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2017年10月30日

奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷

  奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷

    尾崎紅葉(1968〜1903)    


  (旧暦9月11日)

  紅葉忌、十千萬堂忌
  小説家尾崎紅葉(1968〜1903)、明治三十六年(1903)の忌日。本名、徳太郎。「縁山」「半可通人」「十千萬堂」「花紅治史」などの号も持つ。江戸
  芝中門前町生まれ。帝国大学国文科中退。明治十八年(1885)、山田美妙(1968〜1910)らと硯友社を創立し、「我樂多文庫」を創刊。明治二十二年
  (1889)、『二人比丘尼色懺悔』が出世作となる。のち読売新聞社にはいり、言文一致体の『多情多恨』、『金色夜叉』(未完)などを連載し人気作家となる
  も、胃がんのため自宅で歿した。享年三十七。


        一 五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於小松、生駒萬子爲出會也。□談ジテ歸テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申
            刻着、宿。夜中、雨降ル。
                『曾良旅日記』


  旧暦八月五日(陽暦九月十八日)、八泊九泊にわたって山中温泉で旅の疲れを癒やした芭蕉翁は、昼自分に世話になった泉屋の若主人久米之助(桃夭)に、
        湯の名殘今宵は肌の寒からむ
との留別の句を贈りました。
  芭蕉翁は立花北枝を伴って那谷寺を経て、生駒重信(萬子)と対面するために、再度、小松へ訪れることにしました。
  一行は山代温泉へ戻り、上野、森、勅使、榮谷を経て那谷寺に向かいました。

  那谷寺からは小松へは、二里半の行程でした。芭蕉翁一行は、この日は小松に戻っただけで、生駒重信(萬子)と会ったのは翌日のことと思われます。小松での宿は不明ですが、書簡を送ってくれた俳人塵生(村井屋又三郎)宅であったのか。

  体調を崩していた曾良は、芭蕉翁一行を見送った直後に、泉屋久米之助の菩提寺である加賀大聖寺の全昌寺へと出立し、申刻(午後四時頃)に到着しました。

  曹洞宗の全昌寺は山中温泉で宿泊した泉屋の菩提寺で、当時の住持三世白湛和尚は泉屋久米之助の叔父であったため、久米之助の紹介で爰に宿泊したものと思われています。

        〈那 谷〉
        山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせたまひて後、大慈大悲の像
        を安置したまひて、那谷と名付たまふと也。那智・谷組の二字をわかちはべりしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上
        に造りかけて、殊勝の土地なり。
                石山の石より白し秋の風


        ○山中の温泉
            加州江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。

        此温泉を紫雲湯ともいひ、白鷺湯ともいへるよし。むかし長のなにがし此所に鷹狩し給へるに、しら鷺の足ひたしてその疵いえたりといふ亊、
        旧記に傳れば、いふなるべし。
                『東西夜話』(元禄十五年刊)各務子考


        江沼郡山中の温泉は、天平年中、行基ぼさち北國巡歴のみぎり、霊泉あることをさぐり、一宇をひらき、醫王山國分寺と號け、そのうへ、塚谷
        の郡司加納遠久といふものに命じて温泉をまもらしめてよりこのかた、功験世に越て諸病を治す。されど霜ゆき星くだちて、終に廢地となる。
        しかるに、治承の春、長谷部の信連、此ところに狩したまふに、白鷺矢疵をかうむりしが、この温泉に彳み補ひけるを見て、霊泉あることをし
        り、再び國分寺を志立ありて白鷺の湯と呼びたまひしより、今に盛んにして、遠近の客夜につどひ、北國第一の繁榮こゝにあらはる。名品に
        は、湯漬艾、桑のねぶりこ、木地細工のうつりもの、さまざま美作をつくす。そのほか、胡蒐の實、かた子、山の薯、煎茶などを製す。又、十
        二景の佳所あり。道明が淵、桂淸水など、面白きところなり
                『北國奇談巡杖記』(文化四年刊) 鳥翠臺北巠

        ○白根が嶽
            白山火山帯の主峰、最高頂御前峰は標高二七○二メートル。白山神社を祀る。歌枕としては、白山(しらやま)の名で知られ『類字名
            所和歌集』には以下二十一首が収められている。

                古今    別        よそにのみ戀ひやわたらん白山の    ゆきみるべくもあらぬわが身は          躬恒
                同                   君が行く越の白山しらねども    雪の随に跡は尋ねむ                 藤原兼輔朝臣


    奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷

        『類字名所和歌集』巻六 白山

        ○観音堂
            流紋岩(rhyolite)と角礫岩(breccia)よりなる岩山の洞窟の中に十一面千手観世音菩薩像を安置し、洞窟前に堂を設けたもので、養
            老元年(717)越の大徳と称された修験道の僧泰澄(682〜764)の創建にかかり、自生山巖谷寺と号したが、寛和二年(986)花山
            法皇(968〜1008)行幸の折に那谷寺と改めた。その後南北朝(1036〜1092)の戦乱で荒廃したが、寛永十七年(1640)に加賀藩
            第二代藩主前田利常(1594〜1658)によって再建された。

        ○花山の法皇
            第六十五代花山天皇(在位984〜986)。永観二年(984)十月十日、十七歳で即位するも、在位二年にして寛和二年(986)六月二
            十三日払暁、密かに禁裏を出て東山花山寺(元慶寺)で出家した。
            突然の出家については、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因としているが、『大鏡』で
            はさらに、右大臣藤原兼家(929〜990)が、外孫の懐仁親王(一条天皇:在位986〜1011)を即位させるために陰謀を巡らしたこと
            を伝えている。

            法皇となった後には、奈良時代初期に大和国長谷寺の開山徳道上人が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂
            津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。
            この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されている。

    奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷
        
        第六十五代花山天皇    月岡芳年「花山寺の月」    (明治23年)

        ○三十三所の順礼
            観世音菩薩が衆生化益のために身を三十三体に現したとする「法華経観世音菩薩普門品」の教説に基づき、観世音菩薩を奉祀する三十
            三ヵ所の寺院を巡礼すること。平安末期に始まり、鎌倉期までは僧侶によって行われたが、南北朝以後、俗人の参加する者が多くなっ
            た。

            室町末期から近世にかけて固定した順路は、一番那智山青岸渡寺に始まり、紀伊、和泉、河内、大和、山城、近江、攝津、播磨、丹
            後、丹波、美濃の十一ヵ国を巡って、美濃谷汲山華厳寺に終わる。近世に至り、板東、秩父などの三十三所順礼が行われ出してから、
            前の順路を西国三十三ヵ所と称するに至った。

        世ニ観音ノ霊場ヲ尋ネテ三十三處ニ詣ズ、之ヲ巡礼ト謂フ。(中略)相傳ふ、寛和法皇其ノ端ヲ啓クト
                『塩尻』 曼荼羅講寺沙門炬範筆記 原、漢文


        花山院御發心の後、國々を御修行ありし、是始なるべし。今の三十三所観音順礼も此法皇より權輿す
                『河内國名所鑑』葉室佛現寺


とあるように、近世における通念となっていたが、

        相傳フ、崋山ノ法皇、霊夢有ルヲ以テ、長徳元年三月十七日始メテ熊野ニ詣デ、六月朔日谷汲ニ至ル。△按ズルニ、法皇順礼ノ亊、史傳ニ載セ
        ズ。〈唯機内近國行旅ヲ謂フナリ。此ノ時熊野處々御参詣有ルカ。恐クハ三十三所ニ拘ハルベカラザルナリ。〉好亊ノ者、後ニ序次ヲ定ムル者
        カ。順礼は當ニ巡礼ニ作ルベシ。順逆ノ義ニ非ズシテ巡行ナリ
                『和漢三才圖繪』 西國三十三所順礼 原、漢文


と弁ずるごとく、根拠なき俗説とみるべきとされている。
        ○大慈大悲の像
            観世音菩薩の像。「大慈大悲」は仏、菩薩の広大無辺の慈悲をさすが、観世音菩薩は衆生の救いを求める声に応じて直ちにこれを済度
            する菩薩なるが故に、特に観世音菩薩の慈悲について云うことが多い。

        皇(花山法皇)、又随身の三國傳來閻浮檀金の如意輪観音を納め、益(ますま)す榮構に志あり
                『那谷寺誌』


        ○那谷と名付たまふと也
            寛和二年(986)、花山法皇が此の地に行幸したみぎり、岩窟内の観世音菩薩像を拝し、「これ全く観音妙智力の示現なり、朕が求む
            る三十三ヶ所は全てこの山にあり」
と述べて、三十三ヶ所第一番紀伊国那智山青岸渡寺の「那」と第三十三番美濃国谷汲山華
            厳寺の「谷」をとって「那谷寺」と改め、七堂伽藍を造営したと伝えられている。また、諸国観音札所の総収め所として中興された霊
            場であると云われている。

            往時は二百五十坊舎におよび隆盛を極めていたが、延元元年(1338)南北朝の争乱と文明六年(1474)の加賀一向一揆により一山の
            堂宇はことごとく灰燼に帰した。

            しかし、加賀藩第二代藩主で小松城に隠居していた前田利常(1594〜1658)が鷹狩りの際にこの地を訪れてその荒廃を嘆き、第百
            八代後水尾天皇(在位1611〜1629)の勅命を受け、寛永十七年(1640)から正保四年(1647)にかけて岩窟内本堂大悲閣、本殿、
            拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを再建し、寺領百石を寄進している。

    奥の細道、いなかの小道(38)− 那谷
    
        那谷寺  遊仙境

        ○那智
            紀伊國牟婁郡那智山の西国三十三ヵ所の第一番札所、天台宗那智山青岸渡寺をさす。

        ○谷組
            谷汲の当て字。美濃國大野郡名札村の西国三十三ヵ所第三十三番札所、天台宗那智山華厳寺をさす。

        一 六日 雨降。滞留。未ノ刻、止。菅生石(敷地ト云)天神拝。将監湛照、了山。
                『曾良旅日記』


  旧暦八月六日(陽暦九月十九日)、この日は雨でした。芭蕉翁は、金澤で職務の都合で会えなかった生駒萬子(重信、禄高千石の加賀藩士)と対面しました。そして萬子の仲介で小松天満宮に発句奉納するため、別當職を勤める能順に会いに小松天満宮に赴きました。
  上大路能順(1628〜1707)は京都北野天満宮の宮仕を勤めていましたが、明暦三年(1657)、小松城に隠居した加賀藩第二代藩主前田利常(1594〜1658)に招かれ、小松棧天神社別當職(梅林院)となっていました。

  能順は若くして連歌上手とされ、天和三年(1683)創建の北野学堂の初代歌道宗匠を務めると共に、霊元上皇(1654〜1732)に連歌を進講するなど生涯にわたり京都と小松を往来することで京風文化を伝えると共に、今江の三湖台をはじめ各所で連歌会を開催して、武士、町民を問わず多くの文芸人の育成に貢献したと評価されています。

  芭蕉翁は能順と歓談する中で、能順の秀句「秋風は薄うち敷ゆふべ哉」(聯玉集)を記憶違いして、「秋風に薄うち散るゆふべかな」と述べたところ、能順は気分を害してそのまま奥へ引き込んでしまったといいます。
  このため芭蕉王は、小松天満宮での発句奉納はできなかったといいますが、この話は果たして本当なのか、正確なところは不詳とのこと。

  この日、芭蕉翁は七月二十七日に山中温泉へ出立の際に、多太神社に奉納した「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」の発句に、堤亭子(別號、歡生。通称越前屋宗右衛門)が脇を付け、皷蟾との三人で三吟歌仙を巻いています。
  『芭蕉連句集』に、「あなむざんやな」と前書して、 
          あなむざんやな甲の下のきりぎりす            翁
              ちからも枯し霜の秋草                       亭子
          渡し守綱よる丘の目かげに                   皷蟾
              しばし住べき屋しき見立る                    翁

以下、三十二句が収載されています。 

  なぜか、芭蕉翁に同行している立花北枝は、この歌仙に参加していません。この夜、芭蕉翁一行は脇句を付けた堤亭子宅に宿泊したものか、詳細は不明です。

  曾良はこの日、雨が降っていたので全昌寺に宿泊しました。未ノ刻(午後二時)過ぎに雨が止んだので、菅生石部神社に参拝しています。この社は、加賀國の二の宮で、別名を敷地天神といい、病気平癒と身体健康が利益第一とされており、曾良も病気恢復と道中の安全を祈願したことでしょう。




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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:31│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
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