2017年11月15日
奥の細道、いなかの小道(41)− 福井
松永貞徳(1571〜1653)
(旧暦9月27日)
貞徳忌
江戸前期の俳人、歌人、歌学者、の承應二年(1653)の忌日。名は勝熊、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種
(1538〜1598)は摂津高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹巴
(1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多くの良師を得て、古典、和歌、
連歌などの素養を身につけた。
二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とする。慶長二年(1597)に
花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年(1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当
たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳諧の興隆に貢献した。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』
などがある。
〈福 井〉
福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にや江戸に來りてよを尋ぬ。遥十とせ餘
り也。いかに老さらぼひて有にや、將死けるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕㒵・
へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝ木ゞに戸ぼそをかくす。さてはこのうちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊
にや。あるじはこのあたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風
情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽もともに送らんと、裾おかしうからげて、道の枝折とう
かれ立。
福 井
芭蕉翁と共に長い年月を旅してきましたが、終着の大垣までは、あと三章を残すのみとなりました。
○たそかれ
薄暗い光の中で、あの人はたれだろうといぶかしむころの時刻の意
たそかれ 物を問ふていに詠むべし 『八雲御抄』
寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見つる花の夕顔
光ありと見し夕顔のうは露は たそかれ時のそら目なりけり
『源氏物語』第四帖 夕顔
たそがれ時のをりなるに。
などかはそれと御覧ぜざるさりながら。
名は人めきて賤しき垣ほにかゝりたれば。知しめさぬば理なり。
これは夕顔の花にて候。
折りてこそそれかとも見めたそがれに ほのぼの見えし花の夕顔
謡曲 『半蔀』
思ひや少し慰むと、露の託言(かごと)を夕顔の、たそかれ時もはや過ぎぬ。恋の重荷を持つやらん。
謡曲 『戀重荷』
「たそかれ」は「夕顔」と寄合的関係(連歌/俳諧で、前句と付句を関係付ける契機となる言葉や物どうしの縁)にあり、以下、「おくのほそ道」本文は、『源氏物語』夕顔を踏まえた場面設定を行っている。
『源氏夕顔巻』 月岡芳年『月百姿』
○たどたどし
たそかれ時のほの暗さに足もともおぼつかなく、道のはかどらぬさまを言ったもの
なかなかに折りやまどはむ藤の花 たそかれ時のたどたどしくは
『源氏物語』第三十三帖 藤裏葉
たそかれ時とアラバ (中略) たどたどし
『連珠合壁集』 巻一
『連珠合壁集』 巻一
○老さらぼひて
年寄り痩せ衰えて。「さらぼふ」は、痩せ枯れたさま。
後日に、むく犬のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるを引かせて、この気色尊く見えて候とて
『徒然草』 百五十二段
老サラホレテ 髐 サラホウ 莊子二
『徒然草壽命院抄』 下巻 壽命院立安撰
荘子之楚、見空髑髏髐然有形。
荘子、楚に之く。空髑髏の髐然として形有るを見る。
When Zhuangzi went to Chu, he saw an empty skull, bleached indeed, but still retaining its shape.
『荘子』外篇至樂 (Perfect Enjyoment)
注)髐然(こうぜん)は、白骨がさらされているさま。また、白骨がくっきりと浮き出たさま。
○市中ひそかに引入て
町中にひっそりと引き込んで。市隠(市井に隠れ住むこと)の趣を表したもの。また、『源氏物語』 第四帖 夕顔の、夕顔の宿のある
むつかしげなる大路のさまを 見わたしたまへるに
げにいと小家がちに、 むつかしげなるわたりの
を二重写し的に重ねたもの。
○あやしの小家
粗末な小家。
「遠方(をちかた)人にもの申す」と獨りごちたまふを、御隋身ついゐて、「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあや
しき垣根になむ咲きはべりける」と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、このもかのも、あやしくうちよろぼひて、むねむねしから
ぬ軒のつまなどに這ひまつはれたるを、「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
『源氏物語』 第四帖 夕顔
○はえかゝりて
延へかかりて。夕㒵・へちまが蔓を延ばした状態で延びからまること。
○むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れ
『源氏物語』 第四帖 夕顔で、光源氏が夕顔の君と荒れたなにがしの院で一夜を過ごした際、六条御息所と思われる女性の怨霊に出会う場面
に見える以下の文言をふまえたもの。
「昔物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、
『源氏物語』 第四帖 夕顔 第四段 夜半、もののけ現わる
○つるが
敦賀。歌枕 角鹿
我をのみ思ふ敦賀の越ならば 歸るの山はまどはざらまし 読人不知
『類字名所和歌集』 巻三
『類字名所和歌集』 巻三
つるがは、本角鹿ト書。相傳、崇神天皇六十五年、任那國人來。其人額有角。到越前笥飯浦(ケヰノウラ)居三年、故其處名角鹿(ツノガ、ト云。今敦
賀と書ク。笥飯も今氣比とす。海を氣比の海と云。〈敦賀は、則チ敦賀郡の浦にて、けいは、つるがの古名なり。古歌多し〉越前の大湊にて、若州小濱
侯の領知なり。方角抄、我をのみ思ひつるがの浦ならば歸る野山はまどはざらまし。萬葉、氣比の海よそにはあらじ蘆の葉のみだれて見ゆるあまのつり
舟。
『奥細道菅菰抄』
旧暦八月十一日(陽暦九月二十四日)午後、永平寺への参詣を終えた芭蕉翁は、大夢和尚と共に再び松岡天龍寺に引き返し、早めの夕食をとってから一人で福井の俳人等裁(洞哉)を訪ねるために越前松岡を出立しました。
大夢和尚の見送りを受けた芭蕉翁は、勝山街道を西へ進み、玄正島、上中、新保、丸山を経て、福井城下の入り口である志比口に至りました。ここから西進して北國街道に合流し、現在の春山公園先を左折して南下すると、足羽川に架かる九十九橋を渡ります。この橋の南詰めを左折したところが裕海町(現左内町)で、ここに等裁の草庵があったと推定されています。
芭蕉経路 松岡天龍寺〜福井城下裕海町洞哉宅
福井は、加賀一向一揆を平定した織田信長(1534〜1582)の命を受けた柴田勝家(1522〜1583)が天正三年(1575)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に徳川家康(1543〜1616)の次男である結城秀康(1574〜1607)が六十八万石で北ノ庄に入封され、慶長六年(1601)から築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあります。
天正十年(1582)六月二日、本能寺の変により織田信長が自害すると、柴田勝家(1522〜1583)は羽柴秀吉(1537〜1598)と対立し、翌天正十一年(1583)四月二十日賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄城に逃れるも、更に追撃してきた前田利家(1538〜1599)を先鋒とする羽柴秀吉の軍勢に包囲され、四月二十四日、柴田勝家は夫人のお市の方らとともに自害しています。
慶長五年(1600)、徳川家康(1543〜1616)の次男である結城秀康(1574〜1607)が関ヶ原の戦いの恩賞として越前六十八万石を与えられて北ノ庄に入封し、翌慶長六年(1601)から天下普請による築城を開始して、全国諸大名の御手伝普請で約六年の歳月をかけて北ノ庄城を完成させています。
その子二代松平忠直(1595〜1650)は、元和元年(1615)の大坂夏の陣では豊臣方の首級三千七百五十をあげた他、家臣西尾宗次(仁左衛門、不詳〜1635)が真田信繁(幸村、1567〜1615)を討ち取ると言う大手柄もあり、大坂城に一番乗りするなどの戦功をたてましたが、その後、元和八年(1622)には正室勝姫(二代将軍徳川秀忠の三女、1601〜1672)を斬り殺そうとしたり、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになったため、元和九年(1623)豊後萩原に配流となりました。
松平忠直(1595〜1650)
翌寛永元年(1624年)四月、越後高田藩で別家二十五万九千石を与えられていた松平忠直の弟、松平忠昌(結城秀康の次男、1598〜1645)が五十万石で北ノ荘藩の主な家臣と藩領を継承し、福井藩初代藩主となっています。同年七月、松平忠昌の入部ののち、居城周辺の街北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められています。
芭蕉翁が福井を訪れたときは、第四代藩主松平綱昌(越前松岡藩主松平昌勝の長子、1661〜1699)の代でした。
さて、芭蕉翁が「古き隠士」と記している等裁については、
等裁は、もと連歌師で、福井の櫻井元輔と云ものゝ弟子にて、等裁は連歌の名。俳名は茄景と云けるとぞ
『奥細道菅菰抄』
とあります。
等裁は俳諧においては芭蕉の先輩で、芭蕉が「遥十とせ餘り也」と十年ぶりに会う等裁を「いかに老さらぼひて有にや、將死けるにや」と記しているように、等裁は当時四十六歳の芭蕉よりは十歳以上も年上であったと推定されています。
福井御城下之圖
等裁は赤貧のために夜具もないほどで、芭蕉のために枕一つさえ用意することができなかったと云います。やむなく、近くの寺で番神堂を建築中だったので、その作事小屋から手頃な材木の切れ端を持ってきて、芭蕉の木枕にしたという逸話が残っています。『道の恩』祐阿著 寛政四年刊
その番神堂は、現在の福井市左内町にある日蓮宗の顕本寺の付属建物で、顕本寺境内には、大正十二年秋に建てられた「番神堂碑」があります。その碑面には、以下のような碑文が刻まれています。
此堂は縁由ある口碑のあらましをしるさむに 今より二百三十年餘前元禄己巳の秋俳祖芭蕉が 隠士等裁坊にまみゆとして 名月の見所問む
の句あり 此時のことにや 近き寺院に番神堂建立の作事小屋より木片を請ひ來て仮の枕に當るを後世に傳へ 寛政の頃祐阿坊なる
俳人京師之携行て祖翁跌座の一體を刻せたりと そも此堂は元禄当時のものにあらずとも起工の古を知へく 又等裁の侘住居のこの邊りなりし
をしのび茲に記すことなり
芭蕉翁が使用したと云われる木枕を、地元の俳人祐阿が京都の仏師に依頼して芭蕉座像に彫刻してもらい、寛政五年(1793)、芭蕉の百回忌の法要を芭蕉座像の前で執り行ったと云います。なお、此の芭蕉座像は、明治三十五年三月、福井市橋北の大火の際に消失したと云います。『越前俳諧史談』石川銀栄子著
一 十二日 少曇。木ノ下(本)ヲ立。午ノ尅、長浜ニ至ル。便船シテ、彦根ニ至ル。城下ヲ過テ平田ニ行。禅桃留主故、鳥本ニ趣テ宿ス。宿カシ
カネシ。夜ニ入、雨降。
『曾良旅日記』
旧暦八月十二日(陽暦九月二十五日)、先行する曾良は近江木之本宿を出立し、午ノ尅(正午頃)に近江長濱に至りました。ここから便船で彦根に至り、彦根城下を通過して彦根城下平田に赴き、地元の俳人禪桃宅を訪ねて泊めてもらおうとしましたが、禪桃が留守だったので、中仙道鳥居本宿まで戻って泊まっています。宿は「カシカネシ」と記しています。
大夢和尚の見送りを受けた芭蕉翁は、勝山街道を西へ進み、玄正島、上中、新保、丸山を経て、福井城下の入り口である志比口に至りました。ここから西進して北國街道に合流し、現在の春山公園先を左折して南下すると、足羽川に架かる九十九橋を渡ります。この橋の南詰めを左折したところが裕海町(現左内町)で、ここに等裁の草庵があったと推定されています。
芭蕉経路 松岡天龍寺〜福井城下裕海町洞哉宅
福井は、加賀一向一揆を平定した織田信長(1534〜1582)の命を受けた柴田勝家(1522〜1583)が天正三年(1575)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に徳川家康(1543〜1616)の次男である結城秀康(1574〜1607)が六十八万石で北ノ庄に入封され、慶長六年(1601)から築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあります。
天正十年(1582)六月二日、本能寺の変により織田信長が自害すると、柴田勝家(1522〜1583)は羽柴秀吉(1537〜1598)と対立し、翌天正十一年(1583)四月二十日賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄城に逃れるも、更に追撃してきた前田利家(1538〜1599)を先鋒とする羽柴秀吉の軍勢に包囲され、四月二十四日、柴田勝家は夫人のお市の方らとともに自害しています。
慶長五年(1600)、徳川家康(1543〜1616)の次男である結城秀康(1574〜1607)が関ヶ原の戦いの恩賞として越前六十八万石を与えられて北ノ庄に入封し、翌慶長六年(1601)から天下普請による築城を開始して、全国諸大名の御手伝普請で約六年の歳月をかけて北ノ庄城を完成させています。
その子二代松平忠直(1595〜1650)は、元和元年(1615)の大坂夏の陣では豊臣方の首級三千七百五十をあげた他、家臣西尾宗次(仁左衛門、不詳〜1635)が真田信繁(幸村、1567〜1615)を討ち取ると言う大手柄もあり、大坂城に一番乗りするなどの戦功をたてましたが、その後、元和八年(1622)には正室勝姫(二代将軍徳川秀忠の三女、1601〜1672)を斬り殺そうとしたり、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになったため、元和九年(1623)豊後萩原に配流となりました。
松平忠直(1595〜1650)
翌寛永元年(1624年)四月、越後高田藩で別家二十五万九千石を与えられていた松平忠直の弟、松平忠昌(結城秀康の次男、1598〜1645)が五十万石で北ノ荘藩の主な家臣と藩領を継承し、福井藩初代藩主となっています。同年七月、松平忠昌の入部ののち、居城周辺の街北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められています。
芭蕉翁が福井を訪れたときは、第四代藩主松平綱昌(越前松岡藩主松平昌勝の長子、1661〜1699)の代でした。
さて、芭蕉翁が「古き隠士」と記している等裁については、
等裁は、もと連歌師で、福井の櫻井元輔と云ものゝ弟子にて、等裁は連歌の名。俳名は茄景と云けるとぞ
『奥細道菅菰抄』
とあります。
等裁は俳諧においては芭蕉の先輩で、芭蕉が「遥十とせ餘り也」と十年ぶりに会う等裁を「いかに老さらぼひて有にや、將死けるにや」と記しているように、等裁は当時四十六歳の芭蕉よりは十歳以上も年上であったと推定されています。
福井御城下之圖
等裁は赤貧のために夜具もないほどで、芭蕉のために枕一つさえ用意することができなかったと云います。やむなく、近くの寺で番神堂を建築中だったので、その作事小屋から手頃な材木の切れ端を持ってきて、芭蕉の木枕にしたという逸話が残っています。『道の恩』祐阿著 寛政四年刊
その番神堂は、現在の福井市左内町にある日蓮宗の顕本寺の付属建物で、顕本寺境内には、大正十二年秋に建てられた「番神堂碑」があります。その碑面には、以下のような碑文が刻まれています。
此堂は縁由ある口碑のあらましをしるさむに 今より二百三十年餘前元禄己巳の秋俳祖芭蕉が 隠士等裁坊にまみゆとして 名月の見所問む
の句あり 此時のことにや 近き寺院に番神堂建立の作事小屋より木片を請ひ來て仮の枕に當るを後世に傳へ 寛政の頃祐阿坊なる
俳人京師之携行て祖翁跌座の一體を刻せたりと そも此堂は元禄当時のものにあらずとも起工の古を知へく 又等裁の侘住居のこの邊りなりし
をしのび茲に記すことなり
芭蕉翁が使用したと云われる木枕を、地元の俳人祐阿が京都の仏師に依頼して芭蕉座像に彫刻してもらい、寛政五年(1793)、芭蕉の百回忌の法要を芭蕉座像の前で執り行ったと云います。なお、此の芭蕉座像は、明治三十五年三月、福井市橋北の大火の際に消失したと云います。『越前俳諧史談』石川銀栄子著
一 十二日 少曇。木ノ下(本)ヲ立。午ノ尅、長浜ニ至ル。便船シテ、彦根ニ至ル。城下ヲ過テ平田ニ行。禅桃留主故、鳥本ニ趣テ宿ス。宿カシ
カネシ。夜ニ入、雨降。
『曾良旅日記』
旧暦八月十二日(陽暦九月二十五日)、先行する曾良は近江木之本宿を出立し、午ノ尅(正午頃)に近江長濱に至りました。ここから便船で彦根に至り、彦根城下を通過して彦根城下平田に赴き、地元の俳人禪桃宅を訪ねて泊めてもらおうとしましたが、禪桃が留守だったので、中仙道鳥居本宿まで戻って泊まっています。宿は「カシカネシ」と記しています。
奥の細道、いなかの小道(46)− 大垣(2)
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)
奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)
奥の細道、いなかの小道(40)− 天龍寺、永平寺
奥の細道、いなかの小道(45)− 大垣(1)
奥の細道、いなかの小道(44)− 種の濱
奥の細道、いなかの小道(43)− 敦賀(2)
奥の細道、いなかの小道(42)− 敦賀(1)
奥の細道、いなかの小道(40)− 天龍寺、永平寺
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