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2014年04月23日

漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 陸游(1125〜1210)
 
 (旧暦3月24日)


  釵頭鳳 陸游            釵頭鳳(さいとうほう) 陸游

  紅酥手                     紅酥(こうそ)の手
  黄縢酒                     黄縢(わうとう)の酒
  滿城春色宮牆柳       滿城の春色 宮牆(きうしやう)の柳
  東風惡                     東風 惡しく
  歡情薄                     歡情 薄(はかな)し
  一懷愁緒                 一懷の愁緒
  幾年離索                 幾年の離索ぞ
  錯 錯 錯                   錯(あやま)てり 錯てり 錯てり

  春如舊                    春は舊(もと)の如く
  人空痩                    人は空しく痩せ
  泪痕紅浥鮫綃透       泪痕紅く浥(うるほ)して鮫綃に透る
  桃花落                    桃花 落ち
  閑池閣                    閑かなる池閣
  山盟雖在                 山盟在りと雖も
  錦書難托                 錦書は托し難し          
  莫 莫 莫                  莫(な)し 莫し 莫し


 漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳


  うすくれないの柔き手に
  黄色き紙の封じ酒
  城内一面春景色  宮壁沿いの若柳
  春風悪しく
  歓び儚(はかな)し
  胸に抱きし淋しき思ひ
  離別せしより幾年ぞ
  ああ 錯(あやま)てり  錯てり  錯てり

  春は昔のままなるも
  人は空しくやせ衰へり
  泪紅く頬つたい  手巾に滲みて散りにじむ
  桃花は落ちて 閑かなる
  池のほとりの楼閣に
  深き契りはありとても
  想いの文は出し難し
  ああ 莫(な)かれ 莫かれ 莫かれ



 「釵頭鳳」とは、六十文字からなる一種の詩歌の形式で、劇中で歌われる詩歌でした。しかし単に釵頭鳳というと、南宋の文人政治家、陸游(1125〜1210)と最初の妻、唐琬の釵頭鳳を指すほど有名です。

  陸游は、南宋の高宗紹興十四年(1144)甲子、20歳の時に、母、唐氏の姪である唐琬と結婚し、仲睦まじく暮らしていましたが、妻と姑の唐氏との折り合いが悪く、一年ほどで離縁させられてしまいます。
  しかし、高宗紹興二十五年(1155)乙亥、陸游31歳の時に、その別れた妻と沈家の庭園「沈園」で、偶然にも再開してしまいます。

  沈園で出会った後、陸游はその激情をこの詞に託して沈園の壁に書いたと云われています。翌年、沈園を再訪した唐琬はこの詞を知り、彼女も詞を和して応えたとか。

  「釵頭鳳」の形式は、次のようになっています。

   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)


   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●○○●○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ○○●(韻)
   ●●○○
   ●○○●(韻)
   ●(韻)●(韻)●(韻)



  釵頭鳳  唐琬        釵頭鳳  唐琬

  世情薄                 世情は薄く
  人情惡                 人の情は惡し
  雨送黃昏花易落    雨 黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く      
  曉風干                 曉風(げうふう)干き
  泪痕殘                 泪痕を殘す        

  欲箋心事              心事を箋(せん)に欲せんとし
  獨語斜欄              獨語し欄に斜す          
  難 難 難                難(かた)し 難し 難し



  人成各                  人各々に成り
  今非昨                  今は昨(きのふ)に非ず
  病魂常似鞦韆索    病魂 常に鞦韆(しうせん)の索に似たり
  角聲寒                  角聲寒く
  夜闌珊                  夜 闌珊(らんさん)たり
  怕人尋問              人の尋問を怕(おそ)れ
  咽淚裝歡              咽淚せしも歡を裝ふ
  瞞 瞞 瞞               瞞(あざむ)かん 瞞かん 瞞かん


 漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳


  世情は薄く
  情は悪(わる)し
  雨は黃昏(たそがれ)を送り 花落ち易く
  明けの風は 涙を乾かし
  その痕を残す
  心の想いを手紙に書かんと
  一人つぶやき 手摺りに依るも
  ああ できない できない できない

  人それぞれの道を行き
  今は昔の君ならず
  迷いの心は ゆらゆらと
  ふらここの 紐のように揺れ動く
  角笛の音 寒々と
  夜は寂しく過ぎゆきて
  夜番の誰何をただ怖れ
  涙こらえて装はん 
  ああ 欺かん 欺かん 欺かん
 

  南宋の寧宗慶元五年(1199)己未、75歳の春、陸游は沈園を再訪しました。40年以上も前に訪れたときには、思いがけずに懐かしい唐婉と出会いましたが、今は知る人もいない。
 そんな寂寥の想いと、唐婉の思い出を込めて、陸游は二首の絶句を作りました。

  沈園二首 其一    沈園二首 其の一   陸 游

  城上斜陽畫角哀   城上の斜陽 畫角哀し
  沈園非復旧池台   沈園(しんえん)は復た旧池台に非ず
  傷心橋下春波緑   心を傷(いた)ましむ橋下 春波の緑
  曾是驚鴻照影來   曾て是れ驚鴻(きやうこう)の影を照(うつし)來る

 
  壁上に夕陽がかたむき 角笛の哀しい音がする
  沈園も変わりはて 苑池楼台は見るかげもない
  思えば胸が傷んでくる 橋下の池は春にして緑色
  鴻のかつて飛び立つ絵姿を 映したこともあったのだ


  沈園二首 其二    沈園二首 其の二   陸 游

  夢斷香銷四十年   夢は斷え香は銷(き)えて四十年  
  沈園柳老不飛綿   沈園の柳も老いて綿を飛ばさず 
  此身行作稽山土   此の身 行々稽山の土と作らんとす 
  猶弔遺蹤一泫然   猶ほ遺蹤(いしよう)を弔ひて一たび泫然(げんぜん)たり  


  夢は断ち切られ 余香は消え去って四十年
  沈園の柳も老い 柳絮も飛ばなくなった
  やがてこの身も 会稽山の土となるだろう
  想い出の地を訪れて なおも涙はしとどに流れる
  陸游の伝記としてまとまったものは、『宋史』の列伝が唯一のものとされ、巻三百九十五に載せられています。

  『宋史』 巻三百九十五 列傳第一百五十四 陸游

  陸游字務觀、越州山陰人。年十二、能詩文。蔭補登仕郎。鎖廳薦送第一。秦檜孫塤適居其次、檜怒、至罪主司。明年、試禮部、主司復置游前列。檜顯黜之、由是為所嫉。檜死、始赴福州寧德簿、以薦者除敕令所刪定官。

  陸游、字は務觀、越州山陰(浙江省紹興)の人なり。年十二、詩文を能くし、登仕郎(文散官名、正九品)に蔭補(おんぽ、父祖の功績によって子孫が官位を授かること)す。鎖廳(宋代の官吏考選時、廳院を封鎖し以て嚴密公正を求む、爲に「鎖廳」と稱す)第一を薦送す。秦檜(1090〜1155、南宋の宰相)の孫、塤(けん)、適(たまたま)其の次に居り、檜(くわい)怒り、主司を罪するに至る。明年(翌年)、禮部(科挙、科挙の試験は禮部侍郎が司掌)を試(ため)し、主司、復た游を前列に置く。檜(くわい)、顯(あら)はに之を黜(しりぞ)け、是(これ)由り嫉(にく)む所と爲る。檜(くわい)死すや、始めて福州寧德の簿(主簿、庶務を統轄)に赴く。薦むる者あるを以て敕令所刪定官(八品官)に除す。


  陸游の母は、彼が生まれるときに、北宋の詩人秦觀(1049〜1100)を夢に見たので、その名を字(あざな)の一字とし、秦觀の字の小游から一字を取って名につけたとの伝説があります。

  秦觀(1049〜1100)、字は少游。揚州高郵(江蘇省高郵市)の人で、蘇軾門下、蘇門四学士のひとりとして著名な文人政治家でした。元豐八年(1085)の進士で、太常博士、国史館編修を歴任しましたが、紹聖年間(1094〜1098)には、王安石(1021〜1086)らの新法派によって中央から退けら、杭州(浙江省杭州市)通判(地方行政の監督官)を皮切りに雷州(広東省雷州市)や郴州(湖南省郴州市)などに左遷され、召還をうけて帰途にあった藤州(広西チワン族自治区梧州市藤県)で生涯を終えました。

  越州山陰は現在の浙江省紹興市にあたり、宋代には行政上は、会稽と山陰の二県に分けられていました。
 
  陸游は、父陸宰が地方官として赴いていた寿春府(安徽省六安市)から京師開封へ向かう途中の船の中で生まれました。宣和七年(1125)冬、陰暦十月十七日のことでした。

  時楊存中久掌禁旅、游力陳非便、上嘉其言、遂罷存中。中貴人有市北方珍玩以進者、游奏「陛下以『損』名齋、自經籍翰墨外、屏而不御。小臣不體聖意、輒私買珍玩、虧損聖德、乞嚴行禁絕。」

 時に楊存中(1102〜1166、南宋の高官)、久しく禁旅(禁軍、禁裏を守護する軍)を掌(つかさど)る。游、力(つと)めて便に非ず(不都合である)と陳(の)ぶる。上(皇帝)、其の言を嘉(よみ)し、遂に(楊)存中を罷(や)む。中貴人(宦官)、北方の珍玩を市(取引)し以て進(おく)る者有り。游、奏すらく、「陛下は損を以て齋に名づけ、經籍(中国古代の聖賢の教えを記した書物)、翰墨(詩文や書画)自り外は、屏(しりぞ)け而して御(もち)いず。小臣(宮中の僕)、聖意を體(てい)せずして、輒(すなは)ち私(ひそ)かに珍玩を買い、聖德を虧損(損なう)す。乞う嚴(きび)しく禁絶を行なはんことを」と。


  南宋の初代皇帝高宗(在位1127〜1162)の書斎は、損齊と名付けられていました。
  『損』とは、古代中国の占筮(せんぜい、細い竹を使用する占い)の書である『易経』に記された占術『周易』の卦の名で、六十四卦の内の第41番目の卦をあらわしています。

漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 高宗(在位1127〜1162)

 漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 山澤損


 損、有孚元吉。无咎。可貞。利有攸往。曷之用。二簋可用亨。
 彖曰、損、損下益上其道上行損而有乎元吉。无咎可貞利攸。往曷之用二可用享二應有時損剛益柔有時損益盈與時偕行
 象曰、山下有澤、損。君子以懲忿窒欲。
 『易経』 下経 山澤損

 損は、孚(まこと)有れば元吉(げんきつ)にして咎(とが)なし。貞(ただ)しくすべし。往(ゆ)く攸(ところ)有るに利(よ)し。曷(なに)をかこれ用ゐん。
二簋(き)をもって享(まつ)るべし。

 彖(たん)に曰く、損は、下を損して上に益(ま)し、その道、上行(じょうこう)す。損して孚(まこと)あれば、元吉(げんきつ)にして咎なし、貞(ただ)しくすべし、往(ゆ)くところあるに利(よ)し、曷(なに)をかこれ用ゐん、二簋 (き)をもって享(まつ) るべしとは、二簋 (き)もてするはまさに時あるべしとなり。剛を損して柔に益すに時あり。損益、盈虚 (えいきょ)は、時と偕(とも)に行なはる。

 象に曰く、山下に澤あるは損なり。君子もって忿(いか)りを懲らし欲を窒(ふさ)ぐ。

  その意味は、物をへらすことであり、支出をへらし、倹約質素に暮らすことは、この卦のあらわす徳に叶うとされています。

  皇帝高宗が質素を日常の指針としているのに、臣下の小臣が高価な珍品を買い入れているのはいかがなものかと、強く弾劾しています。

 應詔言「非宗室外家、雖實有勳勞、毋得輒加王爵。頃者有以師傅而領殿前都指揮使、復有以太尉而領閤門事、瀆亂名器、乞加訂正。」 遷司直兼宗正簿。


 詔(詔書)に應じて言ふ、「宗室、外家(外戚の家)に非ざれば、實に勳勞有りと雖(いへど)も、輒(すなは)ち王爵を加うるを得ず。頃者(けいしや、この頃)、師傅(太子の養育係)を以て而して殿前都指揮使(京師と宮城を警護する禁軍の統轄)を領せる有り、復た太尉(正二品、武官の最上位)を以て而して閤門事(宮中の執事職)を領せる有り。名器を瀆亂(とくらん、汚し乱す)す。乞ふ、訂正を加へんことを」と。大理寺司直(最高裁判所の裁判員)に遷(うつ)り、宗正簿(宗正寺主簿、皇室の系譜や記録を管理する役所の庶務統轄)を兼ぬ。


 孝宗即位、遷樞密院編修官兼編類聖政所檢討官。史浩、黃祖舜薦游善詞章、諳典故、召見。上曰「游力學有聞、言論剴切。」遂賜進士出身。入對、言「陛下初即位、乃信詔令以示人之時、而官吏將帥一切玩習、宜取其尤沮格者、與眾棄之。」


 孝宗即位するや、樞密院(軍政の最高機関)編修官(記録管理官)に遷(うつ)り、編類聖政所檢討官を兼ぬ。史浩(1106~1194、南宋の高官)、黃祖舜(1100〜1165、南宋の官人)、游を薦(すす)めて詞章を善くし、典故(朝廷の故実)を諳(そら)んずとす。召見(引見)し、上、曰く、「游、學に力(つと)めて聞ゆる有り、言論剴切(がいせつ、適切)なり」と。遂に進士の出身を賜ふ。入りて對(こた)へて言く、「陛下初めて即位す。乃(すなは)ち詔令を信にして以てに人に示すの時なり。而るに官吏、將帥、一切(すべて)玩習(習慣に慣れて改めない)す。宜しく其の尤も沮格(そかく、妨げる)する者を取り、眾(人々)と之を棄つ(放逐する)べし」と。


 漢詩(31)−陸游(1)−釵頭鳳

 考宗(在位1162〜1189)


 和議將成、游又以書白二府曰「江左自呉以來、未有捨建康他都者。駐蹕臨安出於權宜。形勢不固、饋餉不便、海道逼近、凜然意外之憂。一和之後、盟誓已立、動有拘礙。今當與之約。建康、臨安皆係駐蹕之地、北使朝聘、或就建康、或就臨安、如此則我得以暇時建都立國、彼不我疑。」

 和議將(まさ)に成らんとするや、游、又、書を以て二府(東府=中書省、西府=枢密院)に白(まう)して曰く、「江(長江)左(左岸)、呉より以來、未だ建康(南京)を捨て他に都する者は有らず。蹕(ひつ、行幸のさきばらい)を臨安に駐(とど)むるは、權宜(臨機の処置)に出ず。形勢固からず、餉(しやう、食料)を饋(おく)るに便ならず、海道(海)逼近(ひつきん、間近に迫る)し、凜然(恐るべき)たる意外之憂ひ有り。一たび和して後、盟誓(盟約)已に立たば、動ひて拘礙(こうがい、拘束支障)有らん。今、當(まさ)に之と約すべし。建康(南京)、臨安(杭州)は、皆、駐蹕(ちうひつ、皇帝が滞在する)之地に係(かか)る。北使(金の使者)の朝聘(てうへい、謁見)する、或は建康(南京)に就き、或は臨安(杭州)に就けと。此(か)くの如くんば、則(すなは)ち我は、暇ある時(閑時)を以て都を建て國を立つるを得、彼は我を疑はじ」と。


 時龍大淵、曾覿用事、游為樞臣張燾言「覿、大淵招權植黨、熒惑聖聽、公及今不言、異日將不可去。」燾遽以聞、上詰語處自來、燾以游對。上怒、出通判建康府、尋易隆興府。言者論游交結臺諫、鼓唱是非、力張浚用兵、免歸。久之、通判夔州。

 時に龍大淵(生誕不詳〜1168、南宋の高官)、曾覿(1109〜1180、南宋の高官)、事を用ふ(取り仕切る)。游、樞臣(宰補する重臣)張燾(1091〜1165、南宋の官人)が爲に言ふ、「覿(てき)、大淵、權を招(まね)き(権力を保持する)、黨を植(た)て(党派を組む)、聖聽を熒惑(けいこく、惑わす)す。公、今に及んで言はざれば、異日(他日)、將に去るべからざらんとす」と。燾(とう)、遽(にはか)に以て聞(申し上げる)す。上、語(ことば)の自りて來たる處を詰(なじ)る。燾、游を以て對(こた)ふ。上、怒り、出でて建康府(正しくは鎮江府、江蘇省)に通判(副知事)たり。尋(つ)いで隆興府(江南西路南昌)に易(か)ふ。言者、游が臺諫(臺=御史臺で管理の違法行為を取り締まる役所、諫=門下省の給事中など、皇帝を諫め、政治の批判を職とするもの)に交結(結託)し、是非を鼓唱して、力(つと)めて張浚(1097〜1164、宰相兼枢密使として江蘇、安徽の軍を率いた)に兵を用いしむと論じ、免ぜられて歸る。久しうして、夔州(きしう、四川省奉節)に通判(副知事)たり。


 王炎宣撫川、陝、辟爲幹辦公事。游爲炎陳進取之策。以爲經略中原必自長安始、取長安必自隴右始。當積粟練兵、有釁則攻、無則守。呉璘子挺代掌兵、頗驕恣、傾財結士、屢以過誤殺人、炎莫誰何。游請以玠子拱代挺。炎曰「拱怯而寡謀、遇敵必敗。」游曰「使挺遇敵、安保其不敗。就令有功、愈不可駕馭。」及挺子曦僭叛、游言始驗。


 王炎(1137〜1218、南宋の高官、文人)、川(四川)、陝(陝西)に宣撫(宣撫使、総督)たり。辟(め)して幹辦公事(秘書官)と爲す。游、炎が爲に進取之策を陳(の)ぶ。以爲(おもへ)らく、中原を經略するは、必ず長安自(よ)り始め、長安を取るは必ず隴右(ろういう、甘粛)自(よ)り始む。當(まさ)に粟(食料)を積み兵を練り、釁(きん、隙)有れば則ち攻め、無ければ則ち守るべし。呉璘(1102~1167、四川宣撫使として陝西の地で、度々金軍を破る)が子、挺(てい、1138〜1193)、代はりて兵を掌(つかさど)り、頗る驕恣(けうし、驕り高ぶる)なり。財を傾け士を結び、屢(しば)しば過誤(過ち)を以て人を殺す。炎、誰何(すいか、咎める)すること莫し。游、玠(かい、呉挺の伯父呉玠、1093〜1139)が子、拱(きよう)を以て挺に代へんと請ふ。炎、曰く、「拱は怯(臆病)にして謀(はかり)ごと寡(すくな)し。敵に遇はば必ず敗れん」と。游、曰く、「挺をして敵に遇はしむるも、安(いずく)んぞ其の敗れざるを保せん。就(も)し功あらしめば、愈(いよい)よ駕馭(がぎよ、使いこなす)すべからざらん」と。挺が子、曦(ぎ)、僭叛(身分を超えて叛する)するに及びて、游が言始めて驗(しるし)あり。


 范成大帥蜀、游爲參議官。以文字交、不拘禮法、人譏其頹放、因自號放翁。後累遷江西常平提舉。江西水災。奏、「撥義倉振濟、檄諸郡發粟以予民。」召還。給事中趙汝愚駁之、遂與祠。起知嚴州、過闕、陛辭、上諭曰、「嚴陵山水勝處、職事之暇、可以賦詠自適。」再召入見、上曰、「卿筆力回斡甚善。非他人可及。」除軍器少監。


 范成大(1126〜1193、南宋の高官)、蜀に帥(すい、制置使)たり。游、參議官と爲る。文字を以て交はり、禮法に拘らず。人、其の頹放(頽廃)を譏(そし)り、因りて自ら放翁と號す。後に江西常平提舉(江南西路常平茶塩公事提舉)に累遷す。江西、水災す。奏す、「義倉(備蓄倉庫)を撥(ひら)きて振濟(救済)し、諸郡に檄し粟(ぞく、穀類)發して、以て民に豫(あた)へしむ」と。召還せらる。給事中(皇帝の詔勅を審議する職)趙汝愚(生年不詳〜1196、南宋の皇族)、之を駮(ただ)す。遂に祠(祠禄、捨て扶持)を與(あた)ふ。起(た)ちて嚴州(浙江臨安)に知たり、闕(けつ、宮城の門)を過(よぎ)り、陛辭(へいじ、暇乞い)するに、上、諭(さと)して曰く、「嚴陵は山水に勝(すぐ)れたる處、職事之暇(いとま)に、賦詠(詩歌を作る)を以て自適(思うままに楽しむ)すべし」と。再び召し、入りて見(まみ)ゆ、上、曰く、「卿の筆力は回斡(巡り廻る)して甚(はなは)だ善し。他人の及ぶべきに非ず」と。軍器少監(造兵廠の次官)を除(さず)く。

 紹熙元年、遷禮部郎中兼實錄院檢討官。嘉泰二年、以孝宗、光宗兩朝實錄及三朝史未就、詔游權同修國史、實錄院同修撰、免奉朝請、尋兼祕書監。三年、書成、遂升寶章閣待制、致仕。


 紹熙元年(1190)、禮部郎中に遷(うつ)り、實錄院檢討官を兼ぬ。嘉泰二年(1202)、孝宗(南宋第二代皇帝)、光宗(南宋第三代皇帝)兩朝の實錄及び三朝史(南宋の高宗、考宗、光宗の三代の本紀)未だ就(な)らざるを以て、游に詔(せう、みことのり)して權(副)同修國史、實錄院として同じく修撰せしめ、朝請に奉ずるを免ず。尋(つ)ひで祕書監を兼ぬ。三年、書成り遂に寶章(謨)閣待制(輪番で待制して顧問に備わる)に升り、致仕(ちし、退官)す。


 游才氣超逸、尤長於詩。晚年再出、爲韓侂冑撰南園閱古泉記、見譏淸議。朱熹嘗言、其能太髙、跡太近、恐爲有力者處牽挽、不得全其晚節。蓋有先見之明焉。嘉定二年卒、年八十五。


 游、才氣超逸にして、尤も詩に長ず。晚年、再び出でて、韓侂冑(かんたくちう、1152〜1207、南宋の高官)が爲に南園(南園記)、閲古泉記を撰し、淸議(輿論)に譏(そし)らるるを見る。朱熹、嘗て言ふ、「其の能、太(はなは)だ髙く、迹(あと、功績)太だ近し。恐らくは有力者の牽挽(けんばん、引き上げる)する處と爲り、其の晚節を全(まつた)うすることを得ざらん」と。 蓋し先見之明有り。嘉定二年(1209)卒(しゆつ)す、年八十五。
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


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