るは、甚だ善し。常年、蛟龍の爲に竊(ぬす)まる。今惠有らば、當に楝(あふち:栴檀)の葉をもって其の上を塞ぎ、彩絲を以て之を纏(ま)くべし。此の二物、蛟龍の憚(おそ)るる所なり、と。曲(くわい)其の言に依る。今、五月五曰 粽(ちまき)を作り、竝(なら)びに楝葉、五花絲を帶ぶるは、遺風なり。

  屈原(BC340頃~BC278頃)、名は平、中国春秋時代の楚の第十八代君主武王(在位:BC740 〜 BC690)の公子瑕(屈瑕)を祖とする公室系の宗族のひとりであり、屈氏は景氏、昭氏と共に楚の王族系の中でも名門のひとつでありました。    
  見聞広く、記憶力に優れ、治乱の道理に明るく、詩文にも習熟していたために第三十七代君主懐王(在位:BC329 〜 BC299)の信任が厚く、朝廷にあっては王と国事を図って号令を出し、朝廷の外にあっては賓客をもてなし諸侯を応接する高官である左徒となりました。

  屈原在世当時の楚の政治課題は、西の強国秦への対応でした。
  その方針については、臣下の意見は二分していました。
  face031.親秦派
   西の秦と同盟することにより楚の安泰をはかる連衡説
  face052.親齊派
   東の齊と同盟することで、秦に対抗しようとする合従説

  屈原は親齊派の急先鋒でしたが、屈原の才能を憎んだ位が同位の上官大夫の讒言を受けた懐王は怒り、屈原を疎んずるようになります。
 
  楚の懐王十七年(BC312)、懐王は秦の策謀家張儀の罠にかかり、兵を発して秦を討ちますが、楚は丹淅(江蘇省鎮江市)と藍田(陝西省西安市)に大敗します。

  丹淅、藍田の大敗後、屈原は一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられました。

  楚の懐王三十年(BC299)、秦の昭王(昭襄王:在位BC306〜BC251)は懐王に婚姻を結ぶことを持ちかけて、秦に来訪するように申し入れました。
  屈原は、「秦は虎狼のように残忍で危険な国で、信用がならなりません。行かない方が良いでしょう。」と諫めましたが、懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、ついに秦に監禁されてしまいます。

  王を捕らえられた楚では、長子頃襄王を立て、その弟子蘭を令尹(丞相)にしたために、更に追われて江南へ左遷されてしまいます。

  その後、楚の頃襄王二十一年(BC278)、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺します。

  令尹子蘭聞之大怒、卒使上官大夫短屈原於頃襄王、頃襄王怒而遷之。    
  屈原至於江濱、被髪行吟澤畔。顏色憔悴、形容枯槁。


  令尹(れいゐん:執政)子蘭 之を聞き大いに怒り、卒(つひ)に上官大夫をして屈原を頃襄王に短(そし)らしむ。頃襄王怒りて之を遷(うつ)す。
  屈原江濱に至り、髪を被(かうむ)り澤畔に行吟す。顏色憔悴し、形容枯槁す。


  漁父見而問之曰、子非三閭大夫歟。何故而至此。
  屈原曰、舉世混濁而我獨淸、眾人皆醉而我獨醒、是以見放。
  漁父曰、夫聖人者、不凝滯於物而能與世推移。舉世混濁、何不隨其流而揚其波。眾人皆醉、何不餔其糟而啜其醨。何故懷瑾握瑜而自令見放爲。
  屈原曰、吾聞之、新沐者必彈冠、新浴者必振衣、人又誰能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴常流、而葬乎江魚腹中耳。又安能以皓皓之白、而蒙世俗之溫蠖乎。


  漁父見て之に問ひて曰く、子は三閭大夫に非ずや。何の故に此に至れる、と。
  屈原曰く、舉世混濁して我獨り淸(す)む、眾人皆醉ひて我獨り醒む。是を以て放たる、と。
  漁父曰く、夫れ聖人は物に凝滯せずして能く世と推し移る。舉世混濁せば、何ぞ其の流れに隨ひて其の波を揚げざる。眾人皆醉はば、何ぞ其の糟を餔(く)らひて其の醨(うはずみ)を啜(すす)らざる。何の故に瑾を懷き瑜を握りて(優れた才能を持つ)、自ら放たれしむるを爲す、と。
  屈原曰く、吾之を聞く、新たに沐する者は必ず冠を彈き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ、と。人又誰か能く身之察察(さつさつ:清潔なさま)を以て、物の汶汶(もんもん:汚れたさま)を受くる者ぞ。寧(むし)ろ常流に赴きて、江魚の腹中に葬(はうむ)られんのみ。又安くんぞ能く皓皓(かうかう:潔白なさま)之白きを以てして、世俗之溫蠖(をんわく:どす黒いさま)を蒙(かうむ)らんや、と。

  乃ち懷沙之賦を作る。
  其の辭に曰く、


  滔滔孟夏兮  草木莽莽   
  傷懐永哀兮  汨徂南土
  眴兮窈窈   孔靜幽黙
  寃結紆軫兮  離愍而長鞠
  撫情效志兮  俛詘以自抑
  刓方以爲圜  常度未替
  易初本由兮  君子所鄙
  章畫職墨兮  前度未改
  内直質重兮  大人所盛
  巧匠不斲兮  孰察其揆正
  玄文幽處兮  曚謂之不章
  離婁微睇兮  瞽以爲無明
  變白而爲黑兮 倒上以爲下
  鳳皇在笯兮  鶏雉翔舞
  同糅玉石兮  一槩而相量
  夫黨人之鄙妒 羌不知吾所臧


  滔滔(たうたう)たる孟夏(まうか:初夏)
  草木 莽莽(ぼぼ:生い繁る)たり
  懐(おも)ひを傷め永く哀しみ
  汨(いつ:急ぎ)として南土(なんと)に徂(ゆ)く
  眴(けん:瞬き)して窈窈(えうえう:果てしない)たり
  孔(はなは)だ靜かにして幽黙(いうもく:物音がしない)なり
  寃結(ゑんけつ:心が塞がり結ぼれ)紆軫(うしん:もつれ痛む)して
  愍(うれ)ひに離(かか)りて長く鞠(きは)まる
  情に撫(したが)ひ志を效(いた)し
  俛詘(ふくつ:伏屈む)以て自ら抑(おさ)ふ
  方を刓(けず)り以て圜と爲すも
  常度(じやうど:元の態度)を未だ替(す)てず
  初本の由るところを易(か)ふるは
  君子の鄙(いや)しむ所なり
  畫(くわく)を章(あきら)かにし墨を職(しる)して
  前度(もとの態度)を未だ改(あらた)めず
  内 直にして 質 重なるは大人の盛とする所
  巧匠(かうしやう)斲(けづ)らずんば
  孰(たれ)か其の揆(き:寸法)の正しきを察せん   
  玄文(黒い模様)幽處(いうしよ:暗い所にある)する
  曚(もう:盲人)は之を章(しよう:模様)ならずと謂う
  離婁(りろう:黄帝の時代のひじょうに目の良かった人)の微睇(びてい:目を細めて見る)する
  瞽(こ:盲人)は以て明無しと爲す
  白を變じて黑と爲し
  上を倒(さかしま)にし以て下と爲す
  鳳皇は笯(ど:竹の籠)に在り
  鶏雉は翔舞す
 玉石を同糅(どうじう:一緒に混ぜる)し
 一槩(いちがい:斗掻き)にて相量る
 羌(ああ)吾が臧(よ)き所を知らず
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:56Comments(0)漢詩

2015年06月26日

奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺




 
  立石寺納経堂と開山堂

  (旧暦5月11日)

  尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

  涼しさを我宿にしてねまる也
  這出よかひやが下のひきの声
  まゆはきを俤にして紅粉の花
  蚕飼する人は古代のすがた哉  曽良



  さて芭蕉翁一行は、陰暦五月十七日に山刀伐(なたぎり)峠の嶮難を越えて東北山系横断を果たし、当時、天領として最上川舟運の要港大石田に隣接し、仙台・山形・新庄への三道が交叉する宿駅として栄えていた尾花沢に到着しました。

  大石田では、「紅花大尽」といわれた豪商で、談林系の俳人でもある旧知の鈴木清風(1651〜1721)の下に止宿しています。

  (残月軒)鈴木清風は、通称島田屋八右衛門(三代目)、諱を道祐と称し、出羽国村山郡尾花沢村に生まれ、そこに生涯を閉じています。
  島田屋は初代、二代目の寛永年間(1624〜1645)、当時最盛期をむかえ、日本でも指折りの銀山に成長した延沢銀山の諸物品の仲買や金融業で財力を蓄えたと見られています。

  芭蕉来訪当時、島田屋は、最上地方で生産される紅花(末摘花:茎の先端につく花を摘み取って染色に用いることからこう呼ばれる)を集荷して京阪へ出荷する紅花荷受問屋を営み、また生産地農民への資金の貸し付けの他、山形藩松平大和守や新庄藩戸沢上総介への大名貸しなどの金融業も兼ね、最上地方の富商として有名でした。

  俳諧においては、京の菅野谷高政(生没年不詳)の『俳諧中庸姿(つねのすがた)』延宝七年(1679年)刊に独吟歌仙一巻が入集、延宝末より天和・貞享にかけての過渡期には、自ら『おくれ双六』(延宝九年)、『稲筵』(貞享二年)、『俳諧一橋』(貞享三年)を撰んでいます。

  これらの撰集を通じて、京都談林派の田中常矩(1643〜1682)、菅野谷高政(生没年不詳)、伊藤信徳(? 〜1698)、斎藤如泉(1644〜1715)、北村湖春(1650〜1697)、江戸談林派の高野幽山(生没年不詳)、岸本調和(1638〜1715)、池西言水(1650〜1722)、椎本才麿(1656〜1738)などの談林派隆盛期の錚々たる俳人との交渉がありました。

  さらに、仙台俳壇の基礎を築いた大淀三千風(1639〜1707)は、『日本行脚文集』貞享三年(1686)玄(ながつき:九月)の条に、次のように記しています。

  暮秋念(廿日)最上延沢、銀山のふもと、尾花沢に着ク。当處にハ予が好身(よしみ)、古友あまたあれば、三十余日休らひ、當處の誹仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都櫻に鞭し給ひ、いまだ關をこえざりしとなん。本意(ほい)なミながら一紙を残す。(以下略)

  「日本行脚文集」巻七


  




  また、芭蕉とも貞享二年(1685)六月二日、東武(江戸)小石川において興行された「賦花何俳諧之連歌」の七吟百韻、翌三年三月二十日、清風の江戸の仮寓において興行された歌仙にも一座して、すでに面識もありました。

  芭蕉の尾花沢滞在は、陰暦五月十七日より二十七日までの十一日間でしたが、そのうち、清風亭宿泊は十七日・二十一日・二十三日の三日間で、その他は坂上にある弘誓山養泉寺に滞在しました。
 
○十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、
  一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。
  正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス。

○十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。

○十九日 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。

  廿日 小雨。

  廿一日 朝、小三良ヘ被招。同晩、沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿。

  廿二日 晩、素英ヘ被招。

  廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。

  廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。

  ○秋調 仁左衛門。○素英 村川伊左衛門。○一中 町岡素雲。○一橋 田中藤十良。遊川 沼沢所左衛門。東陽 歌川平蔵。○大石田、一栄 
   高野平右衛門 ○同、川水 高桑加助。○上京、鈴木宗専、俳名似林、息小三良。新庄、渋谷甚兵ヘ、風流。

〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来。連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。

  廿六日 昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。
〇廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。
  一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル。
  是ヨリ山形ヘ三リ。山形ヘ趣カン(ト)シテ止ム。是ヨリ仙台ヘ趣路有。関東道、九十里余。

一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢。立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田(本飯田)ヨリ壱リ半、
  川水出合、其夜、労ニ依テ無俳、休ス。

  『曾良随行日記』


  十日間にわたる尾花沢滞在を切り上げて、芭蕉翁一行が宝珠山立石寺へ向かったのは、陰暦五月二十七日のことでした。

  山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

  閑さや岩にしみ入蝉の声

  芭蕉が訪れた当時の立石寺は山形領に属し、松平大和守直矩(1642〜1695)が10万石を領していました。
 
  宝珠山立石寺は、貞観二年(860)、第五十六代清和天皇(850〜881)の勅願により、後の慈覚大師、第三代天台座主圓仁(794〜864)を開基として創建されたとしています。
  伊達の霊山寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺・毛越寺、恐山の円通寺など、東北地方に慈覚大師開基と伝えられる寺院が多いのは、弘仁七年(816)、圓仁が開祖最澄(767〜822)の東国巡遊に従って関東に下向し、その後天台宗の東北布教の地歩が築かれたことにもよるとのことですが、同地方への圓仁の巡錫の記録は明らかではないそうです。

  芭蕉訪問当時の立石寺は、天台宗関東総本山の武江(武蔵国江戸)東叡山に所属して寺領千四百二十石を有し、境内約百萬坪、全山凝灰岩からなる山寺でした。

  この立石寺の一章には『寒山詩』の世界を連想させる描写が多く、この『寒山詩』は天和時代(1681〜1683)の芭蕉の愛読書の一つであったとされています。

  『寒山詩』は古来、禅門では非常に読諦された詩集であり、詩中の佳句は、たくみに各種の語録や偶頗に活用されている。それにもかかわらず作者寒山の伝記は全く 不明である。かつては唐の初期に生存していたといわれたが、今日では中唐頃まで時代が下げられている。 一つには、他の中国の所謂詩人と呼ばれる人々か官吏であつたのにたいし、寒山はまつたく、それとはかけ離れた生活環境を送つたせいでもあ ろう。しかし、晩唐の詩人杜牧が、「たとい一生二生を経て詩吟を作るといへども、老杜が境涯にだも到りがたし、況んや亦寒山詩をや」と述懐した等の逸話は、この詩集が普及していたことを物語つている。

  山口晴通  『寒山詩』


  ○慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。

  出家要淸閑 淸閑即爲貴 
  如何塵外人 卻入塵埃裏
  一向迷本心 終朝役名利
  名利得到身 形容已顦顇
  况復不遂者 虛用平生志
  可憐無事人 未能笑得汝
        拾得詩 十


  出家は淸閑を要す        淸閑即ち貴しと爲す
  如何(いかん)ぞ塵外の人    卻(かへ)つて塵埃の裏(うち)に入る
  一向(いちず)に本心に迷ひ   終朝(ひねもす)名利に役せらる
  名利身に到るを得れば      形容已に顦顇(せうすい)す
  况(いは)んや復た遂げざる者は 虛しく平生の志を用う
  憐む可し無事の人        未だ汝を笑い得ること能はず



  隠士遁人間 多向山中眠
  青蘿疏麓麓 碧澗響聯聯
  騰騰且安楽 悠悠自淸閑
  免有染世事 心靜如白蓮
     寒山詩 二六四


  隠士人間(じんかん)を遁(のが)れ  多く山中に向(ゆ)きて眠る
  靑蘿(ら)は疏にして麓麓       碧澗は響きて聯聯
  騰騰として且(しば)らく安樂     悠悠として自ら淸閑
  世事に染むこと有るを免れて      心浄(きよ)くして白蓮の如し


  また、芭蕉が四十八歳の元禄四年(1691)四月十八日から五月四日までの短期間、当時、京都嵯峨にあった蕉門十哲の一人として名高い向井去來(1651〜1704)の閑居である落柿舎に滞在した折にかかれた唯一の日記である『嵯峨日記』の冒頭には、以下の記述があります。

  元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舍に到。凡兆共ニ来りて、暮に及て京ニ帰る。予は猶暫とゝむべき由にて、障子つゞくり、葎引かなぐり、舍中の片隅一間なる處伏處ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置。并 、唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壺盃を添たり。夜るの衾、調菜の物共、京ゟ持來りて乏しからず。我、貧賤をわすれて淸閑ニ樂。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:29Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2015年06月13日

天文(19)− メシエ天体(3)

 

 Whirlpool Galaxy (M51A or NGC 5194). The smaller object in the upper right is M51B or NGC 5195. Credit: NASA/ESA

  (旧暦4月27日)

 天文(19)− メシエ天体(2)のつづき

 かなり“おたく”の「板橋村だより」にメールを下さる方がいて、「世の中、物好きな方もいらっしゃるんだ!」と驚きながらも気を良くして、続きを書きだしています。
 忙しい年末・年始および年度末・年度初めを過ごしていましたので、うっとうしい梅雨空の下、やっとその気になりましたことをお詫び申し上げます。

 フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表したメシエ天体(Messier object)の内、愛称で呼ばれる29の天体について、今回はM40からM57 を紹介致しましょう。

 

 このカタログでは、天体に関するメシエ自身の記述が観測の日付と共に記述されていますが、メシエは自分自身を三人称で呼んでいるのが特徴的です。

 Messier: M40.
 October 24, 1764. 40. 12h 11m 02s (182d 45' 30") +59d 23' 50"
 Two stars very close together & very small, placed at the root of the tail of the Great Bear: One has difficulty to distinguish them with an ordinary telescope of 6 feet [FL]. While searching for the nebula above the back of Ursa Major, reported in the book Figures des Astres, and which is supposed to be for 1660 at 183d 32' 41" right ascension, & 60d 20' 33" northern declination, which Messier couldn't see, he has observed these two stars.


 [観測日:1764年10月24日]
 二つの星は互いにとても近く、非常に暗い。おおぐまのしっぽのつけ根に位置している。単純な6フィート屈折望遠鏡で見分けるのは難しい。”Figures des Astres”という本によると、おおぐま座の背の上にあって、1660年には赤経183°32′41″、赤緯60°20′33″にあったはずの星雲を捜している間に−メシエは結局これを見つけられなかったのだが−、彼はこの二重星を観測した。


 

  Winnecke 4 double star

 M40 はウィンネッケ4番星(Winnecke 4)として知られている二重星で、おおぐま座70番星の北東約0.5°、北斗七星のひしゃくの一部δ星(Megrez)の近くにあります。
 1660年、ポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウス(Johannes Hevelius;1611〜1687)が、「おおぐま座の背の上に星雲がある」と報告しましたが、現在では二重星以外の何者でもないということが広く受入れられています。

 


  Johannes Hevelius、1611〜1687

 [Hevelius: No. 1496]
 Supra tergum nebulosa (above the back [of Ursa Major] there is a nebulosa [nebulous star]).
 [actually this is not M40 but 74, 75 Ursae Major]


 

 これは、ヨハネス・ヘヴェリウスが当時、「古くて欠陥のある装置」で観測したために、星雲に見えたのではないかということです。
 メシエもヨハネス・ヘヴェリウスによって報告された座標に星雲を見つけようと試みましたが、間隔の狭い二重星しか確認できませんでした。彼はそれを星雲と間違えることはありませんでしたが、彗星と紛らわしいという理由からカタログに含めることにしました。

 しかし、地球の歳差運動の影響により、ヨハネス・ヘヴェリウスが報告した星雲の位置が現在のおおぐま座74番星と一致していることから、やっかいなことになりました。

 さて、1863年、ドイツの天文学者フリードリヒ・アウグスト・テオドール・ヴィネッケ(Friedrich August Theodor Winnecke、1835〜1897)は、ロシアのプルコバ天文台でこの位置に観測した二重星を報告しましたが、1966年、アメリカ合衆国のアマチュア天文家ジョン・H・マラス(?〜1975)は、メシエが観測しカタログに載せた天体が、1863年にフリードリヒ・アウグスト・テオドール・ヴィネッケにより再発見された二重星のウィンネッケ4番星であることを確認しています。

 

  Friedrich August Theodor Winnecke、1835〜1897

  Mallas (1966): Identification of M40
 [From a letter by John H. Mallas to the Editor of Sky and Telescope, August 1966, p. 83]
 
Letter

 Sir,
 In the Messier catalogue of nebulae and clusters, as reprinted on the April 1966 issue, no description or position is given for M40, but a reference is provided to Owen Gingerich's statement of 1960 that this object is a pair of faint stars.
 Which pair? Dr. Gingerich sent me this translation of Messier's original description, from Mémoires de l'Académie Royale des Sciences, 1771:
 "The same night on October 24-25, [1764,] I searched for the nebula above the tail of the Great Bear, which is indicated in the book Figure of the Stars, second edition. Its position in 1660 was right ascension 183d 32' 41", declination 60d 20' 33". By means of this position, I found two stars very near each other and of equal brightness, about 9th magnitude, placed at the beginning of the tail of the Great Bear. One can hardly distinguish them in an ordinary (nonachromatic) refractor of 6 feet (length). Their position is 182 deg 45' 30", +59 deg 23' 50". We presume that Hevelius mistook these two stars for a nebula."
 The latter position, precessed from 1765 to 1950, is 12h 20m.0, +58d 22', which agrees almost exactly with the double star Winnecke 4, magnitudes 9.0 and 9.3, separation 49 seconds of arc. This is an easy pair in my 4-inch refractor at 25x. It was discovered by A. Winnecke in 1863 at Pulkowo Observatory.
 Clearly, M40 is identical with Winnecke 4. But the Hevelius object is the 5th-magnitude star 74 Ursae Majoris, more than one degree away, as reference to his star catalogue will show.
JOHN H. MALLAS
5115 E. Tomahawk Trail
Scottsdale, Ariz. 85251


 

  The entire Orion Nebula in visible light.

 Messier: M42.
 March 4, 1769. 42. 5h 23m 59s (80d 59' 40") -5d 34' 06"
 Position of the beautiful nebula in the sword of Orion, around the star Theta which it contains [together] with three other smaller stars which one cannot see but with good instruments. Messier has entered into the great details in this great nebula; he has created a drawing, made with the greatest care, which one can see in the Memoirs of the Academy for 1771, plate VIII. It was Huygens who discovered it in 1656: it has been observed since by many astronomers. Reported in the English Atlas.


[観測日:1769年3月4日]
 オリオンの剣の中、θ星のまわりにある美しい星雲のある場所。θ星は星雲の中にあって、三つのより淡い星とともにある。これらの三つの星は、性能の良い機材を用いなければ見ることはできない。メシエはこの大星雲について、非常に詳細に調べた。彼は非常に注意深くスケッチをしたが、それは“Mémoires de l’Académie 1771” 図版 VIII に見ることができる。ホイヘンスは1656年にこれを発見し、その後多くの天文学者が観測してきた。イギリスの” Atlas Céleste”に報告されている。


 


 肉眼による天体観測において最も大きな受け入れがたい結論の一つは、天文学の父とも称される近世イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564〜1642)が、このオリオン大星雲に気づいていなかったということです。
 全天で最も雄大で、肉眼でも見える星雲の一つでもあり、最も有名で光り輝く星座の一つの中の、最も知られた星群(オリオンの三つ星)にぶら下がっているこの大星雲を、かのガリレオが見のがしていたということは、非常な謎とされています。

 オリオン星雲は蛍光を発する巨大なガス星雲で、ほとんどが水素、わずかにヘリウム、炭素、窒素、酸素を含み、40光年の直径を持っています。
 その中心部には、トラペジウム (Trapezium;台形)と呼ばれる散開星団があり、オリオン大星雲の星生成領域で生まれた比較的若い星による星団です。
 4つの明るい星には赤経の順に、A (6.73等) 、B (7.96等) 、C (5.13等) 、D (6.71等) の符号が付けられており、AとBは共通重心の周りを回る2つの星が互いの光を覆い隠し合うことによってみかけの明るさが変わる食変光星として知られています。  続きを読む

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2014年12月05日

奥の細道、いなかの小道(23)−尿前の関


  (旧暦10月14日)

  

  奥の細道絵巻  尿前の関  與謝蕪村

  モーツアルト忌
  1791年に死去したオーストリアの作曲家・演奏家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756〜1791)の命日。

  

  The Mozart family c. 1780. The portrait on the wall is of Mozart's mother.


  しばらくブログを更新していないと除名されるそうなので内心焦っておりましたが、ようやく、その気になってまいりました。

  南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の國に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、關守にあやしめられて、漸(やうやう)として關をこす。大山(おほやま)をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
 
  蚤虱馬の尿する枕もと


  さて芭蕉翁一行は、北の方南部領盛岡への道をはるかに眺めやりつつ、一ノ関から道をとって返して、岩出の里に泊まります。

  一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ・岩崎(栗原郡 
 也)、藻庭大隈。三リ、三ノハザマ・真坂(栗原郡也)。岩崎ヨリ金成(此間ニ二
 ノハザマ有)ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩 
 崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。
   
  四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。二リ余、遠キ所也故、川ニ添廻テ、及暮岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。

  中新田町 小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合) 原ノ町 門沢(関所有) 渫沢 軽井沢 上ノ畑 野辺沢 尾羽根沢 大石田乗船
  岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。
  『曾良随行日記』


  「岩出の里」は現在の大崎市の一部で、もとは伊達家第17代当主(仙台藩初代藩主)伊達政宗(1567〜1636)居城の地でした。慶長八年(1603)、政宗が仙臺に居城を移したときに、四男愛松丸(1602〜1639、後の三河守宗泰)に岩出山城と知行3,000石が与えられ、傅役の山岡重長(1553〜1626)が城代を務めました。

  玉造郡 仙臺より十弐里北西、正宗初ノ城跡、山ノ上ニ有。舘町に有。伊達將監。磐手 シノブハヱゾ知ヌカキツクシテヨツボノ碑 モノイハレヌ思ニ多シ。
  『名勝備忘録』


     前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に
     頼朝
  みちのくのいはてしのぶはえぞしらぬ かきつくしてよつぼのいしふみ
     新古今和歌集  巻十八  雜下  1786

     前中納言匡房
  くちなしの色とぞ見ゆるみちのくの いはでの里の山吹の花
     夫木抄  巻六  春六  02028


  「小黒崎」は古今集の陸奥歌などに詠まれた歌枕で、岩出の里の西北四里、現在の大崎市岩出山池月上宮小黒崎にある標高245mほどの小山です。

  
 
  小黒山

     陸奥歌
  をぐろ崎みつの小島の人ならば 宮このつとにいざといはましを
     古今和歌集  巻第二十  東歌  1090

     後嵯峨院
  をぐろ崎みづのこじまにあさりする 田鶴ぞなくなる波たつらしも
     続古今和歌集  巻十八  雑中  1638


  小黒崎 或曰隠蔭磯取之松林蔭翳之義 在名生定村去美豆小島以北五町餘郷人曰黒崎山翠松万株馬鬣鬱々古人所謂髪糸蓊鬱籠烟露皮玉嶙峋傲雪霜者也。

  小黒崎 或イハ隠蔭磯(ヲクロサキ)ト曰フ、之ヲ松林蔭翳ノ義ニ取ル 名生定村ニ在リ。美豆小島以北ヲ去ルコト五町餘、郷人黒崎山ト曰フ。翠松萬株、馬鬣鬱々、古人ノ所謂髪糸蓊欝烟露ヲ籠メ皮玉嶙峋霜雪ニ傲ルトイフ者ナリ。
  『奥羽観蹟聞老志』


  また、「みづの小島」も歌枕で、小黒崎と同じ所の玉造川(現在の荒雄川)の川中にある小島で、『奥羽観蹟聞老志』には次のように記されています。


  美豆小島 同處去小黒崎西南四五町在鍛冶澤東南玉造川中丘山皆戴青松是乃小黒崎也其下流有一洲々中有高丘高二丈余東西五六歩南北八九間丘上有蒼松三株河水索廻其下翠色落陰急流潺々細石磷々白沙芳草殆非凡境焉如海島兪故佗方誤而用海濱之状者多若太上皇家隆之歌可視郷党亦見致小島于海畔之情以稱美豆小島蓋美豆乃爲見之訓也。

  美豆小島 同處小黒崎ヲ去ルコト西南四五町、鍛冶澤東南ノ玉造川中ニ在リ。丘山皆青松ヲ戴ク、是レ乃チ小黒崎ナリ。其ノ下流ニ一洲有リ、洲中高丘有リ。高サ二丈餘、東西五六歩、南北八九間。丘上ニ蒼松三株有リ。河水其ノ下ヲ索廻シ、翠色陰ヲ落トス。急流潺々、細石磷々、白沙芳草、殆ンド凡境ニ非ズ。海島ノ如ク兪(しか)リ。故ニ佗方誤リテ海濱ノ状ニ用ユル者多シ。太上皇、家隆ノ歌ノ若キヲ視ルベシ。郷党モ亦小島ヲ海畔ニ見ルノ情ヲ致シ、以テ美豆ノ小島ト稱ス。蓋シ美豆ハ乃チ見ノ訓ヲ爲スナリ。
  『奥羽観蹟聞老志』

   
     順徳院御製
  人ならぬ石木もさらにかなしきは  みつの小島のあきの夕くれ
     続古今和歌集 巻十七 雜上 1578

     光明峯寺入道前摂政太政大臣
  さそふへきみつの小島の人もなし  ひとりそかへるみやこ恋ひつつ
     新後撰和歌集 
  
     家隆
  蛍飛みつのこしまのたひ人は  みやこをこふるさまやうくらん
  
     中務卿宗尊親王
  いさとたにいふひとなくてかすならぬ  みつの小島の秋そふりにき
     旅歌中

     従二位家隆
  をくろさきみつのこ島の夕暮に  たななし小舟行衛しらすは
     夫木集
 
     弁内侍
  心ありて鳴にはあらし小黒崎  みつの小島の田鶴のもろこえ
     夫木集

     よみ人しらす
  小黒崎みつの小島に住ばこそ 都のつとに人もさそはめ
     水尾歌合

     俊頼朝臣
  をくろさき浅きとたえの身をつくし たてるすかたにふらぬとはみよ

     信実朝臣
  都にてとははこたえん小黒崎 みつの小島につとはなくとも
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:52Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2014年11月17日

天文(18)− メシエ天体(2)

 

 The Andromeda Galaxy [M31]

 (旧暦9月25日)

 天文(17)− メシエ天体(1)のつづき

 フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表しました。これが、今日、メシエ天体(Messier object)と呼ばれているものです。

 1. 1781年、M1〜M45までを "Mémoires de l'Academie"に発表。
 2. 1783年、M46〜M68までを "Connaissance des Temps"に発表。
   (後にM69とM70を増補)
 3. 1784年、M71〜M103までを" Connaissance des Temps"に発表。

 このメシエ天体のカタログの中では、愛称で呼ばれる29の天体がありますが、今回は前回に引き続き、M16からM33までの8個の天体を紹介しましょう。

 

 

 

 Messier: M16.
 June 3, 1764. 16. 18h 05m 00s (271d 15' 03") -13d 51' 44"
 A cluster of small stars, enmeshed in a faint glow, near the tail of Serpens, at little distance to the parallel of Zeta of this constellation; with an inferior telescope this cluster appears like a nebula. (diam. 8')


 [観測日:1764年1月3日]
 小さな星々からなる星団で、かすかに光るものと混じっている。へび座の尾に近く、へび座ゼータ星の緯度線から少しの距離にある。普通の望遠鏡では、星雲のように見える。(直径8分)


 










 わし星雲(Eagle Nebula)という名前は、鷲が羽根を広げた形を偲ばせること星雲でから名付けられました。
 この星雲を最初に発見したのは、スイスのローザンヌ出身の天文学者であるジャン・フィリップ・ロワ・ド・シェゾー (Jean Phillippe Loys de Chéseaux 、1718~1751)で、1746年のことでした。

 散開星団と散光星雲からなるM16は、4.7等のたて座γ星の2.5°西北西、天の川の背骨部分の赤経18 h 18.8 m 、赤緯-13° 48' にあり、等級6.0等(星団)、視直径35' × 28'、距離5,500 光年の彼方に約315光年の広がりをもっています。







 


 Messier: M17.
 June 3, 1764. 17. 18h 07m 03s (271d 45' 48") -16d 14' 44"
 A train of light without stars, of 5 or 6 minutes in extent, in the shape of a spindle, & a little like that in Andromeda's belt [M31] but of a very faint light; there are two telescopic stars nearby & placed parallel to the equator. In a good sky one observes this nebula very well in an ordinary telescope of 3.5-foot [FL]. Seen again 22 March 1781. (diam. 5')


 [観測日:1764年1月3日]
 星を含まない光の筋で、長さは5〜6分、紡錘形をしていて、アンドロメダのベルトにあるもの[M31]に似ているが、非常に微かな光である。近くに二つ、望遠鏡で見える星が黄道に対して平行な位置にある。良好な空の下では、この星雲は通常の3.5フィート望遠鏡でよく見える。1781年3月22日にふたたび観測された。(直径5分)






 M17は、いて座(Sagittarrius)に位置する散光星雲で、距離は約4,200光年。1746年にスイスのローザンヌ出身の天文学者であるフィリップ・ロワ・ド・シェゾー(Jean Phillippe Loys de Chéseaux 、1718〜1751)によって発見されました。実直径は約44×36光年。星雲の中にループ状の構造が見えることから、「オメガ星雲」(Omega Nebula)「白鳥星雲」(Swan Nebula)、「チェックマーク星雲」(Checkmark Nebula)、「ロブスター星雲」(Lobster Nebula)、「蹄鉄星雲」 Horseshoe Nebulaなどといろいろな呼び名を持つ散光星雲です。

 オメガの名前は、アメリカ合衆国の天文学者ルイス・スウィフト(Lewis A. Swift、1820〜1913)がギリシャ文字のオメガに似たスケッチを書いたことに由来しており、白鳥にたとえたのはアメリカ合衆国の天文学者ジョージ・チャンバー(George F. Chambers, 1841〜1915)で、棒状の長いガスの部分を水面に浮かぶ白鳥の胴体とみなしています。


 

 Messier: M20.
 June 5, 1764. 20. 17h 48m 16s (267d 04' 05") -22d 59' 10"
 Cluster of stars, a little above the Ecliptic, between the bow of Sagittarius & the right foot of Ophiuchus. Seen again March 22, 1781.


  
 [観測日:1764年6月5日]
  黄道の少し上、いて座の弓とへびつかい座の右足の間にある星団。1781年3月22日にふたたび観測された。


 M20は、いて座にある散光星雲で、距離は5200光年程と推定されています。1750年にフランスの天文学者ギヨーム・ジョゼフ・ヤセント・ジャン=バティスト・ル・ジャンティ・ド・ラ・ガレジエール(Guillaume Joseph Hyacinthe Jean-Baptiste Le Gentil de la Galaisière 、1725〜1792)が発見したとされています。

 星雲が3つの部分に裂けて見えるところから三裂星雲と呼ばれていますが、実際にはM20の輝いて見える部分の手前に位置する暗黒星雲により、後ろの散光星雲が3つに分割されているように見えています。三裂星雲(Trifid Nebula)と名付けたのは、イギリスの天文学者サー・ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル準男爵(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet、1792〜1871)です。


 

 Messier: M22.
 June 5, 1764. 22. 18h 21m 55s (275d 28' 39") -24d 06' 11"
Nebula, below the ecliptic, between the head and the bow of Sagittarius, near a star of 7th magnitude, 25 Sagittarii, according to Flamsteed, this nebula is round, it doesn't contain any star, & one can see it very well in an ordinary telescope of 3.5-foot [FL]; the star Lambda Sagittarii served for determination [of its position]. Abraham Ihle, a German, discovered it in 1665, while observing Saturn. M. Le Gentil observed it in 1747, & he made an engraving of it. Memoirs of the Academy, year 1759, page 470. Seen again March 22, 1781; it is reported in the English Atlas. (diam. 6')


 [観測日:1764年6月5日]
 黄道の下、いて座の頭と弓の間にあり、7等のいて座25番星に近い星雲。円形で星を含まず、通常の3.5フィート望遠鏡ではっきり見える。位置を決めるのにいて座λ星が役にたった。ドイツ人のアブラハム・イーレが1665年、土星の観測中に発見した。ル・ジャンティ(M. le Gentil)が1749年に観測し、『Mémoires de l’Académie』1759年の470ページに、この天体のスケッチを発表している。1781年3月22日にふたたび観測された。イギリスの『Atlas Céleste』に報告されている。(直径6分)

 M22は「いて座大球状星団」とも呼ばれ、50万個の星が5.2等星で輝く球状星団です。距離は10,400光年、直径は約110光年で最も地球に近い球状星団のひとつです。  
 1716年、ハレーは「この星団は冬至点に近く、小さくてよく輝く」と記しています。

 Halley (1716): No. 3, Nebula in Sagittarius[in Phil. Trans. XXIX, 390 (1716)]
The third is near the Ecliptick between the Head and Bow of Sagittarius, not far from the Point of the Winter Solstice. This it seems was found in the Year 1665 by a German Gentleman M.J. Abraham Ihle, whilst he attended the Motion of Saturn then near its aphelion. This is small but very luminous, and emits a Ray like the former. Its Place at this time is [Capricorn] 4 deg 1/2 with about half a Degree South Lat.  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:36Comments(0)天文

2014年05月18日

歳時記(24)−春(7)− song of a brook

 
 
 髙野辰之博士(1876〜1947)

  (旧暦4月20日)

  小川の歌は、日本においては、文部省唱歌「春の小川」でも有名ですが、欧米でも小川の調べは多くの詩歌にうたわれています。
  ちなみに、文部省唱歌「春の小川」は、東京音楽学校教授高野辰之(1876〜1947)が作詞し、明治45年(1912)に『尋常小学唱歌第四学年用』に掲載されました。

  一、
  春の小川はさらさら流る。
  岸のすみれやれんげの花に、
  にほひめでたく、色うつくしく、
  咲けよ咲けよと、ささやく如く。


  昭和16年(1941)、国民学校令(昭和16年3月1日勅令第148号)の施行に伴って教科書が改訂され、当時の国民学校令施行規則では、国語で文語文を教えるのは5年生以上と定められていたため、詩人林柳波(1892〜1974)が歌詞を口語体に変えたとされています。

  一、
  春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲いてゐるねと、ささやきながら。


  戦後の昭和22年(1947)、最後の文部省著作音楽教科書である『三年生の音楽』では再び歌詞が次のように改められました。

  一、
  春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやきながら。


  この歌詞は、私たちが習った歌詞ですね。

  髙野辰之は、長野県下水内郡永田村(現中野市)に生まれ、長野県師範学校卒業後、東京帝国大学教授上田万年に師事し、国語・国文学を学んでいます。明治42年(1909)に文部省小学校唱歌教科書編纂委員を嘱託された髙野は、今もわたしたちの心に残る有名な唱歌を次々と発表しています。

 1. 明治44年(1911) 35歳 尋常小学唱歌第一学年用に「日の丸の旗」を掲載
                                           尋常小学唱歌第二学年用に「紅葉」を掲載
 2. 明治45年(1912) 36歳 尋常小学唱歌第三学年用に「春がきた」を掲載
                                           尋常小学唱歌第四学年用に「春の小川」を掲載
 3. 大正 3年(1914)37歳  尋常小学唱歌第六学年用に「故郷」、「朧月夜」を掲載


  さて、イギリスにおいても、次のような ‘song of a brook’ があります。

  When primroses are out in Spring,
  And small, blue violets come between;
  When merry birds sing on boughs green,
  And rills, as soon as born, must sing;


  春、サクラソウが花をつけ、
  かわいい、うす紫のスミレがその間に咲くとき;
  陽気な小鳥が緑のこずえにさえずり、
  細い溝が、流れ出るやいなや、歌をうたわなければならぬとき;


  When butterflies will make side-leaps,
  As though escaped from Nature's hand
  Ere perfect quite; and bees will stand
  Upon their heads in fragrant deeps;


  蝶たちが横の跳躍を行うとき、
  まるで自然の手から逃れるように
  まったく完全なものの前に;そして蜂たちは飛び立ち
  香りがある深みの中を彼らの頭の上に;

  When small clouds are so silvery white
  Each seems a broken rimmèd moon—
  When such things are, this world too soon,
  For me, doth wear the veil of Night.

  小さな雲がとても銀白色であるとき
  それぞれが壊れた縁取りの月のように
  そのようなものがそうであるとき、この世界はあまりにもすぐに
  私にとって、夜の覆いをまとう。
  (嘉穂のフーケモン拙訳)


  William H. Davies. 1870 − ‘ Days Too Short ’


 

  William Henry Davies(1871〜1940)


  William Henry Davies or W. H. Davies (3 July 1871– 26 September 1940)was a Welsh poet and writer. Davies spent a significant part of his life as a tramp or hobo, in the United Kingdom and United States, but became one of the most popular poets of his time. The principal themes in his work are observations about life's hardships, the ways in which the human condition is reflected in nature, his own tramping adventures and the various characters he met. Davies is usually considered one of the Georgian poets, although much of his work is atypical of the style and themes adopted by others of the genre.
 (From Wikipedia)


  ウィリアム・H・ディビス(1871〜1940)は、ウエールズ出身の詩人であり作家です。

  注)ウエールズ(Weles): グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)を構成する4つの国の一つで、グレートブリテン島の南西に位置する。
  ディビスは、彼の人生の重要な時期をイギリス連合王国とアメリカ合衆国で、放浪者あるいは渡り労働者として過ごしましたが、その時代の最も人気のある詩人の一人となりました。彼の著作における主要なテーマは、人生の苦難に対する観察ですが、
人々の状況が本質的に反映されるこの方法は、彼が出会った自身の放浪人生と様々な特色が反映されているものでもあります。
  ディビスは、通常、ジョージ王朝時代風の詩人の一人と思われていますが、彼の著作の多くは、不定形の様式であり他のジャンルに採用されるテーマでもあります。
  (ウィキペディアより)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:45Comments(0)歳時記

2014年05月04日

天文(17)− メシエ天体(1)

 

  The Great Comet of 1744
  
  (旧暦4月6日)

 五四中国青年節

 

 五四運動 (1919)

 1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱いて発生し、中華民国時代の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動の記念日。
 「五四運動」の愛国、民主と科学的精神の継承と発揚を目指して、中国の中央人民政府政務院は1949年12月、毎年五月四日を中国の青年節にすると正式に発表した。
 
 世界の目が第一次世界大戦の主戦場であるヨーロッパに向けられているこの時こそ、日本の対中利権拡大の絶好の機会ととらえた第二次大隈内閣の外務大臣加藤高明は、大正4年(1915)1月18日、在北京の駐華公使日置益を介して、当時の中国中央政権と見られていた袁世凱政権に五項目二十一ケ条からなる「通牒」を突きつけた。

 これこそが、日本の歴史に汚点を残し、後に中国国民をして排日運動の原点とも言わしめたいわゆる『対華二十一箇条要求』であった。

 大正8年(1919)1月、パリのヴェルサイユ宮殿で講和会議が始まったが、中国政府が要求した二十一ヵ条(実際には13ヵ条と3交換公文)の取り消し、外国軍隊及び警察の撤退、関税自主権獲得等の諸要求は却下され、議題に持ち出されさえしなかった。
 その上、参戦国でありながら、自国領山東半島の権益を取り戻すことさえも出来なかった。ちなみに、山東半島の膠州湾一帯は、大正3年(1914)、日本が青島のドイツ軍要塞を陥落させて軍政を布いたが、大正11年(1922)2月のワシントン会議における「中国に関する九カ国条約」(Nine Power Treaty)により返還された。

 パリ講和会議で山東半島の権益返還が絶望になったニュースは5月1日に報道され、北京大学ではすぐに学生代表緊急会議が開かれ、5月3日には全体学生会議が開かれた。そして、明日にでも中国人民の意志を各国の公使館に伝えようということになった。

 5月4日午後1時、北京大学など10余校の学生3,000余人は北京の天安門前で抗議集会を開き、交通総長曹汝霖、幣制局総裁陸宗輿、駐日公使章宗祥ら親日派官僚の罷免、21か条要求の撤廃、パリ講和条約調印拒否、日貨排斥(日本商品のボイコット)などを要求した。

 ついで「外争国権、内懲国賊」と連呼しながらデモ行進を行い、それがやがて中国全土に及ぶ帝国主義反対の愛国運動と民主、科学を求める封建主義反対の「新文化運動」まで発展した。


 フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表しました。これが、今日、メシエ天体(Messier object)と呼ばれているものです。

  face03 1781年、M1〜M45までを "Mémoires de l'Academie"に発表。
  face02 1783年、M46〜M68までを "Connaissance des Temps"に発表。(後にM69とM70を増補)
  face051784年、M71〜M103までを" Connaissance des Temps"に発表。

 
 
  Charles Messier (1730~1817)

 メシエはカタログ作成の動機を、1801年版のフランスの天文年鑑『Connaissance des Temps』の中で次のように説明しています。

 
  "What caused me to undertake the catalog was the nebula I discovered above the southern horn of Taurus on September 12, 1758, while observing the comet that year.. had such a resemblance to a comet, in its form and brightness, that I endeavoured to find others, so that astronomers would not confuse these same nebulae with comets just beginning to shine."
(Messier Connaissance des Temps 1800/1801 recorded in DSB).


  
  「私がこのカタログの作成に取りかかったのは、1758年9月12日、その年に見つかった彗星を観測中に、牡牛座の南側の角の上に発見した星雲が原因である。・・・この星雲はその形といい明るさといい、あまりにも彗星によく似ていたので、私は他にもこのようなものを見つけて、天文学者がこれらの同じ星雲を、ちょうど輝き始めた彗星と混同することのないようにしようとした。」



 Messier was born in Badonviller in the Lorraine region of France, being the tenth of twelve children of Françoise B. Grandblaise and Nicolas Messier, a Court usher. Six of his brothers and sisters died while young and in 1741, his father died. Charles' interest in astronomy was stimulated by the appearance of the spectacular, great six-tailed comet in 1744 and by an annular solar eclipse visible from his hometown on 25 July 1748.

 In 1751 he entered the employ of Joseph Nicolas Delisle, the astronomer of the French Navy, who instructed him to keep careful records of his observations. Messier's first documented observation was that of the Mercury transit of 6 May 1753.


   In 1764, he was made a fellow of the Royal Society, in 1769, he was elected a foreign member of the Royal Swedish Academy of Sciences, and on 30 June 1770, he was elected to the French Academy of Sciences.
 (From Wikipedia)


  シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、フランスのロレーヌ地方バドンヴィレに、フランソワーズ B. グランブレイゼと裁判所の門衛、ニコラス・メシアの間の12人の子どもの10番目として生まれました。彼の兄弟のうち6人は若くして亡くなり、1741年には父親も亡くなりました。シャルルの天文学における興味は、1744年の壮大な「大きな六本の尾を持つ彗星」(クリンケンベルグ彗星)の出現と1748年7月25日の彼の故郷から見ることができた金環食によって刺激されました。

  1751年、メシエはフランス海軍の天文学者ジョゼフ−ニコラ・ドリル(Joseph-Nicolas Delisle、1688〜1768)に雇用され、ドリルの観測を慎重に記録するように教育されました。メシエの最初に記録に残された観測は、1753年5月6日の水星の日面通過でした。

  1764年、メシエは王立協会のフェローとなり、1769年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選出され、1770年6月30日に、フランス科学アカデミーに選出されました。
  (ウィキペディアより)


  13歳のメシエが大きな感動を覚えたクリンケンベルグ彗星は、英語圏では「1744年の大彗星」(The Great Comet of 1744)とも呼ばれており、1743年から1744年にかけて現れた大彗星であり、近日点に達した後に現れた扇状の6本の尾が特に有名でした。

 
  The Great Comet of 1744

  The Great Comet of 1744, whose official designation is C/1743 X1, and which is also known as Comet de Chéseaux or Comet Klinkenberg-Chéseaux, was a spectacular comet that was observed during 1743 and 1744. It was discovered independently in late November 1743 by Jan de Munck, in the second week of December by Dirk Klinkenberg, and, four days later, by Jean-Philippe de Chéseaux. It became visible with the naked eye for several months in 1744 and displayed dramatic and unusual effects in the sky. Its absolute magnitude — or intrinsic brightness — of 0.5 was the sixth highest in recorded history. Its apparent magnitude may have reached as high as -7, leading it to be classified among what are called the "Great Comets". This comet is noted especially for developing a 'fan' of six tails after reaching its perihelion.

   The comet reached perihelion about March 1, 1744, when it was 0.2 astronomical units from the sun. At about this time it was bright enough to be observed in daylight with the naked eye. As it moved away from perihelion, a spectacular tail developed — extending well above the horizon while the comet's head remained invisible due to the morning twilight. In early March 1744, Chéseaux and several other observers reported an extremely unusual phenomenon — a 'fan' of six separate tails rose above the horizon.

 The tail structure was a puzzle to astronomers for many years. Although other comets had displayed multiple tails on occasion, the 1744 comet was unique by having six. It has been proposed the 'fan' of tails was generated by as many as three active sources on the cometary nucleus, exposed in turn to solar radiation as the nucleus rotated. It also has been proposed that the tail phenomenon was a very prominent example of the "dust striae" seen in the tails of some comets, such as Comet West and C/2006 P1 (McNaught).
 (From Wikipedia)   


 

 
  正式名称はC/1743 X1、またはシェゾー彗星、クリケンベルグ-シェゾー彗星として知られている「1744年の大彗星」は、1743年から1744年にかけて観測された壮大な彗星でした。
  この彗星は、1743年の11月下旬にヤン・デ・ミュンク(Jan de Munck)、12月の第二週にディルク・クリンケンベルク(Dirk Klinkenberg、1709〜1799)、その4日後にジャン−フィリップ・ロワ・ド・シェゾー(Jean-Philippe de Chéseaux、1718〜1751)によって、それぞれ個別に発見されました。1744年に入るとこの大彗星はは数カ月間肉眼で見えるようになり、空を劇的に飾りました。この大彗星の絶対等級、あるいは固有の明るさは、歴史上6番目の明るさとなる0.5等級でした。この彗星の見かけの等級は-7等級に達した可能性があり、大彗星と呼ぶにふさわしい明るさでした。この彗星は、近日点に到達した後には扇形の6本の尾を発達させたため、特に書き留められています。

  この彗星は、1744年3月1日ころに近日点に到達し、太陽から0.2天文単位(地球と太陽との平均距離)の距離でした。この頃になると、彗星は日中に肉眼でも観測できるほどに輝きました。彗星は近日点から遠ざかるにつれて、壮大な尾を発達させました。朝の薄明かりのために彗星の頭は見えませんでしたが、尾は地平線の上に広がっていました。1744年3月上旬には、シェゾーや他の幾人かの観察者が、地平線上に6本の尾が扇形に広がって現れるというとても珍しい現象を報告しました。

  この尾の構造は、長い間天文学者を悩ませました。他の彗星でも、時には複数の尾を見せることはありましたが、この1774年の彗星のように6本の尾を持つ彗星は他に類を見ないものでした。この現象については、扇形の尾が彗星の核の上で3つの活発な源(ガス・ちり)によって発生したこと、そして、核が回転したので、順番に太陽輻射にさらされたことが示唆されました。この彗星の尾の現象は、ウェスト彗星やマックノート彗星などの彗星に見られるような、「塵の脈理」の顕著な例であるという説が提案されています。
  (ウィキペディアより)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:09Comments(0)天文

2014年04月23日

漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 

 陸游(1125〜1210)
 
 (旧暦3月24日)


  釵頭鳳 陸游            釵頭鳳(さいとうほう) 陸游

  紅酥手                     紅酥(こうそ)の手
  黄縢酒                     黄縢(わうとう)の酒
  滿城春色宮牆柳       滿城の春色 宮牆(きうしやう)の柳
  東風惡                     東風 惡しく
  歡情薄                     歡情 薄(はかな)し
  一懷愁緒                 一懷の愁緒
  幾年離索                 幾年の離索ぞ
  錯 錯 錯                   錯(あやま)てり 錯てり 錯てり

  春如舊                    春は舊(もと)の如く
  人空痩                    人は空しく痩せ
  泪痕紅浥鮫綃透       泪痕紅く浥(うるほ)して鮫綃に透る
  桃花落                    桃花 落ち
  閑池閣                    閑かなる池閣
  山盟雖在                 山盟在りと雖も
  錦書難托                 錦書は托し難し          
  莫 莫 莫                  莫(な)し 莫し 莫し


 


  うすくれないの柔き手に
  黄色き紙の封じ酒
  城内一面春景色  宮壁沿いの若柳
  春風悪しく
  歓び儚(はかな)し
  胸に抱きし淋しき思ひ
  離別せしより幾年ぞ
  ああ 錯(あやま)てり  錯てり  錯てり

  春は昔のままなるも
  人は空しくやせ衰へり
  泪紅く頬つたい  手巾に滲みて散りにじむ
  桃花は落ちて 閑かなる
  池のほとりの楼閣に
  深き契りはありとても
  想いの文は出し難し
  ああ 莫(な)かれ 莫かれ 莫かれ



 「釵頭鳳」とは、六十文字からなる一種の詩歌の形式で、劇中で歌われる詩歌でした。しかし単に釵頭鳳というと、南宋の文人政治家、陸游(1125〜1210)と最初の妻、唐琬の釵頭鳳を指すほど有名です。

  陸游は、南宋の高宗紹興十四年(1144)甲子、20歳の時に、母、唐氏の姪である唐琬と結婚し、仲睦まじく暮らしていましたが、妻と姑の唐氏との折り合いが悪く、一年ほどで離縁させられてしまいます。
  しかし、高宗紹興二十五年(1155)乙亥、陸游31歳の時に、その別れた妻と沈家の庭園「沈園」で、偶然にも再開してしまいます。

  沈園で出会った後、陸游はその激情をこの詞に託して沈園の壁に書いたと云われています。翌年、沈園を再訪した唐琬はこの詞を知り、彼女も詞を和して応えたとか。

  「釵頭鳳」の形式は、次のようになっています。

   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)


   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)



  釵頭鳳  唐琬        釵頭鳳  唐琬

  世情薄                 世情は薄く
  人情惡                 人の情は惡し
  雨送黃昏花易落    雨 黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く      
  曉風干                 曉風(げうふう)干き
  泪痕殘                 泪痕を殘す        

  欲箋心事              心事を箋(せん)に欲せんとし
  獨語斜欄              獨語し欄に斜す          
  難 難 難                難(かた)し 難し 難し



  人成各                  人各々に成り
  今非昨                  今は昨(きのふ)に非ず
  病魂常似鞦韆索    病魂 常に鞦韆(しうせん)の索に似たり
  角聲寒                  角聲寒く
  夜闌珊                  夜 闌珊(らんさん)たり
  怕人尋問              人の尋問を怕(おそ)れ
  咽淚裝歡              咽淚せしも歡を裝ふ
  瞞 瞞 瞞               瞞(あざむ)かん 瞞かん 瞞かん


 


  世情は薄く
  情は悪(わる)し
  雨は黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く
  明けの風は 涙を乾かし
  その痕を残す
  心の想いを手紙に書かんと
  一人つぶやき 手摺りに依るも
  ああ できない できない できない

  人それぞれの道を行き
  今は昔の君ならず
  迷いの心は ゆらゆらと
  ふらここの 紐のように揺れ動く
  角笛の音 寒々と
  夜は寂しく過ぎゆきて
  夜番の誰何をただ怖れ
  涙こらえて装はん 
  ああ 欺かん 欺かん 欺かん
 

  南宋の寧宗慶元五年(1199)己未、75歳の春、陸游は沈園を再訪しました。40年以上も前に訪れたときには、思いがけずに懐かしい唐婉と出会いましたが、今は知る人もいない。
 そんな寂寥の想いと、唐婉の思い出を込めて、陸游は二首の絶句を作りました。

  沈園二首 其一    沈園二首 其の一   陸 游

  城上斜陽畫角哀   城上の斜陽 畫角哀し
  沈園非復旧池台   沈園(しんえん)は復た旧池台に非ず
  傷心橋下春波緑   心を傷(いた)ましむ橋下 春波の緑
  曾是驚鴻照影來   曾て是れ驚鴻(きやうこう)の影を照(うつし)來る

 
  壁上に夕陽がかたむき 角笛の哀しい音がする
  沈園も変わりはて 苑池楼台は見るかげもない
  思えば胸が傷んでくる 橋下の池は春にして緑色
  鴻のかつて飛び立つ絵姿を 映したこともあったのだ


  沈園二首 其二    沈園二首 其の二   陸 游

  夢斷香銷四十年   夢は斷え香は銷(き)えて四十年  
  沈園柳老不飛綿   沈園の柳も老いて綿を飛ばさず 
  此身行作稽山土   此の身 行々稽山の土と作らんとす 
  猶弔遺蹤一泫然   猶ほ遺蹤(いしよう)を弔ひて一たび泫然(げんぜん)たり  


  夢は断ち切られ 余香は消え去って四十年
  沈園の柳も老い 柳絮も飛ばなくなった
  やがてこの身も 会稽山の土となるだろう
  想い出の地を訪れて なおも涙はしとどに流れる
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:48Comments(0)漢詩

2014年04月16日

奥の細道、いなかの小道(22)− 平泉(2)

 

  芭蕉句碑

  (旧暦3月17日)

  
 
   川端康成(1917)
  
   康成忌

   小説家川端康成の昭和47年(1972)の忌日。死因については、自殺説、事故死説がある。
   自殺説については、
   
    1.  社会の近代化に伴い、日本から滅びてゆく「もののあはれ」の世界に殉じたという文学的見解
    2.  門下とも云うべき三島由紀夫(1925〜1970)の陸上自衛隊東部方面統監部における割腹自決に大きな衝撃を受けたという見解。
    3.  創作意欲の減少等、老いへの恐怖などによる強度の精神的動揺や、老醜への恐怖という見解。


など様々に論じられているが、定かではない。



   奥の細道、いなかの小道(21)− 平泉(1)のつづき

   宝暦十年(1760)三月に上梓された『平泉舊蹟志』の衣川舘の項で相原友直は、「義経は柳御所で自刃し、衣川舘(髙舘)は、奥州藤原氏の政庁平泉館(柳之御所)炎上の時まで民部少輔基成が居住していて火災を遁れた」と述べています。

   ① 又義經の頼朝卿の勘気をを蒙り下向せし時、秀衡此城の別館に居らしむ、是を柳御所と云けると云ひ傳へり、其趾と云ふは東方にあり、義經は其館に於て自殺せりと云ふ

   ② 前にも云へる如く衣川館は、泰衡か平泉館炎上の時まで、基成居住し火災を遁れたる事分明なり

   義経が衣川舘(髙舘)で自刃したということは、『義経記』以後の伝承によって定説化していますが、『義経記』の作者が高館を最期の地と比定した根拠は、正史である『吾妻鏡』の文治五年閏四月卅日已未の記載によるものではないかと云う説もあります。
   源義經研究 源義経終焉の地再考 平泉館と衣河館
 http://www.st.rim.or.jp/~success/koromogawanotati_ye.html
   日本文化研究家 佐藤弘弥氏

   文治五年閏四月卅日已未
   今日、於陸奥國、泰衡襲源豫州。是且任勅定、且依二品仰也。豫州在民部少輔基成朝臣衣河舘。泰衡從兵數百騎、馳至其所合戰。豫州家人等雖相防、悉以敗績。豫州入持佛堂、先害妻〔廿二歳〕、子〔女子四歳〕、次自殺云々。
   『吾妻鏡』 文治五年

   さて、委細はともかく、髙舘に上れば、眼下に北上川が流れ、田畝の向こうに束稲山(たばしねやま)を望むことが出来ます。束稲山は、経塚山、音羽山、束稲山の三つの山の総称で、稲の束がたわんでいるように見えるところから名づけられたとのこと。
   束稲山は別名、駒形嶺あるいは駒形山とも云われ、奥州藤原氏が栗駒山(駒ケ岳)山頂にあった陸中国一宮駒形神社(奥州市)の奥宮を度々登拝することに困難を来たすことから、束稲山に駒形大神を奉祀したことに由来しているとされています。
 
   平泉舘下をながれる北上川(來神河)は、三代秀衡の時代、現在よりも東方、駒形山(束稲山)山麓を巡って南流し、櫻川と呼ばれていました。

   櫻川 

   來神河流過平泉舘下川也往時遶駒形山下毎春艶陽之時櫻花一萬株爛慢于峯頂風光漸去飄零日飛此時満川如雪河流變色仍稱之櫻川如今其地為野田尤可慳或指衣關小流者非是
   『奥羽観蹟聞老志』 巻之十 磐井郡

   櫻川 

   來神(きたかみ)河流の平泉舘下を過ぐる川也。往時、駒形山(束稲山)下を遶(めぐ)る。毎春艶陽之時、櫻花一萬株、峯頂に爛慢たり。風光漸く去り、飄零日に飛ぶ。此の時満川雪の如く、河流色を變ず。仍(よ)りて之を櫻川と稱す。如今(いま)其の地野田と爲るは、尤も慳(を)しむ可し。或は衣關の小流を指す者、是に非ざるなり。
   (嘉穂のフーケモン拙訳)


   この駒形山の峯頂に爛慢と咲き誇っていた櫻花一萬株は、その昔、陸奥國奥六郡を治めた俘囚長安倍頼時(生誕不詳〜1057)が、白櫻一萬樹をこの峰に三十余里にわたって植えたので、桜の名所となったと云い伝えられています。

  駒形嶺 一称多和枝嶺 

  在高舘古衣河舘東北以其山在長部村中郷人今曰之長部山斯地往昔安倍頼時植白櫻一萬樹於三十餘里者乃此峯巒也來神河流遶山下與衣河同派西行集所賞多和枝嶺者迺此山也東史曰兼海陸三十余里之間並植櫻樹至四月残雪無消仍號駒形嶺
  『奥羽観蹟聞老志』 巻之十 磐井郡


 
  駒形嶺(こまがたね) 一称多和枝嶺(たはしね)
  高舘、古(いにしへ)の衣河館の東北に在り。其の山の長部村中に在るを以て、郷人、今は之を長部山と曰ふ。斯の地、往昔(わうせき、いにしえ)、安倍頼時、白櫻一萬樹を三十餘里に植うるは乃ち此の峯巒(ほうがく)也。來神(きたかみ)河山下を遶(めぐ)りて流れ、衣河と同じく派(わか)る。西行、集め賞(ほ)むる處の多和枝嶺(たはしね)は、迺(すなは)ち此の山也。東史(吾妻鏡)に曰く、海陸兼(あはせ)て三十餘里之間、櫻樹を並び植へ、四月に至りて残雪消へること無し。仍(よ)りて駒形嶺と號す。
  (嘉穂のフーケモン拙訳)

 

  束稲山


    みちの國に、ひらいつみにむかひて、たはしねと申す山の侍るに、こと木はすく 
    なきやうに、さくらのかきりみえて、花の咲たるをみてよめる 


                 
  きゝもせすたはしね山のさくら花 よしののほかにかかるへしとは 


  おくになを人見ぬ花のちらぬあれや 尋ねを入らむ山ほとときす
                                                        山家集   西行法師


 歌枕として有名な衣川は北上川の支流で、平泉で北上川に注いでいますが、その合流点は、往時は束稲山(駒形峯)山麓であったのが、芭蕉翁訪問時には、髙舘北方約二百メートルの地点に移っていました。

 衣河 仙臺より廿三リ半一ノ関、一ノせきより二リ。平泉村ヨリ十四五町行、ヨ程ノ川也。土橋有。南部海道也。今ハ髙舘二十町程間有。古トハ川瀬チガヒシ也。
 「名勝備忘録」 曾良

  一、衣川、名所なり、此川源二筋あり、北は上衣川村增澤に出、南は淸水大森に出て、同村百袋に至て二川相合し、中尊寺の後を東に流れ、北上川に落つ、衣川
  北上川ともに百年前の地圖を以て考合すれば、川筋甚た昔に異なるなり
  『平泉舊蹟志』

 

  衣川


     題しらす           読人不知
  袂より落つる泪はみちのくの 衣川とそいふへかりける
                           拾遺集 巻十二 戀二     762

                           義昌
  夏たつとしるしも見えず衣川 いつも舟よる浦しなければ
                           永久百首         夏        138

                          家隆
  誰が袖につゝむほたるの衣川 思ひあまりて玉ともゆらん
                          夫木抄 巻八     夏二    3229

      永承五年十一月後綱朝臣家の歌合水鳥
   衣川妻なき鴛(をし)の聲きけは まつ我か袖そさへまさりける
                          夫木抄 巻十七 冬二    6982

      双輪寺にて、松汀にちかしといふことを人々のよみける
                          西行法師
   衣川汀によりて立浪は きしの松か根あらふなりけり
                          聞書集  全                    251

   十月十二日、平泉にまかりつきたるけるに、雪降り嵐はげしくことのほかに
   あれたりけり、いつしか衣川見まほしくてまかりむかひて見けり、河の岸につ
   きて衣川の城しまはしたることからやうかりはりて物を見る心地しにけり、汀
水てとりわけさむければ、
 とりわきて心もすみてさへそわたる 衣川見にきたるけふしも
                         山家集       西行法師
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2014年04月11日

奥の細道、いなかの小道(21)− 平泉(1)

 

  奥州藤原氏三代

  (旧暦3月12日)

  夏草や兵どもが夢の跡

  卯の花に兼房みゆる白毛かな   曽良


  やっとのことで、奥州平泉にたどり着きました。
  かの、藤原三代の栄耀(ええう)、今は見る影もなく、ただ北上川だけが悠然と流れています。

  鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』の文治五年八月大廿一日の条にも、当時の荒廃した平泉の有り様が、次のように描かれています。

  文治五年八月大廿一日戌申
  甚雨暴風。追泰衡、令向岩井郡平泉給
  (中略)
  泰衡過平泉舘、猶逃亡。縡急而雖融自宅門前、不能暫時逗留。纔遣郎從許件館内、高屋寳藏等縱火。杏梁桂柱之搆、失三代之舊跡。麗金昆玉之貯、爲一時之薪灰。儉存奢失。誠以可愼者哉。
  『吾妻鏡』文治五年 己酉


  文治五年八月大八日廿一日戌申(ぼしん)
  甚雨暴風。泰衡を追て、岩井郡平泉へ向は令(し)め給ふ。
  (中略)
  泰衡平泉の舘を過ぎ、猶逃亡す。縡(こと)、急にして自宅の門前を融(とほ)ると雖も、暫時も逗留に能はず。纔(わづか)に郎從許りを件(くだん)の館内(たちない)へ遣はし、高屋、寳藏等(ら)に火を縱(はな)つ。杏梁(きやうりやう)桂柱之搆へ、三代之舊跡を失ひ、麗金(れいこん)昆玉之貯(たくは)へ、一時之薪灰(しんかい)と爲す。儉は存し奢は失す。誠に以て愼む可者哉(をや)。

  文治五年八月大廿二日己酉
  甚雨。申剋、着御于泰衡平泉舘。主者已逐電、家者又化烟。數町之縁邊、寂寞而無人。累跡之郭内、弥滅而有地。只颯々秋風、雖送入幕之響、蕭々夜雨、不聞打窓之聲。但當于坤角、有一宇倉廩。遁餘焔之難。遣葛西三郎淸重、小栗十郎重成等、令見之給。沈、紫檀以下唐木厨子數脚在之。其内所納者、牛玉、犀角、象牙笛、水牛角、紺瑠璃等笏、金沓、玉幡、金花鬘〔以玉餝之〕、蜀江錦直垂、不縫帷、金造鶴、銀造猫、瑠璃燈爐。南廷百〔各盛金器〕等也。其外錦繍綾羅、愚筆不可計記者歟。象牙笛、不縫帷者、則賜淸重、玉幡、金花鬘者、又依重成望申同給之。可庄嚴氏寺之由、申之故也云々。彼瞽叟之牛羊者、雖顯不義之名、此武兵之金玉者、擬備作善之因。財珍係望、古今異事者哉。
  『吾妻鏡』文治五年 己酉


  文治五年八月大廿二日 己酉(きゆう) 
  甚雨(豪雨)。申の刻(午後4時前後)、泰衡の平泉の館に着御す。主は已に逐電し、家はまた烟と化す。數町の縁邊、寂寞として人無し。累跡の郭内、いよいよ滅して地のみ有り。ただ颯々(そふそふ)たる秋風、幕に入るの響きを送ると雖も、簫々(せうせう)たる夜雨、窓を打つの聲を聞かず。但し坤(こん、ひつじさる=西南)の角に當り、一宇の倉廩(そうりん)有り。餘焔の難を遁(のが)る。葛西の三郎淸重、小栗の十郎重成等(ら)を遣はし、之を見せ令(し)め給ふ。沈、紫檀以下の唐木の厨子數脚これに在り。その内に納める所は、牛玉、犀角、象牙の笛、水牛の角、紺瑠璃等(ら)の笏、金の沓(くつ)、玉の幡(はた)、金の華鬘(けまん)〔玉を以て之を餝(かざ)る〕、蜀江錦(にしき)の直垂(ひたたれ)、不縫(ぬはず)の帷(かたびら)、金造の鶴、銀造の猫、瑠璃の燈爐、南廷(銀塊)百(各々金の器に盛る)等なり。其の外、錦繍綾羅、愚筆に計(かぞえ)記す可からざる者歟(か)。象牙の笛、不縫(ぬはず)の帷(かたびら)は清重に賜はり、玉の幡(はた)、金の華鬘(けまん)は、また重成望み申すに依て同じく之を給はる。氏寺を荘厳すべきの由、之を申すの故なりと云々。彼の瞽叟(こそう)の牛羊は、不義の名を顯すと雖も、この武兵の金玉は、作善の因に備へんと擬(こら)す。財珍に望みを係るは、古今事を異にする者哉。

  奥州平泉文化は、藤原清衡(1056 ?〜1128)、基衡(1106 ?〜1157)、秀衡(1122 ?〜1187)の三代によって築かれました。

  われらが先祖みたちの権太郎清衡にこの国の守護を賜はつしよりこのかた、その子に小次郎基衡、いま秀衡まで三代は、国穏やかに治まり、忝くも一天の君の宣旨を蒙り、弓矢の家の名を得しこと、しかしながら当家のご恩たり。
  幸若舞 『泉が城』


  初代藤原清衡(1056 ?〜1128)は、陸奥国亘理の豪族亘理経清(生年不詳〜1062)と、陸奥国奥六郡(胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)を治めた俘囚長安倍頼時(生年不詳〜1057)の娘の有加一乃末陪(あるかいちのまえ)の間の子として生まれ、父の亘理経清が亘理権大夫(わたりのごんのたいふ)を称した関係から、幼名を権太郎と呼ばれたとの説もあるようです。
 
  前九年の役(1051〜1062)で安倍一族が滅亡した後に、母の再婚に従って清原武貞(生没年不詳)の養子となり清原性をとなえますが、後三年の役(1083〜1087)の後、一族最後の残存者として奥六郡を領する勢力者となり、また寬治三年(1089)に陸奥国押領使に任命され、江刺郡豊田に居館を構えました。

  寛治五年(1091)、清衡は関白藤原師実(1042〜1101)に馬を献上するなどして京の藤原氏と交誼を深め、この関係より藤原の姓を称するに至ったと言われています。

  寬治五年十一月十五日
  亥の刻関白殿(師実)の使者来たり曰く、清衡(陸奥の住人なり)、馬二疋進上の由、仰する所也。承りおわんぬ、云々。
   『後二条師通記』


  嘉保年間(1094〜1096)には磐井郡平泉に居を移し、長治二年(1105)からは中尊寺の中興に着手して壮大な中世都市平泉の原型をつくり、奥州藤原氏三代百年の栄華の基礎を築きました。

  二代基衡は毛越寺を再興して京を凌ぐ寝殿造りの金堂と浄土庭園大泉が池を造営し、三代秀衡は無量光院を建立して父祖の業を継承し、嘉応二年(1170)五月二十五日には従五位下鎮守府将軍に叙任され、養和元年(1181)八月二十五日には従五位上陸奥守に叙任されて、名実ともにみちのくの覇者として君臨しました。

  一 十三日
  天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リニ近シ(伊沢八幡壱リ余リ奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色寺)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別當留主ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見、申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。 

  一 十四日
 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。
  (曾良随行日記)

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:01Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2014年04月05日

数学セミナー(30)− 調和座標

 

  P. A. M. Dirac an der Tafel

 (旧暦3月6日)

 



  達治忌

  詩人、翻訳家三好達治の昭和39年(1964)の忌日。
  大阪市に生まれ、大阪府立市岡中学を学費が続かず退学後、大阪陸軍地方幼年学校を経て陸軍中央幼年学校本科に入学。大正9年(1920)、陸軍士官学校本科に入学するも翌年、北海道まで脱走して退校処分となった。大正11年(1922)、第三高等学校文科丙類を経て東京帝国大学文学部仏文科を卒業。三高で同級の丸山薫の刺激により詩作を始め、桑原武夫、梶井基次郎、河盛好蔵、吉川幸次郎らを知り、東大では小林秀雄、中島健蔵、今日出海、淀野隆三、堀辰雄らと交友した。

 『雪』

 十一月の夜をこめて 雪はふる 雪はふる

 黄色なランプの灯の洩れる 私の窓にたづね寄る 雪の子供ら

 小さな手が玻璃戸を敲く 玻璃戸を敲く 敲く さうしてそこに

 息絶える 私は聴く 彼らの歌の 静謐 静謐 静謐

 



  今回も、ディラック先生の『一般相対性理論』の第22章「調和座標」について考えてみませう。 

 “General Theory of Relativity” P.A.M.DIRAC 22. Harmonic Coordinates

  ディラック先生(Paul Adrien Maurice Dirac、1902〜1984)は、イギリスのブリストル大学で電気工学を学んだ後、1923年にケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジ(St John's College)で数学の研究生となりました。

  1928年、先生は「フェルミ粒子」を記述するところの「ディラック場」が従う基礎方程式であるディラック方程式を提唱しました。
  「フェルミ粒子」(Fermion)とは、スピン角運動量の大きさが (プランク定数 h を 円周率 π の 2 倍で割った量)の半整数 (1/2, 3/2, 5/2, …) 倍の量子力学的粒子であり、その代表は電子になります。そして、その名前の由来は、イタリア=アメリカの物理学者エンリコ・フェルミ (Enrico Fermi、1901〜1954) に依っています。
  また、「ディラック場」(Dirac field)とは、スピン角運動量(spin angular momentum)1/2 のフェルミ粒子を記述するスピノル場(Spinor field、整数または半整数のスピンSの粒子を記述している)と定義されています。

  ディラック先生は、この方程式から導かれる電子の負のエネルギー状態について、いわゆる「ディラックの海」(Dirac sea)と呼ばれる理論を提案しました。この理論では、電子の電荷と符号が逆で大きさは同じ電荷を持ち、電子と同じ質量を持つ粒子(反粒子)の存在が提起されています。先生は当初、この新粒子を陽子ではないかと考えたようですが、後に電子の反粒子である陽電子が、1932年にアメリカの実験物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソン(Carl David Anderson、1905〜1991)によって発見されています。

  「ディラックの海」は、相対論的量子論である「ディラック方程式」を解くと出てくる負のエネルギー電子を再解釈して生まれた負のエネルギーで満ちた真空のことですが、光瀬龍原作のSF小説「百億の昼と千億の夜」(萩尾望都により漫画化されている)にも登場しています。

 この萩尾望都の漫画が実に印象に残っています。

 


  『アスタータ50惑星開発委員会』が「シ」の命を受けて行う『ヘリオ・セス・ベータ型開発実験』、アトランティスはその一環としてポセイドン神の管理を受けていたが、ポセイドン神の意に逆らったアトランティスはバランスを失い、街の半分を闇にのまれて滅びた。
  (中略)
  アトランティスの司政官オリオナエ(哲学者プラトンの意識上の分身)は、球体を組み替えて、神のすみか「D座標」に通じる門を作る。その門は、オリハルコンの枠組みに「ディラックの海」のマイナスエネルギーが流れ込み、「D座標」への新しい道を作る装置で、門をくぐった悉達多(シッタータ)、阿修羅、オリオナエの三人は虚数世界に迷いこんでしまう。オリハルコンのかけらがない今、
脱出に失敗すれば「ディラックの海」―完全な無に還元される。
  (後略)


  The Dirac sea is a theoretical model of the vacuum as an infinite sea of particles with negative energy. It was first postulated by the British physicist Paul Dirac in 1930 to explain the anomalous negative-energy quantum states predicted by the Dirac equation for relativistic electrons. The positron, the antimatter counterpart of the electron, was originally conceived of as a hole in the Dirac sea, well before its experimental discovery in 1932.
 ( From Wikipedia)

  ディラックの海は、負のエネルギーを持った粒子の無限の海として、真空の理論的なモデルである。それはディラック方程式によって相対論的な電子のために予測された異例な負のエネルギーの量子状態を説明するために、1930年にイギリスの物理学者ポール・ディラック(Paul Adrien Maurice Dirac,1902〜1984)により最初に仮定された。電子の反粒子である陽電子は、1932年の実験的な発見の前には、ディラックの海の穴として、当初は考えられた。(Wikipediaより)


 ディラック先生は、1933年にオーストリア出身の理論物理学者エルウィン・シュレジンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger、1887〜1961)と共に、「新形式の原子理論の発見」(for the discovery of new productive forms of atomic theory)の業績によりノーベル物理学賞を受賞しています。

  さて、本題に入ります。

 The laws of physics must be valid in all systems of coordinates. They must thus be expressible as tensor equations. Whenever they involve the derivative of a field quantity, it must be a covariant derivative. The field equations of physics must all be rewritten with the ordinary derivatives replaced by covariant derivatives. For example, the d’Alembert equation □V = 0 for a scalar V becomes, in covariant form

 

This gives, from (10.1) and (10.5)


 

 Even if one is working with flat space (which means neglecting the gravitational field) and one is using curvilinear coordinates, one must write one’s equations in terms of covariant derivatives if one wants them to hold in all systems of coodinates.
   “General Theory of Relativity” P.A.M.DIRAC 10. Covariant differentiation


 物理法則は、どんな座標系においても、あまねくなりたつのでなければなならい。だから、そのなかに場の量の微分が含まれるとき、それは共変微分でなければならない。物理学における場の方程式は、すべて書きかえて、ふつうの微分を共変微分に直す必要がある。
 たとえば、スカラー場に対するダランベールの方程式□V =0の共変な形は、


 

である。これは、(10.1) 、(10.5)により

 

をあたえる。
  たとえ空間を平らだとして(すなわち重力場を無視して)曲線座標をもちいるとしても、方程式が任意の座標系でなりたつようにしたいならば、それは共変微分で書かなくてはいけない。

   『一般相対性理論』 P.A.M.ディラック 10.共変微分 (江沢 洋訳)


 ちなみに、(10.1) 、(10.5)とは、下記のように式になります。

 

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2014年03月30日

新生代(22)— 新世紀(11)ーザンクレアン大洪水(2)

 

 Sailing the Mediterranean on the R/V Eastward with my two principal teachers: Maria Bianca Cita (top row, third from right) and Bill Ryan (bottom row, third from left; Barcelona, summer 1978).
 From Alberto Malinverno (http://www.ldeo.columbia.edu/~alberto/research.html)

  (旧暦2月30日)
 
  新生代(21)— ザンクレアン大洪水(1)のつづき
  
 イタリアの女性地質学者Maria Bianca Cita(1924〜)によって、1972年に提唱されたザンクレアン洪水については、乾燥して干上がった地中海盆地への大西洋からの海水流入の状況については諸説あるものの、多くの論文がこの説を裏付けています。

  The Zanclean Flood: Refilling the Mediterranean

  地中海を再び満たしたザンクレアン洪水

  13 July 2012 by kuschk
 (http://basementgeographer.com/the-zanclean-flood-refilling-the-mediterranean/


  
  While the Mediterranean Sea is one of the cradles of ancient human civilisation, the water body is rather young geologically, approximately 5.33 million years old. Researchers have found that this figure marks the date of the Zanclean flood, an epic breach of the Strait of Gibraltar that turned the desiccated Mediterranean basin into a sprawling arm of the Atlantic Ocean in a matter of a few months to perhaps two years. To understand how the Mediterranean filled, one must travel back much further than 5.33 million years ago, however.


 地中海が古代文明の揺籃の地のひとつであるとしても、水域はおよそ533万年と地質学的にはむしろ若い。研究者達は、この形状がザンクラ期洪水の年代を示すことを発見した。ジブラルタル海峡の壮大な裂け目が、数ヶ月からだいたい2年のうちに、乾燥した地中海海盆を大西洋が手足を伸ばした腕に変えた。地中海がどのように満たされたかについて理解するためには、人は533万年より過去に旅しなければならない。


  The Mediterranean Sea is the descendant of the ancient Tethys Ocean, the ocean that separated the Eurasian continent to the north from Africa, Arabia, and India to the south. Formed in the aftermath of the breakup of Pangaea, the Tethys emerged 150 million years ago as the north/northeasterly movement of Africa, Arabia, and India began pinching off a portion of the great Panthalassic Ocean that covered most of the planet at this time (the rest of Panthalassa essentially became the Pacific Ocean).


  地中海は古テーティス海の名残で、テーティス海は、ユーラシア大陸を北に、アフリカ、アラビア、インドを南に切り離した海である。パンゲア大陸の分裂直後に作られたテーティス海は、アフリカ、アラビア、インドの北/北東への移動が、当時地球の大部分をおおった大きなパンサラッサ海の一部を離れて締めつけ始めたので(残りのパンサラッサ海は、基本的に太平洋となった)、1億5000万年前に出現した。


 

 The Earth, 90 million years ago. The Tethys is the large body of water lying in between Europe, Asia, Africa, and India. Source: Dr. R. Blakey,   http://jan.ucc.nau.edu/~rcb7/mollglobe.html. Licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported licence.



  Tethys would progressively shrink as Africa, Arabia, and India pushed northward. By about 20 million years ago, the Tethys had been reduced to a set of channels connecting the Atlantic Ocean with the Indian Ocean (one branch went through the area of the modern Persian Gulf; the other branch, the Paratethys, extended through the areas of the Black, Caspian, and Aral seas, all of which are remnants of the old Tethys basin). India and Arabia would collide into Asia, closing the north channel around 10-15 million years ago, trapping the Black and Caspian Seas, and closing the Persian Gulf. This left a single oceanic outlet to the Atlantic via the Strait of Gibraltar separating modern Spain from Morocco. What was left of Tethys was now a proto-Mediterranean Sea.


  アフリカ、アラビア、インドが北に押したので、テーティス海は次第に縮小する。およそ2000万年前に、テーティス海は大西洋をインド洋とつなぐ一組の海峡に縮小された。(ひとつの支流は、現代のペルシャ湾の地域を通り抜け、他の支流は、テーティス亜海として、黒海、カスピ海、アラル海の地域に広がり、それらは全て古テーティス海盆の遺物である。)
  インドとアラビアはアジアに衝突し、およそ1000万~1500万年前に北側の海峡を閉鎖して、黒海とカスピ海を閉じ込め、ペルシャ湾を封鎖した。これは、現代のスペインをモロッコから切り離しているジブラルタル海峡を経由して、大西洋に一つの大洋のはけ口を残した。テチス海の左側であった海域は、現在の初期地中海であった。


 

 Paleogeography of the Tethys ocean in the Rupelian age (33.9-28.4million years ago). Black lines indicate present day coastlines.
 Rögl, F.; 1999: Mediterranean and Paratethys. Facts and hypotheses of an Oligocene to Miocene paleogeography (Short Overview), Geologica Carpathica 50(4), p. 339– 349.
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:14Comments(0)新生代

2014年03月26日

新生代(21)— 新世紀(10)ーザンクレアン大洪水(1)

 

 ザンクレアン洪水時の地中海のイメージ図

  (旧暦2月26日)

  犀星忌

  金沢生まれの詩人、小説家、室生犀星の昭和37年(1962)の忌日。
  私生児として生まれ、すぐに養子に出された。実父に捨てられた悲しみや劣等感を胸に抱き締めつつ、反抗的な少年として成長していったことは、犀星の文学に深い影響を与えたとされている。

 


  夏の日の 匹婦の腹に生まれけり        『犀星発句集』(1943年)

  小景異情(その二)
  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや

  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
  帰るところにあるまじや

  ひとり都のゆふぐれに

  ふるさとおもひ涙ぐむ
 
  そのこころもて

  遠きみやこにかへらばや

  遠きみやこにかへらばや


  鐵幹忌

  歌人、慶應義塾大学文学部教授、鐵幹與謝野寛の昭和10年(1935)の忌日。
  明治33年(1900)4月、月刊文芸誌「明星」を創刊。当時無名の若手歌人であった鳳晶子の類まれな才能を見ぬいて、晶子の歌集『みだれ髪』の作成を支援し、明治34年(1901)8月、『みだれ髪』を刊行。

 

  昭和7年(1932)、第一次上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たした。
 
  作曲 陸軍戸山学校軍楽隊
      楽長  辻順治
      楽長補 大沼哲
  一、
  廟行鎮の敵の陣

  我の友隊すでに攻む

  折から凍る如月の

  二十二日の午前五時
  (以下略)


  楽聖忌

  1827年、楽聖(der große Musiker)と呼ばれたドイツの作曲家ベートーベンがウィーンの自宅で亡くなった日。

   
 
  Portrait of Beethoven as a young man by Carl Traugott Riedel (1769–1832)
  
   Er fühlt sein Ende, denn gestern sagte er mir und Breuning: Plaudite amici, comoedia finita est. (p. 392)


   彼は終焉の近いことに気づいています。というのは、昨日、私とブロイニングに Plaudite amici, Comoedia finita est. (喝采せよ友よ、喜劇は終つた)と語つたからです。

   Schindler, Anton. Biographie von Ludwig van Beethoven. Leipzig : P. Reclam, 1970 (Universal-Bibliothek ; Bd. 496)





  地質時代(Geological age)とは、約46億年前の地球の誕生から、数千年前の記録の残っている時代より前までの期間であると定義されています。

  区分の仕方は、古い方から冥王代(Hadean eon)、始生代(Archean eon)、原生代(Proterozoic)、顕生代(Phanerozoic eon)の4つの累代(eon)、さらには細かく代(era)、紀(period)、世(epoch)、期(age)と分類されています。これらの区分は化石帯区分(Calcareous nannofossil zones of the Quaternary)と呼ばれ、地層や化石の研究から導きだされたものですが、これらの時代区分は動物化石を基に分類されているので、植物相の変異とは必ずしも一致していません。

  地質年代学(Geochronology)で定義する累代、代、紀、世、期に相応する地層は、地層のできた順序を研究する層序学(stratigraphy)では累界(eonothem)、界(erathem)、系(system)、統(series)、階(stage)と呼び、地質年代学で言う前期(early)、中期(middle)、後期(late)に対しては下部(lower)、中部(middle)、上部(upper)と呼んでいます。

 
   この時代区分の定義、名称や基底年代等に関しては絶えず見直されており、また合意に至っていないものも多々あります。これらは国際地質科学連合(IUGS)、 国際第四紀学連合(INQUA)、 国際層序委員会(ICS)等で検討され、4年ごとに開催される万国地質学会議(International Geological Congress)で批准されてきています。

   まったく、私どもが学んできた名称、例えば「第三紀」(Tertiary)という呼称も、現在では国際地質科学連合(IUGS)は「非公式用語」に位置づけているようです。
   この言葉の語源は、18世紀中頃にイタリアの地質学者ジョヴァンニ・アルドゥイノ(Giovanni Arduino、1714〜1795)が、イタリアの南アルプスの地層やそこに含まれる化石の分類から、地質時代を3つの時代区分に定義したことによります。
  face03第一紀(Primario)は化石の出ない時代。
  face05第二紀(Secondario)は化石が出るが現生生物とは遙かに異なる時代。
  face08第三紀(Terziarioo)は現生生物に近い生物の化石が出る時代、後に第三紀は分割されて第四紀(Quaternaio)が追加された。


   現在では、「第四紀」(Quaternary)のみが公式用語であり、日本語では「第三紀」が「古第三紀」と「新第三紀」に分割されて名残を留めていますが、英語ではTertiary(第三紀)は、Paleogene(旧世紀)とNeogene(新世紀)が公式用語になっています。

   さて、およそ600万年前の新生代中新世末期のメッシーナ期(Messinian、724万6千年前〜533万2千年前)に、地殻変動が進行してジブラルタル海峡が閉鎖され、地中海が一時的に太平洋から分離された時期があったことは、以前、本ブログに掲載しました。
 新生代(20)−新第三紀(9)−メッシニアン塩分危機 (2012年12月11日)

  この間に地中海は何度か干上がって、厚さ最大3㎞もの岩塩堆積層が形成され、その後、約550万年前には、地中海は完全に孤立して塩の砂漠となってしまいました。しかし、次のザンクラ期(Zanclean、533万2千年前〜360万年前)になると、大西洋からの海水の流入により、地中海は現在の状況になったとされています。  続きを読む

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2014年03月21日

クラシック(25)— ヘンデル(1)— ユダス・マカベウス

 

 

  George Frideric Handel, born in 1685, the same year as Johann Sebastian Bach and Domenico Scarlatti. By Balthasar Denner (c. 1726–1728)

 (旧暦2月21日)


  和泉式部忌


 

  菊池容斎『前賢故実』より
 
  平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人、和泉式部の忌日。
  生没年は不詳だが、摂政太政大臣藤原道長(966〜1028)が、むすめの上東門院彰子(988〜1074)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが起源とされる華嶽山東北寺誠心院に墓所があり、毎年3月21日に法要が営まれるている。
  父である越前守大江雅致(まさむね)の式部省の官名から「式部」(一説には養女)、夫であった橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれたとされる。

  恋愛を詠んだ秀歌が多い反面、その恋愛遍歴から、藤原道長からは「うかれめ」と揶揄され、紫式部からは「和泉はけしからぬ方こそあれ」と評されている。

  和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず
  『紫式部日記』


  『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)があり、勅撰二十一代集に二百四十五首を入集している。


  御影供


 

  『風信帖』(第1通目)空海筆 

 真言宗の開祖、弘法大師空海が承和二年(835)に、高野山奥の院で入寂したとされる日。

  《承和二年(八三五)三月丙寅【廿一】》
  丙寅。大僧都傳燈大法師位空海終于紀伊國禪居。

  《承和二年(八三五)三月庚午【廿五】》
  庚午。勅遣内舍人一人。弔法師喪。并施喪料。後太上天皇有弔書曰。眞言洪匠。  
  密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崦○未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。
  弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。
  悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴
  奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下
  阿刀宿禰大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有一沙門。呈示虚空藏聞持法。其經
  説。若人依法。讀此眞言一百萬遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。
  望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來影。
  自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
  與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。
  禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之
  化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化
  去之時年六十三。
   『續日本後紀』 卷第四


  米国アナポリスの海軍兵学校では、卒業式のあと、少尉候補生の制服姿になった未来のアドミラルたちが、三々五々、恋人といっしょに、ラヴ・レインという校内の森の小径に消えて行くそうだが、江田島ではそういう風習はない。しかし、恩賜の短剣を受ける時には、一人々々、ヘンデルの歓喜の合唱曲、「ユダス・マカベウス」が奏せられ、ちょっと日本ばなれした荘厳で美しい式典である。
  『軍艦長門の生涯』 阿川弘之
 


  「ユダス・マカベウス」(Judas Maccabaeus)は、バロック期を代表する重要な作曲家の一人とされている、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel,1685〜1759)のオラトリオ(聖譚曲)HWV(Händel-Werke-Verzeichnis)63の題名です。

  初演は1747年4月1日、ロンドンのコヴェント・ガーデン(王立歌劇場)で、同じくヘンデルのオラトリオ、メサイア (Messiah)HWV56 に次いで人気の高いオラトリオです。
  ここで阿川弘之氏が云う合唱曲「ユダス・マカベウス」とは、オラトリオ「ユダス・マカベウス」の第3幕で歌われる「見よ、勇者は還りぬ」の合唱曲のことだと思われます。
 
 
  CHORUS OF YOUTHS
  See the conqu’ring hero comes,

  Sound the trumpets, beat the drums,
  Sports prepare, the Laurel bring,

  Songs of triumph to him sing.


  見よ、勇者は還りぬ
  吹けや角笛、叩けや太鼓
  備えよスポーツ(競技)、ローレル(月桂樹)かざし
  勝利の歌を勇者に歌え
 


  CHORUS OF VIRGINS
  See the godlike youth advance!
  Breathe the flutes, and lead the dance;
  Myrtle wreath, and roses twine,
  To deck the hero's brow divine.


  見よ、神のごとき若者の進むを!
  吹けや横笛、ダンスを導け
  マートル(銀梅花)の花輪、バラの小束
  神々しい 勇者の額を飾るため

  
  CHORUS
  See, the conqu'ring hero comes!
  Sound the trumpets, beat the drums.
  Sports prepare, the laurel bring,
  Songs of triumph to him sing.


  見よ、勇者は還りぬ
  吹けや角笛、叩けや太鼓
  備えよスポーツ、ローレル(月桂樹)かざし
  勝利の歌を勇者に歌え

  (嘉穂のフーケモン拙訳)



  この曲は、日本では表彰式におけるBGMとして流されるメロディとしてよく知られていますが、そのルーツは旧帝国海軍にあったのでしょうかねえ。

  Originally composed as 'Chor der Jünglinge' (Text: 'See the conqu'ring hero comes') in the 3rd movement of the Oratoriums Josua, Händel later inserted this choir also into 'Judas Maccabäus'. 




  もともと、オラトリア「ヨシュア」の第3幕の「青年の合唱」(本文:「見よ、勇者は還りぬ」)として作曲されましたが、ヘンデルは後にこの合唱を「ユダス・マカベウス」の中にも入れました。


  Around 1820, Johann Joachim Eschenburg (other sources attribute it to Friedrich Heinrich Ranke) added the text 'Tochter Zion, freue dich' and turned the song into an advent carol. Currently, it belongs to the most well-known and most often sung Christmas songs in the German-speaking countries."


  1820年頃、ヨハン・ヨハイム・エッシェンブルク(1743〜1820)[一説にはフリードリッヒ・ハインリヒ・ランケ(1798〜1876)の作とも]が「喜べ、シオンの娘よ」の本文を追加して、降誕祭の祝歌にしました。現在では、ドイツ語圏では最もよく知られ、最もよく歌われるクリスマス・ソングとなっています。


  An Easter hymn was later written in French to the same tune by the Swiss Edmond L. Budry and was translated from French to English by Richard B. Hoyle (1875〜1939) in 1923.


  復活祭の賛美歌は、後にスイスのエドモンド・ルイス・バドリー(1854〜1932)によって同じ調べでフランス語で書かれ、リチャード・B・ホーリーによって1923年に英語に翻訳されました。

  

  Tochter Zion, freue dich                  Daughter of Zion, Rejoice
  Christmas Carol                               Christmas Carol
  (German)                                        (English)

  Tochter Zion, freue dich!                 Daughter of Zion, rejoice!
  Jauchze, laut, Jerusalem!                Cheer loudly, O Jerusalem!
  Sieh, dein König kommt zu dir,        Behold, your King comes to you,
  Ja er kommt, der Friedenfürst.        Yea, he is the Prince of Peace.
  Tochter Zion, freue dich!                 Daughter of Zion, Rejoice!
  Jauchze, laut, Jerusalem!                Cheer loudly, O Jerusalem!



  喜べ シオンの娘よ
  喜びの声をあげよ エルサレムよ 
  見よ お前の王が今し来たる
 
  そうだ 平和の君が今し来たる
  喜べ シオンの娘よ
  喜びの声をあげよ エルサレムよ


  Hosianna, Davids Sohn,                   Hosanna to the Son of David,
  Sei gesegnet deinem Volk!              Blessed be thy people!
  Gründe nun dein ewig Reich!           Thy eternal Kingdom comes,
  Hosianna in der Höh'!                       Hosanna in the Highest!
  Hosianna, Davids Sohn,                    Hosanna the Son of David,
  Sei gesegnet deinem Volk!              Blessed be thy people!


 
  万歳(ホサナ) ダヴィデの子 
  その民にも祝福を!

  今や お前の永遠の王国を建てよ 
  万歳(ホサナ) いと高きところに 
  万歳(ホサナ) ダヴィデの子 
  その民にも祝福を!

 



  Hosianna, Davids Sohn,                   Hosanna to the Son of David,
  Sei gegrüßet, König mild!                Be welcome, gentle King!
  Ewig steht dein Friedensthron,       Peace is your Throne forever,
  Du, des ew'gen Vaters Kind!           You, the Father's only Son.
  Hosianna, Davids Sohn,                   Hosanna to the Son of David,
  Sei gegrüßet, König mild!                Be welcome, gentle King!

  
  万歳(ホサナ) ダヴィデの子 
  喜び迎えよ やさしき王を!
 
  平和は お前の永遠の王座 
  君よ 永遠の神の子よ!
 
  万歳(ホサナ) ダヴィデの息子 
  喜び迎えよ やさしき王を!

  (嘉穂のフーケモン拙訳)


 「ユダス・マカベウス」は、1746年にスコットランドで起きた名誉革命の反革命勢力ジャコバイトによるグレートブリテン王国に対する最後の組織的抵抗を鎮圧した指揮官カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス(William Augustus, Duke of Cumberland、1721〜1765)が、スコットランドから帰還するのを祝って計画されたものです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:35Comments(0)音楽/クラッシック

2014年03月16日

書(21)— 文徴明— 後赤壁賦

 
 
 赤壁賦   文徴明   巻  28.7cmx464.5cm

  (旧暦2月16日)
 
  明代中期に活躍した文人の文徴明(1470〜1559)は、詩・書・画に巧みで三絶と称され、画においては「南宋文人画中興の祖」として呉派文人画の領袖である沈周(1427〜1509)の後を継ぎ、沈周・唐寅(1470〜1523)・仇英(1494?〜1552)とともに明代四大家に加えられています。
 
  蘇州は明代(1368〜1644)にもっとも文化が進み、文芸界の中心をなしていました。元代(1271〜1368)における江南文化の中心地は杭州でしたが、それが蘇州に移る機縁となったのは、元末に蘇州を拠点として江東に強大な勢力を誇った張士誠(1321〜1367)の文教政策であり、文芸を好み側近に文人を集めたので、明の太祖朱元璋(1328〜1398)に滅ぼされたのちも、蘇州には多くの文人が残っていました。

  さて、この文徴明、子どもの時は発育が遅く、八、九歳になっても言語が不明瞭だったといわれ、書も下手でしたが、不断の努力によりその才能を磨いていきました。
  父、文林の友人で当代一流の士である、吳寬(1435~1504)に文を、李應禎(1431〜1493)に書を、沈周(1427〜1509)に画を学び、また、祝允明(1460〜1526)、唐寅(1470〜1523)、徐禎卿(1479〜1511)らの同輩と切磋琢磨して努力し、蘇州府学の学生だったときには、一日に千字文十本を臨書するのを日課としたと伝えられています。

  その書については、次子の文嘉が残した『先君行略』(「甫田集」巻末)に、

  父の書は大変な労力を費やして臨書を重ねた結果、体得されたものである。初めは宋元の名蹟を習ったが、その筆意を悟るとことごとくこれを棄て去り、もっぱら晋唐の書を手本とした。その小楷は王羲之の黄庭経や楽毅論の中からきたもので、温純精絶なること、虞世南や褚遂良以後の書は問題にならない。隷書は鐘繇を手本として、一世に独歩した。(後略)


  
  於書遂刻意臨學始。亦䂓模宋元之撰、既悟筆意遂悉棄去専法晉唐。其小楷雖自黃庭樂毅中來而温純精絶虞褚而下弗論也。隷書法鐘繇、獨歩一世。(後略)
  欽定四庫全書 集部六 别集類 甫田集巻三十六 附録 『先君行畧』

 
と記されています。

 

  『先君行畧』


  文徵明、長洲(江蘇省呉縣)の人、初め名は璧、以て字(あざな)を行じ、更に字は徵仲、別に衡山と號す。父は林、溫州(浙江省温州)知府たり。叔父は森、右僉都御史たり。林、卒するに、吏民、賻(おく)る為に千金を醵(あつ)む。徵明、年十六(明史の誤り、実際は年三十)、悉く之を卻(しりぞ)く。吏民、故に卻金亭を修(おさ)め、以て前守何文淵に配し、而して其事を記す。

 徴明、幼にして慧(さと)らず、稍(やや)長じて、穎異挺發(卓出)たり。文を吳寬に學び、書を李應禎に學び、畫を沈周に學ぶ、皆、父の友也。又、祝允明、唐寅、徐禎卿の輩(ともがら)と相ひ切劘(切磋琢磨)し、名は日に著しく益す。其の人となりは和して介(たす)く。巡撫兪諫、之に金を遺(おく)るを欲し、衣する處の藍衫(単衣の下着)を指し、謂ひて曰く、「敝(やぶ)ること此に至るや」と。徵明、佯(やう、理解できぬさま)として喩(さと)らず、曰く、「雨に遭ふて敝(おほ)ふのみ」と。諫、竟(つひ)に敢へて金を遺(おく)る事を言はず。寧王宸濠、其の名を慕ひ、書幣を貽(おく)り之を聘すも、病と辭して赴かず。

 正德の末、巡撫李充嗣、之を薦し、會(たまたま)徵明亦た歲貢生を以て吏部試に詣づ、翰林院待詔(皇帝侍従)を奏授す。世宗立つや、『武宗實錄』の修(編修)に預り、經筵(皇帝侍講)に侍し、歲時(四季折々)頒(はん、品物)を賜ふ、諸詞臣と齒(し、交際)す。而し是の時、專ら尚(なほ)科(科挙)を目ざすも、徵明、意、自(おの)づから得ず、連歲(毎年)歸(帰郷)を乞ふ。

 是に先し、林の溫州知(知府)のとき、諸生中に張璁を識る。璁、既に勢を得、明(徵明)をして之に附き征くを諷(さと)すも、辭して就かず。楊一清、輔政に入るに召すを、徵明、獨り後に見(まみ)ゆ。一清、亟(すみ)やかに謂ひて曰く、「子は我と翁の友たるを知らずや」と。徵明、色を正して曰く、「先君棄(き)して不肖三十餘年、苟も一字を以て及ぶ者は、敢へて忘れず、實に相公と先君の友たるを知らざるな也」と。一清、慚色有り、尋(つ)いで璁と謀り、徵明の官を徙(むなしくする)を欲す。徵明、歸るを乞ふを益(ますます)力(つと)む、乃ち致仕(引退)を獲(う)。

 四方、詩文書畫を乞ふ者は、道に踵(くびす)を接す、而して富貴の人、片楮(一片の書)を得ること易からず、尤もあへて王府及中人(宮中)に與へず、曰く、「此れ法の禁する處なり」と。徽(徽州)の周りの諸王、寶玩を以て為に贈るを、封を啓(ひら)かず而して之を還す。外國の使者、呉門(呉派の徴明の門前)に道し、里(やしき)を望みて肅拜し、以て見(まみ)ゆるを獲ざる為に恨む。

 文筆天下に遍き、門下の士の贗作する者頗る多し、徵明、亦禁ぜず。嘉靖三十八年(1559)卒す、年九十矣。長子彭、字は壽承、國子博士たり。次子嘉、字は休承、和州(安徽省)の學正たり。並に詩、工書、畫、篆刻を能くし、其家世(よよに)す。彭の孫震孟、自ら傳有り。
 『明史』 卷二百八十七  列傳第一百七十五  文苑三 文徴明
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 北宋の元豐二年(1079)八月十八日、王安石(1021〜1086)の改革を引継ぐ新法党の御使の讒言を受けて、湖州(浙江省呉興県)知事を解任され御史台の獄に下った蘇軾(1036~1101)は、拘禁百日におよび死に処せられんとするも第六代皇帝神宗(在位1067~1085)の憐れみにより、同年十二月二十九日、検校尚書水部員外郎を授けられ、黃州團練副使に充てられて、黃州(湖北省武昌東南60Kmの長江左岸)に左遷されます。
 名目だけの地方官職を与えて、新法党の刃から逃したとされています。

 蘇軾が黃州に到着したのは、元豐三年(1080)二月一日のことでした。

  蘇軾至黃州、初居定惠禪寺、後移居臨皋亭。在今湖北省黃岡縣南大江濱。

 
  東坡、謫(たく)せられて黃に居ること三年、州の太守馬正卿と云ふ者、地數十畝を以て東坡に與ふ。東坡、大雪中に室を築き、名づけて雪堂と曰ひ、雪を其堂壁に畫く。
   『漢籍國字解全書』第二六巻「正文章軌範」


  五年春、築草廬而居、名曰雪堂、蓋於大雪之中為之、因圖雪景於四壁、自書「東坡雪堂」四字於堂上、自稱東坡居士。故址在今湖北省黃岡縣東。


  
  元豐五年(1082)七月、赤壁に遊び、賦を作る。十月復び游ぶ、又賦あり、此れは再游の時の賦なり、故に後赤壁賦と曰ふ。


 賦は、戦国時代の末に楚(? ~ B.C.223、河北、湖南省あたりを領土とした国)の詩人屈原(B.C.343~B.C.278)が残した韻文である楚辞の流れを汲んで、漢代の文学に中心的な地位を占めるまでに完成した、一つの文学形式です。
 賦とは、誦(しょう)、つまり朗誦する文学のことですが、賦は、いろいろの事物を並べたて、さまざまな角度からそれを描きあげていきます。

 また、蘇軾が客と舟を浮かべてこの「赤壁の賦」を詠んだ場所は、黃州の東北にあった赤鼻磯で、実際の古戦場ではなかったのですが、晩唐の詩人杜牧(803~853)が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の「赤壁の賦」によって、実際の古戦場以上に有名になってしまったとのことです。
 そのためこの地は、「文赤壁」あるいは「東坡赤壁」と呼ばれるようになりましたが、残念ながら、東坡赤壁は長江の流れが変遷したために、現在は長江には面しておらず、赤鼻山と呼ばれているそうです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:37Comments(0)

2014年03月09日

やまとうた(30)− 雪のうちに春はきにけりうぐひすの

 
 snowdrop

 (旧暦2月9日)

  二条のきさきの春のはじめの御うた
 雪のうちに春はきにけりうぐひすの こほれる泪いまやとくらむ
                                                       古今集  巻一 春歌上 4


 半年あまり、文章を書く気もおこらず、「板橋村だより」をほっぽらかしにしておりましたが、プレッシャーのかかる仕事もひと段落し、啓蟄(3月6日ごろ)も過ぎたので、そろそろ、穴から出て行きましょうかな。

 昨年の今頃は、日本海を低気圧が通過して猛烈な南風が吹き荒れる日がよくありましたが、今年も異常な大雪が2週連続で関東地方を大混乱に陥れ、いやはや、このところの春の到来も、なかなかやっかいなものではごわさんか。

 イギリスでも3月には、時を定めず猛烈な風が吹いて、それを“ March winds”と呼んでいると、以前、「板橋村だより」に書きましたが、長い冬が次第に遠のいていく気配が感じられるのもこの時期で、春を告げる花として知られるsnowdropというヒガンバナ科ガランサス属の野生の花が山辺に咲き出します。
 

  Like an army defeated 

  The snow hath retreated,
  And now doth fare ill
  On the top of the bare hill;
  The Plowboy is whooping- anon-anon:
  There's joy in the mountains; 

  There's life in the fountains; 

  Small clouds are sailing,
  Blue sky prevailing; 

  The rain is over and gone!
  —William Wordsworth : ‘Written in March’

 

  敗北した軍隊のように
  雪は退き去って、
  今は裸の丘の頂きに
  不運をかこっている。
  農夫の子どもはときどき喚声ををあげる。
  山には喜びがあり、
  泉には生気があり、
  小さな雲はなめらかに流れ、
  青空は広がり、
  雨は止んで去っていく。
  ウイリアム・ワーズワース 「3月に寄せて」
  (嘉穂のフーケモン 拙訳)


  さて、冒頭の歌を詠んだ第56代清和天皇(在位858〜876)の女御、二条后藤原高子(たかいこ)は多情をもって世に知られていた人でした。

 face02 そのひとつは、清和天皇崩御の後の寛平八年(896)、自らが建立した東光寺の座主善祐と密通したとされて后位を剥奪されたという事件です。

 
  寛平八年 
  九月廿二日 陽成太上天皇之母儀皇太后藤原高子、與東光寺善祐法師、竊交通云云。仍廢后位。至于善祐法師、配流伊豆講師。
  『扶桑略記』 第廿二

  寛平八年丙辰
  廿二日庚子、停廢皇大后藤原朝臣高子。清和后、陽成院母儀。事秘不知。
  廿三日辛丑、廢皇大后之由、申諸社。按、以疑通東光寺座主善祐事。天慶六年、復號。
  『日本紀略』 前篇二十 宇多天皇

 高子五十五歳の年に当たるゆえに老齢に過ぎるのではないかという説もあるそうですが、そこは男女の仲、プラトニックラブというものもあり、また、王朝の頃は老女の恋愛は珍しくはなかったとのこと。真相は闇の中ということで・・・。

 face03ふたつには、伊勢物語に記された、入内前における在原業平との艶聞です。
 
 
  第三段 ひじき藻
  むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもいふ物をやるとて、

 
  
  思ひあらば葎(むぐら:雑草)の宿に寝もしなん ひじきものには袖をしつゝも


 
  二条の后のまだ帝にも仕うまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時のこと也。


 

 
  第五段 関守
  むかし、をとこありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじききつけて、その通ひ路に、夜ごと人をすゑてまもらせければ、いけどもえ逢はで帰りけり。さてよめる。


 
  人知れぬわが通ひ路の関守は よひよひごとにうちも寝ななむ



とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。


 
  二条の后に忍びてまゐりけるを、世の聞こえありければ、せうとたちのまもらせ給ひけるとぞ。


 
  二条の后のもとに、人目を忍んで参上していたのを、世間の評判というものがあったので、后の兄君達が、人々に守らせたということである。


 


 
  第六段 芥川
  むかし、をとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡籙(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。


 
  白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消えなましものを

 
  これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。


 
  これは二条の后(高子)が、従姉の女御のお側にお仕えするというかたちで住んでおられたのを、容貌が全く美しくおありになられたので、業平が密かに連れ出して、背負いて逃げたのを、高子の兄君の堀河の大臣基経と太郎国経の大納言が、まだその頃は、官位がそれほどでもなく、たまたま宮中に参内される折、ひどく泣いている人がいるのを聞きつけて、牛車を止めて妹の高子を取り返されたのである。それを鬼と言うのであった。二条の后がまだ若く、ふつうの人であられた時のとこだとか。


 

  伊勢物語各段の附記は、いづれも後人の書入れで、注釈が本文に混じったものと推定されています。まあ、その時代には、在原業平と二条后についてこういう噂があったというくらいのことで、当時の人が、二条后を業平と契りを結ぶにふさわしい高貴で華麗な女性と見ていたであろうとは、一昨年に鬼籍に入られた丸谷才一氏の評です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:52Comments(0)やまとうた

2013年09月27日

物語(12)−平家物語(4)−先帝御入水の事

 

 第八十一代安徳天皇御影

 (旧暦8月16日)

 

 鬼城忌
 俳人村上鬼城の昭和13年(1938)年の忌日。
 不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色であるとされている。さらに、鬼城自信も耳が不自由だったために、身体障害者に対する感情を詠ったものが多い。
 
 生きかはり 死にかはりして打つ田かな
 小鳥このごろ 音もさせずに来て居りぬ
 冬蜂の 死にどころなく歩きけり



 海中(わだなか)に 都ありとぞ 鯖火もゆ   たかし

 この句は、高濱虛子(1874〜1959)に師事し、句誌「ホトトギス」の同人として昭和前期に活躍した俳人松本たかし(1906〜1956)が、昭和28年に足摺岬で詠んだ句です。

 松本たかしは、虚子門下では、川端茅舎(1897〜1941)、中村草田男(1901〜1983)、芝不器男(1903〜1930)に並び称され、平明な言葉で気品に富む美しい句を残したとされています。

 この句については、

 鯖火をみている作者の目には、平家の軍船がありありと映って見えたのであろうか。そして海の底にあるという都の幻も。作者の平家に寄せる思いのしのばれる美しい句である。

 と、福島壺春は評しています。

 この海の都は竜宮ではなく、平家物語の世界であるとされています。
 寿永4年(1185)3月24日、平家が長門國赤間關の壇ノ浦で破れた時、二位の尼(平清盛の継妻)が幼い安徳天皇(1178〜1185、在位1180〜1185)に、「浪の底にも都の候ふぞ」と言い聞かせて入水する、先帝入水のくだりを指しています。

 

 先帝御入水

 位階従二位により、二位尼と称された平清盛の継妻平時子(1126〜1185)は、清盛との間に三男宗盛(1147〜1185)、四男知盛(1152〜1185)、徳子(建礼門院、1155〜1214)、五男重衡(1157〜1185)らを生んでいました。

 

 

 新中納言平知盛

 
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:53Comments(0)物語