さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2009年02月16日

漢詩(24)-蘇軾(2)-前赤壁賦(2)

 漢詩(24)-蘇軾(2)-前赤壁賦(2)

 Battle of Red Cliffs, and Cao Cao's retreat. Note that the battlefield location is marked at the site near Chibi City by Wikipedia.
 赤壁の戦い要図
 
 (旧暦  1月22日)

 西行忌  平安末期から鎌倉初期の僧、歌人西行の文治6年2月16日(ユリウス暦1190年3月23日)の忌日。藤原北家の祖、房前の五男魚名の流れと伝わる俵藤太秀郷九代の嫡流にして、紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉、検非違使を勤めた佐藤一族の出。兵法に通じ、射術に練達し、鳥羽上皇の北面の武士として仕え、左衛門尉に任じられたが、23歳の時、突然出家遁世した。俗名は佐藤義清(のりきよ)、法名は円位。

 勅撰集は詞花集に初出、千載集に十八首、新古今集に九十五首の最多入集の歌人で、二十一代集に計二百六十七首が選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』、西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』、『西行物語』などがある。
 文治6年(1190)2月16日、河内国弘川寺 (ぐせんじ)にて73歳の生涯を遂げる。

 「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」
 『西行上人談抄』


 こずゑうつ雨にしをれてちる花の    惜しき心を何にたとへむ 
 まどひきてさとりうべくもなかりつる   心を知るは心なりけり
 心からこころに物をおもはせて     身をくるしむる我が身なりけり
 あくがるる心はさても山櫻        ちりなむ後や身にかへるべき
 花も散り涙ももろき春なれや      又やはとおもふ夕暮の空
 春風の花をちらすと見る夢は      覺めても胸のさわぐなりけり



 漢詩(23)-蘇軾(1)-前赤壁賦(1)のつづき
 
 漢詩選11蘇軾の巻末付録には、

 本全集は漢詩の選集であり賦は詩ではないから、規定のページ数内に一首でも多く詩を納めるべく、「赤壁賦」がいかに名作とはいえ、初版以来、あえて収めなかったところ、読者諸賢の声が集英社に届き、いま第十二刷に到って増ページして附録されることとなった。
 
 とあります。

 賦は、戦国時代の末に楚(? ~ B.C.223、河北、湖南省あたりを領土とした国)の詩人屈原(B.C.343~B.C.278)が残した韻文である楚辞の流れを汲んで、漢代の文学に中心的な地位を占めるまでに完成した、一つの文学形式です。
 賦とは、誦(しょう)、つまり朗誦する文学のことですが、賦は、いろいろの事物を並べたて、さまざまな角度からそれを描きあげていきます。

 蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、
   何為其然也。
客曰、
 月明星稀、烏鵲南飛、此非曹孟德之詩乎。西望夏口、東望武昌、山川相繆、鬱乎蒼蒼、此非孟德之困於周郎者乎。方其破荊州、下江陵、順流而東也、舳艫千里、旌旗蔽空。釃酒臨江、橫槊賦詩。固一世之雄也。而今安在哉。況吾與子、漁樵於江渚之上、侶魚蝦而友糜鹿。駕一葉之扁舟、舉匏樽以相屬、寄蜉蝣於天地。渺滄海之一粟。哀吾生之須臾、羨長江之無窮。挾飛仙以遨遊、抱明月而長終、知不可乎驟得、託遺響於悲風。

 
 蘇子愀然(せうぜん)として襟を正し、危坐して客に問ふて曰く、
 何為(なんす)れぞ其れ然る也と。
客曰く、
 月明らかに星稀に、烏鵲(うじやく)南に飛ぶとは、此れ曹孟徳の詩に非ず乎。西のかた夏口を望み、東のかたに武昌を望めば、山川相繆(まと)ひて、欝乎(うつこ)として蒼蒼たり。此れ孟徳の周郎に困(くる)しめられし者(ところ)に非ず乎。其の荊州を破り、江陵を下し、流に順ひて東するに方(あた)りて也、軸艫千里、旌旗(せいき)空を蔽(おほ)ふ。 酒を釃(した)みて江に臨み、槊(ほこ)を横たへて詩を賦す。固(まこと)に一世の雄也。而るに今安(いづ)くに在り哉。況や吾と子とは、江渚の上(ほとり)に漁樵して、魚蝦(ぎよか)を侶(とも)とし、麋鹿(びろく)を友とする。一葉の扁舟に駕(が)し、匏樽(はうそん)を挙げて以て相蜀す。蜉蝣(ふいう)を天地に寄す。渺(べう)たる滄海の一粟。吾が生の須臾なるを哀しみ、長江の窮(きはま)り無きを羨(うらや)む。飛仙を挟(さしはさ)んで以て遨遊(がういう)し、明月を抱きて長(とこしへ)に終へんこと、驟(には)かに得可かざるを知り、遺響を悲風に託すと。
 私(蘇軾)は悲しさに心うたれ、身を繕い座り直して客にたずねた。
  「どうしてこんなに悲しい音色がでるのでしょう」と。
客は云う、
   「月明らかに星稀に、烏鵲(うじやく)南に飛ぶ」とは、これは魏の武帝曹孟徳(曹操、155~220)の詩ではありませんでしたか。ここから西のかた夏口(xiàkŏu、湖北省武漢市)を望み、また東のかた武昌(wŭchāng、湖北省鄂州市)を望めば、山と川とが入り組んでおり、樹はこんもりと茂って青々としています。このあたりが、曹孟徳が呉の武将周郎(周瑜、175~210)に苦杯を嘗めさせられたところではないいでしょうか。


 ところで、蘇軾が客と舟を浮かべたこの「赤壁の賦」を詠んだ場所は、黃州の東北にあった赤鼻磯で、実際の古戦場ではなかったのですが、晩唐の詩人杜牧(803~853)が詩に詠んだことから赤壁の古戦場と見なされるようになり、蘇軾の「赤壁の賦」によって、実際の古戦場以上に有名になってしまったとのことです。
 そのためこの地は、「文赤壁」あるいは「東坡赤壁」と呼ばれるようになりましたが、残念ながら、東坡赤壁は長江の流れが変遷したために、現在は長江には面しておらず、赤鼻山と呼ばれているようです。

 赤壁 唐 杜牧

 折戟沈沙鐵未銷
 自將磨洗認前朝
 東風不與周郞便
 銅雀春深鎖二喬


 折れたる戟(ほこ)沙に沈まりて 鐵未だ銷(き)えず
 自ら將(も)ちて磨き洗ひて 前朝と認む
 東風 周郎に便を與へざれば
 銅雀(曹操の宮殿銅雀臺) 春深くして 二喬(橋公の二人の美しい娘の妹で、周郎の妻)を鎖(とざ)したらん


 建安13年(208)7月、曹孟徳が荊州襄陽城(湖北省襄樊市)に拠っていた劉表の子の劉琮を降し、江陵城(湖北省荊州市)を攻め落とし、長江の流れに従って東に向かった時には、船列は千里にも連なり、旗竿は空を覆いました。そして曹孟徳は酒を注いで山川の神々を祭り、長江の水ぎわに出て、槊(さく、長いほこ)を横ざまに抱えたまま詩を詠みました。まことに一代の英雄であります。しかるに今はどこにいるのでしょう。
 まして私とあなたとは川辺で魚を捕ったり薪を切ったり、魚やえびを仲間とし、鹿を友としているわけですが、それがいま一艘の小舟をこぎ出し、ひさごを片手に杯を酌み交わし、かげろうのようなはかない命を、この天地の間に宿しているのです。果てしなくひろがる大海に浮かんだ一粒の粟のような存在に過ぎないではありませんか。

 我らの人生が余りにもつかの間のものであることが悲しく、長江の流れの尽きることがないのが羨ましく思えます。空を飛翔する仙人と相携えて豪遊し、明月を抱いて天上で永久に生き長らえることも、たやすくできるはずはないことは分かっているので、この想いを込めた響をもの悲しい秋風に託したのです」と。

 明代に書かれた通俗歴史小説『三國演義』の第四十八回、 「長江に宴して曹操詩を賦す」には「赤壁の戦い」を目前にして、酒宴を催した曹操が酒に酔って詩情止み難く、即席の詩「短歌行」を詠む場面が描かれています。
 
 短歌行
 對酒當歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多
 慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 惟有杜康
 青青子衿 悠悠我心 但為君故 沉吟至今
 呦呦鹿鳴 食野之蘋 我有嘉賓 鼓瑟吹笙
 皎皎如月 何時可輟 憂從中來 不可斷絕
 越陌度阡 枉用相存 契闊談宴 心念舊恩
 月明星稀 烏鵲南飛 繞樹三匝 無枝可依
 山不厭高 水不厭深 周公吐哺 天下歸心


 短歌行
 酒に對しては當(まさ)に歌ふべし 人生幾何(いくばく)ぞ
 譬(たと)へば朝露の如く 去日(過ぎ去った日々)苦(はなは)だ多し
 慨(いきどおる)して當(まさ)に以つて慷(なげく)すべきも 憂思忘れ難し
 何を以つてか憂ひを解かん 唯だ杜康(杜氏が作った酒)の有るのみ
 青青たる子の衿 悠悠たる我が心
 但だ君が為め故 沈吟して今に至る
 呦呦として鹿鳴き 野の苹(よもぎ)を食ふ
 我に嘉賓(すばらしい賓客)有り 瑟を鼓し笙を吹く
 皎皎たること月の如きも 何(いつ)の時か輟(と)る可けんや
 憂ひは中從り來たり 斷絶す可からず
 陌(みち)を越え阡(みち)を度り 枉(ま)げて用つて相ひ存(と)はば
 契闊(けいくわつ、久闊を叙する)談讌(だんえん、語らい宴をする)して
 心に舊恩を念(おも)はん
 月明るく星稀(まれ)にして 烏鵲(うじやく、カササギ)南に飛ぶ
 樹を繞(めぐ)ること三匝(さふ、めぐる) 何(いづ)れの枝にか依(よ)る可き
 山高きを厭(いと)はず 水深きを厭はず
 周公(周公旦)哺を吐きて(口に含んでいる食物を吐き出して) 天下心を歸せり



 蘇子曰、
 客亦知夫水與月乎。逝者如斯、而未嘗往也。盈虚者如彼、而卒莫消長也。蓋將自其變者而觀之、則天地曾不能以一瞬、自其不変者而觀之、則物與我皆無盡也。而又何羨乎。且夫天地之閒、物各有主。苟非吾之所有、雖一毫而莫取。惟江上之清風與山閒之明月、耳得之而為声、目遇之而成色。取之無禁、用之不竭。是造物者之無盡藏也。而吾與子之所共適。客喜而笑、洗盞更酌。肴核既盡、杯盤狼藉。相與枕藉乎舟中、不知東方之既白。

 蘇子曰く、
 客も亦夫(か)の水と月とを知れる乎。逝く者は斯(かく)の如くにして、而も未だ嘗て往かざる也。盈虚(えいきよ)する者は彼の如くにして、而も卒(つひ)に消長すること莫き也。蓋し將(はた)其の變ずる者よりして之を觀れば、則ち天地も曾て以て一瞬なる能はず、其の變ぜざる者よりして之を觀れば、則ち物と我と皆盡くること無き也。而るを又何ぞ羨(うらや)ん乎。且つ夫れ天地の閒、物各々主有り。苟くも吾の有する所に非らずんば、一毫と雖も取ること莫し。惟だ江上の清風と山閒の明月とのみは、耳之を得て聲を為し、目之に遇ひて色を成す。之を取れども禁ずる無く、之を用ふれども竭(つ)きず。是れ造物者の無盡藏なり。而して吾と子との共に適する所なりと。
客喜びて笑ひ、盞(さかづき)を洗ひて更に酌む。肴核(かうかく)既に盡きて、杯盤狼藉たり。相(あひ)與(とも)に舟中に枕藉(ちんしや)して、東方の既に白むを知らず。

 私(蘇軾)は云う、
  「あなたもあの水と月とのことをご存知でしょう。去りゆくものは、この川の水のようにたえず流れ去って行きますが、それでいて流れ去ったままになったことはありません。変化するものは、あの月のように満ちたり欠けたりしますが、それでいて消滅することも成長することもありません。
  つまり、変化という立場から見る時には、万物もわれわれも、ともに尽きてなくなることはないのです。それなのに何を羨むことがありましょう。
  それにまた、天地間の万物にはそれぞれ所有者があります。かりにも自分の所有する物でなければ、毛筋一本といえども取り込むことはなりません。ただ江の面を渡る清風と山間に照る名月とは、耳に聞けば妙なる音楽となり、目に見れば美しい風景となり、いくら取っても咎める者はなく、いくら使っても尽きることはない。これこそ造物者が与えてくれている無尽の宝庫なのです。しかもそれは、わたしとあなたと二人の心にかなうものなのです」と。 
 
 客はよろこんで笑い、杯を洗って改めて酒を汲み交わした。酒の肴もなくなってしまい、杯や皿も散らかったままである。互いにもたれあって舟の中で寝てしまい、東の空がもう明け初めているのも知らなかった。

 おしまい

あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(漢詩)の記事画像
漢詩(33)− 曹操(1)- 歩出夏門行
漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦
漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳
漢詩(30)ー秋瑾(2)ー寶刀歌
漢詩(29)-乃木希典(2)-金州城下作
漢詩(28)ー毛澤東(2)−沁園春 長沙
同じカテゴリー(漢詩)の記事
 漢詩(33)− 曹操(1)- 歩出夏門行 (2019-06-19 21:14)
 漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦 (2015-07-07 21:56)
 漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳 (2014-04-23 15:48)
 漢詩(30)ー秋瑾(2)ー寶刀歌 (2012-07-04 21:20)
 漢詩(29)-乃木希典(2)-金州城下作 (2011-12-28 12:46)
 漢詩(28)ー毛澤東(2)−沁園春 長沙 (2011-07-23 13:13)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:15│Comments(0)漢詩
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
漢詩(24)-蘇軾(2)-前赤壁賦(2)
    コメント(0)