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2017年09月22日

奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(2)

  

    葛飾北斎畫 芭蕉之像

    (旧暦8月3日)

    奥の細道、いなかの小道(32)− 一振、邦古の浦(1)のつづき

    ○担籠の藤浪 
    担籠は歌枕で、汐を汲む桶のことを指しますが、地名としては、現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされています。
    同じく『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊には、歌枕『多枯浦』は六首が挙げられています。

    多枯浦   磯   入江   越中   射水郡   駿河同名有

    拾遺夏                    多枯浦の底さへ匂ふ藤波を  かざして行かむ見ぬ人のため            柿本人麿
    新古今雑上             をのが波に同じ末葉ぞしをれぬる  藤咲くたこの恨めしの身や         慈圓
    玉葉雑一                沖つ風吹きこす磯の松が枝に  あまりてかかる多枯の浦藤              前關白左大臣
    新後拾遺雑春          早苗取たこの浦人此ころや  も塩もくまぬ袖ぬらすらむ                   前左兵衛督教定
    新續古今春下          此のころはたこの藤波なみかけて  行てにかさす袖やぬれなむ       土佐門院
        『類字名所和歌集』 巻三

    
  

    『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊 巻三 多枯浦

    多胡の浦  景物  藤を専によめり
        『國花萬葉記』 巻十二

    那古、担籠は、皆越中射水郡の名處にて、那古の湖は、放生津と云。濱町の北に有。名處方角抄には、奈古と書り。なごの海の汐のはやひにあさりにし
    出んと鶴は今ぞ鳴なる。〈此の外古歌多し〉

    担籠は、歌書に多古、多胡等の字を用ゆ。〈たこの二字すみてよむべし。駿河の田子の浦に紛るゝ故なり〉海邊氷見の町の北、布施の湖のほとり、〈布
    施のうみも名處なり〉今田となる。拾遺、多胡のうら底さえ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため、人丸(麻呂)。此藤のかたみとて、今猶しら藤あ
    り。此上の山に、大伴家持の館の跡あり。

    ○友人靑木子鴻の説に、たこは、担籠と書を正字とすべし。担籠は、潮汲桶の名。此處は、海邊なれば担籠にて潮をくみ、焼て塩となす。故に担籠のう
    らと稱す。塩やく浦といふ心也。多古、多胡、多枯等は、皆仮名書なり。駿河の田子の浦も、是に同じ。故に續日本紀ニ、駿河國従五位下楢原造東等、
    於部内廬原郡多枯浦濱獲黃金献之、と有。然れば、たこの浦は、越中、駿河ともに何れの字を用ても苦しからず、と見えたり、といへり。
        『奥細道菅菰抄』 簑笠庵梨一 撰



    ○初秋(はつあき)の哀とふべきものを
    たとい古歌に詠まれている藤の花咲く春ではなくとも、今の初秋の情趣を尋ねて一見すべき値打ちはあろうものを、との意。

    ○蜑の苫ぶき
    漁師の苫葺きの家。

    ○蘆の一夜
    「蘆の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの。

    千載集戀三    難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑ  身をつくしてや戀ひわたるべき    皇嘉門院別當

    ○わせの香や分入右は有磯海

    季語は「早稲」で、秋七月。「わせの香」は、熟した早稲の穂から漂ってくるかすかな香りで、米所越中の国土の豊かさを、細やかな感覚で表したも
    の。

    「有磯海」は「荒磯海」の約で、岩が多く波の荒い海岸を控えた海の意味を表す普通名詞だったが、『萬葉集』などの詠により、歌枕としての固有名詞
    とされるに至ったもの。

  

    有磯海

   
    可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎
    かからむとかねて知りせば越の海の  荒磯の波を見せましものを    大伴宿禰家持

    之夫多尓能 佐伎能安里蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敝於母保由
    澁谿の崎の荒磯に寄する波  いやしくしくに古へ思ほゆ            大伴宿禰家持

    伏木の浦は、奈古の入江に續きて、北の方は有磯の濱近し。此處よりすべてありそ海といふなるべし。
        『白扇集』寶永六年刊 浪化上人

 
    ○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川
    也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不
    快同然。
        『曾良旅日記』


  旧暦七月十四日(陽暦八月二十八日)、快晴で残暑が厳しい中、芭蕉翁一行は滑川を出立して北國街道を西進し、上市川を徒歩で渡りました。滑川の次の宿場水橋は、北前船や千石船(辨財船)の寄港地水橋湊として重要な海運港でした。

  曾良は「富山カヽラズシテ」と記しているように、水橋から富山城下への道はとらずに、白石川を渡り、水橋辻ヶ堂から海岸に沿って氷見まで通ずる「濱街道」を通り、常願寺川を舟で渡って東岩瀬に向かいました。

  神通川河口の岩瀬は、江戸期には加賀藩の御蔵が置かれ、北前船で米や木材などを大阪や江戸などに運んでいました。

  そしてこの旧上新川郡東岩瀬町より旧上新川郡浜黒崎村横越に及ぶ富山湾沿いの海浜に面する総計約二里の「古志の松原」は、慶長六年(1601)に加賀藩第二代藩主前田利長(1562 〜1614)がその植樹を命じたもので、かつてのこの一帯は「越中舞子」と呼ばれる白砂青松の風光明媚な景勝地でした。

  一行は東岩瀬宿から神通川を舟で渡り、四方、海老江の集落を経て放生津に到り、放生津八幡宮を参詣しました。
  放生津の北の「越の海」一帯が放生津潟(越の潟)で、古くは「奈呉浦」と呼ばれ、伏木の浦から西方氷見に至る一帯が有磯海と考えられています。
  放生津の放生津八幡宮(射水市八幡町二丁目)は社伝によれば、天平十八年(746)、越中國司大伴家持(718頃〜785)が豊前國宇佐八幡宮から勧請した奈呉八幡宮を創始として、嘉暦三年(1328)に放生津の地名が定められ、以降、放生津八幡宮として現在に至っていると伝えられています。
 
  大伴家持は二十九歳の天平十八年(746)七月、國司として越中國に赴任し、その雄大な自然と風土にふれて、天平勝寶三年(751)までの在任五年間で、二百二十余首の歌を詠み、奈呉、奈呉の海、奈呉の江、奈呉の浦を詠んだ秀歌を残しています。

  芭蕉の越中歌枕探訪は、大伴家持の歌を追憶するに留まり、同席して俳諧を楽しむ者に出会うこともなかったので、歌枕の一つ「有磯海」を句に詠むのが精々の慰めであったのであろうかとの解説もあります。

  放生津八幡宮に参詣し、奈呉の浦の風景を楽しんだ芭蕉翁一行は濱街道を西に進み、庄川や小矢部川を舟で渡り、歌枕の二上山(高岡市)や担籠藤波神社(氷見市下田子)に行く予定でありましたが、そこは漁師の粗末な茅葺きの家ばかりで、一夜の宿を貸す者もいないと言い脅されたので、断念して加賀國に入ったと本文に書き記しています。

  芭蕉翁一行が訪れることを断念した担籠藤波神社は、かつては潟湖の岸辺にあったと云い、現在は雨晴海岸(高岡市太田)あたりから3㎞ほど内陸に入った下田子の藤山という丘陵に鎮座しています。
  この古社は、天平十八年(746)、越中國司大伴家持に従ってきた橘正長が、家持から授けられた太刀を天照大神祭の霊代として奉納し、劔社と名付けて創始したのがはじまりと伝えられています。

  このあたりは、『萬葉集』に出てくる「布勢の水海」の入江の一つで、田子浦(多胡の浦)という歌枕にもなっており、古来から藤の名所でもありました。

    十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花  各述懐作歌四首
    藤奈美乃  影成海之  底清美  之都久石乎毛  珠等曾吾見流

    藤波の影なす海の底清み  沈(しづ)く石をも  玉とぞ我が見る     守大伴宿祢家持

  田子浦は、かつては田子の白藤の群生地として知られ、藤の精が現れて舞を舞って暁とともに消えて行くという、謡曲『藤』の舞台でもありました。

  田子浦は現在、雨晴海岸と呼ばれていますが、此の由来は、文治三年(1187)、源義経(1159〜1189)が北陸路を経て奥州平泉へ下向する際にこの地を通りかかったときに俄雨に遭い、弁慶が岩を持ち上げて義経を雨宿りさせたという伝説から来た名称だと云われています。

  海岸には女岩、男岩などが点在し、越の海越しに雄大な立山の山並みを背景にして、絶景を作り出しています。越中國司として伏木に在住した大伴家持が、此の絶景を詠んだ多くの和歌が『萬葉集』に収められています。

    馬並氐  伊射宇知由可奈  思夫多尓能  欲吉伊蘇未尓  与須流奈弥見尓
    馬並めていざ打ち行かな澁谿の  清き磯廻に寄する波見に     守大伴宿祢家持

  芭蕉翁一行は萬葉の故地として、かねてより心を寄せていた田子浦を訪ねようとしましたが果たせず、諦めて庄川を舟で渡って六度寺に入り、道を南西に向かい、右手に歌枕の二上山を遠望しながら、吉久、能町を経て、申ノ上刻(午後四時頃)に高岡に着き、旅篭町に宿をとりました。

  曾良は、「翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。小□同然。」と記しています。□は原文難読で、残暑の酷しい中を十里弱歩き続けたため、体調を崩してしまったのかもしれません。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:46Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年09月19日

奥の細道、いなかの小道(32)− 一振、邦古の浦(1)

    

      正岡子規(1867〜1902)


    (旧暦7月29日)

  子規忌、糸瓜忌、獺祭忌
  俳人、歌人の正岡子規(1867〜1902)明治三十五年(1902)九月十九日の忌日。辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたことから獺祭忌とも呼ばれる。

  芭蕉翁一行は糸魚川を昼過ぎに出立し、難所の子不知、親不知を通って申ノ中尅(午後4時頃)には市振の旅籠桔梗屋(脇本陣)に到着しているので、糸魚川〜市振間の約五里ほどを4時間弱で踏破したことになるのでしょうか、相当の健脚と云わねばなりますまい。

      〈一 振〉
      今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北國一の難處を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声 
      二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の國新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此關までおのこの送りて、あ
      すは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
      日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れ
      ば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は
      所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。
            一家に遊女もねたり萩と月
      曾良にかたれば、書とゞめ侍る。

   
    

       市  振

  『おくのほそ道』のこの文章は、芭蕉の創作ではないかと推定されています。曾良の旅日記にも市振宿で遊女と出会った記録はなく、『俳諧書留』にもこの句は収載されていません。

  この遊女との出会いの物語は、謡曲「山姥」(世阿彌作)を下敷きに創作したのではないかと考えられています。

      都に山姥の山廻りの曲舞(くせまい)で有名な百萬(ひゃくま)山姥と呼ばれる白拍子がいた。
      ある時、百萬山姥が信濃國善光寺に参詣を思い立ち、従者を連れて旅に出た。途中、越後の上路(あげろ)という山路にさしかかったところで急に
      日が暮れてしまい、途方に暮れていると一人の女が現れ、一夜の宿を提供するからと山中の我が家へ一行を案内する。家に着くとその女は、実は 
      自分が山姥の霊であることを明かし、百萬山姥が曲舞で名を馳せながら、その本人を心に掛けないことが恨めしい、と言う。


      道を極め名を立てて、世上萬徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声佛事をもなし給は 
      ば、などかわらはも輪廻を免れ、歸性の善處に至らざらん


      ここで百万山姥の曲舞を聞いてこの妄執を晴らしたい、と歌の一節を所望してその姿を消す。

      我國々の山廻り。今日しもここに來るは。我が名の徳を來かん爲なり。謡い給いてさりとては。我が妄執を晴らし給え。

      百萬山姥が約束通り、山姥の曲舞を始めると真の山姥が姿を現する。そして本当の山姥の生き様を物語り、山廻りの様を見せるが、いつしか峰を翔
      リ、谷を渡って行く方知れず消え失せる。 
          宝生流謡曲 「山 姥」


    

    山姥  『畫圖百鬼夜行』  安永五年(1776)刊  鳥山石燕

  この舞台となっている「上路越え」は、親不知の海道が通れない非常時に使われた険しい峠道となっています。芭蕉はこの謡曲を知っていたので、後年、『おくのほそ道』の起稿に際して、加筆した虚構の一つと考えられています。

  さて、市振宿での遊女との出会いが創作ではないかと考えられていることについては、以下のような理由によることだそうです。

    face01①  当時の時代背景を考慮すると、遊女二人だけで伊勢参宮のために長旅をすると云うことはありえない。

    face02②  遊女にそのような旅をする資金や暇があったとは思えず、仮にあったとしても、女性だけの旅には特に厳しかった時代である。

    face03③  市振は越後・越中の国境の宿場であり、芭蕉應一行が泊まった宿は脇本陣の旅籠桔梗屋で、身分制度の厳しい時代に遊女が脇本陣に泊まるとは考えられない。

    face05④  元禄二年(1689)は伊勢神宮の式年遷宮があった年で、『おくのほそ道』の終章「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと」に関わりを持たせるために、「越後の國新潟と云處の遊女成し。伊勢参宮するとて」を創作挿入したのであろうか。

      ○白浪のよする汀に
      湊町新潟を叙情的に表したもので、『和漢朗詠集』遊女の下記の歌を踏まえたものとされています。
 
      しらなみのよするなぎさに世をすぐす あまのこなればやどもさだめず
                      読人不知
            下巻 雜 遊女

 
      ○定めなき契り
      夜ごとに変わる相手に身を任せることで、『撰集抄』巻九第八話「江口遊女事」を下敷きにしているとのこと。

      心は旅人の行き來の船を思ふ遊女のありさま、「いとあはれに、はかなきものかな」と見立てりし
            撰集抄 巻九第八話 江口遊女事



      ○日々の業因
      罪な日々を送るべく定められた前世の因縁のことで、謡曲『江口』の内容を踏まえているか。
   
      シテ     然るに我等たまたま受け難き人身を受けたりといへども
      地        罪業深き身と生まれ、殊にためし少き川竹の流れの女となる。さきの世乃報いまで、思ひやるこそ悲しけれ
            謡曲  江口

      ○行衛しらぬ旅路
      前途の道筋もよくわからぬ道中のことで、謡曲『江口』の次の一節をかすかにひびかせているとのこと。

      地    來世なほ來世。更に世々(せぜ)の終りを辨(わきも)ふる事なし
            謡曲  江口


      ○見えがくれにも
      「そばに遊女がついて行くのもご迷惑でしょうから、せめては見えたり隠れたりの、つかず離れずの形ででも」との意で、これも謡曲『江口』の次の一説によるものか。

      シテ    黄昏に、たゝずむ影はほのぼのと、見え隠れなる川隈に、江口の流れの君とや見えん恥かしや
            謡曲  江口


      ○神明の加護
      伊勢参宮に関係付けて、特に皇大神宮(内宮)の助けを云い、謡曲『斑女』の一節が投影されているものか。

      地    置處いづくならまし身のゆくへ
      地    心だに誠の道にかないなば。誠の道にかないなば。祈らずとても。神や守らん我等まで真如の月は雲らじを。
            謡曲  斑女



      ○結縁せさせ給へ
      仏法と縁を結ぶことで、謡曲『田村』の次の一節に基づくか。

      後シテ    あら有難の御經やな。清水寺の瀧つ波。一河の流を汲んで。他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則ち大慈大悲の、
                   観音擁護の結縁たり。
            謡曲  田村


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:51おくの細道、いなかの小道

2017年09月10日

奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    

    向井去來(1651〜1704)

    (旧暦7月23日)

    去來忌
    江戸前期の俳人向井去來(1651〜1704)の寶永元年(1704)旧暦九月十日の忌日。 蕉門十哲の一人で、儒医・本草学者の向井元升
    (1609〜1677)の次男として肥前国 (長崎市興善町)に生まれる。陰陽道などの学をもって堂上家に仕え、貞享年間 (1684~1688) 頃、寶井其  
    角(1661〜1707)を介して芭蕉に入門。洛西嵯峨野の落柿舎に住み、元禄四年 (1691) 年、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。同年、野沢凡兆
    (1640〜1714)と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。篤実な人柄で同門の人々にも尊敬され、芭蕉も最も信頼して「鎮西の俳諧奉行」といっ
    たという。

        秋風や白木の弓に弦はらん
        湖の水まさりけり五月雨
        をととひはあの山越つ花盛り
        尾頭のこころもとなき海鼠哉
        螢火や吹とばされて鳰の闇
        鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
        應々といへど敲くや雪の門
        岩鼻やここにもひとり月の客


    奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)のつづき

        ○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎ニ、天や彌惣兵衛へ彌三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不 
            快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至ニ鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月五日(陽暦八月十九日)、昨夜からの雨が止んだので、芭蕉翁一行は辰ノ上刻(午前八時頃)、柏崎へ向かって出立しました。
    北國街道は海沿いに続き、石地、長磯の集落を過ぎると、前歩に海に突き出した観音崎が見えます。岬の南側の坂を下ったところが椎谷で、遠くに越後富士と称される三角形の米山(標高993m)が望まれます。

    当時の椎谷は、上総八幡藩一萬石初代藩主堀直良(1643〜1691)の領地でした。椎谷から宮川、大湊、荒濱の間の二里半ほどの海浜は「越の高濱」と呼ばれ、特に大湊から荒濱にかけては、標高70mを超す有数の大砂丘であったそうです。

    芭蕉翁一行は雨の中を九里程歩いて、申ノ下尅(午後四時頃)に柏崎に着き、天屋彌惣兵衞邸を訪ね、象潟で知り合った美濃の國の商人宮部彌三郎(俳号は低身)の紹介状を示して、一夜の宿を請いました。
    しかし、天屋彌惣兵衞に不愉快な扱いを受けた芭蕉は、激怒して彌惣兵衞邸を出て行ってしまいました。後で俳人芭蕉であることに気づいたのか、使用人が二度も追いかけてきて不手際を詫びましたが、芭蕉はそのまま雨の降る中を次の宿場の鉢崎へ歩いて行ってしまいました。

    天屋は柏崎の大庄屋で、本姓は市川氏、当主の彌惣兵衛は江戸前期の歌人、俳人北村季吟(1625〜1705)門下の俳人で笑哉と称していました。

    

    天保國繪圖    越後國    高田長岡領
 
    柏崎は北國街道の宿場町だけでなく、北前船の寄港地や小千谷や十日町といった内陸部との間に高田街道が延びる交通の要衝として繁栄していました。
    高田藩の所領以降は白河藩、桑名藩と変遷しましたが、領主は松平越中守の代々支配が変わらず、享保元年(1741)、大久保には陣屋が設けられ、領内221カ村の総支配所として柏崎は周囲の行政的な中心地ともなっていきました。

    一行は柏崎の街を西へ向かい、鵜川に架かる橋を渡って鯨波を通り、海岸沿いの道を進んで青海川の深い渓谷を渡り、笠島集落を過ぎると米山峠にさしかかります。下り上りを繰り返して上輪の亀割坂を越え、聖ヶ鼻のあたりから坂を下ると鉢崎(柏崎市米山町)で、入口には関所がありました。一行は小雨の降る中を、柏崎からさらに四里程歩いて、酉の刻(午後六時頃)、俵屋六郎兵衛という旅籠に投宿しました。

    一行は出雲崎から十三里弱も歩き、おくの細道行脚の中では最長の歩行距離を踏破しました。なお、俵屋は代々庄屋で、三百年以上も前から鉢崎で栄えた旧家でしたが、今はその跡は空き地になり、たわら屋跡の標注が立つのみになっています。

        ○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ彌三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ 
            走ス。不レ歸。及再三、折節雨降出ル故、幸ト歸ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各來ル。発句有。

        ○七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ被レ招。再三辞ス。強招クニ及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨
            甚。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月六日(陽暦八月二十日)、昨日は出雲崎から鉢崎まで十三里弱の長距離を歩いた芭蕉翁一行は、雨が降っていたので晴れるのを待って俵屋で休養し、昼時に今町(直江津)へ向かって出立しました。
 
    一行は北國街道を南下して行きましたが、このあたりは往時、さい濱と呼ばれた砂礫の悪路で、土地の人々は歯のない下駄を履いて歩いたといいます。
 柿崎、上下濱、潟町、荒濱を過ぎて黒井宿では、旅籠の傳兵衞方で休憩しました。
 
    黒井宿を出て関川を舟で渡ると、今町(直江津)に着き、宿所と予定していた浄土真宗大谷派の聴信寺を訪ね、美濃の國の商人宮部彌三郎の紹介状を示しましたが、住持は「忌中」を理由に宿泊を拒みました。

    芭蕉らは強いて頼まずに寺を出たところで、其れを聞いていた石井善次郎という人が寺と交渉してくれ、さらに人を走らせて、今町で泊まるように再三にわたり引き止めました。曾良は「不レ歸」と強い怒りを現していますが、折節雨が降ってきたので、寺近くの古川市左衛門宅(旅籠松屋)に泊まることになりました。

    夜になって今町の聯衆が松屋に集まり、さっそく俳筵興行が開催され、芭蕉は七夕の前日を意識した発句を披露しましたが、二十句で終了し、「歌仙」(三十六句)は満尾しませんでした。

            文月や六日も常の夜には似ず     はせを

    この俳筵に参加した義年は旅籠松屋の主人古川市左衛門で、芭蕉らの宿泊を断った忌中のはずの聴信寺の住持眠鴎も同座していました。
 
    翌旧暦七月七日(陽暦八月二十一日)、この日は七夕の日でしたが、朝から雨でした。芭蕉翁一行は、雨が止まないので出立を見合わせていると、忌中のはずの聴信寺から招待されました。
    曾良は「再三辞ス」と記していますが、強く招かれたので仕方なく赴き、夕刻まで聴信寺に滞在してしまいました。

    この夜、地元の俳人で医師の佐藤右雪宅に招かれ、右雪の
            星今宵師に駒ひいてとゞめたし
を発句に、曾良、芭蕉、棟雪(細川春庵)、更也(鈴木與兵衛)らで五吟歌仙興行が開催されましたが、完結しませんでした。この夜、一行は佐藤右雪宅に一泊しましたが、夜中は風雨が激しく打ち付けていました。
 
        ○八日 雨止。欲レ立。強テ止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下剋、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ來ル。春庵へ不レ寄シテ、先、
            池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状來ル。頓テ尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
 
        ○九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。
 
        ○十日 折々小雨。中桐甚四良へ被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ歸。夕方ヨリ晴。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月八日(陽暦八月二十二日)、朝になって雨が上がり、一行は今町を出立して高田へ向かおうとしていましたが、石塚喜衛門(左栗)に強く引き止められ、別れの馳走を相伴しました。

    饗応が済んで出立の際、
            行く月をとゞめかねたる兎哉             此竹
            七夕や又も往還の水方深く              左栗

との餞別句が贈られました。

    当時の高田は、相模小田原藩主で京都所司代を罷免された稲葉正往(正通:1640〜1716)が、貞享二年(1685)十二月に十万三千石で移封されて再び高田藩を立藩してより三年余でした。
    北國街道はその政策上、高田城下を通過するようになっており、また、この先の越中との国境に設けられた市振関所は高田藩が所管しており、通過するには通行手形をもらう必要がありました。

    芭蕉翁一行が高田に赴いた理由は、通行手形を貰う必要と医師で俳人の細川春庵の招待があったからでした。

    一行は今町から北国街道を南下して、木田、木田新田、藤新田を経て、未ノ下剋(午後三時頃)に高田に到着しました。
    細川春庵から使いの人が迎えに来ましたが、寄大工町の春庵宅には寄らずに、宿を頼むことになっていた池田六左衛門(俳諧を嗜む町年寄)宅に赴いたところ、来客があり、やむなく近くの寺で休息しました。そこに細川春庵より書簡が届いたので、春庵宅を訪ねました。

    

    天保國繪圖    越後國    高田領

    春庵宅で草鞋を脱ぐと、地元の俳人鈴木與左衛門(俳号は更也)を交えて四吟歌仙を開催し、芭蕉の発句を春庵への挨拶として
            藥欄にいづれの花をくさ枕       翁
の句で興行が始まりました。

    藥欄は薬草園のことで、芭蕉は挨拶として春庵の薬草園の花を褒めただけではなく、其れが病気を治す薬草であり、春庵が医師であることの安心の気持ちを上品な洒落を込めて表したのであると解説されています。

    その後、宿所と決めていた池田六左衛門が、息子の甚左衛門を使いによこしたので面会し、春庵宅に泊めてもらうからと宿所を断り、息子を帰しました。

    翌旧暦七月九日(陽暦八月二十三日)は、一日中小雨が降ったり止んだりしていました。
    曾良は、「俳、歌仙終。」と記していますが、『俳諧書留』には後続の句が記載されておらず、四吟歌仙は満尾しなかったものと解されています。

    旧暦七月十日(陽暦八月二十四日)、この日も時々小雨が降りましたが、夕方から晴れました。中桐甚四良(詳細不明)宅に招かれ歌仙一折(未詳)があったと云いますが、句は残されていません。夜になって、池田六左衛門宅へ帰りました。

    ちなみに、昔は歌仙を懐紙二枚に書き留め、一枚目を初折、二枚目を名残の折とか後(のち)の折と呼んだそうです。
    懐紙を折り、両面に句を書き留めますが、二枚あるので四面となり第一面を初折の表、第二面を初折の裏、二枚目の第三面を名残(後)の表、第四面を名残(後)の裏と呼びました。

    芭蕉翁一行は今町に二泊、高田に三泊し、越後路においては一番長い滞在でしたが、度重なる歌仙は満尾できず、今町や高田における芭蕉の足跡は印象の薄いものになっています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:08Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年09月09日

奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)

    

      Artist's impression of the Milky Way.
      This detailed annotated artist’s impression shows the structure of the Milky Way, including the location of the spiral arms and other  components such as the bulge. This version of the image has been updated to include the most recent mapping of the shape of the central bulge deduced from survey data from ESO’s VISTA telescope at the Paranal Observatory.

   (旧暦閏7月19日)

    平成十九年(2007)五月十二日から始めた「奥の細道、いなかの小道」の旅は、十年経っても全行程の七割五分が終わった程度で、いつになったら終わるのか覚束なく、これからは精力的に取り組んで参る固い決意でございます。

      酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。鼠の關をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中
      の國一ぶりの關にいたる。此間九日、暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。
 
        文月や六日も常の夜には似ず 
        荒海や佐渡によこたふ天河


    酒田から百三十里彼方の加賀の府金澤を目指して旅立った芭蕉翁一行ですが、『おくのほそ道』本文には、その間の記載は越後路、一振、那古の浦の三章しかなく、「これは早く進むので楽勝か」と思いきや、『曾良旅日記』を参照すれば、鼠ヶ關、中村(北中)、村上、築地、新潟、彌彦、寺泊、出雲崎、柏崎、鉢崎(米山)、今町(直江津)、高田、能生、糸魚川、親不知、市振と越後路には実際には十五日間を要しており、全く「暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。」と芭蕉翁が記したとおりの大変な道中であったのですねえ。

    ああ、しんど!

     ○廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ關被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿
        ス。
          『曾良旅日記』


    旧暦六月二十七日(陽暦八月十二日)、出羽に別れを告げ、芭蕉翁は馬に乗って鼠ヶ關を目指しましたが、曾良は半里ほど山側の湯温海に立ち寄り見物することになりました。
    芭蕉翁は濱温海から海岸沿いに南下して、大岩川、小岩川、早田(わさだ)などの集落を経て、鼠ヶ關に到りました。

    念珠關は、白河關、勿来關と並んで奥州三古關の一つで、和銅五年(712)、出羽國念珠關村大字鼠ヶ關の鼻喰岩付近の要害の地に設置され、後に南の浦沢に、さらに江戸期になって現在地に移されています。

    江戸期には鼠ヶ關口留御番所と称し、鼠の印を用いていたと云います。關守は、慶長年間(1596〜1615)から代々佐藤氏がつとめ、元和八年(1622)、庄内藩主酒井氏が領有することになると、目付役と足軽二人、それに佐藤氏によって守られていました。なおこの関所には、唐船場や大筒場があって沖を航行する船も監視していたと云います。

    鼠ヶ關を過ぎて羽州濱街道を南下し、中濱、岩崎、府屋を経て勝木に至ると羽州濱街道は山間部に入り、勝木川に沿って上大藏、下大鳥、上大鳥、中津原を経て、中村に(北中)至ります。
    芭蕉翁一行は、暮れに及んで中村に到着しました。中村は、江戸時代には出羽街道と羽州濱海道の表裏二街道が合流する宿場であり、かなりの賑わいであったと云います。
 
      ○二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲萄(名ニ立程ノ無レ難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵來テ逢。彦左
          衛門ヲ同道ス。
            『曾良旅日記』


    旧暦六月二十八日(陽暦八月十三日)、芭蕉翁一行は難所とされた葡萄峠を越えるために早朝に出立し、出羽街道を村上に向かいました。中村より大毎を経て半里ほどで大澤、ここから大澤峠を越えて矢向明神を過ぎ、さらに葡萄峠を越えて行きましたが、葡萄峠はそれほど険しい峠ではなかったようです。
    しかし、芭蕉翁一行が通過してから約百年後の天明六年(1786)三月、この地を訪れた京の儒醫橘南谿(1753〜1805)はその紀行『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」の中で、以下のように記しています。

      抑此葡萄峠は羽越の界にて、山の間甚だ深く、雪中のみならず、四時とも旅人の難儀する所也。此峠昔強盗の出でて旅人あまた殺害し、今も往來
      の人の恐るる所也。
          『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」 橘南谿

 
    葡萄峠を越え、葡萄の宿場から長坂峠を越えて緩やかな下り坂を下り、大須戸、旧宿場の塩野町、早稲田、板屋越、檜原、猿澤、鵜渡路の集落を経て、下中島で三面川の「お宮の渡し」を渡り、出羽街道の出口山辺里を抜けて三面川の支流門前川に架かる山辺里橋を渡ると、村上城下の片町に至ります。

    


    芭蕉翁一行は申ノ上刻(午後四時頃)、村上城下小町の旅籠大和屋久左衛門宅(井筒屋旅館)に草鞋を脱ぎました。曾良は旅籠に着くと、城代家老榊原帶刀邸に村上到着を知らせました。
    すると、旧知の喜兵衛(斎藤氏)、友右衛門(加藤氏)、彦左衛門(黒田氏)らが旅籠に来たので、榊原帶刀邸に挨拶のために出かけました。

    芭蕉翁一行が訪れた村上は、村上藩榊原氏十五萬石の城下町で、村上藩第二代藩主従五位下式部大輔勝乘(1675〜1726)はまだ十五歳であったため、入封することなく江戸藩邸(現首相官邸の場所)に居住しており、藩主の一族の榊原帶刀直榮(なおひさ)が城代家老として務めていました。
    榊原帶刀直榮は、徳川四天王の一人として名高い上野國初代館林藩主榊原康政(1548〜1606)の兄清政(1546〜1607)の家系から出ている家柄で、二千四百石を領していました。

    

        天保國繪圖    越後國    新發田村上領 

      ○廿九日 天気吉。昼時喜兵・友兵來テ(帶刀公ヨリ百疋給)、光榮寺へ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。歸、冷麥持賞。未ノ下
          尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。歸、喜兵御隠居ヨリ被レ下物、山野等ヨリ之奇物持參。又御隠居ヨリ重之内被レ下。友右ヨリ瓜、喜兵内
          ヨリ干菓子等贈。
            『曾良旅日記』


    翌旧暦六月二十九日(陽暦八月十四日)、前日に曾良が城代家老榊原帶刀に父君大學良兼の墓参を申しので、昼時に斎藤喜兵衛、加藤友右衛門が帶刀からの餞別金子百疋(1/4兩、約3万円程度)を持参し、ともに菩提寺の光榮寺に赴き墓参を行いました。

    城代家老榊原帶刀の父榊原大學良兼は伊勢長島藩初代藩主松平良尚(1623〜1696)の四男で、寛文九年(1669)、十五歳の時に一族の榊原外記直久の養嗣子となり、貞享四年(1687)七月二十九日に三十三歳で村上で没し、大乘院法岩一燈居士と諡され、榊原家の国附菩提寺光榮寺に埋葬されていました。

    河合曾良(1649〜1710)は、かつて伊勢長島の城主松平佐渡守良尚(後に康尚と改め、六十二歳の時致仕を許され全入と號す)の家士でした。榊原大學良兼は、曾良にとっては旧主家の嫡子でありました。曾良が、この旅で芭蕉に同行した理由のひとつがこの一燈への墓参だったと言われています。

    ちなみに曾良は天和元年(1681)頃に長島藩を致仕し、江戸に居を移して、天和二年(1682)に幕府神道方となった吉川惟足(1616〜1695)のもとで吉川神道を学び、延喜式、古事記、日本書紀、萬葉集などで国学の知識も身につけました。さらに地誌も学んだことにより、この学問が「おくのほそ道」の旅で最大限に発揮されたとされています。

    光榮寺墓参の帰り道に旧知の鈴木治部右衛門に出会い、宿で冷や麦の持て成しを受けました。
    未ノ下尅(午後二時半頃)、曾良らは宿の主人の久左衛門に案内されて、当時湊町として栄えていた瀬波へ出かけました。

    村上城下から瀬波への道は松並木八町といわれ、概ね半里、砂丘まで平坦な地が続き、瀬波は村上の別墅とされていました。その砂丘に立てば、全面に日本海が広がり、右手に粟島、左手に佐渡を望み、遠く海岸線の果てに彌彦、角田を眺め、松嶺を聴く景勝地でした。一行は、三面川河口に建つ多岐神社(祭神は多岐津島姫)を参詣したのかもしれません。

    一行が宿に帰ると、斎藤喜兵衛が御隠居からの下され物として「山野等ヨリ之奇物」を持参してきました。また、御隠居から重箱入りのご馳走が届けられました。この御隠居が誰であるかは不明とのことです。さらに、加藤友右衛門からは甘瓜、斎藤喜兵衛の内儀からは干菓子などが送られました。
 
      一 七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。喜兵・太左衛門ハ被レ見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ
          下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙寶寺へ同道、歸テつゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙寶寺參詣前大雨ス。即刻止。申ノ上
          剋、雨降出。及レ暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。
            『曾良旅日記』


    旧暦七月朔日(陽暦八月十五日)、曾良と旧知の斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)黑田彦左衛門、加藤友右衛門らが宿に訪れました。曾良たちは朝のうちに榊原家の菩提寺泰叟院へ参詣しました。

    泰叟院は歴代藩主の菩提寺で、享保二年(1717)に上野高崎藩から越後村上藩へ転封された間部詮房(1666〜1720)が村上で死去すると菩提寺である浄念寺に葬られ、墓碑と御霊屋が設けられています。
    間部詮房は、六代将軍徳川家宣(在任:1709〜1712)と七代将軍徳川家継(在任:1713〜1716)に仕え、所謂「正徳の治」を断行し側用人(老中格)などの幕府要職を歴任しましたが、八代将軍に徳川吉宗(在任:1716〜1745)が就任すると政争に破れ、事実上の左遷として村上藩に配されています。
 
    芭蕉翁一行は斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)らに見送られて、巳ノ尅(午前十時頃)に村上を出立し、築地へ向かいました。途中、岩船三日市の岩船神社に参詣したものと思われていますが、定かではないようです。
    岩船神社は延喜式の磐舟郡八座の筆頭に記されており、祭神は岩船社としての饒速日命(にぎはやひのみこと)、貴船社としての罔象女神(みつはのめのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、闇靇神(くらおかみのかみ)の四神と云うことです。

    一行は、石川に架かる明神橋を渡り、松林の中のお幕場道を抜けて、岩船、北新保を経て塩谷に出ました。ここから荒川を舟で渡ると桃崎濱で、北國濱街道は日本海の海岸に沿って新潟に伸びていますが、芭蕉翁一行は濱街道から離れ、まっすぐに南下して乙(きのと)村の次作という者を訪ねました。

    次作がどのような人物であったかは不明ですが、一行を大変歓待し、その後、次作の案内で乙寶寺に参詣しました。

    

    北國一覧寫    蒲原郡乙村乙寶寺    天保二年(1831)    長谷川雪旦(1778~1843)
 
    乙寶寺は天平八年(736)、第四十五代聖武天皇(在位:724〜749)の勅願を受けて行基菩薩(668〜749)と婆羅門僧正の菩提僊那の二人の高僧によって開山されましたが、その際に釈尊の両眼の舎利を請来した菩提僊那が、右目の舎利は中国の寺に、左目の舎利は当寺へと甲乙に分けて供養したことから、彼の国の寺は「甲寺」、此の国の寺は「乙寺」と名付けられたとの伝承です。

    その後、後白河院(1127〜1192)より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「寶」の一文字を与えられ爾来、乙寶寺と名前を変えて現在に至っています。一山に一千の僧坊があり平安中期の国使紀躬高の尊信篤く、また上杉家から寺領百石を与えられ、後の元和三年(1617)、時の村上城主村上義明(?〜1604)から寺領百石を寄贈されています。

      今昔、越後の國三島の郡に、乙寺と云ふ寺有り。其の寺に一人の僧住して、昼夜に法華經を読誦するを以て役として、他の亊無し。而る間、二の猿
      出来て、堂の前に有る木に居て、此の僧の法華經を読誦するを聞く。朝には來て、夕には去る。此如く爲る亊、既に三月許に成ぬるに、日毎に闕か
      さずして、同様なる居て聞く。僧、此の亊を怪み思て、猿の許に近く行て、猿に向て云く、「汝ぢ猿は月來此如く來て、此の木に居て經を読誦する
      を聞く。若し、法華經を読誦せむと思ふか」と。猿、僧に向て、頭を振て受けぬ気色也。僧、亦云く、「若し、經を書寫せむと思ふか」と。其の時
      に、猿、喜べる気色にて、僧、此れを見て云く、「汝ぢ、若し經を書寫せむと思はば、我れ、汝等が爲に経を書寫せむ」と。猿、此れを聞て、口
      を動して、尚、かゝめきて喜べる気色にて、木より下て去ぬ。

      其の後、五六日許を經て、数百の猿、皆物を負て持來て、僧の前に置く。見れば、木の皮を多く剥ぎ集めて持來て置く也けり。僧、此れを見るに、
      「『前に云ひし經の料の紙漉け』と思ひたる也けり」と心得て、奇異に思ゆる物、貴き亊限無し。

      其の後、木の皮を以て紙に漉きて、吉き日撰び定めて、法華經を書き始め奉る。始むる日より、此の二の猿、日毎に闕かさず來る。或る時には、署
      預・野老を掘て持來る。或る時には、栗・柿・梨・棗等を拾て持來て、僧に与ふ。僧、此れを見るに、「彌よ奇異也」と思ふ。

      此の經、既に五巻を書き奉る時に成て、此の二の猿、一両日見えず。「何なる亊の有るにか」と怪び思て、寺の近き邊に出でて、山林を廻て見
      るに、此の二の猿、林の中に署預を多く掘り置て、土の穴に頭を指入て、二つ乍ら同じ様に死て臥せり。僧、此れを見て、涙を流して泣き悲むで、
      猿の屍に向て法華經を読誦し、念佛を唱へて、猿の後世を訪けり。

      其の後、僧、彼の猿の誂へし法華經を書畢てずして、仏の御前の柱を刻て籠め置き奉つ。

      其の後、四十余年を經たり。其の時に藤原の子高の朝臣と云ふ人、承平四年と云ふ年、当國の守と成て、既に國に下ぬ。國府に着て後、未だ神事を
      も拝せず、公事をも始めざる前に、先づ夫妻共に三島の郡に入る。共の人も館の人も、「何の故有て、此の郡には怱ぎ入給ふらむ」と怪び思ふに、
      守、國寺に参ぬ。住僧を召出でて問て云く、「若し、此の寺に書畢てざる法華經や御ます」と。僧共、驚て尋ぬるに、御まさず。

      其の時に、彼の經を書きし持經者、年八十余にして、老耄し乍ら、未だ生て有けり。出來て守に申して云く、「昔し、若かりし時、二の猿来て、
      然々して教へて書かしめたりし法華經御ます」と申て、昔の亊を落さず語る時に、守、大に喜て、老僧を礼て云く、「速に其の經を取出し奉るべ
      し。我れは、彼の經を書き畢奉らむが爲に人界に生れて、此の國の守と任ぜり。彼の二の猿と云ふは、今の我等が身、此れ也。前生に猿の身とし
      て、持經者の読誦せりし法華經を聞しに依て、心を發して『法華を書寫せむ』と思ひしに、聖人の力に依て法華を書寫す。然れば、我等聖人の弟子
      也。専に貴び敬ふべし。此の守に任ずる、輙き縁に非ず。極て有難き亊也と云へども、偏へに此の經を書き畢奉らむが故也。願くは、聖人、速かに
      此の經を書き畢奉て、我が願を満よ」と。老僧、此の亊を聞て、涙を流す亊雨の如し。即ち、經を取出し奉て、心を一にして書畢奉つ。
   
      守、亦三千部の法華經を書き奉て、彼の經に副へて、一日法會を儲て、法の如く供養し奉てけり。

      老僧は此の經を書奉れる力に依て、浄土に生れにけり。二の猿、法華經を聞しに依て、願を發して、猿の身を棄てて人界に生れて、國の司と任ず。夫
      妻共に宿願を遂て、法華經を書寫し奉れり。其の後、道心を發して、彌よ善根を修す。実に此れ希有の亊也。

      畜生也と云へども、深き心を發せるに依て、宿願を遂る亊此如し。世の人、此れを知て、深き心を發すべしとなむ、語り伝へたるとや。
          『今昔物語』巻十四第六話 越後國乙寺僧爲猿寫法華語 第六


    芭蕉が乙寶寺を参詣したのは、酒田の伊東不玉の勧めがあったからとされています。不玉はかつてこの寺を訪れて、
      三越路や乙の寺のはなざかり
という句を作り、芭蕉が酒田滞在中に批評を乞うたからと云うことです。

    乙寶寺参詣後、乙(きのと)村の次作は築地村の息子次市郎宛てに紹介状を書いてくれました。

    一行は羽州濱街道を南下し、大出を過ぎて胎内川を渡り、高畑を過ぎるとまもなく築地に到りました。

    芭蕉翁一行は村上の斎藤喜兵衛から築地の大庄屋七郎兵衛の紹介状をもらっていましたが、乙(きのと)村の次作が築地村の息子次市郎に宿泊の依頼状を書いてくれたので、斎藤喜兵衛の紹介状は不要となりました。
 
    一行が次市郎宅に着いたときには、日が暮れていました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:33おくの細道、いなかの小道

2017年08月28日

奥の細道、いなかの小道(30)− 象潟(2)

 
  

  貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)

    (旧暦閏7月6日)

    益軒忌

    『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書、教育書の『養生訓』『大和俗訓』『和俗童子訓』『五常訓』、紀行文の『和州巡覧記』など、その生涯
    に六十部二百七十余巻の著作を残した江戸前期の本草学者・儒学者、筑前福岡藩士貝原九兵衛篤信(號:益軒、1630〜1714)の正徳四年(1714)年
    旧暦八月二十七日の忌日。
      越し方は一夜ばかりの心地して    八十あまりの夢をみしかな



    奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)のつづき

      十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山蚶彌(満)寺へ行。道々眺望ス。帰テ所ノ祭渡ル。過テ、熊野権現ノ社へ行、躍等ヲ見ル。
      夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳、
      十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。
        『曾良旅日記』  
      

  翌六月十七日(陽暦八月二日)、朝の内は小雨でしたが、昼頃には止んで日が射してきました。朝食後、芭蕉翁一行は、皇后山干満珠寺を訪れ、道々の眺望をたのしみました。戻った後、地元の熊野神社の御渡りがあり、その後社に赴き、踊りなどを見物しました。また、夕飯後、今野嘉兵衛が茶・酒・菓子などを持参し、象潟橋の船着き場から納涼をかねて象潟に舟をうかべ、能因島などを訪れています。
  遊覧から戻ると、名主今野又左衛門が宿を訪れ、象潟縁起などが絶えたことを嘆き、芭蕉もそれに同情しています。


      先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、

  芭蕉が私淑する能因法師(988〜1058頃)の遺跡と云われる能因島は、蚶滿寺の南方約四百米にあった小島で、現在は面積約六百坪の小丘となっています。

        いではのくにに、やそしまに行て、三首
      よのなかはかくてもへけりきさがたや    あまのとまやを我宿にして
        島中有神宮蚶方
      あめにますとよをかびめにことゝはん    いくよになりぬきさがたの神

      わび人はとつくにぞよきさきてちる    はなのみやこはいそぎのみして
        『能因法師集』

  能因法師が象潟へ下向した事があることは事実のようですが、三年幽居したことは確認できないようです。平安末期の歌人、従四位下太皇太后宮大進藤原清輔(1104〜1177)が、保元年間(1156〜1159)に著した歌論書『袋草紙』には、以下のような記述があります。

      能因實ニハ不下向奧州、爲詠此歌、竊ニ籠居シテ下向奧州之由ヲ風聞云々、二度下向ノ由アリ、於一度者實歟、書八十島記、
        『袋草紙』三


      「一度に於いては實か、八十島の記を書けり」とのことです。
    

      むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。

        象潟の櫻は波に埋もれて    花の上漕ぐあまの釣り船


  この歌は西行法師の作としての確証は無いとのこと。しかし、以下に記す様々な記載が残されています。

      巳に六江を立て、保呂波山に通夜して、本城の船津を過ぎ、鳥海山の腰を廻る、当山は功名の霊地なれども、いまだ雪深く禅頂の時ならねば、不参
      し侍り、漸々蚶象にいり、蚶満寺欄前、湖水を眺望す、向に鳥海山高々と聳、花のうへこぐ蜑の釣船とよみしも、げにとうちゑまるゝ、寺院の伝記
      什物見て、西行ざくら木陰の闇に笠捨たり
        毛を替ね雪の羽をのす鳥の海
        波の梢実のるや蚶が家ざくら
        『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風


    
      此浦のけしき、櫻は浪にうつり、誠に花の上漕ぐ蜑の釣舟と読しは此所ぞと
        『好色一代男』三ノ六 井原西鶴
    
      出羽の國蚶瀉といふ所は、世に隠れなき夕暮のおもしろき海辺なり。汐越の入江々々、八十八潟・九十九森、皆名にある所也。蚶滿寺の前に、古木
      の櫻あり。是ぞ花のうへこぐ海士の釣ぶねと、読しむかしを今見て、替る事なし。
        『名殘之友』 三ノ五 井原西鶴

      花の上漕とよみ給ひけむ古き櫻もいまだ蚶滿寺のしりへに殘りて、陰波を浸せる夕晴、いと涼しければ
        ゆふばれや    櫻に涼む波の花      芭蕉
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰



      江上(こうしょう)に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや。

    神功皇后は、第十四代仲哀天皇の皇后で、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)。帝崩御の後、軍を督して三韓を親征(親カラ征ク)、凱旋後應神天皇を生んだと『古事記』『日本書紀』に伝えられる説話的主人公です。

      抑〻神功皇后、百済國の夷をしたがへ日の本に軍をかへしおはしますとき波風にはなたれたまひ、此島に暫くうつろひたまひぬとかや。其後、其處
      には八幡宮を安置し、今に神々し奉りけるなり。然るに、皇后尋常御肌にいたゞかせ給ふ干滿の二珠によそえ、皇后山干滿寺とはつたへ侍るとか
      や。いつのころより、かの蚶の字にはなし侍りけむ、いといぶかし。しかし、此潟に蚶といふ貝あまた侍れば、かくはいへりけるにや。これをさへ
      さだかならねば、是非の境をわきまへずなりぬ。世々所にいひふらしたる故実なむかきよせて、  
        蜑のかるもの跡たゑじと、爰にはしるし侍る也。
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰


      寺を干滿珠寺と云。

    此の寺は、道鏡(700?〜772)の暴戻により新羅にのがれた僧昭機が、神功皇后の霊夢を蒙り、この地にたどり着いて皇后殿蚶方寺を建て、みずから蚶方法師と称したのに始まり、仁寿三年(853)慈覚大師(天台座主円仁)これを再興して蚶滿寺と改称、さらに正嘉元年(1257)八月、鎌倉幕府五代執権北条時頼(最明寺入道)が象潟を訪れて、この地を「四霊の地」と定め二十町歩の寺領を寄進し再興、大伽藍を建立して天台宗より曹洞宗に改め、寺名を干滿寺と改めたと云います。

      簾を捲ば、

    簾を巻き上げて眺望するの意で、『圓機活法』遊眺門・江樓晴望の大意に「捲レ簾」とあり、詩文に眺望を叙する場合の常套語になっています。

      風景一眼の中に尽て

    象潟の風景が一望の内に見渡されての意で、『圓機活法』地理門・遠山に、
      樓高一望究千里    樓高クシテ一望千里ヲ究ム
同じく『圓機活法』宮室門・樓に、以下のようにあります。
      樓高納萬象    樓高クシテ萬象ヲ納ム    

      蚶滿寺欄前、湖水を眺望ス。向に鳥海山高々と聳え
        『日本行脚文集』 天和三年の条 大淀三千風

      方丈に簾をあぐれば、巫山の十二峯底に臨み
        『繼尾集』  潜淵庵不玉撰

      其陰うつりて江にあり


      望湖樓下水浮天    望湖樓下水天ニ浮カブ
        『聯珠詩格』十一

      浪打入る所を汐こしと云。

      汐こしは、あら海より象潟へ、潮の往来する川の名にて、橋あり。しほこし橋と名づく。此南北の人家を、汐越町と云て、秋田へ往還の駅宿なり。
        『奥細道菅菰抄』蓑笠庵梨一

      松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。


    松島は太平洋に臨んだ開放的で明るい感じであり、象潟は日本海を控えた閉鎖的で暗い感じを述べたものです。

      地勢魂をなやますに似たり。

    その地のありさまは心に悩みを抱いている美女の姿を思わせるの意で、蘇軾の詩「飮湖上初晴後雨」にいう西施の傷心の姿を連想したものと解されています。  続きを読む

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2017年08月23日

奥の細道、いなかの小道(29)− 象潟(1)

  

  「一遍聖絵」第七巻 京極四條釋迦堂

  (旧暦閏7月2日)

  一遍忌、遊行忌
  鎌倉中期の僧、時宗の開祖一遍上人(1239〜1289)の正応二年(1289)旧暦八月二十三日の忌日。

    旅ころも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき

  

  一遍上人像  鎌倉來迎寺藏  『集古十種』古畫肖像之部  (五)二十七

    江山水陸の風光數を盡して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真 
    砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝 
    天能霽て、朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こ
    ぐ」とよまれし櫻の老木、西行法師の記念をのこす。江上に御陵あり。神功皇宮の御墓と云。寺を干滿珠寺と云。此処に行幸ありし事いまだ聞ず。いか
    なる事にや。此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に尽て、南に鳥海、天をさゝえ、其陰うつりて江にあり。西はむやむやの關、路をかぎり、東
    に堤を築て、秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。江の縦横一里ばかり、俤松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如
    く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
      象潟や雨に西施がねぶの花
      汐越や鶴はぎぬれて海涼し
        祭礼
      象潟や料理何くふ神祭                              曾良
      蜑の家や戸板を敷て夕涼      みのゝ國商人  低耳
        岩上にみさごの巣を見る
      波こえぬ契ありてやみさごの巣                    曾良


    ○十五日 象潟へ趣。朝ヨリ小雨。吹浦ニ到ル前ヨリ甚雨。昼時、吹浦ニ宿ス。此間六リ、砂浜、渡シ二ツ有。左吉状届。晩方、番所裏判済。
        『曾良旅日記』

 
  旧暦六月十五日(陽暦七月三十一日)、朝から小雨が降る中を、象潟の景色を一日でも早く見物したいと、芭蕉翁一行は酒田を旅立ちました。
  酒田の湊から磯伝いの羽州浜街道を能登興屋(のどごや:酒田市高砂)〜宮海を経て日向川を舟で渡り、服部興野から吹浦までの六里にも及ぶ庄内砂丘を北上しました。

  白木〜靑塚を経て十里塚付近にさしかかると天候が俄に一変して、潮風が砂塵を吹き上げ、豪雨が沛然と降りだし、出羽富士鳥海山も朦朧と雨に煙って隠れてしまいました。
  天候の恢復は望めず、一行は月光川を徒にて渡り、昼時に吹浦に着いて、ここに宿泊することにしました。

  当時の吹浦は、南側の宿町と北側の横町に分かれていましたが、芭蕉翁一行が泊まった跡は不明とのことです。

  ここで羽黒手向の近藤佐吉(呂丸)から書簡が届き、夕刻には番所の通判(通行手形)に裏判(通行の承認)を済ませました。吹浦の番所は、大物忌神社の鳥居前を左折した横町の大組頭津右衛門屋敷の南に上の番所、北に下の番所がありました。

    ○十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄
       内預リ番所也。入ニハ不レ入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是より六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。
    ○昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付 而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨
       暮気色ヲミル。今野加兵へ、折々来テ被レ訪。
          『曾良旅日記』

 
  豪雨のため吹浦で一泊した一行は、早朝に吹浦を出立して象潟へ向かいました。吹浦番所を通り過ぎた頃から、また雨が降り出しました。御殿坂を登って山道に入り、しばらくして坂を下ると湯の田に出、さらに海岸に沿って浜街道を北上して女鹿に到ります。

  さて、女鹿までは庄内藩領ですが、先の小砂川からは庄内藩預かりの幕府領となり出国の手続きが必要でした。そのため曾良は酒田で通判(通行手形)を購入し、吹浦番所の通行許可の承認印(裏判)を捺してもらう必要があったため、前日の晩に吹浦番所で裏判を済ませていました。

  女鹿の人改番所では出手形を提出しましたが、手続き料が必要だったといいます。番所を過ぎると、「是ヨリ難所。馬足不レ通」といわれる三崎峠が待ち構えていました。観音崎、大師崎、不動崎という3つの岬からなる三崎峠は、鳥海山噴火の際の溶岩流の崖が日本海の荒波の浸食を受けて奇岩や怪石として連なり、その険しさは羽州浜街道第一の難所でもありました。

  五十五歳から足かけ十七年をかけて日本全国を徒歩で測量し『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬(1745〜1818)は、享和二年(1802)、三崎峠の難所ぶりを測量日記に以下のように記しています。

    『此の村より外迄七八丁ハ道も上下よし、長持ちハ小砂川より女鹿村迄舟廻にす、馬荷にも亦同し、夫より道途曲々、且狭く、其上丸石岩石おほく、
    上下度々ありて其の行路難し、駕籠も人夫大勢ニ捧げて通るなり、馬・駕籠ニに乗ることならざる所なり、海へ出岬を大師崎と言、亦三崎共言、里人
    言、観音、不動、勢至ノ三仏ニ似たる岩石あるニよりて號スと、其脇を通る、此所則鳥海山の麓の流(スソ)なり、大師崎の上ニ大師堂あり、由利郡・
    飽海郡の界・これよい南庄内領となる』



  三崎峠の難所を超えると羽州浜街道は砂地となり、一里半程で小砂川に至ります。ここには庄内藩の預番所がありましたが、旅人には手形は不要だったようです。小砂川を過ぎ、象潟まで三里余り、大須郷、川袋、大砂川、洗釜、中野澤、關までの街道沿いの集落は幕府直轄領で、庄内大山代官所が支配していました。

  また、このあたりは古代の有耶無耶の関があった所と伝えられ、歌枕にも詠まれていますが、芭蕉の時代にはすでに正確な場所は不明であったようです。

  永久四年(1116)の歌合で、従四位上源俊頼(1055〜1129)が詠んだ歌が最も早いとされています。

    すぐせやななぞいなむやのせきをしも    へだてて人にねをなかすらむ                    
                   『散木奇歌集』  源 俊頼

    もののふのいづさいるさにしおりする    とやとやとおりのむやむやの關             
                   『夫木和歌集』  詠み人知らず

    たのめこし人の心は通ふやと    問いても見ばやうやむやの關                      
                   『土御門院御集』 土御門院


  關に着く前あたりから雨脚が強くなり、一行はずぶ濡れとなって船小屋で雨宿りをしました。

  昼過ぎに塩越(象潟)に着きました。芭蕉にとって、敬慕する能因法師と西行法師の遺跡に富む象潟は、心から憧れていた所であったと云います。

  塩越は本庄藩六郷氏二万石の領地でした。六郷氏は室町中期に、出羽国仙北郡六郷邑より興り、同地を本拠とした一族で、工藤氏流六郷氏の系統に属します。その後裔六郷政乘(1567〜1634)が、元和九年(1623)最上氏が改易された後、常陸国府中藩(石岡)一万石から最上氏の旧領である出羽国本荘に二万石で加増移封され、本庄藩を立藩しました。芭蕉翁一行が訪れたときは、四代政晴(1675〜1741)の代でした。  続きを読む

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2017年08月15日

奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  

  山口素堂(1642〜1716)

  (旧暦6月24日)

  素堂忌
  江戸前期の俳人山口素堂(1642〜1716)の享保元年(1716)旧暦八月十五日の忌日。
  甲府魚町で家業の造り酒屋を営んでいたが、向学の志止みがたく、弟に家督を譲り、江戸に出て林羅山の三男、林春斎(1618〜1680)に漢学を学び、和 
  歌・書・能楽にも通じ、生涯を江戸でおくった。松尾芭蕉とは同門で、親交があり、蕉風の確立に寄与したといわれている。

    目には青葉山ほととぎす初鰹
    名もしらぬ小草花咲野菊哉
    うるしせぬ琴や作らぬ菊の友


  
 
  長山重行邸


    羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふもののふの家にむかへられて、誹諧一巻あり。左吉もともにに送りぬ。川舟に乗りて酒田の湊に下る。
    淵庵不玉といふ医師のもとを宿とす。
      あつみ山や吹浦かけて夕すずみ 
      暑き日を海にいれたり最上川

    ○十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ
     手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルヽニ不レ及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ
     望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。
      『曾良旅日記』


  旧暦六月十日(陽暦七月二十六日)、芭蕉翁一行の出立を知った近江飯道寺の僧、正行坊円入が南谷の別院に別れの挨拶に来ました。その後、芭蕉翁一行は昼前に本坊の若王寺寶前院に赴き、別当代会覚阿闍梨に辞去の挨拶をし、蕎麦切り、茶、酒などで歓待され、未ノ上刻(午後二時過ぎ)に羽黒山を出立しました。

  正行坊円入が見送りに来て、一の坂を下って大杉(爺杉)まで同道しました。芭蕉は祓川で手水をして幽邃閑寂なる羽黒山境内に別れを告げ、図司呂丸(近藤佐吉)宅からは馬に乗り、曾良と呂丸が付き添って鶴岡へ向かいました。また、羽黒山南谷玄陽院で思いがけず再会した観修坊釣雪が正善院黄金堂まで同道しました。
  黄金堂の前で釣雪に別れを告げた一行に呂丸が同道し、手向を旅立って羽黒街道を鶴岡目指して西進して行きました。

  野荒町−荒川−三ツ橋を経て、赤川の手前から北上し、三川橋の所で船に乗り、従四位下庄内藩主酒井忠真(第4代藩主)の城下町鶴岡に入りました。

  庄内藩14万石は領内に米どころ庄内平野を有し、且つ領内の酒田の湊は、寛文年間(1661〜1673)に政商河村瑞賢(1618〜1699)によって開かれた北前船の西廻り航路の基点として栄えたために財政的に裕福で、一説に実収入は30万石以上ともいわれていました。

  酒井家は松平氏、德川氏最古参の譜代筆頭で、元来、三河國碧海郡酒井郷あるいは同國幡豆郡坂井郷の在地領主であったと考えられています。

  庄内藩は、元和八年(1622)、出羽山形藩57万石藩主最上義俊(1605〜1632)が改易された後、越後高田藩主酒井家次(1564〜1618)の嫡男忠勝(1594〜1647)が、信州松代藩10万石から移封され、出羽田川、飽海郡内において13万8千石を領して立藩されています。

  一行は申ノ刻(午後四時過ぎ)に、荒町裏大昌寺の脇小路に住む長山五郎右衛門重行宅(鶴岡市山王町十三)に着きました。

  
    「重行、姓長山、仮名五郎左衛門。藩中歌人也。荒町裏東側の小路に住す。今に長山小路といふ。東都在勤の折、深川はせを庵に遊び玉ひしゆかりによ
    りて、翁奥羽行脚の節、此亭に留杖したまひ、初茄子の高吟に俳諧一巻あり。其後、東花坊奥羽行脚せられし頃、呂図司案内して御山をめぐり、夫より
    重行亭に旅寝し、初茄子の遺詠を感じ、橘の香をとゞめし俳諧一巻あり」
      『於保伊頭美』(天保十五)

 
  長山氏(生没年未詳)は、庄内藩士で大工改め役、百五十石取りと『庄内人名辞典』で紹介されています。

  芭蕉は長山宅に着いたときに、三山巡礼の疲れから、すぐに粥を所望して、食べた後に仮眠をとりました。
  夜になって、句筵興行が催され、芭蕉の

     めづらしや山をいで羽の初茄子

を発句に、重行・曾良・露丸と一巡四句を詠んだところで、芭蕉の体調をいたわって、この日の聯句は終了しました。
  この句は、長山重行宅の食膳に供されたこの地方名産の茄子の風味が心に残り、長山氏の厚遇に感謝の意を表した発句であるとされています。またこの茄子は、小ぶりな姿とほどよく締まった肉質が特徴の民田茄子といわれ、民田地域の八幡神社の社殿を作る際に京都の宮大工が種を持ち込んだと言われています。
 
    ○十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
  
    ○十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。
    ○羽黒山南谷方(近藤左吉・観修坊、南谷方也)・且所院・南陽院・山伏源長坊・光明坊・息平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門・大河八十良・梨水・
     新宰相。
    △花蔵院△正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可レ尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内淨教院珠妙。
    △鶴ケ岡、山本小兵へ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
     『曾良旅日記』

  翌十一日(陽暦七月二十七日)、この日も聯句を再開しましたが、芭蕉は持病(痔疾あるいは胃痙攣)が出て気分が勝れず、昼頃に中止しています。

  十二日(陽暦七月二十八日)、「めづらしや」四吟歌仙は三日がかりで満尾となりました。

    一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒より飛脚、旅行ノ帳面被レ調、被レ遣。又、ゆかた二ツ被レ贈。亦、発句共
     も被レ為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻 より曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。

    ○十四日 寺島彦助亭へ 被レ招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。
     『曾良旅日記』


  旧暦六月十三日(陽暦七月二十九日)、芭蕉翁一行は長山重行、図司呂丸らの見送りを受けて、長山宅のすぐ南にあった内川河岸(大泉橋左岸)から川船に乗って酒田湊へ向かいました。

  出船の際に羽黒山から飛脚が来て、会覚阿闍梨から新しい旅行の帳面と浴衣二枚、そして餞別の発句が届けられました。

   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪  会覚

 羽黒山の別当代という地位のある人が、遊歴の一俳諧師に対してこれほどまでの心遣いをすることは並大抵のことではないとされています。

 川船に乗った一行は内川を北東に下り、まもなく赤川に合流しました。赤川を北に向かって下り、横山−押切−黒森を過ぎて、当時は飯森山の東で最上川に合流していました。川船では七里の道程でした。

  
  大正二年(1913)酒田地形図

 現在の赤川は、大正十年に最上川から分離するための放水路開削工事が開始され、昭和十七年まで継続されて、最終的には昭和二十八年に最上川と赤川が分離する締め切り工事が完成し、日本海に直接放流する赤川新川が完成しています。

 陸路は羽州浜街道を北上して、横山−押切−広野をへて最上川を渡り酒田に向かう五里の道のりでした。
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2017年08月09日

奥の細道、いなかの小道(27)− 羽黒(2)

  
  

  炭太祇(1709〜1771)


  (旧暦閏6月18日)

  太祇忌(不夜庵忌)
  江戸中期の俳人、炭太祇(不夜庵)(1709〜1771)の明和八年(1771)旧暦八月九日の忌日。
  はじめ水國(?〜1734)に師事し、水國が没した後は紀逸(?〜1761)に学び、江戸座の宗匠となった。寛延元年(1748)に太祇と号す。
  宝暦元年(1751)京に上り、紫野大徳寺真珠庵にて仏門に帰依するもほどなく還俗、宝暦四年(1754)、京島原の妓楼桔梗屋主人呑獅(?〜1789)の支援により島原遊郭の中に不夜庵を結んで住み、妓楼の主人や遊女に俳諧を教えた。
  与謝蕪村(1716〜1784)とも親交が厚く、明和俳壇の中心な存在として活躍した。

    足が出て夢も短き蒲団かな
    寝て起きて長き夜にすむひとり哉
    行く程に都の塔や秋の空


  奥の細道、いなかの小道(26)− 羽黒(1)のつづき

  八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包、強力といふものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出でて雲消れば、湯殿に下る。
  谷の傍に鍛冶小屋と云有。此國の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して劔を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に釗を淬とかや。干將・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる櫻のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀れも爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣じて、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍てて筆をとゞめて記さず。坊に歸れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

   涼しさやほの三か月の羽黒山
   雲の峰幾つ崩て月の山 
   語られぬ湯殿にぬらす袂かな 
   湯殿山錢ふむ道の泪かな      曽 良


  月山を目指した芭蕉翁一行は、木綿(ゆふ)しめという、紙のこよりを麻の代わりに用いて編んだ修験袈裟を襟にかけ、宝冠という白木綿で頭を包み、強力という登山の案内先達に導かれて、雲や霧が立ちこめる山中を氷雪を踏み、標高1984mの山頂目指して登っていきました。旧暦6月8日(新暦7月22日)ころは、夏とはいえ山肌にかなりの残雪の残る時期です。また、当時山駆けをする者は、潔斎中から下山後の精進おろしまで木綿(ゆふ)しめを襟にかけるのが習わしでした。

   〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、二リ、平清水。二リ、高清。是迄馬足叶道(人家、小ヤガケ也)。彌陀原、こや有。中食ス。(是ヨリフダラ、ニ
     ゴリ沢・御濱ナドヽ云ヘカケル也。)難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ來
     光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。

    『曾良旅日記』

  実際には旧暦六月六日、南谷の別当寺の別院を出立して東へ「お渡り道」を進み、羽黒山の奥の院荒澤寺を経て半合目の傘骨、海道坂が一合目、大満原が二合目で小月山神社があり、ここからは女人禁制でした。ここの掛茶屋では餅やところてん、蕎麦などを売っていたそうです。神子石が三合目で、巫女石とも書き、むかし禁制を破って月山に登ろうとした巫女がここでたちまち石に化してしまったと伝えられている所です。強清水が四合目で、坂の左の岩の間から清水が湧いていました。五合目の狩籠(かりごめ)から右の峰伝いに六合目の平清水へ向かい、急坂の連続後に七合目の合清水(高清水)に着きます。ここから上は馬の乗り入れが禁止されていたので、馬返し小屋と呼ばれていました。

  羽黒山から月山山頂までの登拝路は実際には六里半ほどの道のりながら、古くから「木原三里、草原三里、石原三里」と言われてきました。七合目の合清水まではブナなどの原生林の木原で、八合目の彌陀原からはニッコウキスゲなどの高山植物が群生する草原三里となっています。

  芭蕉翁一行は、彌陀原の中に鎮座する月山神社中之宮(御田原神社)に参拝し、ここで昼食をとりました。御田原神社は体力的にも時間的にも月山山頂に登ることができない人の遙拝所(御田原参籠所)になっていました。

  その後、東の斜面を下りて東補陀落に向かいました。当時は、東補陀落で観音・弥陀・薬師の三尊や立岩の三宝荒神などを拝したのち彌陀原まで戻り、それから月山を目指すのが順路だったそうです。

  


  『曾良旅日記』に「フダラ、ニゴリ沢・御濱」」と記されているのがこの東補陀落で、月山神社中之宮から左へ3㎞程下った「補陀落・濁沢・御濱池」という修験者が峰入修行を行う場所で、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に、弁財天を祭る御濱池があります。

  彌陀原まで戻った一行は、月山山頂を目指してさらに登りました。無量坂を越えて九合目の佛水池(ぶすいえ)に至り、さらに進んで登りにかかるところが「行者返し」といわれる急斜面です。
  昔、修験道の開祖とされる役行者(634伝〜701伝)が月山山頂を目指したときに、開祖蜂子皇子(562?〜641?)に仕える除魔童子と金剛童子が現れ、「湯殿山で修行してからでないと月山には登ってはならぬ」と押し戻したところと伝えられています。

  最後になだらかなモックラ坂の岩場を越えると、月山頂上(標高1984m)です。
  芭蕉翁一行は、申ノ上尅(午後3時半ころ)山頂に到着し、まず、豪雪と強風を避けるために石垣に囲まれた御室と呼ばれる月山神社本社に参詣しました。

  月山神社は天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を祀っていますが、月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称である出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて成立した「修験道」の霊場でした。

  一行は参詣を終えて、頂上より少し下った角兵衛小屋に泊まることになりましたが、夕刻頃には「日没て月顕る」状況でした。角兵衛小屋は、当時の月山山頂に七軒あった小屋の一つで、五軒が宿泊用、二軒が酒屋と菓子屋だったとされています。

  一行は笹を鋪(しき)、篠を枕として、翌日の御来迎を待ちましたが、残念ながら御来迎は拝めなかったようです。

  月山は、約70万年前から火山活動が始まり、最後に噴火したのは約30万年前で、以前は楯状火山(shield volcano)に分類されていましたが、現在では成層火山(stratovolcano)が侵食や爆発によりなだらかになったものであるという説が有力です。

  ちなみに我々の世代になじみの深い火山の分類法は、ドイツの地理学者カール・シュナイダー(Karl Schneider)が1911年に火山を地形によって分類したものですが、形成過程が全く異なるのに浸食などによって同じような地形になる例が次々と発見されてシュナイダーの分類が現状にそぐわなくなったために、現在では使われていないとのことです。
  例)トロイデ(鐘状火山)、コニーデ(成層火山)、アスピーテ(楯状火山)
    ホマーテ(臼状火山)
  
  また、近年の火山学の発展に伴い過去1万年間の噴火履歴で活火山を定義するのが適当であるとの認識が国際的にも一般的になり、2003年に火山噴火予知連絡会は、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義し直し、活火山の数は現在111となっています。

  
 

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2017年08月02日

奥の細道、いなかの小道(26)− 羽黒(1)

  
  上島鬼貫(1661〜1738)

  (旧暦閏6月12日) 

  鬼貫忌
  江戸中期の俳人上島鬼貫(1661〜1738)の元文三年旧暦八月二日の忌日。
  鬼貫(おにつら)とは、「鬼の貫之」の意味だという。

  摂津国川辺郡伊丹郷でも有数の酒造業油屋の三男として生まれ、幼少期より俳諧に親しみ、十三歳で松江重頼(1602〜1680、通称は大文字屋治右衛門、俳号は維舟)に入門、その後、西山宗因(1605〜1682)の談林派に入門する。

  八になりけるとし
  こいこいといへど蛍がとんでゆく 
                  『仏兄七久留萬』

 貞享二年(1685)、二十五歳で医学を志して大坂に出、当代の名医大久保道古に学んだと考えられている。やがて仕官を求めて貞享四年(1687)、筑後三池藩に三十人扶持で仕え、元禄二年(1689)に辞めた後は元禄四年(1691)に大和郡山藩に三十人扶持で仕えている。

  寛文元年辛丑年四月四日辰の上刻、摂州川辺郡伊丹郷に生まる。童名竹松、長て利左衛門宗邇と称(なの)る。追て藤九郎と改む。又半蔵と改む。常に懐ふ我れ世々武種(ものだね)にして今何ぞ野処に安んぜん哉。有縁の主人を求めて武名を立てて祖を顕さん。是又人に議(はか)らずしては得難しと先ず學門の爲にと大坂に出て浪人又醫の中を徘徊す。
                  『藤原宗邇傳』 原漢文


  藤原宗邇とは武士としての名乗りだが、風流人として生きると共に武士としても生きた。

  この間、鬼貫は『俳諧大悟物狂』なる一冊の俳書を世に出した。

  によつぽりと秋の空なる不尽の山
                  『俳諧大悟物狂』



  元禄八年(1695)、三十五歳で大和郡山藩を致仕した後は、宝永五年(1708)に四十八歳で越前大野藩に仕えて、京屋敷の留守居役を務めた。

  俳諧の道においては、蕉門の八十村路通(1649頃〜1738頃)などと親交があり、彼らを通じて松尾芭蕉(1644〜1694)を強く意識するようになった。


  その後、享保三年(1718)、五十八歳の鬼貫は俳論『獨言(ひとりごと)』を刊行したが、その中で「貞享二年の春、まことの外に俳諧なし」と自覚したと述べるに至っている。
  しかし、まことの俳諧を旗印にした芭蕉が、
 
  古池や蛙飛び込む水の音

と詠んで蕉風を開くのが貞享三年(1686)、鬼貫がまことに目覚めたとされる一年後なので、鬼貫研究者を悩ましているという。

  明和六年(1769)、炭太祇(1709〜1771)選の『鬼貫句選』が刊行されたが、太祇は『鬼貫句選』の序において、その本を刊行する意義を次のように述べている。

  鬼つらのおにたる無碍自在を見もし學びもせば、わが芭蕉翁にこの翁を東西に左右し、延宝より享保にいたるこの道の盛世をてらし見て、けふこの道にゆく人のこゝろの花のにほひに足り、心の月の影とゝきて、はいかいの幸大いならんかし。

  元文三年(1738)、大坂鰻谷にて死去。享年七十八。墓所は大阪市天王寺区の鳳林寺と伊丹市の墨染寺にある。

  明治三十六年(1903)、子規門下の双璧、河東碧梧桐(1873〜1937)が雑誌「ホトトギス」で、募集句の題を「鬼貫忌」として以後、秋の季語として定まった。


  六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋ねて、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。

  四日、本坊にをゐて誹諧興行。

   有難や雪をかほらす南谷

  五日、権現に詣。当山開闢能除大師は、いづれの代の人といふことをしらず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。


  

  元禄二年(1689年)旧暦六月一日、大石田の最上川河畔、船持荷問屋髙野一榮(1636〜1725)宅を出立した芭蕉翁一行は、陸路馬で舟形まで送られ、新庄の渋谷風流(甚兵衛)宅(新庄市上金沢町5-33)へ赴いて二泊し、歌仙一巻その他を巻いています。さらに三日、元合海から乗船して清川まで下りました。しかし、清川河岸で上陸する際に、関手形に添方の名前を忘れたため船から降りられなくなりましたが、まもなく上陸を許可されました。


 〇六月朔 大石田を立。辰刻、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐匹、舟形迄送ル。ニリ。一リ半、舟形。大石田ヨリ出手形ヲ取、ナキ沢ニ納通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納通。両所共に入ニハ不構。ニリ八丁、新庄。風流ニ宿ス。 
 
  二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信、息、塘夕(澁谷仁兵衛、柳風共)、孤松(加藤四良兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善衛門)、風流(渋谷甚兵ヘ)。 
 
 〇三日 天気吉。新庄ヲ立。一リ半、元合海。次良兵へ方へ甚兵へ方ヨリ状添ル。大石田平右衛門方ヨリも状遣ス。船、才覚シテノスル。
 
 一リ半、古口ヘ舟ツクル。合海ヨリ禅僧二人同船、清川ニテ別ル。毒海チナミ有。是又、平七方へ新庄甚兵ヘヨリ状添。関所、出手形、新庄ヨリ持参。平七子、呼四良、番所ヘ持行。舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。酒井左衛門殿領也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。
 
 平七ヨリ状添方ノ名忘タリ。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方二有。状不添シテ番所有テ、船ヨリアゲズ。一リ半、雁川。三リ半、羽黒手向荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院へ、大石田平右衛門 より状添。露丸子へ渡。本坊へ持参、再帰テ、南谷へ同道。祓川ノ辺 よりクラク成。本坊ノ院居所也。
 
 『曾良旅日記』


  清川から陸路狩川をへて旧暦六月三日申の刻(午後五時頃)、芭蕉翁一行は羽黒山山麓の門前町手向(とうげ)村荒町在の近藤佐吉宅に到着します。

  

  近藤佐吉( ? 〜 1693)はもと鶴岡の人で本姓を図司といったのを、羽黒移住に際し、母方の姓近藤を称したものかとされています。俳号を呂丸と称し、山伏の法衣を染める染屋を生業としたものと推定されており、この地方の宗匠格だったとされています。元禄五年(1692)、上洛の旅の途次、江戸で芭蕉より『三日月日記』稿本を贈られ、翌六年二月二日、京で客死しています。

  さて、別当代ですが、本来別当とは、一山の主権者として衆徒を支配する者をいいます。羽黒山においては、五十代別当兼執行の天宥(1592〜1674)がその運営をめぐって羽黒衆徒と対立し、ついには幕府を巻き込んだ裁判沙汰にまで発展して、寛文八年(1668)四月、伊豆新島に流されて以後、別当は東叡山の重職にある印家(皇族および貴族身分出身の僧侶)の中から補任されることに定められました。しかし、別当は東叡山でも重職を帯びていたため羽黒には赴任せず、名代の者をして執務させたものが別当代であり、当時の別当は東叡山の執当大円覚院公雄でした。

  芭蕉が対面した別当代会覚阿闍利( ? 〜 1707)、諱は照寂、院号は和合院、会覚はその徳号とされています。東叡山勧学院出身で権大僧都。貞享四年(1687)八月、羽黒山別当代に補任され、元禄六年(1693)八月、美濃国谷汲山華厳寺の塔頭地蔵院に転住し、宝永四年(1707)六月五日に同地で没しています。

  南谷は羽黒山の中腹、三の坂下から右へ約400mほど入った台地で、別院とは別当寺の別院、高陽院紫苑寺をさし、前の別当天宥の時代、寛文二年(1662)より起工して別当寺寶前院を建てましたが、延宝元年(1673)の失火で焼失し、その後規模を縮小して再建した寺院を貞享元年(1684)以後執行寺とし、同時にこれを別当寺の別院としました。これが芭蕉翁一行が宿泊した寺院とのことです。

  


  芭蕉翁一行が訪れた旧暦六月四日の申の刻、近藤呂丸(左吉)は本坊に赴いて留守でしたが、帰ると再び高野一榮からの紹介状を持って本坊に登り、会覚の指図を受けて芭蕉らを南谷の別院へ案内しています。芭蕉が高野一榮の紹介による会覚の賓客であったことや、呂丸の家が宿を提供する宿坊を営んでいなかったにせよ、夕刻に三の坂までの二十余丁(約2キロ)の山坂を何度も往復したことは、芭蕉をしてその篤実な性格に信頼を寄せたことは故無きことではないとされています。  続きを読む

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2016年06月04日

天文(21)− メシエ天体(5)

    

    Pierre François André Méchain ( 1744 〜1804) was a French astronomer and surveyor who, with Charles Messier, was a major contributor to the early study of deep sky objects and comets.   

    (旧暦4月29日)

    天文(20)− メシエ天体(4)のつづき

    ご無沙汰致しております。
    やっとその気になっております。

    フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表したメシエ天体(Messier object)の内、愛称で呼ばれる29の天体について、最期のM82からM104 を紹介いたしましょう。

  

    Messier: M82. 
    (February 9, 1781) `Nebula without star, near the preceding [M81]; both are appearing in the same field of the telescope, this one is less distinct than the preceding; its light faint & [it is] elongated: at its extremity is a telescopic star. Seen at Berlin, by M. Bode, on December 31, 1774, & by M. Méchain in the month August 1779.'

 
    [観測日:1781年2月9日]
    星のない星雲で、一つ前の天体[M81]の近くにある。両方とも望遠鏡の同じ視野に見える。後者[M82]は前者[M81]ほどはっきり見えない。その光はぼんやりとして細長い。端っこに望遠鏡でしか見えない星がある。1774年12月31日にベルリンからボーデが、1779年8月の間にメシャンが観測している。

    M81とM82は、おおぐま座α星(Dubhe、天樞)の北西こぶしひとつ分にある4.6等星のおおぐま座24番星の西約2°のところにあります。おおぐま座α星(Dubhe,天樞)の学名はα Ursae Majoris(略称はα UMa)。ドゥーベ(Dubhe)はアラビア語で「熊」を意味する ドゥブ(Dubb)に由来しており、中国における呼称は、中国正史の天文志では天樞と記されています。

    


    


    北斗七星、所謂旋璣玉衡、以齊七政。杓攜龍角、衡殷南斗、魁枕參首。用昏建者杓。杓自華以西南。夜半建者衡。衡殷中州河濟之閒。平旦建者魁。魁海岱以東北也。斗爲帝車、運于中央、臨制四鄕。分陰陽、建四時、均五行、移節度、定諸紀、皆繋於斗。
    『史記 天官書第五』


    北斗の七星は、所謂(いはゆる)旋璣(せんき)玉衡(ぎよくかう)、以て七政を齊(ととの)ふるものなり。杓(しやく)は龍角に攜(つら)なり、衡(かう)は南斗に殷(あ)たり、魁(くわい)は參首に枕す。昏(くれ)を用(も)つて建する者は杓なり。杓は華より以西南なり。夜半に建する者は衡(かう)なり。衡(かう)は中州河濟之閒に殷(あ)たる。平旦に建する者は魁(くわい)。魁(くわい)は海岱に以東北なり。斗を帝車と爲し、中央に運(めぐ)り、四鄕(しきやう)を臨制す。陰陽を分かち、四時(しいじ)を建て、五行を均(ひと)しくし、節度を移し、諸紀を定むる、皆、斗に繋(かか)る。
 
    M82(NGC3034)は葉巻銀河(Cigar Galaxy)とも呼ばれ、葉巻型の本体からとがった髪の毛のような斜めに長いフィラメントが銀河中心から伸びていますが、これは「スーパーウィンド」といわれる電離した水素ガスが中心部から極方向に向かって吹き出している現象です。

    

    A mosaic image taken by the Hubble Telescope of Messier 82, combining exposures taken with four colored filters that capture starlight from visible and infrared wavelengths as well as the light from the glowing hydrogen filaments.


    


    銀河自体は大きさ5万5000光年であるのに対して、そのフィラメントは約3万4000光年もの長さがあります。
    約4000万年前にM81とM82は接近遭遇し、M82は巨大なM81の重力の影響を受けて変形し、星間ガスが短期間に大量にできるスターバーストが引き起こされているスターバースト銀河であると分類されています。

   Messier: M83. 
   (February 17, 1781) `Nebula without star, near the head of Centaurus: it appears as a faint & even glow, but it is difficult to see in the telescope, as the least light to illuminate the micrometer wires makes it disappear. One is only able with the greatest concentration to see it at all: it forms a triangle with two stars estimated of sixth & seventh magnitude: [its position was] determined from the stars i, k and h in the head of Centaurus: M. de la Caille has already determined this nebula. See the end of this Catalog.'


   [観測日:1781年2月17日]
   星のない星雲で、ケンタウルス座の頭の近くにある。ぼんやりと弱い光で、望遠鏡を使っても見るのがとても難しく、マイクロメターの十字線のせいで見えなくなってしまう。かなり集中しないと見ることが出来ない。6等星と7等星と思われる二つの星と対になって、三角形を形成する。その位置は、ケンタウロス座の頭にあるI,k,h星によって決められる。ニコラ=ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille、1713〜1762)がすでにこの星雲を観測していた。このカタログの終わりの部分を見てほしい。


    


    M83(NGC5236)はうみへび座にある棒渦巻銀河で、その姿から南の風車銀河(Southern Pinwheel Galaxy)という別名でも呼ばれています。M83は、すばらしい正面向き(face on)の銀河です。
    M83の渦巻きの広大で複雑な構造は、M83の10分の1の質量の楕円銀河で、南西約2°のところにある小さなNGC5253との衝突による潮汐力でねじられたと考えられています。

    M83は星座の中で最も長くのびているうみへび座の中の余り目立たない場所にあり、簡単に見つかりません。ケンタウルス座のα,β,γ星の北西3.5°のところにこの7等の円盤銀河を探すと見つかります。

    


    


    M83をすでに観測していたニコラ=ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille、1713〜1762)はフランスの天文学者で、1739年にフランスの子午線弧長の再測定を行ったことによりフランス科学アカデミー(Académie des sciences)に認められるところとなり、アカデミー委員とコレージュ・マザラン(the Collège Mazarin)の数学教授に任命されています。その後南天観測の希望を申し出て、1751年から喜望峰(the Cape of Good Hope)に滞在し、南天の恒星約10,000と42の星雲も観測しました。

    


    1757年、”Astronomiae Fundamenta Novissimus”を出版し、光行差(注1)と章動(注2)を修正した400の恒星のリストを発表しています。

    光行差(注1)(Aberration of light)
    天体を観測する際に観測者が移動しているために、天体の位置が移動方向にずれて見えるとき、そのずれを指す用語で、1728年、イギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリー(James Bradley, 1693〜1762)が発見しました。

    

    The apparent position of a star viewed from the Earth depends on the Earth's velocity. The effect is typically much smaller than illustrated.

    章動(注2)(Nutation)
    惑星の自転軸に見られる微小な運動の一種で、春分点の歳差を引き起こす潮汐力の強さが時間とともに変化するため、歳差の速度が一定でないことが原因で起こる成分である天文章動と、自由歳差運動による成分である自由章動から成ります。

    

    Rotation (green), precession (blue) and nutation in obliquity (red) of a planet.  続きを読む

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2016年05月06日

奥の細道、いなかの小道(25)−最上川

 
  (旧暦3月30日)

  

  鑑眞忌
  唐の高僧で、日本に渡って日本律宗を開いた鑑眞(688〜763)の天平寶字七年(763)の忌日。唐招提寺開山忌は、月遅れで6月6日に行われる。

  

  万太郎忌、傘雨忌
  小説家・劇作家・俳人・演出家の久保田万太郎(1889〜1963)の昭和三十八年(1963)の忌日。 俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。

  

  春夫忌、春日忌
  詩人・小説家・評論家の佐藤春夫(1892〜1964)の昭和三十九年(1964)の忌日。


  最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。

  最上川はみちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙/\に落て仙人堂岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。
 
  五月雨をあつめて早し最上川
 


  一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢、立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。
 
  『曾良旅日記』


  元禄二年陰暦五月廿八日(陽暦七月十四日)、立石寺をあとにした芭蕉翁一行は、馬を借りて天童に向かい、六田(山形県東根市)で馬を取り替える間に、行きがけに逢った内藏に会い、家に立ち寄って接待を受けます。この内藏という人物はどのような人であったかは不詳ですが、おそらく「紅花大尽」といわれた豪商で、談林系の俳人でもある旧知の鈴木清風(1651〜1721)に紹介された地元の人物であろうと推測されています。
 
  昨日も今日も、雲行きが悪く雨になりそうで心配していましたが、幸いにも雨には遭わず、芭蕉翁一行は午後二時半頃、大石田最上川河畔の船持荷問屋髙野一榮(1636〜1725)宅に到着します。

  五月雨の季節の最上川は満々とした水量を湛えていました。
  此の夜、高桑川水(1644〜1709)が訪ねてきましたが、芭蕉は疲労のために俳諧の興行を行わずに、休息します。
 
  芭蕉翁一行が今回の旅の目的のひとつである出羽三山を目指すのであれば、山形から西へ六十里街道を行くのが本来の道筋でしたが、大石田へと行き先を変更したのは、尾花沢の鈴木清風宅の句筵で知り合った大石田村の大庄屋高桑川水(1644〜1709)と組頭で船持荷問屋の髙野一榮(1636〜1725)のたっての懇請であったとされています。

  大石田は最上川の右岸、朧気川の北側に位置する水駅として栄えた所で、江戸期において最上川船運は唯一の輸送機関であり、山形城主最上義光(1546〜1614)が流域一円を支配すると、天正八年(1580)に碁点、三ヵの瀬、隼(早房の瀬)の三大難所を開削・整備したため、河口の酒田まで通ずる様になりました。
 
  寛永年間(1624〜1644)には延沢銀山の最盛期とも重なり、最上川による船運輸送が活発になって、大石田河岸の役割が重要になりました。
  尾花沢の延沢銀山は、康正二年(1456)に金沢の儀賀市郎左衛門という人が発見したという言い伝えがあり、最盛期には島根の石見、兵庫の生野とともに日本三大銀山と呼ばれ、2万5千人の人々が在住していたと伝えられています。

  その後、船運は幕府や諸藩の年貢米の輸送路として開発され、また同時に京都・大阪に紅花や青荢(あおそ:カラムシ)などの特産物を運び、塩・木綿・海産物などの生活必需品が入ってくる流通路として発展しました。

  芭蕉翁一行が訪れた元禄期(1688〜1704)には、最上川に就航していた船は、大石田船二百九十余艘、酒田船二百五十余艘を数えたと伝えられています。さらに、寛政四年(1792)から大石田が幕府の天領となり、飛躍的な繁栄をもたらしたものといわれています。

  この土地にはふとした機縁で古風の俳諧の流風が伝わり、盛んであった昔のことを慕っているということを聞いた。蘆笛一声に慰む辺土の民の心を俳諧によって風雅に和らげつつ、此の俳諧の道に暗い夜道を足で探りながら歩くようなたどたどしい調子でたどりながら、新風・古風いずれの道に進むべきかに迷い悩んでいるけれども、道を指し示す人もないようなので、請われるままに一巻(最上川歌仙)を残しとどめることになった。このたびの陸奥・出羽の旅における俳諧風流は、この一巻に極まったかの観がある。

  芦角一声の心をやはらげ

  胡笳歌送顏眞卿使赴河隴     胡笳の歌  顏真卿の使ひして河隴に赴くを送る

  君不聞胡笳聲最悲               君聞かずや  胡笳の声最も悲しきを 
  紫髭綠眼胡人吹                  紫髭緑眼  胡人吹く
  吹之一曲猶未了                  之を吹き  一曲猶未だ了らざるに
  愁殺樓蘭征戍兒                  愁殺す  樓蘭征戊の兒
  涼秋八月蕭關道                  涼秋八月  蕭關(せうくわん)の道
  北風吹斷天山艸                  北風吹斷す  天山の艸(くさ)
  崑崙山南月欲斜                  崑崙山南  月斜めならんと 欲す
  胡人向月吹胡笳                  胡人  月に向ひて胡笳を吹く
  胡笳怨兮將送君                  胡笳の怨  望む 隴山の雲
  邊城夜夜多愁夢                  邊城  夜夜  愁夢多く
  向月胡笳誰喜聞                  月に向かひて  胡笳  誰か聞くを喜ばん

  『唐詩訓解 巻二 岑參』

  「芦角」は、蘆笳・胡角・胡笳と呼ばれる胡人の吹く蘆の笛の造語で、「芦角一声」を辺鄙な田舎人の俳諧の譬喩とし、「芦角一声の心」とは、蘆笛一声に慰む心、すなわち素朴な田舎人の風流心を表したものと解されています。

  胡笳曲               胡笳の曲

  城南虜已合         城南  虜  已に合し
  一夜幾重圍         一夜  幾重にか圍む
  自有金笳引         自から金笳の引有り
  能令出塞飛         能く出塞をして飛ばしむ
  聽臨關月苦         聴は関月に臨んで苦(さ)え    
  淸入海風微         清は海風に入りて微かなり
  三奏高樓暁         三奏す  高楼の暁
  胡人掩涕歸         胡人  涕を掩うて歸る

  『唐詩訓解 巻三 王昌齢』


  酒泉太守席上醉後作    酒泉太守の席上 醉後の作

  酒泉太守能劔舞          酒泉太守  能く剣舞し
  高堂置酒夜撃鼓          高堂に酒を置き  夜  鼓を撃つ
  胡茄一曲斷人腸          胡茄一曲  人の腸(はらわた)を斷ち
  座上相看涙如雨          座上相看て  涙  雨の如し
  琵琶長笛曲相和          琵琶 長笛  曲相ひ和し
  羌兒胡雛斉唱歌          羌兒  胡雛  齊(ひとし)く唱歌す
  渾炙犛牛烹野駝          犛牛(ばうぎう:ヤク)を渾炙し 野駝を烹し
  交河美酒歸叵羅          交河の美酒 歸す叵羅(はら:酒盃)
  三更醉後軍中寢          三更 醉後 軍中に寢ぬ
  無奈秦山歸夢何          秦山の歸夢を  奈何ともする無し

  『唐詩訓解 巻七 岑參』


  王昭君                     大江朝綱

  翠黛紅顔錦繍粧        翠黛紅顔  錦繍の粧(よそほ)ひ
  泣尋沙塞出家郷        泣く/\沙塞を尋ねて  家郷を出づ
  邊風吹斷秋心緒        邊風吹き斷つ  秋の心緒
  隴水流添夜涙行        隴水流れ添ふ  夜の涙行
  胡角一声霜後夢        胡角一声  霜後の夢
  漢宮萬里月前腸        漢宮萬里  月前の腸(はらわた)
  昭君若贈黄金賂        昭君  若し黄金の賂(おくりもの)を贈りなば
  定是終身奉帝王        定めてこれ身終(を)はるまで  帝王に奉ぜしならん

  『和漢朗詠集 下巻 雜 王昭君』

  さて、ここで本文中の「新古ふた道にふみまよふといへども」という箇所ですが、旧知の鈴木清風が記した『おくれ双六』の序には、次のような記述があります。

  「予も同国(出羽)の所生と言ながら、心の花の都にも二年三とせすみなれ、古今俳諧の道に踏迷ふ。近曾(ちかごろ)より漸新しき海道に出て諸人をまねき、四季折々の佳作を得るといへども」云々
  『おくれ双六』 延寶九年  


  延寶(1673〜1681)末より天和(1681〜1684)・貞享(1684〜1688)にかけては、上品な笑いを目指すが決まりごとが多い貞門派や自由な作風だが俗に流れた談林派の古風な俳諧から、心付・景気付を主体とする優美な俳風を基調とした元禄の新風に向かう過渡期に当たっていたとされています。

  出羽に在っては、尾花沢の鈴木清風(1651〜1721)、酒田の伊東不玉(1648〜1697)、庄内の水軒、調用、器水、山形の未覺などの羽州俳人が岸本調和(1638〜1715)門の俳書に登場し始めるのが、ちょうど奇矯な漢詩文調を織り交ぜた天和(1681〜1684)・貞享(1684〜1688)の過渡期にあったており、そうした渦中にあって、大石田連衆としては、新古二道に踏み迷う感が濃かったのではないかとは、近世文学、特に俳諧を専門とされた尾形仂(おがたつとむ:1920〜2009)先生の解説です。
  『おくのほそ道評釈』 P287  続きを読む

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2015年10月27日

天文(20)− メシエ天体(4)

  
  

  松蔭吉田寅次郎先生

  (旧暦9月15日)

  松陰忌
  長州藩で松下村塾を開き藩士の子弟を教育した吉田松陰(1830~1859)年の忌日。安政の大獄で捕えられ、安政6年10月27日に伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。享年30。
  
  かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


  天文(19)− メシエ天体(3)のつづき

  いや〜、ご無沙汰致しております。
  涼しくなって、やっとその気になっております。頑張ります。

  フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表したメシエ天体(Messier object)の内、愛称で呼ばれる29の天体について、今回はM63からM81 を紹介いたしましょう。

  

  Messier: M63.
  June 14, 1779. 63. 13h 04m 22s (196d 05' 30") +43d 12' 37"
  "Nebula discovered by M. Méchain in Canes Venatici. M. Messier searched for it; it is faint, it has nearly the same light as the nebula reported under no. 59 : it contains no star, & the slightest illumination of the micrometer wires makes it disappear: it is close to a star of 8th magnitude, which precedes the nebula on the hour wire. M. Messier has reported its position on the Chart of the path of the Comet of 1779."


  [観測日:1779年6月14日]
  メシャン(Pierre-François Méchain、 1744〜1804:フランスの天文学者、シャルル・メシエの助手を務めた後に1800年よりパリ天文台長)が猟犬座に発見した星雲。メシエはそれを捜した。暗い天体で、59番でも述べられている星雲と同じくらいの明るさ。星は見受けられず、マイクロメーターのわずかな光が入るだけでも見えなくなってしまう。近傍に8等星があり、この星雲より先に子午線を横切る。メシエは、1779年の彗星用星図中に位置を記録している。


  M63は、通称ひまわり銀河(Sunflower Galaxy)と呼ばれ、重力の制御を失った渦巻銀河のようであり、腕を投げ出したようなめずらしい景観と評されています。約100億個の恒星からなる輝きのこの渦巻銀河は、内側部分と外側部分の結合がゆるい銀河として顕著な例とされ、直径8万6000光年の円盤の広がりをもつM63の内側領域は、強い渦巻き構造によって輪のようになっています。

  
 
  Messier 63 (also known as M63, NGC 5055, or the Sunflower Galaxy)

  

  

  Urania's Mirror;Plate 10: Boötes, Canes Venatici, Coma Berenices, and Quadrans Muralis

   Messier: M64.
   March 1, 1780. 64. 12h 45m 51s (191d 27' 38") +22d 52' 31"
   "Nebula discovered in Coma Berenices, which is about half as apparent as that which is below the hair [M53]. M. Messier has reported its position on the Chart of the Comet of 1779. Observed again March 17, 1781."


  [観測日:1780年3月1日]
  かみのけ座に発見された星雲。かみのけの下部に位置する星雲 [M53] にくらべると、若干目立たない。メシエは、1779年の彗星用星図中に位置を記録している。1781年3月17日にも再び観測されている。
 

  恒星の明るさを比較し、等級が0.41上がるごとにその明るさが二乗に反比例して暗くなること、さらに、1等星は6等星の約100倍の明るさであることを発見したイギリスの天文学者、数学者のサー・ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル準男爵(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet、1792〜1871)が1833年に残した記録では、M64が ”vsmbm” と記録されています。この記号は、”very suddenly very much brighter toward the middle” (中心部に向かうと非常に急激に大変明るくなっている)ということを意味しています。

  このかみのけ座の有名な黒目星雲は、なめらかでつやつやした絹のような渦巻き腕が、磁器のような中心部を壮麗に覆っていると評されています。この銀河は、人がまぶしい光に目を閉じたようすに似ています。
  M64の暗黒星雲は、直径およそ4万光年、数十億個の惑星を育む土壌としては十分な物質を含んでいます。

  

  The Black Eye Galaxy (M64)

  


  Messier: M65.
  March 1, 1780. 65. 11h 07m 24s (166d 50' 54") +14d 16' 08"
  "Nebula discovered in Leo: It is very faint and contains no star." [also see M66
]

  [観測日:1780年3月1日]
  しし座の中にある星雲。非常に暗く、星を含んでいない。


  M65は、しし座にある渦巻銀河で、M66やNGC3628と非常に接近して見え「しし座の三つ子銀河」(Leo Triplet)とも呼ばれています。M65とM66は、しし座θ星とι星の中間あたりにあり、21′(分:1度の60分の1の角度で、21′は21/60度)しか離れていません。

  

  M65 by Hubble.

  

  

  Urania's Mirror;Plate 20: Leo Major and Leo Minor

  Messier: M66.
  March 1, 1780. 66. 11h 08m 47s (167d 11' 39") +14d 12' 21"
  `Nebula discovered in Leo; its light is very faint & it is very close to the preceding [M65]: They both appear in the same field [of view] in the refractor. The comet of 1773 & 1774 has passed between these two nebulae on November 1 to 2, 1773. M. Messier didn't see them at that time, no doubt, because of the light of the comet.'


  [観測日:1780年3月1日]
  しし座の中にある星雲。非常に暗く、先の天体[M65]に非常に近い。この二つの天体は、同じ望遠鏡の視野の中に見える。1773年と1774年に観測された彗星は、1773年の11月1日と2日の間にこの二つの星雲の間を通った。その時には彗星の明るさのため、メシエはM66を見ていないことは間違いない。

  M66は一般的な渦巻銀河と異なり、いびつな形をしています。2本の腕は非対称な形に変形し、銀河の核も銀河全体の中心から外れた位置にあります。これは、他の2つの「しし座の三つ子銀河」(Leo Triplet)から重力による影響を受けたものだと考えられています。

  

  The colour-composite image of the Spiral galaxy M 66 (or NGC 3627)

 

 The Leo Triplet, with M65 (right top), M66 (right bottom) and NGC 3628 (left). North is to the left.  続きを読む

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2015年07月07日

漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  

  Portrait of Qu Yuan by Chen Hongshou

  (旧暦5月22日)

  汨羅の渕に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れ飛ぶ
  混濁の世に我れ立てば
  義憤に燃えて血潮湧く
  『青年日本の歌』  作詞・作曲 海軍少尉三上卓(海兵54期)


  楚の頃襄王二十一年(BC278)、西の強国秦の侵攻によって首都郢(えい:湖北省荊州市)が陥落したことで楚の将来を絶望した屈原(BC340頃~BC278頃)は、旧暦五月五日の端午節に石を抱いて汨羅江に入水自殺したと伝えられています。

  屈原が入水した汨羅江(Miluo River, mìluó jiāng)は、湖南省の北東部を流れる洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流で、長さ250㎞。
  汨羅の名称は、BC690年、楚が諸侯国の一つ羅子国を滅ぼし、その遺民が丹陽(湖北省帰県)さらには汨羅江尾閭南岸(汨羅西部郊外)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来するとのことです。

  屈原五月五曰投汨羅水。楚人哀之、至此曰、以竹筒子貯米投水以祭之。漢建武中、長沙區曲忽見一士人、自云三閭大夫。謂曲曰、聞君當見祭、甚善。常年爲蛟龍所竊。今若有惠、當以楝葉塞其上、以彩絲纏之。此二物、蛟龍所憚。曲依其言。今五月五曰作粽、並帶楝葉、五花絲、遺風也。
  『續齊諧記』  南梁 吳均


 

  屈原 五月五日 汨羅水に投ず。楚人之を哀み、此の日、竹筒を以て米を貯へ、水に投じて之を祭る。漢の建武中(25〜56)、長沙の區曲(おうくわい)忽ち一士人を見る。自ら三閭大夫と云ふ。謂ひて曰く、聞く當(まさ)に祭らるるを見るは、甚だ善し。常年、蛟龍の爲に竊(ぬす)まる。今惠有らば、當に楝(あふち:栴檀)の葉をもって其の上を塞ぎ、彩絲を以て之を纏(ま)くべし。此の二物、蛟龍の憚(おそ)るる所なり、と。曲(くわい)其の言に依る。今、五月五曰 粽(ちまき)を作り、竝(なら)びに楝葉、五花絲を帶ぶるは、遺風なり。

  屈原(BC340頃~BC278頃)、名は平、中国春秋時代の楚の第十八代君主武王(在位:BC740 〜 BC690)の公子瑕(屈瑕)を祖とする公室系の宗族のひとりであり、屈氏は景氏、昭氏と共に楚の王族系の中でも名門のひとつでありました。    
  見聞広く、記憶力に優れ、治乱の道理に明るく、詩文にも習熟していたために第三十七代君主懐王(在位:BC329 〜 BC299)の信任が厚く、朝廷にあっては王と国事を図って号令を出し、朝廷の外にあっては賓客をもてなし諸侯を応接する高官である左徒となりました。

  屈原在世当時の楚の政治課題は、西の強国秦への対応でした。
  その方針については、臣下の意見は二分していました。
  face031.親秦派
   西の秦と同盟することにより楚の安泰をはかる連衡説
  face052.親齊派
   東の齊と同盟することで、秦に対抗しようとする合従説

  屈原は親齊派の急先鋒でしたが、屈原の才能を憎んだ位が同位の上官大夫の讒言を受けた懐王は怒り、屈原を疎んずるようになります。
 
  楚の懐王十七年(BC312)、懐王は秦の策謀家張儀の罠にかかり、兵を発して秦を討ちますが、楚は丹淅(江蘇省鎮江市)と藍田(陝西省西安市)に大敗します。

  丹淅、藍田の大敗後、屈原は一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられました。

  楚の懐王三十年(BC299)、秦の昭王(昭襄王:在位BC306〜BC251)は懐王に婚姻を結ぶことを持ちかけて、秦に来訪するように申し入れました。
  屈原は、「秦は虎狼のように残忍で危険な国で、信用がならなりません。行かない方が良いでしょう。」と諫めましたが、懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、ついに秦に監禁されてしまいます。

  王を捕らえられた楚では、長子頃襄王を立て、その弟子蘭を令尹(丞相)にしたために、更に追われて江南へ左遷されてしまいます。

  その後、楚の頃襄王二十一年(BC278)、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺します。

  令尹子蘭聞之大怒、卒使上官大夫短屈原於頃襄王、頃襄王怒而遷之。    
  屈原至於江濱、被髪行吟澤畔。顏色憔悴、形容枯槁。


  令尹(れいゐん:執政)子蘭 之を聞き大いに怒り、卒(つひ)に上官大夫をして屈原を頃襄王に短(そし)らしむ。頃襄王怒りて之を遷(うつ)す。
  屈原江濱に至り、髪を被(かうむ)り澤畔に行吟す。顏色憔悴し、形容枯槁す。


  漁父見而問之曰、子非三閭大夫歟。何故而至此。
  屈原曰、舉世混濁而我獨淸、眾人皆醉而我獨醒、是以見放。
  漁父曰、夫聖人者、不凝滯於物而能與世推移。舉世混濁、何不隨其流而揚其波。眾人皆醉、何不餔其糟而啜其醨。何故懷瑾握瑜而自令見放爲。
  屈原曰、吾聞之、新沐者必彈冠、新浴者必振衣、人又誰能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴常流、而葬乎江魚腹中耳。又安能以皓皓之白、而蒙世俗之溫蠖乎。


  漁父見て之に問ひて曰く、子は三閭大夫に非ずや。何の故に此に至れる、と。
  屈原曰く、舉世混濁して我獨り淸(す)む、眾人皆醉ひて我獨り醒む。是を以て放たる、と。
  漁父曰く、夫れ聖人は物に凝滯せずして能く世と推し移る。舉世混濁せば、何ぞ其の流れに隨ひて其の波を揚げざる。眾人皆醉はば、何ぞ其の糟を餔(く)らひて其の醨(うはずみ)を啜(すす)らざる。何の故に瑾を懷き瑜を握りて(優れた才能を持つ)、自ら放たれしむるを爲す、と。
  屈原曰く、吾之を聞く、新たに沐する者は必ず冠を彈き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ、と。人又誰か能く身之察察(さつさつ:清潔なさま)を以て、物の汶汶(もんもん:汚れたさま)を受くる者ぞ。寧(むし)ろ常流に赴きて、江魚の腹中に葬(はうむ)られんのみ。又安くんぞ能く皓皓(かうかう:潔白なさま)之白きを以てして、世俗之溫蠖(をんわく:どす黒いさま)を蒙(かうむ)らんや、と。

  乃ち懷沙之賦を作る。
  其の辭に曰く、


  滔滔孟夏兮  草木莽莽   
  傷懐永哀兮  汨徂南土
  眴兮窈窈   孔靜幽黙
  寃結紆軫兮  離愍而長鞠
  撫情效志兮  俛詘以自抑
  刓方以爲圜  常度未替
  易初本由兮  君子所鄙
  章畫職墨兮  前度未改
  内直質重兮  大人所盛
  巧匠不斲兮  孰察其揆正
  玄文幽處兮  曚謂之不章
  離婁微睇兮  瞽以爲無明
  變白而爲黑兮 倒上以爲下
  鳳皇在笯兮  鶏雉翔舞
  同糅玉石兮  一槩而相量
  夫黨人之鄙妒 羌不知吾所臧


  滔滔(たうたう)たる孟夏(まうか:初夏)
  草木 莽莽(ぼぼ:生い繁る)たり
  懐(おも)ひを傷め永く哀しみ
  汨(いつ:急ぎ)として南土(なんと)に徂(ゆ)く
  眴(けん:瞬き)して窈窈(えうえう:果てしない)たり
  孔(はなは)だ靜かにして幽黙(いうもく:物音がしない)なり
  寃結(ゑんけつ:心が塞がり結ぼれ)紆軫(うしん:もつれ痛む)して
  愍(うれ)ひに離(かか)りて長く鞠(きは)まる
  情に撫(したが)ひ志を效(いた)し
  俛詘(ふくつ:伏屈む)以て自ら抑(おさ)ふ
  方を刓(けず)り以て圜と爲すも
  常度(じやうど:元の態度)を未だ替(す)てず
  初本の由るところを易(か)ふるは
  君子の鄙(いや)しむ所なり
  畫(くわく)を章(あきら)かにし墨を職(しる)して
  前度(もとの態度)を未だ改(あらた)めず
  内 直にして 質 重なるは大人の盛とする所
  巧匠(かうしやう)斲(けづ)らずんば
  孰(たれ)か其の揆(き:寸法)の正しきを察せん   
  玄文(黒い模様)幽處(いうしよ:暗い所にある)する
  曚(もう:盲人)は之を章(しよう:模様)ならずと謂う
  離婁(りろう:黄帝の時代のひじょうに目の良かった人)の微睇(びてい:目を細めて見る)する
  瞽(こ:盲人)は以て明無しと爲す
  白を變じて黑と爲し
  上を倒(さかしま)にし以て下と爲す
  鳳皇は笯(ど:竹の籠)に在り
  鶏雉は翔舞す
 玉石を同糅(どうじう:一緒に混ぜる)し
 一槩(いちがい:斗掻き)にて相量る
 羌(ああ)吾が臧(よ)き所を知らず
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2015年06月26日

奥の細道、いなかの小道(24)−尾花沢/立石寺




 
  立石寺納経堂と開山堂

  (旧暦5月11日)

  尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

  涼しさを我宿にしてねまる也
  這出よかひやが下のひきの声
  まゆはきを俤にして紅粉の花
  蚕飼する人は古代のすがた哉  曽良



  さて芭蕉翁一行は、陰暦五月十七日に山刀伐(なたぎり)峠の嶮難を越えて東北山系横断を果たし、当時、天領として最上川舟運の要港大石田に隣接し、仙台・山形・新庄への三道が交叉する宿駅として栄えていた尾花沢に到着しました。

  大石田では、「紅花大尽」といわれた豪商で、談林系の俳人でもある旧知の鈴木清風(1651〜1721)の下に止宿しています。

  (残月軒)鈴木清風は、通称島田屋八右衛門(三代目)、諱を道祐と称し、出羽国村山郡尾花沢村に生まれ、そこに生涯を閉じています。
  島田屋は初代、二代目の寛永年間(1624〜1645)、当時最盛期をむかえ、日本でも指折りの銀山に成長した延沢銀山の諸物品の仲買や金融業で財力を蓄えたと見られています。

  芭蕉来訪当時、島田屋は、最上地方で生産される紅花(末摘花:茎の先端につく花を摘み取って染色に用いることからこう呼ばれる)を集荷して京阪へ出荷する紅花荷受問屋を営み、また生産地農民への資金の貸し付けの他、山形藩松平大和守や新庄藩戸沢上総介への大名貸しなどの金融業も兼ね、最上地方の富商として有名でした。

  俳諧においては、京の菅野谷高政(生没年不詳)の『俳諧中庸姿(つねのすがた)』延宝七年(1679年)刊に独吟歌仙一巻が入集、延宝末より天和・貞享にかけての過渡期には、自ら『おくれ双六』(延宝九年)、『稲筵』(貞享二年)、『俳諧一橋』(貞享三年)を撰んでいます。

  これらの撰集を通じて、京都談林派の田中常矩(1643〜1682)、菅野谷高政(生没年不詳)、伊藤信徳(? 〜1698)、斎藤如泉(1644〜1715)、北村湖春(1650〜1697)、江戸談林派の高野幽山(生没年不詳)、岸本調和(1638〜1715)、池西言水(1650〜1722)、椎本才麿(1656〜1738)などの談林派隆盛期の錚々たる俳人との交渉がありました。

  さらに、仙台俳壇の基礎を築いた大淀三千風(1639〜1707)は、『日本行脚文集』貞享三年(1686)玄(ながつき:九月)の条に、次のように記しています。

  暮秋念(廿日)最上延沢、銀山のふもと、尾花沢に着ク。当處にハ予が好身(よしみ)、古友あまたあれば、三十余日休らひ、當處の誹仙、鈴木清風は古友なりしゆへとふらひしに、都櫻に鞭し給ひ、いまだ關をこえざりしとなん。本意(ほい)なミながら一紙を残す。(以下略)

  「日本行脚文集」巻七


  




  また、芭蕉とも貞享二年(1685)六月二日、東武(江戸)小石川において興行された「賦花何俳諧之連歌」の七吟百韻、翌三年三月二十日、清風の江戸の仮寓において興行された歌仙にも一座して、すでに面識もありました。

  芭蕉の尾花沢滞在は、陰暦五月十七日より二十七日までの十一日間でしたが、そのうち、清風亭宿泊は十七日・二十一日・二十三日の三日間で、その他は坂上にある弘誓山養泉寺に滞在しました。
 
○十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、
  一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野ゝ五、六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。
  正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風ヘ着。一宿ス。

○十八日 昼、寺ニテ風呂有。小雨ス。ソレヨリ養泉寺移リ居。

○十九日 朝晴ル。素英、ナラ茶賞ス。夕方小雨ス。

  廿日 小雨。

  廿一日 朝、小三良ヘ被招。同晩、沼沢所左衛門ヘ被招。此ノ夜、清風ニ宿。

  廿二日 晩、素英ヘ被招。

  廿三日ノ夜、秋調ヘ被招。日待也。ソノ夜清風ニ宿ス。

  廿四日之晩、一橋、寺ニテ持賞ス。十七日ヨリ終日清明ノ日ナシ。

  ○秋調 仁左衛門。○素英 村川伊左衛門。○一中 町岡素雲。○一橋 田中藤十良。遊川 沼沢所左衛門。東陽 歌川平蔵。○大石田、一栄 
   高野平右衛門 ○同、川水 高桑加助。○上京、鈴木宗専、俳名似林、息小三良。新庄、渋谷甚兵ヘ、風流。

〇廿五日 折々小雨ス。大石田ヨリ川水入来。連衆故障有テ俳ナシ。夜ニ入、秋調ニテ庚申待ニテ被招。

  廿六日 昼ヨリ於遊川ニ東陽持賞ス。此日モ小雨ス。
〇廿七日 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。
  一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル。
  是ヨリ山形ヘ三リ。山形ヘ趣カン(ト)シテ止ム。是ヨリ仙台ヘ趣路有。関東道、九十里余。

一 廿八日 馬借テ天童ニ趣。六田ニテ、又内藏ニ逢。立寄ば持賞ス。未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田(本飯田)ヨリ壱リ半、
  川水出合、其夜、労ニ依テ無俳、休ス。

  『曾良随行日記』


  十日間にわたる尾花沢滞在を切り上げて、芭蕉翁一行が宝珠山立石寺へ向かったのは、陰暦五月二十七日のことでした。

  山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。

  閑さや岩にしみ入蝉の声

  芭蕉が訪れた当時の立石寺は山形領に属し、松平大和守直矩(1642〜1695)が10万石を領していました。
 
  宝珠山立石寺は、貞観二年(860)、第五十六代清和天皇(850〜881)の勅願により、後の慈覚大師、第三代天台座主圓仁(794〜864)を開基として創建されたとしています。
  伊達の霊山寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺・毛越寺、恐山の円通寺など、東北地方に慈覚大師開基と伝えられる寺院が多いのは、弘仁七年(816)、圓仁が開祖最澄(767〜822)の東国巡遊に従って関東に下向し、その後天台宗の東北布教の地歩が築かれたことにもよるとのことですが、同地方への圓仁の巡錫の記録は明らかではないそうです。

  芭蕉訪問当時の立石寺は、天台宗関東総本山の武江(武蔵国江戸)東叡山に所属して寺領千四百二十石を有し、境内約百萬坪、全山凝灰岩からなる山寺でした。

  この立石寺の一章には『寒山詩』の世界を連想させる描写が多く、この『寒山詩』は天和時代(1681〜1683)の芭蕉の愛読書の一つであったとされています。

  『寒山詩』は古来、禅門では非常に読諦された詩集であり、詩中の佳句は、たくみに各種の語録や偶頗に活用されている。それにもかかわらず作者寒山の伝記は全く 不明である。かつては唐の初期に生存していたといわれたが、今日では中唐頃まで時代が下げられている。 一つには、他の中国の所謂詩人と呼ばれる人々か官吏であつたのにたいし、寒山はまつたく、それとはかけ離れた生活環境を送つたせいでもあ ろう。しかし、晩唐の詩人杜牧が、「たとい一生二生を経て詩吟を作るといへども、老杜が境涯にだも到りがたし、況んや亦寒山詩をや」と述懐した等の逸話は、この詩集が普及していたことを物語つている。

  山口晴通  『寒山詩』


  ○慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。

  出家要淸閑 淸閑即爲貴 
  如何塵外人 卻入塵埃裏
  一向迷本心 終朝役名利
  名利得到身 形容已顦顇
  况復不遂者 虛用平生志
  可憐無事人 未能笑得汝
        拾得詩 十


  出家は淸閑を要す        淸閑即ち貴しと爲す
  如何(いかん)ぞ塵外の人    卻(かへ)つて塵埃の裏(うち)に入る
  一向(いちず)に本心に迷ひ   終朝(ひねもす)名利に役せらる
  名利身に到るを得れば      形容已に顦顇(せうすい)す
  况(いは)んや復た遂げざる者は 虛しく平生の志を用う
  憐む可し無事の人        未だ汝を笑い得ること能はず



  隠士遁人間 多向山中眠
  青蘿疏麓麓 碧澗響聯聯
  騰騰且安楽 悠悠自淸閑
  免有染世事 心靜如白蓮
     寒山詩 二六四


  隠士人間(じんかん)を遁(のが)れ  多く山中に向(ゆ)きて眠る
  靑蘿(ら)は疏にして麓麓       碧澗は響きて聯聯
  騰騰として且(しば)らく安樂     悠悠として自ら淸閑
  世事に染むこと有るを免れて      心浄(きよ)くして白蓮の如し


  また、芭蕉が四十八歳の元禄四年(1691)四月十八日から五月四日までの短期間、当時、京都嵯峨にあった蕉門十哲の一人として名高い向井去來(1651〜1704)の閑居である落柿舎に滞在した折にかかれた唯一の日記である『嵯峨日記』の冒頭には、以下の記述があります。

  元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舍に到。凡兆共ニ来りて、暮に及て京ニ帰る。予は猶暫とゝむべき由にて、障子つゞくり、葎引かなぐり、舍中の片隅一間なる處伏處ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置。并 、唐の蒔絵書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壺盃を添たり。夜るの衾、調菜の物共、京ゟ持來りて乏しからず。我、貧賤をわすれて淸閑ニ樂。
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2015年06月13日

天文(19)− メシエ天体(3)

 

 Whirlpool Galaxy (M51A or NGC 5194). The smaller object in the upper right is M51B or NGC 5195. Credit: NASA/ESA

  (旧暦4月27日)

 天文(19)− メシエ天体(2)のつづき

 かなり“おたく”の「板橋村だより」にメールを下さる方がいて、「世の中、物好きな方もいらっしゃるんだ!」と驚きながらも気を良くして、続きを書きだしています。
 忙しい年末・年始および年度末・年度初めを過ごしていましたので、うっとうしい梅雨空の下、やっとその気になりましたことをお詫び申し上げます。

 フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)が彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表したメシエ天体(Messier object)の内、愛称で呼ばれる29の天体について、今回はM40からM57 を紹介致しましょう。

 

 このカタログでは、天体に関するメシエ自身の記述が観測の日付と共に記述されていますが、メシエは自分自身を三人称で呼んでいるのが特徴的です。

 Messier: M40.
 October 24, 1764. 40. 12h 11m 02s (182d 45' 30") +59d 23' 50"
 Two stars very close together & very small, placed at the root of the tail of the Great Bear: One has difficulty to distinguish them with an ordinary telescope of 6 feet [FL]. While searching for the nebula above the back of Ursa Major, reported in the book Figures des Astres, and which is supposed to be for 1660 at 183d 32' 41" right ascension, & 60d 20' 33" northern declination, which Messier couldn't see, he has observed these two stars.


 [観測日:1764年10月24日]
 二つの星は互いにとても近く、非常に暗い。おおぐまのしっぽのつけ根に位置している。単純な6フィート屈折望遠鏡で見分けるのは難しい。”Figures des Astres”という本によると、おおぐま座の背の上にあって、1660年には赤経183°32′41″、赤緯60°20′33″にあったはずの星雲を捜している間に−メシエは結局これを見つけられなかったのだが−、彼はこの二重星を観測した。


 

  Winnecke 4 double star

 M40 はウィンネッケ4番星(Winnecke 4)として知られている二重星で、おおぐま座70番星の北東約0.5°、北斗七星のひしゃくの一部δ星(Megrez)の近くにあります。
 1660年、ポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウス(Johannes Hevelius;1611〜1687)が、「おおぐま座の背の上に星雲がある」と報告しましたが、現在では二重星以外の何者でもないということが広く受入れられています。

 


  Johannes Hevelius、1611〜1687

 [Hevelius: No. 1496]
 Supra tergum nebulosa (above the back [of Ursa Major] there is a nebulosa [nebulous star]).
 [actually this is not M40 but 74, 75 Ursae Major]


 

 これは、ヨハネス・ヘヴェリウスが当時、「古くて欠陥のある装置」で観測したために、星雲に見えたのではないかということです。
 メシエもヨハネス・ヘヴェリウスによって報告された座標に星雲を見つけようと試みましたが、間隔の狭い二重星しか確認できませんでした。彼はそれを星雲と間違えることはありませんでしたが、彗星と紛らわしいという理由からカタログに含めることにしました。

 しかし、地球の歳差運動の影響により、ヨハネス・ヘヴェリウスが報告した星雲の位置が現在のおおぐま座74番星と一致していることから、やっかいなことになりました。

 さて、1863年、ドイツの天文学者フリードリヒ・アウグスト・テオドール・ヴィネッケ(Friedrich August Theodor Winnecke、1835〜1897)は、ロシアのプルコバ天文台でこの位置に観測した二重星を報告しましたが、1966年、アメリカ合衆国のアマチュア天文家ジョン・H・マラス(?〜1975)は、メシエが観測しカタログに載せた天体が、1863年にフリードリヒ・アウグスト・テオドール・ヴィネッケにより再発見された二重星のウィンネッケ4番星であることを確認しています。

 

  Friedrich August Theodor Winnecke、1835〜1897

  Mallas (1966): Identification of M40
 [From a letter by John H. Mallas to the Editor of Sky and Telescope, August 1966, p. 83]
 
Letter

 Sir,
 In the Messier catalogue of nebulae and clusters, as reprinted on the April 1966 issue, no description or position is given for M40, but a reference is provided to Owen Gingerich's statement of 1960 that this object is a pair of faint stars.
 Which pair? Dr. Gingerich sent me this translation of Messier's original description, from Mémoires de l'Académie Royale des Sciences, 1771:
 "The same night on October 24-25, [1764,] I searched for the nebula above the tail of the Great Bear, which is indicated in the book Figure of the Stars, second edition. Its position in 1660 was right ascension 183d 32' 41", declination 60d 20' 33". By means of this position, I found two stars very near each other and of equal brightness, about 9th magnitude, placed at the beginning of the tail of the Great Bear. One can hardly distinguish them in an ordinary (nonachromatic) refractor of 6 feet (length). Their position is 182 deg 45' 30", +59 deg 23' 50". We presume that Hevelius mistook these two stars for a nebula."
 The latter position, precessed from 1765 to 1950, is 12h 20m.0, +58d 22', which agrees almost exactly with the double star Winnecke 4, magnitudes 9.0 and 9.3, separation 49 seconds of arc. This is an easy pair in my 4-inch refractor at 25x. It was discovered by A. Winnecke in 1863 at Pulkowo Observatory.
 Clearly, M40 is identical with Winnecke 4. But the Hevelius object is the 5th-magnitude star 74 Ursae Majoris, more than one degree away, as reference to his star catalogue will show.
JOHN H. MALLAS
5115 E. Tomahawk Trail
Scottsdale, Ariz. 85251


 

  The entire Orion Nebula in visible light.

 Messier: M42.
 March 4, 1769. 42. 5h 23m 59s (80d 59' 40") -5d 34' 06"
 Position of the beautiful nebula in the sword of Orion, around the star Theta which it contains [together] with three other smaller stars which one cannot see but with good instruments. Messier has entered into the great details in this great nebula; he has created a drawing, made with the greatest care, which one can see in the Memoirs of the Academy for 1771, plate VIII. It was Huygens who discovered it in 1656: it has been observed since by many astronomers. Reported in the English Atlas.


[観測日:1769年3月4日]
 オリオンの剣の中、θ星のまわりにある美しい星雲のある場所。θ星は星雲の中にあって、三つのより淡い星とともにある。これらの三つの星は、性能の良い機材を用いなければ見ることはできない。メシエはこの大星雲について、非常に詳細に調べた。彼は非常に注意深くスケッチをしたが、それは“Mémoires de l’Académie 1771” 図版 VIII に見ることができる。ホイヘンスは1656年にこれを発見し、その後多くの天文学者が観測してきた。イギリスの” Atlas Céleste”に報告されている。


 


 肉眼による天体観測において最も大きな受け入れがたい結論の一つは、天文学の父とも称される近世イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、1564〜1642)が、このオリオン大星雲に気づいていなかったということです。
 全天で最も雄大で、肉眼でも見える星雲の一つでもあり、最も有名で光り輝く星座の一つの中の、最も知られた星群(オリオンの三つ星)にぶら下がっているこの大星雲を、かのガリレオが見のがしていたということは、非常な謎とされています。

 オリオン星雲は蛍光を発する巨大なガス星雲で、ほとんどが水素、わずかにヘリウム、炭素、窒素、酸素を含み、40光年の直径を持っています。
 その中心部には、トラペジウム (Trapezium;台形)と呼ばれる散開星団があり、オリオン大星雲の星生成領域で生まれた比較的若い星による星団です。
 4つの明るい星には赤経の順に、A (6.73等) 、B (7.96等) 、C (5.13等) 、D (6.71等) の符号が付けられており、AとBは共通重心の周りを回る2つの星が互いの光を覆い隠し合うことによってみかけの明るさが変わる食変光星として知られています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 01:53Comments(0)天文

2014年12月05日

奥の細道、いなかの小道(23)−尿前の関


  (旧暦10月14日)

  

  奥の細道絵巻  尿前の関  與謝蕪村

  モーツアルト忌
  1791年に死去したオーストリアの作曲家・演奏家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart、1756〜1791)の命日。

  

  The Mozart family c. 1780. The portrait on the wall is of Mozart's mother.


  しばらくブログを更新していないと除名されるそうなので内心焦っておりましたが、ようやく、その気になってまいりました。

  南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の國に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、關守にあやしめられて、漸(やうやう)として關をこす。大山(おほやま)をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
 
  蚤虱馬の尿する枕もと


  さて芭蕉翁一行は、北の方南部領盛岡への道をはるかに眺めやりつつ、一ノ関から道をとって返して、岩出の里に泊まります。

  一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ・岩崎(栗原郡 
 也)、藻庭大隈。三リ、三ノハザマ・真坂(栗原郡也)。岩崎ヨリ金成(此間ニ二
 ノハザマ有)ヘ行中程ニつくも橋有。岩崎ヨリ壱リ半程、金成ヨリハ半道程也。岩 
 崎ヨリ行ば道ヨリ右ノ方也。
   
  四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。二リ余、遠キ所也故、川ニ添廻テ、及暮岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。

  中新田町 小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合) 原ノ町 門沢(関所有) 渫沢 軽井沢 上ノ畑 野辺沢 尾羽根沢 大石田乗船
  岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。
  『曾良随行日記』


  「岩出の里」は現在の大崎市の一部で、もとは伊達家第17代当主(仙台藩初代藩主)伊達政宗(1567〜1636)居城の地でした。慶長八年(1603)、政宗が仙臺に居城を移したときに、四男愛松丸(1602〜1639、後の三河守宗泰)に岩出山城と知行3,000石が与えられ、傅役の山岡重長(1553〜1626)が城代を務めました。

  玉造郡 仙臺より十弐里北西、正宗初ノ城跡、山ノ上ニ有。舘町に有。伊達將監。磐手 シノブハヱゾ知ヌカキツクシテヨツボノ碑 モノイハレヌ思ニ多シ。
  『名勝備忘録』


     前大僧正慈円、ふみにてはおもふほどの事も申しつくしがたきよし、申しつかはして侍りける返事に
     頼朝
  みちのくのいはてしのぶはえぞしらぬ かきつくしてよつぼのいしふみ
     新古今和歌集  巻十八  雜下  1786

     前中納言匡房
  くちなしの色とぞ見ゆるみちのくの いはでの里の山吹の花
     夫木抄  巻六  春六  02028


  「小黒崎」は古今集の陸奥歌などに詠まれた歌枕で、岩出の里の西北四里、現在の大崎市岩出山池月上宮小黒崎にある標高245mほどの小山です。

  
 
  小黒山

     陸奥歌
  をぐろ崎みつの小島の人ならば 宮このつとにいざといはましを
     古今和歌集  巻第二十  東歌  1090

     後嵯峨院
  をぐろ崎みづのこじまにあさりする 田鶴ぞなくなる波たつらしも
     続古今和歌集  巻十八  雑中  1638


  小黒崎 或曰隠蔭磯取之松林蔭翳之義 在名生定村去美豆小島以北五町餘郷人曰黒崎山翠松万株馬鬣鬱々古人所謂髪糸蓊鬱籠烟露皮玉嶙峋傲雪霜者也。

  小黒崎 或イハ隠蔭磯(ヲクロサキ)ト曰フ、之ヲ松林蔭翳ノ義ニ取ル 名生定村ニ在リ。美豆小島以北ヲ去ルコト五町餘、郷人黒崎山ト曰フ。翠松萬株、馬鬣鬱々、古人ノ所謂髪糸蓊欝烟露ヲ籠メ皮玉嶙峋霜雪ニ傲ルトイフ者ナリ。
  『奥羽観蹟聞老志』


  また、「みづの小島」も歌枕で、小黒崎と同じ所の玉造川(現在の荒雄川)の川中にある小島で、『奥羽観蹟聞老志』には次のように記されています。


  美豆小島 同處去小黒崎西南四五町在鍛冶澤東南玉造川中丘山皆戴青松是乃小黒崎也其下流有一洲々中有高丘高二丈余東西五六歩南北八九間丘上有蒼松三株河水索廻其下翠色落陰急流潺々細石磷々白沙芳草殆非凡境焉如海島兪故佗方誤而用海濱之状者多若太上皇家隆之歌可視郷党亦見致小島于海畔之情以稱美豆小島蓋美豆乃爲見之訓也。

  美豆小島 同處小黒崎ヲ去ルコト西南四五町、鍛冶澤東南ノ玉造川中ニ在リ。丘山皆青松ヲ戴ク、是レ乃チ小黒崎ナリ。其ノ下流ニ一洲有リ、洲中高丘有リ。高サ二丈餘、東西五六歩、南北八九間。丘上ニ蒼松三株有リ。河水其ノ下ヲ索廻シ、翠色陰ヲ落トス。急流潺々、細石磷々、白沙芳草、殆ンド凡境ニ非ズ。海島ノ如ク兪(しか)リ。故ニ佗方誤リテ海濱ノ状ニ用ユル者多シ。太上皇、家隆ノ歌ノ若キヲ視ルベシ。郷党モ亦小島ヲ海畔ニ見ルノ情ヲ致シ、以テ美豆ノ小島ト稱ス。蓋シ美豆ハ乃チ見ノ訓ヲ爲スナリ。
  『奥羽観蹟聞老志』

   
     順徳院御製
  人ならぬ石木もさらにかなしきは  みつの小島のあきの夕くれ
     続古今和歌集 巻十七 雜上 1578

     光明峯寺入道前摂政太政大臣
  さそふへきみつの小島の人もなし  ひとりそかへるみやこ恋ひつつ
     新後撰和歌集 
  
     家隆
  蛍飛みつのこしまのたひ人は  みやこをこふるさまやうくらん
  
     中務卿宗尊親王
  いさとたにいふひとなくてかすならぬ  みつの小島の秋そふりにき
     旅歌中

     従二位家隆
  をくろさきみつのこ島の夕暮に  たななし小舟行衛しらすは
     夫木集
 
     弁内侍
  心ありて鳴にはあらし小黒崎  みつの小島の田鶴のもろこえ
     夫木集

     よみ人しらす
  小黒崎みつの小島に住ばこそ 都のつとに人もさそはめ
     水尾歌合

     俊頼朝臣
  をくろさき浅きとたえの身をつくし たてるすかたにふらぬとはみよ

     信実朝臣
  都にてとははこたえん小黒崎 みつの小島につとはなくとも
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2014年11月17日

天文(18)− メシエ天体(2)

 

 The Andromeda Galaxy [M31]

 (旧暦9月25日)

 天文(17)− メシエ天体(1)のつづき

 フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表しました。これが、今日、メシエ天体(Messier object)と呼ばれているものです。

 1. 1781年、M1〜M45までを "Mémoires de l'Academie"に発表。
 2. 1783年、M46〜M68までを "Connaissance des Temps"に発表。
   (後にM69とM70を増補)
 3. 1784年、M71〜M103までを" Connaissance des Temps"に発表。

 このメシエ天体のカタログの中では、愛称で呼ばれる29の天体がありますが、今回は前回に引き続き、M16からM33までの8個の天体を紹介しましょう。

 

 

 

 Messier: M16.
 June 3, 1764. 16. 18h 05m 00s (271d 15' 03") -13d 51' 44"
 A cluster of small stars, enmeshed in a faint glow, near the tail of Serpens, at little distance to the parallel of Zeta of this constellation; with an inferior telescope this cluster appears like a nebula. (diam. 8')


 [観測日:1764年1月3日]
 小さな星々からなる星団で、かすかに光るものと混じっている。へび座の尾に近く、へび座ゼータ星の緯度線から少しの距離にある。普通の望遠鏡では、星雲のように見える。(直径8分)


 










 わし星雲(Eagle Nebula)という名前は、鷲が羽根を広げた形を偲ばせること星雲でから名付けられました。
 この星雲を最初に発見したのは、スイスのローザンヌ出身の天文学者であるジャン・フィリップ・ロワ・ド・シェゾー (Jean Phillippe Loys de Chéseaux 、1718~1751)で、1746年のことでした。

 散開星団と散光星雲からなるM16は、4.7等のたて座γ星の2.5°西北西、天の川の背骨部分の赤経18 h 18.8 m 、赤緯-13° 48' にあり、等級6.0等(星団)、視直径35' × 28'、距離5,500 光年の彼方に約315光年の広がりをもっています。







 


 Messier: M17.
 June 3, 1764. 17. 18h 07m 03s (271d 45' 48") -16d 14' 44"
 A train of light without stars, of 5 or 6 minutes in extent, in the shape of a spindle, & a little like that in Andromeda's belt [M31] but of a very faint light; there are two telescopic stars nearby & placed parallel to the equator. In a good sky one observes this nebula very well in an ordinary telescope of 3.5-foot [FL]. Seen again 22 March 1781. (diam. 5')


 [観測日:1764年1月3日]
 星を含まない光の筋で、長さは5〜6分、紡錘形をしていて、アンドロメダのベルトにあるもの[M31]に似ているが、非常に微かな光である。近くに二つ、望遠鏡で見える星が黄道に対して平行な位置にある。良好な空の下では、この星雲は通常の3.5フィート望遠鏡でよく見える。1781年3月22日にふたたび観測された。(直径5分)






 M17は、いて座(Sagittarrius)に位置する散光星雲で、距離は約4,200光年。1746年にスイスのローザンヌ出身の天文学者であるフィリップ・ロワ・ド・シェゾー(Jean Phillippe Loys de Chéseaux 、1718〜1751)によって発見されました。実直径は約44×36光年。星雲の中にループ状の構造が見えることから、「オメガ星雲」(Omega Nebula)「白鳥星雲」(Swan Nebula)、「チェックマーク星雲」(Checkmark Nebula)、「ロブスター星雲」(Lobster Nebula)、「蹄鉄星雲」 Horseshoe Nebulaなどといろいろな呼び名を持つ散光星雲です。

 オメガの名前は、アメリカ合衆国の天文学者ルイス・スウィフト(Lewis A. Swift、1820〜1913)がギリシャ文字のオメガに似たスケッチを書いたことに由来しており、白鳥にたとえたのはアメリカ合衆国の天文学者ジョージ・チャンバー(George F. Chambers, 1841〜1915)で、棒状の長いガスの部分を水面に浮かぶ白鳥の胴体とみなしています。


 

 Messier: M20.
 June 5, 1764. 20. 17h 48m 16s (267d 04' 05") -22d 59' 10"
 Cluster of stars, a little above the Ecliptic, between the bow of Sagittarius & the right foot of Ophiuchus. Seen again March 22, 1781.


  
 [観測日:1764年6月5日]
  黄道の少し上、いて座の弓とへびつかい座の右足の間にある星団。1781年3月22日にふたたび観測された。


 M20は、いて座にある散光星雲で、距離は5200光年程と推定されています。1750年にフランスの天文学者ギヨーム・ジョゼフ・ヤセント・ジャン=バティスト・ル・ジャンティ・ド・ラ・ガレジエール(Guillaume Joseph Hyacinthe Jean-Baptiste Le Gentil de la Galaisière 、1725〜1792)が発見したとされています。

 星雲が3つの部分に裂けて見えるところから三裂星雲と呼ばれていますが、実際にはM20の輝いて見える部分の手前に位置する暗黒星雲により、後ろの散光星雲が3つに分割されているように見えています。三裂星雲(Trifid Nebula)と名付けたのは、イギリスの天文学者サー・ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル準男爵(Sir John Frederick William Herschel, 1st Baronet、1792〜1871)です。


 

 Messier: M22.
 June 5, 1764. 22. 18h 21m 55s (275d 28' 39") -24d 06' 11"
Nebula, below the ecliptic, between the head and the bow of Sagittarius, near a star of 7th magnitude, 25 Sagittarii, according to Flamsteed, this nebula is round, it doesn't contain any star, & one can see it very well in an ordinary telescope of 3.5-foot [FL]; the star Lambda Sagittarii served for determination [of its position]. Abraham Ihle, a German, discovered it in 1665, while observing Saturn. M. Le Gentil observed it in 1747, & he made an engraving of it. Memoirs of the Academy, year 1759, page 470. Seen again March 22, 1781; it is reported in the English Atlas. (diam. 6')


 [観測日:1764年6月5日]
 黄道の下、いて座の頭と弓の間にあり、7等のいて座25番星に近い星雲。円形で星を含まず、通常の3.5フィート望遠鏡ではっきり見える。位置を決めるのにいて座λ星が役にたった。ドイツ人のアブラハム・イーレが1665年、土星の観測中に発見した。ル・ジャンティ(M. le Gentil)が1749年に観測し、『Mémoires de l’Académie』1759年の470ページに、この天体のスケッチを発表している。1781年3月22日にふたたび観測された。イギリスの『Atlas Céleste』に報告されている。(直径6分)

 M22は「いて座大球状星団」とも呼ばれ、50万個の星が5.2等星で輝く球状星団です。距離は10,400光年、直径は約110光年で最も地球に近い球状星団のひとつです。  
 1716年、ハレーは「この星団は冬至点に近く、小さくてよく輝く」と記しています。

 Halley (1716): No. 3, Nebula in Sagittarius[in Phil. Trans. XXIX, 390 (1716)]
The third is near the Ecliptick between the Head and Bow of Sagittarius, not far from the Point of the Winter Solstice. This it seems was found in the Year 1665 by a German Gentleman M.J. Abraham Ihle, whilst he attended the Motion of Saturn then near its aphelion. This is small but very luminous, and emits a Ray like the former. Its Place at this time is [Capricorn] 4 deg 1/2 with about half a Degree South Lat.  続きを読む

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2014年05月18日

歳時記(24)−春(7)− song of a brook

 
 
 髙野辰之博士(1876〜1947)

  (旧暦4月20日)

  小川の歌は、日本においては、文部省唱歌「春の小川」でも有名ですが、欧米でも小川の調べは多くの詩歌にうたわれています。
  ちなみに、文部省唱歌「春の小川」は、東京音楽学校教授高野辰之(1876〜1947)が作詞し、明治45年(1912)に『尋常小学唱歌第四学年用』に掲載されました。

  一、
  春の小川はさらさら流る。
  岸のすみれやれんげの花に、
  にほひめでたく、色うつくしく、
  咲けよ咲けよと、ささやく如く。


  昭和16年(1941)、国民学校令(昭和16年3月1日勅令第148号)の施行に伴って教科書が改訂され、当時の国民学校令施行規則では、国語で文語文を教えるのは5年生以上と定められていたため、詩人林柳波(1892〜1974)が歌詞を口語体に変えたとされています。

  一、
  春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲いてゐるねと、ささやきながら。


  戦後の昭和22年(1947)、最後の文部省著作音楽教科書である『三年生の音楽』では再び歌詞が次のように改められました。

  一、
  春の小川は、さらさら行くよ。
  岸のすみれや、れんげの花に、
  すがたやさしく、色うつくしく
  咲けよ咲けよと、ささやきながら。


  この歌詞は、私たちが習った歌詞ですね。

  髙野辰之は、長野県下水内郡永田村(現中野市)に生まれ、長野県師範学校卒業後、東京帝国大学教授上田万年に師事し、国語・国文学を学んでいます。明治42年(1909)に文部省小学校唱歌教科書編纂委員を嘱託された髙野は、今もわたしたちの心に残る有名な唱歌を次々と発表しています。

 1. 明治44年(1911) 35歳 尋常小学唱歌第一学年用に「日の丸の旗」を掲載
                                           尋常小学唱歌第二学年用に「紅葉」を掲載
 2. 明治45年(1912) 36歳 尋常小学唱歌第三学年用に「春がきた」を掲載
                                           尋常小学唱歌第四学年用に「春の小川」を掲載
 3. 大正 3年(1914)37歳  尋常小学唱歌第六学年用に「故郷」、「朧月夜」を掲載


  さて、イギリスにおいても、次のような ‘song of a brook’ があります。

  When primroses are out in Spring,
  And small, blue violets come between;
  When merry birds sing on boughs green,
  And rills, as soon as born, must sing;


  春、サクラソウが花をつけ、
  かわいい、うす紫のスミレがその間に咲くとき;
  陽気な小鳥が緑のこずえにさえずり、
  細い溝が、流れ出るやいなや、歌をうたわなければならぬとき;


  When butterflies will make side-leaps,
  As though escaped from Nature's hand
  Ere perfect quite; and bees will stand
  Upon their heads in fragrant deeps;


  蝶たちが横の跳躍を行うとき、
  まるで自然の手から逃れるように
  まったく完全なものの前に;そして蜂たちは飛び立ち
  香りがある深みの中を彼らの頭の上に;

  When small clouds are so silvery white
  Each seems a broken rimmèd moon—
  When such things are, this world too soon,
  For me, doth wear the veil of Night.

  小さな雲がとても銀白色であるとき
  それぞれが壊れた縁取りの月のように
  そのようなものがそうであるとき、この世界はあまりにもすぐに
  私にとって、夜の覆いをまとう。
  (嘉穂のフーケモン拙訳)


  William H. Davies. 1870 − ‘ Days Too Short ’


 

  William Henry Davies(1871〜1940)


  William Henry Davies or W. H. Davies (3 July 1871– 26 September 1940)was a Welsh poet and writer. Davies spent a significant part of his life as a tramp or hobo, in the United Kingdom and United States, but became one of the most popular poets of his time. The principal themes in his work are observations about life's hardships, the ways in which the human condition is reflected in nature, his own tramping adventures and the various characters he met. Davies is usually considered one of the Georgian poets, although much of his work is atypical of the style and themes adopted by others of the genre.
 (From Wikipedia)


  ウィリアム・H・ディビス(1871〜1940)は、ウエールズ出身の詩人であり作家です。

  注)ウエールズ(Weles): グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)を構成する4つの国の一つで、グレートブリテン島の南西に位置する。
  ディビスは、彼の人生の重要な時期をイギリス連合王国とアメリカ合衆国で、放浪者あるいは渡り労働者として過ごしましたが、その時代の最も人気のある詩人の一人となりました。彼の著作における主要なテーマは、人生の苦難に対する観察ですが、
人々の状況が本質的に反映されるこの方法は、彼が出会った自身の放浪人生と様々な特色が反映されているものでもあります。
  ディビスは、通常、ジョージ王朝時代風の詩人の一人と思われていますが、彼の著作の多くは、不定形の様式であり他のジャンルに採用されるテーマでもあります。
  (ウィキペディアより)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:45Comments(0)歳時記

2014年05月04日

天文(17)− メシエ天体(1)

 

  The Great Comet of 1744
  
  (旧暦4月6日)

 五四中国青年節

 

 五四運動 (1919)

 1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱いて発生し、中華民国時代の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動の記念日。
 「五四運動」の愛国、民主と科学的精神の継承と発揚を目指して、中国の中央人民政府政務院は1949年12月、毎年五月四日を中国の青年節にすると正式に発表した。
 
 世界の目が第一次世界大戦の主戦場であるヨーロッパに向けられているこの時こそ、日本の対中利権拡大の絶好の機会ととらえた第二次大隈内閣の外務大臣加藤高明は、大正4年(1915)1月18日、在北京の駐華公使日置益を介して、当時の中国中央政権と見られていた袁世凱政権に五項目二十一ケ条からなる「通牒」を突きつけた。

 これこそが、日本の歴史に汚点を残し、後に中国国民をして排日運動の原点とも言わしめたいわゆる『対華二十一箇条要求』であった。

 大正8年(1919)1月、パリのヴェルサイユ宮殿で講和会議が始まったが、中国政府が要求した二十一ヵ条(実際には13ヵ条と3交換公文)の取り消し、外国軍隊及び警察の撤退、関税自主権獲得等の諸要求は却下され、議題に持ち出されさえしなかった。
 その上、参戦国でありながら、自国領山東半島の権益を取り戻すことさえも出来なかった。ちなみに、山東半島の膠州湾一帯は、大正3年(1914)、日本が青島のドイツ軍要塞を陥落させて軍政を布いたが、大正11年(1922)2月のワシントン会議における「中国に関する九カ国条約」(Nine Power Treaty)により返還された。

 パリ講和会議で山東半島の権益返還が絶望になったニュースは5月1日に報道され、北京大学ではすぐに学生代表緊急会議が開かれ、5月3日には全体学生会議が開かれた。そして、明日にでも中国人民の意志を各国の公使館に伝えようということになった。

 5月4日午後1時、北京大学など10余校の学生3,000余人は北京の天安門前で抗議集会を開き、交通総長曹汝霖、幣制局総裁陸宗輿、駐日公使章宗祥ら親日派官僚の罷免、21か条要求の撤廃、パリ講和条約調印拒否、日貨排斥(日本商品のボイコット)などを要求した。

 ついで「外争国権、内懲国賊」と連呼しながらデモ行進を行い、それがやがて中国全土に及ぶ帝国主義反対の愛国運動と民主、科学を求める封建主義反対の「新文化運動」まで発展した。


 フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、彗星の探索に際して、彗星と紛らわしい103個の天体のカタログを作り、1781年から1784年にかけて発表しました。これが、今日、メシエ天体(Messier object)と呼ばれているものです。

  face03 1781年、M1〜M45までを "Mémoires de l'Academie"に発表。
  face02 1783年、M46〜M68までを "Connaissance des Temps"に発表。(後にM69とM70を増補)
  face051784年、M71〜M103までを" Connaissance des Temps"に発表。

 
 
  Charles Messier (1730~1817)

 メシエはカタログ作成の動機を、1801年版のフランスの天文年鑑『Connaissance des Temps』の中で次のように説明しています。

 
  "What caused me to undertake the catalog was the nebula I discovered above the southern horn of Taurus on September 12, 1758, while observing the comet that year.. had such a resemblance to a comet, in its form and brightness, that I endeavoured to find others, so that astronomers would not confuse these same nebulae with comets just beginning to shine."
(Messier Connaissance des Temps 1800/1801 recorded in DSB).


  
  「私がこのカタログの作成に取りかかったのは、1758年9月12日、その年に見つかった彗星を観測中に、牡牛座の南側の角の上に発見した星雲が原因である。・・・この星雲はその形といい明るさといい、あまりにも彗星によく似ていたので、私は他にもこのようなものを見つけて、天文学者がこれらの同じ星雲を、ちょうど輝き始めた彗星と混同することのないようにしようとした。」



 Messier was born in Badonviller in the Lorraine region of France, being the tenth of twelve children of Françoise B. Grandblaise and Nicolas Messier, a Court usher. Six of his brothers and sisters died while young and in 1741, his father died. Charles' interest in astronomy was stimulated by the appearance of the spectacular, great six-tailed comet in 1744 and by an annular solar eclipse visible from his hometown on 25 July 1748.

 In 1751 he entered the employ of Joseph Nicolas Delisle, the astronomer of the French Navy, who instructed him to keep careful records of his observations. Messier's first documented observation was that of the Mercury transit of 6 May 1753.


   In 1764, he was made a fellow of the Royal Society, in 1769, he was elected a foreign member of the Royal Swedish Academy of Sciences, and on 30 June 1770, he was elected to the French Academy of Sciences.
 (From Wikipedia)


  シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730~1817)は、フランスのロレーヌ地方バドンヴィレに、フランソワーズ B. グランブレイゼと裁判所の門衛、ニコラス・メシアの間の12人の子どもの10番目として生まれました。彼の兄弟のうち6人は若くして亡くなり、1741年には父親も亡くなりました。シャルルの天文学における興味は、1744年の壮大な「大きな六本の尾を持つ彗星」(クリンケンベルグ彗星)の出現と1748年7月25日の彼の故郷から見ることができた金環食によって刺激されました。

  1751年、メシエはフランス海軍の天文学者ジョゼフ−ニコラ・ドリル(Joseph-Nicolas Delisle、1688〜1768)に雇用され、ドリルの観測を慎重に記録するように教育されました。メシエの最初に記録に残された観測は、1753年5月6日の水星の日面通過でした。

  1764年、メシエは王立協会のフェローとなり、1769年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選出され、1770年6月30日に、フランス科学アカデミーに選出されました。
  (ウィキペディアより)


  13歳のメシエが大きな感動を覚えたクリンケンベルグ彗星は、英語圏では「1744年の大彗星」(The Great Comet of 1744)とも呼ばれており、1743年から1744年にかけて現れた大彗星であり、近日点に達した後に現れた扇状の6本の尾が特に有名でした。

 
  The Great Comet of 1744

  The Great Comet of 1744, whose official designation is C/1743 X1, and which is also known as Comet de Chéseaux or Comet Klinkenberg-Chéseaux, was a spectacular comet that was observed during 1743 and 1744. It was discovered independently in late November 1743 by Jan de Munck, in the second week of December by Dirk Klinkenberg, and, four days later, by Jean-Philippe de Chéseaux. It became visible with the naked eye for several months in 1744 and displayed dramatic and unusual effects in the sky. Its absolute magnitude — or intrinsic brightness — of 0.5 was the sixth highest in recorded history. Its apparent magnitude may have reached as high as -7, leading it to be classified among what are called the "Great Comets". This comet is noted especially for developing a 'fan' of six tails after reaching its perihelion.

   The comet reached perihelion about March 1, 1744, when it was 0.2 astronomical units from the sun. At about this time it was bright enough to be observed in daylight with the naked eye. As it moved away from perihelion, a spectacular tail developed — extending well above the horizon while the comet's head remained invisible due to the morning twilight. In early March 1744, Chéseaux and several other observers reported an extremely unusual phenomenon — a 'fan' of six separate tails rose above the horizon.

 The tail structure was a puzzle to astronomers for many years. Although other comets had displayed multiple tails on occasion, the 1744 comet was unique by having six. It has been proposed the 'fan' of tails was generated by as many as three active sources on the cometary nucleus, exposed in turn to solar radiation as the nucleus rotated. It also has been proposed that the tail phenomenon was a very prominent example of the "dust striae" seen in the tails of some comets, such as Comet West and C/2006 P1 (McNaught).
 (From Wikipedia)   


 

 
  正式名称はC/1743 X1、またはシェゾー彗星、クリケンベルグ-シェゾー彗星として知られている「1744年の大彗星」は、1743年から1744年にかけて観測された壮大な彗星でした。
  この彗星は、1743年の11月下旬にヤン・デ・ミュンク(Jan de Munck)、12月の第二週にディルク・クリンケンベルク(Dirk Klinkenberg、1709〜1799)、その4日後にジャン−フィリップ・ロワ・ド・シェゾー(Jean-Philippe de Chéseaux、1718〜1751)によって、それぞれ個別に発見されました。1744年に入るとこの大彗星はは数カ月間肉眼で見えるようになり、空を劇的に飾りました。この大彗星の絶対等級、あるいは固有の明るさは、歴史上6番目の明るさとなる0.5等級でした。この彗星の見かけの等級は-7等級に達した可能性があり、大彗星と呼ぶにふさわしい明るさでした。この彗星は、近日点に到達した後には扇形の6本の尾を発達させたため、特に書き留められています。

  この彗星は、1744年3月1日ころに近日点に到達し、太陽から0.2天文単位(地球と太陽との平均距離)の距離でした。この頃になると、彗星は日中に肉眼でも観測できるほどに輝きました。彗星は近日点から遠ざかるにつれて、壮大な尾を発達させました。朝の薄明かりのために彗星の頭は見えませんでしたが、尾は地平線の上に広がっていました。1744年3月上旬には、シェゾーや他の幾人かの観察者が、地平線上に6本の尾が扇形に広がって現れるというとても珍しい現象を報告しました。

  この尾の構造は、長い間天文学者を悩ませました。他の彗星でも、時には複数の尾を見せることはありましたが、この1774年の彗星のように6本の尾を持つ彗星は他に類を見ないものでした。この現象については、扇形の尾が彗星の核の上で3つの活発な源(ガス・ちり)によって発生したこと、そして、核が回転したので、順番に太陽輻射にさらされたことが示唆されました。この彗星の尾の現象は、ウェスト彗星やマックノート彗星などの彗星に見られるような、「塵の脈理」の顕著な例であるという説が提案されています。
  (ウィキペディアより)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:09Comments(0)天文

2014年04月23日

漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 

 陸游(1125〜1210)
 
 (旧暦3月24日)


  釵頭鳳 陸游            釵頭鳳(さいとうほう) 陸游

  紅酥手                     紅酥(こうそ)の手
  黄縢酒                     黄縢(わうとう)の酒
  滿城春色宮牆柳       滿城の春色 宮牆(きうしやう)の柳
  東風惡                     東風 惡しく
  歡情薄                     歡情 薄(はかな)し
  一懷愁緒                 一懷の愁緒
  幾年離索                 幾年の離索ぞ
  錯 錯 錯                   錯(あやま)てり 錯てり 錯てり

  春如舊                    春は舊(もと)の如く
  人空痩                    人は空しく痩せ
  泪痕紅浥鮫綃透       泪痕紅く浥(うるほ)して鮫綃に透る
  桃花落                    桃花 落ち
  閑池閣                    閑かなる池閣
  山盟雖在                 山盟在りと雖も
  錦書難托                 錦書は托し難し          
  莫 莫 莫                  莫(な)し 莫し 莫し


 


  うすくれないの柔き手に
  黄色き紙の封じ酒
  城内一面春景色  宮壁沿いの若柳
  春風悪しく
  歓び儚(はかな)し
  胸に抱きし淋しき思ひ
  離別せしより幾年ぞ
  ああ 錯(あやま)てり  錯てり  錯てり

  春は昔のままなるも
  人は空しくやせ衰へり
  泪紅く頬つたい  手巾に滲みて散りにじむ
  桃花は落ちて 閑かなる
  池のほとりの楼閣に
  深き契りはありとても
  想いの文は出し難し
  ああ 莫(な)かれ 莫かれ 莫かれ



 「釵頭鳳」とは、六十文字からなる一種の詩歌の形式で、劇中で歌われる詩歌でした。しかし単に釵頭鳳というと、南宋の文人政治家、陸游(1125〜1210)と最初の妻、唐琬の釵頭鳳を指すほど有名です。

  陸游は、南宋の高宗紹興十四年(1144)甲子、20歳の時に、母、唐氏の姪である唐琬と結婚し、仲睦まじく暮らしていましたが、妻と姑の唐氏との折り合いが悪く、一年ほどで離縁させられてしまいます。
  しかし、高宗紹興二十五年(1155)乙亥、陸游31歳の時に、その別れた妻と沈家の庭園「沈園」で、偶然にも再開してしまいます。

  沈園で出会った後、陸游はその激情をこの詞に託して沈園の壁に書いたと云われています。翌年、沈園を再訪した唐琬はこの詞を知り、彼女も詞を和して応えたとか。

  「釵頭鳳」の形式は、次のようになっています。

   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)


   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)



  釵頭鳳  唐琬        釵頭鳳  唐琬

  世情薄                 世情は薄く
  人情惡                 人の情は惡し
  雨送黃昏花易落    雨 黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く      
  曉風干                 曉風(げうふう)干き
  泪痕殘                 泪痕を殘す        

  欲箋心事              心事を箋(せん)に欲せんとし
  獨語斜欄              獨語し欄に斜す          
  難 難 難                難(かた)し 難し 難し



  人成各                  人各々に成り
  今非昨                  今は昨(きのふ)に非ず
  病魂常似鞦韆索    病魂 常に鞦韆(しうせん)の索に似たり
  角聲寒                  角聲寒く
  夜闌珊                  夜 闌珊(らんさん)たり
  怕人尋問              人の尋問を怕(おそ)れ
  咽淚裝歡              咽淚せしも歡を裝ふ
  瞞 瞞 瞞               瞞(あざむ)かん 瞞かん 瞞かん


 


  世情は薄く
  情は悪(わる)し
  雨は黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く
  明けの風は 涙を乾かし
  その痕を残す
  心の想いを手紙に書かんと
  一人つぶやき 手摺りに依るも
  ああ できない できない できない

  人それぞれの道を行き
  今は昔の君ならず
  迷いの心は ゆらゆらと
  ふらここの 紐のように揺れ動く
  角笛の音 寒々と
  夜は寂しく過ぎゆきて
  夜番の誰何をただ怖れ
  涙こらえて装はん 
  ああ 欺かん 欺かん 欺かん
 

  南宋の寧宗慶元五年(1199)己未、75歳の春、陸游は沈園を再訪しました。40年以上も前に訪れたときには、思いがけずに懐かしい唐婉と出会いましたが、今は知る人もいない。
 そんな寂寥の想いと、唐婉の思い出を込めて、陸游は二首の絶句を作りました。

  沈園二首 其一    沈園二首 其の一   陸 游

  城上斜陽畫角哀   城上の斜陽 畫角哀し
  沈園非復旧池台   沈園(しんえん)は復た旧池台に非ず
  傷心橋下春波緑   心を傷(いた)ましむ橋下 春波の緑
  曾是驚鴻照影來   曾て是れ驚鴻(きやうこう)の影を照(うつし)來る

 
  壁上に夕陽がかたむき 角笛の哀しい音がする
  沈園も変わりはて 苑池楼台は見るかげもない
  思えば胸が傷んでくる 橋下の池は春にして緑色
  鴻のかつて飛び立つ絵姿を 映したこともあったのだ


  沈園二首 其二    沈園二首 其の二   陸 游

  夢斷香銷四十年   夢は斷え香は銷(き)えて四十年  
  沈園柳老不飛綿   沈園の柳も老いて綿を飛ばさず 
  此身行作稽山土   此の身 行々稽山の土と作らんとす 
  猶弔遺蹤一泫然   猶ほ遺蹤(いしよう)を弔ひて一たび泫然(げんぜん)たり  


  夢は断ち切られ 余香は消え去って四十年
  沈園の柳も老い 柳絮も飛ばなくなった
  やがてこの身も 会稽山の土となるだろう
  想い出の地を訪れて なおも涙はしとどに流れる
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:48Comments(0)漢詩