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2008年12月22日

書(15)-光明皇后-樂毅論

 書(15)-光明皇后-樂毅論 

 『楽毅論』 光明皇后臨書 正倉院蔵

 (旧暦 11月25日)

 奈良東大寺正倉院の宝物に、光明皇后(701~760)が東晋(317~ 420)の書聖王羲之(生没年不詳、 307?〜365?)の小楷の名蹟として知られる樂毅論を臨書した樂毅論一巻が残されています。

 本文は縦簾目のある白麻紙二帳半に、四十三行にわたって書かれていますが、奥の軸付に黃麻紙一帳を添えて、「天平十六年十月三日 藤三娘」と記されています。
 
 藤三娘とは藤原氏の第三女、すなわち光明皇后にあたり、皇后が自著したもので、天平十六年(744)は、皇后四十四歳の時にあたります。

 私「嘉穂のフーケモン」がこの光明皇后臨書の樂毅論を知ったのは、小学校6年生の社会科の教科書だったように記憶しています。

 何で昔の皇后さんが、「楽器論」などという音楽の事を書いたのか不思議でなりませんでした。また、小学生の私から見ても、決して上手とは思えないこの書が、何で教科書に載るほど有名なのか理解できませんでした。

 習字だったら、担任の先生の方がよっぽど上手なのに??

 しかし、書道史の研究においては質、量ともに日本の第一人者と称された故中田勇次郎先生(1905~1998)によれば、

 この書はきわめて敬虔な態度で臨書されたもので、筆力は勁健(けいけん:強くてしっかりしている)で、その原本の筆意をよく学んだ率直さには、まず感を打たれるものがある。
 一見稚拙に見えるが、巧妙さを超脱したうちに、おのずから高潔な精神をたたえている。
 久しく鑑賞しても倦くことのない美しさがあり、皇后の高い教養と温かい仏心と崇高な人格がしのばれる。
 まさに、正倉院の書蹟のなかの随一と称すべきである。


 と、絶賛されています。
 樂毅論は、中国の三国時代(184~280)の魏の武将で豫州沛国譙県(安徽省亳州)出身の夏侯玄(209~254)、字は太初という人の作った文章で、戦国時代の燕(河北省北部)の宰相樂毅(生没年不詳)の人物を論じたものです。

 樂毅が燕の第39代昭王(B.C312~B.C.279)に仕えて齋(山東省を中心とした地域)を討伐し滅亡寸前まで追い込んだとき、齋の七十余城を陥れたにもかかわらず、莒(jǔ:山東省東部)と即墨(jí mò :山東省青島市)の二城を攻めるにあたって、武力を用いて一気に攻略しないで、そのまま放置したのを世人が非難しているが、それは湯武(殷の湯王と周の武王)以来の王道に基づいたためで、仁心をもって人民に危害を加えず、二城が風声を仰いで自然に帰服するのを待つためであったことを弁じたもので、樂毅の仁徳の偉大であったことを賞賛したものです。

 世人多く樂毅の時に莒(きよ)と卽墨(そくぼく)を拔かざるを以て劣れりと爲す。是(ここ)を以て敍して之を論ず。
夫れ古賢の意を求むるは、宜しく大なる者遠き者を以て之を先とすべし。必ず迂廻して通じ難く、然る後ち已むは焉(こ)れ可なり。

 世の人々はとかく楽毅がかつて莒(jǔ:山東省東部)と即墨(jí mò :山東省青島市)の二城を陥落させなかったことをもって彼の非を論じている。
 およそ古(いにし)えの賢者の意中を探ろうとするなら、是非とも遠大な展望に立って思慮することが大切である。必ず遠回りしてでも遠大な展望に思いを巡らし、それでも理解できずに諦めるのであれば、それは仕方のないことだ。


 今樂氏の趣、或は其れ未だ盡(つく)さざらんか。而して多く之を劣れりとするは、是れ前賢をして指(むね)を將來に失(う)せしむ、亦た惜しからずや。
 樂生の燕の惠王に遺(おく)れる書を觀るに、其れ殆んど道に機合し以て終始する者に庶(ちか)からんか。
 其の昭王を喩(さと)して曰く、「伊尹(いいん)は大甲を放ちて疑はず、大甲は放を受けて怨みず。是れ大業を至公に存し、而して天下を以て心と爲す者なり」と。・・・・


 今日、楽毅の胸の内は、おそらく十分には理解されていないようである。にもかかわらず多くの人が楽毅のことを劣ったものと軽んじているのは、まさに前代の賢人の意向を将来に伝える道を閉ざすもので、じつに惜しいことではなかろうか。 
 楽毅が燕の恵王に送った手紙を見ると、楽毅は道に適った行いに励んでそのことに終始したものではないかと思われる。
 昭王を諭した楽毅の言葉に、「伊尹(いいん)は太甲を追放して心に疑いなく、太甲は追放を受け入れて怨まなかったといいます。これこそ偉業を究極の公平さのうえに実施し、天下をもって己が心となす者と言えるでしょう」とある。・・・・


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:05│Comments(0)
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