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2017年10月04日

奥の細道、いなかの小道(35)− 金澤

  

    高野素十(1893〜1976)

  (旧暦8月15日)

  素十忌
  俳人高野素中(1893〜1976)の昭和五十一年(1976)の忌日。本名與巳(よしみ)。医学博士。高浜虚子に師事し、虚子の唱えた「客観写生」のおしえを
  忠実に実践したものと考えられている。彼は季語が内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像
  を映しだすような創作態度をとったと評されている。
      方丈の大庇より春の蝶
      くもの糸ひとすぢよぎる百合の前
      ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
      甘草の芽のとびとびのひとならび
      翅わつててんたう虫の飛びいづる
      づかづかと来て踊子にささやける
      空をゆく一とかたまりの花吹雪


      〈金 澤〉
      卯の花山・くりからが谷をこえて、金澤は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此
      道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
          塚も動け我泣声は秋の風
            ある草庵にいざなはれて 
          秋涼し手毎にむけや瓜茄子
            途中吟
          あかあかと日は難面もあきの風


  

    芭蕉真蹟

      ○卯の花山
      卯の花山は、くりから山の續きにて、越中礪波郡となみ山の東に見えたり。源氏が嶺と云あり。木曾義仲の陣所なり。義仲の妾巴、葵〈俗に山吹女
      と云〉二人が塚も此あたりに有。卯の花山は、名所なり。
          『奥の細道菅菰抄』


      卯花山 越中

      玉葉夏       かくばかり雨の降らくに時鳥  卯花山になほか無くらむ           人麻呂
      風雅夏       朝まだき卯花山を見わたせば  空はくもりてつもる白雪          前大納言治經房
      新千載夏    郭公卯花山に屋すらひて  そらに知られぬ月になくなり          二品法親王守覺
      同              明けぬともなをかけ殘せ白妙の  卯花山のみしかよの月       中務卿宗尊親王
          『類字名所和歌集』 巻四 卯花山


  

    『類字名所和歌集』 巻四 卯花山

      ○くりからが谷  
      くりからが谷は、くりから山の谷を云。くりから山は、越中今石動の驛と加賀竹の橋の宿のとの境にありて、嶺に倶利伽羅不動の堂あり。故に山の
      名とす。今或は栗柄山共書ク。平家と木曾義仲と合戦の地、一騎打と云て、岩の間の道至て隘き所あり。此山の麓、越中の地、羽生村といふに、八
      幡宮あり。木曾義仲、大夫房覺明をして、平家追討の願書を書しめ、奉納ありし神社にて、其願書、今に存す。


      ○何處
      大坂人。享保十六年亥六月十一日卒。光明山念佛寺葬
          『芭門諸生全傳』 遠藤曰人


      ○一笑
      加賀金澤の人。小杉味頼(1653〜1688)。通称、茶屋新七。金澤片町に葉茶屋を営むかたわら、初め貞門七俳仙のひとり高瀬梅盛(1619〜 
      1701)に学び、後に蕉風に帰している。寛文以来、松江重頼(1602〜1680)、北村季吟(1625〜1705)、高瀬梅盛(1619〜1701)、富尾似
      船(1629〜1705)、江左尚白(1650〜1722)らの諸撰集に入集、ことに江左尚白の『弧松』(貞享四年)には百九十四句が入集し、加賀俳壇の
      俊秀として聞こえた。芭蕉の来訪を待たず元禄元年十一月六日没、享年三十六。

      加刕金澤の一笑は、ことに俳諧にふけりし者也。翁行脚の程、お宿申さんとて、遠く心ざしをはこびけるに
          『雑談集』 其角


      ○其兄
      小杉丿松(べつしよう)。元禄二年七月二十二日、金澤野町の小杉家菩提寺願念寺にて一笑の冥福を祈って句会を催し、その折の句を主に追善集
      『西の雲』(元禄四年刊)を刊行した。

       ○塚も動け我泣声は秋の風
      とし比(ごろ)我を待ちける人のみまかりけるつかにまうでゝ
        つかもうごけ我泣聲は秋の風



      一  十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。
        京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)、芭蕉翁一行は倶利伽羅峠を越え、竹橋宿、杉瀬、津幡宿をへて北國街道を左折し、岸川、花園、八幡、月影をすぎて金澤城下への北の入口大樋口に至りました。金腐川を渡ると、左手前方には卯辰山麓の寺々の甍が連なり、一行は浅野川の小橋下流右岸近くで酒屋業を営む京屋吉兵衛宅に宿をとりました。

  一行は、北国筋を往来する大坂道修町の薬種商何處の助言に従い、同宿することにしました。何處は、向井去來(1651〜1704)と野沢凡兆(1640〜1714)が編集した蕉門の発句・連句集で、蕉門の最高峰の句集であるとされる『猿蓑』にも入集する俳人で、金澤での奇遇でもありました。

  高岡から金澤までは十一里強の道程と云われ、未ノ中刻(午後二時頃)に金澤に到着したと云うから、馬を使ったのではないかと考えられているようです。
  京屋吉兵衛宅で、芭蕉は早速金澤在住の門人竹雀と一笑とに使いを出して、金澤到着を知らせようと連絡をとりました。竹雀(亀田武富)は、通称を宮竹屋喜左衛門といい、河原町(片町)で旅籠業を営み、のちに金澤俳壇で活躍する亀田小春、通称宮竹屋伊右衛門の次兄にあたっていました。小杉一笑は、宮竹屋の向かい側で薬茶屋を営んでおり、当時金澤俳壇の俊英で、芭蕉翁の金澤来遊の目的の一つは、この一笑に会うことであったといいます。


  連絡を受けた竹雀は、牧童(立花彦三郎)を伴ってやってきました。牧童は北枝(立花源四郎)の兄で、弟北枝とともに刀研師として加賀藩の御用を勤めていました。
  芭蕉翁は竹雀と牧童から、一笑が昨年、元禄元年(1688)十二月六日に死去したことを知らされ、大いに落胆したものと思われます。

  芭蕉翁は竹雀、牧童を相手に、久しぶりに俳人らしき一夜を語り明かしたことでありましょう。

  芭蕉翁一行が金澤に着いた日は盂蘭盆会で、曾良の『俳諧書留』に「盆」と前書きして、
    熊坂が其名やいつの玉祭り  翁
の句が記載されています。
 
      一  十六日 快晴。 巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方へ移ル。段々各來ル。謁ス。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十六日(陽暦八月三十日)、芭蕉翁一行は河原町(片町)の旅籠宮竹屋竹雀に招かれ、巳ノ刻(午前十時頃)に駕籠で浅野川を渡って、当時御城下随一の繁華街尾張町を通り、近江町市場のある武蔵が辻を曲がり、香林坊を経て河原町(片町)に着きました。

  芭蕉が金澤を訪れた時は、歴代藩主の中でも文化政策を最も推進した四代藩主前田綱紀(在任1645〜1723)の代でした。
  綱紀は藩内に学問、文芸を奨励し、紙・木・竹・染織・革・金属の素材を加飾する工芸技術百般の各種標本をつくらせ、「百工比照」と呼ばれる工芸標本として集大成させました。さらに古今の文献類の蒐集保存につとめ、また、儒学者木下順庵(1621〜1699)、室鳩巣(1658〜1734)、稲生若水(1655〜1715)らを招聘し、彼らの助けのもとで綱紀自らが編纂した『桑華学苑』(百科事典)を著しています。

  芭蕉の金澤来訪を知った地元の俳人達が続々と宿舎に挨拶に訪れ、彼らと面談しています。その中には、亀田竹雀、立花牧童、斎藤一泉、服部高徹、立花北枝、亀田一水、小杉丿松、小野雲口、河合乙州、徳子らの名が、『曾良旅日記』に記載されています。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 09:45Comments(0)おくの細道、いなかの小道