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2015年07月07日

漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  Portrait of Qu Yuan by Chen Hongshou

  (旧暦5月22日)

  汨羅の渕に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れ飛ぶ
  混濁の世に我れ立てば
  義憤に燃えて血潮湧く
  『青年日本の歌』  作詞・作曲 海軍少尉三上卓(海兵54期)


  楚の頃襄王二十一年(BC278)、西の強国秦の侵攻によって首都郢(えい:湖北省荊州市)が陥落したことで楚の将来を絶望した屈原(BC340頃~BC278頃)は、旧暦五月五日の端午節に石を抱いて汨羅江に入水自殺したと伝えられています。

  屈原が入水した汨羅江(Miluo River, mìluó jiāng)は、湖南省の北東部を流れる洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流で、長さ250㎞。
  汨羅の名称は、BC690年、楚が諸侯国の一つ羅子国を滅ぼし、その遺民が丹陽(湖北省帰県)さらには汨羅江尾閭南岸(汨羅西部郊外)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来するとのことです。

  屈原五月五曰投汨羅水。楚人哀之、至此曰、以竹筒子貯米投水以祭之。漢建武中、長沙區曲忽見一士人、自云三閭大夫。謂曲曰、聞君當見祭、甚善。常年爲蛟龍所竊。今若有惠、當以楝葉塞其上、以彩絲纏之。此二物、蛟龍所憚。曲依其言。今五月五曰作粽、並帶楝葉、五花絲、遺風也。
  『續齊諧記』  南梁 吳均


 漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  屈原 五月五日 汨羅水に投ず。楚人之を哀み、此の日、竹筒を以て米を貯へ、水に投じて之を祭る。漢の建武中(25〜56)、長沙の區曲(おうくわい)忽ち一士人を見る。自ら三閭大夫と云ふ。謂ひて曰く、聞く當(まさ)に祭らるるを見るは、甚だ善し。常年、蛟龍の爲に竊(ぬす)まる。今惠有らば、當に楝(あふち:栴檀)の葉をもって其の上を塞ぎ、彩絲を以て之を纏(ま)くべし。此の二物、蛟龍の憚(おそ)るる所なり、と。曲(くわい)其の言に依る。今、五月五曰 粽(ちまき)を作り、竝(なら)びに楝葉、五花絲を帶ぶるは、遺風なり。

  屈原(BC340頃~BC278頃)、名は平、中国春秋時代の楚の第十八代君主武王(在位:BC740 〜 BC690)の公子瑕(屈瑕)を祖とする公室系の宗族のひとりであり、屈氏は景氏、昭氏と共に楚の王族系の中でも名門のひとつでありました。    
  見聞広く、記憶力に優れ、治乱の道理に明るく、詩文にも習熟していたために第三十七代君主懐王(在位:BC329 〜 BC299)の信任が厚く、朝廷にあっては王と国事を図って号令を出し、朝廷の外にあっては賓客をもてなし諸侯を応接する高官である左徒となりました。

  屈原在世当時の楚の政治課題は、西の強国秦への対応でした。
  その方針については、臣下の意見は二分していました。
  face031.親秦派
   西の秦と同盟することにより楚の安泰をはかる連衡説
  face052.親齊派
   東の齊と同盟することで、秦に対抗しようとする合従説

  屈原は親齊派の急先鋒でしたが、屈原の才能を憎んだ位が同位の上官大夫の讒言を受けた懐王は怒り、屈原を疎んずるようになります。
 
  楚の懐王十七年(BC312)、懐王は秦の策謀家張儀の罠にかかり、兵を発して秦を討ちますが、楚は丹淅(江蘇省鎮江市)と藍田(陝西省西安市)に大敗します。

  丹淅、藍田の大敗後、屈原は一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられました。

  楚の懐王三十年(BC299)、秦の昭王(昭襄王:在位BC306〜BC251)は懐王に婚姻を結ぶことを持ちかけて、秦に来訪するように申し入れました。
  屈原は、「秦は虎狼のように残忍で危険な国で、信用がならなりません。行かない方が良いでしょう。」と諫めましたが、懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、ついに秦に監禁されてしまいます。

  王を捕らえられた楚では、長子頃襄王を立て、その弟子蘭を令尹(丞相)にしたために、更に追われて江南へ左遷されてしまいます。

  その後、楚の頃襄王二十一年(BC278)、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺します。

  令尹子蘭聞之大怒、卒使上官大夫短屈原於頃襄王、頃襄王怒而遷之。    
  屈原至於江濱、被髪行吟澤畔。顏色憔悴、形容枯槁。


  令尹(れいゐん:執政)子蘭 之を聞き大いに怒り、卒(つひ)に上官大夫をして屈原を頃襄王に短(そし)らしむ。頃襄王怒りて之を遷(うつ)す。
  屈原江濱に至り、髪を被(かうむ)り澤畔に行吟す。顏色憔悴し、形容枯槁す。


  漁父見而問之曰、子非三閭大夫歟。何故而至此。
  屈原曰、舉世混濁而我獨淸、眾人皆醉而我獨醒、是以見放。
  漁父曰、夫聖人者、不凝滯於物而能與世推移。舉世混濁、何不隨其流而揚其波。眾人皆醉、何不餔其糟而啜其醨。何故懷瑾握瑜而自令見放爲。
  屈原曰、吾聞之、新沐者必彈冠、新浴者必振衣、人又誰能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴常流、而葬乎江魚腹中耳。又安能以皓皓之白、而蒙世俗之溫蠖乎。


  漁父見て之に問ひて曰く、子は三閭大夫に非ずや。何の故に此に至れる、と。
  屈原曰く、舉世混濁して我獨り淸(す)む、眾人皆醉ひて我獨り醒む。是を以て放たる、と。
  漁父曰く、夫れ聖人は物に凝滯せずして能く世と推し移る。舉世混濁せば、何ぞ其の流れに隨ひて其の波を揚げざる。眾人皆醉はば、何ぞ其の糟を餔(く)らひて其の醨(うはずみ)を啜(すす)らざる。何の故に瑾を懷き瑜を握りて(優れた才能を持つ)、自ら放たれしむるを爲す、と。
  屈原曰く、吾之を聞く、新たに沐する者は必ず冠を彈き、新たに浴する者は必ず衣を振るふ、と。人又誰か能く身之察察(さつさつ:清潔なさま)を以て、物の汶汶(もんもん:汚れたさま)を受くる者ぞ。寧(むし)ろ常流に赴きて、江魚の腹中に葬(はうむ)られんのみ。又安くんぞ能く皓皓(かうかう:潔白なさま)之白きを以てして、世俗之溫蠖(をんわく:どす黒いさま)を蒙(かうむ)らんや、と。

  乃ち懷沙之賦を作る。
  其の辭に曰く、


  滔滔孟夏兮  草木莽莽   
  傷懐永哀兮  汨徂南土
  眴兮窈窈   孔靜幽黙
  寃結紆軫兮  離愍而長鞠
  撫情效志兮  俛詘以自抑
  刓方以爲圜  常度未替
  易初本由兮  君子所鄙
  章畫職墨兮  前度未改
  内直質重兮  大人所盛
  巧匠不斲兮  孰察其揆正
  玄文幽處兮  曚謂之不章
  離婁微睇兮  瞽以爲無明
  變白而爲黑兮 倒上以爲下
  鳳皇在笯兮  鶏雉翔舞
  同糅玉石兮  一槩而相量
  夫黨人之鄙妒 羌不知吾所臧


  滔滔(たうたう)たる孟夏(まうか:初夏)
  草木 莽莽(ぼぼ:生い繁る)たり
  懐(おも)ひを傷め永く哀しみ
  汨(いつ:急ぎ)として南土(なんと)に徂(ゆ)く
  眴(けん:瞬き)して窈窈(えうえう:果てしない)たり
  孔(はなは)だ靜かにして幽黙(いうもく:物音がしない)なり
  寃結(ゑんけつ:心が塞がり結ぼれ)紆軫(うしん:もつれ痛む)して
  愍(うれ)ひに離(かか)りて長く鞠(きは)まる
  情に撫(したが)ひ志を效(いた)し
  俛詘(ふくつ:伏屈む)以て自ら抑(おさ)ふ
  方を刓(けず)り以て圜と爲すも
  常度(じやうど:元の態度)を未だ替(す)てず
  初本の由るところを易(か)ふるは
  君子の鄙(いや)しむ所なり
  畫(くわく)を章(あきら)かにし墨を職(しる)して
  前度(もとの態度)を未だ改(あらた)めず
  内 直にして 質 重なるは大人の盛とする所
  巧匠(かうしやう)斲(けづ)らずんば
  孰(たれ)か其の揆(き:寸法)の正しきを察せん   
  玄文(黒い模様)幽處(いうしよ:暗い所にある)する
  曚(もう:盲人)は之を章(しよう:模様)ならずと謂う
  離婁(りろう:黄帝の時代のひじょうに目の良かった人)の微睇(びてい:目を細めて見る)する
  瞽(こ:盲人)は以て明無しと爲す
  白を變じて黑と爲し
  上を倒(さかしま)にし以て下と爲す
  鳳皇は笯(ど:竹の籠)に在り
  鶏雉は翔舞す
 玉石を同糅(どうじう:一緒に混ぜる)し
 一槩(いちがい:斗掻き)にて相量る
 羌(ああ)吾が臧(よ)き所を知らず
  漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  横山大観 「屈原」1898年(明治31)頃 絹本着色 厳島神社蔵

  任重載盛兮  陥滞而不濟
  懐瑾握瑜兮  窮不得余所示
  邑犬羣吠兮  吠所怪也
  誹俊疑傑兮  固庸態也
  文質蔬内兮  衆不知吾之異采
  材撲委積兮  莫知余之所有
  重仁襲義兮  謹厚以爲豐
  重華不可牾兮 孰知余之從容 
  古固有不竝兮 豈知其故也
  湯禹久遠兮  邈不可慕也
  懲違改忿兮  抑心而自彊
  離湣而不遷兮 願志之有象
  進路北次兮  日昧昧其將暮 
  含憂虞哀兮  限之以大故


  重載(ぢゆうさい:重大な仕事)に任じて盛(才能が豊か)なるも
  陥滞(窮地に陥って動けない)して濟(な)らず
  瑾(きん:美しい玉)を懐き瑜(ゆ:美しい玉)を握れども
  窮して余(わ)が示(つ)ぐる所を得ず
  邑犬(いふけん:村の犬)の羣(むらが)り吠ゆるは
  怪しむ所を吠ゆるなり
  俊を誹り傑を疑うは 
  固(もと)より庸態(ようたい:凡人の状態)なり
  文質(華やかさと飾り気のなさ) 内に疏(そ:疎通)すれども
  衆 吾の異采(いさい:優れた人間)を知らず
  材撲(ざいぼく:木材の有用なものと切り出したままのもの) 委積(ゐし:積み重なる)すれども
  余(われ)の有する所を知る莫し
  仁を重ね義を襲(かさ)ね
  謹厚 以て豐を爲す
  重華(ちようくわ:古の帝舜の名) 牾(あ)ふべからず
  孰(たれ)か余(われ)の從容(しようよう:ゆったりとして落ち着いている)たるを知らん
  古より固(まこと)に竝ばざる有り
  豈に其の故を知らんや
  湯(たう:殷の湯王)・禹(う:夏の禹王)は久遠(きうゑん) にして
  邈(ばく:はるかなさま)として慕うべからざるなり
  違(うら)みを懲らし忿(いか)りを改め
  心を抑へて自ら彊 (つと)む
  湣(くら)きに離(あ)ふも遷(うつ)らず
  志の象(のつと)る有るを願うふ
  路に進み北に次(やど)り
  日 昧昧(まいまい:薄暗いさま)として其れ將に暮れんとす
  憂ひを舒(の)べ哀しみを虞(たの)しみ
  之を限るに大故(たいこ:死)を以てせんかな


  漢詩(32)− 屈原(1)- 懷沙之賦

  汨羅江

  亂曰       
  浩浩沅湘    分流汨兮     
  脩路幽拂    道遠忽兮 
  曾唫恆悲兮   永歎慨兮 
  世旣莫吾知兮  人心不可謂兮 
  懷情抱質兮   獨無匹兮     
  伯樂旣没兮   驥將焉程兮     
  人生稟命兮   各有所錯兮    
  定心廣志    餘何畏懼兮    
  曾傷爰哀    永歡喟兮     
  世溷不吾知   心不可謂兮 
  知死不可譲兮  願勿愛兮   
  明以告君子兮  吾將以爲類兮   

  
  亂(らん:最後の一節)に曰く
  浩浩(かうかう:広大な)たる沅湘(沅水と湘水)
  分かれ流れて 汨(こつ:水の流れる音)たり
  脩路(しうろ:長い路) 幽拂(いうふつ:奥深く蔽われる)にして
  道 遠忽(ゑんこつ:遠くて見えない)たり。
  曾(すなは)ち唫(ぎん)じ恆(つね)に悲しみ
  永く歎慨(たんがい:ため息をつく)す
  世旣に吾を知る莫(な)く  人心 謂(と)くべからず 
  情を懷(いだ)き 質を抱(いだ)き
  獨り 匹(せい:自分の忠心の是非を判断してくれる者)無し
  伯樂(馬の善し悪しを見分けられる人) 旣に沒し
  驥 將(は)た焉(いづ)くにか程(はか)らん
  人生 命を稟(う)け
  各(おのおの)錯(やす)んずる所有り
  心を定め 志を廣くす
  餘(われ)何ぞ 畏懼(ゐく:畏れ心配する)せん
  曾(すな)はち傷(いた)み 爰(ここ)に哀しみ
  永く 歎喟(たんき:嘆きため息をつく)す
  世 溷(にご)りて 吾を知らず
  心 謂(と)くべからず
  死の讓るべからざるを知る
  願くば 愛(を)しむ忽(な)けん
  明かに 以て君子に告ぐ
  吾 將(まさ)に 以て類を爲(な)さんとす、と

  於是懷石、遂自投汨羅以死。
  是に於て石を懷き 遂に自ら汨羅(べきら:汨水)に投じて以て死す。  

  『史記卷八十四 屈原賈誼列傳第二十四』 新釈漢文体系89


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:56│Comments(0)漢詩
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