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2017年10月14日

奥の細道、いなかの小道(36)− 小松

 

 (旧暦8月25日)

  

      小松おくの細道マップ

    〈小 松〉
          小松といふ所にて 
        しほらしき名や小松ふく萩すゝき
    この處、太田の神社に詣。真盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返し
    まで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし亊
    共、まのあたり縁記にみえたり。
        むざんやな甲の下のきりぎりす


    ○太田の神社
        多太神社。現在の小松市本折町にある延喜式内社。祭神は、衝桙等乎而留比古命、仁徳天皇、應仁天皇、神功皇后、比咩大神、軻遇突智神、蛭
        児命、大山咋命、素盞嗚命、継体天皇、水上大神。

    抑当社多太八幡宮ハ、元正天皇御宇、養老二年の御鎮座にて、壽永二年五月、(中略)義仲卿当社へ御参詣、御祈禱のため、社領蝶屋の庄御寄付。(中
    略)慶長年中、小松の城主丹羽長重朝臣より当社の領に能美郡舟津村を寄付し給ふ。長重奥州へ移り給て後、元和二年、小松黄門公より御印物を以、同
    郡三日市村の内にて御寄付也
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○真盛
        長井別當斎藤実盛(1111?〜1183)。山蔭利仁流、越前国河合荘南井郷を支配していた河合斎藤次郎則盛の子として生まれ、長じて武蔵国長
        井斎藤籐太實直の養子となり、養父の「實」と実父の「盛」の字をとって「實盛」と名乗る。
        初め左典厩源義朝(1123〜1160)に仕えて保元の乱、平治の乱に従軍したが、義朝滅亡後、母方の縁で平宗盛(1147〜1185)に仕え、壽永
        二年四月、木曾義仲追討の戦の出陣に際しては、宗盛より錦の直垂の着用の許しを請い、白髪を染めて奮戦し、加賀篠原で木曾義仲の臣、手塚
        太郎光盛(不詳〜1184)の手にかかって討ち死にした。

    

      『前賢故実』による斎藤實盛

    真盛ハ、〈或ハ實盛ト書ス〉斎藤別當ト號ス。越前ニ生ル。始ハ、源義朝ニ属シ、後ニ平宗盛ニ随ヒ、加州篠原ノ合戰ニ死ス。出生ノ地ハ、吾ガ住
    ム丸岡ヨリ十町余北ニ長畝ト云フ村アリ、此地ニテ生ルト云フ。今、真盛屋敷〈今、竹林トナル。廻リ一里バカリ。〉産湯池ナド云フ蹟アリ。篠原
    モ今、村名トナル。加州大聖寺驛ヨリ三里許西北ノ海邊ナリ。村ノ西、松林ノ中ニ真盛塚アリ。其北入江ノ中ニ首洗池ノ蹟ト云フアリ。
        『奥細道菅菰抄』


    ○甲   
        銘、鏤菊。明治三十三年国宝、昭和二十五年に重要文化財に指定。甲はよろいの義で、かぶととするのは和の俗訓。
  
    甲ハ本、冑ノ字、兜ノ字等ヲ用ユベシ。〈鉀ノ仮音ナリ〉和俗、甲冑ノ二字ヲ涀等して顚倒シテ用ユル亊久シ
        『奥細道菅菰抄』


    鎧甲 二字の義同ジ。然ルニ日本ノ俗、甲呼テ冑ノ讀ト爲ス、大ニ誤歟。或ハ天下ノ勝亊ヲ呼テ天下ノ甲ト曰フ者、義、甲乙ノ甲ニ取ル。甲冑ノ甲
    ニ非ズ。
        『下学集』(原漢文)


    茲利仁將軍之末葉實盛、乃越前國之賢君子也。文思武威、炫輝于一世、先是義朝贈以鍵菊甲、褒美之。當此時、義朝守國日殘、賊徒鋒起。實盛輒戴  
    所受甲殺精鋭之兵七千余人、以報恩。
        『木曾義仲副書』

    茲ニ利仁將軍之末葉實盛ハ乃チ越前ノ國之賢君子也。文思武威、一世ニ炫輝ス。是ヨリ先、義朝贈ルニ鍵菊ノ甲ヲ以テシテ、之ヲ褒美ス。此時ニ當
    タリテ、義朝國ヲ守ルコト日殘ク、賊徒鋒起ス。實盛輒チ受クル所ノ甲ヲ戴キ、精鋭之兵七千余人ヲ殺シテ、以テ恩ニ報ズ。


    各甲冑根元は、多田満仲公より源家累代御傳來、實盛へは平治の亂の節義朝公より拝領のよし、即ち各願状にも其趣あり
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    ○錦の切
        錦は金糸および諸種の彩糸を紋織りにした厚地の絹織物。切れはその断片で、もと實盛が平宗盛より直垂として下賜されたものという。

    錦の直垂〈此直垂は京都出陣の砌、平宗盛卿より拝領也〉
        『加州小松八幡宮寶物縁起』


    鎧直垂は、大將平士に通じて是を用ひ、錦は大將に限りしこと、古今同じきならん
        『柳葊雑草』巻二


    錦ノ帛ハ、宗盛ヨリ真盛ヘ賜ル所ノ赤地錦ノ直衣ノ切ナリ。本ハ直衣ノママニシテ義仲ヨリ奉納有リシヲ、イツトナク切リ取リシ由、今ハ僅ニ縦二
    尺、横一尺許ノコル。織文ハ白萌黃ナドニ金ヲ雑テ、雲文、鳥文アリ
        『奥細道菅菰抄』


    ○義朝公
        左典厩源義朝(1123〜1160)、河内源氏の一族、六条判官源爲義(1096 〜1156)の長男。源頼朝(1147〜1199)の父。保元の乱  
        (1156)に後白河法皇(1127〜1192)に味方して、乱後左馬頭になったが、平清盛(1118〜1181)の勢威の上がるのに不満を抱き、悪右
        衛門督藤原信頼(1133〜1160)と結んで平治の乱(1160)を起こし敗北、尾張野間の長田庄司忠致(不詳〜1190?)のもとで謀殺された。

    

        『平家物語絵巻』 平治の乱で敗走する義朝一行。


    ○龍頭  
        兜の前面中央の立物(飾り金具)で、龍の頭の形をしたもの。

    龍頭の冑とイフ物、後三年ノ戰ノ日、八幡殿ノツクラレシ八龍の冑ニヤ始マリヌラン。保元の時義朝ノ着セラレシ龍頭ノ冑、スナハチ此ノ物也
        『本朝軍器考』 新井白石


    ○鍬形
        兜の前面左右の立物。

    鍬形トイフ物ハ、澤潟ノ葉ノイマダ開カヌ形ヲカタドレル也、オモダカトイフ物ハ、勝軍草トモイフナレバ、鎧ニモ澤潟縅ナドイフアリトイヘル説ア
    リ。マコトニ其ノ形ハヨク似タレド、カゝル名モアリケリトイフ亊イマダ見ル所ナケレバ、イブカシ。蝦夷人ノ寶トスル鍬サキト云フアリ。國ノ人病ス
    ル時、其ノ枕上ニ立テ災ヲ攘フ物也ト云フ。其ノ形、我ガ國ノ鍬形ノ制ナル物也。サラバ我ガ國ノ昔ヨリ此ノ物ヲ冑ノ物ニ立テシ亊モ、必ズ其ノ故アル
    ベケレド、今ハ其ノ義ヲ失ヒシニコソ
        『本朝軍器考』 新井白石


    くはがたは、くわゐと云ふ草の葉の形なり。くはへと取りなして、物のくはゝり増すこゝろにて、祝の義にて、古よりもちひ來れるなり。立物
    は皆金にてみがくべし。鍬形の長さ一尺二寸、但、人の器量により長くも短くもすべし。不定
        『軍用記』 伊勢貞丈


    ○木曾義仲
        源義仲(1154〜1184)、河内源氏の一族、東宮帯刀先生源義賢(不詳〜1155)の次男。久壽二年(1155)八月、武蔵国比企郡大蔵(比企郡
        嵐山町)において鎌倉悪源太源義平(1141〜1160)の弑逆により父義賢を失ったが、秩父氏の一族、畠山重能(生没年不詳)の庇護を受け、
        乳父である権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。
    
        治承四年四月、叔父の新宮十郎源行家(1141頃〜1186)より以仁王(1151 〜1180)の平氏追討の令旨を受け挙兵、壽永二年(1183)三月
        越後國府を進発して、五月倶利伽羅の険を突破、七月入京して平氏を西国に追い落としたが、朝野の人望を失い、壽永三年正月二十日、蒲冠者
        源範頼(1150?〜1193?)、九郎判官源義経(1159〜1189)の軍勢に近江粟津で敗死した。

    

        木曾義仲像(徳音寺所蔵)

    ○樋口の次郎
        樋口兼光(不詳〜1184)は、平安末期の武将で、権頭中原兼遠(不詳〜1181?)の次男。今井兼平(1152〜1184)の兄。木曾義仲の乳母子
        にして股肱の臣。木曾四天王の一人。信濃國筑摩郡樋口谷(木曽町日義)に在して樋口を称した。
        壽永二年五月、礪波山の戦いに小松三位中將平維盛(1158〜1184)の軍を破り、同三年正月、河内國石川城を攻略するも同年一月の粟津の戦
        いでの木曾義仲の打ち死に後、武蔵児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。しかし、後白河法皇と木曾義仲が対立した壽永二年十一月の法住寺
        合戦の責めを負い、朱雀大路で斬罪に処せられた。

    

        樋口兼光(徳音寺所蔵)

 
   一 廿四日 快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々市迄送ル。餅・酒等持参。申ノ上尅、小松ニ着。竹意
        同道故、近江やト云ニ宿ス。北枝随レ之。夜中、雨降ル。
          『曾良旅日記』

 
  旧歴七月二十四日(陽暦九月七日)、芭蕉翁一行は九泊した金澤を出立し、小松を経て山中温泉へ湯治に向かう予定でした。一行が宿泊した旅籠宮竹屋には、別れを惜しむ金澤の連衆が集まり、亀田小春、立花牧童、さらに商用で金澤に滞在していた近江大津の荷問屋川井乙州の三人が城下南入口の泉町まで見送りました。また、小野雲口、斎藤一泉、徳子らは次の宿場野々市まで見送り、餅や酒を持参して別れを惜しみました。見送りの一行とは野々市で別れましたが、立花北枝が山中温泉まで同行することになりました。体調が優れない曾良に代わって芭蕉の案内を務めるためでした。

  旧北國街道は野々市、松任、宮丸を過ぎ、荒屋柏野、下柏野を経て手取川にかかります。田子島と粟生宿の間を流れる手取川は、三十間前後の川が二筋流れ、水量が少ないときは徒歩でも渡れましたが、水かさが増すと川幅は百七十間を越え、舟渡しとなっていました。

  手取川を渡り、粟生宿、寺井宿、荒屋、長田宿、島田、梯を経て、梯川の中州に小松天満宮があります。小松天満宮は小松城に隠居した加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)が、前田家の祖と仰ぐ菅原道真(845〜903)を祀り、鎮護の意味を込めて明暦三年(1657)、小松城の鬼門の同地に創建したもので、京都の北野天満宮を模しています。

  一行は梯川を渡って小松城下に入り、申ノ上尅(午後四時頃)、同行の竹意の紹介で京町の旅籠近江屋に宿をとりました。

  小松は加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)が寛永十六年(1639)、嫡子光高(1616〜1645)に家督を譲り、小松城を隠居城とすることを幕府から許され、翌寛永十七年(1640)に入城しています。利常の入城にともなって、家臣四百余人、家族二千余人も城下に移住し、近郷から寺社も移転させて町並みを整備し、小松城下発展の礎を築きました。
 
  さらに利常は致仕後も藩政に携わり、嫡子光高が若くして歿すると、孫の四代藩主前田綱紀(在任1645〜1723)の後見役として藩政を補佐し、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築きました。
 利常は萬治元年(1658)十月十二日、六十六歳で歿すると、以後、小松城代や小松城番が置かれ、加賀南部の城下町、宿場町として栄えました。

    

         加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)

    一 廿五日 快晴。欲ニ小松立一、所衆聞而以ニ北枝一留。立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デゝ、真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井 
        (村)伊豆宅へ行。有レ会。終而此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。
         『曾良旅日記』

 
  翌旧歴七月二十五日(陽暦九月八日)、芭蕉翁一行は小松を出立しようと宿を出たところ、地元の俳人らが金澤から同行していた小松出身の立花北枝を通じて逗留するように懇請したので、小松に留まることになりました。

  そこで芭蕉翁一行は、曹洞宗永平寺派の立松寺(健聖寺)へ移りました。京町の南西数丁にある寺町は、細い路地の連なる古い家並みが続き、その中に建聖寺があります。

  芭蕉翁一行は多太神社に参詣して、斎藤別當實盛の兜や木曾義仲の祈願状などを拝観した後、当時山王神社と呼ばれていた本折日吉神社の神主で俳人でもある藤村伊豆守章重(俳號鼓蟾)宅に招かれました。

    

        多太神社宝物館展示用兜

  藤村宅では早速句筵興行が催され、
      しほらしき名や小松吹萩薄          翁
      露を身しりて影うつす月          鼓蟾

を初めとする、立花北枝、斧卜、村井屋塵生、志格、夕市、致畫、堤歓生(享子)、河合曾良の十人による十吟世吉(四十四句)連句でした。

  この日、芭蕉らは日吉神社の藤村宅に宿泊しました。申ノ刻(午後四時頃)から雨が降り出し、夕方には止みましたが、夜中にも時々降り出しています。

    一 廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生へ方へ被レ招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終而帰ル。庚申也。
         『曾良旅日記』

  旧歴七月二十六日(陽暦九月九日)、昨夜からときおり降っていた雨は朝には止んでいましたが、巳ノ刻(午前十時頃)から再び風雨が激しくなってきました。
  この日、芭蕉は城下北の入口泥町(大川町)に住む歓生に招かれ、俳諧指導を行いました。歓生は本姓を堤氏、通称は越前屋七郎右衛門、連歌師能順(1628〜1706)の弟子で、俳号を享子と称しました。
  能順は北野天満宮の宮仕(歌学専門職の集団)で、俳諧連歌に優れ、当時は飯尾宗祇(1421〜1502)以来の達人と称せられていました。明暦三年(1657)、小松郊外の梯村に小松天満宮が造営された際、北野天満宮から別当職として招かれ、禄を給されていました。
 
  申ノ刻(午後四時頃)に雨が止み、夜になって芭蕉の
      ぬれて行や人もおかしき雨の萩
を発句に、五十韻(五十句)の句筵興行が開催されました。
      すすき隠に薄葺く家
と堤享子が続き、以下、連衆は河合曽良、藤村鼓蟾、立花北枝、志格、斧卜、村井屋塵生、季邑、視三、夕市ら十一人による十一吟五十韻が夜中になって満尾しました。

  連句終了後、芭蕉らは建聖寺に帰って泊まったものと考えられていますが、この夜は庚申待で、神仏を祀って徹夜で過ごす日でもありました。

  ちなみに、小松での十吟「世吉」や十一吟「五十韻」は、おくのほそ道の旅における最大規模の俳諧興行となりました。通り過ぎるつもりでいた小松において、地元の俳人達に金澤にも勝る熱い歓待を受け、芭蕉翁も張り切って俳諧指導を行ったものと推測されています。


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