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2017年10月30日

奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷

  

    尾崎紅葉(1968〜1903)    


  (旧暦9月11日)

  紅葉忌、十千萬堂忌
  小説家尾崎紅葉(1968〜1903)、明治三十六年(1903)の忌日。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千萬堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸
  芝中門前町生まれ。帝国大学国文科中退。明治十八年(1885)、山田美妙(1968〜1910)らと硯友社を創立し、「我樂多文庫」を創刊。明治二十二年
  (1889)、『二人比丘尼色懺悔』が出世作となる。のち読売新聞社にはいり、言文一致体の『多情多恨』、『金色夜叉』(未完)などを連載し人気作家となる
  も、胃がんのため自宅で歿した。享年三十七。


        一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒萬子爲出會也。□談ジテ歸テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申
            刻着、宿。夜中、雨降ル。
                『曾良旅日記』


  旧暦八月五日(陽暦九月十八日)、八泊九泊にわたって山中温泉で旅の疲れを癒やした芭蕉翁は、昼自分に世話になった泉屋の若主人久米之助(桃夭)に、
        湯の名殘今宵は肌の寒からむ
との留別の句を贈りました。
  芭蕉翁は立花北枝を伴って那谷寺を経て、生駒重信(萬子)と対面するために、再度、小松へ訪れることにしました。
  一行は山代温泉へ戻り、上野、森、勅使、榮谷を経て那谷寺に向かいました。

  那谷寺からは小松へは、二里半の行程でした。芭蕉翁一行は、この日は小松に戻っただけで、生駒重信(萬子)と会ったのは翌日のことと思われます。小松での宿は不明ですが、書簡を送ってくれた俳人塵生(村井屋又三郎)宅であったのか。

  体調を崩していた曾良は、芭蕉翁一行を見送った直後に、泉屋久米之助の菩提寺である加賀大聖寺の全昌寺へと出立し、申刻(午後四時頃)に到着しました。

  曹洞宗の全昌寺は山中温泉で宿泊した泉屋の菩提寺で、当時の住持三世白湛和尚は泉屋久米之助の叔父であったため、久米之助の紹介で爰に宿泊したものと思われています。

        〈那 谷〉
        山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせたまひて後、大慈大悲の像
        を安置したまひて、那谷と名付たまふと也。那智・谷組の二字をわかちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上
        に造りかけて、殊勝の土地なり。
                石山の石より白し秋の風


        ○山中の温泉
            加州江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。

        此温泉を紫雲湯ともいひ、白鷺湯ともいへるよし。むかし長のなにがし此所に鷹狩し給へるに、しら鷺の足ひたしてその疵いえたりといふ亊、
        旧記に傳れば、いふなるべし。
                『東西夜話』(元禄十五年刊)各務子考


        江沼郡山中の温泉は、天平年中、行基ぼさち北國巡歴のみぎり、霊泉あることをさぐり、一宇をひらき、醫王山國分寺と號け、そのうへ、塚谷
        の郡司加納遠久といふものに命じて温泉をまもらしめてよりこのかた、功験世に越て諸病を治す。されど霜ゆき星くだちて、終に廢地となる。
        しかるに、治承の春、長谷部の信連、此ところに狩したまふに、白鷺矢疵をかうむりしが、この温泉に彳み補ひけるを見て、霊泉あることをし
        り、再び國分寺を志立ありて白鷺の湯と呼びたまひしより、今に盛んにして、遠近の客夜につどひ、北國第一の繁榮こゝにあらはる。名品に
        は、湯漬艾、桑のねぶりこ、木地細工のうつりもの、さまざま美作をつくす。そのほか、胡蒐の實、かた子、山の薯、煎茶などを製す。又、十
        二景の佳所あり。道明が淵、桂淸水など、面白きところなり
                『北國奇談巡杖記』(文化四年刊) 鳥翠臺北巠

        ○白根が嶽
            白山火山帯の主峰、最高頂御前峰は標高二七○二メートル。白山神社を祀る。歌枕としては、白山(しらやま)の名で知られ『類字名
            所和歌集』には以下二十一首が収められている。

                古今    別        よそにのみ戀ひやわたらん白山の    ゆきみるべくもあらぬわが身は          躬恒
                同                   君が行く越の白山しらねども    雪の随に跡は尋ねむ                 藤原兼輔朝臣


    

        『類字名所和歌集』巻六 白山

        ○観音堂
            流紋岩(rhyolite)と角礫岩(breccia)よりなる岩山の洞窟の中に十一面千手観世音菩薩像を安置し、洞窟前に堂を設けたもので、養
            老元年(717)越の大徳と称された修験道の僧泰澄(682〜764)の創建にかかり、自生山巖谷寺と号したが、寛和二年(986)花山
            法皇(968〜1008)行幸の折に那谷寺と改めた。その後南北朝(1036〜1092)の戦乱で荒廃したが、寛永十七年(1640)に加賀藩
            第二代藩主前田利常(1594〜1658)によって再建された。

        ○花山の法皇
            第六十五代花山天皇(在位984〜986)。永観二年(984)十月十日、十七歳で即位するも、在位二年にして寛和二年(986)六月二
            十三日払暁、密かに禁裏を出て東山花山寺(元慶寺)で出家した。
            突然の出家については、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因としているが、『大鏡』で
            はさらに、右大臣藤原兼家(929〜990)が、外孫の懐仁親王(一条天皇:在位986〜1011)を即位させるために陰謀を巡らしたこと
            を伝えている。

            法皇となった後には、奈良時代初期に大和国長谷寺の開山徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂
            津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。
            この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されている。

    
        
        第六十五代花山天皇    月岡芳年「花山寺の月」    (明治23年)

        ○三十三所の順礼
            観世音菩薩が衆生化益のために身を三十三体に現したとする「法華経観世音菩薩普門品」の教説に基づき、観世音菩薩を奉祀する三十
            三ヵ所の寺院を巡礼すること。平安末期に始まり、鎌倉期までは僧侶によって行われたが、南北朝以後、俗人の参加する者が多くなっ
            た。

            室町末期から近世にかけて固定した順路は、一番那智山青岸渡寺に始まり、紀伊、和泉、河内、大和、山城、近江、攝津、播磨、丹
            後、丹波、美濃の十一ヵ国を巡って、美濃谷汲山華厳寺に終わる。近世に至り、板東、秩父などの三十三所順礼が行われ出してから、
            前の順路を西国三十三ヵ所と称するに至った。

        世ニ観音ノ霊場ヲ尋ネテ三十三處ニ詣ズ、之ヲ巡礼ト謂フ。(中略)相傳ふ、寛和法皇其ノ端ヲ啓クト
                『塩尻』 曼荼羅講寺沙門炬範筆記 原、漢文


        花山院御發心の後、國々を御修行ありし、是始なるべし。今の三十三所観音順礼も此法皇より權輿す
                『河内國名所鑑』葉室佛現寺


とあるように、近世における通念となっていたが、

        相傳フ、崋山ノ法皇、霊夢有ルヲ以テ、長徳元年三月十七日始メテ熊野ニ詣デ、六月朔日谷汲ニ至ル。△按ズルニ、法皇順礼ノ亊、史傳ニ載セ
        ズ。〈唯機内近國行旅ヲ謂フナリ。此ノ時熊野處々御参詣有ルカ。恐クハ三十三所ニ拘ハルベカラザルナリ。〉好亊ノ者、後ニ序次ヲ定ムル者
        カ。順礼は當ニ巡礼ニ作ルベシ。順逆ノ義ニ非ズシテ巡行ナリ
                『和漢三才圖繪』 西國三十三所順礼 原、漢文


と弁ずるごとく、根拠なき俗説とみるべきとされている。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:31Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月26日

奥の細道、いなかの小道(37)− 山中

    
   
        山  中

    (旧暦9月5日)

           一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆
               尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予、北枝随レ之。
                『曾良旅日記』


  旧暦七月二十七日(陽暦九月十日)、芭蕉翁と河合曾良そして同行している立花北枝は小松諏訪社(菟橋神社、小松市浜田町)の祭礼(西瓜祭)を見物し、巳ノ上刻(午前九時頃)に山中温泉に向かって旅立とうとしていたところ、斧卜、志挌らが来て引き止めましたが、さすがに今度は断って出立しました。
 
  途中、多太神社に再度立ち寄り、芭蕉は奉納の句を詠じ、曾良、北枝も芭蕉に倣いました。

            多田の神社にまうでゝ、木曾義仲の願書并實盛がよろひかぶとを拝ス
                    あなむざんや甲の下のきりぎりす                翁
                    幾秋か甲にきへぬ鬢の霜                          曾良
                    くさずりのうら珍しや秋の風                        北枝
                        『卯辰集』


  芭蕉翁一行は多太神社を参拝後、山中の温泉(いでゆ)に向かいました。『曾良旅日記』では直接山中に向かっていますが、『おくのほそ道』本文では、那谷寺に参詣してから山中に向かったように順序が入れ替わっています。

            一 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
                『曾良旅日記』


  小松城下から北國街道を南下し、一里ほどで今江に至ります。さらに串茶屋、串を経て進むとかつての柴山潟の舟付き場であった月津で、当時の柴山潟は現在より約四倍近くの広さを持った潟湖でした。今江潟、木場潟とともに加賀三湖と呼ばれていましたが、戦後、今江潟と柴山潟の約六割が干拓されて、主に農地として利用されています。

  月津から高塚を過ぎ、柴山潟に流れ込む動橋川に架かっていた橋は一本橋で、渡る際に不安定に揺れたため動橋(いぶりばし)と呼ばれていました。橋を渡って動橋宿を過ぎてから北國街道を離れ、庄、七日市、西島を経て山代温泉に至ります。さらに、河南に出て、大聖寺川左岸と平行する山中道を南下し、二天、中田、上原、塚谷を経て一行が山中の出で湯についたのは、申ノ下尅(午後五時頃)でした。一行は、泉屋(和泉屋)久米之助方に宿をとりました。小松から約六里の行程でした。
  一行が山中の出で湯を訪れたのは、病気の曾良を養生させ、芭蕉自身も長途の旅の疲れを癒やすためでした。
    
                〈山 中〉
                温泉に浴す。その功有明につぐといふ。
                    山中や菊はたおらぬ湯の匂
                あるじとするものは久米之助とていまだ小童なり。かれが父誹諧を好み、洛の貞室、若輩のむかしここに來りし比、風雅に辱
            しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、この一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
                曾良は腹を病て、伊勢の國長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行くに、
                    行行てたふれ伏とも萩の原        曾良
            と書置たり。行くものゝ悲しみ、殘るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
                    今日よりや書付消さん笠の露


            ○温泉(いでゆ)
                加賀國江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。山中の出で湯は、「総湯」の菊の湯を中心に大聖寺川渓谷に沿って
                旅館が建ち並んでいる。天平年中(729〜749)、僧行基(668〜749)によって湯が開かれたと伝えられているが、その
                後、承平の乱(平将門の乱:935〜940)のために途絶えてしまった。文治元年(1185)、源頼朝(1147〜1199)から
                能登国珠洲郡大家荘を新恩給与され、地頭職へ補任された長谷部信連(不詳〜1218)が、鷹狩りの際此の山に入り、傷ついた
                一羽の白鷺が流れに足を浸しているのを見てその下の温泉をみつけ、再興したとしたと伝えられている。

                此のとき、長谷部信連が湯ザヤ(総湯)の周辺に家臣十二人を住まわせたのが、湯本十二軒の始まりだと云われている。芭蕉
                翁一行が宿泊した泉屋(和泉屋)は、草創期から温泉宿を営む十二軒の内の一軒で、当主久米之助は十四歳の少年であっ
                た。俳人でもあった叔父の自笑が後見しており、芭蕉らはこの自笑の招きで泉屋に泊まったものと考えられている。 

            ○有明
                有馬の誤り。摂津の有馬温泉をさす。

            吾國六十よこくの中に、ありとある温場は、普く此二神(大己貴命、少彦名命)の御恵なるべし。それ
            が中にも此温場、世にすぐれたる亊、親りに明かなり。(中略)行幸ありしは舒明天皇三年の秋、同じき十年の冬、又、孝徳天皇の三
            年の冬なりとかや。されば釋の行基、昆陽寺より爰に徘徊せし時、藥師如來、病人と現じ奇特を告げ給うふによて、湯槽をかまへたり
            となむ
                    『有馬名所鑑』


            ○久米之助
                本姓は長谷部氏、和泉屋甚左衛門(1676〜1751)の幼名。この時、芭蕉から桃靑の「桃」を取って桃夭の号を与えられ
                た。

                    加賀山中桃夭に名をつけ給ひて
                桃の木の其葉ちらすな秋の風
                    『泊船集』


            ○かれが父 
                長谷部又兵衛豊連。延寶七年(1679)没。

            洛の安原氏貞室は中年迄はいかいを知ず。一とせ加州山中の湯主いづみや又兵衛といふものに恥しめら
            れ、歸洛して貞徳の末の門人と成。志あつくして終に此人に花の本を譲り、貞室と名乗る
                    『歴代滑稽傳』(正徳五年)

            武矩主は貞室叟に教へ、桃夭主は祖翁に習ふ
                松高き風にさらすや蝉の衣                幾暁
                    『百合野集』(寛延四年)


            ○貞室
                安原正章(1610〜1673)、通称鎰屋彦左衛門。別号、一嚢軒、腐誹子。京都の生まれで、紙商を営む。幼少より貞徳の門に
                出入りし、慶安四年(1651)四十二歳にして貞徳より俳諧の点業を許され、承應二年(1653)師の貞徳が没するや、政治的
                手腕をもって貞門の主導権を握り、翌年、正章より貞室と改号して貞徳二世を名乗った。

            貞室若クシテ彦左衛門ノ時、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衛ニ被レ進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、一兩年過テ、名人トナ
            ル。來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習レ之。以後山中ノ俳、点領ナシニ致遺ス。又兵ヘハ、今ノ久米之助祖父也。
                    『俳諧書留』

            ○風雅に辱しめられて
                俳諧の道で恥辱を受けて。

            予、少年の頃、厳父君、飛驒の吏たりし時、彼國へ陪し、數年遠く遊ぶ亊有。此國、加州と隣なれば、此雑談を里人に聞けり

            貞室は都の商人にて、俗名は鍵屋彦左衛門といへり。口碑に傳る所、都より年々三越路あるは加賀國に往來ふ商客也。然るに此山中へ
            も時々売買に依て來る亊有しに、山中の俳士共打寄て俳諧興行有。宿なれば、彦右衛門をも進めていふ、都人なればさぞな貞徳の門人
            などにてやあらん、いざゝせ給へ、など進めけれども、都に生まれて貞徳の名さへ知らぬ程の不風雅の商客なれば、甚ダ赤面して其席
            を断退ぬ。彦右衛門つらつら思ふに、かく辺鄙の人すら、風流の道は知りぬるに、いかなれば帝都に生まれて斯拙きゆへ、田舎の人に
            恥ずかしめを請る亊よ、と深く我身歎息して、帰京の後、本文の通、我産業を投げうち、貞徳の門人と成て、終に高名の人とはなりぬ
                    『奥のほそ道解』(天明七年) 後素堂(馬場錦江)


                宿で俳諧を勧められたが、その心得がなかったということか。

                しかし、貞室は幼少時より貞徳に親近し、遅くとも寛永二年(1625)十五歳の時には貞徳の私塾に入門し、寛永五年
                (1628)十八歳のころから俳諧を学び始めている。もし、この口碑のような事実があったとすれば、十五ないし十八歳以前の
                ことになるが貞徳の俳諧の初会が寛永六年(1629)のことであり、俳諧の全国的な流行の機運の興る以前のことであるなら
                ば、こうした事実の起こりうる可能性は希有と思われ、貞室の盛名に付会した説話と見なされている。

            ○貞徳
                松永勝熊(1571〜1653)、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種(1538〜1598)は摂津
                高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹
                巴(1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多く
                の良師を得て、古典、和歌、連歌などの素養を身につけた。

                二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とす
                る。慶長二年(1597)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年
                (1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳
                諧の興隆に貢献した。
                家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。
  
    

        松永貞徳(1571〜1653)

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:13おくの細道、いなかの小道

2017年10月17日

数学セミナー(31)− ロバートソン・ウォーカー計量(1)

  

  

  Diagram of evolution of the (observable part) of the universe from the Big Bang (left) - to the present.

 (旧暦8月28日)

  神嘗祭
  昭和22年(1947)までの祭日。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては旧暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授
  け、旧暦9月17日(旧暦)に奉納した。明治6年(1873)の太陽暦採用以降は新暦の9月17日に実施となったが、稲穂の生育が不十分な時期であるため、明
  治12年(1879)以降は月遅れとして10月17日に実施されている。


  観測可能な宇宙、少なくとも距離にして約3億光年よりも遠い宇宙では、どの方向を見ても同じように見えます。
  この等方性は、宇宙マイクロ波背景放射(cosmic microwave background (radiation):CMB)においては更に正確になります。

  宇宙マイクロ波背景放射(CMB)は、宇宙を一様に満たす2.73K(-270.42℃)の黒体放射のことで、1964年にアメリカ合衆国の当時のベル電話研究所
  (Bell Laboratories)のアーノ・アラン・ペンジアス(Arno Allan Penzias, 1933〜)とロバート・ウッドロウ・ウィルソン(Robert  Woodrow  
  Wilson,1936〜 )によってアンテナの雑音を減らす研究中に偶然に発見されました。

  

  Penzias and Wilson stand at the 15 meter Holmdel Horn Antenna that brought their most notable discovery.

  現在では、ビッグバン宇宙論の最も重要な観測的証拠とされています。

  初期宇宙の気体を構成する分子が部分的または完全に電離し、陽子と電子に別れて自由に運動しているプラズマ状態では、放射は陽子や電子などの荷電粒子と頻繁に衝突を繰り返し、放射と物質は一体となって運動していました。

  温度が約4,000 K (3,726.85℃)に下がった時、陽子が電子を捕獲して中性水素原子を作った結果、放射は物質と衝突せずまっすぐ進めるようになり、この時の放射が宇宙膨張によって波長が伸びて、現在2.73K(-270.42℃)の放射として観測されたのが宇宙マイクロ波背景放射であると説明されています。

  

  All-sky mollweide map of the CMB(cosmic microwave background), created from 9 years of WMAP(Wilkinson Microwave Anisotropy Probe) data.

  さて、宇宙が等方性をもち、かつ一様であるという仮定により、時空の計量(リーマン幾何学において、空間内の距離と角度を定義する階数2のテンソル)が単純な形となる座標系を選ぶことができます。

  この計量は、1922年、旧ソビエトの宇宙物理学者・数学者のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・フリードマン(Александр Александрович Фридман, 1888〜1925)が、アインシュタインの場の方程式の解として、膨張宇宙のモデルを定式化したことで知られています。

  

  Alexander Alexandrowitsch Friedmann(1888〜1925)

   1924年1月7日にブリュッセル科学アカデミーによって出版されたフリードマンの論文 “Über die Möglichkeit einer Welt mit konstanter negativer Krümmung des Raumes”『負の定数曲率を持つ宇宙の可能性について』において彼は、正、ゼロ、負の曲率を持つ3つの宇宙モデル(フリードマンモデル)を取り扱っています。

  



  やはり、1920年代に、アメリカ合衆国の数学者・物理学者ハワード・ロバートソン(Howard Percy Robertson、1903〜1961)とイギリスの数学者アーサー・ジョフリー・ウォーカー(Arthur Geoffrey Walker、1909〜2001)は、別々に、等方性と一様性の仮定のみから、アインシュタインの場の方程式の解を導いています。

  


  したがって、ほぼ全ての現代宇宙論においては、最低でも第1近似として、このロバートソン・ウォーカー計量を用いているとされています。

  ロバートソン・ウォーカー計量においては、3次元空間の構造は以下のように仮定します。
    ①3次元空間は、一様(homogeneousu)に広がっている
    ②3次元空間は、どの方向も同じ(等方的:isotropic)


  これら2つの仮定は、宇宙原理(cosmological principle)と呼ばれています。

  物理学では時空のひとつの点を表すのに、4つの座標を用います

  

  前にも示したように、計量テンソル(metric tensor)は、リーマン幾何学において、空間内の距離と角度を定義する階数2のテンソルです。
  ここで宇宙の計量を、

  

とおきます。
 
  物理法則がすべての可能な座標系に対して同一の形式で成立するためには、一般相対性理論(Allgemeine Relativitätstheorie)では、

  

  これは、宇宙原理(cosmological principle)に従うと、任意の点のまわりで球対称にならなければならないので、以前、シュバルツシルト(Karl Schwarzschild:1873〜1916)の特殊解を求めた時と同じように、球対称で自転せず、かつ真空な時空という条件は、以下のようになります。

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2017年10月14日

奥の細道、いなかの小道(36)− 小松

 

 (旧暦8月25日)

  

      小松おくの細道マップ

    〈小 松〉
          小松といふ所にて 
        しほらしき名や小松ふく萩すゝき
    この處、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返し
    まで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし亊
    共、まのあたり縁記にみえたり。
        むざんやな甲の下のきりぎりす


    ○太田の神社
        多太神社。現在の小松市本折町にある延喜式内社。祭神は、衝桙等乎而留比古命、仁徳天皇、應仁天皇、神功皇后、比咩大神、軻遇突智神、蛭
        児命、大山咋命、素盞嗚命、継体天皇、水上大神。

    抑当社多太八幡宮ハ、元正天皇御宇、養老二年の御鎮座にて、壽永二年五月、(中略)義仲卿当社へ御参詣、御祈禱のため、社領蝶屋の庄御寄付。(中
    略)慶長年中、小松の城主丹羽長重朝臣より当社の領に能美郡舟津村を寄付し給ふ。長重奥州へ移り給て後、元和二年、小松黄門公より御印物を以、同
    郡三日市村の内にて御寄付也
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○真盛
        長井別當斎藤実盛(1111?〜1183)。山蔭利仁流、越前国河合荘南井郷を支配していた河合斎藤次郎則盛の子として生まれ、長じて武蔵国長
        井斎藤籐太實直の養子となり、養父の「實」と実父の「盛」の字をとって「實盛」と名乗る。
        初め左典厩源義朝(1123〜1160)に仕えて保元の乱、平治の乱に従軍したが、義朝滅亡後、母方の縁で平宗盛(1147〜1185)に仕え、壽永
        二年四月、木曾義仲追討の戦の出陣に際しては、宗盛より錦の直垂の着用の許しを請い、白髪を染めて奮戦し、加賀篠原で木曾義仲の臣、手塚
        太郎光盛(不詳〜1184)の手にかかって討ち死にした。

    

      『前賢故実』による斎藤實盛

    真盛ハ、〈或ハ實盛ト書ス〉斎藤別當ト號ス。越前ニ生ル。始ハ、源義朝ニ属シ、後ニ平宗盛ニ随ヒ、加州篠原ノ合戰ニ死ス。出生ノ地ハ、吾ガ住
    ム丸岡ヨリ十町余北ニ長畝ト云フ村アリ、此地ニテ生ルト云フ。今、真盛屋敷〈今、竹林トナル。廻リ一里バカリ。〉産湯池ナド云フ蹟アリ。篠原
    モ今、村名トナル。加州大聖寺驛ヨリ三里許西北ノ海邊ナリ。村ノ西、松林ノ中ニ真盛塚アリ。其北入江ノ中ニ首洗池ノ蹟ト云フアリ。
        『奥細道菅菰抄』


    ○甲   
        銘、鏤菊。明治三十三年国宝、昭和二十五年に重要文化財に指定。甲はよろいの義で、かぶととするのは和の俗訓。
  
    甲ハ本、冑ノ字、兜ノ字等ヲ用ユベシ。〈鉀ノ仮音ナリ〉和俗、甲冑ノ二字ヲ涀等して顚倒シテ用ユル亊久シ
        『奥細道菅菰抄』


    鎧甲 二字の義同ジ。然ルニ日本ノ俗、甲呼テ冑ノ讀ト爲ス、大ニ誤歟。或ハ天下ノ勝亊ヲ呼テ天下ノ甲ト曰フ者、義、甲乙ノ甲ニ取ル。甲冑ノ甲
    ニ非ズ。
        『下学集』(原漢文)


    茲利仁將軍之末葉實盛、乃越前國之賢君子也。文思武威、炫輝于一世、先是義朝贈以鍵菊甲、褒美之。當此時、義朝守國日殘、賊徒鋒起。實盛輒戴  
    所受甲殺精鋭之兵七千余人、以報恩。
        『木曾義仲副書』

    茲ニ利仁將軍之末葉實盛ハ乃チ越前ノ國之賢君子也。文思武威、一世ニ炫輝ス。是ヨリ先、義朝贈ルニ鍵菊ノ甲ヲ以テシテ、之ヲ褒美ス。此時ニ當
    タリテ、義朝國ヲ守ルコト日殘ク、賊徒鋒起ス。實盛輒チ受クル所ノ甲ヲ戴キ、精鋭之兵七千余人ヲ殺シテ、以テ恩ニ報ズ。


    各甲冑根元は、多田満仲公より源家累代御傳來、實盛へは平治の亂の節義朝公より拝領のよし、即ち各願状にも其趣あり
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○錦の切
        錦は金糸および諸種の彩糸を紋織りにした厚地の絹織物。切れはその断片で、もと實盛が平宗盛より直垂として下賜されたものという。

    錦の直垂〈此直垂は京都出陣の砌、平宗盛卿より拝領也〉
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    鎧直垂は、大將平士に通じて是を用ひ、錦は大將に限りしこと、古今同じきならん
        『柳葊雑草』巻二


    錦ノ帛ハ、宗盛ヨリ真盛ヘ賜ル所ノ赤地錦ノ直衣ノ切ナリ。本ハ直衣ノママニシテ義仲ヨリ奉納有リシヲ、イツトナク切リ取リシ由、今ハ僅ニ縦二
    尺、横一尺許ノコル。織文ハ白萌黃ナドニ金ヲ雑テ、雲文、鳥文アリ
        『奥細道菅菰抄』


    ○義朝公
        左典厩源義朝(1123〜1160)、河内源氏の一族、六条判官源爲義(1096 〜1156)の長男。源頼朝(1147〜1199)の父。保元の乱  
        (1156)に後白河法皇(1127〜1192)に味方して、乱後左馬頭になったが、平清盛(1118〜1181)の勢威の上がるのに不満を抱き、悪右
        衛門督藤原信頼(1133〜1160)と結んで平治の乱(1160)を起こし敗北、尾張野間の長田庄司忠致(不詳〜1190?)のもとで謀殺された。

    

        『平家物語絵巻』 平治の乱で敗走する義朝一行。


    ○龍頭  
        兜の前面中央の立物(飾り金具)で、龍の頭の形をしたもの。

    龍頭の冑とイフ物、後三年ノ戰ノ日、八幡殿ノツクラレシ八龍の冑ニヤ始マリヌラン。保元の時義朝ノ着セラレシ龍頭ノ冑、スナハチ此ノ物也
        『本朝軍器考』 新井白石


    ○鍬形
        兜の前面左右の立物。

    鍬形トイフ物ハ、澤潟ノ葉ノイマダ開カヌ形ヲカタドレル也、オモダカトイフ物ハ、勝軍草トモイフナレバ、鎧ニモ澤潟縅ナドイフアリトイヘル説ア
    リ。マコトニ其ノ形ハヨク似タレド、カゝル名モアリケリトイフ亊イマダ見ル所ナケレバ、イブカシ。蝦夷人ノ寶トスル鍬サキト云フアリ。國ノ人病ス
    ル時、其ノ枕上ニ立テ災ヲ攘フ物也ト云フ。其ノ形、我ガ國ノ鍬形ノ制ナル物也。サラバ我ガ國ノ昔ヨリ此ノ物ヲ冑ノ物ニ立テシ亊モ、必ズ其ノ故アル
    ベケレド、今ハ其ノ義ヲ失ヒシニコソ
        『本朝軍器考』 新井白石


    くはがたは、くわゐと云ふ草の葉の形なり。くはへと取りなして、物のくはゝり増すこゝろにて、祝の義にて、古よりもちひ來れるなり。立物
    は皆金にてみがくべし。鍬形の長さ一尺二寸、但、人の器量により長くも短くもすべし。不定
        『軍用記』 伊勢貞丈


    ○木曾義仲
        源義仲(1154〜1184)、河内源氏の一族、東宮帯刀先生源義賢(不詳〜1155)の次男。久壽二年(1155)八月、武蔵国比企郡大蔵(比企郡
        嵐山町)において鎌倉悪源太源義平(1141〜1160)の弑逆により父義賢を失ったが、秩父氏の一族、畠山重能(生没年不詳)の庇護を受け、
        乳父である権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。
    
        治承四年四月、叔父の新宮十郎源行家(1141頃〜1186)より以仁王(1151 〜1180)の平氏追討の令旨を受け挙兵、壽永二年(1183)三月
        越後國府を進発して、五月倶利伽羅の険を突破、七月入京して平氏を西国に追い落としたが、朝野の人望を失い、壽永三年正月二十日、蒲冠者
        源範頼(1150?〜1193?)、九郎判官源義経(1159〜1189)の軍勢に近江粟津で敗死した。

    

        木曾義仲像(徳音寺所蔵)

    ○樋口の次郎
        樋口兼光(不詳〜1184)は、平安末期の武将で、権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の次男。今井兼平(1152〜1184)の兄。木曾義仲の乳母子
        にして股肱の臣。木曾四天王の一人。信濃國筑摩郡樋口谷(木曽町日義)に在して樋口を称した。
        壽永二年五月、礪波山の戦いに小松三位中將平維盛(1158〜1184)の軍を破り、同三年正月、河内國石川城を攻略するも同年一月の粟津の戦
        いでの木曾義仲の打ち死に後、武蔵児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。しかし、後白河法皇と木曾義仲が対立した壽永二年十一月の法住寺
        合戦の責めを負い、朱雀大路で斬罪に処せられた。

    

        樋口兼光(徳音寺所蔵)

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:03Comments(0)おくの細道、いなかの小道

2017年10月04日

奥の細道、いなかの小道(35)− 金澤

  

    高野素十(1893〜1976)

  (旧暦8月15日)

  素十忌
  俳人高野素中(1893〜1976)の昭和五十一年(1976)の忌日。本名與巳(よしみ)。医学博士。高浜虚子に師事し、虚子の唱えた「客観写生」のおしえを
  忠実に実践したものと考えられている。彼は季語が内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像
  を映しだすような創作態度をとったと評されている。
      方丈の大庇より春の蝶
      くもの糸ひとすぢよぎる百合の前
      ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
      甘草の芽のとびとびのひとならび
      翅わつててんたう虫の飛びいづる
      づかづかと来て踊子にささやける
      空をゆく一とかたまりの花吹雪


      〈金 澤〉
      卯の花山・くりからが谷をこえて、金澤は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此
      道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
          塚も動け我泣声は秋の風
            ある草庵にいざなはれて 
          秋涼し手毎にむけや瓜茄子
            途中吟
          あかあかと日は難面もあきの風


  

    芭蕉真蹟

      ○卯の花山
      卯の花山は、くりから山の續きにて、越中礪波郡となみ山の東に見えたり。源氏が嶺と云あり。木曾義仲の陣所なり。義仲の妾巴、葵〈俗に山吹女
      と云〉二人が塚も此あたりに有。卯の花山は、名所なり。
          『奥の細道菅菰抄』


      卯花山 越中

      玉葉夏       かくばかり雨の降らくに時鳥  卯花山になほか無くらむ           人麻呂
      風雅夏       朝まだき卯花山を見わたせば  空はくもりてつもる白雪          前大納言治經房
      新千載夏    郭公卯花山に屋すらひて  そらに知られぬ月になくなり          二品法親王守覺
      同              明けぬともなをかけ殘せ白妙の  卯花山のみしかよの月       中務卿宗尊親王
          『類字名所和歌集』 巻四 卯花山


  

    『類字名所和歌集』 巻四 卯花山

      ○くりからが谷  
      くりからが谷は、くりから山の谷を云。くりから山は、越中今石動の驛と加賀竹の橋の宿のとの境にありて、嶺に倶利伽羅不動の堂あり。故に山の
      名とす。今或は栗柄山共書ク。平家と木曾義仲と合戦の地、一騎打と云て、岩の間の道至て隘き所あり。此山の麓、越中の地、羽生村といふに、八
      幡宮あり。木曾義仲、大夫房覺明をして、平家追討の願書を書しめ、奉納ありし神社にて、其願書、今に存す。


      ○何處
      大坂人。享保十六年亥六月十一日卒。光明山念佛寺葬
          『芭門諸生全傳』 遠藤曰人


      ○一笑
      加賀金澤の人。小杉味頼(1653〜1688)。通称、茶屋新七。金澤片町に葉茶屋を営むかたわら、初め貞門七俳仙のひとり高瀬梅盛(1619〜 
      1701)に学び、後に蕉風に帰している。寛文以来、松江重頼(1602〜1680)、北村季吟(1625〜1705)、高瀬梅盛(1619〜1701)、富尾似
      船(1629〜1705)、江左尚白(1650〜1722)らの諸撰集に入集、ことに江左尚白の『弧松』(貞享四年)には百九十四句が入集し、加賀俳壇の
      俊秀として聞こえた。芭蕉の来訪を待たず元禄元年十一月六日没、享年三十六。

      加刕金澤の一笑は、ことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程、お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに
          『雑談集』 其角


      ○其兄
      小杉丿松(べつしよう)。元禄二年七月二十二日、金澤野町の小杉家菩提寺願念寺にて一笑の冥福を祈って句会を催し、その折の句を主に追善集
      『西の雲』(元禄四年刊)を刊行した。

       ○塚も動け我泣声は秋の風
      とし比(ごろ)我を待ちける人のみまかりけるつかにまうでゝ
        つかもうごけ我泣聲は秋の風



      一  十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。
        京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)、芭蕉翁一行は倶利伽羅峠を越え、竹橋宿、杉瀬、津幡宿をへて北國街道を左折し、岸川、花園、八幡、月影をすぎて金澤城下への北の入口大樋口に至りました。金腐川を渡ると、左手前方には卯辰山麓の寺々の甍が連なり、一行は浅野川の小橋下流右岸近くで酒屋業を営む京屋吉兵衛宅に宿をとりました。

  一行は、北国筋を往来する大坂道修町の薬種商何處の助言に従い、同宿することにしました。何處は、向井去來(1651〜1704)と野沢凡兆(1640〜1714)が編集した蕉門の発句・連句集で、蕉門の最高峰の句集であるとされる『猿蓑』にも入集する俳人で、金澤での奇遇でもありました。

  高岡から金澤までは十一里強の道程と云われ、未ノ中刻(午後二時頃)に金澤に到着したと云うから、馬を使ったのではないかと考えられているようです。
  京屋吉兵衛宅で、芭蕉は早速金澤在住の門人竹雀と一笑とに使いを出して、金澤到着を知らせようと連絡をとりました。竹雀(亀田武富)は、通称を宮竹屋喜左衛門といい、河原町(片町)で旅籠業を営み、のちに金澤俳壇で活躍する亀田小春、通称宮竹屋伊右衛門の次兄にあたっていました。小杉一笑は、宮竹屋の向かい側で薬茶屋を営んでおり、当時金澤俳壇の俊英で、芭蕉翁の金澤来遊の目的の一つは、この一笑に会うことであったといいます。


  連絡を受けた竹雀は、牧童(立花彦三郎)を伴ってやってきました。牧童は北枝(立花源四郎)の兄で、弟北枝とともに刀研師として加賀藩の御用を勤めていました。
  芭蕉翁は竹雀と牧童から、一笑が昨年、元禄元年(1688)十二月六日に死去したことを知らされ、大いに落胆したものと思われます。

  芭蕉翁は竹雀、牧童を相手に、久しぶりに俳人らしき一夜を語り明かしたことでありましょう。

  芭蕉翁一行が金澤に着いた日は盂蘭盆会で、曾良の『俳諧書留』に「盆」と前書きして、
    熊坂が其名やいつの玉祭り  翁
の句が記載されています。
 
      一  十六日 快晴。 巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方へ移ル。段々各來ル。謁ス。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十六日(陽暦八月三十日)、芭蕉翁一行は河原町(片町)の旅籠宮竹屋竹雀に招かれ、巳ノ刻(午前十時頃)に駕籠で浅野川を渡って、当時御城下随一の繁華街尾張町を通り、近江町市場のある武蔵が辻を曲がり、香林坊を経て河原町(片町)に着きました。

  芭蕉が金澤を訪れた時は、歴代藩主の中でも文化政策を最も推進した四代藩主前田綱紀(在任1645〜1723)の代でした。
  綱紀は藩内に学問、文芸を奨励し、紙・木・竹・染織・革・金属の素材を加飾する工芸技術百般の各種標本をつくらせ、「百工比照」と呼ばれる工芸標本として集大成させました。さらに古今の文献類の蒐集保存につとめ、また、儒学者木下順庵(1621〜1699)、室鳩巣(1658〜1734)、稲生若水(1655〜1715)らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した『桑華学苑』(百科事典)を著しています。

  芭蕉の金澤来訪を知った地元の俳人達が続々と宿舎に挨拶に訪れ、彼らと面談しています。その中には、亀田竹雀、立花牧童、斎藤一泉、服部高徹、立花北枝、亀田一水、小杉丿松、小野雲口、河合乙州、徳子らの名が、『曾良旅日記』に記載されています。
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