2008年05月29日
数学セミナー(17)-一般相対性理論(3)-測地線(1)

Gravitational lens.
Bending light around a massive object from a distant source. The orange arrows show the apparent position of the background source. The white arrows show the path of the light from the true position of the source.
(旧暦 4月25日)
多佳子忌 俳人橋本多佳子の昭和38年(1963)の忌日。結婚後、杉田久女の指導を受けて句作に入り、後に山口誓子に師事して「馬酔木」の同人となるも、38歳で理解ある最愛の夫に先立たれ、句作に情熱を傾けました。女性の哀しみ、不安、自我などを女性特有の微妙な心理によって表現したと評されています。
月光に いのち死にゆくひとと寝る
泣きしあと わが白息の豊かなる
月一輪 凍湖一輪光あふ
白櫻忌 歌人與謝野晶子の昭和17年(1942)の忌日。歿後に出版された歌集『白櫻集』に因む。
測地線(geodesics)とは、直線の概念を曲がった空間に一般化したもので、計量(集合の二点間の距離を定義する函数)が定義される空間においては、測地線は、2つの離れた点を結ぶ局所的に最短な線として定義されます。
さて、この曲がった空間はリーマン空間(Riemannian manifold)と呼ばれますが、その空間も小さな一部分だけ見れば近似的に平らになっています。
いま、一般の座標系で近傍の2事象間の不変距離dsは、次式で与えられます。

dsは、時間的な隔たりに対しては実数、空間的な隔たりに対しては虚数になります。
4次元的な曲線のうち、粒子の軌跡になっているような線で定義される世界線(接線ベクトル)に沿ったパラメータ λを用いると、

従って、事象A,B間の4次元距離は、パラメータλに関する積分として次式であらわされます。

ただし、

2008年05月25日
となり村名所あんない(30)-台東村(3)-東叡山寛永寺

東叡山寛永寺根本中堂
(旧暦4月21日)
有無の日 第62代村上天皇(在位946~967)の康保4年の忌日。
村上天皇が緊急の事案のほかは政治を行わなかったことに由来するそうですが、実際は藤原家の摂関政治や母穏子や兄である先代の朱雀法王の政治関与等もあり、天皇親政はままならなかったようです。
しかし、『後撰集』の編纂を下命するなど歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価され、平安文化を開花させた天皇との評価もあります。
なお、末裔は有名な村上源氏として、その名を歴史に残しています。
徳川家康の懐刀として「黒衣の宰相」とも称せられた天海大僧正(1536?~1643)は、寛永元年(1624)、家康の命を受けて武蔵野の洪積層台地の先端である上野の丘陵地を選び、寛永寺創建に着手しました。
この地を選んだのは、江戸城北東の鬼門に当たり、徳川幕府鎮護の地として京都御所の比叡山になぞらえ、また不忍池を琵琶湖に見立てて、関東の天台宗総本山を造営し、幕府の天台宗支配を実現することだったとされています。
当時この地には伊勢津藩藤堂家、陸奥弘前藩津軽家、越後村上藩堀家の下屋敷がありましたが、元和8年(1622)、2代将軍徳川秀忠(在職1605~1623)がそれらを公収して寺地にあてたものです。
寛永2年(1625)、現在の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)圓頓院が建立され、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」と称し、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して「東の比叡山」という意味で山号が「東叡山」と名付けられました。そして、幕府祈禱寺として天台宗総支配という特権が与えられたのです。
その後、寛永4年(1627)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631)には清水観音堂、五重塔などが建立され、開創から70年以上経った元禄11年(1698)、5代将軍徳川綱吉(在職1680~1709)の時に、浅草観音堂に似せてこれを遙かにしのぐ規模の根本中堂(現在の大噴水広場)が建立されました。
その寺域は、江戸後期の最盛期には30万5千余坪、寺領11,790石を有し、祠堂32宇、子院36坊(現存するのは19坊)にも及びました。現在の上野恩賜公園は旧寛永寺の境内ですが、最盛期の寛永寺は現在の上野恩賜公園の約2倍の面積の寺地を有していました。
またこの地は元禄年間(1688~1704)から江戸の庶民にも開放され、奈良吉野山から移植した桜の名所として、江戸庶民の目を楽しませたようです。 続きを読む
2008年05月15日
歴史/ ヨーロッパ(2)-タタールのくびき(1)

All significant conquests and movements of Genghis Khan and his generals during his life time from Wikipedia.
(旧暦 4月11日)
PUCK
I go, I go; look how I go,
Swifter than arrow from the Tartar's bow.
A Midsummer Night’s Dream -Act III, SCENE II : Another part of the wood.-
パック(いたずら小僧の妖精)
行きます、行きます、ほらこのとおり、
韃靼(ダッタン)人の矢よりも早く。
「夏の夜の夢」 第3幕第2場:森の別の場所
シェークスピアの喜劇「夏の夜の夢」に出てくるいたずら小僧の妖精パックは、妖精の王オーベロンに、森の中を風よりも早く駆け回り、恋のきちがいすみれ(三色すみれ、 love-in-idleness)の花の汁を塗られて、ロバに変えられた職人ボトムに恋した妖精の女王タイターニアを連れてくるように命ぜられます。
そこで妖精パックは、「韃靼(ダッタン)人の矢よりも早く」と云い残してすっ飛んで行きます。
それほど「韃靼(ダッタン)人の矢」の速さは、中世ヨーロッパ人に脅威を与えたという言い伝えがあるのでしょうか。
韃靼(ダッタン)とは中国語で塞外の民族を漠然と指す名称で、アラビア語ではタタル、ロシア語では Татар(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と呼ばれてきました。
ここでタタールというのは元来はモンゴルの一種族を指す言葉でしたが、チンギス・ハーンが西征の際、ユーラシア平原の多くの遊牧民族をその支配下に治めて西征軍に加えたことから、ヨーロッパではギリシア語のタルタロス(Tartaros、地獄)の連想もあって、モンゴル=タタール勢のことをタタールと呼ぶようになったと云います。 続きを読む
2008年05月12日
蒸気機関車(2)-パシナ形

THE "ASIA"
The Stream-Lined Super-Express Train from Wikipedia.
(旧暦 4月 8日)
かつて日本が中国東北部(旧満洲)において植民地経営機関として国策遂行の一翼を担わせた南満洲鉄道株式會社(満鉄、South Manchuria Railways Co.)は、明治39年(1906)、日露戦争中の満洲軍野戦鉄道提理部を母体として資本金2億円をもって設立され、翌明治40年(1907)4月1日から営業を開始しました。
資本金2億円の内、1億円は日本政府が出資し、他の1億円は清国政府および日清両国の民間から公募しました。配当は年6%(後に8%)であったため、その株は皇族や華族が所有するものが多かったと云います。
日露戦争(1904~1905)後の明治38年(1905)9月に締結されたポーツマス条約(日露講和条約)には、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡するという項目(第5條)とロシアが自ら施設した東清鉄道の内、長春(寛城子)~旅順口間の南満洲支線(701.4 km、1903年1月に完成)と、付属地の炭鉱(撫順、煙台等)の租借権を日本へ譲渡する項目(第6條)も含まれていました。
満鉄はこうした鉄道と炭坑の利権を母体として、昭和20年(1945)8月の敗戦までの約40年の間に、70の関連会社・傍系機関を擁し、敗戦時の全財産は当時の価格で26億7000万ドルにも達していたと評価されています。
さて、昭和9年(1934)11月1日からこの南満洲鉄道の大連~新京(長春)間701.4kmに運行されたのが、特別急行列車『あじあ』でした。
また、翌昭和10年(1935)9月1日には、さらに哈爾濱(ハルピン)までの240.2kmが延長運行されましたが、大連~新京(長春)間701.4kmを牽引したパシナ形蒸気機関車は、最高時速120km/h、大連~新京(長春)間を8時間30分で走行し、冷暖房完備等さまざまな最新設備を施した客車と共に東洋一を誇る国産列車でした。
大連の隣駅の沙河口(さがこう)には、満鉄大連工場が大正13年(1924)に設立され、満鉄その他の汽車製造および修理を行っていましたが、パシナ形蒸気機関車の製造は、この大連工場が970号から972号までの3両を、川崎車輛株式会社兵庫工場が973号から980号までの8両と昭和11年(1936)に追加となった981号の計9両を担当しています。 続きを読む
2008年05月05日
陶磁器(9)-成化の鬪彩

鬥彩纏枝蓮紋罐 明成化 通高8.3cm、口径4.3cm、足径6.5cm、蓋口径5.6cm
(旧暦 4月 1日)
明の第9代憲宗成化帝(在位1464~1487)の時代、「北虜南倭の禍」により国力は衰え、その国力が再興するのは、約100年の後の16世紀後半、第14代神宗万暦帝(在位1572~1620)の時代まで待たなければなりませんでした。
北虜とは、北のモンゴル高原の東部にかけて居住するオイラト(Oirads, Oyirads)部族や元の崩壊により北に逃れたモンゴル(Tatars、韃靼)部族などによるたび重なる国境侵犯であり、南倭とは、明の東南沿岸部に侵攻して奪略し、猛威を振るった倭寇の騒乱のことを指します。
第9代憲宗成化帝は、第6代英宗正統帝(在位1435~1449)の皇太子でしたが、正統14年(1449)、明領に侵攻してきたオイラトの首長エセンに対して、自ら親征を行った英宗正統帝が土木堡(河北省張家口市懐来県)の地でエセンに大敗を喫し、正統帝自身も捕虜となったため(土木の変)、後を継いだ叔父の第7代代宗景泰帝(在位1449~1457)によって廃され、紆余曲折を経て、15年後に16歳の若さで帝位についた皇帝でした。
成化帝は、生まれたときから萬氏という女性が子守りとしてそばにいて、大きな影響を与えていました。帝が16歳で即位したとき、萬氏はすでに35歳になっていました。
成化帝より19歳も年長であった萬氏は、女性でありながら、皇帝に扈従するときには、鎧をつけ、剣を佩びていました。
憲宗、年十六にして即位、妃は已に三十有五、機警(きけい、物事の悟りがはやい)、善く帝の意を迎(むかえ)、遂に讒(そし)りて皇后吳氏を廢す。六宮(天子の後宮)に希みて進御(しんぎょ、天子のそばにはべる)を得、帝の遊幸每に、妃は戎服(軍服)にて前驅す。
『明史 列傳 卷一百十三 列傳第一 后妃一 憲宗后妃 萬貴妃』
成化2年(1466)正月、萬氏は成化帝の子を産み貴妃に封ぜられますが、その皇子は夭折してしまい、嫉妬深い萬貴妃は、ほかの妃が妊娠したのを知ると、薬を飲ませて流産させました。
また成化帝は、神経質でひどい吃音で、対人恐怖症でもあり、臣下との接触は貴妃となった萬氏にすべて頼っていたとも云われています。 続きを読む
2008年05月04日
史記列傳(7)-孫子吳起列傳第五(2)

(旧暦 3月29日)
史記列傳(6)-孫子吳起列傳第五(1)のつづき
吳起は衛(河南省の一部)の人です。兵を用いることを好み、一時は孔子の弟子で『孝経』を著した曾子に学んだこともあり、その後、魯(山東省南部)の君に仕えていました。
齊(山東省)が魯を攻めたとき、魯は吳起を将軍にしようとしましたが、吳起は齊の人のむすめを妻としていたために、魯ではこれを疑って将軍とすることをためらっていました。
吳起はそこで名を立てようと欲して妻を殺し、齊に与しないことを明らかにしました。
魯はすぐに吳起を将軍にし、吳起は大いに齊を破って戦功を立てますが、魯の中で吳起を悪く言う者があり、ついに彼は解任されてしまいます。
そこで吳起は、魏(山西省西部から河南省北部)の文候に仕え、将軍となります。
起の將為る、士卒の最下なる者と衣食を同じくし、臥するに席を設けず、行くに騎乘せず、親(みづか)ら糧(かて)を裹(つつ)み贏(にな)ひ、士卒と勞苦を分(わか)つ。
卒に疽(しよ)を病む者有り。起為に之を吮(す)ふ。卒の母聞きて之を哭(こく)す。人曰く、「子は卒也。而るに將軍自ら其の疽(しよ)を吮(す)ふ。何ぞ哭するを為す。」と。
母曰く、「然るに非ざる也。往年、吳公、其の父を吮(す)ふ。其の父、戰ひて踵(くびす)を旋(めぐら)さず、遂に敵に死せり。吳公、今又子を吮(す)ふ。妾(せふ)、其の死所を知らず。是を以て之を哭(こく)す。」と。
吳起は将軍と為るや、士卒の最下級の者と同様の衣食をし、寝るときは寝具を用いず、行軍に際しては馬にも馬車にも乗らず、自分で兵糧を包み担いで士卒と労苦を分かち合った。
兵卒に腫れ物を患っている者があると、吳起はその者のために自ら膿を吸い出してやった。
この兵卒の母がこの事を聞いて声を上げて泣いた。 続きを読む
2008年05月03日
演劇(2)-夏の夜の夢(1)

A Midsummer Night's Dream
(旧暦 3月 28日)
可有忌(かゆうき) 誹風柳多留を企画・編集して、「一句にて句意のわかり易きを選び」(初編序)というような一句独立性を標榜し、川柳という文芸の道をひらいた呉陵軒可有こと作者名木綿を偲ぶ法要が台東区蔵前の龍宝寺で行われる日。
ちなみに、呉陵軒可有の命日は、天明8年(1788)5月29日(旧暦)。
雲晴れて 誠の空や蝉の声 (辞世・誹風柳多留)
HELENA
Call you me fair? that fair again unsay.
Demetrius loves your fair: O happy fair!
Your eyes are lode-stars; and your tongue's sweet air
More tuneable than lark to shepherd's ear,
When wheat is green, when hawthorn buds appear.
Sickness is catching: O, were favour so,
Yours would I catch, fair Hermia, ere I go;
My ear should catch your voice, my eye your eye,
My tongue should catch your tongue's sweet melody.
Were the world mine, Demetrius being bated,
The rest I'd give to be to you translated.
O, teach me how you look, and with what art
You sway the motion of Demetrius' heart.
―SCENE I. Athens. The palace of THESEUS.―
ヘレナ(アテネの老貴族イージアスの娘ハーミアの友人、ディミートリアスに恋する娘)
私を美しいっておっしゃったの? そんなことおっしゃらないで。
ディミートリアスはあなたの美しさを愛しているわ。ああ、なんて幸せな美しさなの。
あなたの眼は北極星のよう。あなたのスイートな声は、小麦が緑になり、さんざしの花が咲くころに羊飼いの耳にとどく雲雀の声よりもいい調べ。
病気がうつるように、ああ、顔だちもうつせるものなら、
美しいハーミア、あなたの美しさを、いまここでうつして欲しいわ。 続きを読む