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2017年11月05日

奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松

 
 奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松

      全昌寺

  (旧暦9月17日)

  旧暦八月七日(陽暦九月二十日)、芭蕉翁は昨日からの歌仙を満尾させ、昼頃に小松を出立して大聖寺の全昌寺へ向かいました。小松城下から北國街道を南下して月津宿を過ぎて動橋(いぶりばし)に至り、橋を渡って八日市、弓波、作見宿経て菅生石部神社横を通過し、大聖寺川に架かる敷地天神橋を渡ると大聖寺城下に入ります。

  橋を渡ってすぐ左手の大聖寺川に沿った道は山中温泉道で、大聖寺川の土手に道標が立っています。そのまま直進して菅生で右折し、弓町、荒町、東横町、新屋敷を経て全昌寺に至ります。小松からの行程は約四里、一行は午後五時ごろに到着したものと思われます。

    〈全昌寺・汐越の松〉
      大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶加賀の地なり。曽良も前の夜この寺に泊て、
            終宵秋風聞くやうらの山
    と殘す。一夜の隔て、千里に同じ。吾も秋風を聞きて衆寮にふせば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の國へと、心
    早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追來たる。折節庭中の柳散れば、 
            庭掃て出でばや寺に散柳
    とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。
      越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
            終宵嵐に波をはこばせて 
                  月をたれたる汐越の松        西行
    此一首にて數景盡たり。
    もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

    ○大聖寺
        大聖寺は往時、白山五院のひとつ大聖寺のあった所で、寛永十六年(1639)、加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)の三男前田利治
        (1618〜1660)が、父利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に七万石を分与されて大聖寺藩を立藩した時にその城下となった。芭蕉翁一行
        が来訪した時は、第二代藩主前田利明(1638〜1692、利常の五男)の代であった。

        白山五院は、いまの加賀市にあったとされる柏野寺、薬王院温泉寺、極楽寺、小野坂寺、大聖寺の五つの寺院で、白山信仰がもっとも色濃く社
        会に繁栄された平安時代から室町時代にかけて、加賀江沼の人びとの白山信仰の中心になっていた。

        なお、往時の大聖寺は、16世紀に、浄土真宗本願寺派第八世宗主、真宗大谷派第八代門首蓮如(1415〜1499)によって力を増した浄土真宗門
        徒と越前の戦国大名朝倉義景(1533〜1573)との戦いに巻き込まれ、完全に焼失したという

    ○全昌寺
        大聖寺南郊の山ノ下寺院群と呼ばれる場所にある曹洞宗の寺院。大聖寺城主山口玄蕃頭宗永(1545〜1600)の帰依を受けて、慶長三年
        (1598)に山代より現在地に移築された同城主の菩提寺。

        慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで山口宗永は石田三成(1560〜1600)の西軍に与したため、加賀前田家第二代前田利長(1562〜1614)の
        大聖寺攻めに遭い、大聖寺城は陥落し山口玄蕃一族は滅亡した。その為寺の維持は困難となったが、慶長八年(1603)、大聖寺城代として加賀藩
        より派遣されていた津田遠江守重久(1549〜1634)の帰依により仮香華院(仮菩提寺)となり、その後江州曹澤寺の輝雲和尚が入寺し、この
        時寺格が与えられ、寺の地位が確立した。

    ○終宵
        終宵(よもすがら)という言葉に、秋夜弧客の情が尽くされている。一晩中眠りにつけず、蕭々たる秋風の音を聞き明かしたことだ、寺の裏山
        の木立の上を吹き渡るその秋風を、といった意で、師と別れた一人旅の寂しさが素直に流露していると評されている。

        秋風引          劉禹錫 
        何處秋風至        何れの處よりか秋風至り
        蕭蕭送雁群        蕭蕭として雁群を送る
        朝來入庭樹        朝來庭樹に入り
        孤客最先聞        孤客最も先に聞く
                『唐詩訓解』六

 
        古歌        漢          無名氏
        秋風蕭蕭愁殺人          秋風蕭蕭として人を愁殺し
        出亦愁                        出づるも亦た愁へ
        入亦愁                        入るも亦た愁ふ
        座中何人                     座中何人(なんぴと)か
        誰不懷憂                     誰か憂ひを懷かざる
        令我白頭                     我をして白頭ならしむ
        胡地多飆風                 胡地に飆風(へうふう)多し
        樹木何修修                 樹木何ぞ修修たる
        離家日趨遠                 家を離れ日びに遠きに趨(おもむ)き
        衣帶日趨緩                 衣帶日びに緩きに趨(おもむ)く
        心思不能言                 心思言ふ能はず
        腸中車輪轉                 腸中車輪轉ず


      ○一夜の隔、千里に同じ
          わずか一夜の隔てが、さながら遠く千里を隔てるごとくに思われる。「千里」の語は、『蒙求』李陵初詩の詩句や李白、蘇東坡の詩句の
          「咫尺千里」などの成句による。

        李陵初詩            田横感歌
        携手上河梁           手を携へて河梁に上る
        游子暮何之           遊子暮に何くにか之(い)く
        徘徊蹊路側           蹊路の側(ほとり)に徘徊し
        恨恨不得辭           悢悢として辭するを得ず
        晨風鳴北林           晨風(しんぷう)北林に鳴し
        熠燿東南飛           熠燿(こんやう)東南に飛ぶ
        浮雲日千里           浮雲日に千里
        安知我心悲           安(いずく)んぞ我が心の悲しみを知らん

 
        觀元丹丘坐巫山屏風            唐        李白
        昔遊三峽見巫山        見畫巫山宛相似
        疑是天邊十二峰        飛入君家彩屏裏
        寒松蕭瑟如有聲        陽臺微茫如有情 
        錦衾瑤席何寂寂        楚王神女徒盈盈
        高唐咫尺如千里        翠屏丹崖燦如綺 
        蒼蒼遠樹圍荊門        歷歷行舟泛巴水
        水石潺湲萬壑分        烟光草色俱氛氳
        溪花笑日何年發        江客聽猨幾歲聞
        使人對此心緬邈        疑入嵩丘夢綵雲


        元丹丘の巫山の屏風に坐するを觀る
        昔三峽に遊び巫山を見る                    巫山を畫くを見るに宛(あたか)も相似たり
        疑ふらくは是れ天邊の十二峰              飛て入る君が家の彩屏の裏(うち)
        寒松は蕭瑟として聲有るが如く            陽臺は微茫として情有るが如し 
        錦衾瑤席    何ぞ寂寂                        楚王の神女    徒に盈盈
        高唐咫尺    千里の如く                      翠屏丹崖    燦として綺の如し 
        蒼蒼たる遠樹荊門を圍み                    歷歷たる行舟巴水に泛(うか)ぶ
        水石潺湲(せんかん)萬壑(ばんがく)分れ   烟光草色    俱に氛氳(うんふん)
        溪花日に笑ひて何の年か發す           江客    猨(えん)を聽きて幾歲か聞く
        人をして此に對し心    緬邈(めんばく)たらしめ              疑ふは嵩丘に入り綵雲に夢むかと


    奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松

        巫山十二峰分别坐落在巫峡的南北两岸、是巫峡最著名的風景點。

        潁州初別子由二首    其二        宋    蘇軾
        近別不改容      近き別れは容を改めず
        遠別涕沾胸      遠き別れは涕胸を沾す
        咫尺不相見      咫尺にして相ひ見ざるは
        實與千里同      實は千里と同じ
        人生無離別      人生離別無くんば
        誰知恩愛重      誰か恩愛の重さを知らん
        始我來宛丘      始めて我宛丘に來りしとき
        牽衣舞兒童      衣を牽きて兒童舞ふ
        便知有此恨      便ち此の恨みの有るを知り
        留我過秋風      我を留めて秋風を過ごさしむ
        秋風亦已過      秋風亦已に過ぎ
        別恨終無窮      別れの恨みは終に窮り無し
        問我何年歸      我に問ふ何れの年にか歸ると
        我言歳在東      我言ふ歳の東に在るときと
        離合既循環      離合既に循環し
        憂喜互相攻      憂喜互ひに相ひ攻む
        悟此長太息      此を悟りて長太息す
        我生如飛蓬      我が生飛蓬の如くなりと
        多憂發早白      憂ひ多ければ早白を發す
        不見六一翁      六一翁を見ざるや


        千里も遠からず、逢はねば咫尺も千里よなう
            『閑吟集』


     逢はねば一里も千里よの
            『女歌舞伎踊歌』


    ○衆寮
        禅宗では、諸方から集まった修行の僧の起臥する寮舎をいう。

    ○鐘板
        雲板(うんぱん)、或いは打板(ちょうはん)のことを言ったものか。

    三才圖絵ニ云フ、雲板ハ即チ今ノ更點ニ鉦ヲ撃ツ、唐ノ六典皆鐘ヲ撃ツナリ。△按ヅルニ、雲板ハ〈俗ニ長波牟ト云フ〉唐金ヲ鋳テ之ヲ作リ、腹ニ
    空孔有リ、之ヲ撃ツトキハ即チ能ク鳴ル。禪家ニ之ヲ用フ
            『和漢三才圖絵』


    ○食堂
        僧侶の食事をする堂。

    ○吉崎の入江
        北潟湖を指す。もとは湖水をなさず、海に続いていた。吉崎は加賀と越前の国境にあたり、北を加賀吉崎、南を越前吉崎と称した。越前吉崎に
        は、浄土真宗本願寺派第八世宗主、真宗大谷派第八代門首蓮如(1415〜1499)の吉崎御坊があった。吉崎御坊は、文明三年(1471)七月下
        旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある
        北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した道場である。

    奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松
        吉崎の入江

    吉崎は、大聖寺と、細呂木の宿との間、往還より西なり。立花の茶店の傍を、西へ入て、南へ行亊十五町ばかり、加賀、越前の境にある人家にて、北を
    加賀吉崎と云、南を越前よしざきと云。多くいさりの蜑の住家なり。越前吉崎には、吉崎の御堂とて一向宗東西の道場あり。蓮如上人の旧跡にて、南の
    山を蓮如山といふ。花瓶の松とて、名木あり。形立花のごとし。吉崎の里の西は、すべて入江にて、北を竹の浦といひ、南を蓮が浦といふ。皆名所
    也。(吉崎は名所に非ず)江のうちに、加島といふ在所あり。此辺尤佳景の地なり。
            『奥細道菅菰抄』


    ○汐越の松
        吉崎の対岸濱坂の岬の汐越神社一帯の松。

    汐越の松 浦の上砂山の頂に百本計あり
            『越前地理指南』貞享二年刊


    潮越の松 或人の云濱坂より六七町南の濱汀に有し一本の松を云しか、今は昔の松は枯失てなし、され共其邊の松原を都(すべ)て潮越と云と云々。或
    記に云昔在呉中將の宛(あたか)の松と詠せられ、佐藤兵衛憲淸は根上りの松と詠れたる由、あたかに根の上りしゆゑ、又根の顯れたるゆへに色々に詠
    したれとも、風波荒き時は潮越に依て潮越の松と云ひ習し傳ると云々。
            『越前名勝志』 坂井郡 芳契子竹内壽庵


    吉崎の入江に渡舟あり。<濱坂のわたしと云>此江を西へわたりて、濱坂村に至る。それより汐越村をこえ、砂山を五、六町ゆけば、高き丘あり。上平
    らかにして広く、古松多し。其下は、外海のあら磯にて、岩の間々にも、亦松樹あり。枝葉愛すべし。此邊の松を、汐こしの松と云。〈一木にはあら
    ず〉今も高浪松が根をあらひて、類稀なる勝景なり。
            『奥細道菅菰抄』


    ○終宵嵐に波をはこばせて
         月をたれたる汐越の松     西行

    
        この歌は西行作説が広く流布し芭蕉もそれを信じていたが、西行歌集などにはこの歌は収載されておらず、また、門前町吉崎では蓮如作と難
        く信じられていたが、これも根拠がなかった。

    此歌、世人多く西行の詠とす。翁も人口に付て、かくは記し申されたるが、西行山家集、家集、其外の歌集にも此歌なし。因て旁々尋侍るに、蓮如上人
    の詠歌なるよし。彼宗の徒皆云り。今蓮如山より北海を臨むに、此歌の風情よく叶へり。
            『奥細道菅菰抄』

 
    一 七日 快晴。辰ノ中刻、全昌寺ヲ立。立花十町程過テ茶や有。ハヅレより右ヘ吉崎へ半道計。一村分テ、加賀・越前領有。カヾノ方よりハ舟不レ出。
        越前領ニテ舟カリ、向へ渡ル。水、五六丁向、越前也。 (海部二リ計ニ三国見ユル)。下リニハ手形ナクテハ吉崎へ不レ越。コレヨリ塩越、半
        道計。又、此村ハヅレ迄帰テ、北潟ト云所ヘ出。壱リ計也。北潟 より渡シ越テ壱リ余、金津ニ至ル。三国へ二リ余。申ノ下刻、森岡ニ着。六良
        兵衛ト云者ニ宿ス。
            『曾良旅日記』

 
  旧暦八月七日(陽暦九月二十日)、先行する曾良は辰ノ中刻(午前七時頃)全昌寺を出立して、汐越の松を経て福井へ向かいました。寺町を抜けて関町の北國街道に出、西へ進むと大聖寺関所があります。さらに大阪一里塚を過ぎ、三木、加賀藩領内最南端の橘宿に入ると橘の茶屋があり、当時は此処で休憩してから越前に入る準備をしたと云います。

  ここで北國街道から別れて永井に抜け、加賀と越前の国境の吉崎に至ると、吉崎の町中に入り組んだ境界があり、加賀からは舟を出すことができず、また、上方から加賀に入るには通行手形が必要でした。

  吉崎は文明三年(1471)、浄土真宗中興の祖とされる本願寺第八世法主蓮如(1415〜1499)が比叡山延暦寺などの迫害を受けて京からこの地に逃れ、北陸布教の根拠地として北潟湖に囲まれた吉崎山に壮大な坊舎を築いて以来、北陸一帯に急速に本願寺教団が形成され、やがて強力な勢力は加賀一向一揆蜂起の基盤となりました。

  文明七年(1475)、加賀国守護大名富樫政親(1455?〜1488)が加賀門徒衆の弾圧を始めてその圧力が吉崎御坊に及ぶようになり、蓮如はわずか四年余りで吉崎御坊を退去しています。

  その後、永正三年(1506)八月、朝倉宗滴(1477〜1555)を総大将とする朝倉、他門徒の連合衆が越前に侵攻した加越の一向一揆勢を九頭竜川一帯で撃破し、一向宗寺院門徒を加賀国へ追放、吉崎御坊も破却されて、以後、廃坊となっています。

  加賀領内の吉崎浦は北前船の寄港地であり、渡海船はあるものの渡し舟はなかったので、越前領内の吉崎浦から北潟湖西岸の濱坂浦へは渡し舟が往来し、五〜六丁で渡ることができました。

  汐越えの松は、現在、芦原ゴルフクラブ海コースのアウト9番ホールの途中左側に遺跡が残っており、クラブハウスの受付で見学を申し込むと、ゴルフ場の従業員が案内してくれるとのこと。
  昔は五十本以上あった老松は大部分が枯れてしまい、「奥の細道汐越の松遺跡」と刻まれた石碑の傍らに、巨大な根が地面に横たわっていると云います。

  奥の細道、いなかの小道(39)− 全昌寺、汐越の松


  汐越の松を訪れた曾良は、一里ほどで北潟に出て北潟湖を渡り、しばらく進んで北國街道に合流すると約一里ほどで金津に至ります。さらに北國街道を南下し、申ノ下刻(午後五時頃)に森岡(森田の誤記)に到着し、六良兵衛という者の家に宿泊しました。先行する曾良は、丸岡や松岡へも立ち寄らず、永平寺にも参詣していません。


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