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2017年10月26日

奥の細道、いなかの小道(37)− 山中

    
   
        山  中

    (旧暦9月5日)

           一 廿七日 快晴。所ノ諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜・志挌等来テ留トイヘドモ、立。伊豆
               尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予、北枝随レ之。
                『曾良旅日記』


  旧暦七月二十七日(陽暦九月十日)、芭蕉翁と河合曾良そして同行している立花北枝は小松諏訪社(菟橋神社、小松市浜田町)の祭礼(西瓜祭)を見物し、巳ノ上刻(午前九時頃)に山中温泉に向かって旅立とうとしていたところ、斧卜、志挌らが来て引き止めましたが、さすがに今度は断って出立しました。
 
  途中、多太神社に再度立ち寄り、芭蕉は奉納の句を詠じ、曾良、北枝も芭蕉に倣いました。

            多田の神社にまうでゝ、木曾義仲の願書并實盛がよろひかぶとを拝ス
                    あなむざんや甲の下のきりぎりす                翁
                    幾秋か甲にきへぬ鬢の霜                          曾良
                    くさずりのうら珍しや秋の風                        北枝
                        『卯辰集』


  芭蕉翁一行は多太神社を参拝後、山中の温泉(いでゆ)に向かいました。『曾良旅日記』では直接山中に向かっていますが、『おくのほそ道』本文では、那谷寺に参詣してから山中に向かったように順序が入れ替わっています。

            一 同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。山ノ方、南ノ方ヨリ北へ夕立通ル。
                『曾良旅日記』


  小松城下から北國街道を南下し、一里ほどで今江に至ります。さらに串茶屋、串を経て進むとかつての柴山潟の舟付き場であった月津で、当時の柴山潟は現在より約四倍近くの広さを持った潟湖でした。今江潟、木場潟とともに加賀三湖と呼ばれていましたが、戦後、今江潟と柴山潟の約六割が干拓されて、主に農地として利用されています。

  月津から高塚を過ぎ、柴山潟に流れ込む動橋川に架かっていた橋は一本橋で、渡る際に不安定に揺れたため動橋(いぶりばし)と呼ばれていました。橋を渡って動橋宿を過ぎてから北國街道を離れ、庄、七日市、西島を経て山代温泉に至ります。さらに、河南に出て、大聖寺川左岸と平行する山中道を南下し、二天、中田、上原、塚谷を経て一行が山中の出で湯についたのは、申ノ下尅(午後五時頃)でした。一行は、泉屋(和泉屋)久米之助方に宿をとりました。小松から約六里の行程でした。
  一行が山中の出で湯を訪れたのは、病気の曾良を養生させ、芭蕉自身も長途の旅の疲れを癒やすためでした。
    
                〈山 中〉
                温泉に浴す。その功有明につぐといふ。
                    山中や菊はたおらぬ湯の匂
                あるじとするものは久米之助とていまだ小童なり。かれが父誹諧を好み、洛の貞室、若輩のむかしここに來りし比、風雅に辱
            しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて世にしらる。功名の後、この一村判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。
                曾良は腹を病て、伊勢の國長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行くに、
                    行行てたふれ伏とも萩の原        曾良
            と書置たり。行くものゝ悲しみ、殘るものゝうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、
                    今日よりや書付消さん笠の露


            ○温泉(いでゆ)
                加賀國江沼郡黑笠庄山中村の山中温泉。小松より約六里。山中の出で湯は、「総湯」の菊の湯を中心に大聖寺川渓谷に沿って
                旅館が建ち並んでいる。天平年中(729〜749)、僧行基(668〜749)によって湯が開かれたと伝えられているが、その
                後、承平の乱(平将門の乱:935〜940)のために途絶えてしまった。文治元年(1185)、源頼朝(1147〜1199)から
                能登国珠洲郡大家荘を新恩給与され、地頭職へ補任された長谷部信連(不詳〜1218)が、鷹狩りの際此の山に入り、傷ついた
                一羽の白鷺が流れに足を浸しているのを見てその下の温泉をみつけ、再興したとしたと伝えられている。

                此のとき、長谷部信連が湯ザヤ(総湯)の周辺に家臣十二人を住まわせたのが、湯本十二軒の始まりだと云われている。芭蕉
                翁一行が宿泊した泉屋(和泉屋)は、草創期から温泉宿を営む十二軒の内の一軒で、当主久米之助は十四歳の少年であっ
                た。俳人でもあった叔父の自笑が後見しており、芭蕉らはこの自笑の招きで泉屋に泊まったものと考えられている。 

            ○有明
                有馬の誤り。摂津の有馬温泉をさす。

            吾國六十よこくの中に、ありとある温場は、普く此二神(大己貴命、少彦名命)の御恵なるべし。それ
            が中にも此温場、世にすぐれたる亊、親りに明かなり。(中略)行幸ありしは舒明天皇三年の秋、同じき十年の冬、又、孝徳天皇の三
            年の冬なりとかや。されば釋の行基、昆陽寺より爰に徘徊せし時、藥師如來、病人と現じ奇特を告げ給うふによて、湯槽をかまへたり
            となむ
                    『有馬名所鑑』


            ○久米之助
                本姓は長谷部氏、和泉屋甚左衛門(1676〜1751)の幼名。この時、芭蕉から桃靑の「桃」を取って桃夭の号を与えられ
                た。

                    加賀山中桃夭に名をつけ給ひて
                桃の木の其葉ちらすな秋の風
                    『泊船集』


            ○かれが父 
                長谷部又兵衛豊連。延寶七年(1679)没。

            洛の安原氏貞室は中年迄はいかいを知ず。一とせ加州山中の湯主いづみや又兵衛といふものに恥しめら
            れ、歸洛して貞徳の末の門人と成。志あつくして終に此人に花の本を譲り、貞室と名乗る
                    『歴代滑稽傳』(正徳五年)

            武矩主は貞室叟に教へ、桃夭主は祖翁に習ふ
                松高き風にさらすや蝉の衣                幾暁
                    『百合野集』(寛延四年)


            ○貞室
                安原正章(1610〜1673)、通称鎰屋彦左衛門。別号、一嚢軒、腐誹子。京都の生まれで、紙商を営む。幼少より貞徳の門に
                出入りし、慶安四年(1651)四十二歳にして貞徳より俳諧の点業を許され、承應二年(1653)師の貞徳が没するや、政治的
                手腕をもって貞門の主導権を握り、翌年、正章より貞室と改号して貞徳二世を名乗った。

            貞室若クシテ彦左衛門ノ時、加州山中ノ湯ヘ入テ宿、泉や又兵衛ニ被レ進、俳諧ス。甚恥悔、京ニ歸テ始習テ、一兩年過テ、名人トナ
            ル。來テ俳モヨホスニ、所ノ者、布而習レ之。以後山中ノ俳、点領ナシニ致遺ス。又兵ヘハ、今ノ久米之助祖父也。
                    『俳諧書留』

            ○風雅に辱しめられて
                俳諧の道で恥辱を受けて。

            予、少年の頃、厳父君、飛驒の吏たりし時、彼國へ陪し、數年遠く遊ぶ亊有。此國、加州と隣なれば、此雑談を里人に聞けり

            貞室は都の商人にて、俗名は鍵屋彦左衛門といへり。口碑に傳る所、都より年々三越路あるは加賀國に往來ふ商客也。然るに此山中へ
            も時々売買に依て來る亊有しに、山中の俳士共打寄て俳諧興行有。宿なれば、彦右衛門をも進めていふ、都人なればさぞな貞徳の門人
            などにてやあらん、いざゝせ給へ、など進めけれども、都に生まれて貞徳の名さへ知らぬ程の不風雅の商客なれば、甚ダ赤面して其席
            を断退ぬ。彦右衛門つらつら思ふに、かく辺鄙の人すら、風流の道は知りぬるに、いかなれば帝都に生まれて斯拙きゆへ、田舎の人に
            恥ずかしめを請る亊よ、と深く我身歎息して、帰京の後、本文の通、我産業を投げうち、貞徳の門人と成て、終に高名の人とはなりぬ
                    『奥のほそ道解』(天明七年) 後素堂(馬場錦江)


                宿で俳諧を勧められたが、その心得がなかったということか。

                しかし、貞室は幼少時より貞徳に親近し、遅くとも寛永二年(1625)十五歳の時には貞徳の私塾に入門し、寛永五年
                (1628)十八歳のころから俳諧を学び始めている。もし、この口碑のような事実があったとすれば、十五ないし十八歳以前の
                ことになるが貞徳の俳諧の初会が寛永六年(1629)のことであり、俳諧の全国的な流行の機運の興る以前のことであるなら
                ば、こうした事実の起こりうる可能性は希有と思われ、貞室の盛名に付会した説話と見なされている。

            ○貞徳
                松永勝熊(1571〜1653)、別号、長頭丸、逍遊軒、延陀丸、明心居士、花咲の翁など。父松永永種(1538〜1598)は摂津
                高槻城主入江政重(不詳〜1541)の子で、没落後松永彈正(1508〜1577)のゆかりをもって松永を称した。連歌師里村紹
                巴(1525〜1602)から連歌を、九条稙通(1507〜1594)や細川幽斎(1534〜1610)から和歌、歌学を学ぶほかに多く
                の良師を得て、古典、和歌、連歌などの素養を身につけた。

                二十歳頃に豊臣秀吉(1537〜1598)の右筆となり、歌人として名高い若狭少将木下勝俊(長嘯子:1569〜1649)を友とす
                る。慶長二年(1597)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜る。元和元年
                (1615)、三条衣の棚に私塾を開いて俳諧の指導に当たり、俳諧を和歌、連歌の階梯として取り上げ、貞門俳諧の祖として俳
                諧の興隆に貢献した。
                家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。
  
    

        松永貞徳(1571〜1653)

          ○功名の後
              貞室は、『犬子集』寛永十年刊に二十四歳の若年で七句が入集、寛永十九年(1642)には『俳諧之註』を刊行して頭角を現した
              が、点業を許されたのは慶安四年(1651)四十二歳のときであった。「功名」とは何をさすかはもとより明らかではないが、「判
              詞の料」のことであれば、点者となった以後のことをさす。

          ○判詞の料
              点料。他人の発句、付句の優劣是非を判定し、好句には句の肩に点(棒線)をかけ、また句間に簡単な善悪の批評を記す。此の批
              評の詞を判詞という。これをなし得るのは、専門の宗匠、いわゆる点者で、これに対する謝礼を点料という。点料は、『滑稽太平
              記』によると、貞門の松永貞徳(1571〜1653)や雛屋立圃(1595〜1669)の場合、百韻一巻につき銀一両(四匁三分)であっ
              たとされている。
             銀一匁  約1,250円    銀一分  約125円
              従って、銀一両(四匁三分)は約5,375円ほどになるか。

          ○隻鳧(せきう)
              片方の鳧(ケリ:Vanellus cinereus)。チドリ目チドリ科タゲリ属に分類される鳥類の一種で、モンゴル、中国北東部、日本で繁
              殖する。

    

        Grey-headed Lapwing (Vanellus cinereus), in Japan.

              前漢の蘇武(BC140?〜BC60)が、ともに匈奴に捕らえられた李陵(不 詳〜BC74)と別れて漢に召還される時の詩、『蘇武李
              陵贈別詩』を踏まえたものとされる。

          武別陵詩曰            武、陵と別るる詩に曰く
          雙鳧倶北飛            雙鳧倶に北に飛び、
          一鳧獨南翔            一鳧獨り南に翔ける
          子當留斯館            子當に斯の館に留まるべし
          我當歸故鄕            我當に故鄕に歸るべし
          一別如秦胡            一たび別るれば秦と胡の如し
          會見何詎央            會ひ見ること何ぞ詎(にはか)に央(つ)く
          愴恨切中懷            愴悢として中懐に切し
          不覺淚霑裳            覺へず涙裳を霑す
          願子長努力            願くば子長く努力せよ
          言笑莫相忘            言(ここ)に笑いて相忘るること莫かれ
              李陵:錄別詩二十一首(亦稱蘇武李陵贈別詩) 十七

          一 廿八日 快晴。夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。夜ニ入、雨降ル。
                  『曾良旅日記』

  旧暦七月二十八日(陽暦九月十一日)、芭蕉翁は宿の主和泉屋久米之助の叔父自笑の案内で、夕方から温泉街西方の薬師山麓に建つ真言宗準別格本山醫王寺に参拝しました。醫王寺は寺伝によると、天平年間(729〜749)に僧行基が開基したといわれ、本尊は行基作という薬師如来でした。承平年間(931〜938)、平将門の乱に伴う兵火に焼かれ、温泉と共に荒廃しましたが、建久年間(1190〜1199)、珠洲郡大家荘の地頭職へ補任された長谷部信連(不詳〜1218)が鷹狩りの際に温泉を再発見し、この寺も再興して本尊薬師如来を安置しています。

          一 廿九日 快晴。道明淵、予、不レ往。
                  『曾良旅日記』


  旧暦七月二十九日(陽暦九月十二日)、芭蕉翁は大聖寺川の淵の一つである道明ガ淵を訪れましたが、曾良は同道しませんでした。道明ガ淵は、上流の「こおろぎ橋」から下流の「黒谷橋」に至るまでの約1.3km程の渓谷鶴仙渓のほぼ中程にあり、「道明ガ淵の秋月」として山中八景の一つに数えられ、芭蕉も月見酒を楽しんだと云われています。


  この日、芭蕉翁は元大垣藩士近藤如行(不詳〜1708)宛に書簡を送っています。

                  如行様                                はせを
          みちのくいで候て、つゝがなく北海のあら礒日かずをつくし、いまほどかゞの山中の湯にあそび候。中秋四日五日比爰元立申候。つるがの
          あたり見めぐりて、名月、湖水若みのにや入らむ。何れ其前後其元へ立越可申候。嗒山丈、此筋子、晴香丈御傳可被下候。以上
                  七月廿九日


  如行、通称近藤源大夫は貞享元年(1684)芭蕉に入門し、大垣での蕉門の最初の門人となっています。元禄二年(1689)八月二十一日、奥の細道の旅をおえた芭蕉を自宅に迎えています。早くに武士を捨て、僧となって師匠同様旅をして諸国を巡っています。
 書簡の内容は、近況を告げるとともに八月四日、五日に山中温泉を出立して、敦賀辺りを散策し、仲秋の名月(八月十五日)は琵琶湖で見たいと、今後の旅程を知らせています。

          一 晦日 快晴。道明が淵。
                  『曾良旅日記』


  旧暦七月三十日(陽暦九月十三日)、芭蕉翁は再び道明ガ淵を訪れていますが、何故、二日続けて訪れたのかは不明です。

          一 八月朔日 快晴。黒谷橋へ行。
                  『曾良旅日記』



  旧暦八月朔日(陽暦九月十四日)、芭蕉翁は大聖寺川に架かる黒谷橋に出かけました。この辺りは砂岩の浸食によって数多くの奇岩が見られる景勝地であり、芭蕉が平岩に座って渓流の音を聞きながら、「行脚のたのしみ爰にあり」と手を打って喜んだと云います。この逸話は、金澤の俳人句空が、芭蕉が泊まった宿の主和泉屋久米之助の叔父長谷部自笑から聞いたとして、『俳諧草庵集』(元禄十三年刊)に収載されています。

  
       
        『俳諧草庵集』(元禄十三年刊)

          一 二日 快晴。
                  『曾良旅日記』


  旧暦八月二日(陽暦九月十五日)、この日も快晴でしたが、『曾良旅日記』には、天気のみしか記されていません。
  この日、芭蕉は小松の俳人塵生(村井屋又三郎)が早飛脚を使って、書簡と乾うどん二箱を届けてきたので、その返書を送っています。

          御飛札、殊に珍敷乾うどん弐箱被贈下、不レ殘御志之義(儀)と忝存候亊に候。如レ仰此度は得御意、珍重に
          存候。此地へ急ギ申候故、御暇請も不レ申殘念に存候。然ば天神奉納発句之義(儀)得其意候。無別義(儀)御座候。入浴仕舞候はゞ其元へ
          立寄申筈に御座候間、其節之義(儀)に可レ被レ成候。猶其節御礼可申伸候条、不レ能レ詳候。不宣
                      八月二日                芭蕉
                  塵生雅丈


  乾うどんのお礼に添えるかたちで、生駒万子(重信、禄高千石の加賀藩士)が小松天満宮の別当能順に芭蕉の奉納発句の事を頼み、そのことが実現しそうなので小松に戻ってきて欲しいという書簡に対する承諾の内容でした。

           ○三日 雨折々降。及レ暮、晴。山中故、月不レ得ニ見一。夜中、降ル。
                  『曾良旅日記』


  旧暦八月三日(陽暦九月十六日)、時々雨が降り、夕暮れに及んで晴れましたが、山中温泉は山の中なので月を見ることができませんでした。また夜中になって、再び雨が降り出しました。

  山中温泉に滞在中、立花北枝(研屋源四郎)は俳諧の上でのいろいろな疑問を芭蕉に質問し、その聞き書を筆記したのが「山中問答」として刊行されています。

          芭蕉正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、萬物山川草木人倫の本情を
          忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。その姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の變にわたる。しかる時は、志寛大にして
          ものに障らず。今日の變化を自在にし、世上に和し、人情に違すべし、と翁申し給ひき
                  『山中問答』


          不易流行
          自然や人の本質を見分けて、現実の自然や人に交われば「不易」(永久不変の原理)「流行」(時代に応じての変化)とは、矛盾なく両立
          する。

          一 四日 朝、雨止。巳ノ刻、又降而止。夜ニ入、降ル。  
                  『曾良旅日記』


  旧暦八月四日(陽暦九月十七日)、朝、雨は止みましたが、巳ノ刻(午前九時頃)にまた降り出して止みました。
  曾良は金澤から体調を崩し、山中温泉での静養で恢復してきましたが、芭蕉の足手まといになることを考慮し、師と別れて先行することを決意しました。

  この日、曾良との別離を慰めるために、北枝、曾良、芭蕉の三人による餞別の三吟歌仙が興行されました。これが有名な「山中三吟」として、『芭蕉連句集』の「馬かりて」の巻に収載されています。

                  元禄二年の秋、翁をおくりて
                  山中温泉に遊ぶ三両吟
          馬かりて燕追行わかれかな       北枝
              花野みだるゝ山の曲め            曾良
              (以下略)


    

        『卯辰集』(元禄四年刊)


  この三吟歌仙は、曾良が二十句までのところでお開きとなり、後半は芭蕉と北枝との両吟となって、曾良と別れてから満尾したものとされています。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:13 │おくの細道、いなかの小道
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