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2008年05月25日

となり村名所あんない(30)-台東村(3)-東叡山寛永寺

 となり村名所あんない(30)-台東村(3)-東叡山寛永寺

 東叡山寛永寺根本中堂

  (旧暦4月21日)

 有無の日  第62代村上天皇(在位946~967)の康保4年の忌日。
 村上天皇が緊急の事案のほかは政治を行わなかったことに由来するそうですが、実際は藤原家の摂関政治や母穏子や兄である先代の朱雀法王の政治関与等もあり、天皇親政はままならなかったようです。
 しかし、『後撰集』の編纂を下命するなど歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価され、平安文化を開花させた天皇との評価もあります。
 なお、末裔は有名な村上源氏として、その名を歴史に残しています。

 徳川家康の懐刀として「黒衣の宰相」とも称せられた天海大僧正(1536?~1643)は、寛永元年(1624)、家康の命を受けて武蔵野の洪積層台地の先端である上野の丘陵地を選び、寛永寺創建に着手しました。

 この地を選んだのは、江戸城北東の鬼門に当たり、徳川幕府鎮護の地として京都御所の比叡山になぞらえ、また不忍池を琵琶湖に見立てて、関東の天台宗総本山を造営し、幕府の天台宗支配を実現することだったとされています。

 当時この地には伊勢津藩藤堂家、陸奥弘前藩津軽家、越後村上藩堀家の下屋敷がありましたが、元和8年(1622)、2代将軍徳川秀忠(在職1605~1623)がそれらを公収して寺地にあてたものです。

 寛永2年(1625)、現在の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)圓頓院が建立され、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」と称し、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して「東の比叡山」という意味で山号が「東叡山」と名付けられました。そして、幕府祈禱寺として天台宗総支配という特権が与えられたのです。

 その後、寛永4年(1627)には法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮などが、寛永8年(1631)には清水観音堂、五重塔などが建立され、開創から70年以上経った元禄11年(1698)、5代将軍徳川綱吉(在職1680~1709)の時に、浅草観音堂に似せてこれを遙かにしのぐ規模の根本中堂(現在の大噴水広場)が建立されました。

 その寺域は、江戸後期の最盛期には30万5千余坪、寺領11,790石を有し、祠堂32宇、子院36坊(現存するのは19坊)にも及びました。現在の上野恩賜公園は旧寛永寺の境内ですが、最盛期の寛永寺は現在の上野恩賜公園の約2倍の面積の寺地を有していました。

 またこの地は元禄年間(1688~1704)から江戸の庶民にも開放され、奈良吉野山から移植した桜の名所として、江戸庶民の目を楽しませたようです。
 寛永寺を創建した天海大僧正(1536?~1643)は、比叡山宮門跡に対抗する東叡山宮門跡を設けようとしましたが、比叡山を擁護する後水尾上皇(上皇在位1629~1680)の反対により、天海大僧正の生前には実現しませんでした。

 しかし、明暦元年(1655年)11月、後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が日光山に下賜され、前年の貞応3年(1654)11月、東叡山寛永寺貫主および日光山山主となっていた後水尾上皇第3皇子の守澄法親王が輪王寺(東叡山および日光山)宮門跡となりました。
 翌、明暦2年(1656)2月、幕府により輪王寺宮門跡が寛永寺門跡と天台座主兼ねることが定められたため「三山管領宮」とも呼ばれるようになり、比叡山、東叡山、日光山を管轄して強大な権威を持つことになります。

 以後、東叡山(日光山も兼務)輪王寺の貫主は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常在の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称されました。

 となり村名所あんない(30)-台東村(3)-東叡山寛永寺

 江戸名所図会 東叡山寛永寺

 上野の山(東叡山)は、幕末の慶応4年(1868)、上野戦争(彰義隊の戦い)の戦場となり、東叡山寛永寺の根本中堂をはじめ主要な伽藍は焼失し、廃墟となりました。
 その後、東叡山寛永寺の寺域は明治新政府によって没収されましたが、明治6年(1873)に太政官達(たっし)が公布されて旧寺域の一部が公園用地に指定され、大正13年(1924)からは、宮内省から東京市に払い下げられて現在まで続く「上野恩賜公園」という名称となっています。

 なお、この上野の地は戦国期には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれていました。
 現在の上野動物園は幕府が開かれた慶長8年(1603)ころに藤堂家の下屋敷がありましたが、後に当主藤堂高虎(1556~1630)が江戸城改築などに功を挙げ、慶長13年(1608年)に伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封されて伊勢津藩主となったため、所領の伊賀上野から上野と名付けたとの云い伝えもあるようです。

 しかし、室町後期の永禄2年(1559)、『小田原衆所領役帳』に「低野に対する草茂りたる丘」として上野をあらわす名があり、ここから由来しているという説が有力のようです。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:01│Comments(0)となり村名所あんない
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