2005年12月31日
やまとうた(15)−山ふかみ さこそあらめときこえつつ
山形県尾花沢 銀山温泉白銀の滝
(旧暦 12月 1日)
寅彦忌、冬彦忌 物理学者としてX線結晶解析学(ラウエ斑点の研究方法の改良)の先達でもあり、漱石門下の高弟としてもその随筆に非凡な才能を発揮し、雪の結晶の研究などで著名な北大教授中谷宇吉郎博士からも慕われた物理学者、随筆家寺田寅彦(筆名吉村冬彦)の昭和10年(1935)の忌日
一碧楼忌 河東碧梧桐を主宰として俳誌『海紅(かいこう)』を創刊し、口語を取り入れた五七五調に囚われない自由律俳句を作り出した俳人中塚一碧楼の昭和21年(1946)の忌日
胴長の犬がさみしき菜の花が咲けり
入道寂然(じゃくぜん)大原に住み侍りけるに、高野より遣(つかは)しける
山ふかみ さこそあらめときこえつつ 音あはれなる谷川の水 (山家集 1198)
かへし 寂 然
あはれさは かうやと君も思ひ知れ 秋暮れがたの大原の里 (山家集 1208)
西行が最も親しく付き合っていた人々の中に、大原三寂(常盤三寂)と呼ばれる北家長良流に属する常盤家、藤原爲忠(?〜1136)の三人の息子達がいました。寂念(爲業:ためなり)、寂超(爲経:ためつね)、寂然(じゃくぜん)(頼業:よりなり)の三人の兄弟ですが、特に四男の寂然とは盛んに歌のやりとりを行い、『山家集』には、高野山にいる西行が京の大原(京都市左京区北部、比叡山の西北麓)に隠遁している寂然のもとに「山ふかみ」で始まる歌十首を送ると、寂然がこれに応えて「大原の里」で終わる十首を返してきた贈答歌が載せられています。 続きを読む
2005年12月30日
先カンブリア時代(3)−全球凍結(3)
Snowball Earth
(旧暦 11月29日)
横光忌、利一忌 「機械」、「上海」、「寝園」、「紋章」、「旅愁」四篇(未完)等の作品を著した新感覚派の旗手横光利一の昭和22年(1947)の忌日
先カンブリア時代(2)−全球凍結(2)からつづく
8億年前から6億年前の期間に訪れたスターティアン氷期(Sturtian glacial period)やヴァランガー氷期(Varangian glacial period )と呼ばれる2度の氷期における全球凍結が起きた原因については諸説があって未だ確定したものは無いようですが、ひとつの仮説として二酸化炭素の減少による温室効果の喪失によるものがあります。
1. 当時の地球上には、約10億〜7億年前に誕生し、約6億年前に分裂を開始したと考えられている超大陸ロディニア(Rodinia; based on a Russian word for "homeland")が存在していましたが、その分裂による裂け目に生じた広大な浅い海は、光合成により酸素を発生する細菌シアノバクテリアや光合成藻類の繁殖地となり、その光合成により大気中の二酸化炭素は大量の有機物となって海底に蓄積されて行きました。
2. この大気中の二酸化炭素の減少により、温室効果が次第に失われて地球全体の寒冷化が始まり、極地から発達してきた氷床は赤道にまで及んで太陽光を反射し、一層の寒冷化を促していきました。
3. 一度加速した寒冷化は相乗効果によって進行し、最近の全球凍結時の気温分布シミュレーションによれば、極地で−90℃、赤道付近で−50℃、陸上では3,000m級の氷床に覆われ、海洋では水深1,000mまで凍結するスノーボールアース(Snowball Earth、全球凍結)と呼ばれる状態になり、数千万年続いたと考えられています。 続きを読む
2005年12月29日
先カンブリア時代(2)−全球凍結(2)
直径1mにも及ぶ迷子石(dropstones:氷河堆積物)
(旧暦 11月28日)
山田耕筰忌 日本の洋楽界の黎明期を拓き、明治、大正、昭和と日本の洋楽をリードし続けて今日の水準にまで引き上げた作曲家山田耕筰の昭和40年(1965)の忌日。歌曲『からたちの花』、『この道』、童謡『赤とんぼ』、『ペチカ』、『待ちぼうけ』などがよく知られている。
先カンブリア時代(1)−全球凍結(1)からつづく
ハーバード大学地質学教授ポール・ホフマン(Paul F. Hoffman )博士が発表した全球凍結(赤道付近で−50℃、陸上で3,000m級の氷層、海洋で水深1,000mまで凍結)の証拠は次のようなものでした。
1. 南アフリカ・ナミビア北部の8億年前〜6億年前にかけての地層からホフマン博士等によって発見された、氷河によって運ばれたと推測される直径1mにも及ぶ迷子石(dropstones:氷河堆積物)の存在。
(古地磁気分析により、当時赤道近辺であったと推定される場所も含まれる)
2. 同じく南アフリカ・ナミビア北部の氷河堆積物を示す地層の上の約50mにもなる厚い炭酸塩岩層(キャップカーボネイト、cap carbonate)の発見。
全球凍結の終結時には、火山活動によって放出された二酸化炭素が大気中に蓄積(現在量の200〜1500倍)されており、全球凍結が終結して海の氷が溶融すると大量の二酸化炭素が海水中のカルシウムイオン等と反応して炭酸カルシウムとなって沈殿し、分厚い炭酸塩岩層を形成した。
3. 氷河堆積物の前後の炭素同位対比(carbon-12とcarbon-13の存在比)の精密測定の結果、氷河期の地層のcarbon-13の存在比が高く、本来ならば生物活動により有機物に取り込まれるためにcarbon-13の存在比が低くなるはずだが、このことは海洋の大部分の生物活動がほぼ完全停止していたことを示していた。またその範囲は、全地球規模であった。 続きを読む
2005年12月28日
先カンブリア時代(1)−全球凍結(1)
カナダ・オンタリオ州に分布するヒューロニアン累層群ゴウガンダ層の氷河堆積物(約 22.2 億年前)
(旧暦 11月27日)
このところ猛暑や猛寒波、予測できない局地的集中豪雨などが多発して、地球温暖化の影響で天候異変が起きていると良く報道されていますが、どうも現在のこの地球は、氷河期の真っ只中にあるという話しがあります。
この氷河期は「第四紀の氷河期」あるいは「更新世の氷期」とも呼ばれ、約200万年前の新生代第四紀(Quaternary)更新世(Pleistocene)に始まった寒い氷期と比較的温暖な間氷期が繰り返している時代で、現代は間氷期であるとのことですが、そもそも地球の長い歴史において、地表に氷があることの方が珍しいことだそうでございます。
現在の氷河期を含めて地表に氷があったとはっきり特定できる時期は、46億年の地球の歴史の中では数回しかなく、約24億年前から約22億年前と8億年前から6億年前、3億年前の石炭紀、そして現代に至る第四紀となります。それ以外の時代の多くでは、北極や南極を含めて地球上には氷は全く存在しなかったと云うことです。
昔、地学で習った先カンブリア時代((Precambrian)とは、地球が誕生した約46億年前から肉眼で見える大きさで硬い殻を持った生物の化石が初めて産出する5億4200万年前までの期間を指す地質時代ですが、地質学的証拠に乏しい時代であるため、年代区分を定義する正確な用語はまだ定まっていません。
ケンブリッジ大学出版局(Cambridge University Press)では、1990年から以下のような分類を用いています。いずれもその年代が特定できる地層の累層群の名前(地域名)が付けられているようです。
1. ヒューロニアン 'Huronian' (24.5〜22.0億年前)
2. アニミキアン 'Animikian' (22.0〜16.5億年前)
3. リフェアン 'Riphean' (16.5〜8.0億年前)
4. スターティアン 'Sturtian' (8.0〜6.1億年前)
5. ヴァランガー 'Varanger' (6.1〜5.9億年前)
6. エディアカラ 'Ediacara' (5.9〜5.7億年前)
ちなみに、ヒューロニアンはカナダ、オンタリオ州ヒューロン湖地域であり、ヴァランガーはノールウェイあるいはスウェーデンなどの北欧地域から産出する地層に名付けられました。 続きを読む
2005年12月25日
染井霊園(10)−ローデスカ・ワイリック先生の碑
(旧暦 11月24日)
蕪村忌、春星忌 江戸中期の俳人・画家與謝蕪村の天明3年(1783)の忌日
易水に ねぶか流るる寒さかな (ねぶか:根深 ネギの異名)
染井霊園の南東の一角に外人墓地があり、その中にアメリカの宣教師でハンセン病施設での世話やスラム街での奉仕活動に尽力し、また、日露戦争では負傷兵への献身的な看護に従事して「東洋のナイチンゲール」と呼ばれたローデスカ・ワイリック先生の碑があります。
そばには、紙に書いた手書きの説明板が立っています。
ロダスカ・ワイリック(一八五六−一九一四)
アメリカ合衆国オハイオ州に生まれ、一八九○年(明治二三)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日、五年間にわたり伝道活動に携わり、一時帰国。翌一八九六年再び来日し、教会を開いて伝道に努める一方、学習院や府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教えたり、多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。
また、当時偏見の強かったハンセン病施設で患者の世話をしたり、四谷鮫が瀬のスラム街での奉仕活動にも尽くした。
日露戦争(一九○四−五)が始まると看護婦と医師の資格を持つワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし、献身的な介護に当たった。
いつしか、「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり、日本政府や東京府からも表彰された。
人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは一九一四年(大正三)四月三○日東京赤坂の病院で死去。享年五七歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。 続きを読む
2005年12月24日
天文(3)−星宿(星座)
中国星座と現行星座の対照図
(旧暦 11月23日)
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
高村光太郎 智恵子抄 『あどけない話』より
智恵子のほんとの空は、「阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空」でしたが、帝都東京の夜には、確かにほんとの空はありませんね。
むかし、福島の阿武隈山中で仰いだ夜空は、星が手に取ることができるように近くに感じられ、感動した思ひ出があります。
夜空に輝く星はそれこそ無数にありますが、古来から洋の東西を問わず星座として親しまれ、また特に輝く星には、固有の名前が付けられています。
中国清朝の星表『欽定儀象考成』巻1の「恒星総記」では、三垣二十八宿計277星座および南天の星座計23星座に分類記載されています。
【三垣(さんえん)】
1. 紫微垣(しびえん)
こぐま座を主とする星座群で、天帝の居所とされた星座。現在の北極星である「こぐま座α星(α Ursae Minoris)」は、英語では?The Polar Star?、ラテン語でポラリス(Polaris)ですが、古代中国では「こぐま座β星」が北辰、または天皇(てんこう)大帝とよばれていました。
紀元前1100年頃の北極星は、コカブ(Kochab、こぐま座 β星、β Ursa Minoris)でした。2.08等、距離は130光年、スペクトル型はK4?なので赤みの橙色に見えます。 続きを読む
2005年12月23日
北東アジア(23)−貞観政要(2)
房玄齢 『前賢故実』より(菊池容斎画)
(旧暦 11月22日)
北東アジア(22)−貞観政要(1)のつづき
さてこの『貞観政要』の問答で有名な臣下に、「人生意氣に感ず」という漢詩「述懐」でも馴染みのある魏徴(580〜643)がいますが、「創業と守成いずれが難きや」との太宗皇帝と魏徴のやりとりはよく知られていますね。
貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難き、と。尚書左僕射房玄齢對(こた)へて曰く、天地草昧(そうまい)にして、群雄競ひ起る。攻め破りて乃ち降し、戦ひ勝ちて乃ち剋(か)つ。此に由りて之を言へば、草創を難しと為す、と。
魏徴對(こた)へて曰く、帝王の起るや、必ず衰亂を承(う)け、彼(か)の昏狡(こんかう)を覆(くつがへ)し、百姓、推すを楽しみ、四海、命に帰す。天授け人与ふ、乃ち難しと為さず。然れども既に得たるの後は、志趣驕逸(けういつ)す。百姓は静を欲すれども、徭役(えうえき:労役)休まず。百姓凋残(てうざん)すれども、侈務(しむ)息まず。国の衰弊は、恆(つね)に此(これ)に由りて起る。斯(これ)を以て言へば、守文は則ち難し、と。 (巻第一 君道第一 第三章)
太宗皇帝が臣下に対し、「帝王の業、草創と守文と孰(いず)れか難(かた)き」と問うたのに対し、尚書(詔勅の実行機関)の左僕射(副長官だが、唐朝では長官が欠番となり実権を行使した)の房玄齢は「創業が困難」としたのに対し、秘書監の魏徴は、「守分(維持)は則ち難(かた)し」として以下のような理由を述べました。
1. 帝王の地位を得た後は、志向が気ままになる。
2. 臣民は安静な生活を望むのに、労役が休(や)まない。
3. 臣民は疲れ果てていても、帝王の使役は息(や)まない。
4. 国が亡びるのは、常にこのような原因によって起きるので、完成されたものを維持していくことの方が困難である。
このところ、企業の2代目経営者に会う機会が増えていますが、どの分野でも2代目は大変ですね。 続きを読む
2005年12月22日
北東アジア(22)−貞観政要(1)
唐の第2代皇帝太宗(598〜649)
(旧暦 11月21日 冬至)
唐の第2代皇帝太宗(598〜649)が、臣下の房玄齢(578〜648)や杜如晦(585〜630)、魏徴(580〜643)等と共に唐王朝を創業した後、彼らと治国安民の政策についてかわした問答集『貞観政要』は、我が国には、唐朝から伝来した真本と称される鈔本(原本の一部を抜粋したもの)が藤原南家と菅原家に伝承されています。
もともと、この『貞観政要』は、太宗の没後50年ぐらい後、唐の第6代中宗(在位705〜 710)、第9代玄宗(在位712〜756)時代の史臣呉競(663?〜749)によって、40篇にまとめられました。
しかし、一般に流布されている刊本(印刷された本)は、元の至順4年(1333)に戈直(かちょく)が校訂注釈をなし、『新唐書』の編纂などで著名な北宋の政治家・学者欧陽脩(1007〜1072)や294巻からなる編年体の歴史書『資治通鑑』などを著した北宋の政治家・学者司馬光(1019〜1086)などの諸家の論説を加えた「戈直本」と呼ばれる集論本が底本になっています。
現在この原本は存在しませんが、明朝の第9代憲宗成化帝(1447〜1487、在位1464〜1487)が、成化元年(1465)に儒臣に命じてこの「戈直本」を校訂させて覆刻したことにより、この本が広く中国や日本に広まりました。 続きを読む
2005年12月21日
日本(28)−布哇(ハワイ)作戦(8)
第五航空戦隊空母「翔鶴」より発艦する九七式艦上攻撃機(雷撃機)
Torpedo plane takes off from Shokaku to attack Pearl Harbor, December 7, 1941
(From US Navy Historical Center)
(旧暦 11月 20日)
日本(27)−布哇(ハワイ)作戦(7)のつづき
昭和16年(1941)12月1日の御前会議の開戦決定を受けて、同日、大海令(大本営海軍部命令)第九号により、
一、帝国ハ十二月上旬ヲ期シ米国、英国及蘭国ニ対シ開戦スルニ決ス
(以下省略)
が山本聯合艦隊司令長官宛に発せられました。
更に翌日には、
一、聯合艦隊司令長官ハ十二月八日午前零時以後大海令第九号ニ依リ武力ヲ発動スべシ
(以下省略)
との開戦期日指定の大海令第十二号も発令されています。
これを受けて聯合艦隊司令部は、布哇に向けて航行中の機動部隊に対して、12月2日1730(午後5時30分)、「X日ヲ十二月八日午前零時トス」というあらかじめ打ち合わせておいた約束暗号「ニイタカヤマノボレ一二○八」というGF(General Fleet:聯合艦隊)機密第六七六番電、GF電令作第一○号を発信しました。
12月4日、北緯40度20分、西経164度0分の海域に到達した機動部隊は、進路を145度に変針して布哇に向かって南下を開始、12月7日正午過ぎ、最後の給油が完了して第一補給隊の四隻が分離、機動部隊は「艦内第一哨戒配備、戦闘配食」となり、24ノット即時待機28ノット20分待機で針路を真南に変針。
12月8日0030(午前零時30分)、オアフ島の北方約250マイルの地点に達し第六警戒航行序列の箱形陣形を成形しつつあった機動部隊に、「総員戦闘配置」が下令。
0120(午前1時20分)、6隻の母艦は風上に艦首を向け、第四戦速24ノットの発艦速力へ。
6隻の母艦の飛行甲板には、第1次攻撃隊183機が発艦待機。
九七式艦上攻撃機(水平爆撃) 49機
九七式艦上攻撃機(雷撃) 40機
九九式艦上爆撃機(急降下爆撃) 51機
零式艦上戦闘機(制空隊) 43機 続きを読む
2005年12月20日
日本(27)−布哇(ハワイ)作戦(7)
機動部隊航跡図
Public Domain chart from "Reports of General MacArthur, prepared by his General Staff." This book was printed by GPO(The U.S. Government Printing Office ). The chart shows the routes of the Japanese attack force to and from Pearl Harbor.
(旧暦 11月 19日)
劉生忌 愛娘麗子の肖像シリーズで有名な近代日本絵画の巨匠岸田劉生の昭和4年(1929)の忌日
石鼎忌 俳句結社「鹿火屋(かびや)」を主宰した俳人原石鼎(はら せきてい)の昭和26年(1951)の忌日
山国の 闇恐ろしき追儺かな
日本(26)−布哇(ハワイ)作戦(6)のつづき
11月22日早朝、第一航空艦隊旗艦空母「赤城」が単冠(ヒトカップ)湾に入港する頃には、支援部隊の三川軍一少将(海兵38期)指揮第三戦隊戦艦「比叡」「霧島」などが先着しており、翌11月23日の1330(午後1時30分)には、第一航空戦隊僚艦の空母「加賀」が、最後に集結しました。
「加賀」は、12mの水深しかない真珠湾攻撃用として航空敞雷撃部の片岡政市少佐(海兵51期)によって考案され、長崎の三菱兵器製作所に発注されていた浅沈度魚雷九一式航空魚雷改二(空気酸化剤方式)を受け取りに佐世保に回航していたために1日遅れで入港し、ここに機動部隊の主力三十一隻(空母六、戦艦二、重巡二、軽巡一、駆逐艦十、潜水艦三、給油艦七)が集結を完了しました。
11月23日夕刻、旗艦「赤城」艦上で第一航空艦隊命令(第一、第二、第三号)が下達され、艦隊首脳総集合の打合せが行われましたが、第一号「作戦方針」には、「空襲第一撃ヲX日○三三○ト予定ス」とあり、奇襲攻撃はX日午前三時三十分(日本時間、ハワイ時間午前八時)と明記されていました。 続きを読む
2005年12月19日
日本(26)−布哇(ハワイ)作戦(6)
米国務長官 コーデル・ハル(1871〜1955)
(旧暦 11月 18日)
日本(25)−布哇(ハワイ)作戦(5)のつづき
11月26日米国側提案(ハル・ノート)が特に日本側に大きな失望を与えたのは、第2項の項目3、4、5、9でした。それは今までの日米交渉の努力が反映されず、中国からの兵力及び警察力の撤収、重慶政府以外の政府の不支持、義和団事変(北清事変)後の明治34年(1901)の「北清事変ニ関スル議定書」によって英、米、仏、伊各国と共に認められた駐兵権及び治外法権の抛棄、日独伊三国同盟の無力化を含む内容が提起されていたからでした。
このUnited States Note to Japan November 26, 1941(ハル・ノート)を受けた東條内閣及び陸海軍統帥部は、作戦発動期日条件の関係から設定した対米交渉期限である「十二月一日午前零時迄ニ成功」できないと判断し、それまでの和戦両論を解消して主戦1本にまとまるに至り、11月5日の御前会議において東條首相は、会議に先立ち以下のような冒頭陳述を行いました。
「・・・政府に於きましては、凡有手段を尽し、全力を傾注して、対米国交調整の成立に努力して参りましたが、米国は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、更に米英蘭支聯合の下に、支那より無条件全面撤兵、南京政府(汪精鋭政権)の否認、日独伊三国同盟の死文化を要求する等、新なる条件を追加し、帝國の一方的譲歩を強要して参りました。若し帝國にして之に屈従せんか、帝國の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝國の存立をも危殆(きたい)に陥らしむる結果と相成る次第でありまして、外交手段に依りては到底帝國の主張を貫徹し得ざることが明かとなりました。・・・・・事茲に至りましては、帝國は現下の危局を打開し、自存自衛を全うする爲、米英蘭に対し開戦の已むなきに立至りましたる次第であります」と。 続きを読む
2005年12月18日
日本(25)−布哇(ハワイ)作戦(5)
Nomura meets the press after having appointed as Foreign Minister (26 September 1939)
(旧暦 11月 17日)
日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)のつづき
昭和16年(1941)4月からワシントンにおいて開始された日米交渉は、様々な曲折を経ながらも解決への進展は見られませんでした。
そして東條内閣の下、11月5日の御前会議で「武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」とし、「対米交渉カ十二月一日午前零時迄ニ成功セハ武力発動ヲ中止ス」との最終的決定がなされましたが、その中には対米交渉の別紙要領も含まれていました。
対米交渉別紙要領
対米交渉ハ、従来懸案トナレル重要事項ノ表現方式ヲ緩和修正スル別記甲案或ハ別記乙案の如キ局地的緩和案ヲ以テ交渉ニ臨ミ、之ガ妥結ヲ計ルモノトス
甲案
これまでの日本の主張を、表現を変えまた譲歩を加えて再提示するもの
(以下要点略記)
1. 支那及び仏印ニ於ケル駐兵及撤兵問題
• 北支、蒙彊、海南島派遣の日本国軍隊は、日支間平和成立後所要期間駐屯(概ね二十五年を目途)し、爾余の軍隊は2年以内に撤去
• 仏領印度支那に派遣の日本国軍隊は、日支間平和成立後撤去
2. 支那ニ於ケル通商無差別待遇問題
• 通商無差別問題は、全世界でこれが行われる場合のみ、支那・太平洋地域で行われることを承認。
3. 三国条約(日独伊三国同盟)ノ解釈及履行問題
• 三国同盟は、日本政府自身の判断によって行動する。
(以下略)
乙案
問題の先送り
(以下要点略記)
1. 日米両国政府は、仏印以外には武力進出しない
2. 日米両国政府は、蘭印において物資獲得に協力する
3. 日米両国政府は、通商関係を資金凍結前に戻し、米国政府は日本に石油を供給する
4.米国政府は、日支両国の和平を妨害しない(中華民国国民政府である蒋介石政権を支援しない)
備 考
• 協定成立後に南部仏印の日本軍を北部印印に移駐する
• 支那事変解決後は仏印から撤退する 続きを読む
2005年12月17日
日本(24)−布哇(ハワイ)作戦(4)
軍令部総長 永野修身海軍大将
(旧暦 11月 16日)
日本(23)−布哇(ハワイ)作戦(3)のつづき
昭和16年(1941)11月5日、永野軍令部総長より山本聯合艦隊司令長官宛に奉勅命令(陸海軍の統帥者である大元帥陛下の命令)である大海令(大本営海軍部命令)第一号が発せられました。
大海令第一號
昭和一六年十一月五日
奉勅 軍令部總長 永野修身
山本聯合艦隊司令長官ニ命令
一、帝國ハ自存自衛ノ為、米國英國及蘭國ニ対シ開戰ヲ予期シ諸般ノ作戦準備ヲ完整スルニ決ス
二、聯合艦隊司令長官ハ所要ノ作戰準備ヲ実施スベシ
三、細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ之ヲ指示セシム
これを受けて山本聯合艦隊司令長官は同日付で、「対米英蘭戦争ニ於ケル聯合艦隊ノ作戦ハ別冊ニ依リ之ヲ実施ス」とした膨大な内容の機密聯合艦隊命令作第一号を発令しました。そしてそこに初めて正式に「機動部隊及先遣部隊ハ米国艦隊ヲ布哇方面ニ攻撃ス」との対米国艦隊作戦要領が示されました。
11月13日、山本聯合艦隊司令長官は南遣艦隊[小沢治三郎中将(海兵37期)指揮、軽巡洋艦「香椎」、敷設艦「初鷹」]を除く聯合艦隊麾下の各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀等を岩国海軍航空隊に参集させ、作戦命令の説明と打合せを行い、以下のような内容の指示を行いました。
1. 開戦概定期日は12月8日(日本時間)であること。
2. 布哇攻撃の機動艦隊主力は千島列島択捉(エトロフ)島単冠(ヒトカップ)湾に集結の後、11月下旬単冠湾を抜錨し、北方航路をとって布哇に向かうべきこと。
3. 外交交渉妥結の場合には、聯合艦隊命令作第一号に明記したごとく、『情勢ニ大変化アリタル場合ニハ「第二開戦準備」(作戦海面への進出展開)ヨリ「第一開戦準備」(戦備ヲ整ヘ作戦開始前ノ待機地点ニ進出待機)ニ復帰セシムルコトアリ』との命令を厳守すること。 続きを読む
2005年12月16日
日本(23)−布哇(ハワイ)作戦(3)
昭和16年(1941)10月18日、総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らとの記念撮影
(旧暦 11月 15日)
日本(22)−布哇(ハワイ)作戦(2)のつづき
海軍軍令部第一部(作戦担当)が、聯合艦隊の布哇作戦計画に反対した理由は以下のようなものでした。
1. 作戦が投機的でリスクが大きく、たとえ奇襲攻撃に成功したとしてもその時に真珠湾に米主力艦隊が在泊している保証はない。
2. 開戦後、真の戦略目的である南方作戦(ジャワ島に進出して南方の油田地帯を確保する目的)のために、支障を来す。
しかし、海軍大学校での図上演習で布哇作戦計画を検討して欲しいとの聯合艦隊先任参謀黒島大佐の強い要請により軍令部が譲歩し、昭和16年(1941)9月16、17日の2日間、目黒の海軍大学校の特別室で布哇作戦特別図上演習が行われました。
その結果、攻撃側の青軍は、主力艦4隻撃沈、1隻大破、航空母艦2隻撃沈、1隻大破、巡洋艦6隻を撃沈破、航空機180機を撃墜破との判定が出ましたが、攻撃側の被害も大きく、航空母艦2隻が撃沈され2隻が小破、航空機127機を失い、翌日には飛行艇や長距離爆撃機の攻撃により、残りの航空母艦2隻も撃沈されて全滅し、搭載航空機全てを失うという結末になりました。
同年10月19日、山本聯合艦隊司令長官の布哇攻撃に対する職を賭した不動の決意と航空母艦6隻による布哇作戦の決定案を持って軍令部に出頭した黒島先任参謀は、第一部長福留繁少将(海兵40期)、第一課長富岡定俊大佐(海兵45期)と激論になりましたが、決断を迫られた軍令部総長永野修身大将(海兵28期)の裁定により決済され、11月5日に布哇作戦は正式に認可されてしまいました。
昭和十六年 大東亞戰爭開戰直前の省部一同(海軍省、軍令部)合同写真。
左から4人目 伊藤整一軍令部次長、3人おいて 永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣、
1人おいて 澤本頼雄海軍次官、2人おいて 福留 繁軍令部第一部長、右端 中原義正海軍省人事局長。
二列目左から5人目 富岡定俊軍令部第一課長。
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2005年12月12日
日本(22)−布哇(ハワイ)作戦(2)
聯合艦隊司令長官 山本五十六大将
(旧暦 11月 11日)
日本(21)−布哇(ハワイ)作戦(1)のつづき
昭和16年(1941)8月1日に発表されたアメリカの対日石油輸出禁止に対応するために開かれた9月6日の近衛内閣最後の第6回御前会議において、「対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ」にもう一度中断していた日米交渉を再開し、「十月初旬ニ至ルモ尚我カ要求ヲ貫徹スル目途無キ場合ニ於イテハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」という内容の国策が決定されました。
帝国国策遂行要領(昭和16年9月6日、大本営政府連絡懇談会決定)
帝国ハ現下ノ急迫セル情勢特ニ米英蘭等各国ノ執レル対日攻勢ソ聯ノ情勢及帝国国力ノ弾撥性等ニ鑑ミ「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」中南方ニ対スル施策ヲ左記ニ依リ遂行ス
一、帝国ハ自存自衛ヲ全フスル為対米(英蘭)戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ、概ネ十月下旬ヲ目途トシテ戰争準備ヲ完整ス
二、帝国ハ右ニ併行シテ、米英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽クシテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム。対米(英)交渉ニ於テ、帝国ノ達成スヘキ最小限度ノ要求事項、並ニ之ニ関連シ、帝国ノ約諾シ得ル限度ハ別紙ノ如シ
三、前号外交交渉ニヨリ、十月初旬ニ至ルモ尚我カ要求ヲ貫徹スル目途無キ場合ニ於イテハ、直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス。対南方以外ノ施策ハ、既定国策ニ基キ、之ヲ行ヒ、特ニ米蘇ノ対日連合戦線ヲ結成セシメザルニ勉ム 続きを読む
2005年12月11日
日本(21)−布哇(ハワイ)作戦(1)
ビルマ公路・レド公路・ハンプ空路のルート図
(旧暦 11月 10日)
沢庵忌 書画・詩文に通じ、茶道にも親しんだことで知られる江戸初期の臨済宗の僧沢庵宗彭の正保2年(1646)の忌日
春せうは 値千金の御茶師哉
聯合艦隊司令長官山本五十六大将(海兵32期、1884〜1943)の対米英戦回避の努力も空しく遂には日米が戦うことになり、開戦劈頭の海軍による布哇(ハワイ)作戦真珠湾攻撃から64年が経過しました。
開戦通告の不手際により「卑怯なだまし討ち」とされた真珠湾攻撃は、米国民の士気を喪失させるという山本の意図から大きくはずれて逆に米国世論を硬化させ、対日参戦、ひいてはアメリカの第二次世界大戦への参戦を招く結果となってしまいました。
昭和6年(1931)の満洲事変以来アジアの覇権をめぐって対立してきた日米両国は、昭和12年(1937)の日華事変を契機にその確執を一層深め、アメリカは日本軍隊の満洲事変以前への復帰すなわち満州国を含む中国や東南アジアからの撤兵を強く要求し続けていました。
一方、泥沼の日中戦争にはまりこんでいた日本は、中国の蒋介石政権に対する英米の援助ルートである「援蒋ルート」の遮断と資源獲得のための来るべき南方作戦に備えて、昭和15年(1940)9月23日に陸軍が北部仏領インドシナに武力進駐を強行し、9月27日には近衛文麿内閣が日独伊三国同盟を締結していました。 続きを読む
2005年12月09日
漢詩(9)−魏徴−述懐
Statue of Wei Zheng
(旧暦 11月 8日)
漱石忌 小説家夏目漱石の大正5年(1916)の忌日
中原に還(ま)た鹿を逐(お)ひ
筆を投じて 戎軒(じゅうけん)を事とす。
縱横の計 就(な)らざるも
慷慨の志 猶(な)ほ存す。
策を杖つきて 天子に謁(ゑつ)し
馬を驅(か)りて 關門を出づ。
纓(えい)を請ひて 南越を繋ぎ
軾(しょく)に憑(よ)りて 東藩を下さん。
鬱紆(うつう)として 高岫(かうしう)に陟(のぼ)り
出沒して 平原を望む。
古木 寒鳥鳴き
空山 夜猿啼く。
既に 千里の目を傷ましめ
還(ま)た 九折の魂を驚かす。
豈(あ)に 艱險を憚(はばか)らざらんや
深く國士の恩を 懷(おも)ふ。
季布に 二諾無く
侯嬴(こうえい)は 一言を重んず。
人生 意氣に感ず
功名 誰(たれ)か復(ま)た論ぜんや。 続きを読む
2005年12月05日
板橋村ゆかりの人々(2)−高野長英(2)
板橋宿旧水村玄洞宅跡(石神医院)
(旧暦 11月 4日)
板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)のつづき
シーボルトが開設した鳴滝塾で3年以上も研鑽し塾頭として頭角を現していた長英でしたが、文政11年(1828)、シーボルトが帰国する際に幕府天文方・書物奉行の高橋景保(1785〜1829)らから手に入れた伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図や、蝦夷地図、葵の紋服などをオランダに持ち出そうとしたことが発覚し、シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。
二宮周作や高良斎(1799〜1846)など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受ける中、かろうじて難を逃れた長英は天保元年(1830)に江戸に戻り、麹町貝坂に蘭学塾「大観堂」を開きましたが、まもなく三河田原藩12,000石江戸詰め家老渡辺崋山(1793〜1841)と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として岸和田藩の藩医小関三英(1787〜1839)や田原藩の兵学者鈴木春山(1801〜1846)とともに蘭学書の翻訳に当たりました。
天保3年(1832)、長英は紀州和歌山藩の藩医遠藤勝助らによって天保の飢饉の対策会として作られた洋学研究集団南蛮学社である尚歯会に入り、崋山らとともに中心的役割を担いました。
天保9年(1838)、モリソン号に対する幕府の方針を漏れ聞いて深く憂慮した長英は「戊戌夢物語」を著して内輪で回覧に供しましたが、この本は長英の予想を超えて写本として流布していました。
当時、第12代将軍徳川家慶(1793〜1853)のもと老中として、質素倹約の重農主義を基本とした享保・寛政時代への復古を目指し、経済改革を中心に綱紀粛清や軍制改革など(天保の改革)を実施した水野忠邦(1794〜1851)の目付で、大学の頭林述齋(1768〜1841)の子、鳥居耀蔵(1796〜1873)は、儒学者として極端に洋学を憎み、南蛮学社(尚歯会)に属する学者への弾圧(蛮社の獄)を加えました。
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2005年12月04日
板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)
高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半期に描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財。
(旧暦11月3日)
天保8年(1837)6月28日、安房大房(たいぶさ)沖(千葉県富浦町)に姿を現した3本マストの大型帆船は浦賀沖へと進んで行きましたが、浦賀奉行の異国船打払令に基づく発砲命令により砲撃され、沖へと退いていきました。
この船は、アメリカのオリファント商会(Olyphant & Co.)に所属する商船モリソン号で、マカオで保護されていた尾張の難破漂流民岩吉、久吉、音吉と肥前の難破漂流民庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を乗せていました。そしてモリソン号の来航の目的は、これらの漂流民を日本に送り届け、併せて通商を求めようとしていたものでした。
翌年、オランダ商館長グランディソンからこのことを知らされた幕府では、モリソン号の再びの来航に備え協議を重ねていましたが、結論は、前回と同様に砲撃を行い撃退するというものでした。
これに先立つ12年前の文政8年(1825)、幕府は、「無二念打払セ、見掛図ヲ不失様取計候処、専要之事ニ候」との触書を出し、日本沿岸に近づく外国船に対してはすべて打ち払うべきことを命じていました。
天保8年(1837)10月、紀州和歌山藩の藩医遠藤勝助が主宰する尚歯会(洋学研究集団南蛮学社)の例会に出席し、会友の幕府評定所記録方芳賀市三郎から漏らされたモリソン号に対する幕府の方針を聞いて深い憂いを覚えた瑞皐(ずいこう)高野長英(1804〜1850)は、「戊戌夢物語」を著して幕府の外国船打払令を穏やかに警告し、モリソン号が再び来航した際には漂流民を受け取り、鎖国政策により通商は開けない旨の事情を諭して穏やかに退去させるべきであると説きました。 続きを読む
2005年12月02日
歳時記(9)−冬(1)−初冬
初冬の米沢城趾(松が岬公園)
(旧暦 11月 1日)
北半球の冬は、天文学上ではwinter solstice(冬至:12月22日ころ)からvernal equinox(春分:3月21日ころ)までの期間を指すようですが、一般には12月初めから2月末までの3ヶ月が冬とされています。
The long dark night, that lengthens slow, t
Deepening with Winter to starve grass and tree,
And soon to bury in snow
The Earth, that, sleeping ’neath (beneath) her frozen stole,
Shall dream a dream crept from the sunless pole
Of how her end shall be.
Robert Bridges ´November` (42-7)
長い暗い夜が、ゆっくりと長くなり
冬と共に深まって草や木を萎えさせ、
やがて大地を雪に埋める、
大地は、氷の肩掛けの下で眠り、
太陽のない極地からしのびよる夢に
その終末のさまを見る。
Decemberは、1年がMartiusから始まった古代ローマの古暦(ロムルス暦、ヌマ暦などの太陰暦)の第10の月ですが、その後JanuariusとFebruariusが加えられ、さらに64B.CにJulius Caesarが太陽暦(Julian Calendar)を制定したときに、Januariusを第1月としたために、Decemberは第12番目の月になりました。 続きを読む