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2019年06月19日

漢詩(33)− 曹操(1)- 歩出夏門行


  

    太宰治(1909〜1948) 1946年、銀座のBAR「ルパン」にて(林忠彦氏撮影)

  桜桃忌
  昭和23年6月19日、作家太宰治が戦争未亡人の愛人山崎富栄と東京三鷹の玉川上水に入水して、その遺体が発見された日で、その日は太宰の誕生日でもあったことから、「桜桃忌」と呼ばれるようになった。「桜桃忌」の名前は桜桃の時期であることと晩年の作品『桜桃』に因むもので、この日は三鷹市の禅林寺で供養が行われている。

  (旧暦5月17日)

  『歩出夏門行』は、後漢(25〜220)の末期、建安十二年(207)の秋八月、後の魏の武帝曹操(155〜220)が、宿敵袁氏に味方する蹋頓(?〜207)ら烏桓族二十数万を北方の白狼山(遼寧省カラチン左翼モンゴル族自治県)で破った時に作ったものとされています。

  『歩出夏門行』は、(艶)、(觀滄海)、(冬十月)、(土不同)、(龜雖壽)からなり、(艶)はこの組詩の原因、背景、心情が書かれた序言にあたるとされています。

  (艶)

  雲行雨步             雲を行き雨を步み
  超越九江之皐      九江(江西省)之皐(かう:岸辺)を超越す
  臨觀異同             臨みて異同を觀る
  心意懷遊豫         心意は遊豫(いうよ:ためらい)を懷(いだ)く
  不知當復何從      知らず復た何に從ふか
  經過至我碣石      經過して我 碣石(けつせき:河北省東境の山)に至り
  心惆悵我東海      心は惆悵(ちうちやう)し 我 東海(東海郡)に

    


    『南屏山昇月』(月岡芳年『月百姿』)  赤壁を前にする曹操


  曹操は当初、南征して荊州(湖北省一帯)の劉表(142〜208)を伐つか、それとも北伐して烏桓を討つかで心が揺れていたようです。
  曹操の部下も、南方の劉表を伐つか北方の烏桓を討つかで意見が分かれていました。
 
  曹操が北方の烏桓を討てば、南方の劉表が機に乗じて劉備(161〜223)に曹操の拠点許昌(河南省)を攻撃させる恐れがあり、南方荊州の劉表を伐てば、烏桓が機に乗じて反撃してくるだろうと危惧されていました。

  結局、曹操は軍師郭嘉(170〜207)の進言を入れて、北方烏桓の北西に出陣します。

  將北征三郡烏丸、諸將皆曰、「袁尚、亡虜耳、夷狄貪而無親、豈能爲尚用。今深入征之、劉備必說劉表以襲許。萬一為變、事不可悔。」惟郭嘉策表必不能任備、勸公行。
  《三國志 魏書 武帝紀 建安十二年 》


  將に三郡(漁陽郡、右北平郡、雁門郡)の烏丸(烏桓)を北征せんとするに、諸將皆曰く、「袁尚は亡虜(逃亡した捕虜)耳(のみ)、夷狄は貪すれども親む無し。豈(あに)尚(袁尚)の爲に能く用いん。今深く入りて之を征せば、劉備必ず劉表を說きて以て許(許昌)を襲わん。萬一變為らば、事悔むべからず。」と。
  惟だ郭嘉のみ策するに表(劉表)は必ず備(劉備)を任ずること能はず、公に行くを勸む。
  《嘉穂のフーケモン拙訳》


  夏五月、至無終。秋七月、大水、傍海道不通、田疇請爲郷導、公從之。引軍出盧龍塞、塞外道絕不通、乃壍山堙谷五百餘里、經白檀、歷平岡、涉鮮卑庭、東指柳城。未至二百里、虜乃知之。尚、熙與蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等、將數萬騎逆軍。八月、登白狼山、卒與虜遇、衆甚盛。公車重在後、被甲者少、左右皆懼。公登高、望虜陳不整、乃縱兵擊之、使張遼為先鋒、虜衆大崩、斬蹋頓及名王已下、胡、漢降者二十餘萬口。
  《三國志 魏書 武帝紀 建安十二年 》


    

    幽州略図

  夏五月、無終(天津市)に至る。秋七月、大水、傍の海道通ぜず、田疇(169〜214)郷導(道案内)の爲に請け、公(曹操)之に從ふ。軍を引ゐて盧龍塞を出ずるも、塞外の道は絕へて通ぜず、乃ち山を壍(ほ)り谷を堙(ふさ)ぐこと五百餘里、白檀(河北省)を經、平岡(内モンゴル自治区)を歷し、鮮卑の庭を涉り、東へ柳城(遼寧省朝陽市)を指す。

  未だ二百里に至らざるに、虜(胡虜)乃之を知る。尚(袁尚)、熙(袁熙)と蹋頓、遼西單于樓班、右北平單于能臣抵之等は、數萬騎の逆軍を將す。八月、白狼山に登り、卒與(突然)として虜に遇ふ。衆は甚だ盛なり。公(曹操)の車重は後に在り、甲(かぶと)を被(かぶ)る者は少く、左右皆懼(おそ)れり。公(曹操)は高み登り、虜の陳(陣列)の整はざるを望むや、乃ち縱兵(出兵)して之を擊ち、張遼をして先鋒と爲すや、虜衆は大いに崩れ、蹋頓及名王已下を斬り、胡、漢の降者は二十餘萬口(人)たり。
  《嘉穂のフーケモン拙訳》
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:14Comments(0)漢詩

2015年07月07日

漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  

  Portrait of Qu Yuan by Chen Hongshou

  (旧暦5月22日)

  汨羅の渕に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れ飛ぶ
  混濁の世に我れ立てば
  義憤に燃えて血潮湧く
  『青年日本の歌』  作詞・作曲 海軍少尉三上卓(海兵54期)


  楚の頃襄王二十一年(BC278)、西の強国秦の侵攻によって首都郢(えい:湖北省荊州市)が陥落したことで楚の将来を絶望した屈原(BC340頃~BC278頃)は、旧暦五月五日の端午節に石を抱いて汨羅江に入水自殺したと伝えられています。

  屈原が入水した汨羅江(Miluo River, mìluó jiāng)は、湖南省の北東部を流れる洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流で、長さ250㎞。
  汨羅の名称は、BC690年、楚が諸侯国の一つ羅子国を滅ぼし、その遺民が丹陽(湖北省帰県)さらには汨羅江尾閭南岸(汨羅西部郊外)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来するとのことです。

  屈原五月五曰投汨羅水。楚人哀之、至此曰、以竹筒子貯米投水以祭之。漢建武中、長沙區曲忽見一士人、自云三閭大夫。謂曲曰、聞君當見祭、甚善。常年爲蛟龍所竊。今若有惠、當以楝葉塞其上、以彩絲纏之。此二物、蛟龍所憚。曲依其言。今五月五曰作粽、並帶楝葉、五花絲、遺風也。
  『續齊諧記』  南梁 吳均


 

  屈原 五月五日 汨羅水に投ず。楚人之を哀み、此の日、竹筒を以て米を貯へ、水に投じて之を祭る。漢の建武中(25〜56)、長沙の區曲(おうくわい)忽ち一士人を見る。自ら三閭大夫と云ふ。謂ひて曰く、聞く當(まさ)に祭らるるを見るは、甚だ善し。常年、蛟龍の爲に竊(ぬす)まる。今惠有らば、當に楝(あふち:栴檀)の葉をもって其の上を塞ぎ、彩絲を以て之を纏(ま)くべし。此の二物、蛟龍の憚(おそ)るる所なり、と。曲(くわい)其の言に依る。今、五月五曰 粽(ちまき)を作り、竝(なら)びに楝葉、五花絲を帶ぶるは、遺風なり。

  屈原(BC340頃~BC278頃)、名は平、中国春秋時代の楚の第十八代君主武王(在位:BC740 〜 BC690)の公子瑕(屈瑕)を祖とする公室系の宗族のひとりであり、屈氏は景氏、昭氏と共に楚の王族系の中でも名門のひとつでありました。    
  見聞広く、記憶力に優れ、治乱の道理に明るく、詩文にも習熟していたために第三十七代君主懐王(在位:BC329 〜 BC299)の信任が厚く、朝廷にあっては王と国事を図って号令を出し、朝廷の外にあっては賓客をもてなし諸侯を応接する高官である左徒となりました。

  屈原在世当時の楚の政治課題は、西の強国秦への対応でした。
  その方針については、臣下の意見は二分していました。
  face031.親秦派
   西の秦と同盟することにより楚の安泰をはかる連衡説
  face052.親齊派
   東の齊と同盟することで、秦に対抗しようとする合従説

  屈原は親齊派の急先鋒でしたが、屈原の才能を憎んだ位が同位の上官大夫の讒言を受けた懐王は怒り、屈原を疎んずるようになります。
 
  楚の懐王十七年(BC312)、懐王は秦の策謀家張儀の罠にかかり、兵を発して秦を討ちますが、楚は丹淅(江蘇省鎮江市)と藍田(陝西省西安市)に大敗します。

  丹淅、藍田の大敗後、屈原は一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられました。

  楚の懐王三十年(BC299)、秦の昭王(昭襄王:在位BC306〜BC251)は懐王に婚姻を結ぶことを持ちかけて、秦に来訪するように申し入れました。
  屈原は、「秦は虎狼のように残忍で危険な国で、信用がならなりません。行かない方が良いでしょう。」と諫めましたが、懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、ついに秦に監禁されてしまいます。

  王を捕らえられた楚では、長子頃襄王を立て、その弟子蘭を令尹(丞相)にしたために、更に追われて江南へ左遷されてしまいます。

  その後、楚の頃襄王二十一年(BC278)、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺します。

  令尹子蘭聞之大怒、卒使上官大夫短屈原於頃襄王、頃襄王怒而遷之。    
  屈原至於江濱、被髪行吟澤畔。顏色憔悴、形容枯槁。


  令尹(れいゐん:執政)子蘭 之を聞き大いに怒り、卒(つひ)に上官大夫をして屈原を頃襄王に短(そし)らしむ。頃襄王怒りて之を遷(うつ)す。
  屈原江濱に至り、髪を被(かうむ)り澤畔に行吟す。顏色憔悴し、形容枯槁す。


  漁父見而問之曰、子非三閭大夫歟。何故而至此。
  屈原曰、舉世混濁而我獨淸、眾人皆醉而我獨醒、是以見放。
  漁父曰、夫聖人者、不凝滯於物而能與世推移。舉世混濁、何不隨其流而揚其波。眾人皆醉、何不餔其糟而啜其醨。何故懷瑾握瑜而自令見放爲。
  屈原曰、吾聞之、新沐者必彈冠、新浴者必振衣、人又誰能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴常流、而葬乎江魚腹中耳。又安能以皓皓之白、而蒙世俗之溫蠖乎。


  漁父見て之に問ひて曰く、子は三閭大夫に非ずや。何の故に此に至れる、と。
  屈原曰く、舉世混濁して我獨り淸(す)む、眾人皆醉ひて我獨り醒む。是を以て放たる、と。
  漁父曰く、夫れ聖人は物に凝滯せずして能く世と推し移る。舉世混濁せば、何ぞ其の流れに隨ひて其の波を揚げざる。眾人皆醉はば、何ぞ其の糟を餔(く)らひて其の醨(うはずみ)を啜(すす)らざる。何の故に瑾を懷き瑜を握りて(優れた才能を持つ)、自ら放たれしむるを爲す、と。
  屈原曰く、吾之を聞く、新たに沐する者は必ず冠を彈き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ、と。人又誰か能く身之察察(さつさつ:清潔なさま)を以て、物の汶汶(もんもん:汚れたさま)を受くる者ぞ。寧(むし)ろ常流に赴きて、江魚の腹中に葬(はうむ)られんのみ。又安くんぞ能く皓皓(かうかう:潔白なさま)之白きを以てして、世俗之溫蠖(をんわく:どす黒いさま)を蒙(かうむ)らんや、と。

  乃ち懷沙之賦を作る。
  其の辭に曰く、


  滔滔孟夏兮  草木莽莽   
  傷懐永哀兮  汨徂南土
  眴兮窈窈   孔靜幽黙
  寃結紆軫兮  離愍而長鞠
  撫情效志兮  俛詘以自抑
  刓方以爲圜  常度未替
  易初本由兮  君子所鄙
  章畫職墨兮  前度未改
  内直質重兮  大人所盛
  巧匠不斲兮  孰察其揆正
  玄文幽處兮  曚謂之不章
  離婁微睇兮  瞽以爲無明
  變白而爲黑兮 倒上以爲下
  鳳皇在笯兮  鶏雉翔舞
  同糅玉石兮  一槩而相量
  夫黨人之鄙妒 羌不知吾所臧


  滔滔(たうたう)たる孟夏(まうか:初夏)
  草木 莽莽(ぼぼ:生い繁る)たり
  懐(おも)ひを傷め永く哀しみ
  汨(いつ:急ぎ)として南土(なんと)に徂(ゆ)く
  眴(けん:瞬き)して窈窈(えうえう:果てしない)たり
  孔(はなは)だ靜かにして幽黙(いうもく:物音がしない)なり
  寃結(ゑんけつ:心が塞がり結ぼれ)紆軫(うしん:もつれ痛む)して
  愍(うれ)ひに離(かか)りて長く鞠(きは)まる
  情に撫(したが)ひ志を效(いた)し
  俛詘(ふくつ:伏屈む)以て自ら抑(おさ)ふ
  方を刓(けず)り以て圜と爲すも
  常度(じやうど:元の態度)を未だ替(す)てず
  初本の由るところを易(か)ふるは
  君子の鄙(いや)しむ所なり
  畫(くわく)を章(あきら)かにし墨を職(しる)して
  前度(もとの態度)を未だ改(あらた)めず
  内 直にして 質 重なるは大人の盛とする所
  巧匠(かうしやう)斲(けづ)らずんば
  孰(たれ)か其の揆(き:寸法)の正しきを察せん   
  玄文(黒い模様)幽處(いうしよ:暗い所にある)する
  曚(もう:盲人)は之を章(しよう:模様)ならずと謂う
  離婁(りろう:黄帝の時代のひじょうに目の良かった人)の微睇(びてい:目を細めて見る)する
  瞽(こ:盲人)は以て明無しと爲す
  白を變じて黑と爲し
  上を倒(さかしま)にし以て下と爲す
  鳳皇は笯(ど:竹の籠)に在り
  鶏雉は翔舞す
 玉石を同糅(どうじう:一緒に混ぜる)し
 一槩(いちがい:斗掻き)にて相量る
 羌(ああ)吾が臧(よ)き所を知らず
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:56Comments(0)漢詩

2014年04月23日

漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 

 陸游(1125〜1210)
 
 (旧暦3月24日)


  釵頭鳳 陸游            釵頭鳳(さいとうほう) 陸游

  紅酥手                     紅酥(こうそ)の手
  黄縢酒                     黄縢(わうとう)の酒
  滿城春色宮牆柳       滿城の春色 宮牆(きうしやう)の柳
  東風惡                     東風 惡しく
  歡情薄                     歡情 薄(はかな)し
  一懷愁緒                 一懷の愁緒
  幾年離索                 幾年の離索ぞ
  錯 錯 錯                   錯(あやま)てり 錯てり 錯てり

  春如舊                    春は舊(もと)の如く
  人空痩                    人は空しく痩せ
  泪痕紅浥鮫綃透       泪痕紅く浥(うるほ)して鮫綃に透る
  桃花落                    桃花 落ち
  閑池閣                    閑かなる池閣
  山盟雖在                 山盟在りと雖も
  錦書難托                 錦書は托し難し          
  莫 莫 莫                  莫(な)し 莫し 莫し


 


  うすくれないの柔き手に
  黄色き紙の封じ酒
  城内一面春景色  宮壁沿いの若柳
  春風悪しく
  歓び儚(はかな)し
  胸に抱きし淋しき思ひ
  離別せしより幾年ぞ
  ああ 錯(あやま)てり  錯てり  錯てり

  春は昔のままなるも
  人は空しくやせ衰へり
  泪紅く頬つたい  手巾に滲みて散りにじむ
  桃花は落ちて 閑かなる
  池のほとりの楼閣に
  深き契りはありとても
  想いの文は出し難し
  ああ 莫(な)かれ 莫かれ 莫かれ



 「釵頭鳳」とは、六十文字からなる一種の詩歌の形式で、劇中で歌われる詩歌でした。しかし単に釵頭鳳というと、南宋の文人政治家、陸游(1125〜1210)と最初の妻、唐琬の釵頭鳳を指すほど有名です。

  陸游は、南宋の高宗紹興十四年(1144)甲子、20歳の時に、母、唐氏の姪である唐琬と結婚し、仲睦まじく暮らしていましたが、妻と姑の唐氏との折り合いが悪く、一年ほどで離縁させられてしまいます。
  しかし、高宗紹興二十五年(1155)乙亥、陸游31歳の時に、その別れた妻と沈家の庭園「沈園」で、偶然にも再開してしまいます。

  沈園で出会った後、陸游はその激情をこの詞に託して沈園の壁に書いたと云われています。翌年、沈園を再訪した唐琬はこの詞を知り、彼女も詞を和して応えたとか。

  「釵頭鳳」の形式は、次のようになっています。

   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)


   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)



  釵頭鳳  唐琬        釵頭鳳  唐琬

  世情薄                 世情は薄く
  人情惡                 人の情は惡し
  雨送黃昏花易落    雨 黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く      
  曉風干                 曉風(げうふう)干き
  泪痕殘                 泪痕を殘す        

  欲箋心事              心事を箋(せん)に欲せんとし
  獨語斜欄              獨語し欄に斜す          
  難 難 難                難(かた)し 難し 難し



  人成各                  人各々に成り
  今非昨                  今は昨(きのふ)に非ず
  病魂常似鞦韆索    病魂 常に鞦韆(しうせん)の索に似たり
  角聲寒                  角聲寒く
  夜闌珊                  夜 闌珊(らんさん)たり
  怕人尋問              人の尋問を怕(おそ)れ
  咽淚裝歡              咽淚せしも歡を裝ふ
  瞞 瞞 瞞               瞞(あざむ)かん 瞞かん 瞞かん


 


  世情は薄く
  情は悪(わる)し
  雨は黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く
  明けの風は 涙を乾かし
  その痕を残す
  心の想いを手紙に書かんと
  一人つぶやき 手摺りに依るも
  ああ できない できない できない

  人それぞれの道を行き
  今は昔の君ならず
  迷いの心は ゆらゆらと
  ふらここの 紐のように揺れ動く
  角笛の音 寒々と
  夜は寂しく過ぎゆきて
  夜番の誰何をただ怖れ
  涙こらえて装はん 
  ああ 欺かん 欺かん 欺かん
 

  南宋の寧宗慶元五年(1199)己未、75歳の春、陸游は沈園を再訪しました。40年以上も前に訪れたときには、思いがけずに懐かしい唐婉と出会いましたが、今は知る人もいない。
 そんな寂寥の想いと、唐婉の思い出を込めて、陸游は二首の絶句を作りました。

  沈園二首 其一    沈園二首 其の一   陸 游

  城上斜陽畫角哀   城上の斜陽 畫角哀し
  沈園非復旧池台   沈園(しんえん)は復た旧池台に非ず
  傷心橋下春波緑   心を傷(いた)ましむ橋下 春波の緑
  曾是驚鴻照影來   曾て是れ驚鴻(きやうこう)の影を照(うつし)來る

 
  壁上に夕陽がかたむき 角笛の哀しい音がする
  沈園も変わりはて 苑池楼台は見るかげもない
  思えば胸が傷んでくる 橋下の池は春にして緑色
  鴻のかつて飛び立つ絵姿を 映したこともあったのだ


  沈園二首 其二    沈園二首 其の二   陸 游

  夢斷香銷四十年   夢は斷え香は銷(き)えて四十年  
  沈園柳老不飛綿   沈園の柳も老いて綿を飛ばさず 
  此身行作稽山土   此の身 行々稽山の土と作らんとす 
  猶弔遺蹤一泫然   猶ほ遺蹤(いしよう)を弔ひて一たび泫然(げんぜん)たり  


  夢は断ち切られ 余香は消え去って四十年
  沈園の柳も老い 柳絮も飛ばなくなった
  やがてこの身も 会稽山の土となるだろう
  想い出の地を訪れて なおも涙はしとどに流れる
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:48Comments(0)漢詩

2012年07月04日

漢詩(30)ー秋瑾(2)ー寶刀歌

 

 匕首を構える秋瑾女史

 (旧暦5月15日)

 秋閨瑾が生まれたのは、清朝末期最大の実力者西太后(1835〜1908)が幼い甥の載湉(Dzai Tiyan;1871〜1908)を光緒帝として即位させて二度目の垂簾聴政についた光緒元年(1875)の晩秋、陰暦の秋十月でした。

 秋家は代々、科挙を受験する名門の家系であり、曾祖父の秋家丞、祖父の秋嘉禾(?〜1895)や父親の秋寿南(1850〜1901)も県試、府試、院試、歳試、郷試の難関を乗り越えて進士となるための試験である会試の受験資格がある挙人に及第しています。
 
 そして曾祖父の秋家丞は江蘇省邳州の知州(州知事)、祖父秋嘉禾は知府相当官、父秋寿南は直隷州の知州に任官しています。

 祖父秋嘉禾が福建省厦門知府として赴任するのに同行した父寿南は、閨瑾の兄誉章が六歳になったのを機に、専門の教師を雇い、家塾を開いて我が子と学友に教育を施しますが、閨瑾はその家塾で学ぶことを祖父に請い、許されます。

 閨瑾は四人兄妹の二番目でしたが、兄妹中で最も聡明であった閨瑾を父寿南はことの他かわいがり、自ら唐詩、宋詞などを教えたといいます。
  
 十五歳の頃、閨瑾は母單氏の実家である浙江省蕭山へ母や兄妹とともに里帰りしますが、そこで閨瑾は自ら願って母の実弟の單以南から馬術や武術を修得しています。

 光緒二十二年(1896)、二十歳の閨瑾は本人の意思とは関係ない親同士の取り決めにより、やむなく湖南省湘潭県きっての富豪に数えられる王家に嫁ぎます。夫の王廷釣は閨瑾より二歳年下の十八歳でした。
 やがて沅德、桂芬の一男一女を授かるも、この結婚は閨瑾にとっては不満と鬱屈と憤りの日々であったようです。

 光緒二十一年(1896)、大清帝国は甲午戦争で日本に敗れて遼東半島、台湾、澎湖列島を割譲し、国家の歳入総額二年半分に相当する二億両もの賠償金を支払う結果になってしまいます。

 さらには光緒二十六年(1900)に起きた庚子事変では、西太后が義和団を称する秘密結社の排外運動を支持して大清帝国自らが欧米列国に宣戦布告したために、国家間戦争となってしまいます。
 やがて英・米・仏・露・独・墺・伊・日の八ヶ国聯合軍が首都北京を占領し、翌光緒二十七年(1901)九月に調印された辛丑条約(Boxer Protocol)によって、四億五千万両もの莫大な賠償金の支払いを義務づけられて、清朝は「半植民地」ともいうべき状態に陥ってしまいます。

 このころ、夫の古い因習的な女性観にも反撥を感じていた秋瑾は纏足をやめ、かつ背広、革靴、ハンチングキャップ(鳥打帽)という男装をするようになります。

 さらには、京師大学堂速成師範館(北京大学教育学院の前身)正教習として日本から派遣されていた服部宇之吉博士(1867〜1939)の夫人である服部繁子と知り合い、日本に留学して日本の女子教育の現状を確かめ、救国のため、自己の自立のため、女性解放のために学ぶことを決意します。

 このころの詩に「寶刀歌」や「寶劍歌」があり、憂国の烈々たる心情を謳っています。

 寶刀歌

 漢家の宮闕 斜陽の裡(うち)
 五千餘年の 古國死す。
 一睡 沈沈として數百年
 大家(みな)は識らず 奴と做(な)るの恥を。

 憶へ昔我が祖 名は軒轅(けんえん、伝説の帝王黃帝)
 地を闢(ひら)く 黄河及び長江
 大刀霍霍(くわくくわく、きらめく)として 中原を定む。

 梅山を痛哭するを 奈何(いか)にすべき
 帝城の荊棘(けいきよく、いばら) 銅駝(どうだ、宮廷)を埋めたり。
 幾番(何回)か首(かうべ)を回らして 京華(みやこ)を望めば
 亡国の悲歌 涙涕多し。

 北上せる聯軍 八國の衆に
 我が江山(山河)を 又も贈送す。
 白鬼西より來りて 警鐘を做(な)し
 漢人驚破す 奴才(覚醒していない漢民族)の夢。

 主人我に贈る 金錯刀(黄金の象眼を施した刀)                      
 我今此を得て 心(こころ)英豪(えいごう、たけだけしい)たり。
 赤鐵(暴力闘争)主義にて 今日に當れば
 百萬の頭顱(とうろ、されこうべ)も 一毛に等し。

 日に沐し月に浴せば 百寳光(かがや)き
 生を輕んずるの七尺 何ぞ昂藏(かうぞう、意気が揚がる)せん。
 誓って死裏に 生路を求め
 世界の和平は 武裝に賴る。

 觀(み)ずや荊軻を 秦客と作(いつは)り
 圖(づ)窮(きはま)りて匕首 盈尺(えいしやく、短い距離)に見(あらは)る。
 殿前の一撃 中(あた)らずと雖も   
 已に奪ふ 專制魔王(始皇帝)の魄(たましい)。


 我隻手(せきしゆ、ひとり)にて 祖國を援(たす)けんと欲すれど                  
 奴種(奴隷根性)流れ傳はり 禹域(中国)に徧(あまね)し。
 心(こころ)死せる人人 爾を奈何せん
 筆を援(と)り 此を作る寳刀歌
 寳刀の歌 肝膽に壯たり。

 死國の靈魂 喚起多く
 寶刀侠骨(侠気) 孰與(いづれ)ぞ儔(ちう、仲間)なる。
 平生了了(明々)たり 舊き恩仇を
 嫌ふ莫れ 尺鐵の英物に非ざると。

 救國の奇功 爾に賴って收めんとせば
 願はくは茲(これ)從り 天地を以て鑪(たたら、製鉄炉)と爲し
 陰陽を 炭と爲し
 鐵は 六洲より聚(あつ)む。
 鑄造し出す 千柄萬柄の刀にて
 神州を澄清(ちやうせい、清める)せん。

 上は我が祖黄帝 赫赫(くわくくわく)の成名を繼ぎ
 一洗す 數千數百年の國史の奇羞(きしう、おかしな恥辱)を。
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2011年12月28日

漢詩(29)-乃木希典(2)-金州城下作

 

 二〇三高地頂上より旅順港を望む
 海軍軍令部『明治三十七八年海戦史』(1909年)より
 
 (旧暦12月4日)

 山川草木轉荒涼   山川 草木  轉(うた)た荒涼
 十里風腥新戦場   十里 風 腥(なまぐさ)し  新戰場
 征馬不前人不語   征馬 前(すす)まず  人 語らず
 金州城外立斜陽   金州城外  斜陽に立つ


 山も川も草も木もすべてが砲弾の跡なまなましく、ただ荒れ果てている。
 十里の間、吹く風も血なまぐさい新戦場。
 軍馬は進もうとせず、傍らの者も黙している。
 金州城外夕日のなか、茫然としてたたずむ。 


 (六月)
  七日、晴、金州に到る。途中負傷者二百九十名、露兵四名に柳家屯に逢ふ。三里庄に兵站司令官出迎え来る。劉家屯の劉家に泊す。斎藤季二郎少佐軍政委員なり。来訪、同氏の案内、南山の戦場巡視、山上戦死者墓標に麦酒を献じて飲む。幕僚随行す。
  山河草木轉荒涼。十里風腥新戦場。征馬不前人不語。金州城外立夕陽。

 同八日、晴、朝七時金州発、北泡子崖に著す。両師団長を招集して訓令を与えたり。
 (乃木希典日記)


 明治37年(1904)5月2日、中国遼東半島の先端部、旅順口攻略の大命を帯びて第三軍司令官に親補された陸軍中将乃木希典(1849〜1912)は、同6月1日に運送船「八幡丸」に乗船して広島県の宇品港を出港し、同6月6日、遼東半島の塩大澳(えんたいおう)三官廟に上陸しました。
 この日、海軍の聯合艦隊司令長官東郷平八郎中将らとともに大将に昇進した乃木希典は、翌6月7日、幕僚らとともに金州に向かい、南山の戦場を訪れて、第二軍の戦死者および5月26日に金州城東門外に負傷して翌27日に戦死した長男、歩兵第一聯隊第一大隊第一小隊長乃木勝典少尉(1879〜1904、陸士13期)の英霊を弔っています。

 野に山に討死になせし益荒雄の あとなつかしき撫子の花   乃木希典

  第三軍ノ目的ハ、可成(なるべく)速(すみやか)ニ旅順口ヲ攻略スルニ在リ。如何ナル場合ニ於テモ、第二軍ノ後方ニ陸上ヨリスル敵ノ危害ヲ及サザル如クスルヲ要ス。
 (第三軍司令官ニ与フル訓令)


 明治37年(1904)6月30日、「満州軍総司令部戦闘序列」が下達され、乃木大将率いる第三軍は、第一師団(東京)、第九師団(金沢)、第十一師団(善通寺)の三個師団を基幹とする旅順攻囲軍を編成しました。

 第三軍の戦闘序列

 軍司令官 乃木希典大将 
  参謀長 伊地知幸介少将

 face01 第一師団(東京)       師団長 松村務本中将
 
   歩兵第一旅団   歩兵第一聯隊(東京)、歩兵第十五聯隊(高崎) 
   歩兵第二旅団   歩兵第二聯隊(佐倉)、歩兵第三聯隊(東京)
   師団付属     騎兵第一聯隊、野戦砲兵第一聯隊、工兵第一大隊

 face02 第九師団(金沢)       師団長 大島久直中将
 
   歩兵第六旅団   歩兵第七聯隊(金沢)、歩兵第三十五聯隊(金沢)
   歩兵第十八旅団  歩兵第十九聯隊(敦賀)、歩兵第三十六聯隊(鯖江)
   師団付属     騎兵第九聯隊、野戦砲兵第九聯隊、工兵第九大隊

 face03 第十一師団(善通寺)     師団長 土屋光春中将
 
   歩兵第十旅団   歩兵第二十二聯隊(松山)、歩兵第四十四聯隊(高知)
   歩兵第十八旅団  歩兵第十二聯隊(丸亀)、歩兵第四十三聯隊(善通寺)
   師団付属     騎兵第十一聯隊、野戦砲兵第十一聯隊、工兵第十一大隊

 face04 後備歩兵第一旅団       旅団長 友安治延少将
  
   後備歩兵第一、第十五、第十六聯隊

 face05 後備歩兵第四旅団       旅団長 竹内正策少将 
  
   後備歩兵第八、第九、第三十八聯隊

 face06 野戦砲兵第二旅団       旅団長 大迫尚道少将
  
   野戦砲兵第十六、第十七、第十八聯隊

 face08 攻城砲兵司令部        司令官 豊島陽蔵少将
  
   野戦重砲兵聯隊、徒歩砲兵第一、第二、第三聯隊、徒歩砲兵第一独立大隊

 face07 海軍野戦重砲隊        指揮官 黒田悌次郎海軍中佐

 face11 軍兵站部           兵站監 小畑蕃大佐

 face12 軍工兵部           工兵部長 榊原昇造大佐

 旅順攻囲戦は以下のような段階を経て行われました。

 1. 前哨戦(攻囲陣地推進)  (明治37年6月26日〜8月9日)
 2. 第1回総攻撃 (明治37年8月19日〜8月24日)
 3. 前進堡塁確保 (明治37年8月25日〜10月25日)
 4. 第2回総攻撃 (明治37年10月26日~10月31日)
 5. 第3回総攻撃 (明治37年11月26日~12月6日)
 6. 旅順開城まで (明治37年12月7日〜明治38年1月5日)

 
 明治37年(1904)12月6日午前7時30分、二〇三高地は11月に動員されたに第七師団歩兵第二十五聯隊第二大隊主力によって占領され、多大な犠牲を伴った旅順攻囲戦は最大の難関を越えました。

 明治37年7月31日に前進陣地を占領してから155日の日数を要し、後方部隊を含めて延べ約13万人、戦闘参加最大人員6万4千名(第3回総攻撃時)の兵力に及んだと報告されています。
  
 旅順攻囲戦における日本側の損害は、戦死15,390名、戦傷43,814名、計59,204名に対し、ロシア側の損害は、戦死・行方不明6,646名、戦傷・捕虜約25,000名と報告されています。
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2011年07月23日

漢詩(28)ー毛澤東(2)−沁園春 長沙

 

 橘子洲

 (旧暦6月23日)

 沁園春 長沙
 一九二五年


 獨立寒秋        獨り 寒秋に立てば
 湘江北去        湘江は 北に去る
 橘子洲頭        橘子洲頭(きつししゆうとう)
 看萬山紅遍       看よ 萬山の紅きこと遍(あまね)く
 層林盡染        層林 盡(ことごと)く染まるを
 漫江碧透        漫江 碧(あお)く透み
 百舸爭流        百舸 流れに爭ふ
 鷹撃長空        鷹 長空を撃ち
 魚翔淺底        魚 淺底に翔(ひるが)へる
 萬類霜天競自由     萬類 霜天に自由を競ふ
 悵寥廓         寥廓を悵(なげ)き
 問蒼茫大地       蒼茫たる大地に 問ふ
 誰主沈浮        誰か 沈浮を主(つかさど)ると

 携來百侶曾游      百侶を携へ來りて 曾て游べり
 憶往昔 崢嶸歳月稠   往昔を憶へば  崢嶸(さうくわう)として  歳月 稠(おほ)し
 恰同學少年       恰(まさ)に 同學 少年にして
 風華正茂        風華 正に茂れる
 書生意氣        書生の 意氣は
 揮斥方遒        揮斥(きせき)して 方(まさ)に遒(つよ)し
 指點江山        江山を 指點(してん)し
 激揚文字        文字に 激揚し
 糞土當年萬戸侯     當年の 萬戸侯を糞土とす
 曾記否         曾て 記すや否や
 到中流撃水       中流に到りて 水を撃てば
 浪遏飛舟        浪 飛舟を 遏(とど)めたるを


 独り 晩秋の岸辺にたたずめば
 湘江は北へ流れ去る
 橘子洲の南端
 見よ 山々は全て紅く
 山腹に重なる木々は ことごとく紅葉となる
 水面は一面 青く澄み
 多くの舟が 流れに逆らって上る
 鷹は大空を羽ばたき
 魚は浅瀬でひるがえる
 命あるもの 霜天の下 自由に生きる
 天を恨み
 果てしなく広がる大地に問う
 人の世で 誰が浮き沈みを司っているのか

 かつて多くの友人と集い来て この地で青春を過ごした
 昔を顧みれば なみなみならぬ歳月が積み重なる
 私たちは皆若く
 花の盛りだった
 書生の意気は
 奔放でまさに強く
 国事を論じ
 文章に激昂し
 世の軍閥を罵倒した
 友よ 覚えているだろうか
 湘江の中ほどで水を撃ち 
 祖国の回復を誓ったとき
 激しい波が 飛ぶように速い舟さえ止(とど)めようとしたことを


 詞は、中国における韻文形式あるいは歌謡文芸の一つとされています。
詞調に合わせて詞が作られますが、詞調には特定の名称が決められており、これを詞牌と呼んでいます。詞の題名には詞牌が使われており、詩のような内容による題はつけられないきまりがありますが、その代わりに詞牌の下に詞題が添えられたり、小序が作られたようです。

 「沁園春」はこうした詞牌のひとつで、114字、双調(詞の段落が上下2つある形式)から成り立っています。
 したがって、詞牌が「沁園春」、詞題が「長沙」となるようですね。

 『沁園春 長沙』は毛澤東数え年33歳の作で、公表された作品の中ではこれが一番早く、「壮年期に達した作者が心中に決意するところがあって過去を追想し、自己の前半生に一種の総括を行っているので、今後の詩の世界の導入部の役割を果たしている」と竹内実氏はその著『毛沢東その詩と人生』で述べています。  続きを読む

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2010年01月08日

漢詩(27)-杜牧(3)-阿房宮賦(2)

 
 清 袁耀 阿房宫图 広州美術館蔵

 (旧暦 11月24日)
  
 漢詩(36)-杜牧(2)-阿房宮賦(1)のつづき

 妃嬪媵嬙、王子皇孫、辭樓下殿、輦來於秦。朝歌夜絃、為秦宮人。明星熒熒、開妝鏡也。綠雲擾擾、梳曉鬟也。渭流漲膩、棄脂水也。煙斜霧橫、焚椒蘭也。雷霆乍驚、宮車過也。轆轆遠聽、杳不知其所之也。一肌一容、盡態極姘。縵立遠視、而望幸焉。有不得見者、三十六年。
  
 妃嬪(ひひん)媵嬙(ようしゃう:女官)、王子皇孫、樓を辭し殿を下りて、輦(れん、輦車に乗る)して秦に來(きた)る。朝(あした)に歌ひ夜に絃して、秦の宮人と為れり。明星の熒熒(けいけい)たるは、妝鏡(化粧の鏡)を開く也。綠雲(宮女たちの豊かな黒髪)の擾擾(ぜうぜう:やわらかなさま)たるは、曉鬟(げうかん:寝起きの乱れ髪)を梳(くしけず)る也。渭流の膩(あぶら)を漲(みなぎ)らすは、脂水を棄つる也。煙斜めに霧橫たはるは、椒蘭(せうらん:香りの良い焚き物)を焚く也。雷霆(らいてい) 乍(たちま)ち驚くは、宮車の過ぐる也。轆轆(ろくろく:ごろごろ)として遠く聽き、杳(やう)として其の之(ゆ)く所を知らざる也。一肌(き)一容、態(たい:媚態)を盡くし姘(けん:美しさ)を極め、縵(ひさ)しく立ち遠くを視て、幸(みゆき:寵愛)を望む。見(まみ)ゆるを得ざる者有り、三十六年。

 六國(中国戦国時代末期の齊、楚、燕、韓、魏、趙の六国)の宮廷にいた后妃や女官(嬪、媵、嬙)たち、六王の王子や皇孫たちは、それぞれの国の王宮に別れを告げ、輦車に乗せられて秦の都にやってきた。そして朝晩、歌をうたい琴を奏でて、秦の宮中に奉仕する身となった。
 明るい星が瞬くように見えるのは、宮女たちが化粧のために鏡の蓋を開けたもの。
 黒い雲が群がり起こるように見えるのは、寝起きの乱れ髪を解かしているため。
 清らかな渭水の水面に、ねっとりした脂が浮かび漂うのは、化粧の水を棄てたもの。
 煙が流れ霧がたなびくように見えるのは、椒(はじかみ)や蘭(ふじばかま)の香を焚いたため。
 雷鳴が突然とどろくのは、皇帝の御車が通りゆく音。ごろごろと次第に遠ざかり、何処にか消えていく。
 宮女たちは、肌から身のこなしに到るまで、ありとあらゆる媚態を表し、美しさを窮め尽くして、いつまでも立ちつくし、遠くを眺めて、皇帝の訪れを待ち望む。
 しかしそれでも、お目通りのかなわない者がいて、三十六年間にも及んだ。


 燕、趙之收藏、韓、魏之經營、齊、楚之精英、幾世幾年、剽掠其人、倚疊如山。一旦不能有、輸來其閒。鼎鐺玉石、金塊珠礫、棄擲邐迤。秦人視之、亦不甚惜。
 嗟乎、一人之心、千萬人之心也。秦愛紛奢、人亦念其家。奈何取之盡錙銖、用之如泥沙。使負棟之柱、多於南畝之農夫、架梁之椽、多於機上之工女、釘頭磷磷、多於在庾之粟粒、瓦縫參差、多於周身之帛縷、直欄橫檻、多於九土之城郭、管絃嘔啞、多於市人之言語。使天下之人、不敢言而敢怒。獨夫之心、日益驕固。戍卒叫、函谷舉。楚人一炬、可憐焦土。


  燕、趙之收藏(財宝)、韓、魏之經營(宝物)、齊、楚之精英(選りすぐりの品々)、幾世幾年にして、其の人(たみ)より剽掠(へうりゃく:劫奪)し、倚疊(いでふ:もたせかけ、積み重ねる)して山の如し 。一旦有する能はず、其の閒に輸(いた)し來(きた)る。鼎は鐺(なべ) 玉は石、金は塊(つちくれ) 珠(たま)は礫、棄擲(きてき:棄てる)して邐迤(りい:綿々と連なる)たり。秦人(ひと)之を視るも、亦た甚だしくは惜しまず。

  嗟乎、一人(にん)之心は、千萬人之心也。秦 紛奢(豪華・奢侈)を愛せば、人(たみ)も亦た其の家を念(おも)ふ。奈何ぞ之を取ること錙銖(ししゅ:微量)を盡くして、之を用うること泥沙の如くする。棟(むなぎ)を負ふ之柱をして、南畝(農地)之農夫よりも多く、梁(はり)を架くる之椽(たるき)をして、機上之工女よりも多く、釘頭の磷磷たるをして、 庾(くら)に在る之粟粒よりも多く、瓦縫(がほう:瓦の継ぎ目)の參差(しんし:入り乱れて交錯する)たるをして、周身(全身)之帛縷(はくる:絹の糸筋)よりも多く、直欄橫檻(縦横に連なる手摺り)をして、九土(中国全土)之城郭よりも多く、管絃(音楽)の嘔啞(おうあ:乱雑で騒々しい)たるをして、市人(しじん:市に集まる人)之言語よりも多からしむ。天下之人をして、敢へて言はずして敢へて怒らしむ。獨夫(民心を失った暴君)之心は、日に益(ます)ます驕固(けうこ:驕り頑な)なり。戍卒(じゅそつ:辺境を守る兵卒)叫んで函谷舉がる(函谷関が陥落する)。楚人の一炬に、憐れむ可し焦土たり。


 燕や趙が集め貯えた財宝、韓や魏が探し求めた宝物、齊や楚の選りすぐりの品々は、何代もの間、その人民から奪い取って山のように積み重ねていた。
 ところが突然、国が滅んで保有できなくなり、阿房宮に運ばれることになった。かくして宝物の鼎は鐺(なべ)同然、美しい玉は石ころ同然、黄金は土くれ同然、真珠は小石同然に見なされ、道ばたに棄てられたものが綿々と連なった。秦の人々はこの有様を見ても、甚だしくは惜しいと思わなかった。

 ああ、天子一人の心は、何千何万もの人々の心に深い影響を与える。秦の皇帝が豪奢な暮らしを好めば、人々もまた自分の家を愛して豊にしたいと願う。それなのに、どうしてごくわずかな物までも搾り取って、それを泥や沙のように惜しみなく浪費したのであろうか。
 
 阿房宮の棟木を背負う柱の数は、田畑で働く農夫よりも多く、梁に渡した垂木の数は、機織りをする女性よりも多く、無数にきらめく釘の頭数は、倉庫に貯える穀物の粒よりも多い。
 複雑に入り組んだ屋根瓦の合わせ目の線は、身にまとう衣服の絹の糸筋の数よりも多く、縦横に連なる手摺りの数は、中国全土に築かれた城郭よりも多く、かまびすしい管弦の響きは、市場に集う人々の話し声よりも大きい。
 しかも天下の人々を抑圧して、批判を口に出す勇気はなくとも、心の中では怒らせたのだ。

 民心を失った暴君始皇帝の心は、日ごとに驕り高ぶってかたくなになっていった。
 やがて辺境警備の兵が叛乱の叫び声をあげ、続いて函谷関の守りが破れた。

 そして楚の人項羽が放った一本の炬火(たいまつ)で、惜しいことに広大な宮殿は一面の焼け野原に変わってしまった。
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2009年12月28日

漢詩(26)-杜牧(2)-阿房宮賦(1)

 
 清 阿房宮圖 袁耀 乾隆四十五年(1780)作 南京博物院蔵 

 (旧暦 11月13日)

 阿房宮賦     杜牧
 六王畢、四海一。蜀山兀、阿房出。覆壓三百餘里、隔離天日。驪山北構而西折、直走咸陽。二川溶溶、流入宮牆。五步一樓、十步一閣。廊腰縵迴、簷牙高啄。各抱地勢、鉤心鬭角。盤盤焉、囷囷焉。蜂房水渦、矗不知乎幾千萬落。長橋臥波、未雲何龍。複道行空、不霽何虹。高低冥迷、不知西東。歌臺暖響、春光融融。舞殿冷袖、風雨淒淒。一日之內、一宮之間、而氣候不齊。


 六王畢(おわ)りて、四海一なり。蜀山兀(こつ)として、阿房出づ。三百餘里を覆壓(ふうあつ)して、天日を隔離す。驪山 北に構へて西に折れ、直ちに咸陽に走(おもむ)く。二川溶溶として、流れて宮牆に入る。五步に一樓、十步に一閣。廊腰縵く迴りて、簷牙(えんが:軒先に突き出た垂木の端)高く啄(ついば)む。各(おの)おの地勢を抱(いだ)いて、鉤心鬭角(とうかく)せり。盤盤焉(えん)たり、囷囷(きんきん)焉(えん)たり。

 蜂房 水渦、矗(ちょく)として幾千萬落なるかを知らず。長橋の波に臥(ぐわ)すは、未だ雲あらざるに何の龍ぞ。複道の空を行くは、霽(は)れざるに何の虹ぞ。高低 冥迷として、西東を知らず。歌臺の暖響は、春光融融たり。舞殿の冷袖は、風雨淒淒たり。一日之內、一宮之間にして、氣候齊(ひと)しからず。


 阿房宮(あぼうきゅう)は、秦の始皇帝(Shǐ Huángdì、B.C.259~B.C.210)が始皇26年(B.C.221)に戦国六国の中で最後に残った齊を滅ぼして中国統一を図った後の始皇35年(B.C.212)に、都咸陽の渭水を隔てた南にある庭園、上林苑の中に造営を開始した巨大な宮殿です。
 その遺跡は、現在の西安市の西の郊外、阿房宮村一帯に残っています。

 三十五年、道を除(はら)ひ、九原より雲陽に抵(いた)る。山を塹(ほ)り谷を堙(うず)め、直に之を通ず。是に於て、始皇以為(おも)へらく、咸陽は人多く、先王之宮廷小なり。吾聞く、周の文王は豐(ほう)に都し、武王は鎬(かう)に都す。豐・鎬之閒は、帝王之都也と。乃ち朝宮を渭南の上林苑中に營作す。先づ前殿を阿房に作る。東西五百步、南北五十丈、上は以て萬人を坐せしむ可く、下は以て五丈の旗を建つ可し。

 周馳して閣道を為(つく)り、殿下自り直に南山に抵(いた)る。南山之顚(いただき)を表し以て闕(けつ)と為す。復道を為(つく)り、阿房自り渭を渡り、之を咸陽に屬し、以て天極の閣道の漢(天の川)を絕(わた)り營室(北方玄武七宿の第六宿。距星はペガスス座α星)に抵(いた)るに象(かたど)る。

 阿房宮未だ成らず。成らば、更に令名を擇(えら)びて之に名づけんと欲す。宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂ふ。隱宮・徒刑の者七十餘萬人、乃ち分ちて阿房宮を作り、或は麗山を作らしむ。北山の石槨(いしくわく)を發し、乃ち蜀・荊の地の材を寫(うつ)し、皆至る。關中には計るに宮三百、關外には四百餘。是に於て石を東海上の朐界(くかい)の中(うち)に立て、以て秦の東門と為す。因て三萬家を麗邑(りいふ)に、五萬家を雲陽に徙(うつ)し、皆復し、事(つか)はざること十歲。
 (史記 秦始皇本紀第六)


 始皇35年(B.C.212)、道を開いて、北は九原郡(内蒙古自治区包頭市)から雲陽(陝西省涇陽の北方)に到った。この間、山を削り、谷を埋めて直通させた。

 是に於いて始皇帝は思った。
「都の咸陽は人口が多く、先代の荘襄王(B.C.249~B.C. 247)が造営された宮廷では小さすぎる。聞くところでは、周の文王(B.C.1152~B.C.1056)は豐(ほう、西安市西南郊外)に都をつくり、武王(B.C.1087 ?~B.C.1043 ?)は鎬(かう、豐の豐河を隔てた対岸)に都を定めた。かくして豐京と鎬京の間は、一帯がつながって帝王の都となったとのことだ」と。

 そこで、群臣が参朝する宮殿を渭水の南の上林苑の中に造営した。まず、前殿を阿房村に作った。東西は500歩(約700m)、南北は50丈(約117m)、殿上には1万人を座らせることができ、殿下には5丈(約11.7m)の旗を立てることができた。

 各殿舎を通じる渡り廊下を巡らし、宮殿の下から回廊伝いに南山に到ることができた。その南山の嶺に門を作って表とし、中央の道を挟んで闕(けつ:門観)を置いた。
 上下二重の高い廊下を造って阿房村から渭水を渡って咸陽の宮殿に連絡させ、天の中宮である北極星が閣道伝いに天の川を渡って營室星(北方玄武七宿の第六宿。距星はペガスス座α星)に到るのを象った。

 しかし、阿房の宮殿はまだ完成しなかった。完成したならば、良い名を選んで命名しようとしたのであるが、宮殿を阿房村に造ったので、天下の人々はこれを阿房宮と云ったのである。

 宮刑(陰部を切り取る刑)に処せられた者、および徒刑者70万人余を二手に分けて、一方は阿房宮を造らせ、一方は麗山(りざん)を造らせた。
 このために、北山の石を発掘し、蜀や荊の地の木材を輸送させたが、それらは皆到着した。

 関中の宮殿は300にのぼり、関外では400余りに達した。かくして、石を東海の朐界(くかい:江蘇省朐県)に建てて秦の東門とした。そして、役夫の労を思い、3万戸を麗邑に、5万戸を雲陽(陝西省涇陽の北方)に移住させて、皆の租税を免除し、徭役(無償の強制労働)に使わないこと10年に及んだ。
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2009年08月24日

漢詩(25)-頼山陽(2)-蒙古來

 

 The samurai Suenaga facing Mongol arrows and bombs by Wikipedia.

 (旧暦  7月5日)

 蒙古來  頼山陽

 筑海颶氣連天黑       筑海(玄界灘)の颶氣(ぐき;暴風)  天に連なりて黑し
 蔽海而來者何賊       海を蔽ひて來る者は 何(いか)なる賊ぞ
 蒙古來 來自北        蒙古來る  北自り來たる
 東西次第期呑食       東西次第に  呑食を期す
 嚇得趙家老寡婦       嚇(おど)し得たり趙家(南宋の朝廷)の  老寡婦を
 持此來擬男兒國       此れを持して來り擬(ぎ)す  男兒の國
 相模太郞膽如甕       相模太郞(八代執権北条時宗)  膽(たん;肝) 甕(かめ)の如し
 防海將士人各力       防海の將士  人 各ゝ(おのおの)力(つと)む
 蒙古來 吾不怖        蒙古來る  吾は怖れず
 吾怖關東令如山       吾は怖る  關東(鎌倉幕府の)の令 山の如きを
 直前斫賊不許顧       直(ただち)に 前(すす)みて 賊を斫(き)り  顧るを許さず
 倒吾檣 登虜艦        吾が檣(ほばしら)を倒して  虜艦に登り
 擒虜將 吾軍喊        虜將を擒(とら)へて  吾が軍 喊(さけ)ぶ
 可恨東風一驅附大濤    恨む可し  東風 一驅して大濤に附し
 不使羶血盡膏日本刀    羶血(せんけつ;生臭い血)をして  盡く日本刀に膏(ちぬら)せしめざるを

 江戸後期の文人で陽明学者でもあった山陽頼襄(らいのぼる、1780~1832)は、49歳の文政11年(1828)12月、20日あまりの日数をもって国史に題材をとった樂府体(漢詩の一形式で、古体詩の一種)の詩66曲を作り、『日本樂府』と名付けました。

 この「蒙古來」は、その第35曲に載せられていますが、最初に製作したのは18、9歳の江戸遊学中の時でした。
 「肥に椿寿あり、筑に南冥あり」と呼ばれ、肥後の村井琴山(1733~1815)と並び称された筑前博多の徂徠学派の重鎮亀井南冥(1743~1814)は、豪傑で人を許さない人でありましたが、この詩にはいたく敬服し、塾の壁に掲げて塾生と供に日夜愛誦したと伝えられています。

 またこの詩は、南宋末期の忠臣、丞相信國公文天祥(1236~1282)の「正氣の歌」や江戸末期の水戸藩の藤田東湖(1806~1855)の「正氣の歌」とともに、幕末の志士に愛誦されています。

 明の崇禎11年(1638)、中国江蘇省蘇州にある承天寺の古井戸を浚(さら)ったときに、寺の僧がひとつの鐵函(てつばこ)を発見しました。
 その鐵函には錫匣(すずばこ)がはいっており、まわりに石灰が詰められ、さらに錫匣のなかには漆が塗られていました。

 内緘(内側の封印)には、

  大宋弧臣鄭思肖百拝封

とあり、外緘(外側の封印)には、

  大宋世界無窮無極
  大宋鉄函経
  徳祐九年佛生日封


とありました。

 「徳祐(とくゆう)」は南宋恭宗(きょうそう)の元号で、実際は南宋が滅亡したため2年で終わり、徳祐が九年になるのは1283年のことで、元の至元20年にあたります。

 この日付が本物ならば、鐵函は355年間も井戸の中に隠されていたことになります。
 錫匣(すずばこ)の中味は、「心史」という激烈な反モンゴル文書でした。
 蒙古支配下にあっては口にできないことを文章にして井戸に沈め、後世の人に語り伝えようとしたものでした。

 この「心史」については、昔から、本物説と贋作説があり、清代の文学者袁枚(えんばい)(随園先生1716〜1797)は贋作説を、日本の京都帝国大学東洋史学の桑原隲蔵(じつぞう)博士(1870〜1931)は本物説を唱えました。

 「心史」を著し封印した鄭思肖(ていししょう)(1239〜1316)は、福州連江(福建省)の人、始め南宋に仕えましたが元軍の南下で辞し、南宋滅亡後は改名して宋の遺臣を以って任じました。

 宋の皇室の姓「趙」から「走」を抜いて「肖」だけ残していますが、「趙氏の宋朝を思う」という意図が込められていました。  続きを読む

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2009年02月16日

漢詩(24)-蘇軾(2)-前赤壁賦(2)

 

 Battle of Red Cliffs, and Cao Cao's retreat. Note that the battlefield location is marked at the site near Chibi City by Wikipedia.
 赤壁の戦い要図
 
 (旧暦  1月22日)

 西行忌  平安末期から鎌倉初期の僧、歌人西行の文治6年2月16日(ユリウス暦1190年3月23日)の忌日。藤原北家の祖、房前の五男魚名の流れと伝わる俵藤太秀郷九代の嫡流にして、紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉、検非違使を勤めた佐藤一族の出。兵法に通じ、射術に練達し、鳥羽上皇の北面の武士として仕え、左衛門尉に任じられたが、23歳の時、突然出家遁世した。俗名は佐藤義清(のりきよ)、法名は円位。

 勅撰集は詞花集に初出、千載集に十八首、新古今集に九十五首の最多入集の歌人で、二十一代集に計二百六十七首が選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』、西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』、『西行物語』などがある。
 文治6年(1190)2月16日、河内国弘川寺 (ぐせんじ)にて73歳の生涯を遂げる。

 「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」
 『西行上人談抄』


 こずゑうつ雨にしをれてちる花の    惜しき心を何にたとへむ 
 まどひきてさとりうべくもなかりつる   心を知るは心なりけり
 心からこころに物をおもはせて     身をくるしむる我が身なりけり
 あくがるる心はさても山櫻        ちりなむ後や身にかへるべき
 花も散り涙ももろき春なれや      又やはとおもふ夕暮の空
 春風の花をちらすと見る夢は      覺めても胸のさわぐなりけり



 漢詩(23)-蘇軾(1)-前赤壁賦(1)のつづき
 
 漢詩選11蘇軾の巻末付録には、

 本全集は漢詩の選集であり賦は詩ではないから、規定のページ数内に一首でも多く詩を納めるべく、「赤壁賦」がいかに名作とはいえ、初版以来、あえて収めなかったところ、読者諸賢の声が集英社に届き、いま第十二刷に到って増ページして附録されることとなった。
 
 とあります。

 賦は、戦国時代の末に楚(? ~ B.C.223、河北、湖南省あたりを領土とした国)の詩人屈原(B.C.343~B.C.278)が残した韻文である楚辞の流れを汲んで、漢代の文学に中心的な地位を占めるまでに完成した、一つの文学形式です。
 賦とは、誦(しょう)、つまり朗誦する文学のことですが、賦は、いろいろの事物を並べたて、さまざまな角度からそれを描きあげていきます。

 蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、
   何為其然也。
客曰、
 月明星稀、烏鵲南飛、此非曹孟德之詩乎。西望夏口、東望武昌、山川相繆、鬱乎蒼蒼、此非孟德之困於周郎者乎。方其破荊州、下江陵、順流而東也、舳艫千里、旌旗蔽空。釃酒臨江、橫槊賦詩。固一世之雄也。而今安在哉。況吾與子、漁樵於江渚之上、侶魚蝦而友糜鹿。駕一葉之扁舟、舉匏樽以相屬、寄蜉蝣於天地。渺滄海之一粟。哀吾生之須臾、羨長江之無窮。挾飛仙以遨遊、抱明月而長終、知不可乎驟得、託遺響於悲風。

 
 蘇子愀然(せうぜん)として襟を正し、危坐して客に問ふて曰く、
 何為(なんす)れぞ其れ然る也と。
客曰く、
 月明らかに星稀に、烏鵲(うじやく)南に飛ぶとは、此れ曹孟徳の詩に非ず乎。西のかた夏口を望み、東のかたに武昌を望めば、山川相繆(まと)ひて、欝乎(うつこ)として蒼蒼たり。此れ孟徳の周郎に困(くる)しめられし者(ところ)に非ず乎。其の荊州を破り、江陵を下し、流に順ひて東するに方(あた)りて也、軸艫千里、旌旗(せいき)空を蔽(おほ)ふ。 酒を釃(した)みて江に臨み、槊(ほこ)を横たへて詩を賦す。固(まこと)に一世の雄也。而るに今安(いづ)くに在り哉。況や吾と子とは、江渚の上(ほとり)に漁樵して、魚蝦(ぎよか)を侶(とも)とし、麋鹿(びろく)を友とする。一葉の扁舟に駕(が)し、匏樽(はうそん)を挙げて以て相蜀す。蜉蝣(ふいう)を天地に寄す。渺(べう)たる滄海の一粟。吾が生の須臾なるを哀しみ、長江の窮(きはま)り無きを羨(うらや)む。飛仙を挟(さしはさ)んで以て遨遊(がういう)し、明月を抱きて長(とこしへ)に終へんこと、驟(には)かに得可かざるを知り、遺響を悲風に託すと。
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2009年01月30日

漢詩(23)-蘇軾(1)-前赤壁賦(1)

 
 
 Engravings on a cliff-side mark one widely-accepted site of Chìbì, near modern Chibi City, Hubei by Wikipedia. The engravings are at least a thousand years old. 
 
 壁面の彫字が現在の湖北省赤壁市近郊、赤壁(Chibi)の地と広く受け入れられている地を示す。彫字は少なくとも千年を経ている。

 (旧暦  1月 5日)

 中国人のジョン・ウー(呉宇森)が監督を務め、三国志を映画化したアクション映画『レッド・クリフ』が話題をさらっていますが、呉の孫権、蜀の劉備連合軍と魏の曹操軍が長江の赤壁(湖北省赤壁市西北)で衝突した赤壁の戦いは、後漢末期の建安13年(208)のできごとでした。

 時代は下り、北宋の元豊2年(1079)8月18日、新法党の御使の讒言を受けて、湖州(浙江省呉興県)知事を解任され御史台の獄に下った蘇軾(1036~1101)は、拘禁100日におよび死に処せられんとせるも第6代皇帝神宗(在位1067~1085)の憐れみにより、12月29日、検校尚書水部員外郎を授けられ、黃州団練副使に充てられて黃州(湖北省武昌東南60Kmの長江左岸)に左遷されます。名目だけの地方官職を与えて、新法党の刃から逃したとされています。

 元豊5年(1082)秋7月、黃州に在った蘇軾は客と舟を三国志の古戦場、長江の赤壁に浮かべます。

 壬戌之秋、七月既望、蘇子與客泛舟、遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒蜀客、誦明月之詩、歌窈窕之章。少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。白露横江、水光接天。縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。浩浩乎如馮虚御風、而不知其所止、飄飄乎如遺世独立、羽化而登仙。

 壬戌(じんじゆつ)の秋、七月既望(きぼう)蘇子客と舟を泛(うか)べて赤壁の下(もと)に遊ぶ。
 清風徐(おもむろ)に來(きた)つて、水波(すゐは)興(おこ)らず。酒を舉(あ)げて客に屬(しよく)し、明月の詩を誦(しよう)し、窈窕(えうてう)の章を歌ふ。
 少焉(しばらく)にして、月 東山の上に出(い)で、斗牛の閒(かん)に徘徊す。白露江に橫たはり、水光天に接す。一葦(いちゐ)の如(ゆ)く所を縱(ほしいまま)にして、萬頃の茫然たるを淩(しの)ぐ。
 浩浩乎(かうかうこ)として虛に馮(よ)り風に御して、其の止まる所を知らざるが如く、飄飄乎(へうへうこ)として世を遺(わす)れて獨立し、羽化(うくわ)して登仙するが如し。


 神宗(中国北宋の第6代皇帝、在位1067~1085)の元豊五年(1082)秋七月十六日、私(蘇軾)は客と共に舟を出して赤壁(湖北省黄岡県)のあたりに出かけた。
 爽やかな風はしずかに吹きわたり川面には波もおこらない。酒を汲んで客にすすめ、明月の詩を吟じ、詩経の国風、周南篇関雎(かんしよ)の窈窕(えうてう)の章を歌った。


 明月の詩

 『詩經』 國風 齊篇 東方之日
 東方の日よ 彼の姝(しゆ)たる者は子
 我が室に在り 我が室に在り 
 履(つ)いで我即(ゆ)かん

 東方の月よ 彼の姝(しゆ)たる者は子
 我が闥(たつ)に在り 我が闥(たつ)に在り
 履(つ)いで我發(た)たん


 東方に昇る太陽よ。
 その太陽のようなあなたと見まがうばかりのあの美しい若者が
 私の部屋にいるよ。 私の部屋にいるよ。
 私はあとについて行きます。

 東方に昇る月よ。
 その月のようなあなたと見まがうばかりのあの美しい若者が
 私の門の内にいるよ。 私の門の内にいるよ。
 私はあとについて出立します。
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2008年10月10日

漢詩(22)-毛澤東(1)-沁園春 雪



 Overview map of the route of the Long March by Wikipedia.
 Red-hatched areas show Communist enclaves. Areas marked by a blue "X" were overrun by Kuomintang forces during the Fourth Encirclement Campaign, forcing the Fourth Red Army (north) and the Second Red Army (south) to retreat to more western enclaves (open dotted lines). The solid dotted line is the route of the First Red Army from Jiangxi. The withdrawal of all three Red Armies ends in the northwest enclave of Shanxxi.

 (旧暦  9月12日)

 素逝忌  落葉を詠んだ句が多かったので、「落葉リリシズム」ともいわれた俳人、長谷川素逝の昭和21年(1946)の忌日。京大三高俳句会で、田中王城、鈴鹿野風呂に師事して『京鹿子』の同人となり、後に『ホトトギス』に拠る。昭和12年(1937)、支那事変に砲兵少尉として出征するも病を得て内地送還。その間の句を収録した句集『砲車』が評価されたが、結核により戦後、39歳の若さでこの世を去った。

 遠花火 海の彼方にふと消えぬ
 鴛鴦(おしどり)ねむる 氷の上の日向かな
 みいくさは 酷寒の野をおほひ征(ゆ)く


 沁園春 雪           毛澤東

 北國風光            北國の 風光は
 千里冰封            千里 冰(こおり) 封じ
 萬里雪飄            萬里 雪 飄(ひょう)たり
 望長城内外           望む 長城の内外
 惟餘莽莽            惟だ餘(あま)すは 莽莽(ほんぽん:広大なさま)たるのみ
 大河上下            大河(黄河)の 上下
 頓失滔滔            頓(とみ)に 滔滔たるを 失ふ
 山舞銀蛇            山は 銀蛇を舞はし
 原馳蠟象            原は蠟象(白い象)を馳し
 原指高原即           原は高原を指す、即ち
 秦晉高原            秦晉(陝西と山西)高原なり
 欲與天公試比高         天公(空)と試みに 高きを比べんと欲す
 須晴日             晴たる日を 須(ま)ち
 看紅裝素裹           看よ 紅裝(紅い太陽)と素裹(雪で覆われた原)
 分外妖嬈            分外(格別)に 妖嬈(あでやか)ならんを
 
 江山如此多嬌          江山(祖国の山河)は此くの如く 多(いと)嬌(あでやか)なれば
 引無數英雄競折腰        無數の英雄を引きいて 競ひて腰を折らしむ(祖国のために尽くす)
 惜秦皇漢武           惜むらくは 秦皇(始皇帝嬴政:えいせい) 漢武(武帝劉徹)は
 略輸文采            略(ほ)ぼ 文采(文才)で 輸(おと)り
 唐宗宋祖            唐宗(太宗李世民) 宋祖(太祖趙匡胤)は
 稍遜風騒            稍(や)や 風騒(風流韻事)で 遜(ゆず)る
 一代天驕成吉思汗        一代(一時代中の最も有名な人物)の 天驕(匈奴の首長)  成吉思汗は
 只識彎弓射大雕         只だ 弓を彎(ひ)きて 大雕(オオワシ)を射るを識るの
 倶往矣             倶(み)な 往(す)ぎに 矣(けり)
 數風流人物           風流 人物を 數へんには
 還看今朝            還(な)ほ 今朝を看よ
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:29Comments(0)漢詩

2008年01月29日

漢詩(21)-文天祥(6)-正氣の歌(6)

  

 「元大都平面布局」 維基百科、自由的百科全書

 (旧暦 12月22日)

 草城忌 モダニズム俳句の嚆矢(こうし、かぶら矢の意で転じて、物事の始まり)とされ、新興俳句の一翼をになった昭和期の俳人日野草城の昭和31年(1956)の忌日
 春暁や ひとこそ知らね木々の雨
 松風に 誘はれて鳴く蟬一つ
 秋の道 日かげに入りて日に出でて


 漢詩(20)-文天祥(5)-正氣の歌(5)のつづき

 悠悠我心悲  悠悠として 我が心は悲(いた)み
 蒼天曷有極  蒼天 曷(なん)ぞ極み有らんや
 哲人日已遠  哲人は 日に已(すで)に遠きも
 典型在夙昔  典型は 夙昔(しゅくせき)に在り
 風檐展書讀  風檐(ふうえん、風の吹き通う軒端)に 書を展(ひら)きて讀めば
 古道照顏色  古道 顏色を照らす


 悠々として、わたしの心は悲(いた)み
 青い空は、極まるところがあろうか
 殷の宰相彭咸(ほうかん)や殷末期の伯夷(はくい)、戦国時代の楚の屈原といった聖哲の日々は、すでに遠くなったが
 人の模範は昔にある
 風の吹き通う軒端で、聖賢の書をひろげて読めば
 昔の聖賢のおしえが、私の顔を照らしてくれる


 兵馬司の不潔な地下土牢のなかで、生来病弱であった文天祥は二年も気迫でがんばり続けました。
 モンゴル帝国の第5代大ハーンであった世祖クビライ(1215~1294、在位1260~1294)は、文天祥が帰順するのを諦めませんでした。
 そして多くの人たちが、文天祥に帰順を勧めました。

 南宋末期の兵部尚書(国防大臣)として福建に戦い、元に投降して福建招撫使、さらには刑部尚書(法務大臣)などを歴任した王績翁は、かつては宋に使えて元に帰順した謝昌元や留夢炎たち進士10人に、文天祥が道士となって世を捨てることを条件に釈放されるように働きかける運動を呼びかけました。
 
 しかし、かつて宋の科挙の試験に状元(首席)で合格した留夢炎が、これに強く反対しました。
  「文天祥が赦されて故郷の江南(長江下流の南岸地域)に帰り、兵を集めたりすれば、吾ら10人の立場がなくなる」というのがその理由でした。
 留夢炎は、淳祐四年(1244)の状元で、南宋の咸淳年間(1265~1274)に潭州(湖南省長沙)の知事となり、湖南安撫使を兼ねています。
 徳祐元年(1275)には右丞相となって枢密使を兼ね、また江東西湖南北宣撫大使となりましたが、祥興2年(元の至元16年、1279)、南宋が滅びると元に降り、翰林学士承旨となっています。

 同じ状元でも、『正気』の有る無しによって、これだけの大きな差が生じます。
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2007年12月10日

漢詩(20)-文天祥(5)-正氣の歌(5)

 

 文天祥の才能を高く評価し、粘り強く帰順をすすめた
 第5代世祖 フビライ・ハーン

 (旧暦 11月 1日)

 漢詩(19)-文天祥(4)-正氣の歌(4)のつづき

 是氣所磅礴  是れ氣の 磅礴(ぼうはく:満ちふさがる)たる所
 凜烈萬古存  凜烈として 萬古に存す
 當其貫日月  其の日月を 貫くに當りては
 生死安足論  生死も安(いずく)んぞ 論ずるに足らん
 地維賴以立  地維(ちい:世界の四隅を繋ぐ大綱、秩序) 賴りて 以て立ち
 天柱賴以尊  天柱(天を支える柱) 賴りて 以て尊ぶ
 三綱實繋命  三綱(君臣、父子、夫婦の三つの道) 實(まこと)に 命を繋ぎ
 道義爲之根  道義 之(こ)の 根と爲る


 これら歴史上の事例のことは正氣の噴出するところの為せるわざでした。
 これらは厳然として太古から存在し、永遠に語り伝えられて歴史に残ります。
 正氣は日月さえ貫き、生死も論ずるには足りません。
 天地は正氣によって維持され、君臣、父子、夫婦という人倫もこの正気に因って命脈を保ち、道義はこの正氣もって根本としています。

 嗟予遘陽九  嗟(ああ) 予(われ) 陽九(亡国の災禍)に遘(あ)ひ
 隸也實不力  隸(れい:わたくしめ)なる也(や) 實(まこと)に力(つと)めず
 楚囚纓其冠  楚囚(捕らえられて他国にいる者) 其の冠を纓(むす)び
 傳車送窮北  傳車にて 窮北に送らる
 鼎鑊甘如飴  鼎鑊(ていかく:釜茹での刑) 甘きこと飴の如く
 求之不可得  之を求むれど 得(う)可からず


 春秋時代(770BC~403BC)、楚の鍾儀は晉に捕らえられてもなおも祖国楚の冠をかぶって、祖国を忘れないようにしていました。それ以来、異境に捕らわれた捕虜のことを楚囚と呼ぶようになりました。
 南宋の亡国に遭いながら力及ばず、捕虜となって北の最果て(現在の北京あたり)に送られた文天祥にとって、釜茹での刑さえ甘んじて受けることができず、忸怩たる想いに駆られていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:09Comments(0)漢詩

2007年08月17日

漢詩(19)-文天祥(4)-正氣の歌(4)

 

 諸葛亮孔明(181〜234)

 (旧暦  7月5日)

 荒磯忌(ありそき) 福井県坂井市三国町生まれの作家高見順の昭和40年(1965)の忌日。左翼くずれのインテリの苦悩を描いた『故旧忘れ得べき』(1936)や浅草を舞台に庶民の哀歓を描写した『如何なる星の下に』(1940)などの小説、昭和16年から書かれた『高見順日記』などで知られている。

 蕃山忌  近江聖人と称された中江藤樹に学んだ陽明学者熊澤蕃山の元禄4年(1691)の忌日。 幕府が官学とした朱子学と対立する陽明学者として幕府の弾圧を受けながらも、幕府の政策、特に「参勤交代」や「兵農分離」を批判し、晩年は下総国古河藩に蟄居謹慎させられた反骨の儒者。

 漢詩(18)-文天祥(3)-正氣の歌(3)のつづき

 或爲遼東帽 或ひは遼東の帽と爲り
 淸操厲冰雪 淸操は冰雪よりも厲(はげ)し 

 或爲出師表 或ひは出師の表と爲り
 鬼神泣壯烈 鬼神も壯烈に泣く

 或爲渡江楫 或ひは渡江の楫(かい)と爲り
 慷慨呑胡羯 慷慨 胡羯(こけつ)を呑む

 或爲撃賊笏 或ひは賊を撃つ笏(こつ)と爲り
 逆豎頭破裂 逆豎(ぎゃくじゅ)の頭(こうべ)は破れ裂く


 後漢が滅亡して西晋が中国を再統一するまでの三国時代(220~280)、魏の学者管寧(162~245)は黄巾の乱(184~)を逃れて遼東郡に避難しましたが、魏の曹操(155~220)に召されても仕えようとしませんでした。84歳まで長生きをしましたが、生涯仕官せず、清貧に甘んじました。

 魏の3代明帝(在位226~239)のときにも、その徳と学識によって光禄勲(九卿の一員で、宮殿の門を司り、殿中侍衛の軍人たちを仕切る中央官)に推挙されましたが、やはり固辞しました。魏に滅ぼされた後漢の遺民として、節を曲げることを潔しとしなかったのでしょう。
 年中身分の低い者がかぶる黒い粗末な帽子(皁帽;そうぼう)をかぶっていましたが、その清い操(みさお)は遼東の冰雪よりも厳しく、これも正気の表れです。

 またこの正気は、三国時代の蜀漢の軍師諸葛孔明(181~234)の「出師の表」という文章となって現れ、その壮烈さに鬼神(天地の神霊)をも泣かせるのです。

 東晋(317~420)の将軍祖逖(266~321)は、後趙(319~351)に奪われたかつての西晋(265~316)の失地を回復するため北伐に向かいますが、長江を渡るとき流れの中で楫(かい)で水を撃って次のように誓いました。

 中流にて楫を擊ち而して誓ひて曰く、「祖逖にして中原を清める能はずして而して復た濟(わた)らば、大江の如く有らん」 辭色壯烈、衆皆な慨歎す。
 『晉書 卷六十二 列傳 第三十二 祖逖』


 胡羯(異民族、後趙の創建者石勒は羯族の出身)を呑むほどの気概がその楫(かい)に表されていました。  続きを読む

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2007年08月04日

漢詩(18)-文天祥(3)-正氣の歌(3)

 

 安禄山(705〜757)

 (旧暦  6月22日)
 
 夕爾忌 広島県福山市が生んだ詩人、俳人木下夕爾の昭和40年(1965)の忌日。
 名古屋薬学専門学校を卒業と同時に帰郷し、薬局を営むかたわら文学活動を続けた。その第一詩集『田舎の食卓』で文芸汎論詩集賞を受賞している。
 君の瞳に みづうみみゆる五月かな
 枯野ゆく わがこころには蒼き沼

 漢詩(17)-文天祥(2)-正氣の歌(2)のつづき

 嵆侍中(けいじちゅう)の血と爲る

 嵆侍中(けいじちゅう)とは、中国西晋(265~316)時代の政治家嵆紹(けいしょう:253~304)のことです。皇帝の側近として皇帝の質問に備え落度を補う侍中(じちゅう)という官職に就いていました。
 建武元年(304)7月、成都王司馬穎の乱の時、恵帝をかばって雨のような矢を浴びて死んだ人物ですが、彼の血が恵帝の御衣にかかり、乱平定後、臣下が衣の血を洗うことを請いましたが、恵帝は、「此れ嵆侍中の血なり、去る勿れ」と止めた故事が、『晉書 卷八十九 列傳第五十九 忠義 嵆紹』にしるされています。

 張睢陽(ちょうすいよう)の齒と爲り

 張睢陽(ちょうすいよう)とは、唐の安史の乱(756~763)に際し、睢陽城(河南省商丘県)を守った張巡(709~757)のことで、籠城6ヶ月に至り遂に食尽き、落城して囚われの身となります。
 部下を督戦(叱咤激励して戦わせる)するときに、激しく歯がみして、歯が皆砕けたといわれていましたが、賊将の伊子琦(いんしき)が怒って刀で口をこじあけると、残っている歯は三、四本に過ぎませんでした。
 伊子琦(いんしき)はその節義に感じて張巡を釋(ゆる)そうとしますが、彼を生かしておくのは危険であると進言するものがあり、結局、張巡は殺されてしまいます。

 子琦、巡に謂ひて曰く、「聞く、公は督戰して大ひに呼びて輒(すなはち)眥(まなじり)裂け血面し、嚼齒(しゃくし)して皆な碎(くだ)く、何ぞ是れに至るや」
 答へて曰く、「吾逆賊を呑む氣を欲す、顧(かへり)みて力を屈(つく)す耳(のみ)」
 子琦怒りて、刀を以て其の口を抉(えぐ)る、齒の存する者は三四たり。
 
 『新唐書 卷一百九十二 列傳第一百一十七 忠義 中 張巡』
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2007年07月09日

漢詩(17)-文天祥(2)-正氣の歌(2)

 

 円山應擧筆 『張子房圖』 by Wikipedia
 張良、字は子房。漢の高祖劉邦に仕えて軍師として活躍し、漢の創業を助けた。蕭何、韓信と共に劉邦配下の三傑とされ、高祖劉邦より留(江蘇省徐州市沛県の東南)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。
 謀(はかりごと)を帷帳の中に回らし、勝つことを千里の外に決せし者なり

 (旧暦  5月26日)

 鷗外忌 石見人森林太郎の大正11年(1922)の忌日。  

 漢詩(16)-文天祥(1)-正氣の歌(1)のつづき

 天地有正氣  天地に正氣あり
 雜然賦流形  雜然として流形を賦す
 下則爲河嶽  下れば則ち河嶽と爲り
 上則爲日星  上れば則ち日星と爲る
 於人曰浩然  人に於いては浩然と曰ひ
 沛乎塞蒼冥  沛乎として蒼冥に塞(み)つ
 皇路當淸夷  皇路淸夷に當れば
 含和吐明庭  和を含み明庭に吐く
 時窮節乃見  時窮(きはま)らば節乃ち見(あらは)れ
 一一垂丹靑  一一丹靑に垂る


 天地には正気(せいき)があり
 混然として形を持たずこの世界にある
 下に行けば河や山岳と為り
 上に行けば日星と為る
 人に於いて浩然の気と言い
 大いに天地に満ちている
 政治の大道が清く治まっておれば
 その結果が朝廷のまつりごとにも出てくる
 動乱の時代になれば、正気を元とした節義が顕れ
 一つ一つ史書に残る

 在齊太史簡 齊に在りては太史の簡
 在晉董狐筆 晉に在りては董狐の筆
 在秦張良椎 秦に在りては張良の椎(つい)
 在漢蘇武節 漢に在りては蘇武の節
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:27Comments(0)漢詩

2007年05月04日

漢詩(16)-文天祥(1)-正氣の歌(1)

 

 文天祥(1236〜1283)

 (旧暦  3月18日)

 南宋(1127~1279)末期の右丞相兼枢密使、文天祥(1236~1282)は、かつての日本では忠臣義士の鑑とされており、江戸前期の朱子学者浅見絅斎(1652~1712)が著した『靖献遺言』にも評伝が載せられ、幕末の尊皇思想の啓蒙に大きな役割を演じたとされています。また戦前には国語の教科書にも載せられていました。

 南宋の第5代皇帝理宗(在位:1224~1264)の宝祐4年(1256)、21歳で状元(科挙の主席)に合格した文天祥は、時の宰相賈似道(かじどう、1213~1275)に迎合するのを潔しとせず不遇をかこちますが、南宋が亡国の危機に瀕した第7代皇帝恭帝(在位:1274~1276)の徳祐元年(1275)、勅を奉じて蹶起し、招かれて右丞相兼枢密使に任じられます。

 そして命を奉じて元軍に使者として赴きますが、談判決裂してその将(南宋討伐軍の総司令官)伯顔(バヤン;1236~1294)に捕らえられます。
 しかし、隙を見て脱出し、真州(江蘇省儀徴県)に入り、福建の温州に至り、ついで兵を江西に出しましたが、南宋の最後の第9代皇帝衛王(在位;1278~1279)の祥興元年(1278)10月26日、五坡嶺(広東省海豊県北方)で元の将軍張弘範(1238~1280)に捕らえられ、元の首都大都(北京)へ護送され、翌年の10月1日に到着しています。

 モンゴル帝国の第5代大ハーンであったフビライ(1215~1294、在位1260~1294)の意をうけた元の将軍張弘範の再三の降伏勧告にも従わなかった文天祥は、兵馬司の地下牢に移されて監禁されます。
 兵馬司の不潔な地下牢の中でも、文天祥は不屈の意志を貫き通しました。そして元の至元19年(1282)、ついに大都の柴市に引き出されて死刑に処せられました。

 私「嘉穂のフーケモン」などは、さぞかし閉所恐怖症で発狂してしまうでしょう。
 その土牢の中で作ったのが有名な『正氣の歌』です。この詩は、幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫などがそれぞれ自作の『正気の歌』を作っています。
 
 さてこの『正氣の歌』には、長い序文があります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:02Comments(0)漢詩

2006年10月13日

漢詩(15)-章炳麟(1)-獄中、鄒に贈る

  
 
 鄒容(1885~1905) from Wikipedia

 (旧暦  8月22日)

 嵐雪忌 芭蕉の高弟にして、芭蕉没後、宝井其角と江戸俳壇を二分した俳人服部嵐雪の宝永4年(1707)の忌日。

 名月や 煙はひ行く水の上

 獄中 鄒に贈る

 鄒容は  吾が小弟
 被髮(髪を振り乱す)して  瀛洲(えいしう、日本)に下る
 快(するど)き剪刀(せんたう、はさみ)もて  辮(べん、辮髪)を除き
 牛肉を乾して  餱(こう、乾肉)と作す
 英雄  一たび獄に入るや
 天地  亦た悲秋
 命に臨みて  摻手(さんしゅ、手を握る)を須(もと)む
 乾坤  只だ兩頭あるのみ


 清朝末期、浙江省余杭県の地主の家の四男坊として生まれた章炳麟(1869~1936)は、中日甲午戦争(日清戦争)の敗北による下関条約(日清講和条約)締結に反対する人々が中心となって清朝の富国強兵を研究・推進することを目的として設立された団体である強學会に入会し活動しますが、光緒24年(1898、戊戌の年)に起きた戊戌の政変により西太后(1835~1908)ら反変法派(保守派)から厳しく追及されて日本へ亡命します。

 その後上海に戻った章炳麟は、元清朝の役人で日清戦争における敗北や戊戌変法の失敗をきっかけに官職を捨てて革命家へと転向した蔡元培(1868~1940)が創設した愛國學社に加盟し、教師となりました。

 ここで彼は、激烈な「排満復仇」を強く表明したセンセーショナルな書『革命軍』を著した鄒容(すうよう、1885~1905)と出会います。この時鄒容は19歳であり、すぐさま章炳麟と意気投合し、やがて義兄弟の契りを結びました。

 光緒29年(1903)6月、章炳麟は『康有為を駁して革命を論ずる書』を雑誌『蘇報』に連載します。
 これは、清朝の変法派(改革派)である康有為(1858~1927)が、保皇会を立ち上げて中国に立憲君主制を樹立すべく活動を行っていることへの反駁の書です。

 上記の二著書は公然と清朝打倒を叫び、清朝の支配を脅かす強烈なインパクトを与えたため、捕縛されて下獄し、監禁されます。これが『蘇報』事件と呼ばれているものです。そしてこの時、章炳麟が詠んだ詩が、上記の「獄中 鄒に贈る」です。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:38Comments(0)漢詩

2006年04月23日

漢詩(14)−白居易(3)−琵琶行(3)

 

 九江烟水亭

 (旧暦  3月26日)

 漢詩(13)−白居易(2)−琵琶行(2)のつづき


 序文で九江郡という秦代(B.C.221〜B.C.206)に設置された古称で呼ばれている江州は、現在では長江中流域の江西省九江市という人口450万人を擁する重要港湾都市になっていますが、白居易が左遷された中唐の頃は、蘆や荻(おぎ)が一面に茫々と生い茂った低湿地に位置する寒村でした。

 白居易があてがわれた司馬という官職は州の長官である州刺史の補佐役でしたが、この当時の州刺史の権限は節度使と呼ばれた軍政権と民政権を併せ持った藩鎮の有力者に握られており、その補佐役たる司馬は名目だけの役職で、左遷された者にあてがう名ばかりの閑職だったようです。

 最後の句で白居易は、自分のことを江州司馬と称していますが、司馬の位(従五品下)に許された緋色の衣ではなく、最下位の官職(従九品下)の身分の者が着る青衫(せいさん:青いひとえの短い衣)と自嘲的に表現しているところに白居易の鬱屈した心情が吐露されており、「同じく是れ天涯 淪落(落ちぶれる)の人」と云うのが、この詩全編を貫く主題となるようです。


 沈吟し 撥(ばち)を放ちて  絃中に插(さしはさ)み
 衣裳を整頓して  起ちて容(かたち)を斂(をさ)む
 自ら言ふ  本(もと)是れ京城(帝都長安)の女(むすめ)
 家は蝦蟆陵(がまりょう:長安の東南郊外)下に在りて住めり
 十三に 琵琶を學び得て 成り
 名は 教坊(歌舞を教えるところ)の  第一部に屬す
 曲 罷(をは)りては 曾(かつ)て善才(琵琶の名人)をして 伏さしめ
 妝(よそほ)ひ成りては(美しく装う)  毎(つね)に秋娘(名妓の杜秋娘)に妬(ねた)まる
 五陵の年少(長安郊外の豊かな地域に住む貴公子)  爭ひて 纏頭(てんとう:心付け)し
 一曲に 紅綃(紅い薄絹の心付け)は  數 知れず
 鈿頭(でんとう)の雲篦(うんぺい)(螺鈿の飾りのこうがい)は  節を撃ちて碎け
 血色の羅裙(らくん:薄絹のスカート)は  酒を翻(ひるがへ)して 汚(けが)る
 今年の 歡笑  復た 明年
 秋月 春風  等?(とうかん:なおざり)に 度(す)ぐ
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:32Comments(0)漢詩