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2013年06月29日

国立故宮博物院(9)−崑崙天柱墨

 

 崑崙天柱墨 明 程君房 国立故宮博物院所蔵(台北) 

 (旧暦5月21日)

 

 廉太郎忌
 「荒城の月」「花」などで知られる作曲家滝廉太郎の明治36年(1903)の忌日。

 古来、中国の文人たちは、筆、墨、硯、紙のことを「文房四寶」と呼んで尊んできました。
 この詞は、明の第八代皇帝天順帝(在位1457〜1464)の命により、吏部尚書、翰林学士李賢(1408〜1466)が勅撰して天順五年(1461)に完成した全九十巻からなる全国地誌「明一統志」に記されています。

 四寶堂在徽州府治、以郡出文房四寶為義。新安志云、歙縣文房四寶謂紙、墨、筆、硯也。

 四寶堂は徽州府治に在り、以て郡出の文房四寶の義と爲す。新安志に云く、歙縣(安徽省南部黄山の麓に位置する)の文房四寶は紙、墨、筆、硯を謂ふ也。

 成唐の詩人李白(701〜762)の詩集『李太白集』巻十八に収められている「張司馬が墨を贈れるに酬ゆ」という詩には、「上黨碧松煙 蘭麝凝珍墨」という一節がありますが、上黨とは碧松煙を産する山西省の東南部、長治市の地域を指し、名墨には麝香を入れて固めていると詠んでいます。

 酬張司馬贈墨       張司馬が墨を贈れるに酬ゆ 
  唐 李白
 上黨碧松煙        上黨の碧松煙
 夷陵丹砂末        夷陵の丹砂末
 蘭麝凝珍墨        蘭麝 珍墨を凝らし
 精光乃堪掇        精光乃ち掇るに堪へたり
 黄頭奴子雙鴉鬟      黄頭の奴子 雙鴉鬟
 錦囊養之懷袖間      錦嚢 之を養なふ懐袖の間
 今日贈豫蘭亭去      今日 豫に贈る蘭亭に去り
 興來灑筆會稽山      興來らば筆に灑がん会稽山


 上黨に産する碧松煙
 夷陵の丹砂の粉末
 蘭や麝香がこの珍墨にこめられ
 鋭い光は手にとって見るに充分である
 黄頭の双僕やあげまきの侍女が
 錦の袋に入れて懐や袖にしまっておく
 今日それを私に贈ってくれた張司馬は蘭亭に去り
 興が湧けば筆に注がん会稽山



 face01中国においては、発掘された土器や木簡・帛書などから、殷・周の時代(1700BC〜770BC)に墨らしきものが実在したようですが、どのようなものであったのかは定かではありません。

 face02漢の時代(206BC〜220AD)には、発掘された硯の形から、墨は小さな墨丸といわれる球形のものであっただろうと推測されています。

 face03唐の時代(618〜960)になると、墨匠という墨造りの名人たちが現れ、その多くは易州(河北省易縣)に住んでいました。

 元代の陸友(生没年不詳、1330年前後在世)が纂した「墨史」によれば、唐代の墨作りの名匠には、李陽冰、祖敏、王君德、奚鼐、奚鼏、奚超、奚庭珪、李慥、廷寬、文用、惟益、惟慶、張遇、朱逢などの名前が記されています。

 祖敏、本易定人、唐時之墨官也。今墨之上、必假其姓而號之。大約易水者為上、其妙者必以鹿角膠煎為膏而和之、故祖氏之名、聞於天下。

 唐代初期の墨務官であった祖敏は、墨に鹿角膠を用いたことで天下に名を知られたということであり、易水の上等な墨には鹿角膠が用いられるようになったということが述べられています。

 しかし、その後、易州の墨匠たちは唐末の戦乱を避けて五代南唐の歙州(きふしう、安徽省歙縣)に移り住んだことにより、歙州が墨の産地として知られるようになりました。

 
 
 五代十国図

 この歙州の地は、黟山の松、羅山の松、黄山の松など、易州の松に近い上質な松が供給されたため、唐代に高麗からもたらされた技術により、良質な松煙墨が生産されました。

 北宋の晃貫之の著による「墨経」は、製墨についての代表的な古典として有名ですが、宋代の松についての一節が次のように記述されています。

 與黄山黟山羅山之松品唯上上

 歙州の製墨の中心を担ったのは奚超という人物で、唐朝の墨官だった奚超は南唐の後主李煜(在位961〜975)の愛顧を得て李姓を賜り、墨務官に任命されて朝廷専用の墨を作り、「李墨」と呼ばれて有名になりました。またその子奚廷琳は歙州の製墨を発展させたといわれています。

 「李墨」は民間にはほとんど出回りませんでした。南唐が宋に滅ぼされて、李父子の消息も途絶えましたが、作った墨は宋の朝廷に没収され、皇帝の御下賜品として珍重されました。
 「磨っても音をたてず、磨り口の鋭さは紙を切り、木を削るほどであった」と伝えられているそうです。

 廷珪所制之墨堅如玉、且有犀紋、時與澄心堂紙、龍尾硯并称三寶、爲南唐和北宋御用之墨。

 歴代の皇帝も非常に珍重したため、「黄金は得やすく、李墨は求め難し」と言わしめる程貴重なものとなりました。有名な宋の集帖『淳化閣帖』は、廷珪の墨で拓したといわれています。

 『淳化閣帖』十巻は、北宋の第二代皇帝太宗(在位976〜997)の勅命によって淳化三年(992)に完成した集帖で、翰林侍書の王著が勅命を奉じて、内府所蔵の書跡を編したものと伝承されています。

 後の清の第六代皇帝乾隆帝(在位1735〜1796)は、李墨を入手した際非常に喜び、紫禁城内に「墨雲室」という専用の保管所を設置し最高級の至宝として蔵しました。

 五代から宋にかけての著名な墨匠としては、李超、李廷珪、李廷寛、李承浩、李承晏、李文用、耿仁、耿遂、耿文政、耿文寿、盛匡道、盛通、盛真、張谷、張処厚、朱逢、朱君徳などがいました。

 その後、歙州は北宋の宣和三年(1121)に徽州と改称し、以後徽墨の名をもって呼ばれるようになりました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:57Comments(0)国立故宮博物院

2012年11月04日

国立故宮博物院(8)ー鵲華秋色圖

 

 (旧暦9月21日)

 みなさん、お元気ですかの?
 暑い日がつづき、しばらくサボっておりましたら、秋風が凍みる今日この頃となりました。

 さて今回の「鵲華秋色圖」(巻 紙本著色 縦28.4cm 横90.2cm)は、元朝に仕えた宋の宗室につらなる文人政治家、趙孟頫(1254〜1322)が、山東歴城(済南市歴城区)にある華不注山とそれより数十キロ離れた黄河の対岸にある鵲山(じゃくざん)を描いた傑作で、後にこの絵を所有した清朝第六代皇帝乾隆帝(在位1735〜1796)も多くの賛文を書き入れ、多数の印章を捺しています。

 趙孟頫は済南で任官しましたが、鵲・華二山は済南にある名山です。本巻は1295年、趙孟頫が故郷の浙江に戻ってから、周密(1232〜1298)のために描いた画です。周氏の原籍は山東ですが、趙孟頫の故郷呉興で生まれ育ち、山東には行ったことがありませんでした。趙孟頫は周密のために済南の風景の美しさを述べ語り、この画を描いて贈りました。

 果てしなく広がる水面の遠くに目をこらして見ると、地平線上に二座の山が聳えています。右の双峰が突き出した険しい山が「華不注山」、左の頂上の丸いのが「鵲山」です。

 この作品は、中国絵画史においては文人画風の青緑山水として認識されています。二つの主峰は、花青に石青が混ざり深い藍色を呈しています。中州の淡い青、木の葉の濃度の異なる青など、同じ青による色調の変化が形成されています。また、坂になった部分や水辺には赭(そほ;茶色に近い赤土)が使われ、屋根や木の幹、木の葉には紅、黄、赭が使われています。これら暖色系の色合いと花青の組み合わせが、色彩学上の補色効果を生じています。実に巧みな色使いです。
(文・王耀庭)

 趙孟頫曾任職濟南、鵲、華二山就是濟南所在的名山。本卷畫成於一二九五年回到故郷浙江、為周密(公謹1232〜1298)所畫。周氏原籍山東、卻是生長在趙孟頫家郷的吳興、也從未到過山東。趙氏既為周密述說濟南風光之美、也作此圖相贈。遼闊的江水沼澤地上、極目遠處、地平線上。矗立著兩座山、右方雙峰突起、尖峭的是「華不注山」、左方圓平頂的是「鵲山」。此幅向為畫史上認定為文人畫風式青綠設色山水。兩座主峰以花青雜以石青、呈深藍色。這與州渚的淺淡、樹葉的各種深淺不一的青色、成同色調的變化、斜坡、近水邊處、染赭、屋頂、樹幹、樹葉又以紅、黃、赭。這些暖色系的顏色、與花青正形成色彩學上補色作用法。運用得非常恰當。
(撰稿/王耀庭)


 鵲華秋色
 華不注山在濟南城北約二十里的地方、位於濟南市東北、黃河之南的平原地區、海拔一百九十七公尺、是濟南名勝「齊煙九點」中最高的山。「華不注」為俗語「花骨朵」的音轉、形容含苞待放的荷花。華不注山陡峻險絕、歷史上許多文人墨客都曾到此、並留下許多佳作名篇、至今被人吟誦不已。


 華不注山は濟南城の北約二十里(10㎞)の地に在って、濟南市の東北に位置しています。そこは黃河の南岸の平坦な地域で、海拔一百九十七公尺(197m)、濟南の名勝「齊煙九點」中の最高の山です。「華不注(huá bù zhù)」とは俗語「花骨朵(huā gū duŏ);花の蕾」の音轉で、荷花(蓮の花)の蕾がふくらみ花が今まさに咲こうとしているさまを形容しています。華不注山は陡峻險絕(高く険しく切り立っている)し、歷史上たくさんの文人墨客が都曾より此に到り、たくさんの佳作名篇を残して、今に至るまで人が吟誦することが已みません。
 (嘉穂のフーケモン拙訳)


 

 華不注山

 

 鵲山

 ちなみに、「齊煙九點」とは、中唐の詩人李賀(791〜817)の《夢天》という詩の「遙望齊州九點煙」という句に由来しています。

 夢天
 老兎寒蟾泣天色     老兎 寒蟾(かんせん) 天色に泣き

 雲楼半開壁斜白     雲楼 半ば開き 壁斜めに白し

 玉輪軋露濕團光     玉輪 露に軋(きし)りて 團光濕(うるほ)い

 鸞珮相逢桂香陌     鸞珮(らんばい) 相逢う 桂香の陌
(みち)
 黄塵清水三山下     黄塵 清水(せいすい) 三山の下

 更變千年如走馬     更變すること千年 走馬の如し

 遙望齊州九點煙     遙かに望めば 齊州九點の煙

 一泓海水杯中瀉     一泓(わう)の海水 杯中に瀉(そそ)ぐ

 
 年老いた兎(うさぎ)や寂しげな蟾(がま)が 天上で泣いている。
 雲の楼閣は半ばとびらが開き 壁は斜めに白く輝く。
 王の車輪は露に軋んで 球形の光が飛び散り、
 鸞や鳳の帯玉を着けた天人たちは 木犀の香る陌
(みち)を行き交う。
 黄塵と清水は 蓬莱山、方丈山、瀛洲山の三神山の下
 くるくると変化する千年も 疾走する馬のように一瞬のことなのだ。
 遙かに見おろせば中華全土は 九つのかすむ点に見える。
 澄みきった海水は 杯中に注がれている。


 

 李賀

 登濟南千佛山的中途、有一座牌坊、正面匾額上題著「齊煙九點」四個大字。站在千佛山上看得到濟南北邊的九座小山:匡山、粟山、北馬鞍山、藥山、標山、鳳凰山、鵲山、華不注山、臥牛山。

 濟南の千佛山を登る途中に一座の牌楼があり、正面の扁額には「齊煙九點」の四個の大きな字が書かれている。千佛山上に立ち止まると、濟南北邊の九座の小山を看ることができる。すなはち、匡山、粟山、北馬鞍山、藥山、標山、鳳凰山、鵲山、華不注山、臥牛山の九山である。

 この華不注山に関しては、孔子が編纂したと伝えられる魯の国の歴史書「春秋」の代表的な注釈書のひとつである「左氏傳」の成公二年(B.C.589年、周定王十八年、齊頃公十年、晉景公十一年)の項には、次のような記述があります。

 成公二年、齊の頃公が魯、衛を攻めたので、両国は晉に援軍を求めました。晉は齊の覇業を阻止するために、正卿・中軍の将郤克に戦車八百乗を率いて魯、衛に向かわせました。
 齊と晉の両軍は鞍(山東済南西北)に布陣して、六月十八日に激突します。
 晉軍の統帥郤克は矢に中って負傷し、血が足元まで流れましたが指揮を取り続け、兵を鼓舞して士気を揚げ続けました。そして、これに応えた晉軍は勇猛に突撃し、齊軍を大いに破りました。
 齊の頃公は晉軍に追われ、「華不注山」を三周して逃げ回ったと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:12Comments(0)国立故宮博物院

2007年12月30日

国立故宮博物院(7)-新莽嘉量

 

 新莽嘉量 故宮博物院

 (旧暦 11月21日)

 横光忌、利一忌  大正末期から昭和初期にかけて、新感覚派の天才と呼ばれて川端康成と共に文壇で活躍した小説家、俳人横光利一の昭和22年(1947)の忌日。

 盟友川端康成(1899~1972)は翌年1月3日に行われた葬儀の中で、次のような弔辞を述べ、早すぎる別れを惜しみました。

 君の名に傍(よりそ)えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を霑(うるお)すのをひそかに僕は感した。その恩頼は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛戴する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随って僕の亡びぬ時もやがて来るであろうか。
 (中略)
 君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と、最後に会った時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。


 「嘉量」とは古代中国で配布された容積の標準器のことで、春秋戦国時代(B.C.771~B.C.221)に現在の山東省を中心に存在した齊(せい、B.C.1046~B.C.386)という国で造られたものが最古であると云われていますが、狭義には、新代(8~23)の始建国元年(A.D. 9)に皇帝王莽(在位;A.D.8~A.D.23)の命により全国に配布された「新莽嘉量」(しんもうかりょう)のことを云います。
 
 前漢(B.C.206~A.D.8)の第11代元帝(在位;B.C.49~B.C.33)のあとは、第12代成帝(在位;B.C.33~B.C.7)、第13代哀帝(在位;B.C.7~B.C.1)、第14代平帝(在位;B.C.1~A.D.5)と暗愚あるいは幼少の皇帝による短い政権がつづき、実際に朝廷を支配したのは、第11代元帝の皇后王政君(B.C.71~A.D.13)であったと云われています。

 王莽(B.C.45~A.D.23)は、王皇后の甥として国政に参画し、政敵を次々と暗殺して政治の実権を握り、ついには14歳の第14代平帝(在位;B.C.1~A.D.5)を毒殺してその皇太子の孺子嬰(じゅしえい、A.D.4~ A.D.25、皇太子在位A.D.6~A.D.8)から禅譲をうけたとして帝位に就き、国号を「新」と改めました。
 
 帝位に就いた王莽は周代(B.C.1046頃~B.C.256)の治世を理想とし、新しい度量衡を定め、全国に配布しました。
 それが「嘉量」で、大きな円筒形のマス「斛(こく)」の左右に1つずつ小さなマス「升」、「合」がついた構造となっており、中央の大きなマス「斛(こく)」と小さなマスの片方「合」は上下がマス「斗」と「龠(やく、二分の一合)」となっており、もう片方の小さなマス「升」は上のみがマスとなっていて、このマス全てが標準器となっていました。

 新の度量衡は、前漢末から新にかけての天文学者劉歆(りゅうきん、?~B.C.23)の度量衡理論である「黄鐘秬黍(きょしょ)説」を元に、「黄鐘」という決まった音を出す笛を基準として定め、それを粒が均一な穀物である秬黍(きょしょ)の粒数で換算していました。
 容積の場合は黄鐘の笛1本分の容積を基礎とすることとし、笛に秬黍(きょしょ)がすり切りで1,200粒入ったことから秬黍(きょしょ)1,200粒分の容積を「1龠」(やく)とし、この「龠(やく)」を基礎単位に、「合」「升」「斗」「斛」(こく)の順で単位を定め、1合=2龠、1升=10合、1斗=10升、1斛=10斗としました。
 実際のアワ、キビによる実測では、1升が150.14g、1斗が1529.6gで、現行の日本の単位の約十分の一に相当するそうです。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:59Comments(0)国立故宮博物院

2006年04月16日

国立故宮博物院(6)−毛公鼎

 

 毛公鼎 故宮博物院

 (旧暦  3月19日)

 康成忌  小説家川端康成の昭和47年(1972)の忌日。

 毛公鼎(もうこうてい)は、清朝末期の道光30年(1850)に陝西省岐山県で出土した高さ53.8㎝、口径47.9㎝、重さ34.7㎏の西周晩期の銅器で、その内面には32行、497文字の銘文が刻まれています。

 その銘文の内容は、周の宣王(B.C.827〜B.C.782)の時代に王の叔父にあたる毛公という人が王から国政の全権を委託され、その功績によって銅器、玉器、馬など数々の恩賞を賜ったため、鼎を鋳して子々孫々に伝え永遠の宝としたと云うものです。

 毛公鼎は出土後多くの人の間を渡り、1941年には上海で売りに出されて日本人も購入しようとした経緯があるようですが、結局中国人が黄金三百両で買い取り、中華民国政府に納められて故宮博物院に入りました。

 古代中国において鼎は、王位や権威の象徴とされていました。史書に最初に現れる宝物は神鼎、宝鼎、九鼎(きゅうてい)です。

 聞く、昔、大帝(史記の伝える三皇五帝の最初の伏犠氏)、神鼎(しんてい)一(いつ)を興せりと。一(いつ)とは一統(天下統一)なり。天地萬物の終(をはり)を繋(か)くる所なり。黄帝(史記の伝える五帝の最初の帝王)、宝鼎三を作れり。天地人を象(かたど)るなり。禹(う:中国古代の伝説的な帝で、夏王朝の創始者)、九牧(九つの地方の長官)の金(銅)を収めて九鼎を鑄(い)たり。皆嘗(かつ)て上帝鬼神に鬺烹(しやうほう:いけにえを煮て祀る)せり。
 [史記 孝武本紀第十二]


 中国では、漢代以前は銅のことを金と呼んでいました。三皇五帝の後に夏王朝を創始した帝王禹は、冀州、沇州、豫州、靑州、徐州、揚州、荊州、梁州、雍州の九州の長官である九牧の献上した金(銅)を収めて九鼎を鋳造しました。
 この青銅製の九鼎こそ、夏に始まり殷(商)周(西周)三代の宗廟(祖先の霊を祀ってあるところ)の国宝となったもので、国家の最も重要な宝器、王朝継承の証拠となる重宝として伝えられました。
 日本で云えば、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の三種の神器といったところでしょうか。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:23Comments(0)国立故宮博物院

2005年09月17日

国立故宮博物院(5)−大禹治水図玉山(2)

 

 大禹治水圖玉山

 (旧暦  8月14日)  牧水忌 歌人・牧水若山繁の昭和3年(1928)の忌日

 大禹治水図玉山(1)のつづき

 清朝の記録によれば、この巨大な玉の原石は、乾隆帝の勅命により新疆の密勒塔(ミーローター)山から掘り出されました。そして新疆から北京までの約1万kmの距離を新たに道を開き、河には橋を架け、冬の間に道を凍らせて、車幅12mもの特大の運搬車で数百頭の馬と1000人近い人夫が3年かけて運んだと記録されています。

 乾隆帝は王宮に伝わる宋代以前の作とされる『大禹治水図』が色褪せて劣化したことを惜しみ、中国古代の伝説的な帝王「禹」(う、2070BC頃)の治水事業の功績を後世に伝えるために、この巨大な玉に絵画の構図をそのまま刻むことを思いついたと云われています。

 中国夏王朝の始祖とされる伝説上の人物「禹」は、司馬遷の『史記 夏本紀第二』の記述によれば、これも中国古代の伝説的な帝王「舜」の治世に起こった大洪水の治水に失敗した父親鯀(こん)のあとを受けて、非常な困難を克服してついに洪水を治め、天下を九州に分割して開拓し、以て版図を定めました。「禹」はその功により舜から帝位を譲られて夏王朝を開きました。

 この「禹」治水の記録は、『書経 禹貢編』他、『史記 夏本紀第二』、『漢書 地理志』等に残されていますが、いずれにせよ、古代の大土木技術者にして、大指導者であったことは確かです。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:26Comments(0)国立故宮博物院

2005年09月16日

国立故宮博物院(4)−大禹治水図玉山(1)

 

 大禹治水圖玉山 北京故宮博物院

 (旧暦  8月13日)

 古代中国においては、玉は特別な意味を持っていました。ここでいう玉とは、軟玉(ネフライト:nephrite)のことで、角閃石の一種で化学組成はCa2(Mg, Fe)5Si8O22(OH)2 、色は白色ないしは葉緑色〜暗緑色です。
 
 「玉石混淆」という言葉がありますが、後漢の許慎(58?〜147?)が撰し、第4代皇帝和帝(在位88〜105)の英元12年(100)に完成した中国最古の字典『説文解字』によれば、玉とは「石の美しきものなり」とあります。

 前漢の袁康が撰した越(浙江地方)の『越絶書・外伝宝剣第十三』には、玉がどの時代に何の目的で用いられるようになったかが記述してあります。
  「・・・黄帝の時、玉を以て兵と為し、樹木を伐りて官屋と為し、地を鑿(うが)つ。」
 黄帝とは、『史記・五帝本紀』に記述された伝説の帝王で、イメージ的には新石器時代の天子という強引な解釈もあるようです。

 玉は石とは違って、内面からにじみ出る「徳」という美を持っていなければならないとされていました。
 周代(1046BC頃〜771BC)から漢代(206BC〜220)にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物に『禮記』(らいき)があり、その聘義(へいぎ)第四十八に、玉に関する孔子とその弟子子貢との問答が記載されています。  続きを読む

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2005年06月12日

国立故宮博物院(3)−端渓・蘇軾従星硯(宋代)

 

 従星硯

 (旧暦  5月 6日)

 中国では、筆・硯・紙・墨を文房四宝あるいは文房四侯と云い、理想的な書斎に理想的な品々が揃えられて初めて、文人の理想の環境が整うと云われてきました。
 またさらに、鎮(文鎮)・印・硯滴(水滴)・筆架(筆かけ)を加えて、文宝八宝とも呼ぶようです。

 現在のような油煙のススの墨を使うようになったのは、漢代(紀元前3世紀〜)以降とされています。漢の時代には、油煙の墨は大変貴重なもので、侍従以上の高官に月一塊ずつ支給されたそうですが、当初は油煙の塊を石に載せ、水でこねて溶かしていたようです。
 
 やがて油煙を膠で固めた墨が発明され、硯が必要になってきました。
 硯には粘土を焼いた瓦や、石の粉末を練って焼成したものなどが使われ、5世紀ごろの魏の時代に墨が円柱形になり、手で持って摺るようになって、硯に墨液を溜めて置く墨池がつくられ、泥土で造られた陶硯が多くなりました。

 唐代の半ば8世紀後半になって広東省の端渓、晩唐の10世紀前半には安徽省の歙州(きゅうじゅう)などから天然の硯材が発見されて、有名になりました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:50Comments(0)国立故宮博物院

2005年02月20日

国立故宮博物院(2)-象牙多層球(清代)

 

 象牙多層球

 (旧暦  1月12日)

 多喜二忌 「蟹工船」などで知られるプロレタリア文学作家、小林多喜二の昭和8年(1933)の忌日。特高警察の拷問により築地署内において凄惨な拷問を受け虐殺された。
              
 鳴雪忌、老梅忌  俳人・内藤鳴雪の大正15年(1926)の忌日。

 象牙は古くから装飾品に用いられ、周代(紀元前1046年頃〜紀元前256年)の官制を伝える『周礼(しゅうらい)』には、文物を作る「八材」として、真珠、象牙、玉、石、木、金、革、羽の8種を挙げています。

 儀式などの手に持つ笏(しゃく)も、皇帝は玉、諸侯は象牙、大夫以下は鯨のヒゲか竹と決められていました。

 おじゃる丸(NHK教育テレビのアニメの主人公)が持っているエンマ大王の笏は、ピンク色なので、何製かはよくわかりませんが・・・  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:51Comments(1)国立故宮博物院

2005年01月27日

国立故宮博物院(1)−『翠玉白菜』

  

 The Jade Cabbage, formerly at the Forbidden City and now at the National Palace Museum, Taipei from Wikipedia.

 (旧暦 12月18日) 

 實朝忌

 『翠玉白菜』は、天然の緑の翡翠と白の翡翠が混合した原石を、巧みに利用して作られた繊細な彫刻で、翠玉巧彫の最高傑作と言われています。
 故宮博物院(台北)に来たら絶対に見逃せない収蔵品の一つです。

 私「嘉穂のフーケモン」も、平成10年(1998)11月、経団連主催の企業研修の一環として、モンスーンで大荒れの東シナ海を香港から郵船クルーズの客船「飛鳥」で横断し、台湾の基隆港に上陸して早速見学に行きました。

 『翠玉白菜』は、もともとは北京の紫禁城永和宮に陳列してありました。
 永和宮とは清朝の末期に、清朝第11代皇帝・光緒帝(1871〜1908)の妃「瑾妃」が住んでいた宮殿で、『翠玉白菜』は「瑾妃」が光緒帝の秀女として参内してきたときに共に永和宮へやって来ました。

 永和宮では花形の小さなエナメル製の器に陳列してあり、またより美しく見せるために根元のところに小さな赤い珊瑚霊芝をあしらえてありました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 00:36Comments(0)国立故宮博物院