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2010年08月29日

陶磁器(12)−郎窯紅(景徳鎮官窯)

 
 宝石紅観音尊 (清 康煕官窯) Ruby-red Kuan-yin Tsun Vase  Height: 25.6 cm, rim diameter: 7.3 cm, base diameter; 11.1 cm

 In the period from 1705 to 1712, during the K'ang-hsi reign, Lang T'ing-chi, the Governor of Kiangsi, was ordered to go to Ching-te-chen and manage the firing of ceramics at the imperial kiln works. Among the porcelains produced there was a red-glazed vessel in imitation of one that goes back to the Hsüan-te reign (1426-1435) in the Ming dynasty. Its strikingly beautiful color is especially attractive. Since Lang T'ing-chi oversaw the production of ceramics there, it became known as "Lang-ware Red". The shape of this vessel is similar to the purification vase seen held in the hand of the Buddhist figure Kuan-yin, which is why it is also known as a Kuan-yin tsun-vase. The irregular shedding of the glaze at the mouth here is typical of the style of Lang-ware red.
Text: Yu P'ei-chin 

 (旧暦  7月20日)

 磁器を生産する窯場が繁栄する条件には、素地や釉薬の原料、焼成のための燃料が豊富なこと、製品運搬のための交通が至便なことがあげられています。

 北宋(960〜1127)の景徳年間(1004〜1007)、それまでの昌南鎮という地名から年号により改名された景徳鎮は、江西省東北部に位置し、東は浙江省、北は安徽省の省境に近い山間にあります。
 すでに漢代から陶磁器生産が始まっていたとされ、豊富な製磁原料、特に明代末期以降に用いられた安徽省で産出する祁門土(きもんど)と云われる原料に恵まれていました。

 景徳鎮はまた昌江の河沿いに形成された街で、昌江は鄱陽湖(ポーヤン湖)、さらには長江(揚子江)へと通じ、この水運は重要な交通手段としてごく近年まで利用されてきました。

 

 清朝の康煕年間(1661~1722)にイエズス会の宣教師として布教の名目で2度にわたって景徳鎮を訪れ、磁器の製造技術をフランスに送ったダントルコール神父の書翰によれば、当時の景徳鎮は次のように記述されています。

 景徳鎮には一万八千戸有之候。巨商の住居は広大の地域を占め、驚くべく多数の職工を包含致し候。而して通説には、人口百万ありて、日々米一万俵と豚一千頭以上を消費せらると申し候。また景徳鎮は、美しき河の岸に沿いて、延長一里を十分に超え申し候。

 そは家屋の集積に過ぎざらんと想像さるべく候えども、決してさならず、街路は縄墨に則り区劃されて、等距離に交叉し、諸坊皆空地なく、家竝は狭きに過ぎ申し候。町を行けば恰も市場の中央に在る如く、四方八方より担夫の道を払う叫声喧しく聞こえ申し候。(中略)

 『浮梁県志』によれば、往昔は景徳鎮に窯数三百を算えしに過ぎざるに、現今は其の数三千にも及び候。(中略)

 景徳鎮は、高き山嶽に囲まれたる平地に位せるが、その東方に在りて鎮のよりかかれる者は、その外側に一種の半円形を形成致し候。その傍の山丘よりは二川流れ出でて、やがて合流致し候。その一川の寧ろ小なるに対し、一川は甚だ大にして、約一里に亙り水勢緩やかなる広き良港を現出致し候。時としては、此の広大の水面に小舟の舳艪接して、二、三列にも竝び居り候こと、有之候。斯くの如きが、峡谷の一より港へ進入致し候時に看らるる景色に御座候。

 即ち、火焔は諸方より渦巻き上がり、一望直ちに景徳鎮の広袤(こうぼう、広さ)と奥行と輪郭とを示し居り候。夜ともなれば、恰も全市火に包まれたる一巨邑を観る如く、又は多くの風孔ある一大炉を視る如き感、致し候。恐らくは、この山嶽に囲繞されたる地形が瓷器の制作に好適せるならんかとも被存候。                            
 ダントルコール著・小林太市郎訳注 『支那陶瓷見聞録』 第一書房 1943
 佐藤雅彦補注 『中国陶瓷見聞録』 平凡社東洋文庫363


 
 清朝第4代康熙帝(こうきてい、在位1661〜1722)の康煕13年(1674)、景徳鎮は平西親王として平西藩(雲南・貴州)に封じられていた清朝入関の功臣、呉三桂(Wú Sānguì、1612〜1678)の兵乱により戦渦に巻き込まれ、鎮の房舎の半分以上が焼失するという壊滅的な被害により、磁器の生産活動は停滞してしまいました。
 
 康煕十三年の変乱により、鎮の房舎は半ば以上焼失し、窯戸は悉くその資を失ひ、窯を業とする者は十に僅かに二、三に留る。
 『饒州府志』 康煕二十二年重修
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 16:49Comments(0)陶磁器