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2017年11月22日

史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一

  

      近松門左衛門(1653〜1724)


    (旧暦10月5日)

    近松忌、巣林忌
    江戸期の浄瑠璃および歌舞伎狂言作家、近松門左衞門(1653〜1724)の享保九年(1724)年の忌日。本名は杉森信盛。平安堂、巣林子、不移山人と
    号す。代表作に、『曽根崎心中』元禄十六年(1703)、『冥途の飛脚』正徳元年(1711)、『国性爺合戦』正徳五年(1715)、『心中天網島』享保
    五年(1720)がある。

    秦の東を攘(はら)ひ諸侯を雄(いう)す所以は、樗裏(ちより)、甘茂(かんぼう)の策なり。よりて樗裏甘茂列傳第十一を作る。

    秦が東方諸国を打ち払い諸侯に勝った理由は、樗里子や甘茂の策略が大きな役割を果たした。そこで、樗里子と甘茂の列傳第十一を作る。 
            (太史公自序第七十:司馬遷の序文)

    権謀渦巻く中国の戦国時代(前403 〜前221)にあって、秦が韓、魏などの有力諸侯を従えて天下統一を成し遂げたことについては、
      1. 騎馬戦術に長けていたこと
      2. 激動する社会変動に対して、いち早く国家体制の変革を成し遂げたこと
      3. 優秀な人材を擁していたこと

などが挙げられています。

    秦以外の諸国は、合従・連衡策などにより秦に対抗しようとしましたが、これを打ち破るのに力を発揮したのが樗里子や甘茂でした。

    【樗里子】
    樗里子は惠文王(在位:前338〜前311)には将軍として、次の武王(在位:前310〜前307)には右丞相として、その次の昭襄王(在位:前306〜前251)には将軍として仕え、魏の曲沃(山西省臨汾縣)をはじめ、趙、楚を伐って功績がありました。
 
    樗里子(ちよりし)は、名は疾(しつ)。秦の惠王の弟なり。惠王とは異母、母は韓の女なり。樗里子、滑稽(弁舌が巧みで、人をうまく言いくるめる)にして多智なり。秦人號して智囊(ちなう、知恵袋)と曰ふ。
    秦の惠王の八年、樗里子を右更(いうかう、秦の十四番目の爵位)に爵し、將として曲沃を伐たしむ。盡く其の人を出だし(追放し)、其の城を取る。
    地、秦に入る。
    秦の惠王の二十五年、樗里子をして將と爲して趙を伐たしむ。趙の將軍莊豹を虜(とりこ)にし、藺(りん、山西省離石縣)を拔く。明年、魏章を助け
    て楚を攻め、楚の將屈丐(くつかい)を敗り、漢中の地を取る。


    秦の昭襄王の七年(前299)、樗里子は卒して、渭水の南、章臺の東に葬られましたが、その遺言で、「これから百年の後、ここに天子の宮殿ができ 
て、わが墓を左右から挟むようになるであろう」と言いました。
    樗里子の屋敷は、昭襄王の廟の西の、渭水の南の陰鄕の樗里にあったので、世間の人は彼のことを樗里子(ちよりし)と呼びました。
    漢(前漢、前206〜8)の時代になると、長樂宮がその東に、未央宮がその西に建てられ、また、その正面には武器庫がありました。
    秦の人のことわざにも、「力は則ち任鄙(じんぴ、秦の臣で力持ち)、智は則ち樗里」と云われていました。

    昭王の七年、樗里子卒す。渭南の章臺の東に葬る。曰く、後百歳にして、是れ當に天子の宮有りて、我が墓を夾むべし、と。樗里子疾の室は、昭王の廟の西、渭南の陰鄕の樗里に在り。故に俗に之を樗里子と謂ふ。
    漢の興るに至り、長樂宮其の東に在り。未央宮其の西に在り。武庫正に其の墓に直(あた)る。秦人の諺に曰く、力は則ち任鄙、智は則ち樗里、と。
 

    【甘 茂】
    甘茂(生没年不詳)は楚の低い身分に生まれ、諸子百家の説を学んだ後、秦の宰相張儀と將軍樗里子の紹介により、秦に仕えた論客でした。
    武王の即位後は左丞相となり、列国の力関係を利用しつつ、魏を懐柔して韓を討ち、韓の地方都市、宜陽(河南省洛陽縣)を陥落させます。

    甘茂(かんぼう)は、下蔡(安徽省寿縣の北の地)の人なり。下蔡の史擧先生に亊(つか)へて、百家の説を學び、張儀・樗里子に因りて秦の惠王に見(まみ)ゆるを求む。王見て之を說(よろこ)び、將として魏章を佐(たす)けて漢中の地を略定せしむ。

    惠王(在位 前338〜前311)卒し、武王(在位 前310〜前307)立つ。張儀・魏章去りて東のかた魏に之(ゆ)く。蜀候輝・相の莊反す。秦、甘茂をして蜀を定めしむ。還るや甘茂を以て左丞相と爲し、樗里子を以て右丞相と爲す。

    秦の武王三年(前307)、武王は甘茂に謂いて曰く、「私は三川(黄河、洛水、伊水の集まる周の都、洛陽)への道(秦の都、咸陽から洛陽へ通
じる函谷関、潼関などが立ちふさがる険路)を車馬が自由に通れるようにし、時期をみて、周を滅ぼそうと思う。そうすれば、私が死んでも名は不朽になる」と。
    甘茂曰く、「私が魏に行き、魏と共に韓を伐つ約束をさせていただきたい」と。そこで武王は向壽(しやうじゆ、宣太后の一族の者)を副使として行かせました。甘茂は魏に着き同盟を結ぶと、向壽に言います。「あなたは帰国して大王に、『魏は臣の言葉を聞き入れました。しかし、大王は韓を伐たないようにお願い申し上げます』と伝えていただきたい。この事が成れば、その功績はすべてあなたのものにして差し上げましょう」 と。
    向壽は帰国して武王に報告しました。武王は甘茂を息壌(秦の邑)まで出迎え、甘茂が到着すると韓を伐つべきではない理由をたずねました。

    秦の武王三年、甘茂に謂ひて曰く、寡人、車を容るるばかりに三川を通じ以て周室を窺はんと欲す。而らば寡人死すとも朽ちじ、と。甘茂曰く、請ふ、魏に之き、約して以て韓を伐たん、と。而ち向壽をして輔行せしむ。甘茂至り、向壽に謂ひて曰く、子歸りて之を王に言ひて、魏、臣に聽く、然れども願はくは王伐つ勿かれ、と曰へ。亊成らば盡く以て子の功と爲さん、と。向壽歸りて以て王に告ぐ、王、甘茂を息壤に迎ふ。甘茂至る。王其の故を問ふ。

    【韓を伐たない理由】
        1.  韓の宜陽(河南省宜陽縣)は大縣であり、上黨(韓の地名。山西省東南部)も南陽(魏の地名。河南省獲嘉縣)も以前から兵糧を蓄えて
             いる。名は縣であるが、実際は郡と同じである。今、王が何箇所もの難所を越えて、千里の道のりを移動して之を攻めるのは容易で
             はない。

  

    中国戦国時代勢力図

        2.  昔、孔子(前551〜前479)の高弟曾參(前505〜前435)が魯の国の費(山東省費縣)というところにいた時、魯の国の者で、曾參と
             姓名を同じくする者が人を殺した。それを知った者が曾參の母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。しかし、曾參の母親は
             平然として機を織っていた。やがて別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言った。彼の母親はやはり平然と機を織り続け
             ていた。暫くして又別の人が母親に告げて、「曾參、人を殺せり」と言うと、これを聞いた曾參の母親は杼(ひ、緯糸を通す用具)
             を放り出して機からおり、墻(かき)を乗り越えて走り出した。

             曾參の賢明さと母親の信頼とがあっても、三人もの者が曾參を疑うと、さすがの母も本当なのではと恐れた。今、臣の賢明さなどは
             曾參に及ばず、王の臣に対する信頼も曾參の母の子に対する信頼には及ばない。臣を疑う者はたった三人ではない故に、大王が杼
             (ひ)を投げ出した曾參の母のように臣を疑うのではないかと恐れた。

        3.  昔、縦横家張儀(不詳〜前309)は秦のために西は巴(四川省東部)・蜀(四川省成都付近)の地を併合し、北は西河(山西省西部)の
             外を開き、南は上庸(楚の地名。湖北省竹山縣の東南)を取得したが、天下は張儀の功績だとは看做さず、先王(惠文王、在位:前
             338〜前311)が賢なのだとした。
       
             魏の文侯(在位:前445〜前396)は樂羊を将として中山(河北省定縣)を攻めさせ、三年にしてこれを抜いた。楽羊は帰還してそ
             の功を論じたが、文侯は楽羊を誹謗した箱一杯の書を見せた。それを見た楽羊は再拝稽首して、「これは臣の功績ではありません。
             主君(文侯)のお力です。」と言った。

             今、臣は外国から参じたよそ者の臣下であり、樗里子(母が韓の王女)、公孫奭(元韓の公子)の二人が韓を保護するために臣を誹
             謗すれば、大王は必ずこれを聞き入れることになる。そうなると、大王は魏王を欺いたということになり、臣は公仲侈(韓の宰相)
             の怨みを受けることになる。


    【息壌の盟】
    武王は、「寡人(私)は卿についての誹謗は聞き入れないでおく。それを卿と約束しよう」と言いました。
    こうして武王は丞相甘茂に兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たせました。甘茂が五ヶ月かけても抜けずにいると、樗里子・公孫奭がやはり誹謗してきました。すると、武王は甘茂を召喚し、軍を引き上げようとしました。これに対し甘茂は言いました。「息壌はそこにありますぞ(約束をお忘れになりましたか)。」 武王は言いました。「そうであった。」 そこで兵力を総動員して、甘茂に命じて韓を伐たせました。敵の斬首は六万、遂に宜陽を陥落させました。韓の襄王は公仲侈を遣わして謝罪をさせ、秦と和睦しました。

    この事から「息壌の盟」という故事ができたと言うことです。

  

      中国戦国時代(紀元前350年頃)三晋図

    王曰く、寡人聽かず。請ふ子と盟さん、と。卒(つひ)に丞相甘茂をして兵を將(ひき)ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして拔けず。樗里子、公孫奭(こう
そんせき)果たして之を爭ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、息壤(昭王が他者の意見を受け入れないと甘茂に誓った場所)彼(かしこ)に在り、と。王曰く、之れ有り(そうであった)、と。因りて大いに悉く兵を起こし、甘茂をして之を撃たしむ。首を斬ること六萬、遂に宜陽を拔く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:20Comments(0)史記列傅

2017年11月15日

奥の細道、いなかの小道(41)− 福井

  
  

    松永貞徳(1571〜1653)

    (旧暦9月27日)

    貞徳忌
    江戸前期の俳人、歌人、歌学者、の承應二年(1653)の忌日。名は勝熊、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種  
    (1538〜1598)は摂津高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹巴
    (1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多くの良師を得て、古典、和歌、
    連歌などの素養を身につけた。

    二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とする。慶長二年(1597)に
    花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年(1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当
    たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳諧の興隆に貢献した。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』
    などがある。

    〈福 井〉
    福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にや江戸に來りてよを尋ぬ。遥十とせ餘
    り也。いかに老さらぼひて有にや、將死けるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕㒵・
    へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝ木ゞに戸ぼそをかくす。さてはこのうちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊
    にや。あるじはこのあたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風
    情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽もともに送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折とう
    かれ立。


    

            福  井
 
  芭蕉翁と共に長い年月を旅してきましたが、終着の大垣までは、あと三章を残すのみとなりました。

    ○たそかれ
        薄暗い光の中で、あの人はたれだろうといぶかしむころの時刻の意
   
    たそかれ 物を問ふていに詠むべし  『八雲御抄』

    寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔
    光ありと見し夕顔のうは露は たそかれ時のそら目なりけり
            『源氏物語』第四帖 夕顔

    たそがれ時のをりなるに。
    などかはそれと御覧ぜざるさりながら。
    名は人めきて賤しき垣ほにかゝりたれば。知しめさぬば理なり。
    これは夕顔の花にて候。

    折りてこそそれかとも見めたそがれに ほのぼの見えし花の夕顔
            謡曲 『半蔀』

    思ひや少し慰むと、露の託言(かごと)を夕顔の、たそかれ時もはや過ぎぬ。恋の重荷を持つやらん。
            謡曲 『戀重荷』


  「たそかれ」は「夕顔」と寄合的関係(連歌/俳諧で、前句と付句を関係付ける契機となる言葉や物どうしの縁)にあり、以下、「おくのほそ道」本文は、『源氏物語』夕顔を踏まえた場面設定を行っている。

  

        『源氏夕顔巻』  月岡芳年『月百姿』

    ○たどたどし
        たそかれ時のほの暗さに足もともおぼつかなく、道のはかどらぬさまを言ったもの

    なかなかに折りやまどはむ藤の花 たそかれ時のたどたどしくは
            『源氏物語』第三十三帖  藤裏葉

    たそかれ時とアラバ    (中略)    たどたどし
            『連珠合壁集』 巻一


  

        『連珠合壁集』 巻一

    ○老さらぼひて
        年寄り痩せ衰えて。「さらぼふ」は、痩せ枯れたさま。

    後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるを引かせて、この気色尊く見えて候とて
            『徒然草』 百五十二段

    老サラホレテ    髐    サラホウ    莊子二
            『徒然草壽命院抄』  下巻   壽命院立安撰


    荘子之楚、見空髑髏髐然有形。
    荘子、楚に之く。空髑髏の髐然として形有るを見る。
    When Zhuangzi went to Chu, he saw an empty skull, bleached indeed, but still retaining its shape.
     『荘子』外篇至樂 (Perfect Enjyoment)
    注)髐然(こうぜん)は、白骨がさらされているさま。また、白骨がくっきりと浮き出たさま。

    ○市中ひそかに引入て 
        町中にひっそりと引き込んで。市隠(市井に隠れ住むこと)の趣を表したもの。また、『源氏物語』 第四帖 夕顔の、夕顔の宿のある
        むつかしげなる大路のさまを 見わたしたまへるに
        げにいと小家がちに、 むつかしげなるわたりの

        を二重写し的に重ねたもの。

    ○あやしの小家 
        粗末な小家。

    「遠方(をちかた)人にもの申す」と獨りごちたまふを、御隋身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあや
    しき垣根になむ咲きはべりける」と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしから
    ぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
            『源氏物語』 第四帖 夕顔


    ○はえかゝりて
        延へかかりて。夕㒵・へちまが蔓を延ばした状態で延びからまること。

    ○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ
        『源氏物語』 第四帖 夕顔で、光源氏が夕顔の君と荒れたなにがしの院で一夜を過ごした際、六条御息所と思われる女性の怨霊に出会う場面
        に見える以下の文言をふまえたもの。
        「昔物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、
                『源氏物語』 第四帖 夕顔 第四段 夜半、もののけ現わる

    ○つるが
            敦賀。歌枕 角鹿
            我をのみ思ふ敦賀の越ならば 歸るの山はまどはざらまし    読人不知
                    『類字名所和歌集』    巻三


  

        『類字名所和歌集』    巻三

    つるがは、本角鹿ト書。相傳、崇神天皇六十五年、任那國人來。其人額有角。到越前笥飯浦(ケヰノウラ)居三年、故其處名角鹿(ツノガ、ト云。今敦
    賀と書ク。笥飯も今氣比とす。海を氣比の海と云。〈敦賀は、則チ敦賀郡の浦にて、けいは、つるがの古名なり。古歌多し〉越前の大湊にて、若州小濱
    侯の領知なり。方角抄、我をのみ思ひつるがの浦ならば歸る野山はまどはざらまし。萬葉、氣比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり
    舟。
            『奥細道菅菰抄』


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:34Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月10日

奥の細道、いなかの小道(40)− 天龍寺、永平寺

  

      丸岡城天守閣


  (旧暦9月22日)

  汐越の松を訪れた芭蕉翁と北枝一行は濱坂浦へ戻り、北潟湖の西岸に沿って南西に進み、北方浦から東岸の蓮ヶ浦へ藏崎の渡しを渡りました。ここからしばらく南東に進み、蓮ヶ浦の坂口で北國街道に合流し、かつて嫁威(おどし)の茶屋があった柿原を過ぎて、山十楽からしばらく南進し千束一里塚に至りました。街道はさらに花之杜から南下して、竹田川の北岸に沿って東西に細く延びる北金津宿に入り、宿場の東外れを右折して竹田川を渡ると南金津宿、さらに南下して北國街道と金津道に別れ、芭蕉翁一行は金津道を進み、川原井手、池口、長屋、御油田を経て、丸岡城下の北の入口に到着しました。

  

    芭蕉経路 汐越の松〜金津宿〜丸岡

  丸岡城下の中心に立つ丸岡城は、天正四年(1576)、柴田勝家(1522?〜1583)の甥柴田勝豊(1556〜1583)によって築かれました。その後は数奇な運命をたどっています。

  ①  天正十年(1582)、本能寺の変の後の清洲会議により、柴田勝豊は近江国長浜城に移され、柴田勝家は安井左近家清(?〜1583)を城代として置い
       た。

  ②  天正十一年(1583)、柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀(1535 〜1585)の所領となり、丹羽長秀は丸岡城
       主として青山修理亮宗勝(1561〜不明)を置いた。

  ③  丹羽長秀の死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子忠元は、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍方につき、敗れて
       改易された。越前国には徳川家康の次男結城秀康(1574〜1607)が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が二万五千五百石を与えられ入城し
       た。

  ④  慶長十七年(1612)、今村盛次は越前騒動に連座して失脚し、幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重(1572〜1647)が四万三千石
       で新たな城主となった。

  ⑤  寛永元年(1624)、 福井藩第二代藩主松平忠直(1595〜1650)が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に
       本多成重は福井藩より独立して大名に列し丸岡藩が成立した。

  ⑥  元禄八年(1695) 四代本田重益(1663〜1733)の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清
       純が越後国糸魚川藩より五万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩六代の居城となり明治維新を迎えた。


  芭蕉翁一行は全昌寺から七里弱ほどの道程を歩き、丸岡城下には午後五時頃に到着して、城下の谷町あたりの旅籠に宿泊したものと思われています。

      一    八日  快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村有。少南ニ三國海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田
           塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。苻(府)中ニ至ルト
           キ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄ニ着、宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月八日(陽暦九月二十一日)、曾良は日の出(午前六時頃)に森田の六郎兵衛宅を出立し、北國街道を南下して九頭龍川に架かる舟橋(舟を繋いでその上に板を敷いた仮橋)を渡りました。舟橋を渡ると、右手廿丁ばかりの所に燈明寺村があり、また少し南に三國街道があります。その街道を福井城下の方へ十丁程行くと、左手に新田塚があります。

  新田塚は、南北朝期に第九十六代後醍醐天皇(在位1318〜1339)方に与した新田義貞(1300頃〜1338)が延元三年(1338)閏七月二日、足利方が籠もる越前の藤島城を攻める味方を督戦するため、わずか五十余騎の手勢を従えて藤島城へ向かった際に、たまたま、救援のために藤島城に向かっていた足利配下の将鹿草彦太郎公相の三百騎と遭遇し、乱戦の中で戦死した所と伝えられています。

  

      燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(新田塚)

  明暦二年(1656)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が偶然に兜を掘り出し、芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者井原番右衛門頼文がこれを目にし、象嵌や「元応元年八月相模国」の銘文から新田義貞着用のものと鑑定しました。その四年後の萬治三年(1660)には、越前福井藩第四代藩主松平光通(1636〜1674)が兜の発見された場所に、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戰死此所」と刻んだ石碑を建て、以後この地は「新田塚」と呼ばれるようになったということです。
  なお、暦応元年とは北朝方の元号で、南朝方では延元三年(1338)となります。

  

      鉄製銀象眼冑(藤島神社所蔵)

  新田塚からは、十三、四丁西に黒丸集落が見渡せます。また、新田塚から福井城下までは二十丁程で、巳ノ刻前(午前十時頃)に福井城下を通過し、足羽川に架かる九十九橋を渡って足羽山東麓の北國街道を南下、江端川に架かる玉江橋を渡り、淺水宿のあさむつ橋に至りました。さらに、鯖江宿、上鯖江宿を過ぎ、日野川の白鬼女渡を渡ってさらに南下すると府中(旧武生)に着きます。
  曾良が府中に着いたのは未ノ上刻(午後一時半頃)で、小雨が降り始めましたが、まもなく止み、脇本宿、鯖波宿、湯尾宿を過ぎ、古代から交通の要衝でもあった湯尾峠を越えて、今庄宿に着いたのは申ノ下刻(午後四時過ぎ)でした。

      一    九日  快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火うチガ城、十丁程行テ、左
           リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、氣比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へル。
           山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ
           行テ宿。
                   『曾良旅日記』


  旧暦八月九日(陽暦九月二十二日)、今日も曾良は日の出(午前六時頃)に今庄の宿を出立し、宿場外れの板橋の端から右に曲がり、木ノ芽峠へ行くために谷間に入りました。右手は燧ヶ城で、十丁程行くと歌枕で知られる歸山があり、その下の村を歸と云う。

  燧ヶ城の築城は源平の合戦の頃にまでさかのぼり、壽永二年(1183)、木曾義仲(1154〜1184)が追討してきた平家の軍勢を迎え撃つため、仁科守弘らに命じて城を築かせました。源平盛衰記に「北陸道第一の城郭」と記されたこの城は、交通の要衝を押さえた城であったため、南北朝期には今庄入道浄慶の居城となり、府中(旧武生)の足利高経(1305〜1367)方に属して、建武四年/延元二年(1337)越前杣山城の新田義貞(1300頃〜1338)を攻めています。

  戦国時代には越前国守護斯波氏の家臣赤座但馬守影景秋、後に魚住景固(1528〜1574)が城主となりました。さらに天正三年(1575)には、下間頼照(1516〜1575)ら一向一揆勢が立て籠もって織田信長(1534〜1582)と戦い、次いで天正十一年(1583)の賤ヶ岳の合戦の折りには、主将柴田勝家(1522〜1583)自らがここを守っています。

  「かへる山」は、敦賀湾の東岸の五幡、杉津あたりから、北東にある今庄に抜けるあたりの地域の山と言われています。奈良期の古道は、松原驛(敦賀市)から五幡、杉津を経て比田から山中峠を越え鹿蒜駅(南越前町今庄)に至ったといわれています。

  万葉集巻十八の大伴家持の歌(4055)は、このあたりを指していると思われています。
          可敝流廻の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れ我れをし思はば
          可敝流未能 美知由可牟日波 伊都波多野 佐可尓蘇泥布礼 和礼乎事於毛波婆
          かへるみの  みちゆかむひは  いつはたの  さかにそでふれ  われをしおもはば

  また、古今和歌集には、「かへる山」との歌枕が読み込まれた歌が、収載されています。 

          越へまかりける人によみてつかはしける   紀利貞
          かへる山ありとは聞けど春霞 立ち別れなば恋しかるべし        古今和歌集  巻八  離別   370

               凡河内躬恒
          かへる山なにぞはありてあるかひは きてもとまらぬ名にこそありけれ    古今和歌集 巻八 離別  382

                在原棟梁
          白雪の八重降りしけるかへる山 かへるがへるも老いにけるかな          古今和歌集 巻十七 雑歌上  902


  曾良は未ノ刻(午後二時頃)に敦賀に着き、まず、気比神宮に参詣してから唐人橋の大和屋久兵衛宅に宿をとりました。気比神宮は、敦賀の北東部に鎮座する越前國一宮で、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社でした。主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)ほか、第十四代仲哀天皇、その后の神功皇后など七柱の祭神を祀っています。

  食事の後、曾良は、宿から二十四、五丁ある敦賀北東部、敦賀湾に突き出した金ヶ崎山に築かれた金ヶ崎城の跡地を訪れ、夕方に宿に帰りました。

  金ヶ崎城は、 治承、寿永の乱(1180〜1185、源平合戦)の時、越前三位平通盛(1153〜1184)が木曾義仲(1154〜1184)との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられています。
 
  南北朝期の延元元年/建武三年(1336)十月十三日、足利尊氏の入京により恒良親王(1324〜1338)、尊良親王(1310〜1337)を奉じて北陸落ちした新田義貞(1300頃〜1338)が入城、直後、足利方の越前守護斯波高経(1305〜1367)らの軍勢に包囲されて兵糧攻めに遭い、翌延元二年/建武四年(1337)二月五日、新田義貞らは、闇夜に密かに脱出し、越前杣山城で体勢を立て直すも、三月三日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、新田義貞嫡男の新田義顕(1318〜1337)は城に火を放ち、尊良親王及び三百余人の兵と共に自害しています。
 また、恒良親王は捕らえられて足利直義(1306〜1352)によって幽閉され、翌年に没しています。

  
    
      Death place of Prince Takayoshi.

  その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備し、敦賀城と称しています。

  室町期の長禄三年(1459)、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まり、関東の古河公方足利成氏(1438〜1497)征討の幕命を受けた斯波義敏(1435〜1508)は兵を集めたものの関東には赴かず、引き返して金ヶ崎城を攻撃するも、敦賀城甲斐方の守りは堅く、斯波義敏方は大敗を喫しています。

  戦国期の元亀元年(1570)四月二十六日、朝倉氏一族の敦賀郡司が守護していた金ヶ崎城は、越前に侵攻した織田、徳川軍の攻撃により、郡司朝倉景恒(不明〜1570)は兵力差もあったことから織田信長の降伏勧告を受け入れ開城しました。
  しかし、同盟関係にあった小谷城の浅井長政(1545〜1573)が離反して挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎(1537〜1598)が後衛となって、信長本隊が近江朽木越えで京に撤退するまで援護した金ヶ崎の戦いがあり、金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退戦の戦場でもありました。
 
  その後曾良は、河野(福井県越前町)へ行く船に便乗し、色の濱(種の濱、敦賀市色浜)へ赴きました。海上四里で、戌刻(午後八時過ぎ)に出船し、夜半に色の濱に着き、そこで製塩を生業とする男に案内されて、本隆寺に行き宿をとりました。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:15Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年11月05日

奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松

 
 

      全昌寺

  (旧暦9月17日)

  旧暦八月七日(陽暦九月二十日)、芭蕉翁は昨日からの歌仙を満尾させ、昼頃に小松を出立して大聖寺の全昌寺へ向かいました。小松城下から北國街道を南下して月津宿を過ぎて動橋(いぶりばし)に至り、橋を渡って八日市、弓波、作見宿経て菅生石部神社横を通過し、大聖寺川に架かる敷地天神橋を渡ると大聖寺城下に入ります。

  橋を渡ってすぐ左手の大聖寺川に沿った道は山中温泉道で、大聖寺川の土手に道標が立っています。そのまま直進して菅生で右折し、弓町、荒町、東横町、新屋敷を経て全昌寺に至ります。小松からの行程は約四里、一行は午後五時ごろに到着したものと思われます。

    〈全昌寺・汐越の松〉
      大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、
            終宵秋風聞くやうらの山
    と殘す。一夜の隔て、千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮にふせば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の國へと、心
    早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追來たる。折節庭中の柳散れば、 
            庭掃て出でばや寺に散柳
    とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
      越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
            終宵嵐に波をはこばせて 
                  月をたれたる汐越の松        西行
    此一首にて數景盡たり。
    もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

    ○大聖寺
        大聖寺は往時、白山五院のひとつ大聖寺のあった所で、寛永十六年(1639)、加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)の三男前田利治
        (1618〜1660)が、父利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に七万石を分与されて大聖寺藩を立藩した時にその城下となった。芭蕉翁一行
        が来訪した時は、第二代藩主前田利明(1638〜1692、利常の五男)の代であった。

        白山五院は、いまの加賀市にあったとされる柏野寺、薬王院温泉寺、極楽寺、小野坂寺、大聖寺の五つの寺院で、白山信仰がもっとも色濃く社
        会に繁栄された平安時代から室町時代にかけて、加賀江沼の人びとの白山信仰の中心になっていた。

        なお、往時の大聖寺は、16世紀に、浄土真宗本願寺派第八世宗主、真宗大谷派第八代門首蓮如(1415〜1499)によって力を増した浄土真宗門
        徒と越前の戦国大名朝倉義景(1533〜1573)との戦いに巻き込まれ、完全に焼失したという

    ○全昌寺
        大聖寺南郊の山ノ下寺院群と呼ばれる場所にある曹洞宗の寺院。大聖寺城主山口玄蕃頭宗永(1545〜1600)の帰依を受けて、慶長三年
        (1598)に山代より現在地に移築された同城主の菩提寺。

        慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで山口宗永は石田三成(1560〜1600)の西軍に与したため、加賀前田家第二代前田利長(1562〜1614)の
        大聖寺攻めに遭い、大聖寺城は陥落し山口玄蕃一族は滅亡した。その為寺の維持は困難となったが、慶長八年(1603)、大聖寺城代として加賀藩
        より派遣されていた津田遠江守重久(1549〜1634)の帰依により仮香華院(仮菩提寺)となり、その後江州曹澤寺の輝雲和尚が入寺し、この
        時寺格が与えられ、寺の地位が確立した。

    ○終宵
        終宵(よもすがら)という言葉に、秋夜弧客の情が尽くされている。一晩中眠りにつけず、蕭々たる秋風の音を聞き明かしたことだ、寺の裏山
        の木立の上を吹き渡るその秋風を、といった意で、師と別れた一人旅の寂しさが素直に流露していると評されている。

        秋風引          劉禹錫 
        何處秋風至        何れの處よりか秋風至り
        蕭蕭送雁群        蕭蕭として雁群を送る
        朝來入庭樹        朝來庭樹に入り
        孤客最先聞        孤客最も先に聞く
                『唐詩訓解』六

 
        古歌        漢          無名氏
        秋風蕭蕭愁殺人          秋風蕭蕭として人を愁殺し
        出亦愁                        出づるも亦た愁へ
        入亦愁                        入るも亦た愁ふ
        座中何人                     座中何人(なんぴと)か
        誰不懷憂                     誰か憂ひを懷かざる
        令我白頭                     我をして白頭ならしむ
        胡地多飆風                 胡地に飆風(へうふう)多し
        樹木何修修                 樹木何ぞ修修たる
        離家日趨遠                 家を離れ日びに遠きに趨(おもむ)き
        衣帶日趨緩                 衣帶日びに緩きに趨(おもむ)く
        心思不能言                 心思言ふ能はず
        腸中車輪轉                 腸中車輪轉ず


      ○一夜の隔、千里に同じ
          わずか一夜の隔てが、さながら遠く千里を隔てるごとくに思われる。「千里」の語は、『蒙求』李陵初詩の詩句や李白、蘇東坡の詩句の
          「咫尺千里」などの成句による。

        李陵初詩            田横感歌
        携手上河梁           手を携へて河梁に上る
        游子暮何之           遊子暮に何くにか之(い)く
        徘徊蹊路側           蹊路の側(ほとり)に徘徊し
        恨恨不得辭           悢悢として辭するを得ず
        晨風鳴北林           晨風(しんぷう)北林に鳴し
        熠燿東南飛           熠燿(こんやう)東南に飛ぶ
        浮雲日千里           浮雲日に千里
        安知我心悲           安(いずく)んぞ我が心の悲しみを知らん

 
        觀元丹丘坐巫山屏風            唐        李白
        昔遊三峽見巫山        見畫巫山宛相似
        疑是天邊十二峰        飛入君家彩屏裏
        寒松蕭瑟如有聲        陽臺微茫如有情 
        錦衾瑤席何寂寂        楚王神女徒盈盈
        高唐咫尺如千里        翠屏丹崖燦如綺 
        蒼蒼遠樹圍荊門        歷歷行舟泛巴水
        水石潺湲萬壑分        烟光草色俱氛氳
        溪花笑日何年發        江客聽猨幾歲聞
        使人對此心緬邈        疑入嵩丘夢綵雲


        元丹丘の巫山の屏風に坐するを觀る
        昔三峽に遊び巫山を見る                    巫山を畫くを見るに宛(あたか)も相似たり
        疑ふらくは是れ天邊の十二峰              飛て入る君が家の彩屏の裏(うち)
        寒松は蕭瑟として聲有るが如く            陽臺は微茫として情有るが如し 
        錦衾瑤席    何ぞ寂寂                        楚王の神女    徒に盈盈
        高唐咫尺    千里の如く                      翠屏丹崖    燦として綺の如し 
        蒼蒼たる遠樹荊門を圍み                    歷歷たる行舟巴水に泛(うか)ぶ
        水石潺湲(せんかん)萬壑(ばんがく)分れ   烟光草色    俱に氛氳(うんふん)
        溪花日に笑ひて何の年か發す           江客    猨(えん)を聽きて幾歲か聞く
        人をして此に對し心    緬邈(めんばく)たらしめ              疑ふは嵩丘に入り綵雲に夢むかと


    

        巫山十二峰分别坐落在巫峡的南北两岸、是巫峡最著名的風景點。

        潁州初別子由二首    其二        宋    蘇軾
        近別不改容      近き別れは容を改めず
        遠別涕沾胸      遠き別れは涕胸を沾す
        咫尺不相見      咫尺にして相ひ見ざるは
        實與千里同      實は千里と同じ
        人生無離別      人生離別無くんば
        誰知恩愛重      誰か恩愛の重さを知らん
        始我來宛丘      始めて我宛丘に來りしとき
        牽衣舞兒童      衣を牽きて兒童舞ふ
        便知有此恨      便ち此の恨みの有るを知り
        留我過秋風      我を留めて秋風を過ごさしむ
        秋風亦已過      秋風亦已に過ぎ
        別恨終無窮      別れの恨みは終に窮り無し
        問我何年歸      我に問ふ何れの年にか歸ると
        我言歳在東      我言ふ歳の東に在るときと
        離合既循環      離合既に循環し
        憂喜互相攻      憂喜互ひに相ひ攻む
        悟此長太息      此を悟りて長太息す
        我生如飛蓬      我が生飛蓬の如くなりと
        多憂發早白      憂ひ多ければ早白を發す
        不見六一翁      六一翁を見ざるや


        千里も遠からず、逢はねば咫尺も千里よなう
            『閑吟集』


     逢はねば一里も千里よの
            『女歌舞伎踊歌』


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:38Comments(0)おくの細道、いなかの小道